「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
白。
視界を埋め尽くしていた純白の光が、不意に脈打った。
「っ……!」
リインフォースの身体が大きく震える。
胸を押さえ、その場に膝をついた。
「ぐっ……あ……!」
苦悶の声。
全身から溢れていた神々しい白い光が、まるで暴走したように噴き出し始める。
「闇の書さん!」
なのはが思わず駆け寄ろうとした、その瞬間だった。
「来るな!」
鋭い声が飛ぶ。
なのはは反射的に足を止めた。
膝をついたリインフォースの周囲で、純白の光が激しく渦巻いている。
白い髪。
黒い衣。
先ほどまで闇の書の管制人格として話していた姿が、膨れ上がる光の中へ少しずつ隠れていく。
「どうしたの!?」
返事はない。
リインフォースは胸元を押さえたまま、苦しげに身を縮めている。
光は彼女の身体から溢れている。
けれど、それが彼女自身の力なのか。
それとも、その内側にある別の何かによるものなのか。
なのはには分からなかった。
『Unknown energy reaction』
レイジングハートの声が響く。
『Unable to analyze』
「レイジングハートにも分からないの?」
『Yes, Master』
隣では、フェイトがバルディッシュを構えていた。
だが、彼女も動けない。
攻撃すべき相手がいるわけではない。
魔法を止めればいいのかさえ分からない。
ただ、目の前で白い光が強くなり続けている。
「これ……どうなってるの……?」
フェイトが呟いた。
次の瞬間。
ドクン、と。
重い音が響いた。
耳で聞いた音ではない。
空気を通して伝わったわけでもない。
胸の奥を直接叩かれたような衝撃に、なのはとフェイトの身体が同時に揺れる。
白い光の表面へ、大きな波紋が広がった。
ドクン。
二度目。
光がさらに膨れ上がる。
リインフォースの姿は、もう見えない。
白い輝きが球形に集まり、その内側にあるものを完全に覆い隠していた。
その中心で。
小さな黒い点が生まれた。
「……何?」
なのはが目を凝らす。
見間違いではない。
純白の光の奥に、染みのような黒が浮かんでいる。
それはゆっくりと広がった。
白い光を外から塗り潰すのではなく、その内部から滲み出すように。
黒は少しずつ面積を増やしていく。
白と黒の境界が揺れ、混じり合い、やがて白かった光そのものが黒い輝きへ変わり始めた。
「フェイトちゃん……」
「うん」
二人は互いに近づき、デバイスを構え直す。
何が起きているのか。
何が現れようとしているのか。
何一つ分からない。
それでも。
あの中にいるのが、八神はやてであることだけは分かっていた。
白が消えていく。
半分。
さらに半分。
最後まで残っていた白い輝きも、黒の中へ沈んだ。
そこに現れたのは、闇ではなかった。
漆黒の光。
確かに輝いているのに、周囲を照らさない。
むしろ、近くにある光まで吸い込んでいるように見える。
漆黒の光は急速に収縮していった。
内側にある身体へまとわりつき。
覆い。
固まり。
一つの殻を作り上げる。
黒い繭。
あるいは。
何かが生まれるための卵。
なのはが息を呑む。
「はやてちゃん……?」
返事はない。
漆黒の殻の表面に、細い亀裂が走った。
そこから漏れたのも、黒い光だった。
二本。
三本。
亀裂は枝分かれしながら、殻全体へ広がっていく。
そして。
殻が砕けた。
音はなかった。
黒い破片が外側へ弾け、夜空を埋める。
一つ一つの欠片は地上へ落ちることなく、空中で黒い粒子へ変わり、溶けるように消えていった。
その中心に。
一人の少女が浮かんでいる。
八神はやてだった。
髪の色も。
幼い顔立ちも。
身体も変わっていない。
けれど。
身に纏うものだけが、なのはたちの知るはやてとは違っていた。
黒と深い青を基調としたドレス。
胸元と腹部は大きく開き、身体へ沿う布地が細い輪郭を包んでいる。
腰から広がるスカートは幾重にも重なり、花弁を思わせる裾が風もない空で静かに揺れていた。
両腕を覆う長い手袋。
腿まで届く黒いストッキング。
肩や腰には、羽根とも棘ともつかない鋭い装飾が添えられている。
そして。
頭からは深い青のヴェールが垂れ、いつもと変わらない髪を覆っていた。
魔導師の防護服とも。
騎士の甲冑とも違う。
それはまるで。
神へ捧げられる花嫁衣装を、夜の色だけで染め上げたような姿だった。
さらに。
はやての頭上には、漆黒の輪が浮かんでいた。
一枚の円環ではない。
複数の黒い輪。
その内側に幾何学模様が重なり、互いに異なる速度で静かに回転している。
魔法陣とは違う。
デバイスでもない。
何のために存在しているのかさえ分からない。
それでも。
天使の輪。
なのはの脳裏には、その言葉が浮かんだ。
はやての瞼が、ゆっくりと開く。
青い瞳。
いつもと同じ色だった。
なのはやフェイトへ笑いかけていた瞳。
守護騎士たちを、家族として見つめていた瞳。
けれど今は、その奥にある感情が読み取れない。
怒っているようには見えなかった。
苦しんでいるようにも。
悲しんでいるようにも見えない。
ただ静かに。
はやては、なのはたちを見ていた。
「はやてちゃん……?」
なのはが呼びかける。
返事はない。
なのははレイジングハートを下ろさないまま、少しだけ前へ出た。
「私だよ。なのはだよ」
はやての瞳が、僅かに動いた。
「フェイトちゃんもいるよ」
もう一歩。
「一緒に帰ろう?」
そのとき。
はやての背後にある空間へ、黒い線が走った。
一本。
その隣に、もう一本。
裂け目のように開いた黒い空間から、何かが滑り出してくる。
それは、漆黒の羽根に見えた。
だが、生き物の羽根ではない。
一枚ごとに硬質な輪郭を持ち、表面には細い光の筋が走っている。
羽根の形をした端末。
漆黒の羽根を思わせる羽状端末は、音もなくはやての背後へ浮かんだ。
一枚。
二枚。
十枚。
出現は止まらない。
はやての周囲。
頭上。
足元。
何もなかった空間から、次々と羽状端末が現れる。
それらは翼を作らなかった。
はやての背へ並ぶこともない。
一枚一枚が独立して浮遊し、はやてを中心とした広い範囲へ散っていく。
「なのは」
フェイトの声が低くなる。
「うん」
何かがおかしい。
はやては動いていない。
命令もしていない。
なのはたちへ腕を向けてもいない。
けれど。
無数の羽状端末が、一斉になのはとフェイトへ先端を向けた。
まるで。
はやてへ近づいた二人を、自動的に敵と判断したように。
「待って!」
なのはが叫ぶ。
「私たちは、はやてちゃんを傷つけるつもりなんて――」
羽状端末が動いた。
はやての周囲から離れ、空中の一点へ集まっていく。
互いに衝突することなく、幾重にも重なり、円形の構造を作り上げる。
はやての頭上に浮かぶ漆黒の輪は、何も変わっていない。
静かに回転し続けている。
その前方で。
羽状端末だけが、新たな形へ組み上がっていく。
外周へ並ぶ漆黒の羽根。
内側へ向けられた無数の先端。
中心に空いた巨大な空洞。
王冠にも似た形状だった。
それが何であるか。
名前を知らなくても分かる。
砲撃のための形。
無数の先端に、黒い光が生まれた。
フェイトの顔から、血の気が引く。
理屈ではなかった。
魔導師として培ってきた感覚のすべてが、目の前のものを拒絶していた。
「あれは……駄目!」
フェイトが叫ぶ。
充填する時間はなかった。
魔力が集まる音も。
発射を知らせる前兆もない。
黒い光が灯った次の瞬間には、すべての羽状端末から砲撃が放たれていた。
何十。
何百。
無数の光線が空中で交差し、一つへ収束する。
黒い光柱。
《砲冠(アーティリフ)》。
その名を知る者は、まだ誰もいない。
「レイジングハート!」
『Protection!』
「バルディッシュ!」
『Defenser!』
避けられない。
なのはとフェイトは、ほぼ同時に防御障壁を展開した。
桜色の障壁。
金色の障壁。
二枚を重ね、その後ろへさらに障壁を追加する。
全力だった。
二人が今、展開できる限りの防御。
黒い光柱が迫る。
桜色の障壁へ触れた。
その瞬間。
障壁が消えた。
音もなかった。
亀裂も。
軋みも。
押し込まれることさえない。
黒い光に触れた場所から、桜色の障壁が一瞬で失われる。
「え……?」
金色の障壁も消える。
続く障壁も。
一枚。
また一枚。
触れた端から、何の抵抗もできずに消失していく。
黒い光が、なのはとフェイトの眼前へ迫った。
その瞬間。
二人の身体が掻き消えた。
景色が切り替わる。
なのはとフェイトは、射線から大きく離れた上空へ転移していた。
「っ……!」
なのはが息を吸う。
隣にはフェイトがいる。
そして。
二人の背後に。
黒衣の女性が浮かんでいた。
つい先ほどまで、はやてと一つの存在として重なっていた管制人格。
その身体は薄く、ところどころが透けている。
完全に分離できたわけではない。
本体から切り離された、僅かな機能と人格だけで形を保っている。
それでも。
確かに、そこにいた。
「闇の書さん!」
「話は後だ」
管制人格は短く答えた。
視線は、はやてから離れない。
標的を失った黒い光柱は止まらなかった。
そのまま夜空を貫き、周囲一帯を覆っていた封鎖結界へ直撃する。
結界が淡く光った。
ほんの一瞬。
それだけだった。
罅は入らない。
砕ける音もない。
黒い光へ触れた部分から、封鎖結界そのものが消えていく。
巨大な結界面が一息に失われ、空へ開いた穴は瞬く間に全体へ広がった。
一撃。
それだけで。
封鎖結界が消滅する。
なおも止まらない光柱は、大地へ落ちた。
山を削り。
森を呑み込み。
地面を深く抉って、遥か彼方まで突き進む。
遅れて。
轟音が夜空を揺らした。
衝撃波が押し寄せる。
なのはとフェイトは障壁を張り、辛うじてその場へ留まった。
光が通過した場所に。
森は残っていなかった。
岩も。
土も。
燃え上がる木々さえない。
見渡す限り、黒く焼けた大地が広がっている。
砲撃の通過した空間も、今なお歪んでいた。
熱による揺らぎではない。
景色そのものが、柔らかな布のように波打っている。
「そんな……」
フェイトの声が震えた。
なのはは答えられない。
視線の先。
はやては、最初に現れた位置から動いていなかった。
腕も上げていない。
表情も変わらない。
砲撃を放ったのは、周囲に浮かぶ羽状端末。
はやて自身は。
ただ、そこにいるだけだった。
「我が主……」
管制人格が呟いた。
その声に滲んでいたのは、恐怖ではない。
深い悲しみ。
そして。
決意だった。
「二人とも、ここにいろ」
「何をするの?」
なのはが問う。
だが、管制人格は答えなかった。
その姿が消える。
直後。
はやての真上に現れた。
周囲の羽状端末が、即座に反応する。
何十枚もの漆黒の羽根が管制人格へ向き、先端へ光を灯した。
「拘束術式、全種展開」
管制人格の前で、一冊の本が開いた。
かつて闇の書と呼ばれていたもの。
だが、既に完全な本体ではない。
残された機能。
切り離された術式。
保存領域。
それらを掻き集めた、僅かな残存システム。
ページが高速でめくれる。
はやての周囲へ、無数の魔法陣が展開された。
頭上。
足元。
左右。
前後。
逃げ道を塞ぐように重なっていく。
羽状端末から黒い光線が放たれる。
だが、それより早く、光の鎖が空間を走った。
漆黒の羽根へ絡みつき。
砲撃の軌道を逸らし。
次々と動きを封じていく。
さらに多くの鎖が、はやての周囲へ殺到した。
転移阻害。
空間固定。
魔力封鎖。
存在拘束。
停止。
封印。
闇の書が蓄積してきた、ありとあらゆる拘束術式。
本来なら同時に扱えないものまで、管制人格は強引に重ねていく。
羽状端末が動いた。
無数の漆黒の羽根がはやての周囲へ集まり、壁を形成する。
それでも。
魔法陣は止まらない。
漆黒の壁の外側から何重にも重なり、はやてと羽状端末をまとめて包み込んでいく。
最後に。
巨大な封印陣が閉じた。
はやての姿が見えなくなる。
漆黒の輪も。
無数の羽状端末も。
すべてが、重なり合う術式の奥へ封じ込められた。
静寂が戻った。
けれど。
長くは続かなかった。
封印の隙間から、黒い光が漏れ始める。
ドクン。
封印全体が脈打った。
魔法陣が揺れる。
光の鎖が軋む。
管制人格は開いた本へ手を添え、術式へさらに力を注いだ。
「我が主は、まだあの力に馴染んでいない」
なのはとフェイトを振り返る。
「だから今なら封じ込められる」
再び。
ドクン、と。
黒い鼓動が響く。
「もって三分だ」
言葉と同時に、通信魔法陣が開いた。
青白い画面。
アースラとの回線が接続される。
『なのはちゃん! フェイトちゃん!』
エイミィの声が飛び込んでくる。
『二人とも無事!?』
「うん! 闇の書の管制人格が助けてくれたの!」
通信画面の向こう。
アースラの艦橋では、警報音が鳴り続けていた。
無数の観測画面が開き、互いに矛盾した数値を表示している。
『対象の魔力値、計測上限を突破!』
『待って、別系統では反応が消えています!』
『座標が定まりません!』
『同一反応を複数地点で確認!』
『封鎖結界、完全消失!』
エイミィの指が端末の上を走る。
「おかしい……全部のセンサーが違う結果を出してる」
「機器の故障は?」
リンディが問う。
「自己診断は正常です!」
計器は壊れていない。
それなのに。
ある装置は、はやての魔力を計測不能なほど巨大だと示し。
別の装置は、そこに何の反応も存在しないと示している。
位置情報も定まらない。
封印の中心。
焦土となった大地。
上空。
さらに、まったく無関係な複数の座標。
どれもが同じ対象を指していた。
クロノは、乱れ続ける数値から視線を外した。
通信画面の中にいる管制人格を見る。
「君は、こちらの味方なのか」
管制人格は真っ直ぐにクロノを見返した。
「私は時空管理局の味方ではない」
迷いのない答え。
「私は、我が主――八神はやての味方だ」
なのはとフェイトが彼女を見る。
「お前たちを救ったのも、我が主を救うため。それ以上の理由はない」
「それでも」
なのはが言う。
「助けてくれて、ありがとう」
管制人格の瞳が僅かに揺れた。
けれど。
今は言葉を返さない。
封印が再び脈打つ。
クロノが続けた。
「八神はやてに何が起きた」
「分からない」
管制人格は答えた。
「我が主の内部に発生した力を、闇の書の既存情報では識別できない」
「闇の書にも?」
フェイトが問う。
「あの力は、我が主だけではなく、闇の書の内部へも侵入した」
管制人格の声は静かだった。
「演算領域。保存領域。防衛機構。管理者権限。侵入された箇所から、機能が一つずつ停止していった」
「では、君はどうやって外へ出た?」
クロノが問う。
管制人格は、一瞬だけ目を伏せた。
「ナハトが時間を作った」
その名前に反応したのは。
クロノ。
リンディ。
そしてユーノだった。
「ナハト……?」
なのはが、聞き慣れない名前を口にする。
「ナハトヴァール。闇の書の自動防衛プログラムだ」
クロノが手短に答えた。
「長年の破損と改変で異常化し、今の闇の書を作った元凶でもある」
なのはの脳裏に、守護騎士たちをまとめて拘束していた黒い影が浮かぶ。
「あれが……」
「奴は、侵入してきた力を迎撃した」
管制人格は封印を見つめたまま告げた。
「倒せなかった。止めることもできなかった。それでも、数秒だけ侵入を遅らせた」
ほんの数秒。
だが。
闇の書の全機能を一方的に奪っていった未知の力を相手に。
ナハトヴァールは、数秒もの時間を奪い返した。
「その間に私は、侵食されていない機能を本体から切り離した」
残された術式。
保存領域。
守護騎士たちの情報。
そして。
管制人格としての自分自身。
「それらを切り離し、本体の外へ脱出した」
「ナハトヴァールは、今も中に?」
リンディが問う。
「分からない」
管制人格は静かに答えた。
「今も抵抗しているのか。既に機能を失ったのか。切り離された私には確認できない」
ただ。
一つだけ。
「奴がいなければ、私はここにはいない」
その言葉に込められたものを。
誰も軽く受け取ることはできなかった。
「八神はやてさんを元へ戻す方法は?」
リンディが問う。
「今の私には分からない」
残り時間は、既に二分を切っている。
封印の隙間から漏れる黒い光が、少しずつ強くなっていた。
クロノは僅かに考えた後、艦橋の一角へ視線を向けた。
「手掛かりがあるとすれば、こいつだ」
通信映像が切り替わる。
そこに映った少年を見て、なのはとフェイトが目を見開いた。
「小尾君!?」
小尾は、椅子に座らされていた。
両腕。
両脚。
胴体。
複数の魔力拘束と物理拘束によって、ほとんど身動きが取れない状態になっている。
それでも。
本人は不満そうでも、怯えてもいなかった。
「どうしてアースラにいるの?」
なのはの問いに。
小尾は、少し困ったように首を傾げた。
「いやー、そんな大したことしてないんだけどね」
「局員を一人殺害しておいて、よくそんなことが言えるな」
クロノが低い声で告げる。
小尾は、不思議そうに瞬きをした。
「僕は、彼を殺そうとしたわけじゃないよ」
「何?」
「近付いてきたから、退けただけ」
まるで、それで説明が終わったと言わんばかりだった。
「それで彼は死んだんだぞ!」
「そうだね」
小尾は素直に頷く。
「でも、それは結果だろ?」
「……何?」
「僕は彼を退けた。その結果、彼は死んだ」
少しだけ考え、首を傾げる。
「その二つは、同じことなの?」
悪意はない。
罪悪感もない。
本当に分からないのだ。
クロノの握るS2Uが、微かに震えた。
「お前がやったことだ」
「そうだね」
「なら、お前が殺したんだ」
「なるほど」
小尾は、初めて知ったことを覚えるように頷いた。
「君たちは、そうやって考えるんだね」
クロノの眉間に、深い皺が刻まれた。
なのはは二人の会話に戸惑いながらも、今は別のことを優先した。
「小尾君」
真剣な声で呼びかける。
「はやてちゃんに何が起きたのか、知ってる?」
小尾は通信画面へ顔を向けた。
封印術式。
その隙間から漏れ出す黒い光。
軋む鎖。
消えかけている魔法陣。
そこに映るものをしばらく眺めた後。
小尾は軽く答えた。
「まあ、途中まではね」
「途中まで?」
ユーノが問い返す。
「僕が知っているのは、あれが黒くなる前までだ」
小尾は何でもないことのように言う。
「その先については、僕も初めて見る」
そして。
その口元が、ゆっくりと持ち上がった。
「クク……」
「小尾君?」
「クククク……!」
笑いは徐々に大きくなり。
ついには艦橋全体へ響き渡った。
「フハハハハハハ!」
クロノがデバイスを構える。
「何がおかしい」
「いや」
小尾は封印の向こうを眺めたまま、笑いを抑える。
「今日は本当に気分がいい」
その瞬間。
彼を拘束していた魔力の帯が弾けた。
物理拘束が外れ。
幾重にも重ねられていた拘束術式が崩れ落ちる。
「なっ――」
艦橋を囲んでいた武装局員たちが、一斉にデバイスを構えた。
クロノもS2Uを向ける。
だが、小尾はそのすべてを気に留めることなく、ゆっくりと立ち上がった。
小尾はゆっくりと立ち上がった。
力を込めた様子はない。
ただ。
最初から拘束など存在しなかったかのように。
片腕を大きく広げ。
もう片方の手で顔の半分を覆う。
大仰に。
芝居がかった仕草で。
宣言した。
「控えろ、人類」
指の隙間から、封印されたはやてを見つめる。
「神が顕現したぞ」
「ふざけるな!」
クロノの怒声が飛ぶ。
小尾は満足そうに腕を下ろした。
「いやぁ、一度言ってみたかったんだ」
「何?」
「念願だったんだよ。こういう機会は、そう何度も来ないからね」
「貴様……!」
「まあまあ」
小尾は楽しげに笑う。
「内容まで冗談というわけじゃない」
ユーノは、小尾の悪ふざけを聞き流さなかった。
「神というのは、どういう意味だ」
「そのままの意味さ」
小尾はあっさりと答えた。
「少なくとも、最初に起きていたことなら僕にも説明できる」
「最初?」
「八神はやてへ流れ込んでいた力」
小尾は一本の指を立てた。
「テレズマ」
誰も知らない言葉。
続けて。
「セフィロト。第一のセフィラ、ケテル。神名、エヘイエー」
小尾の視線が細められる。
「対応する守護天使は、メタトロン」
「天使……?」
クロノが眉を寄せた。
「そんなものが、実在するとでも言うのか」
「君たちが知らないものは存在しないのかい?」
小尾は愉快そうに問い返す。
「知らないことと、存在しないことは違うだろう?」
リンディが二人の間へ入った。
「エイミィ。今出た単語をすべて検索して」
「了解!」
管理局のデータベースが検索される。
魔法史。
古代ベルカ。
ロストロギア。
管理世界に残る宗教。
神話。
伝承。
だが。
結果はすべて該当なし。
「ありません」
エイミィが答える。
「類似するものも含めて、管理局側の記録には存在しません」
「そうだろうね」
小尾が言う。
「なら、どこにある」
クロノが問う。
「地球のインターネット」
誰もが一瞬、黙った。
「……インターネット?」
「ここ、地球の近くなんだろ」
小尾は窓の外へ目を向ける。
「だったら検索できるじゃないか」
リンディが頷く。
「接続して」
エイミィは地球の通信網へ接続した。
検索欄へ単語を入力する。
メタトロン。
画面を埋め尽くすほどの検索結果が表示された。
「出ました……」
エイミィの声が変わる。
「ユダヤ教神秘主義。カバラ。生命の樹、セフィロト」
別の画面。
「第一のセフィラ、ケテル」
さらに。
「神名、エヘイエー。対応する天使、メタトロン」
小尾が口にした言葉が。
すべて。
地球に残されていた。
魔法を知らないはずの世界に。
神話。
宗教。
神秘思想。
その形で。
「記述は統一されていません」
エイミィが複数の資料を比較する。
「出典によって役割も立場も違います。でも、小尾が口にした単語同士の関連は確認できます」
フェイトが小尾を見る。
「それじゃあ、今のはやては……メタトロンなの?」
「違う」
小尾は即答した。
「メタトロンそのものになったわけじゃない」
「じゃあ、どういうこと?」
「八神はやてへ流れ込んでいたテレズマが、メタトロンに対応する性質を持っていたということだ」
小尾は、教師が生徒へ説明するような口調で続ける。
「セフィラを器とするなら、テレズマはそこへ満ちる力。そして、ケテルへ対応する守護天使がメタトロンというわけさ」
フェイトは封印を見る。
黒い光。
漆黒の輪。
無数の羽状端末。
「だったら、今のはやても……?」
「知らない」
小尾はあっさりと答えた。
「僕が把握していたのは、そこまでだよ」
「そこまで?」
「八神はやてへ、メタトロンに対応するテレズマが流れ込んだ。それによって、どのような結果が起きるのか」
封印が大きく揺れる。
亀裂から、黒い光が溢れ出した。
「僕が予想していたのは、そこまでだ」
「でも、今のあれは違う」
ユーノが言う。
「見れば分かるだろう?」
小尾は楽しげに答えた。
「テレズマは黒くなった。性質も、反応も、僕が知っているものとはまるで違う」
「何が起きたんだ?」
「だから、分からないって言ってるじゃないか」
小尾は笑う。
「何が原因なのか。何へ変わったのか。どこへ繋がったのか」
彼の知識で理解できるのは。
結果が変わったということだけ。
その過程も。
理由も。
変化した先も。
何一つ分からない。
「あんなものは、僕の想定外だ」
クロノの表情が変わった。
「……想定外?」
小尾の笑みが固まる。
「あっ、まっず」
小さく漏れた一言を、クロノは聞き逃さなかった。
「なぜ、君が想定している」
「いや、今のは言葉の綾というか――」
「メタトロンに対応する力だと、事前に把握していた」
クロノが小尾を睨みつける。
「さらに、その力が八神はやてへ流れ込むことまで知っていた」
ユーノも、小尾を真っ直ぐに見つめる。
「偶然見つけた現象を説明しているんじゃない」
「…………」
「君は最初から、はやてに何が起きるか予想していたんだ」
フェイトの顔が強張った。
なのはは通信画面の中にいる小尾を、ただ見つめていた。
「小尾君」
その声は静かだった。
「はやてちゃんに、何をしたの?」
小尾は数秒だけ黙った。
誤魔化す方法を考えたのか。
それとも。
誤魔化す必要があるのかを考えたのか。
やがて。
諦めたように肩をすくめた。
「何をしたって言われてもね」
封印されたはやてへ手を向ける。
「八神はやては――」
まるで研究結果を発表するように。
「僕のセフィラ研究における、初めての成功例といったところかな」
なのはの表情から、色が消えた。
「成功……例?」
フェイトの手が震える。
「はやてを、実験に使ったの?」
「実験という言い方は心外だな」
小尾は悪びれもしない。
「僕は可能性を与えただけだ」
「可能性……?」
「結果として彼女は、僕が何度試しても到達できなかった領域へ辿り着いた」
小尾の声には。
隠しきれない歓喜があった。
「素晴らしい結果だよ」
「はやてちゃんを何だと思ってるの!」
なのはの叫びが、通信を通して艦橋へ響いた。
小尾は答えない。
一人の少女。
友人。
家族。
そうしたものに。
彼は興味を向けていなかった。
見ているのは。
結果だけ。
成功だけ。
理解できない未知だけだった。
ドクン。
封印が大きく脈打つ。
魔法陣の一枚が消えた。
続けて。
光の鎖が黒く染まり、砕け散る。
「時間がない!」
管制人格が叫ぶ。
残り。
四十六秒。
クロノが小尾を睨みつける。
「なら、八神はやてを元へ戻す方法を言え!」
「無理だよ」
「何だと?」
「分からない」
小尾は封印から目を離さなかった。
焦ってはいない。
それどころか。
自分にも理解できないものを前にした歓喜が、隠しきれずに滲んでいる。
「僕が知っているのは、メタトロンに対応するテレズマまでだ」
二枚目の魔法陣が消える。
「今、彼女を満たしている黒い力が何なのか」
亀裂が広がる。
「何に対応するものなのか」
黒い光が、封印の内側から溢れ出す。
「どんな存在と繋がったのか」
名前。
性質。
本質。
そして。
対処法。
その何一つとして、小尾にも分からない。
「天使の名さえ分からない」
残り。
三十二秒。
封印の奥で。
漆黒の羽根が、一斉に広がった。
小尾は。
心の底から楽しそうに笑う。
「名前が分かんなかったら、対処も分かんないんだよなー」