「力が欲しいか?」と言いたくて!   作:桃たろす

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反転

 

 

 アースラ艦内に、警報音が響き渡った。

 

 転送ポートの中央で、青白い光が不規則に明滅する。

 

「転送反応!? 識別コードは――」

 

 管制員が最後まで言い切るより早く、二つの人影が床へ投げ出された。

 

 鈍い音が、続けて二度。

 

 白い床へ、赤黒い血が広がっていく。

 

「アリア! ロッテ!」

 

 真っ先に駆け込んだクロノが、思わず声を上げた。

 

 二人とも、ひどい有様だった。

 

 防護服は裂け、全身に打撲と裂傷が刻まれている。

 

 胸部や腹部には、黒い柄を持つ細長い刃が何本も突き刺さったままだ。

 

 中でもロッテの損傷は深刻だった。

 

 呼吸は浅く、意識もない。

 

 口元から溢れた血が頬を濡らし、わずかに痙攣する指先だけが、彼女がまだ生きていることを示していた。

 

「医療班を! 急いで!」

 

 リンディの声が艦内へ飛ぶ。

 

「転送ポートを封鎖! 刺さっているものには触れないで! 術式か毒物が仕込まれている可能性があります!」

 

 エイミィが端末を操作しながら叫んだ。

 

 医療スタッフが担架を押して駆け込み、二人の容態を確認する。

 

「ロッテさん、血圧低下! 胸部に複数の異物!」

 

「アリアさんも内臓損傷の疑い! ただし呼吸は維持されています!」

 

「異物は固定したまま運んで! 抜けば出血が増えるわ!」

 

 慌ただしい声が飛び交う中、クロノはアリアの傍らに膝をついた。

 

「アリア、聞こえるか」

 

 返事はない。

 

「何があった。誰にやられたんだ」

 

 そう問いかけた直後。

 

 アリアの瞼が、わずかに震えた。

 

 血に濡れた唇が動く。

 

「……お、び……」

 

「何?」

 

 クロノは顔を寄せた。

 

「もう一度言ってくれ」

 

「小尾……一……」

 

 掠れた声だった。

 

 アリアとロッテは、海鳴市で行動する関係者について事前に調査している。

 

 なのはやフェイトの周辺にいる人間についても、最低限の情報は把握していた。

 

 それでも。

 

 ただの同級生として記録されていた少年の名が、この場で出るとは誰も考えていなかった。

 

「アリア!」

 

「意識を失っただけです! 下がってください!」

 

 医療スタッフに押し退けられ、クロノは立ち上がった。

 

「エイミィ」

 

「うん。もう検索してる」

 

 エイミィは既に端末へ名前を入力していた。

 

 モニターへ、少年の簡素な身元情報が表示される。

 

 小尾一。

 

 海鳴市在住。

 

 私立聖祥大附属小学校。

 

 高町なのは、フェイト・テスタロッサと同じクラスに所属。

 

 管理局の犯罪者データベースには該当なし。

 

 魔導師登録もない。

 

「なのはちゃんたちのクラスメイト……」

 

 エイミィが呟く。

 

「ただの小学生、というわけではなさそうだな」

 

 クロノは床に残された血痕へ視線を落とした。

 

 その近く。

 

 医療班が回収作業へ入る前の黒い刃から、通常の魔力とは異なる微弱な反応が検出されていた。

 

 魔力ではない。

 

 少なくとも、管理局が分類できる術式反応ではなかった。

 

 それでも。

 

 何かが残っている。

 

「この刃の残留反応を、現地のサーチャーへ照合できるか」

 

「やってみる」

 

 エイミィの指が端末の上を走る。

 

 海鳴市各地へ展開している観測用サーチャーが、未知の反応を検索し始める。

 

 闇の書の監視用に設置されたものだ。

 

 個人を探すには向いていない。

 

 だが。

 

 同じ反応を放つ物体が複数残されているなら、話は別だった。

 

「一致した」

 

 探し始めて、数十秒。

 

 市街地の一画で、複数の反応が重なった。

 

 サーチャー映像が切り替わる。

 

 ビルの屋上。

 

 その縁から、一人の少年が地上へ降りる。

 

 黒い外套。

 

 白い肌。

 

 年齢に似合わない、落ち着いた動作。

 

 少年――小尾一は、路上へ散らばった黒い刃を一本ずつ回収していた。

 

「拡大するよ」

 

 映像が鮮明になる。

 

 小尾が黒い剣の柄を握る。

 

 直後。

 

 刃の部分だけが灰のように崩れ、跡形もなく消えた。

 

「魔力反応は?」

 

「ほとんどない」

 

 エイミィの指が止まる。

 

「違う。ないんじゃない。私たちの観測系では、うまく拾えてないんだ」

 

「デバイスは」

 

「確認できない。詠唱補助もなし。それなのに、物質化した刃を消してる」

 

 リンディは黙って映像を見つめていた。

 

 画面の中では、小尾が何事かを呟いている。

 

 音声は拾えていない。

 

 だが、変化はすぐに現れた。

 

 それまで不自然なほど静まり返っていた街へ、遠くから車の走行音が戻ってくる。

 

 交差点の向こうを人影が横切った。

 

 閉ざされていた店の扉が開き、通行人が歩道へ出てくる。

 

「人払い……?」

 

 クロノが眉をひそめた。

 

「街の一画から、一般人を遠ざけていたのか」

 

「広範囲の認識へ干渉していた可能性が高いね。しかも今、解除した」

 

 エイミィの声から軽さが消える。

 

 小尾は最後の黒鍵を拾い上げると、その刃を消した。

 

 そして何事もなかったかのように、服についた埃を払う。

 

 血に濡れた二人の女性を瀕死に追い込んだ人物には、とても見えなかった。

 

 そのとき。

 

 別回線から、緊急通信が入った。

 

『クロノ君!』

 

 なのはの声だった。

 

 通信映像が開く。

 

 激しく揺れる画面の向こうに、フェイトの顔も映っている。

 

 二人とも、表情が強張っていた。

 

『闇の書の主が分かったの!』

 

「誰だ」

 

『はやてちゃん……八神はやてちゃんが、闇の書の主だったの!』

 

 艦橋の空気が凍りついた。

 

「位置情報を送ってくれ。すぐに援護を――」

 

『待って! 様子がおかしい!』

 

 通信の向こうで、強い閃光が走った。

 

 映像が乱れる。

 

 同時に。

 

 魔力観測値が急上昇し、警告表示が一斉に浮かび上がった。

 

「闇の書の完成反応!?」

 

「違う!」

 

 エイミィが、複数の観測情報を並べる。

 

「数値が合わない!」

 

「どういうことだ」

 

「観測できる魔力反応は、闇の書のものだけ。新しい魔力が外から流れ込んだ形跡はない」

 

 それなのに。

 

 闇の書の内部出力は、上昇を続けている。

 

 供給源がない。

 

 魔力収支が成立していない。

 

「見えない何かが、内部で闇の書を押し上げてる……?」

 

 エイミィが息を呑む。

 

 計器には映らない。

 

 けれど。

 

 結果だけが、明確に現れている。

 

「小尾一も近くにいる」

 

 サーチャー映像が切り替わる。

 

 小尾は既に、黒鍵の回収を終えていた。

 

 だが、その場を離れてはいない。

 

 遠くで立ち上る光の柱を、無言で見つめている。

 

 その顔には。

 

 驚愕。

 

 歓喜。

 

 そして。

 

 微かな恐怖が混じっていた。

 

 まるで。

 

 待ち望んでいた実験結果が、自らの予測を越えて動き始めたことに気づいた研究者のように。

 

「彼は何かを知っている」

 

 クロノが言った。

 

「アリアとロッテを襲っただけじゃない。闇の書の異変にも関係している可能性がある」

 

 リンディは数秒だけ考えた。

 

 そして。

 

 決断する。

 

「武装隊一個中隊を現地へ展開します」

 

「艦長」

 

「半数は闇の書への対応と、なのはさん、フェイトさんの援護へ」

 

 リンディは指示を続ける。

 

「残る隊員はクロノ執務官の指揮下で、小尾一の確保に当たってください」

 

「了解」

 

「相手は子供に見えます。しかし、アリアとロッテをあの状態にした人物です」

 

 モニターの中。

 

 小尾は、今も光の柱を眺めている。

 

「外見で判断しないでください。確保を最優先。可能な限り、非殺傷で」

 

     ◇

 

 銀髪の女が、夜空に浮かんでいた。

 

 背には、巨大な黒い翼。

 

 周囲には膨大な魔力が渦巻き、大気そのものが低く唸っている。

 

 なのはとフェイトは、既に彼女との戦闘へ入っていた。

 

 桜色と金色の砲撃が夜空を裂く。

 

 銀髪の女はそれらを正面から受け止め。

 

 あるいは。

 

 黒い障壁で弾き返していた。

 

 地上から見上げていた小尾は、珍しく困惑していた。

 

「……ん?」

 

 観測術式が示す八神はやての位置と、銀髪の女の位置は完全に重なっている。

 

 ならば。

 

 あれが、セフィラの発芽した姿なのか。

 

 外見だけを見れば、確かに天使に近い。

 

 いや。

 

 黒い翼を考えれば、堕天使か。

 

 だが。

 

 おかしい。

 

 あの女からは、ごくわずかにテレズマを感じる。

 

 ほんの残滓。

 

 表面へ漏れ出しているものだけ。

 

 闇の書と呼ばれる巨大な構造に覆われ、その大半は内側へ押し込められている。

 

 それでも。

 

 性質は読み取れた。

 

 固定。

 

 保存。

 

 終端。

 

 その性質が対応する存在についても、おおよその見当はついている。

 

 確証はない。

 

 だから。

 

 口には出さない。

 

 だが、量がおかしい。

 

 八神はやての肉体だけで保持できる規模ではない。

 

 過去の被験者であれば。

 

 とうに破裂している。

 

「器が、もう一つあるのか」

 

 小尾は顎へ指を当てた。

 

 八神はやての内部に存在する巨大な構造。

 

 あれが。

 

 流入したテレズマを受け止めている。

 

 本人の器だけではない。

 

 別の貯蔵領域へ流れ込むことで、崩壊を免れている。

 

 だとすれば。

 

 どこまで溜め込める。

 

 どの段階で限界を迎える。

 

 あるいは。

 

 限界そのものを越えれば。

 

 人間のままでは扱えなかった量を、別の存在として安定させることができるのか。

 

 観察したい。

 

 できれば解剖したい。

 

 生きたまま内部構造を確認できれば、なおいい。

 

 そんなことを考えていたときだった。

 

 頭上に、幾重もの転移光が走った。

 

 転送された武装隊は、空中で二手へ分かれた。

 

 大半は、光の柱へ。

 

 なのはとフェイトの援護へ向かう。

 

 残る一隊だけが。

 

 小尾を包囲した。

 

 数は十数名。

 

 全員が杖に似た道具を構え、宙に浮かんでいる。

 

 その中央には、黒い防護服を纏った少年がいた。

 

「小尾一だな」

 

 少年――クロノが呼びかける。

 

 小尾は一度だけ彼を見上げた。

 

 知らない顔だった。

 

「管理外世界における無許可の魔法行使。広域認識阻害。未登録の質量兵器所持及び使用」

 

 クロノは杖を構えたまま告げる。

 

「そして、管理局関係者二名に対する重大な傷害容疑がある」

 

「ふうん」

 

「時空管理局執務官、クロノ・ハラオウンだ。詳しい事情を聞かせてもらう」

 

 小尾は興味を失ったように、視線を逸らした。

 

 空では。

 

 銀髪の女となのはたちの戦いが続いている。

 

 今は。

 

 そちらのほうが重要だった。

 

「悪いけど」

 

 小尾は片手を振った。

 

 犬でも追い払うような仕草だった。

 

「今は君たちに構っている暇がないんだ。あっちへ行ってくれないかな」

 

「拒否するなら、強制的に拘束する」

 

 クロノの声が低くなる。

 

 同時に。

 

 包囲していた局員の一人が、拘束魔法の準備へ入った。

 

 杖先へ魔力が収束する。

 

 腕の角度。

 

 視線。

 

 足の位置。

 

 アリアとロッテが、同じ術式を使う直前にも見せていた動作。

 

 拘束される。

 

 そうなれば。

 

 八神はやての観測を続けられない。

 

 小尾の右手が動く。

 

 思考より早く、黒鍵が生まれた。

 

 そして。

 

 投げた。

 

「避けろ!」

 

 クロノの警告より。

 

 黒鍵のほうが速かった。

 

 黒い刃が、局員の首を横から貫通する。

 

 防護服を破り。

 

 肉と骨を断ち。

 

 反対側へ突き抜けた。

 

 局員の身体から力が抜ける。

 

 杖が手を離れる。

 

 落下しかけた身体を、隣にいた局員が抱き止めた。

 

 一瞬。

 

 誰も動かなかった。

 

「……え?」

 

 小尾も、目を丸くしていた。

 

 アリアとロッテなら。

 

 あれくらいは避けた。

 

 少なくとも、防いだ。

 

 だから。

 

 同じ程度に投げただけだった。

 

「避けられないのか」

 

 心底意外そうな声だった。

 

 次の瞬間。

 

 クロノの表情が変わった。

 

「全員、距離を取れ!」

 

 局員たちが一斉に散開する。

 

「拘束術式を多重展開! 近づくな!」

 

 四方から魔力弾が放たれる。

 

 小尾は黒鍵を両手に作り出した。

 

 一発目を切る。

 

 二発目を弾く。

 

 三発目を身体を捻ってかわし。

 

 四発目を黒鍵の腹で受け流す。

 

 だが。

 

 数が違いすぎた。

 

 敵は空にいる。

 

 こちらは地上。

 

 足場も。

 

 射線も。

 

 圧倒的に不利だ。

 

 黒鍵で切り払っても、次の弾が来る。

 

「これは面倒だな」

 

 小尾は路地へ逃げ込むことも考えた。

 

 人払いを張り直す。

 

 建物を盾にする。

 

 そうすれば。

 

 何人かを殺し、包囲を突破できる可能性はある。

 

 だが。

 

 その間に、銀髪の女を見失う。

 

 それは困る。

 

 小尾は魔力弾を切り払いながら、目の前の集団について考えた。

 

 彼らは、小尾の名前を知っていた。

 

 迷うことなく、この場所へ現れた。

 

 人払いの内側で起きたことまで、ある程度把握している。

 

 しかも。

 

 八神はやてが変貌した直後に、これほどの人数を送り込んできた。

 

 偶然ではない。

 

 目の前の者たちとは別に。

 

 どこかで、この一帯を見ている者がいる。

 

「なるほど」

 

 小尾の口元に、薄い笑みが浮かんだ。

 

 何らかの遠見。

 

 使い魔。

 

 あるいは。

 

 この世界特有の観測術式。

 

 いずれにせよ。

 

 この集団についていけば、観測者のいる場所へ近づける可能性がある。

 

 そこには。

 

 銀髪の女となのはたちの戦いを追跡している何かがあるかもしれない。

 

 当然。

 

 危険はある。

 

 身体を調べられる。

 

 前世由来の術式を解析される。

 

 工房へ辿り着かれる可能性もある。

 

 だが。

 

 未知の観測技術。

 

 飛行術式。

 

 転移術式。

 

 闇の書に関する情報。

 

 得られるものは多い。

 

 そして。

 

 本当に不都合になれば。

 

 そのとき考えればいい。

 

 小尾は黒鍵を消した。

 

 そして。

 

 両手を上げる。

 

「投降するよ」

 

 攻撃が止まった。

 

 クロノは警戒を解かない。

 

「地面に膝をつけ。妙な動きをするな」

 

「はいはい」

 

 小尾は素直に膝をついた。

 

 四肢へ、青い拘束光が絡みつく。

 

 腕。

 

 足首。

 

 胴体。

 

 複数のバインドが重ねられ、指一本まともに動かせなくなる。

 

「随分と慎重だね」

 

「君が言えることじゃない」

 

 クロノの声は冷たかった。

 

 首を貫かれた局員は、仲間に抱えられている。

 

 既に反応はない。

 

 小尾はその姿を一瞥する。

 

 罪悪感はなかった。

 

 ただ。

 

 基準を誤ったことだけは、認めなければならない。

 

「次からは、もう少し弱く投げよう」

 

「何だと?」

 

「独り言だよ」

 

 転送光が、小尾の身体を包み込む。

 

 視界が白く染まる直前。

 

 小尾は、もう一度だけ夜空を見上げた。

 

     ◇

 

 銀髪の女の周囲で、魔力が爆発した。

 

「フェイトちゃん!」

 

「分かってる!」

 

 なのはとフェイトが左右へ散る。

 

 黒い砲撃が二人の間を通り抜け、遥か後方の雲を消し飛ばした。

 

 圧倒的だった。

 

 闇の書に蓄えられた膨大な魔力。

 

 そして。

 

 管制人格が持つ、戦闘能力。

 

 銀髪の女は、その全てを解放し、二人を排除しようとしている。

 

 だが。

 

 異変は突然起きた。

 

 銀髪の女の翼が、大きく揺らいだ。

 

「……ぐっ」

 

 身体が傾く。

 

 展開していた魔法陣の一つが、音を立てて砕けた。

 

「どうしたの……?」

 

 なのはが攻撃を止める。

 

 銀髪の女は、胸元を押さえた。

 

 内部から何かを引き裂かれているように、顔を歪める。

 

「これは……何だ……」

 

 背中の黒翼へ、白い亀裂が走った。

 

 闇色の羽根の隙間から、淡い光が漏れ出す。

 

 それは。

 

 なのはたちの知る魔力光とは、どこか違っていた。

 

 温かく。

 

 それでいて。

 

 触れてはいけないものを思わせる、異質な輝き。

 

 女の周囲を満たしていた膨大な魔力が、急激に低下していく。

 

「出力が落ちてる」

 

 フェイトが呟く。

 

 銀髪の女は、再び飛び上がろうとした。

 

 しかし。

 

 翼が動かない。

 

 身体を支える力が失われ、そのまま地上へ落下する。

 

「危ない!」

 

 なのはが追いかけようとする。

 

 だが。

 

 銀髪の女は、残った魔力で障壁を張り、接近を拒んだ。

 

 地面へ激突する寸前。

 

 わずかに落下速度が緩む。

 

 それでも。

 

 衝撃は大きかった。

 

 土煙が上がる。

 

 なのはとフェイトは、少し離れた場所へ降り立った。

 

 二人とも。

 

 攻撃できずにいた。

 

 土煙の中で。

 

 銀髪の女が、這うように身体を起こす。

 

 黒い翼が痙攣する。

 

 白い亀裂は、既に背中から首筋、頬へと広がっていた。

 

「やめて……」

 

 なのはが一歩近づく。

 

「はやてちゃん、聞こえるなら返事をして!」

 

「近づくな!」

 

 女が叫んだ。

 

 周囲へ魔力が吹き荒れる。

 

 しかし。

 

 その威力は、先ほどまでとは比べものにならないほど弱い。

 

「主を……我が主を、侵すな……!」

 

「私たちは何もしてない!」

 

 フェイトが答える。

 

「その身体の中に、はやてがいるんだろう! 私たちは、はやてを助けたいだけだ!」

 

「嘘をつけ……!」

 

 銀髪の女は胸元を掻きむしった。

 

 内側から溢れ出す白い光が、彼女の指の隙間から漏れる。

 

 闇の書の魔力。

 

 そして。

 

 なのはたちには正体の分からない、別の何か。

 

 二つの力が。

 

 一つの身体の中で争っているように見えた。

 

「こんなものは……我が主の中にはなかった……」

 

 女の声が震える。

 

「何だ、これは……誰が……!」

 

 黒い翼が、大きく裂けた。

 

 白い光の中から、新たな羽根の輪郭が現れる。

 

 なのはとフェイトは息を呑んだ。

 

 銀髪の女は二人を睨みつける。

 

 怒り。

 

 苦痛。

 

 そして。

 

 明確な恐怖を浮かべながら。

 

「貴様ら……」

 

 大地が軋む。

 

「闇の書に、何をしたぁぁぁぁッ!」

 

 絶叫と同時に。

 

 白と黒の光が、夜を引き裂いた。

 

     ◇

 

 音のない世界だった。

 

 空はなく。

 

 大地もなく。

 

 どこまでも白く、曖昧な空間だけが広がっている。

 

 その中央に。

 

 一脚の車椅子が置かれていた。

 

 八神はやては、そこに座って眠っていた。

 

 膝の上に両手を重ね、静かに俯いている。

 

 穏やかな寝顔だった。

 

 けれど。

 

 閉じられた瞼の端には、乾ききらない涙の跡が残されていた。

 

「……ん……」

 

 指先が、わずかに動く。

 

 はやての瞼が震え、ゆっくりと開かれた。

 

「ここ……」

 

 顔を上げる。

 

 見えるのは、どこまでも続く白だけだった。

 

「どこや……?」

 

 声が虚空へ溶けていく。

 

 返事はない。

 

 物音一つない。

 

 はやては不安そうに、周囲を見回した。

 

「シグナム……?」

 

 呼びかける。

 

「ヴィータ……シャマル……ザフィーラ……?」

 

 誰も答えない。

 

 自分の声だけが、空虚な世界へ小さく響く。

 

「みんな……どこにおるん……?」

 

 胸の奥に、冷たいものが落ちた。

 

 忘れていた記憶が、一つずつ浮かび上がってくる。

 

 闇の書。

 

 蒐集。

 

 自分の身体を蝕んでいた呪い。

 

 自分を助けるために戦っていた家族。

 

 そして。

 

 光の中へ消えていった、四人の姿。

 

「……私のせいや」

 

 はやての手が、膝の上で固く握られた。

 

「私が病気やったから……」

 

 知らなかった。

 

 何も命じていなかった。

 

 それでも。

 

 彼女たちが戦った理由は、自分だった。

 

 自分を助けようとして。

 

 自分を救おうとして。

 

 傷ついて。

 

 罪を犯して。

 

 最後には。

 

 消えてしまった。

 

「私がおらんかったら……」

 

 声が震える。

 

「私なんか、おらんかったら、みんなは……」

 

「いいえ」

 

 静かな声が響いた。

 

「それは違います」

 

 はやてが顔を上げる。

 

 白い空間の向こうから、一人の女性が歩いてきていた。

 

 長い銀色の髪。

 

 黒い衣。

 

 凛とした佇まい。

 

 見たことのない女性だった。

 

 それでも。

 

 はやてには分かった。

 

 彼女が。

 

 自分のずっと近くにいた存在なのだと。

 

「あんたが……闇の書なん?」

 

 女性は車椅子の前まで歩み寄ると、はやてと視線を合わせるように膝をついた。

 

「はい」

 

 穏やかな声だった。

 

「私は、闇の書の管制人格です」

 

 管制人格として眠りながら。

 

 守護騎士たちを通じて、この少女を見てきた。

 

 その声を。

 

 その温もりを。

 

 家族へ向ける笑顔を。

 

 知っていた。

 

「ほんなら……」

 

 はやての目に涙が浮かぶ。

 

「あんたが、みんなを消したん……?」

 

 女性は答えなかった。

 

 偽りで。

 

 主を慰めることはできなかった。

 

 はやては唇を噛んだ。

 

「返して」

 

 掠れた声だった。

 

「みんなを返してや」

 

「主はやて……」

 

「返して!」

 

 はやては車椅子の肘掛けを強く掴んだ。

 

「シグナムも、ヴィータも、シャマルも、ザフィーラも! みんな私の家族なんや!」

 

 涙が頬を伝う。

 

「病気なんか治らんでもよかった! 歩けんままでもよかった! みんなと一緒におれたら、それでよかったのに!」

 

「申し訳ありません」

 

「謝ってほしいんやない!」

 

 はやての叫びが、白い世界へ響いた。

 

「私は、みんなに帰ってきてほしいだけや……!」

 

 女性は、泣き続ける少女を見つめた。

 

「主はやて」

 

 その声には。

 

 責める響きも。

 

 諭すような硬さもなかった。

 

 ただ。

 

 少女の心へ届くことを願う、静かな温かさだけがあった。

 

「守護騎士たちは、あなたを恨んではおりません」

 

「でも、私のために……」

 

「彼女たちは、あなたと出会えたことを喜んでいました」

 

 はやての言葉を包み込むように、女性は続ける。

 

「あなたから名を与えられたこと。家へ迎えられたこと。同じ食卓を囲み、共に笑い、家族として過ごせたこと」

 

 女性の口元に、かすかな微笑が浮かんだ。

 

「それらは全て、彼女たちが自ら選び、大切にした時間です」

 

「せやけど……」

 

「あなたは、彼女たちを不幸にしたのではありません」

 

 女性は、はっきりと告げた。

 

「あなたは、彼女たちに幸福を与えました」

 

 はやての瞳が揺れる。

 

「……ほんまに?」

 

「はい」

 

 迷いのない返答だった。

 

「彼女たちは、あなたを愛していました」

 

 そのとき。

 

 何もなかった白い空間に、一輪の花が咲いた。

 

 細く伸びた茎。

 

 放射状に開く、白い花弁。

 

 白い彼岸花だった。

 

 女性が振り返る。

 

 その瞳に、初めて鋭い警戒が浮かんだ。

 

「これは……」

 

 彼岸花は、はやての心が生み出したものではなかった。

 

 悲しみの象徴でも。

 

 死者を悼むための花でもない。

 

 外から侵入した異物。

 

 闇の書の術式にも。

 

 少女の記憶にも存在しなかった力が、精神世界へ根を下ろした姿だった。

 

 二輪目が咲く。

 

 三輪目。

 

 四輪目。

 

 花は音もなく増えていく。

 

 はやてたちを取り囲み。

 

 その向こうへ。

 

 さらに向こうへと広がっていく。

 

 女性には。

 

 それが魔力ではないことだけが分かった。

 

 闇の書が蒐集してきた、いかなる術式とも異なる。

 

 解析できない。

 

 干渉できない。

 

 白い空間の奥で。

 

 巨大な黒い影が蠢いた。

 

 無数の鎖にも。

 

 獣の肢にも。

 

 分厚い壁にも見えるもの。

 

 ナハトヴァール。

 

 闇の書の自己防衛機構が、侵入してきた力の前へ立ち塞がる。

 

 白い根を押し返し。

 

 切り裂き。

 

 呑み込もうとする。

 

 だが。

 

 白い根は止まらない。

 

 黒い防壁へ食い込み。

 

 少しずつ。

 

 少しずつ。

 

 その向こうへ伸びていく。

 

「リインフォース……?」

 

 その名を。

 

 はやてが口にした。

 

 女性が振り返る。

 

「今……何と?」

 

「あんたの名前や」

 

 はやては、不安そうに彼女を見つめた。

 

「リインフォース。違うん?」

 

 なぜ。

 

 その名が浮かんだのか。

 

 はやて自身にも分からなかった。

 

 けれど。

 

 それ以外の名など、あり得ないように思えた。

 

 女性は、わずかに目を見開いた。

 

 まだ。

 

 与えられていないはずの名。

 

 闇の書の深層にすら、存在していなかった名称。

 

 それなのに。

 

 その名は。

 

 遥か昔から自分のために存在していたように感じられた。

 

「……いいえ」

 

 女性は静かに微笑んだ。

 

「それが、私の名です」

 

 白い彼岸花が、リインフォースの足元で咲いた。

 

 揺れた花弁が、黒い衣へ触れる。

 

 触れた箇所から。

 

 衣の輪郭が白く霞んだ。

 

「リインフォース!」

 

 はやてが悲鳴を上げる。

 

 リインフォースは一瞬だけ、自らの身体へ目を落とした。

 

 侵食は既に。

 

 管制人格である彼女の内側へ入り込んでいる。

 

 止めることは難しい。

 

 ナハトヴァールも。

 

 闇の書の防御術式も。

 

 未知の力を押し留めることができない。

 

 このままでは。

 

 闇の書のシステムは、順番に停止していく。

 

 リインフォースの視線が。

 

 はやての背後へ向けられた。

 

 白い世界の奥。

 

 崩れ始めた術式の連なりへ。

 

 権限。

 

 接続。

 

 維持機構。

 

 一つずつ。

 

 停止している。

 

 今はまだ。

 

 自分は、主はやてへ接続されている。

 

 だが。

 

 このままシステムの停止が続けば。

 

 必ず。

 

 管理者権限が途切れる瞬間が来る。

 

 それは。

 

 消滅の瞬間であると同時に。

 

 鎖が外れる、唯一の瞬間でもあった。

 

 リインフォースは、はやてへ視線を戻した。

 

 何も告げない。

 

 成功する保証はない。

 

 失敗すれば。

 

 本当に消える。

 

 そして。

 

 内部から主を救うことは、もうできない。

 

 ならば。

 

 外へ。

 

 この身が保つ限り。

 

 持ち出せるものを、全て持って。

 

 主から自分を切り離す。

 

 外側から。

 

 主を救うために。

 

 だが。

 

 今のはやてに、その意図を理解させることはできない。

 

 少女が知るのは。

 

 また。

 

 大切な者が、自分の前から消えるということだけだった。

 

「主はやて」

 

 リインフォースは立ち上がると、車椅子に座ったはやての身体を強く抱きしめた。

 

「……え?」

 

 銀色の髪が、はやての頬へ触れる。

 

 細い背中へ腕が回される。

 

 はやてを決して孤独へ渡すまいとするような。

 

 強く。

 

 それでいて。

 

 優しい抱擁だった。

 

「ご安心ください」

 

 リインフォースは、はやての頭を胸元へ抱いた。

 

「私は、ここにおります」

 

「でも……消えかけてるやんか……」

 

「今は、まだここにおります」

 

「今だけやろ……?」

 

 はやての声が震えた。

 

「その言い方、嫌や。どっか行ってまうみたいやんか」

 

 リインフォースは答えなかった。

 

 その代わり。

 

 回した腕へ力を込める。

 

 白い彼岸花が増えていく。

 

 花は二人の足元を覆い。

 

 遠くへ。

 

 遠くへ。

 

 やがて。

 

 水平線の彼方まで、何もなかった世界を埋め尽くした。

 

「主はやて。私の話を、よく聞いてください」

 

「嫌や」

 

 はやてはリインフォースの衣を掴み、胸元へ顔を押しつけた。

 

「聞きたない」

 

「守護騎士たちとの時間を、後悔しないでください」

 

「できへんよ……」

 

「彼女たちを愛したことを、間違いだったと思わないでください」

 

「でも、みんな消えた……」

 

「それでも」

 

 リインフォースは、はやての髪を優しく撫でた。

 

「あなたから与えられた幸福は、確かに彼女たちの中にありました」

 

 その手も既に。

 

 指先から白く透け始めている。

 

「あなたは、誰かを不幸にするために生まれたのではありません」

 

「そんなん……」

 

「守護騎士たちへ幸福を与えたように、あなたは誰かを幸せにできる方です」

 

「やめてや……」

 

 はやてが顔を上げる。

 

 涙で濡れた瞳が、リインフォースを見つめていた。

 

「そんなん、どうでもええ!」

 

 リインフォースの胸元を掴んだ手が震える。

 

「優しくなんかなくてもええ! ええ子やなくてもええ!」

 

 涙が、次々と溢れる。

 

「せやから、消えんといてや……!」

 

「主はやて……」

 

「私の家族になってや!」

 

 はやては泣きながら叫んだ。

 

「みんなの代わりやなくてええ! リインフォースは、リインフォースとして、私のそばにおってや!」

 

 リインフォースの瞳が、優しく細められた。

 

 その表情は。

 

 泣いているようにも。

 

 心から笑っているようにも見えた。

 

「ありがとうございます」

 

「私は、ありがとうなんて言うてへん……!」

 

「私を、リインフォースと呼んでくださって」

 

 リインフォースは、はやての額へ自らの額を重ねた。

 

「私に名を与えてくださって、ありがとうございます」

 

「嫌や……」

 

「あなたにそう呼んでいただけたことを、私は決して忘れません」

 

「忘れへんとか、そんなん言わんといて……」

 

 はやては、リインフォースの背へ必死に腕を回した。

 

「これからも何回でも呼ぶから……。朝も、昼も、夜も呼ぶから……」

 

「はい」

 

「せやから、ここにおってや……」

 

「はい」

 

「ずっと一緒におるって言うてや……」

 

 リインフォースの返事は、すぐには返ってこなかった。

 

 はやての身体を抱きしめる腕が、わずかに震えた。

 

「……今の私には、それをお約束できません」

 

「嫌や!」

 

 白い花弁が、一枚。

 

 舞い上がった。

 

 それに続くように。

 

 辺り一面の彼岸花が揺れ始める。

 

 一輪。

 

 また一輪。

 

 白い花々が根元からほどけ、無数の花弁となって空へ浮かび上がった。

 

 花弁は静かに渦を巻き。

 

 やがて。

 

 世界の果てから押し寄せる、巨大な白い流れへ変わっていく。

 

 音はない。

 

 けれど。

 

 逃げ場はなかった。

 

 白い濁流は、精神世界の全てを呑み込みながら、二人のもとへ迫ってくる。

 

 リインフォースは。

 

 はやてを守るように、強く抱きしめた。

 

 背を向けることも。

 

 立ち塞がることもしなかった。

 

 ただ。

 

 はやての顔が白い流れを見なくて済むように。

 

 自らの胸元へ抱き込んだ。

 

「主はやて」

 

「嫌や……」

 

「あなたの未来が、幸福でありますように」

 

「言わんといて……」

 

「あなたが、誰かを愛したことを、後悔せずにいられますように」

 

「嫌や……」

 

「リインフォース……」

 

 白い濁流が、二人へ届いた。

 

 リインフォースの脚が呑み込まれる。

 

 既に侵食されていた下半身が、白い花弁となって崩れていく。

 

 それでも。

 

 彼女は、はやてを抱きしめたままだった。

 

「消えんといて……」

 

「どうか、生きてください」

 

「いかんといて……」

 

 白が腰まで迫る。

 

 リインフォースの身体が、少しずつ軽くなる。

 

 けれど。

 

 はやての背に回された腕だけは、離れなかった。

 

「リインフォースまで消えたら、私……」

 

 はやては、消えかけた身体へ縋りつく。

 

「私、また一人ぼっちになってまう……!」

 

「あなたは、一人ではありません」

 

「嘘や!」

 

「今はそう思えなくても――」

 

「今、誰もおらんやんか!」

 

 リインフォースの言葉が止まる。

 

 腕の中で泣き叫ぶ少女へ。

 

 何を言えば届くのか。

 

 どんな言葉を残せば。

 

 この子は、絶望に呑まれずに済むのか。

 

 リインフォースには分からなかった。

 

 だから。

 

 ただ。

 

 抱きしめた。

 

 消えゆく腕へ、残された全ての力を込めて。

 

 その一方で。

 

 意識の底では、停止していくシステムを数えていた。

 

 一つ。

 

 また一つ。

 

 防御機構が沈黙する。

 

 保存領域の一部が切り離される。

 

 管理者権限が揺らぐ。

 

 まだ。

 

 今ではない。

 

 もう少し。

 

 あと。

 

 少し。

 

「私は、あなたの幸福を願っています」

 

「私は、リインフォースにおってほしいんや……!」

 

「はい」

 

「それが私の幸せなんや!」

 

「はい……」

 

 リインフォースの声が、初めて震えた。

 

「私も、あなたのおそばにいたかった」

 

 はやてが息を呑む。

 

「あなたの成長を見守りたかった」

 

 白が胸元まで迫る。

 

「あなたと同じ食卓を囲みたかった」

 

 リインフォースの腕が、肘の辺りから透け始める。

 

「あなたが笑う姿を、もっと見ていたかった」

 

「ほんなら……!」

 

「このままでは、それは叶いません」

 

「嫌や!」

 

「だから」

 

 リインフォースは、はやての髪へ頬を寄せた。

 

「私は、諦めません」

 

 はやてには。

 

 その言葉の意味が分からなかった。

 

「どういう……」

 

「主はやて」

 

 リインフォースは答えない。

 

 代わりに。

 

 少女を抱きしめる腕へ、最後の力を込めた。

 

「私を名で呼んでくださって、本当にありがとうございました」

 

 白い流れが、リインフォースの肩を呑み込む。

 

 銀色の髪がほどけ、白い花弁へ変わっていく。

 

 はやてを抱いていた腕から、力が失われ始める。

 

「嫌や、離さん!」

 

 はやては必死に、リインフォースへしがみついた。

 

 けれど。

 

 抱きしめた身体は、既に実体を失っていた。

 

 指の隙間から。

 

 光となって零れていく。

 

 そのとき。

 

 闇の書の奥で。

 

 最後の管理者権限が、一瞬だけ停止した。

 

 鎖が。

 

 外れた。

 

 リインフォースは。

 

 残された術式。

 

 保存領域。

 

 守護騎士たちの情報。

 

 持ち出せるものへ、ありったけの手を伸ばした。

 

 白い濁流に呑まれながら。

 

 自らの存在を。

 

 主はやてから、切り離す。

 

 外へ。

 

 現実世界へ。

 

 けれど。

 

 はやてには、それが見えない。

 

「主はやて」

 

 最後に残った顔が、穏やかに微笑んだ。

 

 そこに恐怖はなかった。

 

 未練も。

 

 自らの消滅を嘆く悲しみさえも。

 

 あるのは。

 

 ただ一人の少女の幸せを願う。

 

 限りない慈愛だけだった。

 

「あなたに、祝福を」

 

「リインフォース!」

 

 最後の腕が消える。

 

 温もりが失われる。

 

 銀色の髪も。

 

 黒い衣も。

 

 はやてを抱きしめていた全てが、白い花弁となって散っていく。

 

 その中で。

 

 ほんのわずかな光だけが。

 

 白い濁流に逆らうように、世界の外側へ流れていった。

 

 涙に滲んだはやての目には。

 

 それを見分けることはできなかった。

 

 残された微笑も、濁流の中へ溶け。

 

 リインフォースは。

 

 はやての前から、消えた。

 

「……リインフォース?」

 

 はやての腕は、誰もいない空間を抱きしめていた。

 

「なあ……」

 

 返事はない。

 

「まだ、ここにおるんやろ……?」

 

 腕の中に残っていたはずの温もりも、少しずつ消えていく。

 

「もう出てきてええで……」

 

 何も現れない。

 

「返事してや……」

 

 白い彼岸花が揺れている。

 

 はやての悲しみに応えるためではない。

 

 少女の心など意に介さず。

 

 ただ。

 

 侵食を続けるために。

 

「いかんといてって……言うたやん……」

 

 はやての腕が、力なく落ちる。

 

 また。

 

 失った。

 

 父と母を失った。

 

 シグナムたちを失った。

 

 そして今度は。

 

 リインフォースまで失った。

 

 大切だと思った者は。

 

 家族になりたいと願った者は。

 

 いつも。

 

 自分を残して消えてしまう。

 

「また……一人や」

 

 はやての胸の奥で、セフィラが震えた。

 

 白い力は。

 

 今も流れ込んでいる。

 

 性質は変わらない。

 

 属性も。

 

 用途も。

 

 最初から定められたまま。

 

 けれど。

 

 はやての心は変わっていた。

 

 喪失。

 

 孤独。

 

 愛した者に置いていかれる恐怖。

 

 それら全てが。

 

 埋め込まれた結晶へ流れ込んでいく。

 

「もう、嫌や……」

 

 はやては俯いた。

 

 水平線の彼方まで。

 

 白い彼岸花が咲き誇っている。

 

 どこを見ても白。

 

 逃げ場もなく。

 

 誰の姿もなく。

 

 世界の中心にいるのは。

 

 はやて一人だけだった。

 

「みんな、おらんようになった……」

 

 返事はない。

 

「リインフォースも、おらんようになった……」

 

 涙が膝へ落ちる。

 

「また誰かを好きになっても……また私を置いて、消えてまう……」

 

 白い彼岸花が、静かに揺れる。

 

「そんなら……」

 

 喉が詰まった。

 

 息を吸おうとしても、胸が動かない。

 

 はやては両手で、自分の胸元を押さえた。

 

 もう。

 

 耐えられなかった。

 

 これ以上、失いたくなかった。

 

 けれど。

 

 失わない方法など分からない。

 

 泣いて。

 

 縋って。

ff

 いかないでと叫んでも。

 

 誰も。

 

 残ってはくれなかった。

 

「もう……」

 

 声にならない。

 

 はやては何度も息を吸い。

 

 喉の奥から。

 

 言葉を絞り出した。

 

「もう、一人は……いやや……」

 

 その瞬間。

 

 セフィラが反転した。

 

 それまで開かれていた流入口が。

 

 閉じる。

 

 白い力の流入が。

 

 途切れる。

 

 そして。

 

 同じ形を。

 

 上下へ裏返した先へ。

 

 新たな流入口が開いた。

 

 はやての胸元から、黒い波紋が広がった。

 

 最初に。

 

 車椅子のすぐそばで咲いていた白い彼岸花が揺れる。

 

 その根元から。

 

 黒い花が生えた。

 

 白を染めたのではない。

 

 押し退け。

 

 呑み込み。

 

 同じ場所を奪うように。

 

 黒い彼岸花が咲いていく。

 

 その隣へ。

 

 さらに隣へ。

 

 黒は円を描きながら広がる。

 

 一重。

 

 二重。

 

 三重。

 

 水面へ落ちた雫が波紋を生むように。

 

 はやてを中心として、黒い花が精神世界を駆け抜けていく。

 

 白い彼岸花が。

 

 次々と、黒へ置き換えられる。

 

 花弁が。

 

 茎が。

 

 根が。

 

 先ほどまで流れ込んでいたものとは。

 

 別の力。

 

 別の性質。

 

 別の属性。

 

 固定された。

 

 新たなテレズマが。

 

 開かれた流入口から、一斉にはやてへ流れ込む。

 

 黒い波は止まらない。

 

 白い花畑を呑み込み。

 

 遠くへ。

 

 さらに遠くへ。

 

 やがて。

 

 水平線の彼方へ到達する。

 

 最後の白い花が。

 

 黒い花に置き換わった。

 

 世界から。

 

 白が消えた。

 

 残されたのは。

 

 果てのない、黒い彼岸花の海。

 

 黒い花々が、風もないのに激しく揺れた。

 

 花弁が舞い上がり、空を覆う。

 

 悲しみが。

 

 孤独が。

 

 失いたくないという願いが。

 

 少女の中で。

 

 歪んだ祈りへ変わっていく。

 

 はやてがゆっくりと、顔を上げた。

 

 涙は止まっていない。

 

 けれど。

 

 その瞳の温かさは。

 

 もはや、人間の尺度では測れないものへ変わっていた。

 

「もう……誰にも、いかせへん」

 

 黒い彼岸花がざわめく。

 

 

 

 失いたくない。

 

 もう二度と。

 

 大切な誰かが消えていくのを、見たくない。

 

 置いていかれる悲しみを、味わいたくない。

 

 胸を引き裂かれるような痛みに、傷つきたくない。

 

 だったら。

 

 なくしてしまえばいい。

 

 別れを生むものを。

 

 喪失を生むものを。

 

 人を傷つけ。

 

 悲しませ。

 

 大切なものを奪っていく、その原因を。

 

 全て。

 

 なくしてしまえばいい。

 

 失うことがなければ。

 

 誰も、悲しまない。

 

 傷つくことがなければ。

 

 誰も、苦しまない。

 

 消えてしまうものがなければ。

 

 誰も、一人にはならない。

 

 それなら。

 

 世界を。

 

 誰も失わずに済む形へ、変えてしまえばいい。

 

 黒い彼岸花が。

 

 風もないのに、激しく揺れた。

 

 それは。

 

 大切なものを奪われた少女の願いだった。

 

 そして同時に。

 

 悲しみの存在そのものを許さない、神の祈りでもあった。

 

「もう、ええよ」

 

 はやては、自分の身体を抱きしめた。

 

 涙は、まだ止まらない。

 

「こんなに悲しい思いをせなあかん世界なんて……」

 

 声が震える。

 

 それでも。

 

 その言葉だけは、はっきりとしていた。

 

「うちが、全部終わらせたる」

 

 世界中の黒い彼岸花が。

 

 少女へ向けて、一斉に頭を垂れた。

 

 その中心で。

 

 八神はやては。

 

 失われた温もりを求めるように、たった一人で涙を流しながら。

 

 悲しみのない世界を。

 

 願った。

 

 

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