「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
十二月二十四日。
クリスマスイブを迎えた海鳴市には、朝から細かな雪が降っていた。
地面へ届く前に溶けてしまうほど淡い雪だったが、街はそれでも聖夜の訪れを歓迎していた。
店先には赤や金の飾りが並び、街路樹には色とりどりの電飾が巻きつけられている。
海鳴大学病院の中にも、小さなクリスマスツリーが置かれていた。
八神はやての病室。
窓際の棚に置かれたツリーには、銀色の紐と赤い球。
頂上には、少し傾いた星が飾られている。
「ちょっと傾いてへん?」
「気のせいよ」
アリサ・バニングスが即答した。
「飾りつけをしたのは、ほとんどなのはなんだから」
「アリサちゃんも手伝ってくれたの」
「下の方だけね。上は届かなかったから」
「アリサも届いてなかったよ」
「フェイト!」
病室に笑い声が広がった。
ベッドの上のはやても、口元へ左手を当てて笑っている。
顔色はまだ白い。
右腕は布団の上に置かれたまま、ほとんど動かない。
それでも、数日前に見舞いへ来た時より、表情は明るく見えた。
「ほんまに、みんなで来てくれたんやなあ」
「当たり前だよ」
月村すずかが赤い包装紙の箱を差し出した。
「今日はクリスマスイブだから」
「開けてもええ?」
「もちろん」
はやては左手だけでリボンを解こうとした。
思うように指が動かず、箱が膝の上から滑りそうになる。
すずかが慌てて手を添えた。
「手伝おうか?」
「これくらいなら大丈夫や」
はやては笑っていた。
けれど、リボンを解くまでに何度も指を止めた。
右手が動かないことを、なるべく意識させないようにしている。
それが分かるから、誰も急かさなかった。
ようやく箱が開く。
中に入っていたのは、柔らかな毛糸で編まれた帽子と手袋だった。
濃い茶色の帽子。
手袋には、小さな白い花が縫いつけられている。
「かわええなあ」
はやては左手で手袋を持ち上げた。
「これ、すずかちゃんが選んでくれたん?」
「みんなで選んだんだよ」
「最初に見つけたのは、あたしだけどね」
アリサが胸を張る。
「なのはは、変な耳がついた帽子を選ぼうとしてたのよ」
「変じゃないの。かわいかったの」
「熊の耳がついてた」
フェイトが小さく付け加えた。
「はやてちゃんに似合うと思ったんだけどなあ」
「今度、それも見てみたいな」
はやては楽しそうに笑った。
「退院したら、みんなで出かける時に使ってね」
なのはが言う。
「うん」
「雪が積もったら、一緒に遊べる」
フェイトも続けた。
「雪遊びかあ」
はやては窓の外へ目を向ける。
「うち、車椅子やからな。雪道やったら、みんなに押してもらわなあかんかもしれへん」
「任せなさい」
アリサが即答する。
「四人もいるんだから、一人くらい疲れても交代できるわよ」
「アリサちゃんが一番先に疲れそうなの」
「なのは!」
「冗談だよ」
再び笑い声が上がる。
白い病室の中は、本当のクリスマスパーティーのように暖かかった。
はやては笑っていた。
なのはも。
フェイトも。
すずかも。
アリサも。
その光景を。
病院の向かい側に建つビルの屋上から、一人の男が見ていた。
◇
黒い外套。
顔を覆う仮面。
病室までの距離は、決して近くない。
それでも男の視線は、窓の向こうを正確に捉えていた。
八神はやて。
闇の書の主。
高町なのは。
フェイト・テスタロッサ。
月村すずか。
アリサ・バニングス。
それぞれの位置。
互いの関係。
周囲に存在する魔導師反応。
男はそれらを、一つずつ確認していた。
計画は、間もなく終わる。
闇の書は完成する。
守護騎士は役目を終え。
主は覚醒する。
あとは、決められた手順を進めるだけだった。
「随分、熱心に見ているね」
声は、仮面の男のすぐ後ろから聞こえた。
男が振り向こうとした瞬間、首へ細い腕が回される。
子供の腕。
そうとしか見えなかった。
しかし、そこから加えられた力は、抵抗を許すようなものではなかった。
「――っ!」
足が屋上を離れた。
仮面の男の身体は、病院の建物よりも高く、空へ向けて投げ上げられる。
屋上が遠ざかる。
病室の明かりが小さくなる。
男は空中で身を翻し、飛行魔法を起動しようとした。
その頭上に、黒い影があった。
小尾一は飛んでいたのではない。
男を投げた直後、自分も屋上を蹴り、後を追って跳び上がっていた。
小尾は男の上へ出ると、両手の指を組んだ。
腕を大きく振り上げる。
落下の勢いと全身の力を乗せ、握り合わせた両拳を男の胸元へ叩き下ろした。
「がっ――!」
鈍い衝撃が、男の身体を突き抜ける。
呼吸が潰れた。
形成されかけていた飛行魔法も、防御魔法も消える。
仮面の男は砲弾のように地上へ落下した。
病院の壁。
ビルの窓。
街路樹。
それらが一瞬で流れていく。
次の瞬間。
轟音とともに道路が陥没した。
砕けたアスファルトが跳ね上がり、亀裂が放射状に走る。
その中心へ、仮面の男の身体が沈み込んだ。
直後。
二本の黒い刃が、巻き上がった粉塵を切り裂いた。
小尾はまだ空中にいる。
両拳を振り下ろした反動を解き、そのまま左右の手から黒鍵を一本ずつ投じていた。
一本が、男の右の掌を貫く。
もう一本が、左の掌を貫く。
二本の刃は、そのまま砕けた道路へ深く食い込み、男の両手をアスファルトへ縫い止めた。
「ぐあっ……!」
仮面の男の身体が苦痛に跳ねる。
掌を貫かれ、両腕を大きく開いた姿勢で固定された。
この状態では、まともに起き上がることもできない。
遅れて、小尾が道路へ降り立った。
黒い聖職衣。
長い外套。
胸元に下がる十字架。
前世で何度も身につけた、代行者の装いだった。
「お前は……何者だ」
仮面の男が苦痛を押し殺して尋ねる。
「僕?」
小尾は首を傾げた。
答える代わりに、目の前の男から視線を外す。
何もないように見えるビルの陰を見つめ、僅かに笑った。
「その前に、君のことを聞きたいかな」
小尾が、この仮面の人物を直接目にするのは初めてだった。
だが、その背後にいる何者かの存在には、数日前から気づいていた。
だが。
海鳴市で魔力を蒐集する襲撃者が現れてから、いくつもの不自然な痕跡が残されていた。
戦闘の直前だけ、一帯から人目が消える。
管理局の捜査を誘導するように、都合のいい情報だけが残る。
なのはやフェイト。
そして、はやて。
小尾が観測対象としている少女たちの周囲で、守護騎士とも管理局とも異なる誰かが動いている。
認識を阻害し。
魔力を隠し。
必要な時だけ手を加える。
誰かが、この街で起きている事件を裏から整えている。
小尾は数日前から、その存在を調べていた。
そして。
仮面の何者かが、病院の向かいからはやてを観察することも予測していた。
一度、地面へ縫いつけられた男を見る。
もう一度、ビルの陰を見る。
「いや。君たち、と言った方がいいのかな?」
返事はない。
けれど、ビルの陰で空気が僅かに揺れた。
「はやての親戚なのかな。まあ、違うか」
小尾は肩をすくめる。
「はやてや高町さんたちの周りを、随分と嗅ぎ回っていたらしいじゃないか」
なのはとはやてへ埋め込んだセフィラを観測する中でも、小尾は何度か不自然な揺らぎを感じ取っていた。
守護騎士とも違う。
管理局とも違う。
巧妙に隠れてはいたが、誰かが彼女たちを監視している。
ならば。
その誰かが姿を現す場所を用意すればいい。
「これは僕の勘だけど」
小尾の右手に、新たな黒鍵が形成される。
「君たちは確実に、僕のプランへ不確定要素を持ち込む」
黒い刃が街灯の光を反射した。
「だから、ここで排除させてもらうね」
背後で空気が弾けた。
もう一人の仮面の男が姿を現す。
着地と同時に踏み込み、小尾の後頭部へ拳を放った。
速い。
迷いもない。
最短距離を通り、頭蓋の奥まで衝撃を通すための一撃。
小尾は振り返らない。
半歩だけ右へずれ、拳を耳の横へ通した。
同時に、相手の肘へ手を添える。
押さえ込むのではない。
進行方向を、ほんの僅かに外へずらす。
踏み込みの強さが、そのまま仮面の男の重心を崩した。
小尾の脇を通り過ぎる。
その側頭部へ、肘を放つ。
男は首を引いてかわした。
肘が仮面の表面を掠める。
小尾は逃がさない。
肘を引く動作を、そのまま掌打へ繋げる。
胸。
男は腕を挟み込み、受け止めた。
次の瞬間。
小尾の手首を掴む。
捻り上げる。
関節を固め、そのまま小尾の身体を地面へ叩きつけようとした。
小尾は逆らわなかった。
投げられる力へ合わせ、自ら跳ぶ。
空中で身体を反転させた。
踵が、仮面の側面へ迫る。
男は腕を上げて防ぐ。
鈍い音。
防いだ腕ごと仮面が揺れる。
小尾はその反動で離れ、着地と同時に二度後方へ跳んだ。
距離が開く。
仮面の男は追わなかった。
道路へ縫い止められた仲間へ向かう。
右手を固定する黒鍵を抜く。
左手。
もう一本。
「なるほど」
小尾が呟く。
「僕を追うより、仲間を助ける方を優先するんだ」
仮面の男が振り返る。
その左右から、二本の黒鍵が飛来した。
一方を身体を捻って避ける。
もう一方も頭を下げ、軌道の下へ潜り込む。
どちらも外れた。
そう見えた。
小尾が指を動かす。
通り過ぎた二本の黒鍵が、背後で弧を描いた。
魔術によって強引に曲げたわけではない。
投げる瞬間に回転と角度を与え、最初から戻ってくる軌道へ乗せていた。
「後ろ――!」
地面に倒れていた仲間の警告は間に合わなかった。
二本の黒鍵が、仮面の男の背中へ突き刺さる。
「ぐっ!」
魔力の集中が乱れた。
仮面と外套を形成していた変身魔法が崩れていく。
黒い粒子が剥がれ落ち、その内側から長い髪と、猫を思わせる耳を持つ女性が現れた。
「ロッテ!」
倒れていたもう一人が叫ぶ。
「わあお」
小尾は素直に声を上げた。
「まさかの猫人間?」
僅かに考える。
「いや。妖怪の一種かな」
「ふざけるな……!」
リーゼロッテは背中へ刺さった黒鍵を抜き捨て、倒れているリーゼアリアへ駆け寄った。
アリアの両手を固定している黒鍵を引き抜く。
右手。
左手。
二本目を抜いたところで、小尾の両手に新たな刃が形成された。
右手に三本。
左手に三本。
黒鍵の柄を、人差し指と中指。
中指と薬指。
薬指と小指。
それぞれの指の間へ一本ずつ挟み込む。
指の間から伸びた六本の刃が、扇状に広がった。
「できれば、生きたまま少し調べたかったんだけど」
小尾は心底残念そうに、ロッテの猫耳を見る。
「……悲しいけど、仕方ないかな」
姿がぶれた。
ロッテは反射的に、引き抜いた黒鍵を両手で構える。
一歩。
小尾が間合いへ入る。
六本の刃が同時に動いた。
首。
心臓。
肺。
腹部。
全てが急所。
最初の一撃を、ロッテは黒鍵で受ける。
刃と刃が衝突した。
二撃目。
手首を捻り、刃の側面へ流す。
三撃目。
受け止める。
重い。
小尾の腕は細い。
身体も小さい。
それでも、黒鍵を通して伝わる衝撃は、成人の格闘家を遥かに超えていた。
ロッテの両腕が沈む。
四撃目。
顔を狙う横薙ぎ。
身を沈めて避ける。
五撃目が脇腹を浅く裂いた。
六撃目が喉へ迫る。
「ロッテ!」
リーゼアリアが地面に倒れたまま魔法を発動した。
青いバインド。
小尾の背後。
左右。
三方向から同時に伸びる。
小尾はロッテへ向けていた左手を横へ振った。
三本の黒鍵が青い拘束へ触れる。
刃が走る。
魔力で形作られた帯が、切断された。
力で破ったのではない。
伸びてくる拘束へ、正確に刃を合わせただけ。
青い光が空中でほどける。
その一瞬。
ロッテが踏み込んだ。
アリアの手を固定していた黒鍵を逆手に持ち、小尾の喉へ突き込む。
小尾は退かなかった。
半歩。
前へ出る。
間合いを潰された黒鍵が、首の横を通過する。
同時に、小尾の足がロッテの腹部へ入った。
「がっ――!」
身体がくの字に折れる。
小尾は蹴りを止めない。
足を押し込む。
ロッテごと。
その背後にいたアリアもろとも、蹴り飛ばした。
二人の身体が道路を横切る。
向かいのビルの壁へ叩きつけられた。
外壁が砕ける。
粉塵が舞い上がった。
「げほっ……!」
ロッテは口元から流れる血を拭い、顔を上げた。
「こんな街中で、これだけ派手に――」
管理外世界の市街地。
魔法の存在を知らない住民。
秘匿を守らなければならない場所で、小尾は道路を陥没させ、建物の壁まで破壊している。
それなのに。
悲鳴がない。
誰も駆けつけてこない。
車の音も。
病院へ出入りする人間の気配もない。
信号は動いている。
窓の明かりも点いている。
遠くの店では、クリスマスの電飾が光っている。
けれど。
人だけがいない。
アリアも異変に気づいた。
壁へ手をついたまま、青ざめた顔で周囲を見回す。
「人払いなら済ませてあるよ」
小尾が平然と言った。
「どれだけ声を出しても大丈夫だ」
「……いつからだ」
「君たちが病院を見張り始める前から」
「最初から、私たちを待っていたのか」
「戦うなら、準備くらいしておくものだろう?」
自分たちが小尾を襲ったのではない。
小尾が。
最初からこの場所を戦場として整え、二人が現れるのを待っていた。
ロッテとアリアの目に、警戒とは異なる色が浮かぶ。
恐怖。
小尾はそれを眺めながら、自分の手を開閉した。
「なるほど」
先ほどから、前世以上に身体がよく動いていた。
筋力だけではない。
反応速度。
踏み込み。
黒鍵を形成する速度。
術式を起動するまでの時間。
その全てが向上している。
「疑似聖人化した肉体へ、魔術回路を経由してテレズマを循環させる」
小尾は体内を流れる力へ意識を向ける。
「単純に魔術回路へ流し込むより、ずっと効率がいいな」
聖人。
神の子と似た身体的特徴を持つことで、人の身にありながら天使や神の力の一端を振るう者。
小尾が自分の肉体へ施したものは、本物ではない。
聖人が生まれながらに持つ特徴を分析し、肉体と魂へ人工的に刻みつけた模造品。
疑似聖人。
本物には遠く及ばない、劣化した再現。
それでも。
魔術回路だけでなく、血管、神経、筋肉、骨格を一つの循環路として扱えば、肉体へ通せるテレズマの量は増える。
前世の肉体なら耐えられなかった。
今の身体は。
すでに、その力へ適応し始めている。
「小尾一」
アリアが壁へ手をつきながら立ち上がった。
「君は、何者だ」
「僕が?」
小尾は少し考えた。
答え方はいくつもある。
しかし、今の格好で名乗るなら、これが一番分かりやすい。
外套の内側へ手を入れる。
黒い上着のジッパーを掴み、ゆっくりと下ろした。
胸元が開く。
青白い光が、夜の道路へ漏れ出した。
両手から腕を通り、肩へ伸びる魔術回路。
皮膚の下で、脈打つように光っている。
胸や腹部には、円、三角、交差する直線を組み合わせた幾何学的な紋様が刻まれていた。
神の子。
聖人。
奇跡を受け入れる肉体。
その身体的特徴を人工的に再現するため、小尾が自分自身へ刻み、調整し続けてきた術式だった。
青白い光が、黒い聖職衣の内側から溢れる。
ロッテが息を呑む。
アリアの目も細くなった。
「……人間なのか」
「うーん」
小尾は少し考えた。
正確に答える意味はない。
それより。
今は、名乗りを優先したかった。
「聖堂教会所属の代行者兼魔術師、小尾一」
両手を下げる。
指の間に挟まれた六本の黒鍵が、青白い光を受けた。
「まあ、分かりやすく言うと――裏社会の掃除屋さんだ」
所属していたのは前世の話だ。
この世界に聖堂教会が存在するかも分からない。
それでも。
名乗りとしては格好よかった。
上着を開いたことにも、戦術的な意味はない。
術式を見せる必要もなかった。
ただ。
格好いいと思った。
相手がどんな反応を見せるかも、少し見てみたかった。
結果は悪くない。
「それじゃあ」
小尾は両手の黒鍵を構える。
「続きを始めようか」
先に動いたのはロッテだった。
姿勢を低くして踏み込む。
小尾の顔へ拳を放った。
小尾は右手の黒鍵で拳を外側へ流す。
ロッテは腕を引かない。
身体を回転させ、そのまま蹴りへ繋げた。
小尾の脇腹へ入る。
身体が横へ揺れた。
アリアが両手を向ける。
小尾の左右へ、青い魔法陣が出現した。
バインド。
小尾は左手の指を開く。
一本の黒鍵が飛んだ。
アリアの足を貫く。
刃はそのまま道路へ突き刺さった。
「くっ……!」
アリアの身体が傾く。
痛みで集中が途切れ、展開されかけていた魔法陣が歪んだ。
拘束の発動が遅れる。
その間に。
小尾はロッテの懐へ入った。
短い踏み込み。
地面を踏み抜く震脚。
足から腰。
腰から肩。
肩から腕。
一本の力が通る。
掌が、ロッテの胸へ沈んだ。
表面を打っただけではない。
衝撃が胸郭の内側へ抜けた。
「――っ」
ロッテの身体が浮く。
口から血が噴き出した。
肺の一部が潰れる。
呼吸をしようとするたび、胸の奥で血が泡立った。
「ご、ほっ……!」
後退しながら口元を押さえる。
指の間から血が溢れた。
小尾は追う。
ロッテは地面を蹴り、上空へ逃れようとする。
その瞬間。
黒鍵が肩を掠めた。
姿勢を崩す。
再び飛ぼうと、足へ力を込める。
今度は黒鍵が太腿へ迫る。
避ける。
飛べない。
小尾は、ロッテが飛行魔法を完成させるのを待っていない。
身体が上を向く。
膝が沈む。
重心が変わる。
その予備動作だけを見て、先に黒鍵を投げている。
「最初、から……飛ばせない、つもりか……!」
言葉の途中で、血が込み上げた。
ロッテは顔を背け、赤黒い塊を道路へ吐き出す。
「空に逃げられると、僕が困るからね」
小尾自身は飛べない。
だからこそ。
相手にも飛ばせない。
「正直、飛べる相手は面倒なんだ」
「舐め……るな!」
ロッテが踏み込む。
肺が潰れている。
呼吸をするだけで胸が痛む。
それでも、ロッテは速度を落とすまいと踏み込んだ。
拳。
小尾の頬を狙う。
避ける。
蹴り。
肩で受ける。
次。
脇腹へ拳が入る。
小尾は避けなかった。
衝撃を受ける。
痛み。
骨。
筋肉。
疑似聖人化した肉体が、どこまで耐えるかを確かめる。
同時に。
ロッテの手首を掴んだ。
引く。
体勢が前へ崩れる。
小尾の肘が、肩関節へ打ち込まれた。
「っ――!」
関節が外れる音。
ロッテは止まらない。
反対の拳を、小尾の顔へ振るう。
小尾は頭を下げた。
拳が髪を掠める。
身体を沈める。
足。
腰。
肩。
全てを連動させ、肘を打ち上げた。
胸骨へ突き刺さる。
骨が砕けた。
折れた肋骨が内側へ押し込まれ、肺と周囲の臓器へ食い込む。
「――――っ!」
ロッテの口が開く。
声は出ない。
血だけが噴き出した。
膝が崩れる。
「ロッテ!」
アリアが足を貫く黒鍵を引き抜いた。
両手を掲げる。
地面。
壁。
頭上。
十を超えるバインドが、小尾の逃げ道を塞ぐように展開された。
避ける方向を先に奪う。
青い拘束が四肢へ巻きつく。
「捕らえた!」
拘束が完成する。
ロッテは外れた腕を押さえながら、小尾から距離を取った。
呼吸するたび、口元から血が流れる。
それでも、アリアの前から退かない。
小尾は、自分の手足へ絡みつく光を眺めた。
「強度は高い」
僅かに腕を動かす。
「術式の組み方も綺麗だ」
皮膚の下を走る魔術回路が、より強い青白い光を放った。
疑似聖人として調整された肉体へ。
魔術回路を経由して、テレズマを循環させる。
腕。
脚。
背骨。
胸郭。
身体全体へ、均等に圧力を加える。
一本目のバインドが軋んだ。
二本目に亀裂が入る。
「でも、僕を固定するなら――」
全ての拘束が、同時に砕け散った。
「もう少し必要だったね」
アリアが目を見開く。
その時には。
小尾は、目の前にいた。
振り下ろされた黒鍵が、肩から胸元を深く切り裂く。
「ロ……」
背後で、ロッテの喉から潰れた音が漏れた。
アリア。
そう叫ぼうとしたのだろう。
潰れた肺。
内臓へ食い込む肋骨。
まともな声は出ない。
「ロ、ァ……!」
人間なら、その場で動けなくなる損傷だった。
それでも、戦闘用の使い魔として強化されたロッテの肉体は、辛うじて動き続けていた。
小尾とアリアの間へ割り込む。
側頭部へ蹴りを放つ。
小尾は腕で受けた。
衝撃で身体が横へ流れる。
ロッテは倒れるアリアを抱えようとした。
背中へ、黒鍵が突き刺さる。
一本目。
肺の近く。
二本目。
脇腹。
三本目。
太腿。
「ぐ……ぁ……!」
ロッテが膝をついた。
小尾は急がない。
ゆっくりと二人へ近づいていく。
アリアは肩から胸を深く切られている。
ロッテは片肺を潰され、折れた肋骨が内臓へ食い込んでいた。
即死する傷ではない。
だが。
長くは持たない。
「まだ聞きたいことがあるんだ」
小尾が黒鍵を持ち直す。
「君たちは、誰の指示で動いているのかな」
「答え……ると、思う……か」
「思っていないよ」
小尾は即答した。
「まあ、最悪、脳みそが残っていれば情報は引き出せる」
一拍。
「……引き出せたような気がする」
正確な手順は、よく思い出せない。
前世で似たようなことをした記憶はある。
おそらく、どうにかなる。
ロッテが震える手を伸ばした。
アリアの手を握る。
「アリア」
「ああ」
二人の足元に魔法陣が広がった。
小尾の目が細くなる。
即座に黒鍵を投げる。
二人の間へ。
魔法陣の中心へ。
一直線に飛ぶ。
しかし。
半歩だけ届かない。
青い光が二人の身体を包み込んだ。
ロッテは何も言わない。
血に濡れた口元を歪め、小尾から視線を外さなかった。
アリアも、姉妹の手を強く握り返している。
「次は、転移する前に殺しておこう」
青い光が弾けた。
二人の姿が消える。
あとに残ったのは、血痕と砕けた道路。
ビルの壁に走る亀裂。
地面へ落ちた仮面の欠片だけだった。
◇
小尾は仮面の欠片を拾い上げた。
表面には、まだ微かな力が残っている。
先ほどの変身。
飛行。
拘束。
転移。
どれも、小尾が知る魔術体系とは異なっていた。
「未知の術式か」
今の状態では構造を読み解けない。
転移先を追うこともできなかった。
「残念」
小尾は周囲を見回す。
道路や壁へ刺さった黒鍵を一本ずつ回収していく。
ロッテの身体へ刺さったまま転移した三本を除けば、ほとんどが残っていた。
血を払い。
刃を消す。
回収を終えると、上着のジッパーを上げ、外套を整えた。
道路から病院を見上げる。
はやての病室には、まだ明かりが点いている。
高町なのはへ直接会い、今日の状態を確かめるつもりだった。
遠隔観測だけでは分からないものもある。
表情。
声。
歩き方。
友人といる時の距離。
それらを見ることにも意味がある。
小尾は病院へ向かった。
空は飛べない。
正面玄関から入るしかなかった。
◇
夕方。
病室の扉が開いた。
「ただいま戻りました」
シャマル。
その後ろから、シグナムとヴィータが入ってくる。
「おかえり」
はやてが笑った。
「みんな、ちょうどええところに――」
言葉が止まる。
シグナム。
ヴィータ。
なのは。
フェイト。
互いの姿を見る。
誰も、すぐには動かなかった。
ヴィータの目が、なのはへ向く。
見間違えるはずがない。
以前に戦った白い魔導師。
リンカーコアの魔力を奪った相手。
なのはもヴィータを見る。
赤い騎士服ではない。
普段着。
はやての病室にいる。
家族のように。
当たり前に。
シグナムとフェイトの視線もぶつかった。
フェイトの指が僅かに動く。
けれど、バルディッシュには触れない。
ここは病室。
はやてがいる。
「なんや?」
はやてが全員を見回した。
「みんな、知り合いやったん?」
「えっと……」
なのはが答えようとする。
「前に」
ヴィータが先に口を開いた。
「ちょっと会ったことがある」
「そうなん?」
「ああ」
明らかに何かを隠している。
それでも、はやては疑わなかった。
「ほんなら、ちょうどええな」
はやては嬉しそうに笑った。
「みんなでクリスマスできるやん」
その言葉に、誰もすぐには返事ができなかった。
「ヴィータちゃん」
なのはが呼ぶ。
ヴィータの肩が僅かに揺れた。
「この前、時間がないって言ってたよね」
「……知らねえ」
ヴィータは、はやてのベッドの横へ移動した。
守るように。
なのはとの間へ入る。
「ヴィータ?」
「何でもねえよ」
はやてが首を傾げる。
なのはは、それ以上聞かなかった。
病室で戦うつもりはない。
目の前にいるはやての笑顔を、今ここで壊すこともできなかった。
廊下。
閉じかけた扉の向こう。
小尾は認識阻害で存在感を薄めたまま、病室の様子を見ていた。
なのは。
フェイト。
守護騎士。
八神はやて。
全員が、一つの病室へ集まっている。
「なるほど」
仮面の二人が見張っていた理由。
全ては分からない。
それでも。
この場にある関係が、事件の中心に近いことだけは分かった。
◇
面会時間が終わる。
「また来るね」
すずかが、はやての左手を優しく握った。
「うん。待っとる」
「ちゃんと休みなさいよ」
アリサが言う。
「退院しても、無理したらすぐ病院に戻すからね」
「アリサちゃん、厳しいなあ」
「心配してるのよ」
「分かっとるよ。ありがとう」
アリサとすずかは、なのはたちより先に病室を出た。
なのはとフェイトも続く。
シグナムたちは、見送るため廊下へ出た。
扉が閉じる。
はやての姿が見えなくなった瞬間。
空気が変わった。
「話があります」
なのはが言う。
「闇の書のことです」
ヴィータの表情が険しくなる。
「ここで、その名前を出すな」
「だったら、場所を変えて」
「話すことなんかねえ」
「あるよ」
なのはは退かなかった。
「はやてちゃんの命に関わることだから」
短い沈黙。
シグナムが、なのはとフェイトを順に見た。
「……来い」
◇
病院の前。
「じゃあね」
「また明日、学校で」
アリサとすずかが帰っていく。
なのはとフェイトは、その場に残った。
シグナムたちも、はやての病室へは戻らない。
別の方向へ歩き出す。
小尾は病院の柱の陰から、その様子を見ていた。
なのはへ声をかけるつもりだった。
だが。
彼女は守護騎士たちと共に、病院から離れていく。
「どこへ行くのかな」
小尾は誰にも聞こえない声で呟いた。
そして。
後をついていった。
◇
人のいない工業区画。
四方を建物に囲まれた、広い資材置き場。
結界が展開された。
外からは何も見えず。
何も聞こえない。
その内側で。
なのはとフェイトは、守護騎士たちと向かい合っていた。
小尾は、離れた建物の屋上から様子を見ている。
結界の構造は分からない。
それでも、内部へ入ることはできた。
認識阻害を重ね、誰の意識にも引っかからない位置へ身を置く。
「主は、闇の書の完成によって救われる」
シグナムが告げた。
「我らは、そのために必要な魔力を集めている」
「違います」
フェイトが答える。
「今の闇の書は壊れています。完成しても、はやては助からない」
「黙れ」
「完成したら、はやての身体は――」
「黙れと言っている!」
炎が走った。
シグナムがレヴァンティンを抜き、フェイトへ斬りかかる。
『Assault Form』
バルディッシュが金色の刃を形成した。
二つの武器が衝突し、火花を散らす。
一方。
ヴィータも地を蹴った。
「あと少しなんだ!」
グラーフアイゼンが、なのはへ振り下ろされる。
『Protection Powered』
桃色の障壁。
鉄槌が叩きつけられ、衝撃が地面を揺らした。
「あと少しで、はやてが助かる!」
「だから、話を聞いて!」
「聞いてる時間なんかねえんだよ!」
ヴィータは鉄槌を引き、再び振りかぶる。
なのはは障壁を維持したまま、真っ直ぐヴィータを見つめていた。
「はやてちゃんは、こんなこと望んでない!」
「はやては死なねえ!」
ヴィータの目から涙が落ちた。
「闇の書が完成すれば助かるんだ! そうじゃなきゃ……!」
声が震える。
「そうじゃなきゃ、アタシたちは何のために……!」
グラーフアイゼンを握る手に力が入る。
怒り。
焦り。
恐怖。
自分たちが行ってきた全てが、間違いだったかもしれない。
それを認めることだけはできなかった。
その時。
シャマルの手元にあった闇の書が、黒い光を放った。
「え……?」
表紙が勝手に開く。
誰も触れていない。
誰も命じていない。
それでもページは高速でめくられ、黒い文字と術式が浮かび上がっていく。
闇の書から、黒い蛇のような影が溢れ出した。
『Selbstverteidigungsbetriebssystem aktivieren(自己防衛運用システム、起動)』
無機質な声が響く。
守護騎士たちの表情が変わった。
「ナハトヴァール……」
シグナムが呟く。
『Die Erhaltung des Rittersystems aufgeben(守護騎士システムの維持を破棄)』
「待て!」
シグナムがレヴァンティンを構える。
「我らはまだ戦える!」
『Die Vollendung des Speichers hat hochste Prioritat(闇の書ストレージの完成を最優先)』
「やめろ!」
『Das Rittersystem wird geloscht(守護騎士システムを消去)』
「ふざ……けんな」
ヴィータの身体が震えた。
「ふざけんなあああっ!」
グラーフアイゼンを振りかざし、ナハトヴァールへ突撃する。
黒い蛇が鉄槌を正面から受け止めた。
鈍い音。
グラーフアイゼンの先端へ亀裂が走り、赤い破片が散る。
『Feindliche Krafte beseitigen(敵対勢力を排除)』
黒い輪が、なのはとフェイトの周囲へ現れた。
「っ!」
二人の腕と胴体が拘束される。
同時に別の輪が、シグナム、ヴィータ、シャマルへ巻きついた。
「離せ!」
ヴィータが暴れる。
黒い輪は僅かにも動かない。
三人の身体が、闇の書の前へ引き寄せられる。
『Die Sammlung der Kerne beginnen(コアの蒐集を開始)』
黒い蛇が、守護騎士たちの胸へ突き刺さった。
「ぐっ……!」
紫の光。
シグナムのリンカーコアが引き出される。
「あああっ!」
赤い光。
ヴィータ。
「はやて、ちゃん……!」
緑の光。
シャマル。
コアから魔力が吸い上げられていく。
「やめて!」
なのはが拘束の中でもがいた。
「ヴィータちゃんたちを離して!」
その時。
青い影が、ナハトヴァールへ飛び込んだ。
「でやあああっ!」
ザフィーラ。
人の姿で拳を振り抜き、黒い障壁へ叩き込む。
青い光が弾けた。
障壁は揺れない。
逆に、ザフィーラの拳から血が飛び散った。
「主のもとへは、行かせん!」
もう一度。
血に濡れた拳を振り上げる。
『Ein zuruckbleibendes System bestatigen(残存システム確認)』
黒い蛇が、ザフィーラの胸を捉えた。
「ぐっ……!」
青いリンカーコアが引き出される。
『Den Kern sammeln(コアを蒐集)』
「ザフィーラ!」
シグナムが叫ぶ。
ザフィーラは、それでも拳を止めなかった。
一撃。
もう一撃。
障壁を殴る。
指の骨が砕けても。
腕から血が流れても。
主のもとへ向かわせまいと、攻撃を続けた。
しかし、コアから魔力を奪われ、身体から力が抜けていく。
人の姿が崩れた。
青い狼へ戻り、そのまま地面へ倒れる。
シグナム。
ヴィータ。
シャマル。
ザフィーラ。
四人の身体は残っていた。
けれど、誰も動かない。
意識を失った身体が、黒い茨によって宙へ吊り上げられる。
◇
病室。
はやては窓の外を見ていた。
「遅いなあ……」
皆が戻ってこない。
面会時間は、もう終わっている。
理由の分からない不安が、胸の奥で膨らんでいた。
その足元へ、黒い魔法陣が広がる。
「なんや、これ……」
身体が宙へ浮いた。
点滴の針が腕から抜け、警告音が鳴り響く。
「待って!」
病室が黒い光に包まれた。
「シグナム!」
光が閉じる。
「ヴィータ!」
次の瞬間。
病衣姿のはやては、黒い魔法陣の中心へ落とされた。
「……え?」
最初に見えたのは、闇だった。
次に。
壁へ拘束された、なのはとフェイト。
「なのはちゃん……?」
「はやてちゃん!」
なのはが叫ぶ。
「逃げて!」
逃げる。
その意味さえ分からなかった。
はやての視線が動く。
黒い茨。
その先。
宙へ吊り下げられた四つの身体。
シグナム。
ヴィータ。
シャマル。
狼の姿に戻ったザフィーラ。
「……なんで」
誰も動かない。
「みんな」
返事はない。
「何してるん?」
はやては地面へ手をついた。
立ち上がろうとする。
力の入らない脚は、身体を支えられない。
その場へ倒れた。
「はやてちゃん!」
「来んといて!」
なのはへ向かって叫ぶ。
何が起きているか分からない。
誰が敵なのかも分からない。
ただ。
家族が倒れている。
「シグナム!」
左手だけで、地面を這う。
「ヴィータ!」
爪が地面を擦る。
「シャマル! ザフィーラ!」
誰も答えない。
「なあ!」
声が裏返る。
「返事してや!」
黒い影が、はやての前へ降り立った。
蛇。
翼。
闇の書。
人とは呼べない異形。
『Die Kerne des Rittersystems zuruckfuhren(守護騎士システムのコアを還元)』
闇の書が開く。
紫。
赤。
緑。
青。
四人から奪われた光が、ページへ吸い込まれていく。
空白が埋まる。
最後の一頁まで。
『Die Seitensammlung ist vollendet(頁蒐集、完成)』
闇の書が閉じた。
「あんた……何したん」
『Es ist Zeit zu erwachen, mein Meister(覚醒の時です、我が主)』
「そんなん、どうでもええ!」
はやては倒れたまま、ナハトヴァールを睨みつけた。
「シグナムたちに何したん!」
『Die Kerne des Rittersystems wurden gesammelt(守護騎士システムのコアを蒐集しました)』
「返して」
はやての声が震える。
「みんなを降ろして」
四人の身体は残っている。
気を失っているだけかもしれない。
まだ助けられる。
「うちの家族や」
涙が頬を伝った。
「今すぐ返して!」
『Verstanden(了解)』
「……え?」
一瞬。
はやての顔に希望が浮かんだ。
「そうや。ゆっくり降ろして」
左手を伸ばす。
「病院に連れて帰るんや。みんな、きっと目ぇ覚ますから」
黒い茨が動いた。
けれど。
四人を地面へ降ろそうとはしない。
茨の先端が鋭く尖り、守護騎士たちの胸へ向けられる。
「はやてちゃん!」
なのはが叫んだ。
「違う! それは返すんじゃない!」
『Das Rittersystem vollstandig loschen(守護騎士システムを完全抹消)』
「……え?」
『Im Kernmodus an den Meister zuruckfuhren(コアモードで主へ還元)』
「ちゃう」
はやての顔から血の気が引いた。
「そんなんちゃう」
黒い茨が、槍のように後ろへ引かれる。
「うちが言うたんは、返してって……」
はやては地面を這った。
「消せなんて言うてへん!」
『Die Erweckung des Meisters hat hochste Prioritat(主の覚醒を最優先)』
「いらん!」
はやてが叫ぶ。
「覚醒なんかいらん!」
左手を伸ばす。
届かない。
「歩けんままでええ! 病気も治らんでええ!」
黒い茨が震えた。
「死んでもええから!」
はやての爪が割れ、地面へ血が滲む。
「みんなに何もせんといて!」
『Die vollstandige Loschung ist vorbereitet(完全抹消の準備完了)』
「やめて」
はやては首を振る。
「命令や。やめて!」
『Loschen(抹消)』
「やめてええええええええっ!」
四本の茨が放たれた。
シグナム。
ヴィータ。
シャマル。
ザフィーラ。
意識を失った四人の身体を、同時に貫いた。
四人は目を覚まさない。
声もない。
茨に貫かれた身体へ亀裂のような光が走り、一斉に崩れ始めた。
「――――」
はやての口が開く。
声が出ない。
紫。
赤。
緑。
青。
家族の身体が、光の粒となって消えていく。
「いや……」
はやてが手を伸ばす。
「待って」
光が指の間を通り抜けた。
「行かんといて……!」
シグナムが消える。
シャマルが消える。
ザフィーラが消える。
最後に残ったヴィータの小さな手も、触れる直前に赤い光となって弾けた。
「ヴィータ!」
何も残らなかった。
「うちが……」
返して。
そう命令した。
ナハトヴァールは、了解と答えた。
「うちが、返してって言うたから……?」
「違うよ!」
なのはが叫ぶ。
「はやてちゃんのせいじゃない!」
届かない。
「うちが……みんなを消したんや」
『Es ist Zeit zu erwachen, mein Meister(覚醒の時です、我が主)』
その無機質な声が。
はやての中に残っていた、最後の何かを壊した。
「返して」
掠れた声。
「みんなを返して」
闇の書が開く。
黒い魔力が、はやての身体へ流れ込んだ。
同時に。
胸郭の奥。
小尾一が埋め込んだ概念結晶が、初めて明確な脈動を返した。
一度。
心臓とは異なる鼓動。
二度。
結晶内部に封じられていた術式が展開される。
これまでは、はやての体内を占有する巨大な構造――闇の書の根幹部分に圧迫され、外部位相へ伸びるはずの経路を形成できなかった。
流入口は閉じていた。
観測情報だけが途切れ途切れに返される。
起動の兆候はなかった。
けれど。
家族を失った喪失。
自分の命令で消してしまったという自責。
取り戻せるなら自分の命など要らないという願い。
感情が閾値を越えた。
セフィラの表面へ、髪の毛より細い亀裂が走る。
破損ではない。
開口。
閉ざされていた概念上の流入口が、内側から強引に押し開かれていく。
闇の書から流し込まれた膨大な魔力が、行き場を失ってはやての全身を満たす。
その圧力が。
セフィラの導管へ流れ込んだ。
起動のために設計した感情。
膨大な魔力。
未知の術式構造。
三つが重なった。
はやての身体から、青白い線が浮かび上がる。
心臓の周囲。
胸骨。
肩。
背中。
血管とも魔力光とも違う、細い光。
セフィラを起点として伸びた経路が、肉体の内側へ根を張っていく。
次の瞬間。
開いた流入口の向こうから。
この世界の魔力とは質の異なるものが、逆流した。
白い光。
だが、光と呼ぶには重すぎる。
神聖。
高圧。
人間の肉体を前提としていない霊的な密度。
小尾がテレズマと仮称していた力が、はやての内部へ流れ込む。
闇の書の黒い魔力と。
セフィラを通じて流れ込む白い圧力。
二つは混ざらない。
互いを拒絶する。
衝突し。
押し合い。
そのたびに、より大きな出力を生んでいく。
「返してよ……」
はやての身体が震えた。
黒い茨が軋む。
「うちの家族を……」
空気が歪む。
闇の書のページが、暴風に煽られたようにめくられる。
セフィラの青白い光が、はやての皮膚の下を走った。
「返してええええええええっ!」
絶叫。
黒い魔力が爆発した。
その中心を貫くように、白い光が噴き上がる。
「いやや!」
地面が割れる。
「一人は嫌や!」
なのはとフェイトの拘束が砕け散る。
「みんながおらん世界なんか嫌や!」
雪が止まった。
「うちだけ生きるんなんか嫌や!」
空が黒く染まる。
「ああああああああああああああっ!」
はやての身体が浮かび上がった。
黒。
白。
異なる二つの力が、はやてを中心に渦を巻く。
「あああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
絶叫は人の声を越えた。
闇の書の出力が、セフィラの流入口をさらに押し広げる。
広がった流入口から、より多くのテレズマが流れ込む。
増加したテレズマが、はやての肉体と魔力を強化する。
強化された肉体が、闇の書からさらに大きな出力を引き出す。
循環。
増幅。
どちらが主で。
どちらが従なのか。
すでに分からない。
◇
離れた建物の屋上。
小尾一は、吹き荒れる魔力を見上げていた。
「……は?」
口から漏れたのは。
研究者らしい分析でも。
余裕を装った冗談でもなかった。
純粋な驚きだった。
高町なのは。
小尾が主な観測対象として選んだのは、彼女だ。
強い資質。
人を守ろうとする性格。
自分の傷より、誰かを守れなかったことへ深く絶望する精神性。
最初から。
なのはを中心に計画を組み立てていた。
八神はやては違う。
内部に巨大な未知の構造を抱えていた。
セフィラの観測すら安定しない。
起動するかどうかも分からない。
比較対象。
未知構造との干渉を見るための、第二の観測例。
その程度の位置づけだった。
少なくとも。
なのはより先に、自発的な起動へ到達するとは考えていなかった。
「セフィラが……開いた?」
黒い魔力の中に、青白い光が走っている。
見間違えるはずがない。
小尾自身が設計した接続経路。
天使的位相へ伸びる、概念上の導管。
けれど。
想定した起動ではない。
セフィラ単体でもない。
はやての内部にある未知の構造が、起動を阻害するどころか。
増幅装置として働いている。
「そんな使い方は、設定していない」
思わず、一歩前へ出た。
笑みはない。
目を逸らすこともできない。
「高町さんではなく、八神さんが先に?」
胸の奥が熱くなる。
歓喜。
恐怖。
理解できない現象を前にした興奮。
それらが混ざる。
「待って」
小尾は、誰にともなく呟いた。
「これは、僕の想定した起動じゃない」
闇の書の黒。
セフィラの白。
二つが。
一人の少女の中で、互いを喰らいながら膨れ上がっていく。
「どちらが主導権を取る?」
問いに答える者はいない。
その答えは。
今。
小尾の目の前で、形になろうとしていた。