「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
彼が聖堂教会に入った理由は、ひどく単純だった。
かっこよかったからである。
黒衣。
黒鍵。
吸血鬼退治。
異端狩り。
神の名の下に、人ならざるものを裁く処刑人。
闇夜にそびえる尖塔。血に濡れた石畳。月光を背に黒衣の裾を翻し、銀の刃を指の間に挟む男。
祈りの言葉を唱え、次の瞬間には化け物の喉元へ黒鍵を叩き込む。
十代後半の彼にとって、それはどうしようもなく胸を焦がす光景だった。
代行者。
あまりにも格好よすぎた。
誰の代わりに、何を行うのか。
神か。
教会か。
信仰か。
あるいは、人間という種そのものか。
曖昧で、それでいて仰々しい含みを持つ肩書きが、少年の脳髄に悪い角度で突き刺さったのである。
彼は魔術師の家系に生まれた。
幼い頃から、術式、刻印、血統、根源。そうした古く湿った理屈を、蔵の奥で聞かされながら育った。
だから彼にとって、魔術師という肩書きはあまりにも日常的だった。
魔術師。
悪くはない。
悪くはないのだが、少し地味だった。
少なくとも、十七歳の彼にはそう思えた。
工房に籠もり、触媒を並べ、家伝の術式を磨く。家名と血統と研究成果のために人生を擦り減らしていく。
もちろん、それはそれで立派な在り方だ。
神秘を探究する者としては正しい。
だが、違う。
彼が求めていたのは、もっと黒かった。
もっと鋭く、もっと血生臭く、もっと夜に映えるものだった。
書斎の奥で古文書をめくるよりも、廃教会の天井から降り注ぐ月光の下で、吸血鬼に向かって言ってみたかった。
「主の御名において執行する」
実際に言うかどうかは別として、言える立場になりたかった。
その資格が欲しかった。
その肩書きが欲しかった。
つまり彼は、代行者と名乗りたかったのである。
もちろん、表向きには別の理由を並べた。
教会の神秘体系を内側から観測するため。
死徒や悪霊との交戦経験は、魔術師としても有益であるため。
信仰によって成立する術式や秘跡、概念武装の運用体系を学ぶことは、家の研究にも寄与するため。
もっともらしい理屈はいくらでも作れた。
家の大人たちも、強く反対はしなかった。
彼の家は、古いだけが取り柄の弱小魔術師ではなかった。教会とも細く長い縁があり、過去には共同で異端の処理に当たったことも、聖遺物まがいの触媒を融通したこともある。
要するに、コネがあった。
彼はそのコネを、若さ特有の真剣な顔で利用した。
危険を承知で聖堂教会に身を置きたい。
死地へ赴く覚悟もある。
魔術師として視野を広げるため、教会の実働部隊に近い場所で経験を積みたい。
言葉だけを聞けば、なかなか立派だった。
そして、そのすべてが嘘だったわけでもない。
教会の術式には興味があった。
死徒との実戦経験が有益なのも本当だった。
信仰という巨大な概念装置が、神秘としてどのように成立しているのか。その仕組みにも、魔術師としての好奇心を刺激された。
だが、一番大きな理由はそこではない。
黒い服を着たかった。
黒鍵を投げたかった。
吸血鬼を狩りたかった。
そして何より、誰かに所属を問われた時、わずかに目を伏せて答えてみたかった。
「聖堂教会、代行者だ」
それだけだった。
救いようがなかった。
若かったのである。
いや。
正確に言えば、若さだけの問題ではなかった。
あれから幾年も経ち、彼は実際に血を見た。
化け物も見た。
人間の皮を被った異端も、人間であることを捨て損ねた哀れな何かも見た。
黒衣は雨を吸えば重くなる。
黒鍵は投げれば普通に外れる。
吸血鬼退治は想像よりも泥臭く、異端狩りは思ったほど華やかではなかった。
それでも、夜の任務前に黒衣の袖へ腕を通す瞬間。
指の間に黒鍵の冷たい感触を収める瞬間。
彼の胸の奥では、今でもわずかに、あの頃の熱が息を吹き返す。
神の名の下に、人外を狩る処刑人。
その響きに、いまだに弱い。
彼はそれを、誰にも言わない。
おそらく一生、言わない。
ただ、任務先の暗がりで外套の裾が風に鳴るたび、心のどこかで思っていた。
やはり黒衣は、いい。
黒鍵も、いい。
代行者という肩書きは、かなりいい。
そんな自分を、彼自身が誰よりよく理解していた。
「いやあ、若気の至りって怖いよね」
彼はしみじみと言って、椅子に縛られた男の肩を叩いた。
ぽん、と一度。
続けて、もう一度。
ぽん、ぽん。
まるで古い友人に昔話を聞かせているような、親しげで馴れ馴れしい仕草だった。
「分かるだろう? いや、分かってくれるよね。十代の終わりってさ、人生で一番、自分の影が長く見える時期なんだよ」
黒い服を着て、黒い刃物を持ち、夜の街で化け物を狩る。
そういうものに、本気で意味があると思ってしまう。
彼は男の肩に手を置いたまま、遠い目をした。
男を見ているようで、見ていない。
もっと過去の、自分だけが美しく覚えている何かを眺めていた。
「恥ずかしい話だよ。本当に。今思えば、あれは信仰でも使命感でもなかった。研究意欲ですら、せいぜい二番目か三番目だ」
彼は小さく笑った。
「結局、俺は代行者と名乗りたかっただけなんだろうね」
自嘲するような笑い方だった。
けれど、その声音には妙な甘さがある。
後悔している人間の笑い方ではない。
過去の自分を愚かだと理解しながら、その愚かさごと気に入っている人間の笑い方だった。
「ね。ひどいだろう?」
彼は、また男の肩を叩いた。
「でも、そういう時期ってあるじゃないか。君にもきっとあったはずだ。弱小魔術師の家に生まれた人間なら、分かってくれるだろう?」
自分だけは特別だ。
世界の裏側へ触れる資格がある。
自分は夜に選ばれた人間なのだ。
そんなふうに思い込んでしまう時期が。
男は猿轡を噛まされているため、返事ができなかった。
できたとしても、会話にはならなかっただろう。
彼は最初から、返事など求めていない。
同意が欲しいのではない。
同意されているという形が欲しいだけだった。
部屋は、魔術師の工房と呼ぶにはずいぶん安っぽかった。
六畳ほどの洋室。
閉め切られた遮光カーテン。
床を這う延長コード。
折り畳み机の上には、ノートパソコンが三台。
コンビニのアイスコーヒー。
食べかけの栄養バー。
プリンターの横には、印刷に失敗したコピー用紙が積み上がっている。
魔法陣はない。
聖句もない。
古めかしい祭壇もない。
あるのは、実験記録と、制御術式と、椅子に固定された検体だけだった。
神秘というものは、案外こうした場所にも転がっている。
むしろ彼に言わせれば、雰囲気に金をかける魔術師ほど信用ならなかった。
床に巨大な魔法陣を描いたところで、失敗する術式は失敗する。
銀の燭台を並べても、数値は改善しない。
ラテン語の聖句を壁一面に書き殴ったところで、出力係数が上がるわけでもない。
必要なのは記録。
検証。
再現性。
そして、少しばかりの犠牲。
少しばかり、という部分に異論を唱える者は多いかもしれない。
だが、その多くはすでにこの世にいなかった。
彼の研究は、長く続いていた。
聖堂教会を離れてから、彼は類感魔術の研究にのめり込んだ。
類感魔術そのものは、珍しいものではない。
似たものは繋がる。
近しいものは影響し合う。
名前や形、意味を重ねられたものは、互いを引き寄せる。
人形と本人。
遺髪と肉体。
聖遺物と聖人。
十字架と信仰。
偶像と神性。
対象に似せたものを用意し、名前を重ね、形を重ね、意味を重ねる。
そうして両者の間に、霊的な繋がりを作る。
完全な同一化が起こるわけではない。
精巧な人形を作っても、本人そのものにはならない。
十字架を握っただけで、聖人になれるわけでもない。
通常は、両者の間に細い糸が一本通る程度だ。
魔術師はその糸を使って、遠隔で相手を呪う。
肉体を補助する。
霊的な座標を固定する。
触媒として術式へ組み込む。
ありふれた技術だった。
ありふれているからこそ、多くの魔術師はそこで立ち止まる。
類感魔術は、目的を果たすための道具にすぎない。
だが彼は、そこで立ち止まれなかった。
似たものが繋がるのなら。
似ているという状態を極限まで高めた時、その接続はどこまで深くなるのか。
形だけではない。
名前だけでもない。
記号。
役割。
概念。
信仰。
伝承。
それらすべてを一つの器へ重ねた時、世界はどこまで誤認するのか。
人間の器に、天使という概念の輪郭を刻み込めば、何が起こるのか。
天使のような人間ではない。
天使に似た人間でもない。
世界が一瞬だけ、その人間を天使と見間違うかどうか。
彼が知りたかったのは、そこだった。
人間を天使へ変える。
彼は自分の研究を、しばしばそう表現した。
だが、実際の目標は少し違う。
完全な天使を作ることではない。
人間という存在が、別の存在概念へ寄る瞬間。
世界が一個人の正体を誤認する瞬間。
魂と肉体と概念の境界に生じる綻び。
それを観測すること。
そして、その綻びの向こう側にあるものを覗き込むこと。
そこに根源へ至る手掛かりがあるのではないか。
それが彼の仮説だった。
もちろん、理論はまだ完成していない。
人間が本当に天使になるのか。
天使に近い別の何かになるのか。
天使と誤認されるだけの肉塊になるのか。
あるいは、単に壊れて終わるのか。
彼自身にも分からなかった。
成功例はない。
観測された変化は断片的で、再現性も低い。
理論には穴が多かった。
穴と仮定の隙間に、仮説という名の細い板を渡し、辛うじて向こう岸を目指しているようなものだった。
そもそも、天使化という名称からして彼が勝手に付けたものだ。
本当に天使へ至るかどうかは分からない。
だが。
響きがよかった。
天使化。
実にいい。
言葉にしただけで、研究費が三割増しで降りそうな気がする。
もちろん、降りない。
時計塔の連中は、こうした大仰な題目を鼻で笑う。
そして笑った後で、家名と後ろ盾と論文の装丁が整っていれば、同じ研究に予算を付ける。
実に分かりやすい。
「君、力が欲しいか?」
彼は検体の正面へしゃがみ込み、わざと低い声で言った。
声を半音落とし、目線を合わせ、わずかに顎を引く。
いかにも、という間だった。
夜の路地裏。
血まみれの少年。
その前へ黒衣の男が現れ、手を差し伸べながら口にする。
そういう種類の台詞だった。
男の目が見開かれた。
恐怖。
怒り。
困惑。
それらが混ざり合った、なかなかいい顔だった。
「あ、今のは言ってみたかっただけ。返事はいいよ。猿轡してるしね」
彼はすぐに普段の声へ戻り、けらけらと笑いながら立ち上がった。
軽い男だった。
少なくとも、見た目はそうだった。
言葉はよく回る。
冗談も言う。
深刻な空気を、わざと壊す。
吸血鬼の巣へ踏み込む前も、異端者を処刑する前も、彼は軽口を叩いていた。
寒いな、とか。
この外套、もう少し動きやすくならないかな、とか。
怖くなかったわけではない。
死にたくはなかったし、痛いのも嫌いだった。
吸血鬼の膂力で壁へ叩きつけられた時には、普通に帰りたいと思った。
それでも、使命に殉じる処刑人のような顔をする自分が、あまり好きではなかった。
神だの正義だの救済だのを口にしながら、眉間に皺を寄せる。
絵にはなる。
だが、少し真面目すぎる。
どうせなら軽い方がいい。
笑いながら扉を開ける方がいい。
冗談を言った次の瞬間に、黒鍵を投げる方がいい。
軽い口調で、とんでもないことをする方が、それらしく見える。
緊張していないのではなく、緊張していないように見える男。
恐怖を知らないのではなく、恐怖の上から軽口を塗れる男。
血と死の匂いが満ちた場所でも、笑っていられる男。
十代後半の彼は、そうしたものに憧れていた。
そして厄介なことに、今でも少し憧れていた。
「いやあ、でもいいよね。力が欲しいか、って」
彼は机の紙コップを手に取り、ストローを咥えた。
氷が、からん、と安っぽい音を立てる。
「一度は言いたい台詞だよ。言われる側じゃなくて、言う側に回りたいじゃないか。分かるだろう?」
男から返事はない。
彼はその沈黙を、都合よく同意と受け取った。
「うん。分かってくれると思った」
そう言って、笑う。
軽く。
親しげに。
まるで、これから始まるものが人体実験ではなく、少し変わった共同作業であるかのように。
その軽さこそが、彼の最もたちの悪いところだった。
机の上に、小さな樹脂ケースが置かれていた。
中には、親指の爪ほどの結晶が入っている。
白にも見えた。
薄い金にも見えた。
角度によっては、透き通った青にも見える。
光源は天井の蛍光灯だけだ。
それなのに、その結晶だけは内側に別の空を閉じ込めているようだった。
幾何学的な面が幾重にも重なり、中心には淡い光の芯が浮かんでいる。
見る角度によって輪郭がわずかに揺らぐ。
三角錐にも見えた。
多面体にも見えた。
小さな王冠を逆さにしたようにも、翼を畳んだ何かの胚にも見えた。
宝石ではない。
鉱物でもない。
単なる魔力の塊でもなかった。
概念を、結晶という形へ押し込めたもの。
セフィラ。
それもまた、彼が勝手に付けた名前だった。
分類するなら、概念礼装に近い。
より無機質に表現するなら、類感接続用の霊的触媒。
あるいは、上位の霊的位相へ接続するための疑似核。
だが、そんな名前では気分が出ない。
セフィラ。
その方がいい。
神秘を扱う以上、名前には相応の重みが必要だった。
少なくとも彼はそう信じている。
そして、何かを強く信じている魔術師は、たいてい面倒な生き物だった。
何年も研究し、何人も犠牲にし、何度も失敗して、ようやく形にしたもの。
それが、この小さな結晶だった。
ただし、セフィラそのものが人間を天使へ作り替えるわけではない。
役割は三つ。
人間の内側へ定着すること。
人間という器を、天使という概念へ近づけること。
そして、天使という概念に近い霊的位相へ接続するための足場になること。
接続先から流れ込む力を、彼はテレズマと呼んでいた。
それが厳密に正しい名称かどうかは怪しい。
聖堂教会の人間が聞けば顔をしかめるだろう。
時計塔の講師なら、まず定義を明確にしろと鼻で笑うに違いない。
だが、彼にとっては十分だった。
天使に属するもの。
天使から零れ落ちるもの。
天使という概念の輪郭に沿って流れる、霊的な圧力。
それをテレズマと呼んだ方が早い。
何より、響きがいい。
セフィラを核として位相へ接続し、そこからテレズマを人間の内側へ流し込む。
肉体は耐えられるのか。
魂は変質するのか。
精神が先に壊れるのか。
それとも、世界が一瞬だけ対象を人間ではないものと見間違えるのか。
それを見る。
観測する。
記録する。
再現を試みる。
実に魔術師らしい。
言い換えるなら、実に最低だった。
「さて、本日の主役はこちら」
彼はケースを開け、セフィラを摘み上げた。
部屋の空気が、わずかに冷えた。
椅子に縛られた男が、喉の奥で悲鳴を漏らす。
「お、分かる? いいね。感度が高い。やっぱり君、素材としては優秀だよ。人生の使い道が見つかってよかったじゃないか」
男は必死に首を振った。
彼はにこにこと笑っている。
「大丈夫、大丈夫。成功すれば歴史に残る。失敗しても俺の記録には残る。ほら、どちらにしても名前が残るタイプのやつだ」
もちろん、実験記録に名前は残らない。
記載されるのは検体番号だけだ。
名前で管理していた時期は、とうに過ぎていた。
最初の百人ほどは、まだ覚えていた。
顔も、声も、最後の反応も、ある程度は思い出せた。
二百を越えた頃には、個人差が数値へ置き換わった。
五百を越えた頃には、失敗時の悲鳴が分類名になった。
八百を越えた頃には、死体の処理方法を最適化していた。
千を越えた頃には、被験者という言葉すら情緒的すぎると感じるようになった。
検体。
その方が短い。
正確で、余計な感傷を含まない。
彼は注射器を手に取った。
中身は、セフィラを肉体へ定着させるための媒介液だった。
ラベルには油性ペンで『固定剤・改四十二』と書かれている。
改四十二。
つまり、少なくとも四十一回は駄目だった。
細かな配合違いまで含めれば、試作回数は三桁に届く。
彼は、そうした雑な命名に少し愛着を持っていた。
格好いい名前は、成功してから付ければいい。
失敗作にまで立派な名前を付けると、後で悲しくなる。
「はい、ちょっとチクッとしますよー」
彼は男の胸に針を刺した。
男が暴れる。
拘束術式が淡く光り、椅子ごと身体を押さえ込んだ。
「動かない、動かない。ずれると痛いよ。いや、ずれなくても痛いけど」
媒介液を流し込む。
続けて、セフィラを胸元へ押し当てた。
結晶が皮膚へ沈んだ。
切り裂いたわけではない。
溶けたわけでもない。
そこにあったものが、初めから内側に存在していたかのように消えた。
男の身体が跳ねる。
三台のパソコンに数値が走った。
心拍。
体温。
魔術回路の活性率。
セフィラの定着率。
位相への接続深度。
霊的圧力。
彼の顔から、わずかに笑みが消えた。
冗談は言う。
軽口も叩く。
だが、観測の時だけは目が笑わない。
「検体一〇四三。セフィラ原型二十三号を定着。固定剤改四十二を使用。魔術回路全体の六割が即時反応」
音声記録が回り始める。
男の呼吸が荒くなった。
胸元から、白い光が薄く漏れ始める。
「いいね」
彼は呟いた。
これまでより反応がいい。
千を超える失敗の末に、ようやく現れた数値だった。
この男は、魔術師としては半端者だった。
知識は浅い。
技術も粗い。
血筋も大したことはない。
名門の嫡子でもなければ、封印指定を受けるような異才でもない。
ただし、魔術回路の本数だけは多かった。
質ではない。
量。
今回、彼が着目したのはそこだった。
美しくはない。
洗練もされていない。
だが、たまには量で殴る神秘があってもいい。
血統や格式ではなく、単純な回路数と耐久性。
壊れるまでに、どれだけの出力を通せるか。
過去千四十二体の失敗が、彼をその仮説へ導いていた。
部屋の蛍光灯がちらついた。
空気が重くなる。
窓は閉まっている。
それでも、どこか遠くから巨大な圧力をかけられているような感覚があった。
世界の薄皮の向こう側。
そこへ指を掛けたような感触。
「位相接続、開始」
彼の声が、わずかに弾んだ。
来る。
そう思った瞬間、男の胸が白く光った。
それは単なる光ではない。
熱でもない。
魔力とも違う。
だが彼の脳は、それを白と認識した。
テレズマ。
天使の力。
あるいは、彼がそう呼んでいるだけの、位相の向こう側から流れ込む何か。
それが、千四十三番目の人間の内側へ流れ込んだ。
一秒。
二秒。
三秒。
「三秒経過。過去記録更新」
彼は早口で記録した。
男の皮膚の下を、白い筋が走っている。
魔術回路に沿っていた。
回路がテレズマの流入経路になっている。
焼かれながらも、まだ形を保っている。
男の目から涙が流れた。
彼はそれを見て、笑った。
「すごい、すごい。新記録だ」
四秒。
五秒。
六秒。
耐えている。
過去最高だった。
セフィラは機能している。
位相への接続は成立した。
テレズマの流入も確認できた。
ほんの数秒ではあるが、人間の内側へ留まっている。
ならば次は、もっと多い魔術回路か。
もっと質の高い魔術回路か。
それとも、回路ではなく別の――。
男の胸が、不自然に膨らんだ。
彼の笑みが止まる。
胸骨の下。
セフィラを定着させた位置が、内側から押し上げられていた。
皮膚が張る。
肋骨が軋む。
白い筋が、胸から肩へ、喉へ、腹へ、四肢へと広がっていく。
それは光というより、ひび割れに見えた。
人間という器の内側が、器では受け止めきれない何かで満たされていく。
警告音が鳴った。
パソコンの数値が一斉に跳ね上がる。
「……あ」
彼は間の抜けた声を漏らした。
そこには、初めて本物の焦りが混じっていた。
「これ、まずいやつだ」
遮断術式を起動する。
机の下の予備礼装を蹴り出す。
床に仕込んでいた簡易結界を展開する。
セフィラと位相との接続を切ろうとする。
だが、遅かった。
男は耐えた。
耐えてしまった。
過去の誰よりも長く耐えたため、体内へ流れ込んだテレズマも過去最大になっていた。
限界は、とっくに超えている。
男の目、鼻、耳から血が噴き出した。
垂れたのではない。
内側から押し出された。
眼球の端から赤い筋が弾ける。
鼻孔から泡立つ血があふれる。
耳の奥から、細い血流が飛ぶ。
首筋。
手首。
爪の隙間。
皮膚の薄い箇所から血が滲み、次の瞬間には糸のように吹き出した。
血液が血管を流れているのではない。
体内から居場所を奪われているのだ。
流入したテレズマが、血も、肉も、骨も、神経も、人間を人間の形に保つすべてを、内側から押し退けようとしている。
「これは、やばい」
彼は男へ踏み込んだ。
遮断術式では間に合わない。
予備礼装も遅い。
結界で押さえ込むには、内圧が大きすぎる。
ならば、核を抜くしかない。
彼は男の胸へ手を突き入れた。
本当に、物理的に。
術式で摘出するのでも、礼装で引き剥がすのでもない。
白く膨らんだ胸の中心へ、五指を揃えて力任せに突き立てた。
皮膚が裂ける。
肉が割れる。
肋骨の隙間へ指が沈む。
検体の苦痛は考えていない。
生き残れるかどうかも、もはや考えていない。
必要なのは、セフィラを抜き取ること。
位相との接続を断つこと。
それだけだった。
だが、遅かった。
すでに血は噴き終わっている。
次に外へ押し出されるのは、血ではない。
肉だ。
骨だ。
神経だ。
人間という形そのものだ。
彼の指先が、硬いものへ触れた。
セフィラ。
掴む。
引く。
抜けない。
結晶は、すでに男の肉体と一体化していた。
魔術回路に絡みつき、白い光の筋を全身へ伸ばしている。
彼は力任せに引いた。
ぶち、と湿った音がした。
その瞬間、男の胸が裂けた。
白い光が、部屋を塗り潰した。
音はなかった。
音よりも先に、すべてが押し潰された。
最初に来たのは衝撃だった。
空気が壁となって、正面から叩きつけてくる。
机が砕けた。
パソコンが吹き飛んだ。
コピー用紙が舞い上がる。
スチールラックがひしゃげ、壁が割れ、床が波打つ。
彼の身体も吹き飛ばされた。
防御術式は起動していた。
代行者時代に叩き込まれた反射で、受け身も取っていた。
右足を引き、肩を落とし、衝撃を逃がす姿勢を作っていた。
それでも足りなかった。
これは攻撃ではない。
刃でも、弾丸でも、呪詛でもない。
人間の内側へ、人間用ではない力を流し込んだ結果。
器が破裂し、あふれた力が周囲を巻き込んでいるだけだ。
防御できる種類のものではなかった。
彼は壁へ叩きつけられた。
背中が当たるより先に、胸の奥で嫌な音がした。
べきり、と。
乾いた枝をまとめて折るような音。
肋骨が折れたのだと、少し遅れて理解した。
一本ではない。
二本でもない。
胸郭が内側へ歪み、折れた骨が肉を裂く。
次に、腹の中が揺れた。
衝撃が皮膚と筋肉を通り越し、内臓を直接かき混ぜる。
胃が捻れる。
腸が押し潰される。
肝臓のあたりに熱が走り、身体の深い場所で何かが裂けた。
痛みというより、体内の配置が失われた感覚だった。
肺から空気が抜ける。
呼吸の仕方が分からない。
喉がひゅう、と鳴ったが、空気は入ってこなかった。
視界が白く焼け、次に赤く滲んだ。
彼は床へ落ちた。
転がったというより、投げ捨てられた。
肩から落ち、背中を打ち、割れた床材の上を滑る。
そこで、ようやく気づいた。
右腕がない。
セフィラを掴んでいた腕だ。
肘から先ではない。
肩口から先が、ほとんど消失していた。
切断面と呼べるほど綺麗なものではない。
黒衣の袖ごと、肉も、骨も、神経も、白い光に削り取られたように失われている。
残った肩口から、遅れて血があふれた。
痛みはまだ届いていない。
代わりに、身体がもう元には戻らないという確信だけがあった。
部屋の中央に、男はいなかった。
椅子も消えている。
セフィラも砕けていた。
残っているのは、白く焼けた跡と、飛び散った機材。
そして、辛うじて動いているパソコンの割れた画面だけだった。
彼は床に転がったまま、それを見つめた。
グラフの一部が残っている。
罅割れた画面の端で、まだ線が動いていた。
接続成功。
流入確認。
維持時間、過去最長。
検体一〇四三は、過去のどの検体よりも長くテレズマに耐えた。
そして、耐えた分だけ大きく壊れた。
「……なるほどね」
彼は笑おうとした。
喉から出たのは、湿った音だけだった。
血が気管に絡んでいる。
肺も潰れている。
折れた肋骨が、どこか悪い場所に刺さっている感覚もあった。
それでも意識は、画面を追い続けていた。
失敗だ。
ただし、完全な失敗ではない。
セフィラの理論は死んでいない。
位相接続は成立した。
テレズマの流入も確認した。
人間の器が、それを受け止められなかっただけだ。
問題は、受け皿だった。
魔術回路は、テレズマを流入させる経路にはなる。
だが、留めておく器にはならない。
回路が多ければ、より大量の力を引き込める。
だから今回の検体は、過去最長の接続に成功した。
そして大量に引き込んだからこそ、限界を超えた瞬間、過去最大の崩壊を起こした。
魔術回路とは、あくまで魔力を通すための管だ。
循環させるもの。
変換するもの。
術式へ流し込むもの。
そこへ上位位相から流れ落ちる異質な圧力を溜め込めば、破綻するのは当然だった。
必要なのは、回路ではない。
器だ。
異質な力を、一度受け止めるための核。
人間用ではない神秘を、人間の内側へ留めておける場所。
それが必要だった。
魔術刻印では足りない。
回路数でもない。
血統でも、格式でも、属性でも、起源でもない。
もっと根本的な、器としての差異。
人間でありながら、人間用ではない力を内側へ蓄えられる何か。
そんなものが、この世界に存在するのかは分からない。
少なくとも、彼の知る魔術師の肉体にはなかった。
彼は残った左手を伸ばした。
床に落ちていたコピー用紙を掴む。
赤ペンは見当たらない。
仕方なく、肩口からあふれる血を左手の指先へ擦りつけた。
失敗原因。
魔術回路。
不適。
文字は震えていた。
線は歪み、血は紙の繊維へ滲んだ。
それでも彼は満足した。
死ぬ直前に、ひとつ前へ進めた。
魔術師としては、それで十分だった。
人間としては、終わっている。
だが、魔術師としてはまだ終わっていなかった。
そこまで書いたところで、彼はふと笑った。
死ぬ間際だというのに、どうでもいいことを思い出したのだ。
絶望した誰かへ手を差し伸べ、言ってみたかった。
力が欲しいか。
そのためにセフィラを作った部分も、確かにあった。
もちろん、根源へ至るためだ。
世界の深層を暴くためだ。
人間が天使へ近づく可能性を観測するためだ。
存在の境界を剥がし、その奥にあるものを覗き込むためだ。
それは本当だった。
嘘ではない。
魔術師としての欲望は、確かにそこにあった。
だが、それだけではない。
そういう場面を、自分の手で作ってみたかった。
自分が、その台詞を言う側に立ちたかった。
夜の底で。
絶望の淵にいる誰かへ。
黒衣の裾を揺らしながら。
まるで救済者のような顔をして。
力が欲しいか、と。
我ながら、実に馬鹿らしい。
くだらない。
救いようがない。
そして、悪くなかった。
「次が、あったら……」
声は、ほとんど出なかった。
それでも彼は、薄れていく意識の中で考えた。
魔術回路ではない器。
異質な力を内側へ蓄える核。
もし、そんなものを持つ人間がいる世界があるなら。
その時こそ。
今度こそ。
ちゃんと言ってやろう。
力が欲しいか、と。
その思考を最後に、彼の前世は終わった。