「力が欲しいか?」と言いたくて!   作:桃たろす

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転校生

 

 校門の前で、フェイトは足を止めた。

 

 聖祥大附属小学校。

 

 門柱に掲げられた名前を、もう一度読む。

 

 昨日も書類で見た。

 

 制服が入っていた箱にも、同じ名前が書かれていた。

 

 なのはたちから、何度も話を聞いた場所だった。

 

 それでも、実際に目の前へ立つと、まったく違う場所に見えた。

 

 広い校庭。

 

 白い校舎。

 

 同じ制服を着て、門をくぐっていく子供たち。

 

 誰も武器を持っていない。

 

 誰も結界を張っていない。

 

 魔力反応を探る必要もなければ、上空からの攻撃を警戒する必要もない。

 

 それなのに。

 

 フェイトの足は、戦いへ向かうときよりも重かった。

 

「フェイトちゃん?」

 

 少し先から声をかけられる。

 

 なのはが振り返っていた。

 

 学校の制服。

 

 肩から下げた指定鞄。

 

 いつもと同じ笑顔。

 

「どうしたの?」

 

「ううん」

 

 フェイトは首を振った。

 

「少し、緊張してるだけ」

 

「大丈夫だよ」

 

 なのはが笑う。

 

「わたしもいるし、アリサちゃんも、すずかちゃんもいるから」

 

「うん」

 

 その言葉に、肩から少しだけ力が抜けた。

 

 フェイトは一歩を踏み出す。

 

 なのはの隣へ並び、二人で校門をくぐった。

 

 そこで。

 

 なのはの歩幅が、僅かに狭くなった。

 

 フェイトはすぐに気づいた。

 

 歩く速度が遅い。

 

 昨日、医務室のベッドから起き上がろうとしていたときよりはいい。

 

 支えがなくても歩けている。

 

 けれど、以前のなのはとは違った。

 

 校舎へ続く短い階段の前で、なのはは一度だけ小さく息を吸った。

 

 一段。

 

 二段。

 

 三段。

 

 上りきったところで、呼吸が僅かに乱れる。

 

「なのは」

 

「なに?」

 

「無理してない?」

 

 なのはの表情が、ほんの少しだけ止まった。

 

 すぐに笑顔へ戻る。

 

「大丈夫だよ」

 

 昨日も聞いた言葉だった。

 

 医務室で目を覚ましたときも。

 

 身体を起こそうとして、腕が震えたときも。

 

 歩いてみたいと言って、フェイトに止められたときも。

 

 大丈夫。

 

 なのははそう言った。

 

 フェイトは、その言葉を完全には信じられなかった。

 

 夜の屋上。

 

 倒れていたなのは。

 

 胸の奥から奪われた魔力。

 

 冷たくなりかけていた手。

 

 なかなか開かなかった瞳。

 

 あの光景を、まだ忘れられない。

 

「でも――」

 

「フェイトちゃん」

 

 なのはは困ったように笑った。

 

「今日はフェイトちゃんの初日なんだから。わたしの心配ばっかりしちゃだめだよ」

 

「初日でも、なのはの方が大事だよ」

 

 考えるより先に、言葉が出た。

 

 なのはが目を丸くする。

 

 フェイトも、自分の言ったことに少し遅れて気づいた。

 

「ご、ごめん。学校が大事じゃないって意味じゃなくて」

 

「ううん」

 

 なのはの笑顔が、少しだけ柔らかくなる。

 

「ありがとう、フェイトちゃん」

 

 フェイトは、それ以上言えなくなった。

 

 心配を続ければ、今度はなのはが自分を気遣う。

 

 転校初日の自分を安心させようとして、さらに無理をするかもしれない。

 

 だから、今は言わない。

 

 ただし。

 

 もう一度ふらついたら、何を言われても休ませる。

 

 フェイトは心の中で、そう決めた。

 

「あ、来たわね!」

 

 校舎の入口から、よく通る声がした。

 

 アリサが腕を組んで立っている。

 

 その隣には、すずかもいた。

 

「おはよう、なのはちゃん。フェイトちゃん」

 

「おはよう、すずかちゃん。アリサちゃん」

 

「おはよう」

 

 フェイトも頭を下げる。

 

 アリサはフェイトの姿を、上から下まで眺めた。

 

 制服。

 

 リボン。

 

 靴。

 

 指定鞄。

 

 金色の髪。

 

 視線が何度か往復する。

 

「な、なに?」

 

「別に」

 

 アリサは顔を逸らした。

 

「まあ、似合ってるんじゃない」

 

「本当?」

 

「そこで聞き返さないでよ。こっちが恥ずかしくなるじゃない」

 

「アリサちゃん、顔が赤いよ」

 

「すずか!」

 

 すずかが小さく笑う。

 

「とても似合ってるよ、フェイトちゃん」

 

「ありがとう」

 

「教室まで一緒に行こう。靴箱はこっちだよ」

 

「うん」

 

 四人で校舎へ入る。

 

 なのは。

 

 アリサ。

 

 すずか。

 

 そして、自分。

 

 昨日までは想像するだけだった並び方。

 

 フェイトは歩きながら、何度も隣を確かめた。

 

 三人とも、そこにいる。

 

 誰も急に消えない。

 

 少なくとも今は。

 

 それだけで、不思議なくらい胸が軽くなった。

 

 ◇

 

 小尾一は、古い英語で書かれた宗教書を読んでいた。

 

 正確には、読んでいるふりをしていた。

 

 視線は紙面へ向いている。

 

 ときどきページもめくる。

 

 だが意識の半分は、教室の入口へ置かれていた。

 

 高町なのはが入ってくる。

 

 いつもより遅い。

 

 歩幅が狭い。

 

 足を運ぶたび、僅かに重心が揺れている。

 

 自分の席まで来ると、机へ手を置いた。

 

 椅子を引く。

 

 身体の向きを変える。

 

 腰を下ろす。

 

 その一つ一つが、普段より慎重だった。

 

 呼吸は浅い。

 

 顔色もよくない。

 

 生命活動そのものは安定している。

 

 埋め込んだ観測術式から届く情報も、目の前の状態と一致していた。

 

 魔力核は回復過程にある。

 

 内部出力は平常時から大きく低下していた。

 

 セフィラは休眠状態。

 

 宿主の生命を直接脅かす異常反応はない。

 

 学校へ通える程度には戻っている。

 

 ただし。

 

 本人が思っているほど、回復してはいない。

 

 それでも来た。

 

 小尾一は紙面から目を上げた。

 

「おはよう、高町さん」

 

「おはよう、小尾くん」

 

「今日は随分と慎重に歩くんだね」

 

 なのはの手が止まった。

 

 指定鞄から教科書を出そうとしていた指が、一瞬だけ硬くなる。

 

「そうかな?」

 

「そう見えるよ」

 

「ちょっと寝不足なだけなの」

 

「へえ」

 

 小尾一は追及しなかった。

 

 本人は隠すつもりらしい。

 

 ならば、今はそれでいい。

 

 高町なのはは、日常へ戻ろうとしている。

 

 身体が追いついていなくても。

 

 周囲に心配をかけても。

 

 学校へ来る。

 

 友人と話す。

 

 いつもと同じ席へ座る。

 

 その意志を、小尾一は興味深く思った。

 

 昨夜の観測結果は、すでに整理してある。

 

 敗北。

 

 負傷。

 

 内部魔力の強制的な喪失。

 

 それでも、セフィラは起動しなかった。

 

 その最中、なのはの周囲では少なくとも四つの大きな魔力反応がぶつかっていた。

 

 だが、観測礼装が個別に追えるのは、セフィラを埋め込んだなのはだけだ。

 

 ほかの反応について分かるのは、大まかな出力の変動だけ。

 

 誰が敵で。

 

 誰が味方で。

 

 どの反応が、なのはを助けたのか。

 

 それらは、まだ何一つ分かっていない。

 

 小尾一は、なのはの後ろへ視線を移した。

 

 アリサ・バニングス。

 

 月村すずか。

 

 そして。

 

 見覚えのない、金色の髪の少女。

 

 なのはと並んで教室へ入ってきた。

 

 なのはの歩き方を、何度も確認している。

 

 周囲の子供たちより早く。

 

 僅かな呼吸の乱れまで見逃さないように。

 

 昨夜の大きな魔力反応と、この少女が同一である証拠はない。

 

 まだ候補ですらなく。

 

 候補になり得る可能性が出てきただけ。

 

 ただし。

 

 なのはとの関係は、見る価値がありそうだった。

 

 その隣では、すずかが小尾一を見ていた。

 

 視線が合う。

 

 すずかの表情が硬くなる。

 

 小尾一は笑った。

 

 すずかは笑わなかった。

 

 教室の前方で、担任が手を叩く。

 

「みなさん、席についてください」

 

 子供たちが散っていく。

 

 担任の隣には、金色の髪の少女が立っていた。

 

 小尾一は宗教書へ視線を戻した。

 

 今日の観測対象が、一つ増えた。

 

 その観察の視線を向けられている側で、フェイトは黒板の前へ進み出た。

 

「今日は、みなさんに新しいお友達を紹介します」

 

 担任の言葉に、教室がざわめく。

 

 黒板の前へ立ったフェイトは、両手を身体の前で重ねていた。

 

 指先へ力が入る。

 

 教室中の視線が、自分へ集まっている。

 

 敵ではない。

 

 誰も攻撃してこない。

 

 魔法を使う必要もない。

 

 戦場なら、複数の敵に囲まれても動ける。

 

 相手の数。

 

 距離。

 

 武器。

 

 射線。

 

 逃走経路。

 

 一つずつ確認すればいい。

 

 けれど、今は何を確認すればいいのか分からなかった。

 

 視線が多い。

 

 好奇心。

 

 驚き。

 

 期待。

 

 いくつもの感情が、自分へ向けられている。

 

 悪意がないことが、かえって難しかった。

 

「それでは、自己紹介をお願いします」

 

 担任に促される。

 

 昨夜、リンディと練習した。

 

 名前を言う。

 

 よろしくお願いします、と言う。

 

 分からないことがあれば、聞けばいい。

 

 クロノも、そう言っていた。

 

 フェイトは息を吸った。

 

「フェイト・テスタロッサです」

 

 声は出た。

 

 そこで止まる。

 

 教室が静かだった。

 

 昨夜、何度も練習した。

 

 名前を言う。

 

 よろしくお願いします、と続ける。

 

 それだけで十分だと、リンディも言っていた。

 

 分かっている。

 

 それなのに、名前の先が出てこない。

 

 何も話せない自分を、教室中に見られているような気がした。

 

 けれど、それをどこまで話せばいいのか分からなかった。

 

 フェイトは教室を見渡す。

 

 なのはが笑っている。

 

 大丈夫。

 

 声には出さず、そう伝えるような笑顔。

 

 アリサは腕を組んでいた。

 

 堂々としなさい、とでも言いたそうな顔。

 

 すずかは小さく頷いた。

 

 三人を見て、呼吸を整える。

 

 その隣。

 

 なのはの隣席にいる少年と、目が合った。

 

 黒い髪。

 

 白い肌。

 

 深く陰った目元。

 

 机の上には、英語で書かれた古い本。

 

 他の子供たちとは、目が違った。

 

 好奇心ではない。

 

 敵意でもない。

 

 魔力反応も感じない。

 

 ただ。

 

 見られているというより。

 

 測られている。

 

 そんな感覚があった。

 

 どうして。

 

 フェイトは考えようとした。

 

 白い顔。

 

 長い前髪。

 

 少年の目。

 

 教室の中で、一人だけ――

 

「フェイトさん?」

 

 担任に名前を呼ばれた。

 

 思考が途切れる。

 

「あ……すみません」

 

 何を考えていたのだろう。

 

 緊張していたから、言葉が止まった。

 

 たぶん、それだけだ。

 

 フェイトはもう一度、なのはを見る。

 

「まだ、分からないことがたくさんあります」

 

 自分の声が、教室へ広がる。

 

「これから、いろいろ覚えたいです」

 

 一度、頭を下げた。

 

「よろしくお願いします」

 

 拍手が起きた。

 

 大きな音に、肩が僅かに跳ねる。

 

 けれど、それが歓迎の音だと分かるまでに時間はかからなかった。

 

 フェイトはゆっくりと息を吐いた。

 

 最初の自己紹介は終わった。

 

 失敗はしていない。

 

 たぶん。

 

 なのはが嬉しそうに拍手をしている。

 

 それを見て。

 

 フェイトも、ほんの少しだけ笑った。

 

 フェイトの席が決まり、最初の休み時間になった。

 

 すぐに何人もの子供たちが集まろうとする。

 

 その前に。

 

 なのはの隣に座っていた少年が、フェイトの席までやって来た。

 

「小尾一」

 

 少年は自分の胸へ軽く手を当てた。

 

「僕も、少し前に転校してきたんだ」

 

「よろしく、小尾くん」

 

 フェイトは丁寧に頭を下げる。

 

「ずいぶん礼儀正しいね」

 

「そうかな」

 

「少なくとも、僕よりは無難な自己紹介だったよ」

 

「小尾くんは、『校長先生のお話を最後まで聞けるよう努力します』って言ってたもんね」

 

 なのはが横から口を挟んだ。

 

「前向きな目標を話しただけだよ」

 

「そういうところなの」

 

 なのはが苦笑する。

 

 小尾一は気にした様子もなく、フェイトへ向き直った。

 

「分からないことがあれば、高町さんに聞けばいい。大抵のことは親切に教えてくれる」

 

「小尾くんも教えてあげてよ」

 

「僕はまだ、この学校について人へ教えられるほど詳しくない」

 

「もう結構いるじゃない」

 

「在籍期間と理解度は、必ずしも比例しないよ」

 

 冗談なのだろうか。

 

 本気なのだろうか。

 

 フェイトには判断できなかった。

 

 小尾一と話していると、少し変な感覚があった。

 

 言葉は聞こえている。

 

 意味も分かる。

 

 けれど。

 

 相手のことを考えようとすると、思考が別の方向へ流れていく。

 

 黒い髪。

 

 白い肌。

 

 古い本。

 

 変わった話し方。

 

 なのはの隣の席。

 

 それ以上のことを考えようとすると、急に教室の時計が気になった。

 

 次の授業。

 

 机の位置。

 

 窓の外から聞こえる声。

 

 何か。

 

 大切なことを見落としているような――

 

「同じ転校生同士、握手でもしておこうか」

 

 小尾一が右手を差し出した。

 

 自然な動作だった。

 

 何の疑問も抱かせない、普通の挨拶。

 

 フェイトも、反射的に手を伸ばそうとする。

 

「あ、フェイトちゃん」

 

 すずかが二人の間へ入った。

 

「次の授業で使うノート、まだ出してないよね。教科書も一緒に確認しよう」

 

「え?」

 

「最初は分かりにくいから。私が教えるね」

 

 すずかはフェイトの机へ身体を寄せ、時間割を指差した。

 

 差し出されていた小尾一の手が、行き場を失う。

 

 ほんの一瞬。

 

 本当に、ほんの一瞬だけ。

 

 小尾一の頬から笑みが消えた。

 

 惜しい。

 

 そんな感情が浮かんだように見えた。

 

 だが、すぐに手を引く。

 

「まあ、いいか」

 

 独り言のように言った。

 

「同じ教室にいるんだ。挨拶の機会なら、またあるだろうしね」

 

 すずかの指が、時間割の紙の上で止まった。

 

 フェイトは二人を見比べる。

 

「すずか?」

 

「なに?」

 

「小尾くんと、何か――」

 

「フェイトちゃん!」

 

 別の子供が声をかけた。

 

「髪って、本当にその色なの?」

 

「外国から来たの?」

 

「日本語、すごく上手だね!」

 

「なのはちゃんとは前からの知り合い?」

 

「好きな食べ物は?」

 

「運動は得意?」

 

 一度に声が飛んでくる。

 

 フェイトは目を見開いた。

 

「えっと……」

 

 どれから答えればいい。

 

 髪。

 

 出身地。

 

 日本語。

 

 なのは。

 

 食べ物。

 

 運動。

 

 全部へ正確に答えようとする。

 

 けれど、一つを考えている間に次の質問が重なる。

 

「髪は、生まれたときからで……」

 

「どこの国?」

 

「前はどこの学校だったの?」

 

「なのはちゃんとは、どこで会ったの?」

 

「好きな教科は?」

 

「待って」

 

 言ったつもりだった。

 

 声にはなっていなかった。

 

 表情が固まる。

 

 返事が遅れる。

 

 質問した子供たちは悪くない。

 

 ただ知りたいだけだ。

 

 だから、全部答えなければならない。

 

 聞かれたことには、正しく。

 

 失敗しないように。

 

 期待を裏切らないように。

 

「ちょっと!」

 

 アリサの声が、教室へ響いた。

 

 周囲の子供たちが止まる。

 

「一度に聞いたら答えられないでしょ!」

 

 大きな声だった。

 

 フェイトの肩が、びくりと跳ねる。

 

 アリサも気づいた。

 

「あ……」

 

 僅かに気まずそうな顔になる。

 

「別に、あんたを怒鳴ったんじゃないのよ」

 

「うん」

 

「その……こいつらが一気に聞くから」

 

「分かってる」

 

 フェイトはアリサを見た。

 

「ありがとう、アリサ……ちゃん」

 

「ちゃんはいらないわよ」

 

「え?」

 

「呼び捨てでいいって言ってるの」

 

「でも」

 

「なのはやすずかと同じでいいの」

 

 フェイトは少し迷った。

 

「ありがとう、アリサ」

 

「……そう。それでいいのよ」

 

 アリサは腕を組み直す。

 

 僅かに顔が赤かった。

 

「質問は一人一つずつにしなさい。答えにくいことは、答えなくてもいいの」

 

 フェイトは、そこでようやく昨夜の言葉を思い出した。

 

 答えたいことを。

 

 答えられる分だけ。

 

 リンディは、そう教えてくれた。

 

 分かっていたはずなのに、質問を向けられた途端、全部へ正しく答えなければならないと思ってしまった。

 

「……うん。分かった」

 

「本当に分かった?」

 

「答えにくいことは、無理に答えなくてもいい」

 

フェイトが確かめるように言うと、アリサは頷いた。

 

「そういうことよ」

 

「じゃあ、まず髪のことからにしようか」

 

 すずかが場を整える。

 

「その次が、どこから来たのか。好きな食べ物は、最後でいいかな」

 

「なのはちゃんとのことは?」

 

「それは、わたしが答えるよ」

 

 なのはが笑顔で手を上げた。

 

「フェイトちゃんとは、大切なお友達なの」

 

 フェイトがなのはを見る。

 

 迷いのない声だった。

 

 教室の子供たちは、それで納得したように頷いた。

 

 それからは、一つずつ質問へ答えた。

 

 髪は地毛。

 

 外国で暮らしていたことがある。

 

 日本語は勉強した。

 

 以前の学校については、少し複雑で話しにくい。

 

 そう答えると、アリサが周囲を見回し、誰にもそれ以上聞かせなかった。

 

 好きな食べ物は、まだ考えている途中。

 

 運動は、たぶん得意。

 

「たぶん?」

 

「ちゃんと競争したことがないから」

 

「じゃあ、今度一緒に走ろうよ!」

 

「うん」

 

 会話が続く。

 

 さっきより、少し楽だった。

 

 困れば、すずかが質問を整理する。

 

 言葉に詰まれば、なのはが助ける。

 

 誰かが一度に話し始めれば、アリサが止める。

 

 フェイトは少しずつ、教室の空気へ馴染んでいった。

 

 その様子を。

 

 小尾一は、自分の席から見ていた。

 

 宗教書を開いたまま。

 

 金色の髪の少女そのものより。

 

 その少女を見ている、なのはの反応を。

 

 フェイトが困れば、なのはは助けようとする。

 

 アリサが守れば、安心する。

 

 すずかが場を整えれば、笑う。

 

 フェイトが名前を呼ばれれば、振り返る。

 

 フェイトが僅かに笑えば、自分のことのように嬉しそうな顔をする。

 

 すでに深い。

 

 出会ってからの年月だけでは説明できない。

 

 戦闘。

 

 救助。

 

 共有した秘密。

 

 あるいは、それ以外の何か。

 

 何が二人を繋いでいるのかは、まだ分からない。

 

 だが、結果だけは見える。

 

 高町なのはが、失いたくない者。

 

 それが。

 

 また一人、増えた。

 

 小尾一の頬が、僅かに緩んだ。

 

 フェイトは、授業の内容そのものには困らなかった。

 

 算数。

 

 国語。

 

 理科。

 

 知らない範囲もあったが、教科書を読めば理解できる。

 

 問題は、学校の作法だった。

 

「フェイト・テスタロッサさん」

 

「はい!」

 

 名前を呼ばれた瞬間、反射的に立ち上がる。

 

 勢いが強すぎて、椅子が後ろへ鳴った。

 

 教室中の視線が集まる。

 

「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ」

 

「すみません」

 

「謝らなくてもいいです。では、この問題を解いてください」

 

「はい」

 

 フェイトは黒板の問題を見る。

 

 答えは分かる。

 

 数秒で計算できた。

 

 だから、その答えに至るまでの条件。

 

 途中式。

 

 別の解き方。

 

 似た形式の問題に応用する場合の注意点まで説明した。

 

 先生が、やんわりと止めるまで。

 

「よ、よく分かりました。正解です」

 

「正解……」

 

 フェイトは先生の顔を見る。

 

 本当に。

 

 間違っていない。

 

 怒られない。

 

 やり直しを命じられない。

 

「フェイトちゃん」

 

 近くの席から、なのはが小さく声をかけた。

 

「合ってるよ」

 

 フェイトは息を吐いた。

 

「うん」

 

 たった一言。

 

 それだけで安心できた。

 

 授業が終わる。

 

 休み時間になる。

 

 子供たちは立ち上がり、廊下へ出たり、友達の席へ移動したりする。

 

 けれど、フェイトは席へ座ったままだった。

 

 次の指示がない。

 

 何をすればいいのか分からない。

 

 教科書を閉じる。

 

 机の上を片づける。

 

 背筋を伸ばす。

 

 それから。

 

 待つ。

 

「フェイトちゃん」

 

 なのはが立っていた。

 

「一緒に行こう」

 

「どこへ?」

 

「お手洗い。そのあとは、廊下を案内するね」

 

「今、行っていいの?」

 

「休み時間だからね」

 

 誰かに許可を取らなくても。

 

 命令されなくても。

 

 自分で立っていい時間。

 

 フェイトは少し遅れて椅子を引いた。

 

「うん。行く」

 

 なのはの後ろを歩く。

 

 廊下。

 

 階段。

 

 音楽室。

 

 図工室。

 

 保健室。

 

 なのはは一つずつ教えてくれた。

 

 その歩みは、やはり普段より遅い。

 

 フェイトは何も言わず、なのはの速度へ合わせた。

 

 昼休みになると、なのはの席の周囲へ四人分の机が寄せられた。

 

 なのは。

 

 フェイト。

 

 アリサ。

 

 すずか。

 

 それぞれの弁当箱が並ぶ。

 

 小尾一は、いつも通り自分の席にいた。

 

 なのはの隣。

 

 四人の輪へ加わるつもりはないらしく、自分の机だけは動かしていない。

 

 もっとも、なのはの隣席なのだから、距離はほとんど変わらなかった。

 

 机の上にあるのは、銀色の包装紙に包まれた栄養補助食品の棒。

 

 それから。

 

 不自然な色をした液体の入った、小さな瓶。

 

 青。

 

 緑。

 

 見る角度によって色が変わる。

 

 瓶の中では、細かい泡が絶えず浮かんでいた。

 

 なのはは自分の弁当箱を開いたあと、小尾一へ声をかけた。

 

「小尾くんも、一緒に食べる?」

 

 普段から、小尾一は一人で食べている。

 

 席も隣。

 

 今日だけ声をかけない理由もなかった。

 

「今日は遠慮するよ」

 

「どうして?」

 

「転校生が二人並ぶと、学校生活についての相談会に見えそうだから」

 

「見えてもいいんじゃない?」

 

「僕は相談へ答えられるほど、学校生活を理解していない」

 

「またそれ言ってる」

 

 なのはが笑う。

 

 小尾一は栄養補助食品の包装を開けた。

 

 一口。

 

 二口。

 

 水分がほとんどなさそうな塊を、平然と噛んでいる。

 

 フェイトは瓶を見る。

 

「それは、何?」

 

「栄養飲料」

 

 小尾一は瓶を持ち上げた。

 

「必要な栄養素と覚醒作用のある化合物を、僕が調整したものだよ」

 

「自分で作ったの?」

 

「市販品は効率が悪いからね」

 

 すずかの顔が引きつる。

 

「小尾くん。それ、何を入れたの?」

 

「説明しても分からないと思う」

 

「じゃあ、飲まない方がいいよ」

 

「僕しか飲まないよ」

 

 小尾一は瓶の蓋を開けた。

 

 しゅわ、と小さな音がする。

 

 薬品と柑橘類を混ぜたような、説明しにくい匂いが広がった。

 

 なのはが僅かに顔を引く。

 

「それ、おいしいの?」

 

「味は評価項目に入れてない」

 

「入れた方がいいと思うの」

 

「そうかな」

 

 小尾一は一口飲んだ。

 

 表情は変わらない。

 

 ただ、数秒後に一度だけ瞬きをした。

 

「悪くない」

 

「今、ちょっとだけ苦そうな顔したよ」

 

「気のせいだ」

 

 小尾一は瓶を机へ置く。

 

 それから、指定鞄の中からもう一本取り出した。

 

「高町さんも飲む?」

 

「わたし?」

 

「寝不足なんだろう?」

 

 なのはが固まる。

 

「一本飲めば、理論上は二日ほど眠らずに活動できる」

 

「いらないの!」

 

 なのはが即答した。

 

「身体の疲労を意識せず動けるよ」

 

「忘れちゃだめなやつだよね!?」

 

「疲労そのものが消えるとは言ってない」

 

「もっとだめなの!」

 

「小尾くん」

 

 すずかの声が低くなる。

 

「なのはちゃんに変なものを飲ませないで」

 

「変なものではないよ。成分表もある」

 

「成分表を見ても安心できないよ」

 

「失礼だなあ」

 

 小尾一は少し残念そうに瓶を引っ込めた。

 

 アリサが、その様子を見て眉を寄せる。

 

「あんた、いつもそんなもの食べてるの?」

 

「必要なものは入っている」

 

「そういう問題じゃないでしょ」

 

「食事の目的は栄養摂取だよ」

 

「味とか楽しさとかもあるの」

 

「付加価値だね」

 

「人生損してるわよ、あんた」

 

「年月と損失は必ずしも――」

 

「それはもういい」

 

 アリサに遮られ、小尾一は肩をすくめた。

 

 四人の昼食が始まる。

 

 アリサは学校の規則について説明した。

 

 授業中に勝手に席を立たないこと。

 

 忘れ物をしたら、隠さず先生へ言うこと。

 

 体育の着替え。

 

 掃除当番。

 

 委員会。

 

「全部、最初から覚えなくてもいいわよ」

 

「でも、間違えたら」

 

「間違えたら教えるわ」

 

「怒らない?」

 

「同じことを何度もやったら、怒るかもしれないけど」

 

「アリサちゃん」

 

「冗談よ」

 

 アリサは少し気まずそうに視線を逸らした。

 

 すずかは図書室の話をした。

 

「フェイトちゃん、本は読む?」

 

「必要なものなら」

 

「必要じゃなくても読んでいいんだよ」

 

「必要じゃなくても?」

 

「面白そうだから読むとか、好きだから読むとか」

 

 フェイトは少し考える。

 

「まだ、よく分からない」

 

「じゃあ、今度一緒に探そう。短くて読みやすい本から」

 

「うん」

 

 なのはは放課後の話をした。

 

「今日は、みんなで一緒に帰ろうね」

 

「帰る?」

 

「うん。途中までだけど」

 

「明日も?」

 

 なのはが目を瞬く。

 

「明日?」

 

「明日も、同じように会えるの?」

 

 言葉にしてから。

 

 フェイトは、それが不思議な質問なのだと気づいた。

 

 アリサも。

 

 すずかも。

 

 少しだけ驚いた顔をしている。

 

 けれど、フェイトにとっては当然ではなかった。

 

 今日会えた人が、明日もいる。

 

 約束しなくても。

 

 戦う理由がなくても。

 

 事件が起こらなくても。

 

 同じ時間。

 

 同じ場所。

 

 同じ教室。

 

 母の機嫌で、日常は壊れた。

 

 失敗すれば、居場所を失った。

 

 誰かが突然いなくなることもあった。

 

 自分がどこかへ連れていかれることもあった。

 

 だから。

 

 今日の続きが、明日にもあるということが。

 

 まだ、よく分からない。

 

「うん」

 

 なのはが笑った。

 

「学校だから」

 

「学校だから……」

 

「明日も会えるわよ」

 

 アリサが言う。

 

「その次の日もね。休みの日は別だけど」

 

「本も、明日持ってくるね」

 

 すずかも続ける。

 

 フェイトは三人を見る。

 

 胸の奥に、温かいものが広がった。

 

「そっか」

 

 小さく笑う。

 

「明日も会えるんだ」

 

 何でもない言葉だった。

 

 三人にとっては。

 

 学校へ通う子供にとっては。

 

 当たり前のこと。

 

 けれど。

 

 フェイト・テスタロッサにとっては。

 

 約束よりも確かな、初めての日常だった。

 

 隣の席で。

 

 小尾一は瓶へ口をつけながら、その会話を聞いていた。

 

 午後。

 

 移動教室へ向かう途中だった。

 

 なのはの足が止まった。

 

 階段を上りきった直後。

 

 身体が僅かに傾く。

 

 手すりへ伸ばした手が、届かない。

 

「なのは!」

 

 フェイトが動いた。

 

 考えるより先に。

 

 なのはの身体を支える。

 

 周囲の子供たちが声を上げるより早く。

 

 倒れる方向へ腕を入れ、肩と腰を抱える。

 

 なのはの体重がかかる。

 

 軽い。

 

 それが余計に怖かった。

 

「なのは、大丈夫!?」

 

「う、うん」

 

 なのははフェイトの腕の中で目を瞬いた。

 

「ちょっと立ちくらみしただけ」

 

「保健室へ行こう」

 

「でも、次の授業が」

 

「行こう」

 

 フェイトの声が強くなる。

 

「昨日、倒れたばかりなのに」

 

 なのはの表情が固まった。

 

 周囲には、事情を知らない子供たちがいる。

 

 フェイトも、それ以上は言わなかった。

 

「本当に、大丈夫だから」

 

「大丈夫じゃないよ」

 

「少し休めば」

 

「だったら、保健室で休んで」

 

 譲らない声だった。

 

 なのはは困ったように笑う。

 

「フェイトちゃんの初日なのに、心配かけたくないの」

 

「初日だからって、なのはを放っておけないよ」

 

「そうよ」

 

 アリサが二人へ追いついた。

 

「ふらついてるのに遠慮してどうするのよ」

 

「アリサちゃんまで」

 

「保健室に行きなさい。授業はあとでどうにでもなるわ」

 

「私もそう思うよ」

 

 すずかが反対側から、なのはの腕を支える。

 

「保健室まで一緒に行こう」

 

「私は先生に伝えてくるわ」

 

 アリサが言う。

 

「フェイトは教室へ戻って、次の授業の準備をしてなさい」

 

「わたしも保健室へ行く」

 

 フェイトは即座に答えた。

 

「うぅ……」

 

「行くわよ」

 

「アリサちゃん、引っ張らないで」

 

「自分で歩けるなら歩きなさい」

 

「歩けるよ」

 

「ゆっくりでいいからね」

 

 すずかが言う。

 

 フェイトはなのはを支えたまま、手を離さなかった。

 

 その様子を。

 

 少し後ろから、小尾一が見ていた。

 

 高町なのはが傾いた瞬間。

 

 フェイト・テスタロッサは、誰より早く動いた。

 

 反応までの時間。

 

 足の運び。

 

 重心の移動。

 

 受け止める位置。

 

 偶然ではない。

 

 身体へ染みついた動き。

 

 教室へ入ったときもそうだった。

 

 扉をくぐった直後、出入口と窓を確認した。

 

 背後へ人が立つと、僅かに重心を変えた。

 

 拍手の音にも反応している。

 

 日常より。

 

 戦闘状態に慣れている。

 

 そして。

 

 高町なのはを最優先にしている。

 

 昨夜、なのはの近くに現れた大きな魔力反応。

 

 同一人物と断定する材料はない。

 

 だが。

 

 確認する価値は、少し増えた。

 

「わたしも保健室へ行く」

 

 フェイトが言った。

 

「フェイトちゃんは戻ってて」

 

「でも」

 

「初日なんだよ?」

 

「そんなこと」

 

「保健の先生が見てくれるなら、君まで授業を抜ける必要はないんじゃないかな」

 

 小尾一が言った。

 

 フェイトが振り返る。

 

 正しい。

 

 内容だけなら。

 

 保健室には先生がいる。

 

 アリサとすずかも、入口までは付き添える。

 

 フェイトまで授業を抜ける必要はない。

 

 それでも。

 

「でも、なのはが」

 

「わたしからもお願い」

 

 なのはがフェイトの袖を握った。

 

「戻ってて、フェイトちゃん」

 

「……本当に?」

 

「うん。少し休んだら戻るから」

 

 フェイトは迷った。

 

 なのは。

 

 教室。

 

 初日。

 

 何を優先すればいい。

 

 昨日までのフェイトなら、迷わなかった。

 

 なのはの隣にいる。

 

 それだけだった。

 

 けれど。

 

 なのは自身が、教室へ戻ってほしいと言っている。

 

「分かった」

 

 ようやく答える。

 

「でも、何かあったらすぐ呼んで」

 

「うん」

 

「絶対に」

 

「分かってるよ」

 

 なのはが笑う。

 

 フェイトは何度も振り返りながら、教室へ戻った。

 

 小尾一も、その後ろを歩く。

 

 フェイトがなのはを最優先にしたこと。

 

 授業を抜けることへ、ほとんど迷いがなかったこと。

 

 なのは本人に頼まれて、初めて戻る判断をしたこと。

 

 小尾一は、そのすべてを記憶した。

 

 ◇

 

 放課後。

 

 なのはは保健室から教室へ戻っていた。

 

 顔色は朝より少しよくなっている。

 

 ただし、保健の先生から、今日は寄り道をせず帰るように言われていた。

 

 四人で昇降口へ向かう。

 

「明日は、今日より早く来るわよ」

 

 アリサが言った。

 

「靴箱の前で、場所が分からなくなって止まらないようにね」

 

「覚えたよ」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

「そこは言い切りなさいよ」

 

 すずかが笑う。

 

「図書室の本、明日持ってくるね」

 

「ありがとう、すずか」

 

「最初は短いお話にするね」

 

「うん」

 

 なのははフェイトの隣を歩く。

 

 朝よりも、二人の距離は近かった。

 

「明日も、一緒に登校しようね」

 

 フェイトは頷く。

 

「うん。明日も」

 

 言葉にする。

 

 明日。

 

 まだ来ていない日。

 

 けれど、今日は。

 

 その日が本当に来ると思えた。

 

 昇降口の端で、小尾一が靴を履き替えていた。

 

 四人より少し先に外へ出ようとしている。

 

 なのはが声をかけた。

 

「小尾くん、また明日ね」

 

「また明日」

 

 小尾一はそれだけ答えた。

 

 そのまま外へ向かおうとして。

 

 一度だけ、フェイトを見た。

 

「初日は終わったみたいだね」

 

「うん」

 

「なら、また明日」

 

「また明日、小尾くん」

 

 短い会話だった。

 

 それだけ。

 

 小尾一は四人と並ぶこともなく、一人で校門の方へ歩いていく。

 

 フェイトは、その背中を見た。

 

 朝から覚えていた違和感。

 

 話していると。

 

 何かを考えようとしても、考えが続かない。

 

 視線。

 

 差し出された手。

 

 すずかの反応。

 

 何か。

 

 何かが――

 

「フェイトちゃん?」

 

 なのはに呼ばれる。

 

「あ……ううん」

 

 フェイトは首を振った。

 

 何を考えていたのだろう。

 

 小尾一が、少し変わった子だということ。

 

 たぶん。

 

 それだけだ。

 

 フェイトは三人の方へ向き直った。

 

 すずかだけが。

 

 遠ざかっていく小尾一の背中を、黙って見ていた。

 

 ◇

 

 その日の夕方。

 

 八神家の居間には、夕食前の穏やかな時間が流れていた。

 

 台所からは、出汁と醤油の匂いが漂っている。

 

 はやては、通話を終えたばかりの電話をテーブルに置き、嬉しそうに笑っていた。

 

「フェイトちゃん、今日が初日やったんやって」

 

「昨日言ってた、金髪の転校生か?」

 

「せや。すごいかわいい子らしいで」

 

「ふうん」

 

 ヴィータは興味がなさそうに答えた。

 

 けれど。

 

 その名前は覚えた。

 

 フェイト。

 

 昨日聞いたときには、まだ名前までは知らなかった。

 

 金色の髪。

 

 黒い服。

 

 大きな鎌。

 

 倒れたなのはへ向かって、必死に手を伸ばしていた魔導師。

 

 同じ人物である可能性は高い。

 

 少なくとも、もう単なる偶然として切り捨てることはできなかった。

 

「最初は緊張しとったけど、みんなとお弁当食べたんやって」

 

「へえ」

 

「授業も受けて、明日読む本の約束もしたって、すずかちゃんが言うとった」

 

「細かいことまで電話で話してんだな」

 

「友達の友達が転校してきたんやで。気になるやん」

 

「そういうもんか?」

 

「そういうもんや」

 

 はやては迷いなく答えた。

 

「それでな、フェイトちゃん、明日もみんなに会えるんか聞いたらしいで」

 

「明日も?」

 

「うん。学校やから、明日も会えるって」

 

 はやては楽しそうに笑う。

 

「ええなあ」

 

「何が?」

 

「今日会った子と、明日も会えるんやろ?」

 

「学校なら普通じゃねえの」

 

「せやな」

 

 はやては頷いた。

 

「普通なんやな」

 

 明るい声だった。

 

 けれど。

 

 ヴィータは返事ができなかった。

 

 はやてにとっては、まだ普通ではない。

 

 学校へ通うこと。

 

 同じ教室で友達に会うこと。

 

 明日も会おうと言って別れること。

 

 その全部が。

 

 まだ手に入っていない未来だった。

 

「うちも学校行けたら、友達いっぱいできるかな」

 

 昨日と似た言葉。

 

 ヴィータの手が止まった。

 

「学校なんか行かなくても、あたしたちがいるだろ」

 

「せやな」

 

 はやては嬉しそうに頷く。

 

「ヴィータも、シグナムも、シャマルも、ザフィーラもおる」

 

「だったらいいじゃねえか」

 

「うん」

 

 はやては笑った。

 

 それから。

 

「でも、ヴィータと一緒に学校行けたら、もっと楽しそうやなあ」

 

 ヴィータは返事ができなかった。

 

 はやてと同じ教室。

 

 隣の席。

 

 休み時間。

 

 弁当。

 

 帰り道。

 

 今日会って。

 

 明日も会う。

 

 そんな光景が、一瞬だけ頭へ浮かんだ。

 

 自分は守護騎士だ。

 

 学校へ通うために存在しているのではない。

 

 主を守るため。

 

 主の命を繋ぐため。

 

 そのために蒐集を続ける。

 

 昨日、地面へ倒した白い少女。

 

 なのは。

 

 あの少女にも学校がある。

 

 友人がいる。

 

 今日。

 

 同じ教室で笑っていた。

 

 自分が力を奪った身体で。

 

 フェイトという少女に支えられながら。

 

「ヴィータ?」

 

 名前を呼ばれる。

 

「あ?」

 

「また怖い顔しとるで」

 

「してねえよ」

 

「しとる」

 

「元からこんな顔だ」

 

「かわいい顔やのにな」

 

「かわいい言うな!」

 

 はやてが笑った。

 

 その笑顔に、ヴィータも少しだけ肩の力を抜く。

 

 はやては電話の横にあったメモ帳を引き寄せた。

 

「フェイトちゃん、やったな」

 

 忘れないように書いておこうと、鉛筆を握る。

 

 フェ。

 

 最初の一文字を書きかけたところで、指が開いた。

 

 鉛筆が机を転がり、床へ落ちる。

 

「はやて!」

 

 ヴィータが駆け寄る。

 

 はやては、自分の右手を左手で包んだ。

 

 指先が、思うように曲がらなかった。

 

「はやて!」

 

 床へ落ちる前に、ヴィータが受け止めた。

 

 はやての右手が、宙で止まっている。

 

 僅かに震えていた。

 

「どうした?」

 

「なんでもないよ」

 

「なんでもなくねえだろ」

 

「ちょっと力入らんかっただけや」

 

「シャマル呼ぶぞ」

 

「平気や」

 

 はやては笑った。

 

 いつもと同じように。

 

 ヴィータを安心させようとして。

 

 何でもないことのように。

 

 その言葉を。

 

 ヴィータは信じられなかった。

 

 昨日。

 

 倒れた少女も。

 

 心配する仲間へ、同じように言ったのかもしれない。

 

 大丈夫。

 

 平気。

 

 心配をかけたくない人間は、そう言う。

 

 本当に大丈夫なときよりも。

 

 大丈夫ではないときに。

 

「無理すんなよ」

 

 ヴィータは本をテーブルへ置いた。

 

「してへんよ」

 

「してる」

 

「ヴィータは心配性やなあ」

 

「うるせえ」

 

 ヴィータは顔を逸らす。

 

 何も言えない。

 

 蒐集をやめれば。

 

 はやての未来が失われるかもしれない。

 

 続ければ。

 

 別の誰かの未来を奪う。

 

 けれど。

 

 選ぶ余地など、最初からなかった。

 

 はやてを救う。

 

 はやてを学校へ行かせる。

 

 来年も。

 

 その次も。

 

 一緒に笑う。

 

 そのためなら。

 

 ヴィータは何度でも、鉄槌を振るう。

 

 胸の奥に残った、白い少女の顔を。

 

 見ないふりをして。

 

 ◇

 

 月村すずかが工房へ来たのは、日が沈んでからだった。

 

 学校から帰宅したあと。

 

 はやてへ電話をして。

 

 夕食までには戻ると家の者へ伝え。

 

 時間を置いて、児童養護施設へ向かった。

 

 地下へ続く階段。

 

 誰も止めない。

 

 誰も疑問を持たない。

 

 すずかが地下へ入ることも。

 

 小尾一が一人で、何をしているのかも。

 

 扉を開ける。

 

 青白い画面の光が、室内を照らしていた。

 

 小尾一は椅子へ座り、観測記録を確認している。

 

 画面には、高町なのはの身体を模した図。

 

 その中心に表示された魔力核。

 

 周囲へ伸びる波形。

 

 数値。

 

 記録時刻。

 

 すずかには、まだすべてを理解できない。

 

 けれど。

 

 以前よりは読める部分が増えていた。

 

 生命活動。

 

 魔力生成。

 

 回復率。

 

 休眠。

 

 すずかは小尾一の隣まで歩いた。

 

「フェイトちゃんにも、何かするつもり?」

 

 挨拶より先に聞いた。

 

 小尾一は画面から目を離さない。

 

「今のところはないよ」

 

「今のところ?」

 

「直接触れて調べてもいない相手を、器として扱うつもりはない」

 

「今日、握手しようとした」

 

「普通の挨拶だと思うけど」

 

 小尾一がマウスを動かす。

 

「誰かさんに邪魔されて、未遂に終わったけどね」

 

「小尾くんの握手は普通じゃない」

 

「高町さんとは、握手から友好的な関係が始まったよ」

 

「なのはちゃんに触れたとき、最初から調べるつもりだったでしょ」

 

 小尾一が振り返る。

 

「否定はしないよ」

 

 悪びれずに笑う。

 

 すずかは机の上へ手を置いた。

 

「フェイトちゃんには、同じことをさせない」

 

「ずいぶん警戒するね」

 

「当たり前でしょ」

 

「今日会ったばかりなのに?」

 

「今日会ったばかりでも、友達は友達だよ」

 

「なるほど」

 

 小尾一は面白そうに頷いた。

 

「友達の範囲が広がったわけだ」

 

「そういう見方をしないで」

 

「どういう見方?」

 

「私が守ろうとする人が増えたって、楽しそうに見るのをやめて」

 

 小尾一は否定しなかった。

 

 再び画面へ向き直る。

 

「学校で分かったことは多くない」

 

 表示を切り替える。

 

 昨夜の記録。

 

 なのはの内部出力が低下した時刻。

 

 魔力の流出が止まった直後。

 

 なのはの近くへ現れた、大きな魔力反応。

 

「映像は見えない。会話も聞こえない。反応の色も、術式も分からない」

 

「うん」

 

「誰が来たのか。何をしたのか。正確には何も分からない」

 

 小尾一は画面上の波形を拡大する。

 

「分かるのは、大きな魔力を持つ何者かが高町さんの近くへ現れたこと。そのあと、高町さんが運ばれ始めたことだけだ」

 

「それが、フェイトちゃんだと思ってるの?」

 

「まだ分からない」

 

「でも、疑ってる」

 

「候補に入れてもいいかもしれないと考え始めた程度だよ」

 

 別の画面。

 

 今日の学校で、小尾一が入力した観察内容。

 

 「直接解析していない以上、能力も魔力特性も分からない」

 

 小尾一は画面へ今日の記録を表示した。

 

「学校で分かったのは二つだけだ。日常より戦闘に慣れていること。それから、高町さんを自分より優先すること」

 

 すずかは黙って聞いていた。

 

 どれも。

 

 今日のフェイトを見ていれば、完全には否定できない。

 

「だからって、フェイトちゃんを調べていい理由にはならない」

 

「調べるとは言ってないよ」

 

「小尾くんは、興味を持ってる」

 

「興味くらいは持つさ」

 

 小尾一は椅子の背へ身体を預けた。

 

「高町さんが、あの子を失ったらどうなると思う?」

 

 すずかの表情が変わった。

 

「やめて」

 

「何もするとは言ってない」

 

「小尾くんは、そういう目でしか見てない」

 

「そういう目?」

 

「誰かが傷ついたとき、なのはちゃんがどうなるか。何を失えば、あの宝石が動くのか。そればっかり考えてる」

 

 小尾一は否定しなかった。

 

 否定する理由がなかった。

 

「高町さんは、自分が傷ついたくらいではセフィラを動かさなかった」

 

 画面に、昨日の記録が表示される。

 

 恐怖。

 

 痛み。

 

 敗北。

 

 内部魔力の強制的な喪失。

 

 それでも。

 

 休眠領域は動かなかった。

 

「なら、次に見るべきは、他人が傷ついたときだろう?」

 

「フェイトちゃんを実験に使わせない」

 

「直接危害を加えるつもりはないよ」

 

「今は?」

 

「今も」

 

「信じられない」

 

「自然に育っている関係を、僕が雑に壊すつもりはない」

 

 小尾一は笑った。

 

 軽い笑み。

 

 普段と変わらない。

 

「せっかく高町さんが、自分から大切なものを増やしているんだ。外から手を入れれば、観測条件が歪む」

 

「それが理由なの?」

 

「理由の一つだね」

 

「ほかには?」

 

「急ぐ必要がない」

 

 小尾一は画面へ目を戻した。

 

「フェイト・テスタロッサは同じ教室にいる。高町さんとも行動を共にする。接触する機会はいくらでもある」

 

 すずかは拳を握った。

 

「学校でできる範囲なら、フェイトちゃんに勝手なことはさせない」

 

「契約に触れない範囲で、かい?」

 

「そうだよ」

 

 契約が禁じているのは、秘密の開示と、工房や研究資料への無断干渉だ。

 

 学校で友達の隣に立ち、普通の会話へ割って入ることまでは縛っていない。

 

「それなら構わないよ」

 

 小尾一はあっさりと答えた。

 

「できる範囲でやってみればいい」

 

「止めないの?」

 

「止めたら面白くないだろう?」

 

「やっぱり、小尾くんは嫌い」

 

「知ってる」

 

 小尾一はキーボードへ指を置く。

 

 新しい観測項目を作成する。

 

 フェイト・テスタロッサ。

 

 直接解析、未実施。

 

 魔力特性、不明。

 

 能力、不明。

 

 昨夜観測された複数の魔力反応のいずれかとの同一性、不明。

 

 高町なのはとの関係性。

 

 保護行動。

 

 心理的優先度。

 

 記録すべき内容は多い。

 

「何もしないで」

 

 すずかが、もう一度言った。

 

「僕は何もしないよ」

 

「本当に?」

 

「少なくとも、今はね」

 

 小尾一はキーを押した。

 

 入力内容が保存される。

 

「壊すなら、世界が勝手に壊す」

 

 事件は、すでに進んでいる。

 

 高町なのはを襲った者。

 

 リンカーコアを集める者。

 

 八神はやての内部で増大する未知の構造。

 

 改造されている二本の杖。

 

 小尾一が手を出さなくても。

 

 世界は、勝手に人間を追い詰める。

 

 そのとき。

 

 誰が誰を守ろうとするのか。

 

 誰を失うことを恐れるのか。

 

 何を差し出してでも、取り戻そうとするのか。

 

 小尾一は、それを待てばいい。

 

 ◇

 

 同じ頃。

 

 アースラの整備区画では、作業が続いていた。

 

 前夜まで部品の状態だった新しいフレームは、すでに二つのコアを囲む形へ組み上がっていた。

 

 空のカートリッジを使った装填試験が、何度も繰り返されている。

 

 装填。

 

 固定。

 

 排出。

 

 信号が送られるたび、まだ外装のない機構が硬い作動音を返した。

 

 完成には、もう少しかかる。

 

 それでも二本の杖は、昨日より確かに新しい姿へ近づいていた。

 

 まだ完成していない。

 

 声を出すこともない。

 

 動くこともない。

 

 それでも。

 

 二つのコアは、作業台の上で静かに光っていた。

 

 その頃。

 

 フェイトは、初めて過ごした教室を思い返していた。

 

 名前を呼ばれたこと。

 

 質問されたこと。

 

 アリサに助けられたこと。

 

 すずかが本を貸すと言ってくれたこと。

 

 なのはと一緒に弁当を食べたこと。

 

 明日も会えると、教えてもらったこと。

 

 なのはは回復途中の身体を休めながら。

 

 明日も学校へ行こうと考えていた。

 

 はやては家族に囲まれながら。

 

 いつか学校へ通う自分を夢見ていた。

 

 小尾一は地下の工房で。

 

 なのはとフェイトの関係を、新たな観測項目へ加えた。

 

 それぞれが。

 

 それぞれの明日を待っている。

 

 フェイト・テスタロッサにとって、明日も会えるという約束は、まだ奇跡に近かった。

 

 そして。

 

 その明日を守るための二本の杖は、遠い艦の中で静かに生まれ変わろうとしていた。

 

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