「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
闇の書事件が終わっても、クロノ・ハラオウンの仕事は終わらなかった。
むしろ執務官としての仕事だけを考えるなら、事件が終わってからの方が面倒だった。守護騎士によるリンカーコアの蒐集から始まり、闇の書の完成、リーゼアリアとリーゼロッテによる介入、八神はやての変質。その後に発生した海鳴市上空の大規模戦闘まで含めれば、一つの事件として整理するだけでも膨大な資料が必要になる。
しかも今回は、単純に関係者が多いだけではない。
管理局の知識では説明できないものが多すぎた。
小尾一がセフィラと呼んでいる礼装。
そこから流れ込んだ、通常の魔力とは明らかに性質の異なる力。
セフィロト。
第一のセフィラ、ケテル。
そのケテルに対応する守護天使、メタトロン。
事件の途中で初めてその名称を聞かされた時点なら、小尾が地球の宗教や神秘思想から言葉を借りて、自分の研究へ大仰な名前を付けているだけだと考える余地もあった。
実際、管理局のデータベースには何一つ存在しなかった。
ところが、小尾に言われて地球側の通信網を検索すると、セフィロト、ケテル、エヘイエー、メタトロンという言葉の繋がりそのものは確認された。
それでも、その段階ではただの伝承だった。
地球に古くから残っている宗教上の知識と、小尾の説明が一致した。
そこまででしかなかった。
今は違う。
八神はやてがいる。
高町なのはがいる。
何より、管理局自身が彼女たちに起きた現象を嫌というほど観測してしまっている。
ケテルとメタトロンは別々の話ではない。小尾が最初から説明していたのは、第一のセフィラであるケテルと、そこに対応する守護天使メタトロンという一つの体系だった。そして、はやては反転を乗り越えた後、その説明と一致する方向へ存在そのものを変化させている。
なのはについても同様だった。
小尾が作ったセフィラを起点として人間としての身体構造を失い、それまで使っていたミッドチルダ式魔法とはまるで異なる権能を獲得した。その力によって戦場を地球から切り離し、さらに通常なら触れることすらできないはやての内側へ道を開いたことまで、管理局の記録には残っている。
小尾の理論がすべて正しいと証明されたわけではない。
実際、はやてが反転した時には本人ですら何が起きたのか分からなくなっていた。
それでも、小尾が何の知識も持たず、宗教用語を適当に並べていただけだという可能性は、もう考えにくかった。
この少年は、管理局が知らない何かを知っている。
問題は。
どこまで知っているのか。
そして、その知識が小尾一人だけのものなのかということだった。
「……また小尾一か」
クロノは作成途中の報告書から顔を上げ、眉間を指で押さえた。
画面には小尾の個人情報が表示されている。管理外世界第九十七番、地球出身。海鳴市在住の児童で、魔導師登録はなく、事件以前には管理局の犯罪記録にも一切該当していなかった。
そこだけ読めば、ごく普通の子供である。
実際には、その子供が管理局の武装隊員を死亡させ、アリアとロッテを二人まとめて重傷へ追い込み、最終的には地球規模の異常事態を生み出した術式の設計者でもある。
使っているものも、管理局の魔法とは違う。
本人は一貫して、それを魔術と呼んでいた。
そして、アリアとロッテの戦闘報告には、以前からクロノが気になっていた証言が残されている。
聖堂教会。
代行者。
魔術師。
小尾は戦闘中、自分についてそう名乗ったという。
その意味を本人へ確認する前に、まず証言した二人から詳しい話を聞いておきたかった。
ちょうどその日の午後、医療区画から連絡が入った。
『執務官。リーゼアリア、リーゼロッテ両名について、短時間であれば聴取可能との許可が下りました』
「分かった。すぐに行く」
クロノは報告書を保存すると、端末を閉じて立ち上がった。
* * *
アリアとロッテは、まだ完全には回復していなかった。
使い魔である二人の身体は人間とまったく同じ構造ではないが、だからといって受けた傷そのものが消えるわけではない。アリアはベッドの背を起こせるまでにはなっていたものの、ロッテはまだ身体の大部分を固定された状態で横になっていた。
「悪いな。医療班から長時間は駄目だと言われている」
「別にいいよ」
アリアはそう答えた後、クロノが持っている端末へ目を向けた。
「小尾のことでしょ?」
「話が早くて助かる」
「それくらい分かるって。私たちに今さら闇の書について聞くことなんて、大体聞き終わってるでしょ」
その通りだった。
クロノはベッド脇へ椅子を持ってくると、端末を起動した。
「戦闘中、小尾が自分について何か話していたな?」
ロッテの耳が僅かに動く。
「……ああ」
「できるだけ正確に思い出してほしい」
「代行者」
ロッテは少し考えながら答えた。
「聖堂教会って言ってた。それと魔術師」
「魔導師ではなく?」
「魔術師」
アリアも頷いた。
「そこは覚えてる。私たちが知らないって言った時、むしろ小尾の方が驚いてたから」
「驚いた?」
「そんな感じだったよ。『知らないの?』って」
ロッテがそこまで言うと、少し嫌そうに眉を寄せた。
「その後は妙に楽しそうだったけど」
「楽しそう?」
「あいつ、絶対ああいうの好きだよ。黒い服着て、黒い剣みたいなの投げて、自分から聖堂教会の代行者なんて名乗ってさ」
クロノは返事をせず、数秒だけ黙った。
否定できなかったからである。
小尾が黒い聖職者風の衣服を好み、黒鍵と呼ぶ武器を使っていることは既に分かっている。本人の言動にも、必要以上に芝居がかったところがある。
だが、それと証言の真偽は別だった。
「嘘をついているようには見えなかった?」
アリアとロッテが互いを見る。
今度はアリアが先に首を振った。
「少なくとも、あの時はね」
「私もそう思う」
ロッテも同意した。
「あいつにとっては、本当にあるのが当たり前って感じだった」
クロノはその証言を記録した。
「分かった。ありがとう」
「もういいの?」
「ああ。あとは本人に聞く」
クロノが立ち上がろうとすると、アリアが呼び止めた。
「クロノ」
「何だ?」
「あの子の言うこと、全部真に受けない方がいいよ」
「もちろんだ」
「でも、全部嘘だと思うのも多分違う」
アリアは自分の身体へ視線を落とした。
「少なくとも、私たち二人をこうした力は本物だからね」
それもまた、否定しようのない事実だった。
* * *
クロノは小尾のところへ向かう前に、一度だけギル・グレアムへ通信を入れた。
アリアとロッテの主人であり、地球出身でもある彼なら、少なくとも名称くらいは聞いたことがあるかもしれない。
『二人の状態はどうかね』
「まだ治療中ですが、短時間なら会話できています」
『そうか』
グレアムの表情が僅かに和らいだ。
クロノはその様子を見てから、本題へ入った。
「提督。二人の証言について確認したいことがあります」
『小尾一かね』
「はい」
察しが早かった。
「聖堂教会、代行者、魔術師。この三つについて、何か心当たりはありませんか?」
グレアムはすぐには答えず、画面に表示された単語を一つずつ見ていた。やがて小さく首を横へ振る。
『ないな』
「一つも?」
『言葉そのものなら知っている。地球には当然教会があるし、魔術や魔法を扱った宗教、伝承、創作も大量にある。ただし、君が聞いているのは実在する組織としての話なのだろう?』
「そうです」
『ならば知らない』
「代行者という役職も?」
『聞いた覚えはないな』
クロノは少し考えた。
地球出身のグレアムが知らない。
管理局にも記録がない。
以前なら、それだけでも小尾の証言をかなり疑っていただろう。
今は事情が違った。
「ただ、小尾が話していた他の知識については、実際に起きた現象と一致するものがあります」
『はやて君となのは君か』
「はい」
クロノは頷いた。
「特にはやてです。第一のセフィラ、ケテル。それに対応する守護天使メタトロン。あの対応関係は、事件のかなり早い段階から小尾が口にしていました」
『そして、最終的には実際の現象として現れた』
「そう考えるしかありません」
それが本当に宗教上語られるメタトロンそのものなのか。
小尾の解釈がどこまで正しいのか。
そこは管理局にも判断できない。
しかし、小尾が説明していた体系に従ってはやてが変化したという事実までは消せなかった。
「なのはについても同じです。少なくとも小尾は、自分が扱っているものについて、管理局より遥かに多くの知識を持っています」
『本人には聞いたのかね』
「これからです」
『ならば聞いてみることだ』
「信用しますか?」
『それは聞いた後で決めればいい』
グレアムは穏やかに答えた。
『話を聞くことと、言われたことを無条件に信じることは別だよ』
「……そうですね」
通信を終えたクロノは、そのまま収容区画へ向かった。
* * *
小尾一は、暇だった。
本当に暇だった。
収容されて以降、自由にできることがほとんどない。研究器具など論外で、本も勝手には読ませてもらえず、紙と筆記具さえ何を書くか分からないという理由で管理されている。
随分な扱いだと思う。
もっとも、自分が管理する側でも似たようなことはするだろう。そこが非常に腹立たしく、文句を言おうとすると頭の中でもう一人の自分が「当然だろ」と頷くので、抗議にも今ひとつ勢いが出ない。
そんなことを考えていると扉が開いた。
「やあ」
入ってきたクロノへ、小尾は椅子に座ったまま声をかける。
「また取り調べ?」
「そうだ」
「今度は何? 反省文でも書かせる?」
「君自身について聞きたい」
「僕?」
クロノは向かい側へ座った。
端末を机へ置き、真正面から小尾を見る。
「小尾一。君は何者だ?」
小尾は一度瞬きをしてから、少し考えた。
「質問が大雑把すぎない?」
「誤魔化すな」
「誤魔化してないよ。小学生、研究者、犯罪者、危険人物。好きなの選んで」
「聖堂教会」
クロノが言った。
「代行者」
そこで小尾は納得した。
「ああ、そっち」
「アリアとロッテから聞いた」
「言ったっけ?」
「言ったそうだ」
「まあ、言ったんだろうね」
小尾にとっては特に隠さなければならない名称でもない。
どこまで自分のことを話すかは別として、聖堂教会や代行者が何を指すかくらいなら説明しても問題はなかった。
「聖堂教会とは何だ?」
「教会」
「それでは説明になっていない」
「だろうね」
小尾は少し笑った。
「簡単に言うと、神秘を扱う教会の裏側みたいなところだよ。普通の人には関係ないし、知らない方がいいものを扱ってる」
「例えば?」
「異端、人外、悪霊、吸血鬼、危険な聖遺物。その辺」
「実在するのか?」
「するよ」
「では、代行者とは?」
「お掃除屋さん」
クロノの眉が寄る。
「掃除?」
「表に出たら困るものを、表へ漏れる前に片づける人」
小尾は特別なことでも話していないような調子で続けた。
「吸血鬼が人を襲ったら狩る。人外が暴れたら処理する。異端が余計なものを呼び出そうとしてたら止める。危険な聖遺物があれば回収する。一般人に見られたら、必要なら後始末もする」
「人間も殺す?」
「必要なら」
即答だった。
クロノの表情が厳しくなる。
「君が管理局員を殺したことも、その考え方の延長なのか?」
「違うって。その話、何回目?」
小尾は面倒そうに眉を寄せた。
「あれは殺す必要がなかった。単に出力を間違えたんだよ」
「結果として死んでいる」
「それは認めてる」
「反省は?」
「次は同じ失敗をしない」
「そういう意味ではない」
「じゃあ分からないなあ」
何度話しても、この部分だけは噛み合わない。
クロノもそれを分かっているのか、それ以上は追及しなかった。
「君は今も聖堂教会の代行者なのか?」
「今は違うよ」
「以前は?」
「いた」
「いつから?」
「昔」
「昔?」
「昔」
小尾はそれ以上説明するつもりがないらしい。
「もう少し具体的には?」
「別にそこ重要じゃないでしょ。いた。代行者やってた。それで十分じゃない?」
クロノは納得している様子ではなかったが、ここで無理に押しても何も出ないと判断したらしく、質問を切り替えた。
「では、魔術師というのは?」
「そのまま。魔術を使う人」
「魔導師とは違う?」
「全然違う」
「説明できるか?」
「できるけど、ちゃんとやったら長いよ」
「簡単でいい」
「じゃあ簡単に」
小尾は少し考えた。
「君たちの魔法は、僕から見るとすごく綺麗に体系化されてる。魔力があって、術式があって、デバイスで補助して現象を起こす。それに対して魔術はもっと雑多だよ。魔術回路、魔術刻印、土地、血統、象徴、信仰、伝承、儀式。使えるものは何でも使う」
「類感魔術も、その一つ?」
「そう。似ているものは繋がるってやつ」
「なのはとはやてへ使った術式も?」
「僕の研究はそこから伸ばしたものだね」
クロノは端末へ記録を続ける。
「魔術師は何のためにそんなことをする?」
「人による」
「君は?」
「根源」
「また知らない言葉だな」
「全部の始まりみたいなところだと思えばいいよ」
小尾はクロノの反応を見ながら、必要最低限の説明だけを付け足した。
「世界で起きる現象の原因。そのさらに原因。その一番奥にあるもの。そこへ辿り着くために何代も研究を続けるような人たちもいる」
「君が天使化を研究していたのも?」
「そう」
「人間を千人以上実験に使ってまで?」
「そうだね」
小尾は何でもないことのように答えた。
「なのはとはやても、そのため?」
「そう」
クロノは僅かに眉間へ皺を寄せたが、それ以上倫理の話を続けなかった。ここで何を言っても、また同じやり取りになることは分かっている。
その代わり、別の疑問をぶつけた。
「アリアとロッテは、管理局でも相当な戦闘経験を持っている」
「へえ」
「その二人を相手に、君は一人で勝った」
「そうだね」
「代行者の中でも、君はかなり強い方なのか?」
小尾は目を丸くした。
それから、心底おかしそうに笑った。
「いやいやいや」
「何だ?」
「僕を基準にしない方がいいよ」
「どういう意味だ」
「聖堂教会には埋葬機関っていうのがあってね」
「埋葬機関?」
クロノが初めて聞く名称を端末へ入力する。
「何をする組織だ?」
「普通の代行者じゃどうにもならないような相手を処理するところ」
「君より強い?」
「僕と比べるのは、向こうに失礼じゃない?」
小尾は笑ったまま答えた。
「埋葬機関と比べたら、僕なんて怯えた子犬だよ」
「……子犬?」
「そう。部屋の隅でぷるぷる震えてる方」
「アリアとロッテをあそこまで傷つけた君が?」
「僕なんて可愛いもんだって」
小尾は本気で言っているようだった。
「もちろん、全員の実力を知ってるわけじゃないよ。そもそも僕だって埋葬機関の内情を全部教えてもらえるような立場じゃないし。でも、普通の代行者じゃ相手にならないようなものを相手にする人たちだからね」
「どんな相手を?」
「知らない」
「知らないのか?」
「何でも知ってると思わないでよ。教会の中にだって秘密はある」
そこだけ妙に現実的だった。
クロノは端末へ「埋葬機関――詳細不明」と記録し、それから次の質問へ進んだ。
「グレアム提督へ確認した」
「誰?」
「アリアとロッテの主人だ。地球出身でもある」
「ああ。あの二人の保護者みたいな人」
「彼は聖堂教会も代行者も知らなかった」
小尾は一瞬きょとんとした後、クロノの方がおかしなことを言ったかのような顔をした。
「そりゃ知らないでしょ」
「なぜだ?」
「いや、なんで知ってると思ったの?」
「地球出身だからだ」
「クロノさあ」
小尾は本気で呆れたように言った。
「代行者なんて裏の組織に決まってるだろ」
「……何?」
「表に漏れないように処理するお掃除屋さんだって、今説明したじゃん」
小尾は椅子へ背を預けた。
「吸血鬼がいました。倒しました。悪霊が出ました。消しました。異端が変な儀式をやってたから潰しました。はい、新聞社に連絡しましょう、なんてやってたら意味ないでしょ」
「だが管理局にも記録がない」
「管理局は地球の裏側まで全部調べてたの?」
クロノは答えられなかった。
「してないだろ?」
「……管理外世界だ」
「じゃあ終わりじゃない」
小尾にとっては、ひどく単純な話だった。
「事件を処理して、痕跡を片づけて、一般人には普通の事件や事故だと思ってもらう。それを長いことやってるなら、普通の人が知らないのは当たり前だよ」
「グレアム提督は今では管理局の高官だ」
「今はね。でも、管理局に入っただけで地球の秘密が全部頭の中に入ってくるわけじゃないでしょ?」
「……それはそうだ」
「むしろ普通に知られてたら、そっちの方が仕事として問題じゃない?」
理屈は通っていた。
少なくとも、グレアムが知らないという事実だけでは、小尾の話を否定する材料にはならない。
そして今のクロノには、以前よりも小尾の言葉を無視できない理由があった。
「小尾」
「何?」
「以前なら、僕は今の話をほとんど信用しなかったと思う」
「へえ」
「聖堂教会も、代行者も、魔術師も。地球に残っている宗教や伝承から、それらしい単語を持ってきて自分の研究へ付けただけだと考えたかもしれない」
「まあ、普通はそう思うんじゃない?」
「だが、君ははやてに流れ込んでいた力について、最初から第一のセフィラ、ケテルと説明した。そして、ケテルに対応する守護天使がメタトロンだとも言っていた」
「言ったね」
「その時点では、僕たちには何の意味も分からなかった。だが、今は違う」
クロノは事件記録の一部を端末へ表示した。
はやての身体検査。
戦闘中の映像。
テレズマとしか呼びようのない未知の反応。
そして、反転を解消した後の状態。
「僕たちは実際に見た。君がケテルとメタトロンという一続きの対応関係として説明していたものが、はやての変化として現実に出てきた」
小尾の目が僅かに細くなった。
「なのはも同じだ。君のセフィラを起点に、今までの魔法では説明できない権能を獲得した。君の説明が全部正しいとは言わない。君自身、はやてが反転した時には何が起きているか分かっていなかった」
「うん。あれは分からなかった」
「それでも、少なくとも君が何の知識もなく話しているわけではない。それくらいは認めざるを得ない」
小尾は数秒黙った。
それから満足そうに頷く。
「いい実証データになったね」
「そういう言い方をするな」
「でも事実でしょ?」
「事実だから腹が立つんだ」
クロノは溜息を吐いた。
「それと、もう一つ」
「何?」
「前に君が話していたガイアとアラヤについてだ」
「ああ」
小尾はすぐに分かった。
クロノにとっても初めて聞く言葉ではない。前の聴取記録に残っている。
「星側の抑止と、人類側の抑止だったな」
「大雑把にはね」
「君は今回の事件で、それらしい介入が見えなかったと言っていた」
「うん」
「どういう意味だ?」
小尾は少し考えた。
「そのままだよ。僕の知ってる考え方なら、星そのものが危なくなればガイア、人類が滅びそうならアラヤ。その辺が何かしら働いてもおかしくない」
「今回、地球そのものが消える可能性があった」
「そうなんだよね」
小尾はそこで首を傾げた。
この話についてだけは、いつものように断定する様子がない。
「でも、僕には何も分からなかった」
「存在しないということか?」
「それは知らない」
小尾はあっさり否定した。
「僕が気づけなかっただけかもしれない。なのは達だけでどうにかなったから、わざわざ何かする必要がなかったのかもしれないし」
「それなら、今回の事件はどうなる?」
「んー」
小尾は少し考える。
「世界から見たら、あれでも大したことじゃなかったとか?」
クロノは数秒、何も言わなかった。
「海鳴市があれだけ破壊されて、最悪の場合は地球そのものが消えるところだったんだぞ」
「うん」
「それが大したことではない?」
「僕に言われても」
小尾は困ったように笑った。
「つまり結論は?」
「分からない」
「……潔いな」
「知らないものを知ってるふりしても仕方ないだろ」
普段の言動を考えると、そこだけ妙にまともだった。
クロノは小さく息を吐き、端末へ視線を戻した。結局、ガイアとアラヤについては以前の聴取から何も進んでいない。この世界に存在するのかも分からず、存在したとして今回なぜ動かなかったのかも分からない。
小尾本人に分からない以上、これ以上聞いたところで仮説が増えるだけだろう。
そう判断して、次の質問へ移ろうとした時だった。
「……まあ、冠位も出てこなかったしね」
小尾がぼそりと呟いた。
クロノの指が止まった。
「待て」
「ん?」
「今、何と言った?」
「冠位」
「……かんい?」
聞いたことのない単語だった。
しかも、今の話の流れで出てきた以上、単なる階級や称号の話とも思えない。
「それは何だ?」
「ああ……」
小尾は、自分が余計なことを口にしたと今さら気づいたような顔をした。
「グランドクラス」
「だから、それが何なんだ」
「世界側の最終兵器みたいなもの」
クロノが黙った。
小尾は少し考え、どこまで説明すれば伝わるか言葉を選ぶ。
「さっきガイアとかアラヤの話をしただろ。ああいう抑止力が存在するとして、その中でも普通じゃどうにもならない相手が出てきた時に使われる切り札みたいなものだよ」
「普通ではどうにもならない相手?」
「人間一人とか、街一つとか、そういう話じゃない」
小尾の口調は相変わらず軽かったが、説明している内容はまるで軽くない。
「人類が超克しなきゃいけない敵。放っておけば人類そのものが先へ進めなくなるような相手。そういうのが現れた時に、世界側がぶつけるための戦力」
「……兵器なのか?」
「兵器って言い方が一番分かりやすいかな」
小尾は僅かに首を傾げた。
「人間が世界に対抗するための兵器じゃないよ。逆。世界が、自分の側から切る札」
クロノは無言で端末へ新しい項目を作った。
**冠位**
その横に、小尾が口にした別名も入力する。
**グランドクラス。**
「どの程度の戦力なんだ?」
「知らない」
「またそれか」
「仕方ないだろ。僕が冠位だったわけじゃないんだから」
小尾は悪びれもせず肩を竦めた。
「僕が知ってるのは、世界側が用意する最高位の器ってことくらい。超克すべき敵が現れた時のために用意される、抑止力の頂点みたいなもの」
「頂点……」
「まあ、最終兵器だと思っておけばいいよ」
クロノは端末から顔を上げた。
「今回、それが現れなかった?」
「少なくとも僕は見てない」
「ガイアもアラヤも、それらしい介入は確認できない。そして、その冠位というものも現れなかった」
「うん」
「なら君は、それを理由に今回の事件を大したことではなかったと考えているのか?」
「そこまでは言ってないよ」
小尾は苦笑した。
「この世界にも同じ仕組みがあるって前提なら、そういう考え方もできるってだけ」
「地球が消滅する可能性があった事件だぞ」
「だから、世界の基準なんて僕に聞かれても困るって」
先ほどと同じところへ戻った。
ただ、一つだけ情報は増えてしまった。
ガイア。
アラヤ。
そして、その抑止力が本当に存在する場合に切られるという、さらに上の札。
冠位。
グランドクラス。
クロノはそこまで入力したところで、手を止めた。
「その冠位が出てくるような事態とは、どんなものなんだ?」
「だから詳しくは知らないって」
「分かる範囲でいい」
「人類が自分でどうにかしなきゃいけないような、本当にどうしようもない相手じゃない?」
「今回のは違った?」
「結果だけ見れば、なのは達で止められたでしょ」
「……」
「だったら、少なくとも冠位まで出張る必要はなかった、と考えることはできる」
小尾はそこまで言ってから、少し考えた。
「逆に言えば」
「何だ?」
「もし本当に冠位が出てくるようなことが起きたら、僕らが心配する段階はとっくに過ぎてるんじゃない?」
クロノは数秒、小尾を見つめた。
「……どういう意味だ」
「世界側の最終兵器を出さないといけないんだよ?」
小尾は笑った。
「その時点で、僕とか管理局とかがどうこうする話じゃないでしょ」
笑っている場合ではない。
そう言おうとして、クロノはやめた。
ガイアとアラヤだけでも真偽不明なのだ。その上に存在するという冠位について問い詰めても、まともな答えが増えるとは思えない。
だから端末には、
**『冠位/グランドクラス』――小尾一によれば、超克すべき敵に対して世界側が用いる最高位の戦力。抑止力の頂点に相当するとされる。実在未確認。**
とだけ記録した。
「他にはないだろうな」
「何が?」
「今みたいに、後から思い出して追加するものだ」
「さあ?」
「……」
「そんな顔しないでよ。僕だって全部覚えてるわけじゃないんだから」
その答えを聞いて、クロノは質問を変えることにした。
「聖堂教会はどこにある?」
「どこって?」
「本部だ」
「ああ」
小尾は少し考えた。
「バチカンじゃないかな?」
「なぜ疑問形なんだ?」
「僕、本部で偉そうに椅子へ座ってた人じゃないし」
「所属していたんだろう?」
「末端に近い人間が、上の内部事情まで何でも知ってると思わないでよ」
言われてみれば、その通りではある。
「探すならバチカン周辺じゃないかな。でも、僕ならおすすめしない」
「なぜ?」
「藪をつついて蛇が出てきても困るでしょ」
小尾は軽い調子で言った。
「管理局は強いと思うよ。でも、だからって知らないものをわざわざ掘り返す必要もないじゃん」
「埋葬機関のことか?」
「それも含めて」
小尾は肩を竦めた。
「教会だけとも限らないしね。魔術師にだって色々いる」
「君のような?」
「僕なんて、かなりまともな方じゃない?」
「どの口が言う」
「本当だって」
小尾は少し考えた後、何かを思い出したように言った。
「ああ。先輩なんて、この世すべての悪を生まれさせようとしてたし」
クロノの手が止まった。
「……何?」
「この世すべての悪」
「いや、それは聞こえた。その言葉自体を知らない」
「あ、知らないんだ」
「知っていると思ったのか?」
「いや、別に」
小尾は曖昧な記憶を探るように天井へ目を向けた。
「アンリマユ、だったかな」
「アンリ……マユ?」
「ゾロアスター教の悪神」
「悪神?」
「僕もそのくらいしか知らないよ」
クロノが訝しげな顔をする。
「君の先輩が、それを生み出そうとしていた?」
「らしいよ」
「らしい?」
「詳しく知らないんだって。先輩のことを最初から最後まで手伝ってたわけじゃないし、アンリマユについても僕は専門外」
小尾は何でもないことのように続けた。
「この世すべての悪をどうこうするって話だったから、随分大きいことやってるなあ、くらい」
「随分大きい、で済ませる話なのか?」
「まあ、失敗したけど」
「失敗したからいいという問題じゃない!」
思わずクロノの声が大きくなった。
小尾は少し驚いた後、なぜか楽しそうに笑った。
「クロノ、反応いいよね」
「誰のせいだ!」
「でも失敗したものを今さら心配しても仕方ないじゃん」
「世界規模かもしれない危険を生み出そうとした人間の話だぞ!」
「だから詳しく知らないって。アンリマユについて僕が知ってるのだって、ゾロアスター教の悪神ってくらいなんだから」
完全に温度差があった。
クロノにとっては聞き捨てならない話でも、小尾にとってはどこかで聞いた物騒な研究の一例に過ぎないらしい。
「……君の周りには、そんな人間ばかりいたのか?」
「ばかりじゃないよ」
「安心した」
「もっと変なのもいたし」
「安心させろ!」
小尾は声を上げて笑った。
クロノは頭痛を堪えながら、端末へ最低限の記録だけを残した。
この世すべての悪。
アンリマユ。
小尾の認識ではゾロアスター教の悪神。
詳細不明。
それ以上は書きようがなかった。
「魔術師側にも組織はあるのか?」
「魔術協会とか」
「所在地は?」
「有名なのはロンドンじゃない?」
「そこへ問い合わせれば確認できる?」
「やめた方がいいと思うよ」
また同じ答えだった。
「なぜだ?」
「魔術師って、基本的に自分の研究を外へ見せたがらないから。君たちみたいな全然知らない組織が急に来て、『魔術について教えてください』なんて言って素直に教えてくれると思う?」
「管理局には敵対の意図はない」
「それ、向こうには関係ないでしょ」
小尾は笑う。
「君たちが自分たちを秩序を守る組織だと思ってるのと同じで、向こうには向こうの常識があるんだから」
クロノはしばらく黙っていた。
聖堂教会。
埋葬機関。
魔術協会。
アンリマユ。
さらに、すでに聞かされていたガイアとアラヤ。
どれも管理局にとっては未知のものだった。
だが、少なくとも一つだけ、以前とは違う。
小尾の話を完全な妄想として処理することはできなくなっている。
ケテルと、それに対応する守護天使メタトロン。
その体系は、はやてという形で管理局の前へ現れた。
なのはもまた、小尾が扱っていた神秘の延長線上で人間の規格から外れた。
だからこそ。
クロノは逆に、もっと慎重になる必要があるのではないかと思い始めていた。
「小尾」
「何?」
「君なら、管理局に地球の調査を勧めるか?」
「しない」
答えは早かった。
「即答だな」
「だって面倒じゃん」
「それだけ?」
「十分でしょ」
小尾は少しだけ真面目な顔になる。
「君たちは次元世界を管理する組織で、自分たちなりの法律と常識を持ってる。でも、地球の裏側にいる連中には、地球の裏側なりのやり方がある」
「管理局へ敵対する可能性がある?」
「知らないよ。でも、向こうから見た君たちって結構怪しいと思う」
「僕たちが?」
「地球の外から突然来る。見たこともない術式を使う。空を飛ぶ。転移する。人間を船へ連れていく。地球の政府とは違う法律で動いてる。その上で教会や魔術師の秘密を探り始める」
小尾はそこで僅かに笑った。
「僕が向こう側なら、とりあえず警戒するけど」
「敵対するつもりはない」
「君たちに無くても、相手がどう受け取るかは別でしょ」
クロノは否定できなかった。
管理局の立場から見れば、現地文明を守りながら活動している。
だが、管理局そのものを知らない人間から見れば、話はまったく違う。
「それに」
小尾は続けた。
「この世界にも本当にガイアとかアラヤみたいなものがあるなら、余計なことしない方がいいかもしれないしね」
「先ほど、存在するかどうかも分からないと言っただろう」
「だからだよ」
小尾はあっさり答えた。
「分からないものだらけなのに、わざわざ藪の中へ棒を突っ込む理由ある?」
「……ないな」
「でしょ?」
「君に納得させられるのは少し癪だが」
「ひどいなあ」
小尾は笑った。
クロノは端末を閉じる前に、もう一度そこに並んでいる名称を見た。
管理局が知らなかったもの。
だが、その一部については確実に現実へ作用している。
だから調査する。
以前のクロノなら、そう考えていたかもしれない。
今は逆だった。
小尾の話に信憑性が出てきたからこそ、何も分からないまま踏み込む方が危険なのではないか。
地球は管理外世界だ。
今まで管理局が知らなかった何かが存在するとしても、それが次元世界へ危害を及ぼさない限り、管理局が暴き立てる理由はない。
「……今日はここまでだ」
「もう?」
「十分だ」
「僕はまだ暇なんだけど」
「僕はもう十分なんだ」
「じゃあ本増やしてよ」
「却下する」
「まだ何も指定してないのに?」
「君へ余計な知識を与えたくない」
「もう次の研究考えてるよ」
クロノの動きが止まった。
「……今、何と言った?」
「何でもない」
「小尾」
「取り調べ終わったんでしょ?」
急に聞こえなくなったふりを始めた少年を見て、クロノは本気で頭を抱えたくなった。
* * *
その日の夜、クロノは再びグレアムへ通信を繋いだ。
『どうだった?』
「予想以上に色々聞けました」
『それは良かったのではないかね』
「聞かなければ良かったと思う内容もかなりありました」
グレアムは一瞬黙った後、小さく笑った。
『例えば?』
「埋葬機関という組織があるそうです。聖堂教会の中でも、通常の代行者では対処できない対象を処理する者たちだと」
クロノはそこで少し言葉を選んだ。
「本人曰く、彼らと比べれば自分など『怯えた子犬』だそうです」
グレアムの表情から笑みが消えた。
アリアとロッテを二人とも病院送りにした小尾が、自分を怯えた子犬と表現する。その比喩が単なる誇張ならいいが、今の状況では笑い飛ばすには少々気になる内容だった。
『他には?』
「魔術師側にも魔術協会という組織があるそうです。それから、彼の先輩に『この世すべての悪』を生み出そうとしていた人物がいたと」
『……何だね、それは』
「僕にも分かりません。小尾はアンリマユという名称を口にしましたが、本人もゾロアスター教の悪神という程度しか知らないそうです。どういう方法で何をしようとしていたのかも、詳しく知らないと」
『結果は?』
「失敗したそうです」
『それは何よりだ』
「僕もそう思います」
クロノはそこで一度話を切り、別の記録を画面へ呼び出した。
「それと、以前の聴取で話していたガイアとアラヤについても確認しました」
『世界側の抑止とやらか』
「はい。結論は変わっていません。この世界にあるのか、本人にも分からないそうです」
『今回の事件で介入らしいものは見えなかった』
「そうです。小尾は、それを理由の一つとして『世界から見れば、あれでも大したことではなかったのかもしれない』と」
グレアムはしばらく黙っていた。
『あれだけの事態がかね』
「僕も同じことを言いました」
クロノは苦い顔をした。
「ただし、小尾も断定していません。そもそもこの世界に存在しない可能性もあるし、なのは達だけで止められたから介入する必要がなかった可能性もある。我々が関知してない介入があった可能性もある。本人にも何も分からない、と」
『ならば、そこは未確認のままか』
「はい」
分からないものは分からない。
それ以上の結論を無理に作る必要はない。
問題は、小尾が話した別の部分だった。
「提督。聖堂教会や埋葬機関そのものについては、小尾一人の証言しかありません」
『そうだな』
「ですが、彼の持つ知識そのものについては、以前より信用度を上げる必要があると思います」
『ケテルとメタトロンか』
「はい」
クロノは頷いた。
「第一のセフィラ、ケテル。それに対応する守護天使メタトロン。小尾は事件の途中から、その対応関係を一貫して説明していました。そして、最終的にはやてに起きた現象は、少なくとも彼が説明した体系の延長線上にあります」
なのはも同じだった。
小尾が埋め込んだセフィラを起点として、人間の魔法とは異なる権能を獲得している。
小尾の説明すべてを信じる理由にはならない。
しかし、何の根拠もない妄想として切り捨てることもできない。
『彼は、我々が知らない体系的な知識を持っている』
「そう考えるべきだと思います」
『では、その体系を調査するかね?』
グレアムの質問に、クロノはすぐには答えなかった。
以前の自分なら、調査するべきだと言ったかもしれない。
未知のものがあるなら確認する。
危険性を調べる。
管理局にとって必要な情報を得る。
執務官として、それはごく自然な発想だった。
だが今回、小尾から聞いた話を一つずつ並べてみると、その自然な発想をそのまま実行することが正しいとは思えなかった。
聖堂教会。
埋葬機関。
魔術協会。
そして、存在するかどうかさえ分からないガイアとアラヤ。
そのどれもについて、管理局には相手の性質を判断できるだけの情報がない。
「……いいえ」
クロノは答えた。
「現時点では、積極的に関わらない方がいいと思います」
『理由を聞こう』
「第九十七管理外世界は、管理局の統治下にありません。現地で独自の神秘体系を持つ者たちが本当に存在するとしても、それだけで管理局が接触する理由にはならない」
小尾が嘘をついているなら、調べても何も出てこない。
だが本当だった場合は、話が変わる。
管理局が今まで存在すら知らなかった組織を、こちらの都合だけで探し始めることになる。相手が管理局を友好的な存在として認識する保証もなく、どんな対応を取るのかも分からない。
「それに、小尾一人の術式だけでも今回の事態になりました。その本人が、自分より遥かに危険な相手を扱う者たちがいると言っている。もちろん誇張の可能性はありますが、存在確認だけを目的として不用意に接触するには危険が大きすぎます」
グレアムはしばらく黙って聞いていた。
『藪をつついて蛇を出す必要はない、か』
「小尾もそう言っていました」
『彼の意見に従うのかね?』
「いいえ」
クロノは首を横へ振った。
「彼の話に信憑性があると判断したからこそです」
もし何もかも小尾の作り話なら、恐れる必要はない。
だが、ケテルとメタトロンの件だけでも、小尾が管理局の知らない領域について一定の知識を持つことは無視できなくなった。
だからこそ。
本当に何かがあるかもしれない場所へ、確認のためだけに手を突っ込む理由がない。
「管理局に直接的な脅威が発生したなら、その時は調査する必要があります。しかし、今の地球は管理局へ助けを求めているわけでも、次元世界へ攻撃しているわけでもありません」
『そして、今まで長い間そうだった』
「はい」
グレアムは椅子へ深く身体を預けた。
地球出身の彼にとって、その判断には別の意味もあるのだろう。
管理局へ来る以前、自分が暮らしていた世界。
そこでは確かに普通の人間たちが暮らし、国家が存在し、社会が動いていた。
もしその裏に小尾の語るようなものが本当に存在していたのだとしても、それらは少なくとも表の社会を破壊することなく共存してきたことになる。
『私も賛成だ』
やがてグレアムが言った。
「提督も?」
『管理外世界へ必要以上に干渉しないという原則は、そもそも管理局側にもある。それに、知らないものが存在するからといって、それをすべて暴かなければならない理由はない』
クロノは静かに頷いた。
『聖堂教会も、埋葬機関も、魔術協会も記録には残す。ただし、小尾一の証言であることを明記し、存在を確定情報として扱わない。その確認を目的とした直接的な調査も行わない』
「必要が生じるまでは非接触」
『それでいいだろう』
グレアムはそこで少し間を置いた。
『ただし、第九十七管理外世界に対する我々の認識は変えなければならないな』
「魔法文明の存在しない世界、という評価ですか?」
『少なくとも、そう断定するべきではない』
管理局が確認できる形の魔法文明は存在しない。
だが、それと「神秘が存在しない」は同じではない。
今回、管理局はそれを実物で見せつけられた。
小尾一という魔術師。
彼が作ったセフィラ。
ケテルに対応する守護天使メタトロンという体系の中で変質したはやて。
そして、別の権能を得たなのは。
これらをすべて目の前で見てなお、第九十七管理外世界には何もないと言い続ける方が不自然だった。
『管理局が把握していない神秘体系が存在する可能性を認める。ただし、それを理由として管理局側から積極的に接触は行わない』
「はい」
『知らないから存在しない、とは考えない。しかし、知らないから調べなければならない、とも考えない』
その言葉が、今回の結論として一番しっくり来た。
* * *
通信を終えた後、クロノは作成途中だった闇の書事件報告書を再び開いた。
小尾一に関する項目は、最初に考えていたものから随分と内容が変わっていた。
聖堂教会。
代行者。
埋葬機関。
魔術協会。
それらについては、小尾一の証言として記録する。現時点では独立した裏付けが存在しない以上、実在を確定した組織として扱うことはできない。
アンリマユについても同じだった。
小尾自身が知っているのは、ゾロアスター教における悪神という程度に過ぎず、先輩と呼んだ人物が何をどのように行おうとしていたのかも分からない。そのため、報告書には参考情報として残す以上の扱いはできなかった。
ガイアとアラヤについても、以前の記録から評価は変えない。
小尾は世界側、人類側の抑止として説明しているが、この世界に同じ仕組みが存在するかどうかは本人にも分かっていない。今回ほどの事件でも明確な介入を確認できなかったことから、小尾は「世界から見れば大した危機ではなかった可能性」まで口にしたが、それも推測に過ぎなかった。
そこには、確定と書けるものがない。
しかし。
すべてが同じ扱いではなかった。
セフィラ。
テレズマ。
第一のセフィラ、ケテル。
ケテルに対応する守護天使、メタトロン。
これらについては、小尾の証言だけを根拠にはできない。
なぜなら、八神はやてがいるからだ。
高町なのはもいる。
彼女たちに起きた変化は、今も管理局の医療記録、観測記録、戦闘記録として残っている。小尾がすべてを正確に理解していたわけではないにせよ、彼の知識が現実の現象と無関係ではないことだけは明らかだった。
だからこそ、地球への評価を変える。
何もない世界ではない。
管理局が何も知らなかった世界である。
その二つは、まったく違う。
クロノは報告書の最後へ、新しい文章を入力した。
**管理外世界第九十七番について、管理局既知の魔法体系とは異なる、現地固有の神秘体系が存在する可能性を考慮する。現時点で当該体系および関連組織による次元世界への直接的脅威は確認されておらず、その実態解明のみを目的とした積極的接触・捜索は行わない。必要性が生じた場合に限り、改めて対応を検討するものとする。**
クロノは文章を最後まで読み返した。
修正する必要はなかった。
調査予定地として入力しかけていたバチカンも、ロンドンも削除した。場所だけ記録しておけば十分であり、そこへ管理局員を派遣する予定を立てる必要はない。
存在するかもしれない。
それだけ認識しておけばいい。
地球側が管理局へ何もしてこない限り、管理局からも手を出さない。
それは恐怖から目を逸らすこととは少し違う。
相手のことを何も知らないまま、自分たちには調査する権利があると決めつけないというだけだった。
何より今回、管理局は一つのことを嫌というほど学んだ。
自分たちが理解できないものは、確かに存在する。
そして、理解できないものへ不用意に手を伸ばした結果がどうなるかは、海鳴市の惨状を見れば十分だった。
小尾が語った埋葬機関が本当に存在するのかは分からない。
彼が「怯えた子犬」に見えるほどの人間がいるという話も、誇張かもしれない。
ガイアやアラヤが本当にこの世界にも存在するのかも分からない。
だが、それを確かめるためだけに藪をつつき、中から何が出てくるのかを試す必要はない。
地球が静かなら、それでいい。
クロノは報告書を保存した。
事件を通じて、管理局は第九十七管理外世界のすべてを理解したわけではない。むしろ、自分たちがほとんど何も知らなかったことを理解したに過ぎなかった。
それでも、その認識は以前より正確だった。
知らないものは、存在しないものではない。
同時に。
存在するかもしれないものを、すべて知る必要もない。
闇の書事件の報告書は、その結論を最後に加えることで、ようやく完成へ近づいていた。