「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
彼が聖堂教会に入った理由は、ひどく単純だった。
かっこよかったからである。
黒衣。
黒鍵。
吸血鬼退治。
異端狩り。
神の名の下に、人ならざるものを裁く処刑人。
闇夜の尖塔。血に濡れた石畳。月光を背に、黒衣の裾を翻しながら、銀の刃を指の間に挟む男。祈りの言葉を口にし、次の瞬間には化け物の喉元へ黒鍵を叩き込む。
十代後半の彼にとって、それはもう、どうしようもなく胸を焦がす響きだった。
代行者。
その四文字が、まず駄目だった。
あまりにも駄目だった。
誰の代わりに何を行うのか。神か。教会か。信仰か。あるいは、人間という種そのものか。そんな曖昧で仰々しい含みを持った肩書きが、少年の脳髄に悪い角度で刺さった。
魔術師の家系に生まれ、幼い頃から術式だの刻印だの血統だのと、湿った蔵の奥で古い理屈を聞かされて育った彼にとって、魔術師という肩書きはあまりにも日常だった。
魔術師。
悪くはない。
悪くはないが、少し地味だった。
少なくとも十七歳の彼にはそう思えた。
工房に籠もり、触媒を並べ、家伝の術式を磨き、家名と血統と研究成果のために人生を擦り減らしていく。もちろん、それはそれで立派な在り方だ。尊い営みだ。神秘の探究者としては正しい。
だが、違う。
そうではない。
彼が欲しかったのは、もっとこう、黒かった。
もっと鋭く、もっと血生臭く、もっと夜に映えるものだった。
書斎の奥で古文書をめくるより、廃教会の天井から降り注ぐ月光の下で、吸血鬼に向かって「主の御名において執行する」とか何とか言ってみたかった。
実際に言うかどうかは別として、言える立場になりたかった。
その資格が欲しかった。
その肩書きが欲しかった。
つまり彼は、代行者と名乗りたかったのである。
もちろん、表向きにはいろいろと言った。
教会に属する神秘体系を内側から観測するためだとか。
死徒や悪霊との交戦記録は、魔術師としての実戦経験に大きく寄与するだとか。
信仰によって成立する術式構造、秘跡、概念武装、その運用体系を学ぶことには、家の研究にも有益な価値があるだとか。
それっぽい理屈はいくらでも並べられた。
家の大人たちも、まったく反対はしなかった。
彼の家系は、古いだけが取り柄の弱小魔術師の家というわけではなかったし、教会側にも細く長く続いた縁があった。過去に共同で異端の処理に関わったこともあれば、聖遺物まがいの触媒を融通したこともある。
要するに、コネがあった。
彼はそのコネを、若さ特有の真剣な顔で使った。
自分は神秘の二大体系の一端を学ぶため、危険を承知で聖堂教会に身を置きたいのだ、と。
死地に赴く覚悟はある、と。
魔術師としての視野を広げるためにも、教会の実働部隊に近い位置で経験を積みたいのだ、と。
言葉だけ聞けば、なかなか立派だった。
実際、そのすべてが嘘だったわけでもない。
教会の術式には興味があった。死徒との実戦経験が有益なのも本当だった。信仰という巨大な概念装置が、神秘としてどのように成立しているのかにも、魔術師としての知的好奇心は刺激された。
だが、一番大きな理由はそこではない。
黒い服を着たかった。
黒鍵を投げたかった。
吸血鬼を狩りたかった。
そして何より、誰かに所属を問われた時、少しだけ目を伏せて、静かにこう答えてみたかった。
「聖堂教会、代行者だ」
それだけだった。
救いようがなかった。
若かったのである。
いや、正確に言えば、若さだけの問題ではなかった。
あれから幾年も経ち、彼は実際に血を見た。化け物も見た。人間の皮を被った異端も、人間であることを捨て損ねた哀れな何かも見た。黒衣は雨を吸えば重くなるし、黒鍵は投げれば普通に外れるし、吸血鬼退治は想像よりずっと泥臭く、異端狩りは思ったほど華やかではなかった。
それでも。
夜の任務前、黒衣の袖に腕を通す瞬間。
指の間に黒鍵の冷たい感触を収める瞬間。
彼の胸の奥では、今でもほんの少しだけ、あの頃の熱が息を吹き返す。
神の名の下に人外を狩る処刑人。
その響きに、いまだに少しだけ弱い。
彼はそれを、誰にも言わない。
たぶん一生、言わない。
ただ、任務先の暗がりで外套の裾が風に鳴るたび、彼は心のどこかで思っている。
やはり黒衣は、いい。
黒鍵も、いい。
代行者という肩書きは、かなりいい。
そしてそんな自分を、彼自身が一番よく分かっていた。
「いやあ、若気の至りって怖いよね」
彼はしみじみと言って、椅子に縛られた男の肩をぽん、と叩いた。
それから、もう一度。
ぽん、ぽん。
まるで古い友人に昔話を聞かせているみたいに、親しげで、馴れ馴れしくて、少しだけ芝居がかっていた。
「分かるだろう? いや、分かってくれるよね。十代の終わりってさ、人生で一番、自分の影が長く見える時期なんだよ。黒い服を着て、黒い刃物を持って、夜の街で化け物を狩る。そういうものに、本気で意味があると思ってしまう」
彼は男の肩に手を置いたまま、どこか遠い目をした。
視線は男を見ているようで、見ていない。
もっとずっと過去の、自分だけが美しく覚えている何かを眺めている目だった。
「恥ずかしい話だよ。本当に。今思えば、あれは信仰でも使命感でもなかった。研究意欲ですら、せいぜい二番目か三番目だ。結局のところ、俺はただ、代行者と名乗りたかっただけなんだろうね」
そこで彼は小さく笑った。
自嘲の形をしていたが、その声音には妙な甘さがあった。
後悔している人間の笑い方ではない。
過去の自分を愚かだと分かっていながら、その愚かさごと少し気に入っている人間の笑い方だった。
「ね。ひどいだろう?」
彼は、また男の肩を叩いた。
「でも、そういう時期ってあるじゃないか。あるよね。うん、ある。君にもきっとあったはずだ。君みたいに、弱小魔術師の家に生まれた人間なら分かってくれるだろう? そう、憧れってやつさ。自分だけは特別で、世界の裏側に触れる資格があって、夜に選ばれた人間だと思い込んでしまう時期が」
男は猿轡を噛まされていたので、返事はできなかった。
できたとしても、たぶん会話にはならなかっただろう。
彼はそれを気にしていなかった。
というより、最初から返事など求めていなかった。
同意がほしかったのではない。
同意されている、という形がほしかっただけだ。
部屋の中は、魔術師の工房というにはずいぶん安っぽかった。
六畳ほどの洋室。
遮光カーテン。
床に這った延長コード。
折り畳み机の上にはノートパソコンが三台。
コンビニのアイスコーヒー。
食べかけの栄養バー。
プリンターの横には、印刷に失敗したコピー用紙が山になっている。
魔法陣もない。
聖句もない。
古めかしい祭壇もない。
あるのは、実験記録と、制御術式と、椅子に固定された被験者。
神秘というものは、案外こういう場所にも転がっている。
というより、彼に言わせれば、雰囲気に金をかける魔術師ほど信用ならなかった。
床に大きな魔法陣を描いたところで、失敗する術式は失敗する。
銀の燭台を並べたところで、数値は改善しない。
ラテン語の聖句を壁一面に書き殴ったところで、出力係数が上がるわけでもない。
必要なのは記録。
検証。
再現性。
そして少しばかりの犠牲。
少しばかり、という部分に異論を唱える者は多いかもしれない。
だが、その多くはすでにこの世にいない。
彼の研究は、もうずいぶん長く続いていた。
聖堂教会を辞めてから、彼は類感魔術にのめり込んだ。
もっとも、類感魔術そのものは、何も珍しいものではない。
魔術師であれば誰でも知っている、基礎中の基礎だ。
置換魔術。
強化魔術。
属性変換。
そのあたりと同じく、体系としてはどこにでもある。
似ているものは繋がる。
近しいものは影響し合う。
名を同じくするものは、互いに意味を引き寄せる。
人形と本人。
遺髪と肉体。
聖遺物と聖人。
十字架と信仰。
偶像と神性。
子供でも分かるほど単純な理屈だった。
対象に似せたものを用意する。
名前を重ねる。
形を重ねる。
意味を重ねる。
そうして世界の側に、これは同じものだ、と誤認させる。
もちろん、実際には完全な同一化など起こらない。
精巧な人形を作ったところで、本人そのものになるわけではない。
十字架を握ったところで、誰もが聖人になるわけではない。
偶像を彫ったところで、神がそのまま降りてくるわけでもない。
通常は、せいぜい細い糸が一本通るだけだ。
その糸を使って、遠隔で呪う。
補助的に強化する。
霊的な座標を固定する。
触媒として術式に組み込む。
魔術師なら誰でもやる。
誰でも知っている。
ありふれた技術だった。
ありふれているからこそ、誰も深く考えない。
類感魔術は、魔術師にとって道具でしかない。
呪うための人形。
座標を固定するための遺物。
信仰を引き寄せるための象徴。
便利で、古く、ありふれた技術。
その程度のものだ。
だが彼は、そこで立ち止まれなかった。
似ているものは繋がる。
ならば。
似ている、という状態を極限まで高めた場合、その接続はどこまで深くなるのか。
形だけではない。
名前だけでもない。
記号。
概念。
役割。
信仰。
伝承。
それらを一つの器へ、可能な限り精密に重ねた時。
世界はどこまで誤認するのか。
人を、天使に似せたらどうなるのか。
人間の器に、天使という概念の輪郭を刻み込めば、何が起こるのか。
ほんの一瞬でも、別の存在概念へ寄るのか。
天使のような人間、ではない。
天使に似た人間、でもない。
世界が一瞬だけ、これを天使と見間違えるかどうか。
彼が知りたかったのは、そこだった。
類感魔術はありふれている。
偶像の理論も、珍しいものではない。
だが、ありふれた術式をどこまで突き詰めるかは、魔術師の性質による。
ある者は人形に針を刺す。
ある者は護符に名を書き込む。
ある者は家伝の触媒に血を垂らす。
そして彼は、人間を天使に似せようとした。
その違いは、発想の飛躍というより、倫理の欠落に近かった。
もっとも、彼は倫理という言葉があまり好きではない。
それはたいてい、失敗した者か、挑戦しなかった者が、後から安全な場所で口にする言葉だからだ。
もしその変化を観測できたなら。
もし、人間という器が、ほんの一瞬でも天使という概念へ接続されたなら。
そこには、魂と肉体と概念の境界が露出する。
存在が別の存在へ寄る瞬間。
世界が個体を誤認する瞬間。
その綻びを覗き込むことができたなら。
根源へ至るための手がかりがあるのではないか。
それが彼の仮説だった。
人間を天使に変える。
そう言ってしまえば、いかにも完成された理論のように聞こえる。
だが、実際にはまだ、その入口に指先をかけているかどうかも怪しい。
人間が天使になるのか。
天使に近いものになるのか。
天使と誤認されるだけの肉塊になるのか。
あるいは、単に人間として壊れて終わるのか。
そのどれなのか、彼自身にも分かっていなかった。
まだ成功例はない。
観測された変化も断片的で、再現性は低く、理論には穴が多い。というより、穴と仮定の隙間を、仮説という名前の細い板で無理やり渡しているようなものだった。
そもそも天使化という呼び方からして、彼が勝手にそう呼んでいるだけである。
本当に天使へ至るのか。
天使という概念に一瞬だけ接触するのか。
それとも、天使らしき記号を人間の器に貼り付けただけで終わるのか。
現時点では何ひとつ断言できない。
できないが。
ただ、響きがよかった。
天使化。
実にいい。
言葉にすると、研究費が三割増しで降りそうな気がする。
もちろん、降りない。
時計塔――ロンドンの連中は、こういう大仰な題目を鼻で笑う。
そして笑ったあとで、家名と後ろ盾と論文の装丁が整っていれば、同じものに予算をつける。
実に分かりやすい。
「君、力が欲しいか?」
彼は被験者の正面にしゃがみ込み、わざと低い声で言った。
声を半音落とし、目線を合わせ、少しだけ顎を引く。
いかにも、という間だった。
夜の路地裏で。
血まみれの少年を前に。
黒衣の男が手を差し伸べながら言うような、そういう種類の台詞だった。
男の目が見開かれる。
恐怖。
怒り。
困惑。
だいたいそんなものが混ざった、いい顔だった。
「あ、今のは言ってみたかっただけ。返事はいいよ。猿轡してるしね」
彼はすぐにいつもの声へ戻り、けらけらと笑って立ち上がった。
軽い男だった。
少なくとも、見た目はそうだった。
言葉はよく回る。
冗談も言う。
深刻な空気を、わざと壊す。
壊し方にも、少しばかりこだわりがあった。
真正面から茶化すのではなく、場の温度をほんの少しだけずらす。相手が恐怖で息を詰めている時に、どうでもいい感想を挟む。血の匂いが濃くなった瞬間に、くだらない言い回しを選ぶ。
そうすると、自分が物語の外側に立っているような気分になれた。
代行者だった頃もそうだった。
吸血鬼の巣に踏み込む前でも、異端者の処刑前でも、彼はだいたい軽口を叩いていた。
死徒の眷属が蠢く屋敷の前。
異端と断じられた魔術師の工房を包囲した夜。
周囲の者たちが祈りを唱え、武装を確かめ、沈黙で覚悟を固める中で、彼だけは肩をすくめて、場違いなことを言った。
寒いな、とか。
この外套、もう少し動きやすくならないかな、とか。
怖くないわけではない。
緊張しないわけでもない。
むしろ、怖かった。
死にたくはなかったし、痛いのも嫌いだったし、吸血鬼の膂力で壁に叩きつけられた時などは、普通にもう帰りたいと思った。
それでも、重々しい顔をしている自分があまり好きではなかった。
眉間に皺を寄せ、使命に殉じる処刑人のような顔をして、神だの正義だの救済だのを口にする。
それはそれで絵になる。
絵にはなるが、少し真面目すぎる。
少なくとも彼の好みではなかった。
どうせなら、軽い方がいい。
笑いながら扉を開ける方がいい。
冗談を言った次の瞬間に黒鍵を投げる方がいい。
軽い口調で、とんでもないことをする方が、なんとなくそれっぽい。
そういう男に見られたかった。
緊張していないのではなく、緊張していないように見える男。
恐怖を知らないのではなく、恐怖の上から軽口を塗れる男。
血と死の匂いが満ちた場所で、それでも笑っていられる男。
十代後半の彼は、そういうものに憧れていた。
そして厄介なことに、今でも少し憧れていた。
彼の芯には、そういう救いようのない趣味があった。
聖堂教会に入った理由が、代行者と名乗りたかったからであるように。
黒衣を好む理由が、単純に黒衣がかっこいいからであるように。
彼は、自分がどう見えるかをいつも少しだけ気にしていた。
任務の時も。
研究の時も。
人を椅子に縛りつけている時でさえ。
「いやあ、でもいいよね。力が欲しいか、って」
彼は机の上に置かれた紙コップのアイスコーヒーを手に取り、ストローを咥えた。
氷が、からん、と安っぽい音を立てる。
「一度は言いたい台詞だよ。言う側に回りたいじゃないか。分かるだろう?」
男は猿轡を噛まされている。
当然、返事はない。
彼は男の沈黙を、都合よく同意と受け取った。
「うん。分かってくれると思った」
そう言って、彼は笑った。
軽く。
親しげに。
まるで、今から始まるものが実験ではなく、少し変わった共同作業であるかのように。
そしてその軽さこそが、彼の一番たちの悪いところだった。
机の上に、小さな樹脂ケースが置かれている。
中には、結晶が入っていた。
白にも見える。
薄い金にも見える。
角度によっては、透き通った青にも見える。
光源は天井の蛍光灯だけのはずなのに、その結晶だけは、内側に別の空を閉じ込めているようだった。
大きさは親指の爪ほど。
形は、宝石に似ていた。
ただし、天然の鉱物が長い時間をかけて育ったものではない。職人が削り出した装飾品でもない。幾何学的な面がいくつも重なり、中心には淡い光の芯のようなものが浮かんでいる。
見る角度によって、輪郭がわずかに変わる。
三角錐にも見えた。
多面体にも見えた。
小さな王冠を逆さにしたようにも、翼を畳んだ何かの胚にも見えた。
宝石ではない。
鉱物でもない。
魔力の塊とも違う。
概念を、結晶の形に押し込めたもの。
セフィラ。
もちろん、それも彼が勝手にそう呼んでいるだけだった。
正確な分類で言えば、概念礼装に近い。もっと無機質に呼ぶなら、類感接続用の霊的触媒。あるいは、位相接続のための疑似核。
だが、そんな名前では気分が出ない。
セフィラ。
その方がいい。
神秘を扱う以上、名前には相応の重みが必要だった。少なくとも彼はそう信じていたし、だいたいの場合、信じているだけで魔術師はかなり面倒な生き物になる。
彼が何年も研究し、何人も犠牲にし、何度も失敗し、ようやく形にしたもの。
それが、この小さな結晶だった。
ただし、これは人間を直接天使に作り替える道具ではない。
少なくとも、今の段階では。
役割はもっと限定的だ。
人間の器を、天使という概念へ近づける。
そのための足場を作る。
この世界とはわずかに異なる、より上位の霊的位相へ接続する。
そして、そこから力を流入させる。
天使の力。
彼はそれを、テレズマと呼んでいた。
これもまた、厳密な意味で正しい名称かどうかは怪しい。
聖堂教会の連中が聞けば顔をしかめるだろうし、時計塔の講師あたりに聞かせれば、まず定義を明確にしろと鼻で笑われるに違いない。
だが、彼にとっては十分だった。
天使に属するもの。
天使から零れ落ちるもの。
天使という概念の輪郭に沿って流れる、霊的な圧力。
それをいちいち長ったらしく説明するより、テレズマと呼んだ方が早い。
何より、響きがいい。
セフィラを核として位相へ接続し、そこからテレズマを流入させる。
天使の力と呼ばれるものを、人間の内側に入れる。
その肉体が耐えるのか。
魂が変質するのか。
精神が先に壊れるのか。
あるいは、世界の側がほんの一瞬だけ、対象を人間ではないものと見間違えるのか。
それを見る。
観測する。
記録する。
再現を試みる。
実に魔術師らしい。
言い換えるなら、実に最低である。
「さて、本日の主役はこちら」
彼はケースを開け、セフィラを摘み上げた。
部屋の空気が、わずかに冷えた。
椅子に縛られた男が、喉の奥で悲鳴を漏らす。
「お、分かる? いいね。感度が高い。やっぱり君、素材としては優秀だよ。人生の使い道が見つかってよかったじゃないか」
男は必死に首を振った。
彼はにこにこしていた。
「大丈夫大丈夫。成功すれば歴史に残る。失敗しても俺の記録には残る。ほら、どっちにしても名前が残るタイプのやつだ」
もちろん、実験記録に名前は残らない。
検体番号だけである。
そもそも、名前で管理していた時期はとうに過ぎていた。
最初の百人ほどは、まだ記憶に残っていた。
顔も、声も、最後の反応も、ある程度は思い出せた。
二百を越えたあたりで、個人差は数値に置き換わった。
五百を越えたあたりで、失敗時の悲鳴は分類名になった。
八百を越えたあたりで、彼は死体の処理方法を最適化した。
そして千を越えた頃には、被験者という言葉すら少し情緒的すぎると感じるようになっていた。
検体。
その方がいい。
短いし、正確だし、余計な感傷を含まない。
彼は注射器を手に取った。
中身は、セフィラを肉体へ定着させるための媒介液だった。
ラベルには油性ペンで『固定剤・改四十二』と書かれている。
改四十二。
つまり、少なくとも四十一回は駄目だった。
もっとも、細かな配合違いまで含めれば、その数は三桁に届く。
そういう雑な命名に、彼は少し愛着を持っていた。
かっこいい名前は成功してから付ければいい。
失敗作にまで立派な名前を付けると、あとで悲しくなる。
「はい、ちょっとチクッとしますよー」
彼は男の胸に針を刺した。
男が暴れる。
拘束術式が淡く光り、椅子ごと男の体を押さえ込む。
「動かない動かない。ずれると痛いよ。いや、ずれなくても痛いけど」
媒介液を流し込む。
それからセフィラを男の胸元へ押し当てた。
結晶は、皮膚に沈んだ。
切り裂いたわけではない。
溶けたわけでもない。
ただ、そこにあったものが、最初から内側に存在していたように消えた。
男の体が跳ねる。
パソコンの画面に数値が走った。
心拍。
体温。
魔術回路の活性率。
接続深度。
霊的圧力。
彼の顔から、少しだけ笑みが消えた。
冗談は言う。
軽口も叩く。
だが観測の時だけは、目が笑わない。
「検体一〇四三。セフィラ原型二十三号を定着。固定剤改四十二を使用。魔術回路、全体の六割が即時反応」
音声記録が回る。
男の呼吸が荒くなる。
胸元から、白い光が薄く漏れ始めた。
「いいね」
彼は呟いた。
今までより反応がいい。
千を超える失敗のあとで、ようやく見えた反応だった。
この男は、魔術師としては半端者だった。
知識も浅い。
技術も粗い。
血筋も大したことはない。
名門の嫡子でもなければ、封印指定を受けるような異才でもない。
ただ、魔術回路の本数だけは多かった。
質ではない。
量。
今回必要だったのは、まさにそれだった。
美しくはない。
洗練もされていない。
だが、たまには量で殴る神秘があってもいい。
血統だの格式だの、時計塔の連中が大好きな飾り物ではなく、単純な回路数と耐久性と、壊れるまでにどれだけ出力を通せるか。
千四十二の失敗が、彼にそれを教えていた。
部屋の蛍光灯がちらつく。
空気が重くなる。
窓は閉まっているのに、どこか遠くから圧力がかかってくるような感覚があった。
世界の薄皮の向こう側。
そこに指を掛けたような感触。
「位相接続、開始」
彼の声が、わずかに弾んだ。
来る。
そう思った瞬間、男の胸が白く光った。
それは光ではなかった。
少なくとも、ただの光ではない。
熱でもない。
魔力でもない。
だが彼の脳は、それを白と認識した。
テレズマ。
天使の力。
あるいは、彼がそう呼んでいるだけの、位相の向こう側から流れ込む何か。
それが、千四十三番目の人間の内側へ流れ込んできた。
一秒。
二秒。
三秒。
「三秒経過。過去記録更新」
彼は早口で記録した。
男の皮膚の下を、白い筋が走っている。
魔術回路に沿っていた。
回路がテレズマを受けている。
いや、焼かれながら、それでもまだ形を保っている。
男の目から涙が流れた。
彼はそれを見て、少し笑った。
「すごいすごい。新記録だ」
四秒。
五秒。
六秒。
耐えている。
過去最高だった。
セフィラは失敗作ではない。
位相への接続は成立した。
テレズマの流入も確認できた。
人間の内側に、ほんの数秒ではあるが留まっている。
ならば次は。
もっと多い魔術回路か。
もっと質の高い魔術回路か。
それとも、回路ではなく、別の――。
男の胸が、不自然に膨らんだ。
彼の笑みが止まった。
胸骨の下。
セフィラを沈めた位置が、内側から押し上げられている。
皮膚が張る。
肋骨が軋む。
白い筋が、胸から肩へ、喉へ、腹へ、四肢へと広がっていく。
それは光というより、ひび割れだった。
人間という器の内側に、器では受け止めきれないものが満ちていく音がした。
警告音が鳴る。
パソコンの数値が一斉に跳ねた。
「……あ」
彼は間抜けな声を出した。
その声には、初めて本物の焦りが混じっていた。
「これ、まずいやつだ」
遮断術式を起動する。
机の下に置いていた予備礼装を蹴る。
床に仕込んだ簡易結界を開く。
セフィラとの接続を切ろうとする。
だが遅い。
男は耐えた。
耐えてしまった。
過去の誰よりも長く耐えたせいで、流れ込んだ力は過去最大になっていた。
限界は、とっくに超えていた。
男の目、鼻、耳から血が噴いた。
垂れたのではない。
内側から押し出された。
眼球の端から赤い筋が弾け、鼻孔から泡立つ血があふれ、耳の奥から細い血流が飛んだ。
首筋。
手首。
爪の隙間。
皮膚の薄いところという薄いところから、赤いものが滲み、次の瞬間には糸のように吹き出した。
血液が血管を流れているのではない。
血液が、体内に居場所を失っている。
テレズマが内側から押している。
血も、肉も、骨も、神経も、人間を人間の形に保つすべてが、外へ押し退けられようとしていた。
「これは、やばい」
彼はそう言って、男へ踏み込んだ。
遮断術式では間に合わない。
予備礼装も遅い。
結界で押さえ込むには、内側の圧が大きすぎる。
なら、核を抜くしかない。
彼は男の胸に手を突っ込んだ。
本当に、ただ物理的に。
術式で摘出するのではなく、礼装で引き剥がすのでもなく、白く膨らんだ胸の中心へ、五指を揃えて力任せに突き立てた。
皮膚が裂ける。
肉が割れる。
肋骨の隙間に、指が沈む。
検体の苦痛など考えていない。
生き残れるかどうかも考えていない。
今必要なのは、セフィラを抜き取ること。
位相との接続を断つこと。
それだけだった。
だが、遅かった。
すでに血は噴き終わっていた。
次に外へ押し出されるのは、血ではない。
肉だ。
骨だ。
神経だ。
人間という形そのものだった。
体内に流れ込んだテレズマが、血液を、臓器を、骨を、神経を、人間の形を保っていたものすべてを、内側から外へ押し退けている。
彼の指先が、硬いものに触れた。
セフィラ。
掴む。
引く。
抜けない。
結晶は、もう男の肉体に食い込んでいた。魔術回路に絡み、白い光の筋を全身へ伸ばし、器の内側を別の何かで満たしている。
彼は力任せに引いた。
ぶち、と湿った音がした。
その瞬間、男の胸が裂けた。
白い光が部屋を塗り潰した。
音はなかった。
音より先に、すべてが押し潰された。
最初に来たのは衝撃だった。
空気が壁になって、正面から叩きつけられる。
机が砕ける。
パソコンが吹き飛ぶ。
コピー用紙が舞い上がる。
スチールラックがひしゃげ、壁が割れ、床が波打つ。
彼の体も吹き飛んだ。
防御術式は起動していた。
代行者時代に叩き込まれた反射で、姿勢も作っていた。
右足を引き、肩を落とし、衝撃を逃がす形を取っていた。
だが足りない。
これは攻撃ではない。
刃でも、弾丸でも、呪詛でもない。
人間の内側に、人間用ではない力を流し込んだ結果だ。
器が破裂し、そこから溢れたものが、ただ周囲を巻き込んでいるだけだった。
防げる種類のものではなかった。
彼は壁に叩きつけられた。
背中が当たるより先に、胸の奥で嫌な音がした。
べきり、と。
乾いた枝をまとめて折るような音。
肋骨が折れた音だと、彼は少し遅れて理解した。
一本ではない。
二本でもない。
胸郭が内側へ歪み、折れた骨の先が肉を裂き、肺の近くを掠めた感触があった。
次に、腹の中が揺れた。
衝撃が皮膚や筋肉を通り越して、内臓を直接かき混ぜる。
胃が捻れた。
腸が押し潰された。
肝臓のあたりに熱いものが走り、どこか深い場所で、何かが裂けた。
痛みというより、体の中身が配置を失った感覚だった。
肺から空気が抜ける。
呼吸の仕方を忘れる。
喉がひゅう、と鳴ったが、空気は入ってこなかった。
視界が白く焼け、次に赤く滲んだ。
彼は床に落ちた。
転がった、というより、投げ捨てられた。
肩から落ち、背中を打ち、割れた床材の上を滑る。
その途中で、ようやく気づいた。
右腕がなかった。
セフィラを掴んでいた腕だ。
肘から先、ではない。
肩口から先が、ほとんど消えていた。
切断面と呼べるほど綺麗なものではない。
黒衣の袖ごと、肉も骨も神経も、白い光に削り取られたように失われている。残った肩口からは、遅れて血が溢れた。
痛みはまだ届いていない。
代わりに、身体がもう戻らないという確信だけがあった。
彼はぼんやりと、そう思った。
部屋の中央に、男はいなかった。
椅子もない。
セフィラも砕けている。
残ったのは、白く焼けた跡と、飛び散った機材と、まだ辛うじて動いているパソコンの割れた画面だけだった。
彼は床に転がったまま、それを見た。
グラフの一部が残っている。
罅割れた画面の端で、まだ線が動いていた。
接続成功。
流入確認。
維持時間、過去最長。
検体一〇四三は、過去のどの検体よりも長くテレズマに耐えた。
そして、耐えた分だけ大きく壊れた。
「……なるほどね」
彼は笑おうとした。
喉から出たのは、湿った音だけだった。
血が気管に絡んでいる。
肺も潰れている。
折れた肋骨がどこか悪い場所に刺さっている感覚があった。
それでも、彼の意識はまだ画面を追っていた。
失敗だ。
ただし、完全な失敗ではない。
セフィラの理論は死んでいない。
位相接続は成立した。
テレズマの流入も確認した。
人間の器が、それを受け止められなかっただけだ。
問題は、受け皿。
魔術回路では、テレズマを受けられない。
多ければいいというものではない。
むしろ多いほど流入を招き、限界を超えた瞬間に大きく壊れる。
魔術回路とは、あくまで魔力を通すための管だ。
循環させるもの。
変換するもの。
術式へ流し込むもの。
そこに、上位位相から流れ落ちる異質な圧を溜め込めば、破綻するのは当然だった。
必要なのは、回路ではない。
器だ。
魔力を通す管ではなく、異質な力を内側に抱え込む核。
もっと大きく。
もっと柔らかく。
人間用ではない神秘を、人間の内側に留めておける場所。
そんなものが、この世界にあるのかは分からない。
少なくとも、彼の知る魔術師の肉体にはない。
魔術刻印でも足りない。
回路数でも足りない。
血統でも、格式でも、属性でも、起源でもない。
もっと根本的な、器としての差異。
人間でありながら、人間用ではない力を内側に蓄えられる何か。
それが必要だった。
彼は、残った左手を伸ばした。
床に落ちていたコピー用紙を掴む。
赤ペンは見当たらなかった。
仕方なく、肩口から溢れる血を左手の指先に擦りつけた。
失敗原因。
魔術回路。
不適。
字は震えていた。
線は歪み、血は紙の繊維に滲んだ。
それでも彼は満足した。
死ぬ直前に、ひとつ前へ進めた。
魔術師としては、それで十分だった。
人間としては、終わっている。
だが魔術師としては、まだ終わっていなかった。
そこまで書いたところで、彼はふと笑った。
死ぬ間際だというのに、どうでもいいことを思い出したのだ。
絶望した誰かに手を差し伸べて、言ってみたかった。
力が欲しいか。
そのためにセフィラを作った部分もある。
もちろん、根源へ至るためだ。
世界の深層を暴くためだ。
人間が天使へ近づく可能性を観測するためだ。
存在の境界を剥がし、その奥にあるものを覗き込むためだ。
それは本当だ。
嘘ではない。
魔術師としての欲望は、確かにそこにあった。
だが、それだけではない。
そういう場面を、自分で作ってみたかった。
自分が、そう言う側に立ちたかった。
夜の底で。
絶望の淵にいる誰かへ。
黒衣の裾を揺らしながら。
まるで救済者みたいな顔をして。
力が欲しいか、と。
我ながら、実に馬鹿らしい。
くだらない。
救いようがない。
そして、悪くなかった。
「次が、あったら……」
声はほとんど出なかった。
それでも彼は、薄れる意識の中で考えた。
魔術回路ではない器。
魔力を内側に溜める核。
もし、そんなものを持つ人間がいる世界があるなら。
その時こそ――。
今度こそ。
ちゃんと、言ってやろう。
力が欲しいか、と。
その思考を最後に、彼の前世は終わった。