「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
十二月二十四日の夜、海鳴市を襲った災害は、年が明けても街のあちこちに深い傷跡を残していた。
日本政府が公表した原因は、大規模な直下型地震と、それに伴って発生した火災、送電設備の破損、ガス爆発などが連鎖した複合災害だった。実際に道路は広い範囲で陥没し、建物の倒壊や地盤の崩落も発生していたため、地震という説明だけを聞けば、それなりに現実と噛み合っている。
もちろん、あの夜に空を見上げていた者たちまで、それで納得したわけではなかった。
夜空を埋め尽くした黒い羽根。
街へ降り注いだ無数の光。
空を飛び回る人影。
そして、海鳴市の上空へ長時間浮かび続けていた、黒い少女。
携帯電話や家庭用カメラにも、それらしい映像はいくつも残されている。しかし夜間だったことに加え、大規模な停電と通信障害が重なったことで、その多くは不鮮明だった。中には比較的はっきりした映像もあったが、映っているものがあまりにも現実離れしていたため、加工映像や災害時の錯覚として扱われるものも少なくなかった。
政府が何かを隠している。
未知の兵器が使われた。
宇宙人が襲来した。
巨大な宗教儀式だった。
インターネットにはいくつもの説が流れたものの、そのどれか一つが決定的な答えになることもなかった。
そして、海鳴市で暮らしていた大半の人間にとって、災害の正体を追い続けることは最優先ではなかった。
家を失った者がいる。
家族を失った者もいる。
道路の寸断、停電、断水、通信設備の破損。営業できなくなった店もあれば、建物そのものを取り壊すしかなくなった場所も少なくない。
被害が大きかった地区では今も重機が動き続け、道路脇には撤去を待つ瓦礫が積まれている。学校や店舗も被害の小さかった場所から少しずつ再開しているものの、街の至るところに立つ工事用の柵を見れば、以前の日常へ戻ったなどとは到底言えなかった。
海鳴市は、今も復興の途中にある。
それでも人は戻り。
壊れたものを直し。
残ったものを使いながら、少しずつ日常を作り直していた。
◇
高町なのはが、その海鳴市へすぐに帰ることは認められなかった。
本人が帰りたがらなかったわけではない。
むしろ帰りたいと言った回数なら、管理局の担当者が数えることを諦める程度には多かった。
問題は、三人が地球で目立ちすぎたことだった。
なのは。
フェイト。
そして何より、八神はやて。
大勢の民間人が避難する頭上で飛行し、通常兵器では到底説明できない規模の戦闘を行った。特にはやてとなのはは、巨大な円環や無数の羽状構造を伴った姿を長時間目撃されており、事件直後に何事もなかったような顔で海鳴市へ戻れば、本人たちが何も話さなくても周囲から疑われる可能性が高い。
だからといって、時空管理局が日本政府へ事情を説明して処理を任せることもできなかった。
地球は管理外世界である。
日本政府は時空管理局の存在を知らず、管理局側も日本政府と正式な外交関係や情報共有の経路を持っていない。日本側があの夜をどこまで把握し、どのような資料を保有しているのかさえ、管理局には正確には分からなかった。
ならば、余計な接触を避ける。
少なくとも地球側の混乱が落ち着き、三人が戻っても不自然にならない状況が作れるまでは、こちらへ置いておいた方がいい。
その判断によって、なのはとはやては当面の間ミッドチルダへ身を寄せることになった。
フェイトについては、二人ほど地球へ戻れない事情が強いわけではなかったが、本人に一人だけ先に帰るつもりがなかった。
結果。
三人は揃ってミッドチルダで生活することになった。
◇
「まだ、帰れへんのやな」
管理局が用意した保護住宅のリビングで、はやては窓の向こうに広がる街並みを見ながら呟いた。
ミッドチルダの景色は海鳴市とは随分違う。建物の形も、空を行き交う乗り物も、夜になると街へ灯る光も見慣れないものばかりで、旅行として来ていたなら楽しめたかもしれない。
今は、そういう気分にはなれなかった。
「今すぐは難しいと思う」
フェイトは曖昧に慰める代わりに、管理局から説明されたことをそのまま口にした。
「なのはとはやては、見てた人が多すぎるから」
「フェイトちゃんも十分飛び回っとったと思うけどな」
「私は二人ほどじゃないよ」
「基準がおかしなっとるで、それ」
はやてが少し笑う。
その声だけを聞けば、以前とほとんど変わらなかった。
なのはの場合は違う。
「でも、早く――q帰りたいf――よね」
普通の言葉だった。
ただし、その声の途中には、今も人間の発声器官では作れない異音が必ず混じる。
怒った時だけでも。
権能を使う時だけでもない。
朝の挨拶でも、食事の感想でも、何気ない冗談でも同じだった。
なのは自身は既に慣れ始めていたが、周囲の人間が完全に気にしなくなるには、もう少し時間が必要らしい。
対して、はやてが現在まともに会話できているのは、本人の言語能力が人間へ戻ったからではない。
今もリインフォースが常時ユニゾンしている。
はやてが自分の意思をそのまま現実へ出力しようとすると、人間の言語へ変換できない情報まで一緒に流れ出してしまう。単純に「お腹が空いた」と言いたいだけでも、その後ろへ身体構造、摂取、生命活動、必要エネルギーといった無数の概念が重なり、一つの文章として成立しなくなる。
そこで、リインフォースが間へ入る。
はやての意思を主従接続を通して一度受け取り、その中から本人が伝えたい意味だけを拾い上げ、人間が理解できる言葉へ整理する。それを再びはやての発声として現実へ出力することで、ようやく普通の会話が成立していた。
言うなれば、常に身体の中へ通訳を一人入れているような状態だった。
「でも、結構便利やで」
はやてが胸元へ手を当てる。
「うちが上手く言葉にできんでも、リインフォースがええ感じに直してくれるし」
『あまり便利な機能のように扱わないでください』
「ほら、今なんか怒っとる」
「私には聞こえないよ」
フェイトが困ったように笑う。
「そらそうやった」
『そもそも、私は翻訳装置ではありません』
「分かった、分かったって」
はやては苦笑しながら、内側のリインフォースを宥めるように胸元を軽く叩いた。
その時。
テーブルの上に置かれた端末の映像が切り替わった。
地球の一般放送。
海鳴市の復興状況を伝えるニュースだった。
道路脇に積まれた瓦礫が大型車両へ積み込まれ、その向こうには壁の一部を失った建物が見える。画面下には仮設住宅への入居や、一部地区での学校再開についての文字が流れていた。
はやての笑顔が消えた。
「……まだ、こんな残っとるんや」
フェイトは答えなかった。
なのはも、すぐには口を開かない。
はやてが何を見ているのか、二人とも分かっていた。
「あれ、うちがやったんやな」
『はやて』
「分かっとるよ」
リインフォースが止めるより先に、はやては小さく首を振った。
「あの時のうちが普通やなかったことも、自分で人を殺そうって考えとったわけやないことも、何回も聞いた」
管理局も同じ判断をしていた。
黒い羽状端末が海鳴市へ砲撃を続けていた時、八神はやてという人格そのものが完全に消えていたわけではない。しかし、表層へ現れていた判断は反転した接続によって大きく変質しており、通常の人間と同じ意思能力を持っていたとは認められなかった。
民間人を憎んでいたわけではない。
殺したい相手を選んで攻撃していたわけでもない。
むしろ、本人の中では全てを救おうとしていた。
その救い方が、人間の倫理から完全に外れていただけだった。
「せやから、全部うちの罪やなんて言うつもりはない」
はやては膝の上で指を組んだ。
「でもな」
映像の中。
壊れた家の前に、花が供えられていた。
「死んだ人からしたら、そんなこと関係ないやろ」
声は震えなかった。
それでも、指先へ込められた力が強くなる。
「うちの姿で、うちの羽根が撃ったんや」
『あなたの意思ではありません』
「うん」
『あなたが望んだことでもありません』
「それも分かっとる」
はやてはリインフォースの言葉を否定しなかった。
ただ、それで自分の中に残った感情まで消してしまおうとはしなかった。
「うちには関係ありませんでした、で終わらすんも違う気がする」
以前なら。
自分が悪い。
全部自分が背負えばいい。
そんなところまで一気に落ちていたかもしれない。
けれど、今は違う。
あの黒い彼岸花の中で、一人で抱え込むことが何を生んだのかを、はやて自身が知っていた。
『でしたら、覚えておきましょう』
しばらくして、リインフォースが答えた。
『ただし、一人でではありません』
はやてが僅かに目を見開く。
『私も覚えています。シグナムも、ヴィータも、シャマルも、ザフィーラも。あなた一人だけが背負う必要はありません』
「……うん」
そこへ。
なのはの手が伸びてきた。
「海鳴に――q帰れるf――ようになったら、一緒に行こう」
「どこに?」
「はやてちゃんが行きたいところ」
なのはは画面を見ながら続けた。
「街でも、お墓でも、慰霊碑ができたらそこでも。はやてちゃんが行きたいなら、私も一緒に行くよ」
「なのはちゃんが謝ることちゃうやろ」
「謝りに行くんじゃ――vないよf――」
なのはが笑う。
「一緒に行くだけ」
フェイトも頷いた。
「私も行く」
はやては二人を交互に見たあと、肩の力を抜くようにゆっくり息を吐いた。
「……ほんま、お人好しばっかりやな」
『主はやても大概かと』
「リインフォースは黙っとき」
今度は三人とも笑った。
◇
闇の書事件について、八神はやては管理局の保護観察下へ置かれることになった。
シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラについても、それまでに行ったリンカーコアの蒐集や管理局との戦闘が消えるわけではない。それでも、彼女たちをはやてから切り離して個別に収監するのではなく、主であるはやてと共に監督下へ置く形が選ばれた。
リインフォースについては、さらに事情が違う。
はやての日常会話を成立させるためにも、現在はほぼ常時ユニゾンしている。管理局側としても、二人を普段から分離させる方が現実的ではなかった。
定期的な報告。
身体と能力の検査。
無断での大規模な権能行使の禁止。
管理外世界へ移動する際の事前確認。
自由になったわけではない。
それでも。
はやてが担当官の説明を最後まで聞いた後、真っ先に確認したのは、もっと単純なことだった。
「みんなと一緒に暮らしてええんですよね?」
担当官が頷く。
その瞬間。
はやては、ようやく安心したように笑った。
「ほんなら、ええです」
後からヴィータに、もう少し処分内容を真面目に聞けと怒られた。
それでも、はやてにとって優先順位は明確だった。
家族がいる。
今は、それでよかった。
◇
小尾一については、同じようにはいかなかった。
そもそも、事件の中心となった地球は管理外世界に存在する。
時空管理局が、そこで死亡した民間人一人一人を自分たちの法律上の殺人被害者として扱い、そのまま小尾の刑罰へ積み上げることはできなかった。日本政府と管理局の間に捜査協力の取り決めがあるわけでもなく、日本側の被害者名簿や警察資料が管理局の法廷へ提出されることもない。
だからといって、小尾を裁く材料がなかったわけではない。
アースラ艦内で、管理局員一名を死亡させた。
複数の管理局員へ攻撃を加えた。
拘束を破壊した。
そして何より、高町なのはと八神はやてへ本人たちの同意なくセフィラを埋め込み、その技術によって管理局が既存の分類では扱えない存在を二人も生み出した。
八神はやてが反転した後に起きた海鳴市の大量死傷についても、はやて本人へ通常の刑事責任を問える状態ではなかったことが重く見られた。
だからといって、それら全てを小尾による直接の殺人へ置き換えたわけではない。
ただ。
原因を作ったのが誰か。
本人へ知らせることなくセフィラを埋め込んだのが誰か。
制御不能になればどの程度の被害が生まれるかを、事件が起きるまで誰にも伝えていなかったのが誰か。
そこについては、議論の余地がなかった。
海鳴市で発生した被害は、小尾の研究が実際に生み出した重大な結果として審理の中へ組み込まれた。
さらに管理局が問題視したのは、過去の事件そのものよりも、その先だった。
同じことが。
もう一度できる。
高町なのは。
八神はやて。
たった二人で、地球側の一都市と次元航行艦一隻を同時に危機へ追い込み、戦場の移動が遅れていれば被害がどこまで拡大したのかさえ分からない。
そんな存在を生み出す技術を。
小尾一は知っている。
裁判の結果。
小尾は有罪となった。
名前が消されたわけではない。
死亡扱いにもされなかった。
時空管理局の犯罪者記録には、小尾一という名前と判決が正式に残っている。
ただし、通常の刑務所へ収容することだけは認められなかった。
危険なのは、本人の戦闘能力だけではない。
その頭の中にあるものだった。
◇
小尾が収容された施設には、一般的な意味での鉄格子が存在しなかった。
巨大な円筒形の空間。
その中央に、一つだけ白い居住区画が浮かんでいる。
外周壁から独房まではかなりの距離があり、普段はそこへ渡るための床も橋も存在しない。食事や生活物資は遠隔で送り込まれ、職員が直接、小尾へ近づかなければならない機会そのものが可能な限り減らされていた。
部屋の中にあるのは固定されたベッドと机、椅子。
最低限の生活設備。
そして、事前に内容を確認された本が何冊か。
通信端末はない。
自由に扱える工具もない。
筆記具ですら、必要性を申請した上で監視下において使用する場合に限られる。
一度、拘束だけに頼って失敗している。
ならば今度は。
拘束を壊したとしても。
何かを奪ったとしても。
次に利用できるものが存在しない環境そのものを牢獄にすればいい。
そうして作られた独房に、小尾一は収容されていた。
「いやあ」
小尾は透明な壁の向こうに広がる何もない空間を眺め、感心したように呟いた。
「僕一人に、よくここまでやるよね」
返事はない。
もう慣れたことだった。
小尾は椅子へ深く座り直し、机の上に開いていた本へ視線を戻した。
研究資料ではない。
管理局で一般的に使われている魔法理論の入門書だった。
この世界では何を常識として分類し、どこから先を未知として扱っているのか。それを確認するには多少面白かったものの、三日も読めば大まかな方向性は理解できてしまう。
つまり。
暇だった。
かなり。
その日。
外周壁にある扉が開いた。
小尾はページを捲ろうとしていた手を止める。
何も存在しなかった空間へ細い橋が伸び、その向こうから一人の少年が歩いてきた。
「お」
小尾は少しだけ嬉しそうに顔を上げた。
「久しぶり、クロノ君」
クロノは橋を渡りながら、独房の中を一度確認した。
「元気そうだな」
「おかげさまで」
橋は独房の直前で止まる。
二人の間には厚い透明隔壁と、その内部へ何層にも組み込まれた封鎖術式が残っている。
小尾はそれを見て笑った。
「毎回思うけど、その距離必要?」
「必要だ」
「僕、ちゃんと大人しくしてるのに」
「君の場合、大人しくしていた期間は信用材料にならない」
「ひどいなあ」
以前なら、クロノはその軽口だけで苛立っていた。
今はもう。
こういう人間なのだと理解している。
好きになったわけではない。
許したわけでもない。
ただ、怒鳴ったところで相手の価値観が変わるような人間ではないと分かっただけだった。
「今日は何?」
小尾が本を閉じる。
「高町さん? 八神さん?」
「両方だ」
「やっぱり」
以前なら、その名前が出た瞬間に身を乗り出していた。
ところが今の小尾は、少し姿勢を直しただけだった。
興味がなくなったわけではない。
ただ。
既に結果を知っている実験について尋ねられた研究者のような態度だった。
クロノは、その違いを以前から気にしていた。
「八神はやての発声について聞きたい」
「まだ単独じゃ人間語に落とせない?」
「現在はリインフォースを常時ユニゾンさせている。八神はやて本人の意思を一度リインフォースが受け取り、人間が理解できる情報量まで落としてから外へ出しているらしい」
「ああ」
小尾はすぐに納得した。
「間に翻訳層を挟んだのか。合理的だね」
「問題はあるか?」
「今のところはないんじゃない?」
あまりにも簡単な答えだった。
クロノは少し待った。
以前の小尾なら。
精神構造がどうした。
位相接続がどうした。
言語情報がどうした。
こちらが止めなければ勝手に仮説を積み上げ、何分でも喋り続けたはずだった。
今は、それ以上続かない。
「……それだけか?」
「何が?」
「セフィラについて何か言わないのか」
小尾は一度瞬きをした。
本当に何を聞かれたのか分からなかったような顔をしてから、少し遅れて「ああ」と声を漏らす。
「セフィラね」
その言い方が。
クロノには妙に引っかかった。
「君があれだけ執着していたものだろう」
「昔はね」
「昔って、事件からそれほど時間は経っていないぞ」
「でも答えは出たじゃない」
小尾はあっさり答えた。
「人間を別の位相へ接続して、器そのものを向こう側の規格へ寄せられる。高町さんと八神さんで、完成形まで二例も確認できた」
指を二本立てる。
「十分だろ?」
「十分?」
「答えが分からなかったから面白かったんだよ」
小尾はむしろクロノの方を不思議そうに見た。
「もう答えが出た問題を、何度も解き直してどうするの?」
クロノは返事をしなかった。
そこで、ようやく理解した。
研究を諦めたわけではない。
事件を反省し、研究そのものを捨てたわけでもない。
小尾一にとって。
セフィラは成功した。
だから終わったのだ。
「君の技術は、世界を一つ壊すだけの結果を出した」
「いや」
小尾はそこで、初めてクロノの言葉をはっきり否定した。
「世界は壊れないよ。少なくとも、あれくらいじゃね」
クロノの眉が寄った。
「海鳴市はあれだけの被害を受けた。アースラも沈没寸前まで追い込まれている。なのはが戦場を地球から移していなければ、どこまで被害が広がったか分からなかったんだぞ」
「それと、世界そのものが壊れるのは別の話だよ」
小尾は椅子へ深く背中を預け、少しだけ考えるように天井へ視線を向けた。
「あそこまでやって、抑止力が働かなかったからね」
「……抑止力?」
「ああ」
クロノが聞き返すと、小尾は自分が管理局では通じない言葉を使ったことに気づいたらしい。
それでも詳しく説明する気はないようだった。
「ガイアも、アラヤも。少なくとも僕には、それらしい介入が起きたようには見えなかった」
「ガイア……アラヤ?」
「名前は気にしなくていいよ」
「気にするなと言われて、できるわけがないだろう」
「僕が知ってる理屈の名前だから。この世界にも同じものがあるのかなんて、僕にも分からない」
小尾はそう前置きしてから、机へ片肘をついた。
「ただ、本当に星そのものが死ぬとか、人類史がそこで途切れるとか、そういうところまで行ってたなら、もう少し何か起きてもおかしくなかったと思うんだよ」
「星や人類史そのものが、何かをするのか?」
「そういう考え方があるってだけ」
「だから、それを説明しろと言っている」
「説明したところで、この世界に同じ仕組みがある保証がないだろ」
小尾の口調は軽かったが、その判断自体は慎重だった。
「今回、僕が気づかなかっただけで何かが動いていたのかもしれない。そもそもガイアやアラヤに相当するものが存在しないのかもしれないし、存在していても、まだ介入する段階じゃなかったのかもしれない」
「なら、あれくらいでは世界が壊れないという根拠にはならない」
「断言はしてないよ」
小尾はクロノを見る。
「ただ、八神さんがあれだけ派手に暴れても、僕の見た範囲じゃガイアにもアラヤにも相当する介入は確認できなかった。なら少なくとも、あの時点では星そのものや人類史そのものを直接終わらせるところまでは届いてなかったんじゃないか、っていう僕の推測」
「海鳴市では、大勢の人間が死んでいる」
「それとは別の話だよ」
今度は。
小尾も笑わなかった。
「一人が死ぬことと、一つの都市が壊れることと、人類が滅びることと、星が死ぬことは、全部違う」
少しだけ言葉を選ぶ。
「被害が小さいって言ってるわけじゃない。ただ、人間から見た悲惨さと、世界そのものから見た危険度は、必ずしも同じじゃないってこと」
クロノは黙って小尾を見ていた。
まただ。
この少年は時折、管理局の魔法理論にも次元世界についての資料にも存在しない前提を、昔から知っている常識のように口にする。
ガイア。
アラヤ。
抑止力。
どれも、クロノには意味が分からない。
そして小尾自身も、それ以上を教えるつもりはないようだった。
「君をここから出せない理由が、また一つ増えた気がするな」
「え、今ので?」
「ガイアだのアラヤだの、世界そのものが介入するだのと言い始める受刑者を、安心して外へ出せると思うか?」
「だから、この世界にもあるとは言ってないだろ」
小尾は困ったように肩を竦めた。
「むしろ今回ので分からなくなったくらいだよ。なかったのか、動く必要がなかったのか、それとも僕が見落としたのか」
そこまで言って。
あっさりと話を切った。
「まあ、もういいや」
「もういい?」
「うん。それより、セフィラももういいし」
クロノの目つきが変わる。
「……何だと?」
「あれについては、もう答えが出たって言っただろ?」
小尾の声音には、本当に未練らしいものがなかった。
「人間そのものを向こう側へ接続して、器ごと作り替える。できるかどうか分からなかったから面白かったけど、もうできるって分かった」
「では、次は何だ」
「次?」
「とぼけるな」
小尾は少しだけ黙った。
やがて右手を持ち上げ、何もない空間から何かを掴み取るように、ゆっくり指を閉じる。
「今回、ちょっと思ったんだよ」
「何を」
「セフィラじゃ、人間そのものを向こう側へ寄せた」
なのは。
はやて。
二人とも肉体だけではなく、存在そのものの規格が変わった。
「でもさ」
小尾は自分の掌を見つめる。
「欲しいものが、向こう側の存在そのものじゃなかったら?」
「……何を言っている」
「器まで作り替える必要って、本当にあるのかなって」
クロノの表情が固まった。
「存在そのものじゃなくて」
小尾の指先が僅かに動く。
「そこへ属している権能だけを、こっちへ――」
そこで。
口が止まった。
「続きを話せ」
「……あ」
クロノに言われて、小尾はそこで初めて、自分がどこまで喋ったのか気づいたらしい。
持ち上げていた右手をゆっくり下ろし、少し困ったように眉を寄せる。
「しまったな」
「何がだ」
「いや、最近ほんと誰も会いに来てくれないからさ」
小尾は透明な隔壁の向こうにいるクロノを見て、悪びれもせず笑った。
「久しぶりに人と喋ったら、話しすぎちゃったじゃん」
「……」
「看守さんも必要なことしか喋ってくれないし、食事は勝手に届くし。本はあるけど、本は返事してくれないだろ?」
「君はここが何のための施設なのか分かっているのか?」
「刑務所」
「分かっているなら我慢しろ」
「分かってるよ。ただ、会話くらいしたっていいじゃないか」
クロノは呆れたように息を吐いた。
その内容が天気や食事の話なら、多少は付き合ってもよかったかもしれない。
だが。
ガイア。
アラヤ。
世界の抑止力。
存在を変えずに権能だけを引き出す方法。
久しぶりの世間話にしては、聞かされた内容が物騒すぎた。
「それで」
クロノは話を戻した。
「存在そのものではなく、権能だけをどうするつもりだ」
「もう言わない」
「小尾」
「今ので十分喋ったって」
小尾は口元へ指を当てる。
「そもそも、まだ何もできてないんだよ。術式もないし、接続方法も分からない。ただ、存在そのものを作り替えなくても、向こう側にあるものの一部だけ引っ張ってこられるんじゃないかって思っただけ」
「それを一般には、研究の始まりと言うんじゃないのか」
「そうとも言うね」
「反省しろ」
「何を?」
クロノは一瞬、本気で頭が痛くなった。
「今、自分が世界を危険にしかねない技術で収監されていることをだ」
「でも、まだ危険かどうか分からないよ」
「その言葉は二度と信用しない」
「ひどいなあ」
小尾はそう言いながらも、楽しそうだった。
クロノと話していることが楽しいのか。
新しい理論を考えることが楽しいのか。
おそらく両方なのだろう。
「まあ、本当にまだ何もないんだ」
小尾は少しだけ真面目な口調へ戻った。
「ここには実験する設備もないし、材料もない。確かめようがないからね」
「だから安心しろと?」
「いや」
小尾はあっさり首を横へ振る。
「頭の中で考える分には、ここでもできるから」
クロノの顔が険しくなった。
「あ」
小尾が、また口を滑らせたような顔をする。
「……だから、誰も会いに来ないと喋りすぎるんだって」
「今のは僕のせいじゃない」
「半分くらいクロノ君のせいだよ。続きを話せって言うから」
「犯罪者が新しい危険技術を考えているなら、確認するのは僕の仕事だ」
「じゃあ仕方ないか」
妙に納得してしまう。
クロノは大きく息を吐いた。
「次から面会時間を短くする」
「それは困る」
「なぜだ」
「暇だから」
「知らない」
「本くらい増やしてよ」
「内容による」
「魔法史」
「検閲してからだ」
「古代ベルカ関係」
「却下だ」
「まだ中身も言ってないじゃん」
「今の話を聞いた直後に、君へ古代術式の資料を自由に与えると思うか?」
「偏見だなあ」
「実績だ」
小尾は不満そうに口を尖らせたものの、それ以上は食い下がらなかった。
やがて面会時間の終了を知らせる表示が点灯し、クロノの足元まで伸びていた橋がゆっくり後退を始める。
「じゃあ、またね」
「必要があれば来る」
「もう少し頻繁でもいいよ」
「ここは面会所じゃない」
「知ってるって」
クロノが背を向ける。
そこで小尾は、何かを思い出したように口を開いた。
「クロノ君」
「今度は何だ」
「高町さんと八神さん」
クロノが振り返る。
「元気?」
それだけだった。
研究結果を聞く声ではなかった。
クロノは数秒、小尾を見てから答えた。
「元気だ」
「そっか」
「八神はやては、海鳴市のことを今も気にしている」
小尾の笑みが僅かに薄くなる。
「だろうね」
「自分の意思ではなかったことは理解している。それでも、自分の力で人が死んだことを忘れたくないそうだ」
「……そう」
「なのはも一緒だ。フェイトもいる。守護騎士たちも、リインフォースも」
小尾は黙って聞いていた。
「君の実験結果として生活しているわけじゃない」
クロノは続ける。
「二人とも、自分でこれからどう生きるかを決めている」
小尾は透明な隔壁越しにクロノを見る。
以前なら何か言い返していたかもしれない。
だが今は。
「それなら、いいんじゃない」
あっさりと答えた。
橋がさらに遠ざかる。
「クロノ君」
「まだあるのか?」
「次に来た時、研究の話振らないでね」
「なぜだ」
小尾は笑った。
「また余計なところまで喋っちゃうから」
「むしろ聞くことにする」
「性格悪いなあ」
「君にだけは言われたくない」
扉が閉じる直前。
小尾の笑い声が、巨大な拘禁区画へ僅かに響いた。
◇
一人になる。
小尾はしばらく閉じた扉を眺めていた。
先ほどまでは誰かと話していたせいか、静かになった部屋がいつも以上に広く感じられる。
「……喋りすぎたな」
呟いて。
机へ戻る。
本を開いた。
しかし。
文字を追ってはいなかった。
指先が机の上をゆっくりなぞる。
存在そのものを変える必要はない。
欲しいものだけを取り出せるなら。
向こう側に属する何か。
役割。
力。
権能。
「……存在じゃなくて、権能だけ」
小さく口にしてみる。
まだ術式ではない。
理論ですらない。
ただの思いつき。
それでも。
セフィラを最初に思いついた時だって、最初はその程度だった。
「面白いな」
小尾は笑った。
セフィラは終わった。
答えは出た。
なら。
次を考えればいい。
◇
その日の夜。
ミッドチルダの保護住宅では、はやてが夕食を終えてもリビングのテレビを消そうとしなかった。
画面には、また海鳴市が映っている。
一本の道路が復旧した。
休業していた店が営業を再開した。
学校でも、一部の授業が始まったらしい。
大きなニュースではない。
それでも、はやては一つ一つを確かめるように見ていた。
『もう遅い時間です』
「あとちょっと」
『明日も検査があります』
「分かっとるって」
『昨日も同じことを仰っていました』
「リインフォース、最近ちょっとシャマルみたいになってへん?」
『主の生活管理も私の役目です』
「増えとるやん、役目」
そんなやり取りをしていると、なのはとフェイトがやって来て、はやての両側へ座った。
「まだ見てたんだ」
「うん」
テレビの中では、復旧した横断歩道を子供たちが渡っている。
はやては、その姿をしばらく眺めていた。
「なあ」
「なに?」
「いつか海鳴に帰れるようになったら」
一度。
言葉を止める。
「普通に、帰ってええんかな」
なのははすぐには答えなかった。
管理局が許可するかどうかを聞いているのではない。
自分に。
あの街へ帰る資格があるのかと聞いている。
それくらいは分かった。
「帰ろうよ」
なのはが答えた。
短い言葉の中にも、微かなノイズが走る。
「だって、はやてちゃんの家は――q海鳴f――にあるんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ帰ろう」
「でも」
「一緒に」
なのはは笑った。
「一人で帰るわけじゃないんだから」
フェイトも頷く。
「私も一緒に行くよ」
「フェイトちゃんの家ちゃうやろ」
「なのはとはやてがいるなら行く」
「たまにフェイトちゃん、理屈が雑やな」
「駄目?」
「駄目やないけど」
はやては困ったように笑った。
その胸の奥から、リインフォースの声が重なる。
『私もおります』
「分かっとるよ」
『シグナムたちも』
「分かっとるって」
『でしたら』
リインフォースの声は、いつもと同じ静かなものだった。
『帰りましょう』
はやては少しだけ目を伏せた。
それから。
「……せやな」
顔を上げる。
「帰ろか」
「うん」
なのはが答える。
声には。
以前にはなかったノイズがある。
はやての言葉も、今はリインフォースを通さなければ人間へ届かない。
身体も変わった。
生活も変わった。
海鳴市も、以前と同じではない。
亡くなった人たちが戻ってくることもない。
全部なかったことにはできない。
それでも。
失ったものがあるからといって。
残っているものまで捨てる必要はなかった。
いつ帰れるのかは、まだ分からない。
だから今は。
ここで。
帰る日までの続きを、生きていけばいい。