「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
白い彼岸花に包まれていた感覚が薄れていき、なのはの意識はゆっくりと現実へ戻ってきた。
目を開けると、最初に見えたのは自分の正面へ浮かんでいる巨大な鍵だった。精神世界へ入る直前、なのはは〈封解主〉から手を離している。リインフォースの術式が精神領域への道を捕捉した後も、鍵だけははやての前へ残り、開かれた境界を維持していた。
なのはが手を伸ばすと、金色の柄は何の抵抗もなく掌へ収まった。
そこでようやく、周囲の景色が目に入ってくる。
海鳴市から遠く離れた宇宙空間には、先ほどまでの戦闘の痕跡が至るところに残っていた。なのはが開いていた小惑星帯への経路はすでに閉じており、新しい岩塊が飛び込んでくることはない。それでも、砲撃によって砕かれた無数の破片は消えることなく、それぞれが受けた力と元から持っていた運動のまま、戦場からゆっくりと離れていっている。
もし海鳴市の上空で、最後までこの戦いを続けていたら。
そこまで考えたところで、なのはは視線を正面へ戻した。今は地球の被害を想像している場合ではない。
「はやてちゃん……?」
目の前には、はやてがいる。
なのはによって閉じられていた身体の動きは、まだ完全には戻っていないらしい。はやては目を閉じたまま静かに浮かんでいたが、精神世界へ入る前とは明らかに様子が違っていた。
最初に変化したのは頭上の円環だった。
幾重にも重なって回転していた黒い構造へ一本の白い亀裂が走り、その内側から柔らかな光が漏れ始める。何かに破壊されたような崩れ方ではない。役目を終えた殻がほどけていくように、円環そのものが細かな光へ変わり、一つ、また一つと消えていった。
「主はやて……」
少し離れた場所で、リインフォースが息を呑んだ。
シグナムたちも精神世界から戻っていたが、誰もはやてへ近づこうとはしなかった。何が起こるか分からないからというより、今だけは自分たちが手を出すべきではないと感じているようだった。
やがて、黒い霊装の胸元へ白い光が生まれた。
光は肩から腕へ、腰から脚へと広がりながら、それまでの装束を内側から組み替えていく。単純に黒が白へ変わったわけではない。身体を覆っていた硬質な霊装は輪郭そのものを失い、その代わりに、幾重もの花弁を重ねたような純白の装束が形作られていった。
胸元には大きな白いリボンと淡い青の宝石が現れ、腰から広がるスカートには細い金色の意匠が走っている。腕を覆う長い手袋も、脚へ形作られた装飾も同じ白と金を基調としており、最後には細く尖った意匠を連ねた金色の冠が頭上へ現れた。
それでも、髪も顔立ちも変わらなかった。
目を閉じて浮かんでいる少女は、どう見ても八神はやてだった。
その背後で、完全に静止していた羽状端末が一斉に震えた。
フェイトが反射的にバルディッシュを持ち上げ、ヴィータとシグナムも身体を前へ出しかける。しかし攻撃は来なかった。
黒い羽根の表面へ一本の白い筋が走る。
変化は一枚で終わらず、隣へ、さらにその隣へと伝わり、やがて戦場に残っていた羽状端末から黒という色が完全に消えた。
純白へ変わった端末は散開せず、はやての周囲へ静かに集まっていく。背中から生えた翼ではなく、一枚一枚が独立したまま幾重にも重なり合い、遠くから見れば巨大な白い花が少女の背後で開いているようにも見えた。
「はやて!」
ヴィータの声に反応して、はやての瞼が僅かに動いた。
ゆっくりと開いた青い瞳が、まず正面にいるなのはを捉える。そこからフェイト、ヴィータ、シグナム、シャマル、ザフィーラへと視線を移し、最後にリインフォースのところで止まった。
誰も急かさなかった。
はやて自身もすぐには言葉を発さず、本当に全員がそこにいるのかを確かめるように、もう一度一人ずつ顔を見ていく。
「……みんな、ほんまにおるんやな」
声は、いつものはやてだった。
関西弁も、声の高さも変わらない。
「はやて!」
今度こそヴィータが飛びついた。
「うわっ、ヴィータ!?」
勢いを殺さず抱きついたため、二人の身体がまとめて後ろへ流れる。宇宙空間でそんなことを気にする余裕などヴィータにはないらしく、はやての身体へ両腕を回したまま、胸元へ顔を押しつけた。
「はやて! はやてっ!」
「分かった、分かったって! ちょ、ほんま苦しい!」
「知らねえ!」
「知らんで済ますなや!」
怒鳴っていたヴィータの声は、途中から完全に泣き声へ変わっていた。
はやては困ったように眉を下げたものの、離せとはもう言わなかった。代わりにヴィータの背中へ両腕を回し、小さな身体を抱き返す。
「……ただいま、ヴィータ」
「おう……!」
その一言で、ヴィータの腕へさらに力が入った。
シャマルも我慢できなくなったらしい。二人へ近づくと、はやての肩を抱きながら涙を拭う。
「お帰りなさい、はやてちゃん」
「シャマルまで……ほんまに苦しいんやけど」
「今くらい我慢してください」
「なんで帰ってきた側が我慢せなあかんの?」
「だって、心配したんですから」
「それは……ごめん」
はやてが少しだけ小さくなって謝ると、シャマルは泣きながら笑った。
そのやり取りを聞いていたフェイトも、ようやくバルディッシュを下ろす。
いつものはやてだ。
姿がどれほど変わっても、今ヴィータと口喧嘩をしている少女まで別人になったとは、フェイトには思えなかった。
ただ一人、シグナムだけは少し離れた場所に残っていた。
ヴィータとシャマルに囲まれているはやてを見つめながら、自分もそこへ入ってよいものか迷っているらしい。騎士として一歩下がるべきなのか、それとも家族として傍へ行ってよいのか。その僅かな迷いを、はやては見逃さなかった。
「シグナム」
「はい」
「なんで、そんなとこにおるん?」
「いえ、私は……」
「こっち来て」
シグナムが言葉に詰まる。
「ええから。来てや」
「……はい」
今度は素直に従った。
はやての前まで来たシグナムは、いつものように跪こうとして途中でやめた。その代わりに手を伸ばし、はやての頭へそっと触れる。
「お帰りなさい。はやて」
はやての目に、また涙が浮かんだ。
「……ただいま、シグナム」
ザフィーラも近づき、大きな手をはやての肩へ置いた。
何も言わなかったが、はやてにはそれで十分だったらしい。肩に置かれた手へ自分の手を重ね、小さく笑う。
最後に、はやてはリインフォースへ顔を向けた。
「リインフォース」
「はい」
「約束、覚えとる?」
「もちろんです」
「ほんなら、そんな離れたとこにおらんと来てや。もう、うちから勝手に離れたらあかんで」
リインフォースの表情が僅かに揺れた。
だが、今度は迷わなかった。
「はい」
はやてのすぐ傍まで進み、その横へ並ぶ。
「二度と、勝手には離れません」
その返事を聞いて、はやてはようやく心の底から安心したように笑った。
なのははその顔を見届けてから、自分でも気づかないうちに大きく息を吐いていた。
「よかった……ほんとに、よかった」
隣にいたフェイトがなのはを見る。
はやても、守護騎士たちも、リインフォースも全員いる。
精神世界へ入る前に望んでいたものは、確かに目の前へ戻ってきた。
これで終わったのだと、なのははそう思いたかった。
◇
アースラ艦橋では、まだ誰も戦闘終了を宣言していなかった。
ほんの少し前まで艦を取り囲んでいた黒い羽状端末は、防御障壁を削りながら絶え間なく砲撃を続けていた。障壁は攻撃を完全に受け止めていたわけではなく、消失した部分を次々と再構築することで辛うじて船体への直撃を防いでいたにすぎない。
その攻撃が、何の前触れもなく止まった。
「敵性目標、全機停止!」
エイミィの報告と同時に、大型モニターへ映っていた羽状端末の動きが完全に途絶える。アースラへ照準を向けていたものも、障壁の隙間へ入り込もうとしていたものも、その場で凍りついたように静止していた。
「攻撃反応は?」
リンディは艦長席から動かず、正面モニターを見たまま尋ねる。
「消失しています。ただし、目標そのものの反応は残っています」
「全砲座、照準を維持してください。こちらからは撃たないように」
「了解!」
艦橋の空気は緩まなかった。
止まった理由が分からない以上、それを戦闘終了と判断するのは早すぎる。
「地上側は?」
クロノが尋ねると、エイミィは海鳴市へ残していたサーチャーの映像を呼び出した。
画面に映った街は、数時間前とはまるで違っていた。広い範囲で明かりが消え、複数の建物から煙が上がっている。道路には瓦礫が散乱し、消防や救助車両がその隙間を動いていたが、上空を飛び回っていた黒い羽根だけは、アースラ周辺と同じように全て動きを止めていた。
「地上側も停止。新規出現も確認できません」
リンディはそこで初めて、僅かに息を吐いた。
「敵性反応が停止した地域から救助へ戦力を回してください。ただし上空への警戒は継続。再起動の可能性を捨てないように」
「了解しました」
命令が各部署へ送られる間にも、モニターの中では新しい変化が始まっていた。
黒い羽状端末の表面へ白い光が走る。
一機だけではない。
アースラの周囲に残っていたものも、海鳴市上空にいたものも、ほとんど同時に白へ変わり始めた。
「艦長」
「見えています」
白く染まった羽根は、そのまま輪郭を失った。
端から細かな光へ分解され、数秒後にはその場から完全に消えてしまう。
「敵性反応……消失しました」
エイミィは画面を切り替えながら何度も確認した。
「艦周辺、地上ともに該当反応なし。全部消えています」
それでも歓声は上がらなかった。
一番知りたいものが、まだ見つかっていない。
「なのはとフェイトは?」
ユーノが堪えきれずに尋ねる。
「まだ探してる」
エイミィは複数の観測系を切り替えながら答えた。
「最後に追えたのは、なのはちゃんが大規模な空間異常を起こしたところまで。それ以降は座標情報そのものが正常に取れてない」
「リインフォースたちも?」
「全員」
ユーノの指へ力が入った。
敵が消えたからといって、なのはたちが無事だという保証にはならない。むしろ敵性反応と同時に全員の位置まで分からなくなった事実だけを考えれば、嫌な可能性はいくらでも浮かんでくる。
「まだ決めつけるな」
クロノが言った。
「通常の魔力反応だけで探すな。次元航行用の観測系へ切り替えて、空間歪曲、質量変動、次元境界の異常まで全部拾え」
「もうやってる!」
エイミィが画面から顔も上げずに言い返した。
その直後だった。
艦橋中央の空間へ、小さな金色の線が走った。
「……え?」
最初に気づいたのはエイミィだった。
計器を見るより早く、線は縦へ伸びていく。
「艦内空間に異常!」
「場所は?」
「ここ! 艦橋内!」
その答えに、クロノが杖を抜いた。
艦橋にいた武装局員も一斉に身構える。だが転送反応はなく、艦内のシステムにも何者かが侵入してきた形跡はない。
ただ、目の前の空間だけが左右へ開こうとしていた。
◇
「アースラへ戻ろう」
なのはが言った。
はやては周囲へ浮かんでいる大量の白い羽状端末を見回してから、少し不安そうに眉を寄せた。
「戻れるん?」
「うん。艦橋なら何度も行ってるから、ちゃんと覚えてるよ」
「……そこまで直接行けるん?」
なのはは巨大な鍵を見た。
「多分」
「また多分なん?」
「だって、これ使い始めてまだそんなに経ってないもん」
はやては一瞬呆れた顔をしたものの、自分の背後へ浮かんでいる羽状端末を見て、それ以上は何も言えなくなった。自分も似たような立場だと思ったのだろう。
なのははアースラの艦橋を思い浮かべた。
大型モニター。
艦長席。
エイミィがいつも座っている場所。
クロノやユーノと話したこともある。
場所として知っているなら、そこまでの距離をなくせばいい。
「アースラまで――k開いてf――」
言葉の中へ、聞き慣れない音が混じった。
なのは自身も僅かに眉を寄せたが、それを確認するより早く〈封解主〉が反応する。
目の前へ金色の線が走り、中央からゆっくりと左右へ開いていった。
向こう側に見えたのは、見慣れたアースラの艦橋だった。
「ほんまに開いた……」
「私も今ちょっとびっくりしてる」
「なのはちゃんがびっくりするんは怖いわ」
そんな会話をしながらも、なのはは先頭へ進んだ。
◇
金色の亀裂の向こうから最初に現れたのは、高町なのはだった。
クロノは杖を構えたまま動けなかった。
髪も顔も知っている。
けれど、その身体を覆っているのは今までのバリアジャケットではなく、頭上には人間には存在しない巨大な光輪が浮かんでいる。何より、右手に握られた巨大な鍵が、今まさにアースラの艦橋へ穴を開けていた。
「なのは……?」
ユーノの声が漏れる。
なのはは艦橋中から向けられている視線と武器に気づき、少し困ったように笑った。
「ただいま」
その声を聞いた瞬間、ユーノの肩から僅かに力が抜けた。
続いてフェイトが境界を越えてくる。
「フェイト!」
「クロノ!」
見慣れたバリアジャケットとバルディッシュを確認したことで、艦橋の緊張が少しだけ緩んだ。
「攻撃しないで!」
フェイトは周囲の武装局員へ気づくと、すぐに声を上げた。
「みんな無事です。はやても戻ってる!」
「八神はやてが?」
クロノが聞き返す間にも、シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ、リインフォースが次々と艦橋へ入ってくる。
管理局から見れば、少し前まで追跡対象だった者たちだ。
当然、武装局員たちの緊張は再び高まったが、誰も戦う姿勢を取っていない。シグナムなどは、自分たちへ杖が向けられていることを確認すると、余計な誤解を招かないように両手を見える位置へ下ろしていた。
最後に、はやてが境界へ近づく。
「あ」
そこで、はやてが止まった。
自分の背後へ広がっている羽状端末を見る。
艦橋の入口どころか、このままでは室内へ全部入ること自体が難しい。
「ちょっと待ってな」
はやては背後の羽根へ顔を向けた。
「みんな、一回――k戻ってf――」
その言葉へ合わせるように、白い羽状端末が一斉に光へ変わった。
何十、何百という羽根がはやての周囲へ吸い込まれ、最後には数枚だけが身体の近くへ小さく折り畳まれる。
はやて自身は、今の自分の声へ混ざった異音の方が気になったらしい。
「……なんや今の」
なのはも口元を押さえた。
「さっき私もなった」
「これ、普通に喋っとる時はならんのに」
「鍵を使った時だったよ」
二人が首を傾げている間に、はやては境界を越えた。
その瞬間。
艦橋中の観測装置が一斉に警報を鳴らした。
『未登録高出力反応』
『解析不能』
『測定範囲外』
『同一座標より複数反応を検出』
「うわっ!?」
はやてが驚いて肩を竦める。
「なんやこれ!」
「エイミィ!」
「私に言われても分かんないよ!」
エイミィはものすごい勢いで端末を操作していた。
「反応はあるの! ものすごくある! でも魔力量として数字が出ない!」
「意味が分からないぞ」
「私も分かんない!」
艦橋の緊張とは少し違う混乱が始まった。
その中で、リンディだけは艦長席を離れず、戻ってきた一人一人を確認していた。
なのは。
フェイト。
守護騎士たち。
リインフォース。
そして、姿を大きく変えた八神はやて。
全員いる。
リンディはそれを確認してから、ようやく表情を緩めた。
「お帰りなさい、皆さん」
その言葉に、フェイトが笑った。
「ただいま、リンディ」
はやても少し緊張した様子で頭を下げる。
「その……いっぱい迷惑かけたみたいで。ほんまに、すみません」
「その話は後にしましょう」
リンディの答えに、はやてが顔を上げた。
「今は帰ってきてくれたことの方が大事です」
はやては一瞬、何と返せばいいのか分からない顔をした。
それから、小さく笑った。
「……はい」
ユーノは、その会話を聞きながらもずっとなのはを見ていた。
なのはも気づいたらしく、少し首を傾げる。
「ユーノ君?」
「なのは、本当に……なのはなんだよね?」
「うん?」
「いや、ごめん。変なこと聞いた」
ユーノ自身、何を確認したいのか分かっていなかった。
顔も声もなのはだ。
話し方も変わらない。
けれど、頭上に浮かぶ光輪や身体を覆う霊装を見るたびに、目の前の現実へ理解が追いつかなくなる。
そこで、ユーノはようやく別の違和感に気づいた。
「なのは」
「なに?」
「レイジングハートは?」
なのはの笑顔が止まった。
「え?」
右手には巨大な鍵がある。
左手には何もない。
なのはは自分の両手を見比べてから、目を見開いた。
「あ……」
フェイトも思い出したらしい。
なのはの身体が変わった時、レイジングハートとの接続は途切れた。待機形態へ戻った赤い宝石は、そのまま海鳴市へ落下している。
「レイジングハート……」
なのはの顔から、先ほどまでの落ち着きが消えた。
「置いてきちゃった!」
「なのは!」
「場所は覚えてる!」
クロノが何か言うより早く、なのはは鍵を持ち上げた。
艦橋の武装局員が再び身構える。
「待て、高町!」
「すぐ終わるから!」
なのはは最後にレイジングハートを見た場所を思い浮かべた。
人が通れるほど大きな入口はいらない。
手だけ届けば十分だった。
〈封解主〉の先端が僅かに動き、なのはの目の前へ手のひらほどの金色の裂け目が開く。
向こう側に見えたのは、破壊された海鳴市の道路だった。
砕けた舗装と瓦礫の隙間。
そこに、赤い宝石が転がっている。
「あった!」
なのはが裂け目へ手を入れ、待機状態のレイジングハートを掴んだ。
こちら側へ引き寄せた瞬間、なのはは目に見えて安心したように息を吐く。
「よかったぁ……」
しかし、その表情はすぐに消えた。
レイジングハートが光らない。
いつもなら、なのはが呼びかければ何かしら返してくれる。
今は何もない。
「レイジングハート?」
両手で赤い宝石を包む。
「ごめんね。置いていって」
返事はなかった。
「ただいま、レイジングハート」
やはり、沈黙したままだった。
なのははしばらく待っていた。
もう一度呼べば返事をしてくれるのではないかと思ったのかもしれない。けれど、赤い宝石には光さえ戻らない。
ユーノはその様子を見て、何も言えなくなった。
なのは本人は帰ってきた。
それでも、事件が起きる前と何もかも同じになったわけではない。
◇
小尾一は、その光景を見ることができなかった。
彼がいるのはアースラ艦橋ではなく、外部から隔離された拘禁区画だった。
管理局員一名を死亡させた件だけでも、自由に艦内を歩ける立場ではない。そのうえ現在の異常事態には、小尾がなのはとはやてへ本人の同意なく行った処置が深く関わっている。
一度、拘束そのものを力ずくで破壊している。
そのため室外には複数の武装局員が配置され、監視も一瞬たりとも切られていなかった。
艦橋の映像は見せられていない。
戦況を報告してくれる者もいない。
小尾に分かるのは、少し前まで続いていた船体の振動が止まり、警報の種類が何度か変わったことくらいだった。
「……終わったかな」
壁へ背中を預けたまま、小尾は天井を見上げた。
返事はない。
研究者として考えれば、今ほど拘禁室へ閉じ込められていたくない瞬間も珍しかった。
高町なのはがどうなったのか。
八神はやてがどうなったのか。
前世から何十年も追い続け、この世界でも積み上げてきた研究の結果が、壁の向こうで完成しているかもしれない。
成功なのか。
失敗なのか。
そもそも生きているのか。
何一つ分からない。
「いやあ……参ったな」
小尾は苦笑した。
人体実験そのものより、実験結果を見せてもらえない方が本人には堪えているらしい。
「帰ってきてるなら、せめて一回くらい見せてほしいんだけどなぁ」
当然、扉が開くことはなかった。
◇
艦橋では、クロノがようやく杖を下ろしていた。
聞かなければならないことは山ほどある。
なのはの姿。
はやての姿。
白くなった羽状端末。
あの巨大な鍵。
何より、二人から検出されている意味不明な反応について、可能な限り早く確認する必要がある。
だが、事情聴取より先にやるべきことがあった。
「医療班を呼んでくれ」
「もう向かってるよ」
エイミィが答える。
クロノは次にシグナムたちへ目を向けた。
「君たちにも聞かなければならないことは多い」
「分かっている」
シグナムは静かに答えた。
「我々は抵抗するつもりはない」
「助かる。事情については後で聞く」
そのまま、はやてへ視線を移す。
「八神はやて」
「はい」
「君は、自分に何が起きたのか理解しているか?」
はやては白い手袋に覆われた自分の手を見下ろした。
指を曲げてから開き、さらに身体の近くへ残っている数枚の羽状端末へ視線を向ける。
「正直、ほとんど分かってません。中でみんなに会って、帰りたいって思って……気ぃついたら、この格好になっとりました」
「中?」
クロノは聞き返しかけたが、それ以上は続けなかった。
説明を始めさせれば長くなる。
「その話は後で聞く。なのはは?」
「私も全部は分からないよ」
なのはは手にした巨大な鍵を見た。
「使い方は分かるの。でも、どうして分かるのかって聞かれると、説明できない」
「その鍵は消せるか?」
「多分」
なのはが柄から手を離す。
〈封解主〉は床へ落ちなかった。
輪郭から淡い金色の光へ変わり、そのまま頭上の光輪へ吸い込まれるように消えていった。
局員たちの緊張は僅かに下がったが、観測装置から出ている警告は止まらない。
鍵を消しても、なのは自身から検出される異常な反応は残っている。
はやても同じだった。
ほどなくして医療班が艦橋へ到着した。
「高町さん、八神さん。まず簡易検査をします。このまま動かないでください」
「はい」
「お願いします」
二人が並ぶ。
医療班員は最初になのはへ携帯型の診断機を向けた。
淡い走査光が頭から足元まで通過し、数秒後に結果が端末へ表示される。
それを見た医療班員の眉が寄った。
「……もう一度」
なのはは意味が分からずフェイトを見る。
フェイトにも分からない。
二度目の走査は一度目より時間をかけて行われたが、医療班員の表情はさらに険しくなった。
「予備の診断機を持ってきてください」
「故障ですか?」
「分かりません。確認します」
別の機器が運び込まれた。
今度はなのはだけでなく、はやても測定する。
一度目と同じ結果が出た。
使用する機器を変えても変わらない。
フェイトは、検査が繰り返されるほど落ち着かなくなっていった。
なのはは普通に立っている。
はやてもヴィータと小声で話しており、少なくとも本人たちに苦しそうな様子はない。
それなのに、医療班だけが検査を重ねるたびに深刻な顔になっていく。
「ねえ」
フェイトが堪えきれずに尋ねた。
「なのはとはやて、大丈夫なんですよね?」
医療班員はすぐには答えなかった。
最初の端末を確認し、予備の診断機と照合する。それでも結果が変わらないと分かると、今度は隣の医療班員へ画面を見せた。
その沈黙の方が、フェイトには怖かった。
「何が出ている?」
クロノが近づく。
医療班員から端末を受け取り、表示された測定結果へ目を通す。
数秒後、クロノの表情も止まった。
「……どういうことだ」
「分かりません」
「機器の故障ではないのか?」
「三種類で確認しています。どれも同じ結果です」
医療班員は困惑したまま二人を見た。
なのはも、はやても、自分たちが何を調べられているのか分からずこちらを見返している。
目の前で会話をしている以上、意識があることは疑いようがない。それなのに、診断機が人間の身体を測定した時に当然検出するはずの反応だけが、ほとんど返ってきていなかった。
「高町なのは、八神はやて。両名とも……通常の生命反応を確認できません」
艦橋から音が消えた。
「……え?」
フェイトが小さく声を漏らす。
なのははすぐには言葉の意味を理解できなかったらしく、医療班員の顔を見たまま動かなかった。
やがて自分の胸元へ手を当てる。
何かを確かめるように、しばらくそのまま黙っていた。
その顔から、少しずつ笑みが消えていく。
はやても同じように自分の胸へ手を置いた。
「それって……」
なのはが医療班員を見る。
「どういう意味……?」
問いかける声は、いつもの高町なのはのものだった。
けれど、その質問へ答えられる者は、まだアースラの中にはいなかった。