「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
夜空へ浮かんでいた羽状端末が、一斉になのはへ先端を向けた。
海鳴市を攻撃していたものまで戻ってきたわけではない。それでも、はやての周囲に残っているだけで百を優に超える漆黒の羽根が、それまで相手をしていたフェイトや守護騎士たちから興味を失ったように向きを変え、なのはを中心として大きく散開していく。
その変化を見て、フェイトは握っていたなのはの手を離した。
「なのは!」
バルディッシュ・アサルトを構えようとしたフェイトの肩へ、なのはの左手が触れた。
「フェイトちゃん、ちょっと下がってて」
「でも――」
「大丈夫って言いたいんじゃないよ」
いつものなのはなら、そこで笑っていたかもしれない。けれど今は、フェイトを安心させるための笑顔を作る余裕さえなかった。
なのは自身、自分がどこまで何をできるのか分かっていない。
右手に握った巨大な鍵が何なのかも、その名前すら知らない。
それなのに、この鍵をどう扱えばいいのかだけは分かる。
手を動かす時に、腕の筋肉がどのように縮んでいるのかを考えないのと同じだった。何を開き、何を閉じたいのか。その結果だけを思い浮かべれば、後は身体の方が勝手に答えを返してくれる。
羽状端末の表面を走る黒い光が強くなった。
次の瞬間、数え切れないほどの光線が放たれた。
正面からだけではない。なのはの左右へ回り込んでいた端末も、高度を取っていた端末も、地上近くまで降下していた端末も同時に攻撃を開始し、黒い光によって逃げ道そのものを塗り潰そうとしてくる。
フェイトがなのはの前へ出るより早く、なのはは巨大な鍵を横へ振った。
鍵の先端が何もない空間へ触れた瞬間、その場所に細い金色の線が走った。線は上下へ伸びながら左右へ裂け、その向こう側に、海鳴市とは全く違う景色が現れる。
夜の海だった。
なのはが以前、空から見たことのある沖合。
迫っていた黒い光線の一部が開いた空間へ飛び込み、なのはたちへ届くことなく消える。
消えたように見えただけだった。
数秒後、遥か沖合の海面が持ち上がった。
巨大な水柱が立ち上がり、海面から白い蒸気が噴き上がる。その光景を見たなのはは、自分が攻撃を消滅させたのではなく、開いた場所の先へそのまま通したのだと理解した。
「なのは……今の……?」
「私にも、まだよく分からない」
そう答えながら、なのはは再び鍵を振るった。
今度は一つではない。左右から迫っていた光線の前へ複数の裂け目が生まれ、それぞれが人気のない山中や雲の上、街から遠く離れた海上へ繋がっていく。
黒い光は次々とそこへ吸い込まれ、なのはたちには届かなかった。
だが、安心できたのはほんの一瞬だった。
山中へ逃がした砲撃が斜面を大きく削り、沖合へ送った一撃が再び海を持ち上げる。雲の上へ抜けた光は夜空の彼方へ伸びていったが、その先に何があるのかまでは、なのはにも分からない。
これでは防いだとは言えない。
被害の場所を変えただけだった。
「……駄目だ」
「なのは?」
なのはははやてを見つめたまま、無意識に鍵を握り直していた。
はやての周囲では、先ほど攻撃に参加した端末が再び配置を変えている。さらに、守護騎士たちとの戦闘で破壊された端末を補うように空間へ黒い亀裂が生まれ、その中から新しい羽状端末が次々と姿を現していた。
一度なら海へ逃がせる。
二度目も山へ逃がせるかもしれない。
だが、はやてが何百回撃ってくるのか分からない以上、地球のどこへ逃がしたところで同じだった。
海も、山も、空も、街も、全部同じ星の上にある。
このまま戦い続ければ、はやてを助けるよりも先に地球の方が耐えられなくなる。
「ここじゃ戦えない」
なのはの声を、すぐそばにいたフェイトだけが聞いた。
「場所を変えないと駄目。このままじゃ、地球が壊れちゃう」
「場所を変えるって……」
フェイトの問いへ答えようとしたところで、はやてが動いた。
何をしようとしているのか理解したわけではないのだろう。それでも、なのはが先ほどまでとは違う何かを始めようとしていることだけは察したらしい。
羽状端末が一斉に集まり始める。
一枚ずつではない。
十枚、二十枚という端末が円を描くように並び、それぞれの先端を一ヶ所へ向けながら王冠にも似た巨大な構造を作り上げていく。
砲冠。
なのはたちはその名を知らない。
それでも、先ほど自分たちをまとめて消し飛ばそうとしたものと同じ構造だということだけは分かった。
「なのは、来るよ!」
「うん!」
なのはは巨大な鍵を夜空へ突き立てた。
今度は、すぐには動かなかった。
同じ地球の中にある二つの場所を繋いだ時とは、比較にならないほどの抵抗が両腕へ返ってくる。
自分が知っている場所。
地球ではない場所。
誰も巻き込まない場所。
なのはは記憶を辿った。
思い浮かべたのは、アースラから見た宇宙だった。
地球から遠く離れ、青い星さえ小さく見えるほど何もない空間。そこならば、少なくとも地上に暮らす人たちへ直接砲撃が届くことはない。
ただし、フェイトたちは人間だ。
自分やはやてのように、身体そのものが別の力へ置き換わっているわけではない。
ならば、全員がいるこの一帯そのものを切り離せばいい。
「開いて……!」
なのはが鍵を回し始めた。
金色の光輪が強く輝き、海鳴市の夜空へ巨大な亀裂が走る。
その瞬間、完成した砲冠から黒い光柱が放たれた。
「なのは!」
フェイトが前へ出ようとする。
「来ないで!」
なのはは鍵から手を離さなかった。
迫ってくる黒い光柱の前に空間を開き、その出口をはやてから大きく外れた上空へ繋ぐ。
黒い光はなのはの数十メートル手前で進路を失い、突然別の方向へ折れ曲がったように見えた。そのまま夜空を貫き、海鳴市から遠ざかっていく。
シグナムが目を見開いた。
「何だ、今のは……」
答えられる者はいなかった。
なのはが突然身につけた力が何なのか、フェイトにも、守護騎士にも、リインフォースにも分からない。
分かるのは、なのはが自分たちとは異なる方法で、はやての攻撃へ干渉できるということだけだった。
巨大な亀裂がさらに広がる。
向こう側に見えるのは、地面も空もない暗い宇宙。
なのははその景色を確認すると、今度は自分たちを囲うように鍵を動かした。
海鳴市上空の空気を含め、戦っている一帯だけを外側から閉じる。その上で、閉じた空間の行き先を目の前に開いた宇宙へ繋ぎ直す。
なのは自身、その仕組みを言葉で説明できるわけではない。
それでも、できるということだけは確信していた。
「みんな、私から離れないで!」
フェイトたちが意味を理解するより早く、なのはは鍵を最後まで回した。
景色が消えた。
◇
移動した、という感覚はほとんどなかった。
フェイトが最初に気づいたのは、眼下にあった海鳴市がなくなっていることだった。
街の灯りも、燃えていた建物も、遠くで鳴っていた警報も消えている。その代わり、周囲には黒い宇宙がどこまでも広がり、遥か遠くで星々の光だけが静かに瞬いていた。
それでも息はできた。
冷たくもない。
フェイトが混乱しながら周囲を見回すと、自分たちのいる一帯だけは海鳴市上空の空気をそのまま持ち込んだように保たれている。
「ここ……宇宙?」
「多分」
「多分って……」
「私も初めてやったから」
なのはが困ったように答えた。
そんな二人の会話を、ヴィータは呆然と聞いていた。
「初めてで、こんなことすんなよ……」
なのはには返事をする余裕がなかった。
はやても一緒に来ている。
当然だった。
なのはが移したのは、自分たちだけではない。
はやてと、その周囲を飛び回っていた羽状端末まで含めた戦場そのものだった。
ただ一つだけ、地球と違うことがある。
ここには街がない。
山もなければ、海もない。
砲撃の向こうに誰かの家があることを考える必要もなければ、地面へ落ちた攻撃が避難している人々を巻き込むこともない。
なのはがそのことを理解したのと、はやての出力が跳ね上がったのはほとんど同時だった。
黒い円環の回転が速くなる。
空間に生まれる亀裂の数が一気に増え、そこから何百という羽状端末が姿を現した。
海鳴市では見なかった規模だった。
十基を超える砲冠が同時に形成され、さらにその外側を数百枚の端末が埋め尽くす。
フェイトの顔色が変わる。
「これを……地球でやられたら……」
「だから、ここに来たの」
なのはは巨大な鍵を構えた。
はやても、なのはを見ている。
青い瞳には、先ほどまでと同じように感情らしいものがほとんど見えなかった。
ただ。
なのはという存在だけは、明確に敵として認識したらしい。
『――――q障害rw』
声が聞こえた。
八神はやての声でありながら、人間の言葉とは呼べない音が幾重にも重なっている。フェイトには意味を掴めず、シグナムたちも険しい表情を浮かべるしかなかった。
リインフォースだけが、僅かに眉を動かした。
「主は……高町なのはを、目的遂行の障害と認識している」
なのははそれを聞いても鍵を下ろさなかった。
「そっか」
ほんの少しだけ寂しそうに答える。
「だったら、止めるね」
砲冠が一斉に発射された。
宇宙を黒い光が埋めた。
地球上では一発を逃がすだけでも、その先の被害を考えなければならなかった。けれど今は違う。
なのはは最初の光柱を開いた空間へ流し、その出口を別の砲冠の正面へ繋いだ。自分自身の攻撃を受けた砲冠が崩壊するより早く、二本目と三本目も同じように進路を変え、周囲を飛んでいた羽状端末の群れへ叩き込まれる。
残りは間に合わなかった。
黒い光がなのはを飲み込んだ。
「なのは!」
フェイトが飛び出そうとした。
次の瞬間、黒い光柱が途切れる。
なのははまだそこにいた。
右肩から先が消えている。
胸の一部まで抉られ、霊装も大きく失われていた。
普通の人間なら、立っていることさえできない損傷だった。
しかし、傷口から血は流れなかった。
代わりに金色の光が溢れ、それが失われた身体の輪郭を作り始める。肩から骨格が伸び、その上を肉体が覆い、最後に霊装までが再構成されると、なのはは戻った右手を一度だけ握った。
フェイトは何も言えなくなった。
怖かった。
なのはの姿をしている。
なのはの声で話している。
なのはの記憶も残っている。
それでも、自分の知っている人間の身体ではなくなっているという事実だけは、否定できなかった。
なのははフェイトの表情に気づいた。
「大丈夫」
口にしてから、少しだけ迷う。
「……今度は、本当に大丈夫みたい」
フェイトが何か言うより先に、はやての羽状端末が再び動き始めた。
なのはも視線を戻す。
普通に撃ち合っても終わらない。
自分が戻るなら、はやても同じだろう。
なら。
壊すために攻撃する必要はない。
なのはは巨大な鍵を上空へ向けた。
場所を思い浮かべる。
太陽の周囲を回る無数の小惑星。
天体として知っている場所。
そこへ繋ぐ。
鍵を回した瞬間、はやての遥か上方へ巨大な円形の開口部が現れた。
その向こうに、無数の岩塊が浮かんでいる。
最初の一つがこちら側へ抜けた。
続いて二つ目。
三つ目。
数十メートル級の小惑星が、次々と開口部を抜けて戦場へ飛び込んでくる。
「おい……」
ヴィータが言葉を失った。
宇宙空間に上下など存在しない。
落ちているわけでもなかった。
向こう側にある小惑星は、もともと太陽の周囲を運動している。その岩塊が進む先と、はやてのいる空間との距離を、なのはがなくしていた。
開口部を通過した小惑星は、それまで持っていた運動を失うことなく、そのままはやてへ向かって飛び込んでいく。
なのはが天体を作ったわけではない。
そこに存在しているものとの距離をなくし、その進行先へはやてのいる座標を繋いだだけだった。
はやては逃げなかった。
何十枚もの羽状端末が一斉に開口部へ照準を向け、黒い光を放つ。
小惑星が砕ける。
大きな岩塊が丸ごと消し飛び、その破片が周囲へ広がるより早く、次の小惑星が飛び込んでくる。
一つ。
二つ。
十。
さらに、その後ろから数え切れないほどの岩塊が続いた。
なのはは開口部を増やした。
はやての正面。
背後。
左右。
複数の地点が小惑星帯へ繋がり、逃げ道を削るように岩塊が殺到する。
羽状端末が迎撃する。
砲冠が一基、その中心へ光を集めた。
黒い光柱が放たれ、小惑星の群れを一直線に消し飛ばしていく。
その光柱が途切れるより早く、なのはははやてとの距離を閉じた。
百メートル近く離れていたはずの二人の間が、突然数メートルにまで縮まる。
なのはが巨大な鍵を振るう。
はやての前へ黒い防壁が出現した。
鍵がそこへ触れる。
破壊音はなかった。
代わりに防壁の中央へ金色の線が入り、閉ざされていた門を開くように左右へ分かれた。
なのはがその間へ飛び込む。
はやての右手が動いた。
至近距離から黒い光が噴き出し、なのはの左半身を大きく削り取る。
それでも、なのはは止まらない。
消えた身体が再構成されるよりも早く、残っていた右手だけで巨大な鍵を突き出した。
はやてが身を逸らす。
鍵は僅かに届かなかった。
直後、周囲から羽状端末が殺到し、なのはをまとめて砲撃した。
今度は全身が黒い光へ呑まれた。
フェイトの喉から悲鳴が漏れる。
光が消えた後、なのはの身体は腰から上の大半を失っていた。
それでも死なない。
散っていた金色の粒子が集まり、失われた身体を再び形作っていく。
はやても同じだった。
巨大な小惑星が側面から直撃し、身体の半分近くが岩塊とともに砕け散ったにもかかわらず、周囲の黒い力が集まると何事もなかったように元の姿へ戻ってしまう。
シグナムは、その光景を見ながらレヴァンティンを握り締めた。
自分たちが割って入る意味がない。
意味がないどころか、入ればなのはの邪魔になる。
なのはは自分たちを守りながら戦っているのだ。
二人の戦闘が始まってから、フェイトたちへ向かった流れ弾は一発も届いていない。はやてがこちらへ端末を向けるたび、なのはが空間を開いて射線を逸らし、それでも抜けてきた攻撃は彼女たちのいる領域へ入る直前に小さな裂け目へ呑み込まれ、別の方向へ流されている。
先ほどなのはが戦場を移した際、この一帯そのものを何らかの形で閉じていた。
何をしたのかは分からない。
ただ、自分たちはなのはに守られている。
「……逆じゃねえか」
ヴィータが悔しそうに呟いた。
「アタシらが、あいつを助けなきゃならねえんじゃねえのかよ」
「今は違う」
シグナムも苦い表情を浮かべた。
「あれは、我々が入ってよい戦いではない」
その横で、リインフォースは戦いそのものとは別のものを見ていた。
なのはとはやては、互いに何度も致命的な損傷を受けている。
それでも戻る。
どちらの力も尽きる兆候がない。
ならば、この戦いに勝敗がつくのを待つという選択肢そのものが間違っている。
はやてを救わなければならない。
身体を壊すことではない。
力を使い切らせることでもない。
もっと別の方法が必要だった。
リインフォースの脳裏へ、かつて見た白い世界が浮かんだ。
八神はやての内側。
肉体でも、闇の書の頁でもない。
主の記憶と感情が形を持っていた場所。
そこでリインフォースは、車椅子へ座ったはやてと話した。
はやてが何を恐れているのか。
何を失いたくないのか。
自分を家族にしてほしいと泣きながら願ったことも、知っている。
そして最後に。
その世界は黒い彼岸花へ呑み込まれた。
「……そこだ」
小さく漏れた声に、シグナムが振り返った。
「何がだ?」
「主はやては、消えていない」
リインフォースは確信を持って言ったわけではない。
だが、もし完全に消えているのなら、あの時に見た涙も、今の力の根底に残っている執着も説明できない。
「今ここで動いているものが、主はやての全てではない。私は一度、主の内側へ入っている。あそこへ辿り着ければ、本人へ直接話しかけられるかもしれない」
「できるのか?」
「今の私一人では無理だ」
リインフォースは即答した。
闇の書の本体から切り離された今、以前と同じことを再現できるほどの力は残っていない。
けれど、自分一人で足りないなら。
使えるものは、ここにある。
リインフォースはシグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラを見回し、最後にフェイトへ視線を向けた。
「皆の力を貸してくれ」
ヴィータが一瞬だけ目を丸くした。
それから、すぐに口元を歪める。
「最初からそのつもりだ」
「何をすればいい?」
シグナムも迷わなかった。
「私を中心に術式を組む。守護騎士システムと主従接続を足場にして、主はやての精神領域を探す。フェイト、お前の魔力も借りたい」
「うん」
フェイトは即座に頷いた。
リインフォースは闇の書を開いた。
頁が高速でめくられ、彼女の足元へ巨大なベルカ式魔法陣が展開される。
そこから四方向へ術式が伸び、シグナムたち守護騎士へ接続された。さらに一本がフェイトの足元へ届くと、五人分の魔力がゆっくりとリインフォースへ集まり始める。
紫色の魔法陣が大きくなる。
だが。
そこで止まった。
「リインフォース?」
シャマルが不安そうに呼びかける。
「道が見つからない」
「見つからない?」
「接続自体はある。主従契約も残っている。それなのに、そこから先へ進めない」
リインフォースは目を閉じた。
術式の先に何かがある。
壁。
扉。
どう表現しても正確ではない。
ただ、八神はやての精神へ繋がる場所が、内側から強く拒絶されている。
「主はやて自身が閉じている……」
◇
その言葉を、なのはも聞いていた。
はやて自身が閉じている。
なのはは巨大な鍵を見る。
一瞬だけ、意味が繋がった。
けれど、考えている余裕はなかった。
はやてが今まで以上の出力を開始したからだ。
羽状端末が一気に広がり、なのはを中心とした空間そのものを覆うように配置される。
逃げ道を潰した。
そう理解した瞬間、全方位から黒い光が放たれた。
なのはは正面だけを開いた。
残りは受けた。
右脚が消える。
背中が大きく抉られる。
左腕の肘から先がなくなる。
それでも、正面に開いた道だけは閉じなかった。
その先には。
はやてがいる。
なのはは再構成を待たず、残った身体のまま飛び込んだ。
距離を閉じる。
何十メートルという空間を、一瞬でなくす。
はやての目前へ出た。
「はやてちゃん!」
巨大な鍵を振り下ろす。
はやては横へ避けた。
なのははその逃げた先を閉じる。
前へ進めない。
はやてが反対方向へ加速する。
今度は、そちらの空間を閉じた。
はやての身体が僅かに止まる。
その間に、なのはが追いつく。
鍵を突き出す。
黒い防壁が生まれる。
なのはは防壁を開く。
はやてはさらに後ろへ下がる。
そこを閉じる。
逃げ道が一つずつなくなっていく。
なのはがやっていることを、はやても理解し始めていた。
『……閉じんといて。うちを――kひとりにf――せんといて……』
関西訛りの残る声へ、人間の喉では作れない音が重なった。
なのはが一瞬だけ目を見開く。
けれど、その意味を考える暇はなかった。
黒い光が爆発する。
なのはが吹き飛ばされた。
胸から腹にかけて大きく消失し、そのまま数百メートル先まで弾かれる。
それでも。
なのはは止まらなかった。
再構成された両手で鍵を握り、はやてへ向かって再び加速する。
頭上へ空間を開く。
小惑星が飛び込む。
はやてが迎撃する。
右からも開く。
左からも。
何百という岩塊が同時に殺到し、はやての羽状端末がそちらへ照準を取らざるを得なくなる。
なのはが狙っていたのは、小惑星ではやてを倒すことではなかった。
その程度で終わらないことは、もう分かっている。
欲しいのは。
一瞬。
はやての視線と羽状端末が、自分以外へ向く時間だった。
巨大な小惑星が一つ、砲撃を抜けた。
はやてへ直撃する。
黒い少女の身体が岩塊の中へ消える。
羽状端末が一斉に小惑星へ向いた。
なのははその瞬間に全ての開口部を閉じた。
そして。
はやてとの距離も閉じた。
砕けた小惑星の破片の中から再構成されようとしていた少女の目の前へ、なのはが現れる。
「捕まえた!」
巨大な鍵を。
はやての胸元へ突き立てた。
初めて。
完全に届いた。
なのはは両手で鍵を握り、力いっぱい回した。
「止まって!」
はやての身体が硬直する。
右腕が止まり。
左腕が止まる。
周囲を飛んでいた羽状端末はまだ動いていた。
黒い光が、なのはの背中へ突き刺さる。
身体が大きく削られる。
それでも。
鍵を離さない。
「まだ……!」
なのははさらに回した。
今度は、はやての飛行を閉じる。
次に、周囲へ命令を送り続けている経路を閉じる。
羽状端末の動きが鈍くなった。
黒い光線がさらに何本も飛んでくる。
なのはの肩が消え、霊装が崩れる。
それでも、残った腕で鍵を回し続ける。
「はやてちゃん……少しだけ……!」
金色の光輪が強く輝いた。
「大人しくしてて!」
最後の抵抗が消えた。
空中を埋め尽くしていた羽状端末が、一斉に停止した。
砲冠へ集まりかけていた黒い光も動きを失い、はやて自身もなのはの目の前で完全に静止している。
破壊したわけではない。
動くという機能を閉じた。
ほんの僅かな時間だけ。
けれど。
それで十分だった。
「リインフォースさん!」
『こちらも準備はできている! だが、やはり入れない!』
「閉じてるんだよね!」
『ああ! 主自身が、内側への経路を――』
そこまで聞けば十分だった。
なのはは、はやての胸へ突き立てていた巨大な鍵を一度引き抜いた。
拘束はすぐには消えない。
それでも長くは保たない。
ならば、急ぐ。
なのはは鍵の先端をもう一度はやての胸へ触れさせた。
今度は。
閉じない。
「はやてちゃん」
目の前にいる少女は動かない。
なのはは、それでもいつものように話しかけた。
「みんな、来てるよ」
金色の鍵をゆっくりと逆方向へ回す。
「リインフォースさんも、シグナムさんたちも、フェイトちゃんも」
はやての胸元へ、細い金色の線が現れた。
「みんな、はやてちゃんに会いたいんだよ」
線が上下へ伸びる。
「だから」
なのはは鍵を握る手へ、もう一度力を込めた。
「開けるね」
かちり、と音がした。
はやての胸元に現れていた境界が、ゆっくりと左右へ開いた。
霊装を切り裂いたのではない。
肉体を開いたわけでもない。
そこに見えたのは臓器でも骨でもなく、どこまでも奥へ続く暗い空間だった。
その遥か向こう。
小さな光が見える。
『見つけた!』
リインフォースの声が震えた。
巨大なベルカ式魔法陣が一気に輝きを増し、守護騎士たちとフェイトから集められた魔力が、なのはによって開かれた境界へ流れ込んでいく。
今まで何度試しても掴めなかった道が、はっきりと形を持った。
「ここだ……!」
リインフォースは息を呑んだ。
「この先に、主はやてがいる!」
その言葉へ反応するように、動きを閉じられていたはやての身体が震えた。
「……いや……」
なのはが目を見開く。
ノイズではなかった。
世界の規格から外れた人外の音でもない。
病室で何度も聞いた。
いつもの。
八神はやての声だった。
「来んといて……」
ヴィータの顔が歪んだ。
けれど、泣かなかった。
「行くに決まってんだろ」
リインフォースは闇の書を胸元へ引き寄せ、完成した術式を固定した。
「全員、私の周囲へ集まれ。この道を使って主の精神領域へ入る」
シグナムたちが迷うはずもない。
シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラがリインフォースの周囲へ集まり、フェイトもすぐにその中へ入った。
フェイトはなのはを振り返る。
「なのはも来るよね?」
なのはは巨大な鍵を握ったまま、はやてを見た。
「でも、ここを開けてないと――」
「もう大丈夫だ」
リインフォースが答えた。
「入口は私の術式で捕捉した。皆から借りた力がある今なら、短時間だが私の側で固定できる」
「本当に?」
「ああ」
なのはは少しだけ迷った。
ここまで。
ずっとはやてと向かい合ってきた。
だったら最後まで。
自分も行きたい。
なのはは頷いた。
「うん」
巨大な鍵から手を離す。
金色の鍵は消えなかった。
はやての前へ浮かんだまま、開かれた境界を維持し続けている。
なのははフェイトの隣へ入った。
「行こう、フェイトちゃん」
「うん」
リインフォースが術式を起動した。
紫色の光が全員を包み込んだ。
◇
なのはが次に目を開けた時、そこに広がっていたのは、つい先ほどまでの宇宙とも、海鳴市ともまるで違う静かな世界だった。
空と地面の境界は曖昧で、風の音はもちろん、自分が立っているはずの足元からさえ音が返ってこない。その不自然な静けさの中で唯一はっきりと形を持っていたのが、なのはたちの足元から視界の果てまで埋め尽くすように咲いている黒い彼岸花だった。
そして、この場所へ入った瞬間。
なのはは奇妙な感覚を覚えていた。
外側では、はやての動きを閉じていられる時間などほんの僅かしかない。
それなのに、ここでは時間に追い立てられている感覚がない。
現実の数秒と、この場所で感じる時間が同じものではないのだと、理屈ではなく分かった。
だからといって、いつまでもいられるわけではない。
外に残した道が閉じれば、帰ることもできなくなる。
急がなければならないことだけは変わらなかった。
なのはは一瞬、自分たちが本当に同じ場所へ入れたのか不安になったが、隣を見ればフェイトがいる。その向こうにはシグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラの姿もあり、最後に紫色の光からリインフォースが現れたことで、全員が無事にここまで辿り着いたのだと分かった。
けれど、安堵したのはなのはたちだけだった。
リインフォースは周囲へ咲き乱れる黒い花を目にした瞬間、表情を強張らせていた。
「……ここだ」
掠れた声だった。
「私が、主はやてと最後にいた場所だ」
なのはたちには初めて見る世界だったが、リインフォースにとっては違う。
以前は白い花が咲いていた。
自分がはやてから離れようとし、はやてがそれを拒み、最後には全てが黒へ呑み込まれた。
あの時と同じ場所。
ただし。
今は白い花など、一輪も残っていない。
なのははリインフォースが見つめる先を追った。
黒い彼岸花が果てしなく続く世界の中、かなり離れた場所に一脚の車椅子が見える。
その上に座っている少女を見間違えるはずがなかった。
黒い霊装もない。
頭上を回転していた円環もない。
病院で友達と笑っていた時と同じ姿の八神はやてが、黒い花に囲まれながら一人で俯いている。
ヴィータが走り出そうとした。
けれど、数歩進んだところで足を止める。
あれほど会いたかった。
何度も名前を呼んだ。
それなのに、本当に目の前へはやてが現れると、何から言えばいいのか分からなくなっていた。
シグナムも、シャマルも、ザフィーラも同じだった。
守ると誓った。
家族になった。
それなのに。
自分たちは、はやてが一番恐れていたことをしてしまった。
一人にした。
その事実が、誰の足も簡単には前へ進ませてくれない。
やがて。
ヴィータが震える息を吐いた。
「……はやて」
小さな声だった。
けれど、この世界には風も雑音もない。
その声は、黒い花の向こうまで真っ直ぐ届いた。
車椅子へ座る少女の肩が僅かに揺れた。
ヴィータは今度こそ、一歩前へ出る。
「はやて。迎えに来たぞ」
シグナムも、その隣へ並んだ。
シャマルとザフィーラが続き、リインフォースもゆっくりと歩き出す。
フェイトはなのはの手を取った。
なのはも、その手を握り返した。
七人が黒い彼岸花を踏み分けながら、車椅子へ向かって歩いていく。
そして。
もう一度名前を呼ぼうとした、その時だった。
八神はやてが。
ゆっくりと顔を上げた。