「力が欲しいか?」と言いたくて!   作:桃たろす

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始まりの一週間

 

 幸福な家庭というものは、案外、音でできている。

 

 朝、カーテンを開ける音。

 

 台所で包丁がまな板を叩く音。

 

 洗濯機が、己の使命を全うしているとばかりに低く唸る音。

 

 新聞をめくる音。

 

 湯気の立つ味噌汁を前にして、父親が「熱っ」と小さく呻く音。

 

 それを聞いた母親が笑う音。

 

 その中心に、彼はいた。

 

 いや、正確に言えば、転がされていた。

 

 リビングの柔らかいマットの上で、積み木と布製のボールと、母親が買ってきた熊のぬいぐるみに囲まれながら、彼は世界を支配していた。

 

 支配領域は半径一メートル弱。

 

 幼児の王国としては標準的である。

 

 ただし、移動手段が弱い。

 

 彼は一歳と少しだった。

 

 歩ける。

 

 だが、歩行という行為に対する信頼性は低い。二足歩行とは本来、人類が長い進化の末に獲得した偉大な機能であるはずなのに、初期段階では積み木一つで簡単に破綻する。

 

 設計者は、もう少しデバッグしてから世に出すべきだった。

 

 もっとも、この時の彼に、そんな文句を言う知性はない。

 

 彼は普通の幼児だった。

 

 腹が減れば泣く。

 

 眠くなれば泣く。

 

 転べば泣く。

 

 母親に抱き上げられれば泣き止み、父親が変な顔をすれば笑う。

 

 自分が愛されていることを、言葉では理解していない。

 

 ただ、そこにある温度を知っていた。

 

 母親はよく笑う人だった。

 

 彼が積み木を二つ重ねただけで、まるで塔を建てた建築家でも見るように褒めた。

 

 父親は穏やかな人だった。

 

 休日には新聞を読むふりをしながら、結局ほとんど彼の方を見ていた。

 

 家は普通だった。

 

 裕福ではない。

 

 貧しくもない。

 

 棚には安売りで買った洗剤があり、冷蔵庫には昨日の残りがあり、テレビの横には赤ん坊の手が届かないようにリモコンが避難していた。

 

 世界は狭く、温かく、少しだけ騒がしい。

 

 そして、その日は土曜日だった。

 

「ほら、こっちおいで」

 

 父親がリビングの向こう側で両手を広げる。

 

 彼は積み木を握ったまま、立ち上がった。

 

 一歩。

 

 母親が台所から顔を出す。

 

 二歩。

 

「上手、上手」

 

 母親が笑う。

 

 三歩。

 

 父親が大げさに目を輝かせる。

 

 四歩目。

 

 彼は、積み木を踏んだ。

 

 幼児の足裏は、世界を信用していない。

 

 ぐらり、と視界が傾いた。

 

「あっ」

 

 母親の声。

 

 父親が立ち上がる気配。

 

 しかし、間に合わない。

 

 額が、ローテーブルの角にぶつかった。

 

 ごん、と鈍い音がした。

 

 それは、幼児の額とローテーブルの角がぶつかっただけの、ありふれた事故の音だった。

 

 小さな子供のいる家庭なら、いつか一度は鳴るかもしれない音。

 

 親が血の気を引かせ、子が泣き、抱き上げられ、冷やされ、しばらくすれば「びっくりしたね」で済まされるはずの音。

 

 そのはずだった。

 

 世界が白く弾けた。

 

 視界が飛ぶ。

 

 音が遠ざかる。

 

 母親の声も、父親が立ち上がる気配も、洗濯機の低い唸りも、新聞が床に落ちる音も、すべてが水の底へ沈んでいく。

 

 痛みが来るより早く、白が来た。

 

 幼い脳が、衝撃を処理しきれずに明滅する。

 

 光。

 

 空白。

 

 欠落。

 

 そして、その白の奥で、別の白が開く。

 

 それは思い出す、という穏やかな現象ではなかった。

 

 胸の奥から懐かしい記憶が蘇るような、生易しいものでもなかった。

 

 幼児の脳に、見知らぬ容量の何かが接続される。

 

 まだ言葉も満足に扱えない柔らかい神経の奥へ、存在しないはずの端子が無理やり差し込まれる。

 

 かちり、と。

 

 どこかで何かが噛み合った。

 

 次の瞬間、情報が走った。

 

 黒衣。

 

 黒鍵。

 

 聖堂教会。

 

 異端狩り。

 

 類感魔術。

 

 セフィラ。

 

 検体一〇四三。

 

 固定剤改四十二。

 

 位相接続。

 

 テレズマ。

 

 白い筋。

 

 魔術回路。

 

 焼ける回路。

 

 膨らむ胸。

 

 引き抜こうとした右腕。

 

 爆発。

 

 折れる肋骨。

 

 消えた腕。

 

 血で書いた文字。

 

 失敗原因。

 

 魔術回路。

 

 不適。

 

 必要なのは、器。

 

 単語ではない。

 

 記録だった。

 

 記憶ではない。

 

 圧縮された人生だった。

 

 白い画面の奥で、無慈悲な進行バーが伸びていく。

 

 展開。

 

 照合。

 

 接続。

 

 同期。

 

 上書き。

 

 前世が、幼い脳の中へインストールされていく。

 

 知らないはずの知識が、知っていたものとして配置される。

 

 見たことのないはずの光景が、自分の目で見たものとして焼き付けられる。

 

 聞いたことのない悲鳴が、耳の奥で反響する。

 

 嗅いだことのない薬品と血と焼けた肉の臭いが、鼻腔の奥に貼りつく。

 

 握ったことのない黒鍵の重み。

 

 解剖台の冷たさ。

 

 術式を刻む指先の感覚。

 

 紙に血で文字を書いた時の、右手の震え。

 

 消えたはずの右腕の痛み。

 

 死の直前に浮かんだ、あまりにも明瞭な結論。

 

 それらが、赤ん坊同然の肉体へ一斉に押し込まれていく。

 

 普通なら壊れる。

 

 赤ん坊同然の肉体に、四十年近い人生と、千を超える人体実験と、自分の死を観測した記憶など流し込めば、精神が先に悲鳴を上げる。

 

 まだ未発達な自我など、圧縮された前世の記録に押し潰されて終わりだ。

 

 幼児の人格は薄い。

 

 経験も浅い。

 

 言葉も弱い。

 

 世界の輪郭さえ、匂いと温度と音で覚えている段階である。

 

 そこへ、魔術師としての知識と執念と失敗と死因を丸ごと流し込む。

 

 まともな精神なら耐えられない。

 

 だが、彼は壊れなかった。

 

 生前から、だいぶ壊れていたからだ。

 

 人間として壊れているものは、こういう時だけ妙に丈夫で困る。

 

「大丈夫!?」

 

 母親が駆け寄る。

 

 彼は床に座り込んでいた。

 

 額が痛い。

 

 非常に痛い。

 

 遅れてやってきた痛覚が、頭蓋の内側まで響いている。

 

 幼児の肉体は、痛覚に対して泣く以外の選択肢を持たない。実に単純なインターフェースである。

 

 涙が滲む。

 

 喉が震える。

 

 胸がひくつく。

 

 顔が勝手に歪む。

 

 泣き声が出かける。

 

 だが、その前に、死んだ魔術師の思考が再起動した。

 

 泣く、という肉体側の命令の下で、別の処理が立ち上がる。

 

 現在地。

 

 不明。

 

 肉体年齢。

 

 一歳前後。

 

 損傷。

 

 額部打撲。

 

 出血量。

 

 軽微。

 

 周辺環境。

 

 一般家庭。

 

 保護者と思しき男女二名。

 

 そして。

 

 次があった。

 

 彼は母親の顔を見上げながら、ぼんやりと思った。

 

 なるほど。

 

 次があったわけだ。

 

 死後の処理にしては、ずいぶん雑である。

 

 説明書もなければ、同意確認もない。

 

 初回起動時の注意事項も表示されない。

 

 もう少し事前説明がほしいところだが、輪廻転生にカスタマーサポートを期待する方が間違っている。

 

「痛かったね。びっくりしたね」

 

 母親が彼を抱き上げた。

 

 温かい腕。

 

 優しい声。

 

 洗剤と料理の匂い。

 

 柔らかい胸元。

 

 安心する場所。

 

 小さな背中を撫でる手のひら。

 

 耳元で繰り返される、大丈夫、という言葉。

 

 それらすべてを、幼児の肉体は知っていた。

 

 抱かれれば落ち着く。

 

 撫でられれば呼吸が戻る。

 

 この匂いのする場所にいれば、怖いものは遠ざかる。

 

 そういうふうに、体が覚えていた。

 

 だが、戻ったばかりの彼の意識は、それを母の愛情として受け取るより先に、観測対象として処理した。

 

 

 体温。

 

 脈拍。

 

 呼吸。

 

 筋肉の緊張。

 

 血流。

 

 抱き上げられた瞬間、彼の中で、前世の癖が勝手に起動した。

 

 解析。

 

 対象の外形を取り、材質を読み、内部構造を仮定し、魔力の流路を重ねる。

 

 物体構造の把握。

 

 前世の魔術師にとって、それは珍しい技術ではない。

 

 礼装を分解する時。

 

 術式の刻まれた器物を調べる時。

 

 人体に埋め込んだ霊的触媒の定着具合を確認する時。

 

 彼が何度も、何度も、何度も使ってきた、ごくありふれた解析の魔術だった。

 

 もちろん、今の肉体は幼児である。

 

 魔術回路の出力は低い。

 

 視界も曖昧で、言葉も未発達で、指先の感覚さえ前世とは比べものにならないほど頼りない。

 

 だが、対象は目の前にいた。

 

 いや、目の前どころではない。

 

 抱き締められている。

 

 肌が触れている。

 

 体温が伝わっている。

 

 呼吸が胸越しに揺れている。

 

 距離としては、これ以上ないほど近い。

 

 解析には十分だった。

 

 彼の意識が、母親の表面をなぞる。

 

 皮膚。

 

 脂肪。

 

 筋肉。

 

 骨格。

 

 血管。

 

 神経。

 

 臓器。

 

 ただの人体。

 

 成人女性の、健康な肉体。

 

 そこまではいい。

 

 そこまでは、前世の知識でも理解できる範囲だった。

 

 だが、その奥に。

 

 魔力があった。

 

 彼は、泣きかけた顔のまま止まった。

 

 母親の内側に、魔力があった。

 

 魔術回路ではない。

 

 魂に刻まれ、生命力を魔力へ変換し、術式へ通すあの疑似神経ではない。

 

 彼自身の内側には、魔術回路がある。

 

 転生しても、魂に刻まれたそれは消えていなかった。幼児の肉体に押し込められ、出力はひどく低下しているが、確かにある。前世の彼が魔術師であった証。呪いにも似た才能。

 

 だが母親のそれは違う。

 

 回路ではない。

 

 管ではない。

 

 神経ではない。

 

 術式へ魔力を流すための通路ではない。

 

 魔力を生み、蓄え、保持するための中枢。

 

 外界に漂うマナを呼吸のように取り込み、肉体の奥で別の質へ変え、内側に溜め込んでいる。

 

 心臓とは違う。

 

 臓器とも違う。

 

 魂そのものでもない。

 

 だが肉体と魂の境界に食い込むように、そこにある。

 

 丸い。

 

 深い。

 

 閉じているようで、外界と繋がっている。

 

 水晶体にも似ていた。

 

 炉にも似ていた。

 

 種にも似ていた。

 

 前世の知識に、該当する名前はない。

 

 魔術回路では説明できない。

 

 魔術刻印でもない。

 

 霊核と呼ぶには肉体に近すぎる。

 

 心臓と呼ぶには、あまりに神秘へ寄りすぎている。

 

 だが、それは確かに核だった。

 

 解析結果が、幼い脳の中で静かに確定していく。

 

 魔力反応あり。

 

 魔術回路なし。

 

 変換機能あり。

 

 蓄積機能あり。

 

 外界マナとの接続あり。

 

 内部保持、安定。

 

 異質。

 

 未知。

 

 そして、理想に近い。

 

 前世の最後に、血で書いた結論が蘇る。

 

 必要なのは、回路ではない。

 

 流すための管ではない。

 

 焼ける神経ではない。

 

 異質な力を内側に抱え込む、器。

 

 人間用ではない神秘を、人間の中に留める場所。

 

 彼の心臓が、一度だけ強く鳴った。

 

 

 

 母親は、それを怯えだと思った。

 

 大きな衝撃に驚いて、泣くことも忘れてしまったのだと。

 

 だから母親は、彼をさらに強く抱き寄せた。

 

「よしよし。もう大丈夫。お母さんいるからね」

 

 柔らかい声だった。

 

 不安を溶かすための声。

 

 痛みを宥めるための声。

 

 幼い子供が世界を怖がらないように、母親という生き物が自然に出す声。

 

 その胸元に顔を押し当てられながら、彼は小さく息を吐いた。

 

 涙はまだ目尻に残っている。

 

 頬は痛みで赤くなっている。

 

 喉は泣く寸前の形に震えている。

 

 外から見れば、ただの可哀想な幼児だった。

 

 転んで額をぶつけ、母親に抱かれてようやく安心しかけている、どこにでもいる子供。

 

 だが、その小さな口元が、ほんのわずかに歪んだ。

 

 笑み、と呼ぶにはあまりに未熟。

 

 幼児の表情筋では、前世の彼が浮かべていたような悪辣な笑みを完全には再現できない。

 

 せいぜい、泣き顔の途中で口角が引きつったように見えるだけだ。

 

 母親からすれば、それは安心しかけた子供の表情にしか見えなかった。

 

 だが、内側は違う。

 

 そこにあったのは安堵ではない。

 

 歓喜だった。

 

 下卑た、濁った、研究者の歓喜。

 

 死の直前に掴みかけた答え。

 

 前世で千を超える検体を壊してなお届かなかった結論。

 

 それに繋がるかもしれない未知の核が、今、自分を抱いている女の内側にある。

 

 母の腕の中で。

 

 愛情の温度に包まれながら。

 

 彼は、泣きかけの顔で笑っていた。

 

 違う。

 

 大丈夫ではない。

 

 少なくとも、母親にとっては。

 

 その瞬間から、幸福な家庭は壊れ始めた。

 

 音は変わらない。

 

 朝、カーテンは開く。

 

 台所で包丁は鳴る。

 

 父親は新聞を読み、母親は笑い、彼は幼児として世話をされる。

 

 だが、彼の中に戻ったものだけが、家の意味を変えていった。

 

 リビングは工房になった。

 

 母親の腕は観測環境になった。

 

 父親の膝は比較対象になった。

 

 食事も、昼寝も、着替えも、抱っこも、幼児の日常のすべてが接触観測へ置き換わる。

 

 月曜日。

 

 彼は母親に抱かれて、窓際で揺られていた。

 

 母親は彼が眠いのだと思っている。

 

 実際、肉体は眠かった。

 

 幼児の肉体というものは、驚くほどすぐ眠くなる。世界の真理に迫ろうとしている時でも、昼寝の圧は平等に襲ってくる。

 

 まぶたは重い。

 

 首も座っているとはいえ、油断すれば母親の肩へ預けたまま落ちそうになる。

 

 温かい腕。

 

 一定の揺れ。

 

 窓辺に差し込む午後の光。

 

 条件だけなら、眠れと言われているようなものだった。

 

 だが彼は、眠気の奥で母親の内側を視ていた。

 

 抱かれている。

 

 触れている。

 

 呼吸の上下が伝わる。

 

 心臓の拍動が、布と肉を隔ててかすかに響く。

 

 解析には十分すぎる距離だった。

 

 窓が開く。

 

 外気が入る。

 

 マナが揺れる。

 

 母親の体内の核が、それを自然に吸い込む。

 

 呼吸と連動している。

 

 だが肺ではない。

 

 血流と関係している。

 

 だが心臓ではない。

 

 魂とは違う。

 

 回路とも違う。

 

 肉体に近く、しかし肉体だけでは説明できない。

 

 器。

 

 前世の死の直前、血で紙に書いた結論が、幼児の脳裏で形を持った。

 

 必要なのは、回路ではない。

 

 異質な力を内側に抱え込む核。

 

 人間用ではない神秘を、人間の中に留める場所。

 

 そんなものが、この世界にはあるのか。

 

 前世の彼は、死ぬ直前にそう考えた。

 

 そして今。

 

 母親の内側に、それらしきものがある。

 

 都合が良すぎる。

 

 彼はそう思った。

 

 だが、都合が良いことと、事実であることは矛盾しない。

 

 むしろ、都合が良いものほど疑うべきだ。

 

 疑いながら、視る。

 

 期待しながら、切り捨てる準備をする。

 

 歓喜しながら、数値を取る。

 

 観測する。

 

 断定はしない。

 

 結論を急ぐ魔術師は、だいたい爆発する。

 

 彼はそれを知っている。

 

 主に、他人が爆発するところを千回以上見たし、最後に自分も巻き込まれたからだ。

 

 

 

 

 火曜日。

 

 彼は父親に抱き上げられた。

 

「最近、じっと見るなあ」

 

 父親は笑った。

 

 大きな手が、彼の頬を軽くつつく。

 

 指先は母親より少し硬い。

 

 洗剤や料理の匂いではなく、外の空気と、布地と、かすかなコーヒーの匂いがした。

 

 彼はその指を掴んだ。

 

 赤ん坊の手にしては、妙にしっかりと。

 

「お、握った」

 

 父親は嬉しそうに笑った。

 

 ただ指を掴まれただけである。

 

 だが父親にとっては、それだけで十分だったらしい。

 

 赤ん坊が親の指を握る。

 

 どこにでもある、温かい光景だった。

 

 中身を除けば。

 

 彼は父親の指を掴んだまま、解析を走らせていた。

 

 皮膚。

 

 筋肉。

 

 骨。

 

 血管。

 

 神経。

 

 呼吸。

 

 心拍。

 

 そして、そのさらに奥。

 

 父親の内側にも、同種の核があった。

 

 母親のものと同じく、魔術回路ではない。

 

 魔力を流すための管ではない。

 

 生命力を魔力へ変換し、術式へ送る疑似神経でもない。

 

 外界のマナを取り込み、体内に魔力として蓄えるための核。

 

 器。

 

 ただし、母親のものとは反応が違う。

 

 父親の核は、奥まっていた。

 

 安定している。

 

 外界のマナに対する反応は鈍く、蓄えた魔力の揺れも少ない。

 

 だが、それは大きいからではない。

 

 むしろ逆だ。

 

 器としては小さい。

 

 入口が狭く、内側の容量も限られている。

 

 だからこそ、外界の変化に大きく揺さぶられない。

 

 抱え込める量が少ない分、反応も鈍く、乱れも小さい。

 

 母親の核は、もっと柔らかい。

 

 取り込みが早い。

 

 表層に近く、外界の変化をよく拾う。

 

 そして、父親のものより明らかに広い。

 

 揺れやすい。

 

 だが、そのぶん受け入れられる。

 

 危ういが、器としての余白がある。

 

 実験対象として考えるなら、父親より母親の方がはるかに面白い。

 

 もちろん、面白いという評価は、家庭内で父母に向けるべきものではない。

 

 個体差か。

 

 性差か。

 

 体質か。

 

 それとも、自分を産んだことが関係しているのか。

 

 分からない。

 

 分からないことは悪ではない。

 

 分からないままにしておくことが悪だ。

 

 実に魔術師らしい考え方である。

 

 人間としては、もうだいぶ手遅れだった。

 

 

 

 水曜日。

 

 前日までに、二人の検体の大まかな把握は終わっていた。

 

 母親。

 

 外界のマナへの反応が早く、核は柔らかい。

 

 揺れやすいが、器としての余白がある。

 

 父親。

 

 核は安定している。

 

 だが小さい。

 

 反応は鈍く、保持できる量も限られている。

 

 比較対象としては有用だが、今すぐ試すなら母親の方がいい。

 

 そこまで結論が出れば、次に必要なのは材料だった。

 

 彼は母親のジュエルボックスを開けた。

 

 父親は仕事。

 

 母親は二階で洗濯物を干している。

 

 家の中には、洗濯機の音と、遠くの車の音だけがある。

 

 彼はベビーゲートの前に座り込んだ。

 

 幼児用の柵。

 

 白いプラスチックでできた、丸みのある安全装置。

 

 大人なら片手で開けられる。

 

 母親なら足で押さえながら簡単に跨ぐ。

 

 だが、今の彼にとっては、正面から突破不能な結界だった。

 

 かつて黒衣をまとい、黒鍵を握り、異端を狩る側にいた男が。

 

 その後、狩られる側へ回ってなお研究を続けた男が。

 

 今は、白いプラスチック製の柵に阻まれている。

 

 人生は皮肉がうまい。

 

 彼は泣いた。

 

「どうしたの?」

 

 母親が来る。

 

 抱き上げられる。

 

 あやされる。

 

 場所を移される。

 

 降ろされる。

 

 成功。

 

 泣き落としは強い。

 

 魔術師としては屈辱的だが、戦術としては合理的だった。

 

 彼は母親が再び二階へ戻るのを待ち、廊下を這った。

 

 寝室。

 

 鏡台。

 

 上から二段目の引き出し。

 

 母親は外出前、そこから小さなアクセサリーを選んでいた。

 

 

 

 彼は椅子につかまり立ちする。

 

 小さな指が、椅子の脚を掴む。

 

 爪は柔らかく、握力は頼りない。

 

 膝が震える。

 

 足裏が床を探る。

 

 全身を使って、ようやく立つ。

 

 前世なら、立つという行為に思考を割いたことなどなかった。

 

 だが今は違う。

 

 直立するだけで、肉体の何割かのリソースを持っていかれる。

 

 腕を伸ばす。

 

 届かない。

 

 もう少し。

 

 あと数センチ。

 

 たったそれだけの距離が、今の彼には遠すぎた。

 

 身長という概念が、これほど憎い日が来るとは思わなかった。

 

 彼は魔術回路を開いた。

 

 魂の奥で、焼け焦げたような擬似神経がかすかに光る。

 

 前世で酷使し、焼き、削り、それでも手放さなかったもの。

 

 肉体が変わっても、魂に刻まれた回路は残っている。

 

 ただし、状態は最悪に近い。

 

 出力は低い。

 

 回転は鈍い。

 

 幼児の肉体は脆い。

 

 回路を回すたび、全身が針で刺されるように痛む。

 

 血管の内側を、熱い砂が流れるような感覚。

 

 神経の端を、細い刃でなぞられるような違和感。

 

 普通の幼児なら、泣き叫んで終わりだ。

 

 幸い、彼は普通ではなかった。

 

 それでも、爪先に魔力を寄せる。

 

 筋肉を強化するには足りない。

 

 物を浮かせるにはなお足りない。

 

 ならば、ほんのわずかに引っかける。

 

 取っ手の縁へ、糸のように細い魔力を絡ませる。

 

 引く。

 

 木が擦れる音。

 

 小さな音だった。

 

 だが、家の静けさの中ではやけに大きく響いた。

 

 心臓が跳ねる。

 

 二階から足音はしない。

 

 洗濯物を干す気配だけが遠くにある。

 

 母親に見つかれば、ただの悪戯で済むかもしれない。

 

 赤ん坊が引き出しを開けた。

 

 母親のアクセサリーに興味を持った。

 

 普通の家庭なら、それで終わる。

 

 叱られ、抱き上げられ、危ないから駄目よ、と優しく取り上げられる。

 

 だが、取り上げられれば困る。

 

 今の彼には、材料を自由に選べる機会が少なすぎた。

 

 工房はない。

 

 協力者はいない。

 

 資金もない。

 

 手足も短い。

 

 信用できる道具は、自分の知識と、貧弱な魔術回路と、母親の油断くらいである。

 

 引き出しが開く。

 

 中には、小さな箱。

 

 ジュエルボックス。

 

 彼は椅子にしがみついたまま、身を乗り出す。

 

 蓋に指をかける。

 

 押し上げる。

 

 かたり、と軽い音がした。

 

 指輪。

 

 イヤリング。

 

 ネックレス。

 

 透明な石。

 

 青い石。

 

 赤い石。

 

 どれも高価なものではない。

 

 日常の中で身につける、ささやかな装飾品。

 

 結婚前に買ったものかもしれない。

 

 父親から贈られたものかもしれない。

 

 何かの記念日に選んだものかもしれない。

 

 母親にとっては、小さな思い出の詰まった箱だった。

 

 彼にとっては、素材棚だった。

 

 問題は価格ではない。

 

 宝石とは、礼装の核に向いている。

 

 硬い。

 

 透明である。

 

 光を通し、曲げ、閉じ込める。

 

 多面を持ち、内側に像を宿す。

 

 ただの石であっても、人間はそこに意味を見出す。

 

 美しさ。

 

 希少性。

 

 永遠性。

 

 誓い。

 

 記念。

 

 祈り。

 

 宝石は、物質でありながら、最初から意味を背負わされやすい。

 

 だから使える。

 

 セフィラとは、対象そのものを物理的に天使へ完全に変える道具ではない。

 

 埋め込まれた対象を、類感魔術によって天使という概念へ似せるための礼装だ。

 

 人間の肉体に、天使の形を重ねる。

 

 名を重ねる。

 

 役割を重ねる。

 

 世界の側に、これは人間ではなく天使である、と誤認させる。

 

 その誤認を足場にして、通常なら届かない位相へ接続し、そこからテレズマを流し込む。

 

 宝石は、その中核にしやすい。

 

 完全なセフィラを作るには、到底足りない。

 

 工房もない。

 

 固定剤もない。

 

 制御術式を書き込む器具もない。

 

 測定機材も、記録装置も、検体用の拘束椅子もない。

 

 ないない尽くしである。

 

 研究者としては、泣きたくなるほど貧しい環境だった。

 

 もっとも、幼児なので泣くこと自体は簡単だった。

 

 ないなら、あるものでやるしかない。

 

 魔術師の研究とは、だいたいそういうものである。

 

 完全な条件など待っていたら、一生何も始まらない。

 

 足りない器具は術式で補う。

 

 足りない素材は意味で補う。

 

 足りない精度は犠牲で補う。

 

 ないものを欲しがっている間に他人が先に死ぬ。

 

 いや、死ぬのはだいたい検体だが。

 

 彼は透明な石を選んだ。

 

 母親との縁があるからではない。

 

 母親が身につけていたからでもない。

 

 それは接触の履歴であって、類感の核ではない。

 

 確かに、所有者との縁はある。

 

 身につけた時間もある。

 

 皮脂も、体温も、生活の気配も染みている。

 

 だが、それだけでは弱い。

 

 母親を対象にするなら縁は補助になるが、今必要なのは対象との接続ではない。

 

 位相へ手をかけるための疑似核。

 

 世界に誤認させるための形。

 

 彼が見たのは形だった。

 

 面の数。

 

 光の入り方。

 

 内部の曇り。

 

 傷の位置。

 

 透明度。

 

 握った時の冷たさ。

 

 十の節点を見立てられる余白。

 

 位相接続の疑似核として、どれだけ誤魔化せるか。

 

 ただの玩具では繋がらない。

 

 だが本物である必要もない。

 

 本物でなくとも、本物に似ていればいい。

 

 本物であるべき役割を、一瞬でも背負えるならそれでいい。

 

 類感魔術とは、世界を騙す技術だ。

 

 似ているものは繋がる。

 

 名を重ねる。

 

 形を重ねる。

 

 意味を重ねる。

 

 役割を重ねる。

 

 そして世界の側に、これはそういうものだ、と誤認させる。

 

 世界は厳密だ。

 

 だが、完璧ではない。

 

 意味の重なりに隙があれば、そこを通せる。

 

 名と形と役割が揃えば、偽物でも一瞬だけ本物の席に座れる。

 

 一瞬でいい。

 

 今回必要なのは、永続する完成品ではない。

 

 扉に指をかけるための、粗悪な鍵でいい。

 

 彼は透明な石を握った。

 

 赤ん坊の手は小さい。

 

 力も弱い。

 

 指の隙間から、石がこぼれ落ちそうになる。

 

 だが、その手の内側で、かつて千以上の検体を犠牲にした理論が、静かに息を吹き返した。

 

 

 木曜日。

 

 彼はハングドマンを描いた。

 

 材料は、菓子箱を破った厚紙。

 

 道具は、床に転がっていた黒いクレヨン。

 

 ついでに、額の傷から剥がれた小さなかさぶたを、水で湿らせた。

 

 血は強い。

 

 名と肉体と生命に近い。

 

 使えるものは使う。

 

 幼児の体で床に座り込み、菓子箱の裏に黒いクレヨンを走らせている。

 

 外から見れば、ただのお絵描きだった。

 

 母親が見れば、きっと微笑ましい成長の記録として扱っただろう。

 

 だが、彼は真剣だった。

 

 これは絵ではない。

 

 カードだ。

 

 タロット。

 

 吊られた男。

 

 ハングドマン。

 

 ただの占い札ではない。

 

 その名を持つ礼装がある。

 

 吊られる者。

 

 逆さにされた者。

 

 受難を引き受ける者。

 

 自らの位置を世界からずらし、降りかかるものを別の形で受け止めるための象徴。

 

 もちろん、今の彼に本物はない。

 

 正規の材料もない。

 

 術式を刻むための器具もない。

 

 調整に使う霊的資源もない。

 

 あるのは、菓子箱の厚紙と、黒いクレヨンと、幼児の血の混じったかさぶただけ。

 

 笑えるほど粗末だった。

 

 だが、類感魔術とは、そもそもそういう技術だ。

 

 本物がないなら、本物に似せる。

 

 形を似せる。

 

 名を似せる。

 

 役割を似せる。

 

 世界の側に、これはハングドマンである、と誤認させる。

 

 偽物を偽物のまま終わらせない。

 

 手描きの札を、礼装の座へ無理やり近づける。

 

 幼児の手で描かれた線は歪んでいた。

 

 円は潰れ、人型は不格好で、吊られているのか転んでいるのか判別が怪しい。

 

 母親が見れば「上手に描けたね」と笑って冷蔵庫に貼りかねない出来だった。

 

 それは避けたい。

 

 家庭の記念品になった身代わり礼装など、あまりに業が深い。

 

 だが、絵の巧拙は問題ではない。

 

 重要なのは、象徴が成立していること。

 

 逆さに吊られていること。

 

 片足が曲げられていること。

 

 吊るされながら、落ちないこと。

 

 死へ向かう者でありながら、まだ死んでいないこと。

 

 受難を引き受ける役割を、世界に示せること。

 

 彼は線を重ねた。

 

 名を与えた。

 

 血を混ぜた水で、輪郭をなぞった。

 

 ただの落書きへ、ハングドマンという本物の礼装の影を重ねていく。

 

 類感魔術を極めた者にとって、絵は絵で終わらない。

 

 似せる。

 

 重ねる。

 

 誤認させる。

 

 紙片の中の吊られた男を、破壊の受け皿へ仕立てる。

 

 前世の最後、彼は検体の爆散に巻き込まれた。

 

 遮断術式は遅かった。

 

 予備礼装も遅かった。

 

 核を抜こうとした腕は消えた。

 

 防御では駄目だった。

 

 ならば、次は防がない。

 

 受け流す。

 

 自分が受けるはずの破壊を、吊られた男へ移す。

 

 正規のハングドマンには遠く及ばない。

 

 手製の模造品。

 

 劣化品。

 

 一度きりの使い捨て。

 

 だが、一瞬だけ本物の役割へ届けばいい。

 

 死を避けるためではない。

 

 死を、別の札へ吊るすために。

 

 雑だが、方針としては悪くない。

 

 死因から学べる男は伸びる。

 

 死んだ後に伸びる機会があるかは、普通ないのだが。

 

 

 

 金曜日。

 

 彼はセフィラを作った。

 

 透明な石を、礼装の疑似核にする。

 

 もちろん、前世の原型二十三号には遠く及ばない。

 

 あれは何年もかけ、何人も犠牲にし、何度も失敗して作ったものだ。

 

 素材を選び、術式を刻み、固定剤を調整し、媒介液に漬け、反応を観測し、失敗すれば原因を洗い直す。

 

 人体に埋め込み、拒絶反応を記録し、魔術回路の焼損率を測り、テレズマ流入時の崩壊過程を分析する。

 

 そうやって積み上げた果てに、ようやく原型二十三号は形になった。

 

 今あるのは、母親のジュエルボックスから盗んだ小さな宝石。

 

 固定剤もない。

 

 媒介液もない。

 

 霊的処理を施した器具もない。

 

 術式を精密に刻む針もない。

 

 あるのは、自分の血の滲んだ布切れ、唾液、クレヨン、幼児の細い魔術回路、そして魂に焼き付いた設計図。

 

 材料一覧だけ見れば、怪しい工作教室である。

 

 だが、彼は笑わなかった。

 

 観測と構築の時だけは、目が笑わない。

 

 透明な石を前に、彼は幼い指を動かした。

 

 血を薄く擦り込む。

 

 唾液で湿らせる。

 

 クレヨンで、目に見えるかどうかの細い印をつける。

 

 幼児の手では、精密な術式など描けない。

 

 ならば、線そのものではなく、意味を重ねる。

 

 形を刻むのではない。

 

 役割を押しつける。

 

 十の節点を置く。

 

 樹を見立てる。

 

 上から下へ。

 

 概念から肉体へ。

 

 位相から対象へ。

 

 これは、対象を物理的に天使に変える道具ではない。

 

 対象を、天使であると世界に誤認させるための礼装だ。

 

 人間の肉体に、天使の形を重ねる。

 

 名を重ねる。

 

 役割を重ねる。

 

 世界の側に、これは人間ではなく天使である、と誤認させる。

 

 その誤認を足場にして、通常なら届かない位相へ接続する。

 

 そして、そこからテレズマを流し込む。

 

 透明な石は、そのための疑似核だった。

 

 対象の内側へ沈ませ、天使という概念の輪郭を重ねるための中枢。

 

 世界の薄皮へ指を掛けるための、粗悪な取っ掛かり。

 

 位相に穴を開けるための、あまりに小さな鍵。

 

 完全ではない。

 

 粗悪。

 

 不安定。

 

 遮断機構は弱い。

 

 流入量の調整も甘い。

 

 固定も甘い。

 

 対象との同調も不十分。

 

 前世の彼なら、こんなものを本番に使う魔術師を鼻で笑っただろう。

 

 失敗するに決まっている。

 

 暴走するに決まっている。

 

 観測するまでもなく危険だと切り捨てる。

 

 だが今の彼は幼児である。

 

 工房もない。

 

 道具もない。

 

 時間もない。

 

 手も短い。

 

 声も出せない。

 

 その条件で、礼装の形まで持っていった。

 

 幼児にしてはよくやっている。

 

 そう自分を褒めた。

 

 褒める相手がいない時は、自分で褒めるに限る。

 

 そうして、始まりから一週間が経った。

 

 

 次の土曜日。

 

 家の中は、また幸福だった。

 

 一週間前と同じように、朝は何事もなかったかのような顔をして訪れていた。

 

 父親は仕事が休みで、朝からリビングにいた。

 

 母親は台所で皿を洗いながら、父親に何かを話している。

 

 内容は、近所の店で卵が安かったとか、昨日干し忘れた洗濯物がどうとか、そんな他愛のないものだった。

 

 テレビはついているが、誰も真面目には見ていない。

 

 画面の中では知らない芸能人が笑っている。

 

 けれど、この家の空気にとっては、それもただの背景音でしかなかった。

 

 窓から入る日差しは柔らかく、洗濯機はいつも通り低く唸っている。

 

 焼いたパンの匂い。

 

 コーヒーの匂い。

 

 皿に当たる水音。

 

 母親の笑い声。

 

 父親の相槌。

 

 そのすべてが、普通の家庭だった。

 

 何も壊れていない。

 

 誰も疑っていない。

 

 今日という日も、昨日までと同じように過ぎていくのだと、この家にいる二人の大人は信じている。

 

 彼は母親の膝に抱かれていた。

 

 柔らかな太腿。

 

 腹に回された腕。

 

 背中を支える手のひら。

 

 幼児にとっては、世界で最も安全な場所のひとつだった。

 

 服の内側に、即席のセフィラを隠している。

 

 肌着の下には、ハングドマンのカード。

 

 赤ん坊が隠し事をしている。

 

 普通なら可愛らしい。

 

 中身がこれでなければ。

 

「今日はお父さんもいるから嬉しいね」

 

 母親が言った。

 

 彼に向けた声だった。

 

 意味を理解していない幼児に話しかける時の、少し高く、少し甘い声。

 

「嬉しいのは俺の方だよ。平日は全然遊べないし」

 

 父親が笑う。

 

 その声には、本当に名残惜しさが混じっていた。

 

 平日は仕事で家を空ける。

 

 帰ってきた頃には、彼は眠っていることも多い。

 

 だから休日の朝に、ただ同じ部屋にいられるだけで、父親は少し浮かれていた。

 

 彼は母親の服を掴んだ。

 

 小さな手で、布を握る。

 

 甘えているように見えただろう。

 

 実際、母親はそう受け取った。

 

 母親は微笑んで、彼の頭を撫でた。

 

 温かい手だった。

 

 柔らかい声だった。

 

 彼を見る目には、何の疑いもない。

 

 ただ、愛情だけがあった。

 

 この女は、自分を愛している。

 

 この男も、自分を愛している。

 

 その事実を、彼は理解した。

 

 幼児としてではない。

 

 前世を取り戻した魔術師として、明確に理解した。

 

 母親の声の震え方。

 

 父親の視線の置き方。

 

 抱き方。

 

 撫で方。

 

 自分が泣いた時に変わる呼吸。

 

 小さな仕草のひとつひとつが、彼を大事なものとして扱っている証拠だった。

 

 疑う余地はない。

 

 この二人は、彼を家族だと思っている。

 

 守るべき子供だと思っている。

 

 未来があるものだと思っている。

 

 その事実を、彼は理解した。

 

 理解した上で、横に置いた。

 

 母親である。

 

 父親である。

 

 家族である。

 

 大事なものかもしれない。

 

 幸福と呼ぶべきものなのかもしれない。

 

 普通の人間なら、守るべきものなのかもしれない。

 

 だが、今この瞬間、彼の目の前には、前世で到達できなかった答えがある。

 

 魔術回路ではない器。

 

 魔力を内側に溜める核。

 

 外界のマナを吸い込み、体内に保持する未知の中枢。

 

 もしこれがテレズマを受けるなら。

 

 もし、魔術回路では焼き切れた力を、この核が抱え込むなら。

 

 もし、人間という器の中に、天使の位相から流れ込む異質な圧を留められるなら。

 

 前世の死は無駄ではなくなる。

 

 検体一〇四三の崩壊も。

 

 原型二十三号の失敗も。

 

 あの白い筋も、焼ける回路も、膨らんだ胸も、消えた右腕も。

 

 千を超える検体も、完全な無駄ではなくなる。

 

 いや、無駄ではなかったことにできる。

 

 その違いは大きい。

 

 人間としては最低の差だ。

 

 だが、魔術師としては、決定的な差だった。

 

 彼は内心で、母親へ声をかけた。

 

 力が欲しいか。

 

 いや、違うな。

 

 聞いてないし、君はたぶん欲しがってない。

 

 それに母親相手に言う台詞としては、かなり終わっている。

 

 彼は少しだけ笑った。

 

 幼児の顔で。

 

 口元がゆるみ、頬がわずかに持ち上がる。

 

 母親には、ただ機嫌がいいだけに見えただろう。

 

 自分の膝の上で笑った子供を見て、母親はさらに優しく目を細めた。

 

 その表情を、彼は見ていた。

 

 見て、理解して、記録した。

 

 そして、彼の目から笑みが消えた。

 

 セフィラを起動する。

 

 

 透明な石が、袖の内側でかすかに震えた。

 

 幼児の肌に触れているはずなのに、そこだけ温度がない。

 

 冷たいのではない。

 

 熱いのでもない。

 

 物質としての温度から、わずかに外れ始めていた。

 

 彼は母親の服を掴んだまま、身を寄せる。

 

 甘えるように。

 

 眠たがるように。

 

 母親の胸元へ、透明な石を押し当てる。

 

 皮膚は裂かない。

 

 肉も傷つけない。

 

 血も流さない。

 

 前世と同じだ。

 

 対象の肉体を外側から破壊して、そこへ異物を押し込むのではない。

 

 そんな雑な埋入では、拒絶反応が先に出る。

 

 必要なのは、最初からそこにあったと世界に思わせること。

 

 肉体の履歴に、礼装の存在を滑り込ませること。

 

 これは異物ではない。

 

 これは後から加えられたものではない。

 

 これは、この女の内側に初めから存在していたものだ。

 

 そう誤認させる。

 

 類感魔術の応用。

 

 偽装された連続性。

 

 透明な石が、母親の胸元で音もなく沈んだ。

 

 布を通り、皮膚を通り、肉を裂かず、血を零さず、そこにあったものが最初から内側に存在していたように。

 

 セフィラは母親の体内へ定着した。

 

 母親が、ほんの少しだけ眉を寄せる。

 

「ん……?」

 

「どうした?」

 

 父親がコーヒーカップを置く。

 

 陶器がテーブルに触れる、小さな音。

 

 その音さえ、彼には遠かった。

 

「ううん。なんか、今、変な感じがして」

 

 母親は笑おうとした。

 

 心配をかけまいとする笑み。

 

 ほんの少し胸の奥に違和感を覚えただけで、まだ痛みではない。

 

 まだ恐怖ではない。

 

 まだ、日常の範囲内にあるものとして処理しようとしている顔だった。

 

 その笑みの奥で、母親の魔力核が揺れた。

 

 彼は観測を始めた。

 

 心拍。

 

 体温。

 

 呼吸。

 

 筋肉の緊張。

 

 血流。

 

 魔力核反応。

 

 セフィラ定着率。

 

 接続深度。

 

 霊的圧力。

 

 対象との同調。

 

 偶像化進行。

 

 位相接続。

 

 幼児の肉体では、まともな測定器具など使えない。

 

 記録装置もない。

 

 術式盤もない。

 

 数値化するための補助礼装もない。

 

 だが、目はある。

 

 魂に焼き付いた経験がある。

 

 前世で千を超える失敗を観測した記憶がある。

 

 だから分かる。

 

 今、母親の内側で何が起きているのか。

 

 セフィラが開く。

 

 透明な石を核にして、母親の肉体へ天使という概念の輪郭が重ねられる。

 

 完全ではない。

 

 粗い。

 

 薄い。

 

 歪んでいる。

 

 だが、一瞬だけなら足場になる。

 

 世界の側に、これは人間ではなく天使である、と誤認させる。

 

 その誤認を楔にして、通常なら閉じている位相の縁へ手を掛ける。

 

 世界の薄皮の向こうへ、細い指を掛ける。

 

 前世の原型二十三号より、はるかに粗い。

 

 不安定で、危うく、今にも崩れそうだ。

 

 術式の縁は震え、接続面は擦れ、遮断機構は最初から頼りない。

 

 前世なら、予備実験の段階で廃棄している。

 

 本番に使うなど、正気の沙汰ではない。

 

 だが、繋がった。

 

 位相の向こう側から、白いものが流れ込む。

 

 光ではない。

 

 熱でもない。

 

 魔力でもない。

 

 だが彼の脳は、それを白と認識した。

 

 視覚で見ているわけではない。

 

 皮膚で感じているわけでもない。

 

 魔術回路を通して流れてくる情報が、彼の認識の中で白という形を取った。

 

 テレズマ。

 

 天使の力。

 

 あるいは、彼がそう呼んでいるだけの、上位位相から流れ込む異質な圧。

 

 人間の肉体に流し込むには、あまりにも質が違うもの。

 

 魔術回路を通せば焼ける。

 

 魂に触れれば歪む。

 

 肉体に宿せば形を保てない。

 

 前世で何度も見た。

 

 何度も壊した。

 

 何度も失敗した。

 

 それが、母親の内側へ入った。

 

 一秒。

 

 母親の核が反応した。

 

 二秒。

 

 拒絶しない。

 

 三秒。

 

 焼けない。

 

 四秒。

 

 通り抜けない。

 

 五秒。

 

 溜めた。

 

 彼の心臓が跳ねた。

 

 幼児の心臓ではない。

 

 死んだ魔術師の心臓が、記憶の底で跳ねた。

 

 魔術回路ではない。

 

 前世の検体一〇四三は、魔術回路に沿って白い筋を走らせた。

 

 焼かれながら、耐えた。

 

 耐えたせいで流入量が増え、最後には人間という形を内側から押し出された。

 

 耐久では駄目だった。

 

 流路では駄目だった。

 

 管に流せば、管が焼ける。

 

 神経に通せば、神経が死ぬ。

 

 人間の形は、天使の力に耐えるようにはできていなかった。

 

 だが、これは違う。

 

 母親の核は、テレズマを流すための管ではない。

 

 抱え込む場所だ。

 

 異質な圧を、内側に留めている。

 

 流していない。

 

 通していない。

 

 受けている。

 

 抱いている。

 

 しかも、想定を超えて。

 

 彼は笑いそうになった。

 

 観測中でなければ、たぶん笑っていた。

 

 声が出せたなら、何か最低の軽口を叩いていただろう。

 

 やはり必要だったのは回路ではなかった、と。

 

 四十年近い人生と、千を超える検体と、自分の死は、この一瞬のためにあったのだと。

 

 母親の膝の上で、母親を観測しながら、母親を実験対象にして、そんなことを言ったかもしれない。

 

 だが、彼の目は笑っていなかった。

 

 蓄積量が増える。

 

 想定より速い。

 

 想定より深い。

 

 母親の核は、テレズマを受けている。

 

 受け入れている。

 

 人間用ではない神秘を、人間の内側に抱え込んでいる。

 

 成功。

 

 成功だ。

 

 いや。

 

 違う。

 

 制御式が軋んだ。

 

 セフィラが震える。

 

 透明な石を疑似核にした即席の礼装が、母親の内側で悲鳴を上げる。

 

 接続面が広がる。

 

 母親の核は耐えている。

 

 耐えてしまっている。

 

 本来なら、粗悪なセフィラの限界に合わせて、流入はすぐに途切れるはずだった。

 

 器が浅ければ、拒絶が起きる。

 

 器が脆ければ、崩れる。

 

 器が小さければ、溢れる。

 

 そのどれかが起これば、まだ遮断できた。

 

 だが、母親の核は受けていた。

 

 受け入れ、溜め、さらに求めるように位相の向こうを引いている。

 

 耐えるほど、流入量が増える。

 

 前世と同じだ。

 

 違う道で、同じ崖へ向かっている。

 

 彼は理解した。

 

 失敗したのは母親の核ではない。

 

 核は想定以上だった。

 

 器としては、むしろ理想に近い。

 

 問題は、そこへ接続した礼装の方だ。

 

 失敗したのは、セフィラの精度だ。

 

 即席の疑似核では、この器の反応を制御できない。

 

「熱い……」

 

 母親が呟いた。

 

 

 その声は、朝の家庭に落ちた小さなひびだった。

 

「おい?」

 

 父親が立ち上がる。

 

「大丈夫か?」

 

「なんか、胸の奥が、熱くて……」

 

 母親は彼を抱いたまま、自分の胸元へ手を当てた。

 

 そこに傷はない。

 

 血もない。

 

 皮膚も裂けていない。

 

 だが、内側で何かが動いていた。

 

 胸の奥。

 

 肋骨の内側。

 

 心臓よりも深い場所で、異物が身をよじるように蠢いている。

 

 母親の指が、服の上から胸元を掴んだ。

 

「っ、あ……?」

 

 声が裏返る。

 

 次の瞬間、母親の体が大きく震えた。

 

 抱いていた彼を落としかけるほど、背中が反り、喉が引きつり、呼吸が乱れる。

 

「おい!」

 

 父親が駆け寄る。

 

「どうした、なあ、大丈夫か!」

 

「な、に……これ……っ、やだ、なに、なにか、いる……!」

 

 母親は胸を押さえたまま、苦しげに身を丸めた。

 

 体の中を、何かが這い回っている。

 

 血管を逆流し、神経を引っ掻き、内臓の隙間で暴れ、出口を探している。

 

 そんなふうに見えた。

 

 いや、実際には違う。

 

 肉体の中に虫がいるわけではない。

 

 暴れているのは、位相の向こうから流れ込んだ異質な圧だ。

 

 母親の核はそれを受け止めた。

 

 受け止めてしまった。

 

 だからこそ、内側で逃げ場を失った力が荒れ狂っている。

 

 彼は母親の腕の中で、それを観測していた。

 

 心拍、乱調。

 

 呼吸、浅い。

 

 体温、急上昇。

 

 魔力核、過負荷。

 

 セフィラ、制御不能。

 

 テレズマ流入、継続。

 

 遮断、失敗。

 

 ああ。

 

 彼は、ひどく冷静に思った。

 

 今回も爆散するな。

 

 父親の顔色が変わる。

 

「救急車――」

 

 言葉は途中で途切れた。

 

 その時にはもう、ハングドマンは働いていた。

 

 起動したのではない。

 

 肌着の下に隠された瞬間から、それは彼の魔力を吸い、彼の肉体の一部に近いものとして循環の中へ組み込まれていた。

 

 菓子箱の厚紙。

 

 黒いクレヨン。

 

 幼児の血を含んだかさぶた。

 

 材料だけを見れば、ただの稚拙な手作りカードである。

 

 だが、類感魔術で名を重ね、形を重ね、役割を重ねたそれは、ただの落書きでは終わらない。

 

 世界の側に、これはハングドマンである、と誤認させる。

 

 吊られた男。

 

 受難を引き受ける者。

 

 破壊を受ける者。

 

 逆さに吊られ、世界から半歩ずれた者。

 

 自らではなく、カードの中の男を吊るす。

 

 破滅が彼へ届く前に、その意味を紙片へ逃がす。

 

 肌着の下、汗と体温で湿った紙片が熱を持った。

 

 黒いクレヨンで描かれた歪な吊られた男。

 

 幼児の線で描かれた粗末な模造品。

 

 だがその瞬間、絵は本物の役割へ届いた。

 

 吊られた男。

 

 破壊を受ける者。

 

 犠牲となる者。

 

 逆さに吊られ、世界から半歩ずれた者。

 

 彼の代わりに、それが吊られる。

 

 次の瞬間、母親の内側で白が弾けた。

 

 母親の形がほどける。

 

 血肉の細部を描く時間はなかった。

 

 世界は白で塗り潰された。

 

 父親の叫び。

 

 母親の腕。

 

 リビングのマット。

 

 積み木。

 

 新聞。

 

 洗い終わった皿。

 

 焼いたパンの匂い。

 

 洗濯機の音。

 

 幸福な家庭を作っていたすべてが、一瞬で光に飲まれた。

 

 白い閃光は、昼前の住宅街に落ちた。

 

 それは爆発というより、空から小型の隕石が叩きつけられたような現象だった。

 

 轟音。

 

 衝撃。

 

 地面をえぐる圧力。

 

 家屋の骨組みが軋む暇もなく消し飛び、窓ガラスは光を反射する前に粉になった。

 

 熱と風が同時に走り、庭木は根ごと引き抜かれ、車は玩具のように転がり、電柱は途中から折れて火花を散らした。

 

 中心にあった家は、家だったという痕跡すら残さなかった。

 

 家が消えた。

 

 庭が消えた。

 

 隣家が消えた。

 

 道路が消えた。

 

 半径一キロほどの住宅街が、丸く抉り取られた。

 

 そこだけ、街の地図から雑にくり抜かれたようだった。

 

 衝撃波はさらに遠くへ走り、十キロ少々先の窓ガラスを割った。

 

 遅れて、車の警報音があちこちで鳴り始める。

 

 犬が吠える。

 

 人が叫ぶ。

 

 誰かが空を見上げる。

 

 誰かが地面に伏せる。

 

 誰かが、何が起きたのか分からないまま、割れた窓の向こうで立ち尽くす。

 

 昼前の街に、白い閃光が咲いた。

 

 後に、それは小隕石の落下として処理される。

 

 そういうことにしなければ、説明できなかったからだ。

 

 母親は死んだ。

 

 父親も死んだ。

 

 家も、街も、幸福だった一週間も、まとめて吹き飛んだ。

 

 だが、彼だけは生きていた。

 

 ハングドマンが肩代わりしたからだ。

 

 起動したのではない。

 

 それは最初から、肌着の下で彼の魔力を吸い、彼の肉体と繋がり続けていた。

 

 破滅が彼へ届く瞬間、その意味を引き受けただけだ。

 

 紙片は黒く焼けていた。

 

 吊られた男の絵は、胸から腹にかけて裂けている。

 

 逆さの人影は、まるで本当に内側から爆ぜたように歪んでいた。

 

 ただの厚紙。

 

 ただのクレヨン。

 

 ただの幼児の落書き。

 

 だが、類感魔術によって本物の象徴へ接続されたそれは、一度だけ、彼の死を引き受けた。

 

 使い捨て。

 

 再利用不可。

 

 性能としては申し分ない。

 

 見た目は最悪。

 

 彼は、クレーターの端で泣いていた。

 

 火傷。

 

 打撲。

 

 肺に入った煙。

 

 耳鳴り。

 

 熱。

 

 痛み。

 

 空腹。

 

 幼児の肉体は、それらすべてを泣き声に変換する。

 

 実に単純である。

 

 そして今だけは、実に便利だった。

 

「声がする!」

 

「子供だ!」

 

「生きてるぞ!」

 

 大人たちの声が聞こえた。

 

 救助隊員が走ってくる。

 

 誰かが彼を抱き上げる。

 

 毛布で包む。

 

 大丈夫だ、と繰り返す。

 

 何が大丈夫なのかは分からない。

 

 母親は大丈夫ではない。

 

 父親も大丈夫ではない。

 

 家も、街も、大丈夫ではない。

 

 だが、研究は大丈夫だった。

 

 彼は泣いていた。

 

 涙は本物だった。

 

 痛みも本物だった。

 

 恐怖も、肉体の震えも本物だった。

 

 外から見れば、家族を失った哀れな幼児だった。

 

 小隕石落下事故の唯一の生存者。

 

 奇跡的に助かった子供。

 

 誰も、その内側で魔術師が観測結果を整理しているとは思わない。

 

 母親、死亡。

 

 父親、死亡。

 

 周辺被害、甚大。

 

 即席セフィラ、破損。

 

 ハングドマン、消費。

 

 実験環境、喪失。

 

 実験は失敗。

 

 ただし、完全な失敗ではない。

 

 母親の核は、テレズマを受けた。

 

 想定を超えて溜めた。

 

 魔術回路ではない。

 

 この世界には、魔力を内側に抱え込む器がある。

 

 問題は制御。

 

 セフィラの精度。

 

 流入量。

 

 遮断機構。

 

 固定方法。

 

 対象選定。

 

 改善点は多い。

 

 多いということは、次があるということだ。

 

 救助隊員の腕の中で、彼は灰色の空を見上げた。

 

 泣きながら。

 

 幼児の顔で。

 

 内側だけは、ひどく静かに笑って。

 

 そういえば。

 

 母親の名前は、何だったか。

 

 父親の名前は、何だったか。

 

 この一週間、何度も呼ばれていたはずだ。

 

 何度も聞いていたはずだ。

 

 だが、思い出せない。

 

 まあ、いいか。

 

 必要なら、あとで戸籍か何かを見れば分かる。

 

 実験は、続けられる。

 

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