「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
それから、かなりの月日が流れた。
海鳴市で起きた一連の事件については、時空管理局内部でもようやく整理が進みつつあった。高町なのはと八神はやてについては前例のない状態であることに変わりはないものの、少なくとも今すぐ再び地球規模の災害を引き起こす兆候はない。
一方、その原因を作った少年は、今も管理局の収容施設にいた。
小尾一。
危険度だけを見れば、通常の未成年犯罪者と同じように扱える相手ではない。
管理局の術式では分類できない魔術を使用し、人間の認識や記憶へ干渉する。身体能力も年齢からは考えられない水準にあり、魔法による拘束を破った実績まである。
そのため、収容開始直後の警備は徹底されていた。
居室から出る際には複数名の職員が同行し、持ち込まれる物品はすべて確認される。書籍も例外ではなく、内容を確認して危険性がないと判断されたものだけが渡された。
食事も収容施設から提供されるものに限定され、外部との接触も厳しく制限されていた。
少なくとも、最初はそうだった。
◇
「最近、勤務で気になることはありますか?」
「特にはありませんね」
定期カウンセリングを担当していた女性職員は、端末へ視線を落とした。
向かいに座っているのは、小尾一の収容区画を担当する男性職員だった。
収容対象との長期接触による精神的負荷を確認するため、一定期間ごとに行われる通常の面談である。特に小尾については精神干渉系の術式を使用する可能性が確認されているため、一般の収容区画より頻度が高く設定されていた。
「睡眠は?」
「取れています」
「食欲は?」
「問題ありません」
「勤務中に強いストレスを感じることは?」
「最近はむしろ楽ですよ。小尾君も大人しいですし」
男性職員はそう答えて、小さく笑った。
「最初の頃は、いつ何をするか分からないって皆かなり緊張してましたけどね。今じゃ本読んでるか、何か書いてるかです」
「問題行動はありませんか?」
「ないですね」
「職員とのトラブルも?」
「ありません。この前なんか、夜勤組と一緒に夜食食べに行ったくらいです」
端末へ走っていた指が止まった。
カウンセラーは顔を上げた。
「……すみません。もう一度お願いします」
「夜食ですよ」
男性職員は不思議そうに答えた。
「食堂が閉まってたんで、近くまで食べに行ったんです」
「誰がですか?」
「小尾君が」
「あなたたちと?」
「はい」
あまりにも自然な返答だった。
カウンセラーは数秒ほど黙り、それから端末を横へ置いた。
「確認します」
「はい」
「小尾一の現在の収容区分を説明してください」
男性職員は少し考えたものの、すぐに答えた。
「特別警戒対象です。精神干渉系の能力を持つ可能性があるため、原則として単独接触は禁止。収容区画外への移動には許可が必要で、施設外への外出は緊急時を除いて認められていません」
「そうですね」
「はい」
「では昨夜、小尾一は施設の外へ出ましたか?」
「出ました」
「誰の許可で?」
「私です」
「なぜ許可したんですか?」
「…………」
初めて、男性職員が言葉を止めた。
「理由を教えてください」
「いや……」
眉間に皺が寄る。
本人は覚えていた。
夜勤中、小尾が腹が減ったと言ったことも覚えている。
施設内の食堂がすでに閉まっていたことも覚えている。
同僚二人と相談し、それなら少し外へ出ればいいと自分から提案したことも覚えていた。
正式な出入口を使った。
外出記録にも自分の認証を残した。
戻ってきた時にも、当直担当へ報告している。
何一つ隠していない。
「……腹が減ったと言ったので」
「それだけですか?」
「……はい」
「特別警戒対象を施設外へ出す理由として、それが適切だと思いましたか?」
男性職員は答えなかった。
顔から、急速に血の気が引いていった。
「その時は……」
自分の記憶を探るように、ゆっくりと言葉を続ける。
「その時は、何もおかしいと思わなかったんです」
カウンセラーはすぐに端末を手に取った。
◇
最初の報告だけなら、単純な規則違反として処理されたかもしれない。
問題は、その後だった。
一人目の担当職員への面談結果を受け、小尾一と継続的に接触していた職員全員へ個別の聞き取りが行われた。
その結果、似たような事例が次々と発見された。
最初に変わったのは、書籍だった。
収容直後、小尾へ渡される本は一冊ごとに内容確認が行われていた。
数か月後には、魔術や宗教に直接関係する専門書だけが確認対象となった。
さらに時間が経つと、歴史書や小説については確認そのものが省略されるようになっていた。
理由を尋ねれば、担当者たちは全員説明できた。
危険性のない本まで毎回確認するのは非効率だから。
それ自体は、一見すれば合理的だった。
次に変わったのは食事だった。
最初は提供された食事をそのまま食べていた。
やがて小尾が苦手なものを残すようになると、担当者が別の料理へ変更することを認めた。
そこから収容者用のメニュー以外を注文するようになり、いつの間にか施設のある区画の店から好きなものを取り寄せることまで認められていた。
領収記録も残っている。
隠そうとした者は一人もいなかった。
さらに、小尾は居室以外で過ごす時間が増えていた。
監視室のすぐ近くにある休憩区画。
資料室。
職員用の食堂。
どれも最初は「監視しやすいから」という理由だった。
そして、その積み重ねの先にあったのが夜間外出だった。
午前一時五十三分。
被収容者、小尾一。
同行職員三名。
外出目的。
夜食。
クロノ・ハラオウンは、報告書に記載されたその文字をしばらく無言で見つめていた。
「……冗談だろう」
「残念ながら」
報告担当の局員が答えた。
「記録も残っています」
表示された映像には、収容施設の正面出入口が映っていた。
三人の職員が歩いている。
その間に、小尾がいた。
拘束具はない。
手には本まで持っている。
『ちょっと行ってきます』
職員の一人が受付へ声をかけた。
『了解』
『行ってきます』
小尾も続けた。
『ああ。あまり遅くなるなよ』
受付担当が普通に答えた。
扉が開く。
四人はそのまま施設を出ていった。
映像を止めたクロノは額を押さえた。
「警報は?」
「作動していません」
「外出申請は?」
「あります」
「誰が承認した」
「当直責任者です」
「責任者は?」
「自分が承認したことを覚えています」
クロノは顔を上げた。
「本人は、今どう言っている?」
「あり得ない判断だった、と」
「当時は?」
「問題ないと思っていたそうです」
それが一人ではない。
小尾と接触していた職員の大半が、程度の差こそあれ似た状態になっていた。
記憶はある。
行動した自覚もある。
誰かに命令されたという認識もない。
それどころか、その時その時の判断について理由まで説明できた。
ただし、第三者から順番に説明され、自分の行動を客観的に振り返った瞬間、その異常さに気づく。
そして全員が同じことを言った。
その時は、本当におかしいと思わなかった。
「精神操作の痕跡は?」
「管理局の検査では確認できません」
「当然か」
クロノは低く呟いた。
相手は、管理局の魔法ではない。
それについては、もう嫌というほど理解している。
◇
久しぶりに入った収容区画は、以前とはずいぶん雰囲気が変わっていた。
小尾の居室そのものは大きく変わっていない。
ただし、本が増えていた。
壁際の棚だけでは収まらず、机の脇にも何冊か積まれている。
小尾はその中の一冊を開き、椅子へ座っていた。
扉が開いても、すぐには顔を上げない。
「最近さ」
本を閉じてから、小尾は言った。
「急にみんな厳しくなったんだけど」
「君のせいだ」
「僕?」
「君以外に誰がいる」
クロノは向かいへ座った。
「職員に何をした」
「何も」
「小尾」
「本当に何も命令してないよ」
小尾は肩を竦めた。
「外へ連れていけとも言ってないし、好きなものを食わせろとも言ってない。本を買えって強制したこともない」
「認識を阻害をしたな」
少しだけ間があった。
小尾は視線を横へ向け、それからあっさり頷いた。
「まあ、少し」
「少し?」
「そんな怖い顔しなくても」
「最高警戒対象が職員三人と夜中に飯を食いに行っていたんだぞ」
「ちゃんと帰ってきたじゃん」
「そういう問題じゃない!」
クロノの声がわずかに大きくなる。
小尾は面倒そうに耳を押さえた。
「脱走する気はないって何度も言ってるのに」
「だから施設の警備を自分に都合よく変えていいという話にはならない」
「変えてないよ」
「変わっているだろう」
「規則は変わってない」
小尾の返答に、クロノは言葉を止めた。
「外出禁止の規則もそのまま。持ち込みの規則もそのまま。僕が何かを書き換えたわけでもない」
「職員の判断を変えた」
「ちょっと違う」
小尾は指を一本立てた。
「認識そのものを消したわけじゃない。僕が危険な収容対象だってことも、みんな知ってたでしょ?」
「……知っていた」
「僕を外へ連れていった人だって、僕が誰なのか知ってた。外出禁止なのも知ってた。それでも、自分で大丈夫だと判断した」
「それを君が誘導したんだろう」
「まあね」
悪びれる様子はない。
「人間って、毎回全部の情報を同じ重さで考えてるわけじゃないんだよ」
小尾は机の上の本を指で軽く叩いた。
「僕が本を一冊欲しいって言うたびに、『こいつは危険人物だ』『この本に何か仕掛けがあるかもしれない』『規則ではどうなっていた』って最初から全部考えるの、疲れるでしょ?」
「だから?」
「そこを少しだけ薄くした」
「……何を」
「僕を危険だと思う必要性」
クロノは黙った。
「完全に忘れさせたら不自然になる。でも、『まあ、これくらいならいいか』って思うくらいなら、本人も理由を勝手に作ってくれる」
楽しそうに話しているわけではない。
自慢している様子もない。
小尾にとっては、本当にただ仕組みを説明しているだけだった。
「最初から狙っていたのか」
「何を?」
「今の状態だ」
「最初から夜食を食べに行こうとは思ってないよ」
小尾は少し考えた。
「最初は、本をもう少し自由に読みたかっただけ」
「……そこから?」
「本を一冊ずつ確認する必要はないよね、ってなって。次は食事。次は居室の外。そうしてたら、だんだん暮らしやすくなった」
「何か月かけた」
「さあ?」
クロノの眉が動く。
「覚えてないのか」
「いちいち日付なんて記録してないよ。急に変えたら気づくから、少しずつやっただけ」
やはり意図的ではある。
ただし目的は脱走でも破壊工作でもない。
快適に本を読み、好きな食事を取り、狭い居室へ閉じ込められる時間を減らすこと。
それだけだった。
それだけのために、収容施設一つの常識を数か月かけて変えていた。
「カウンセリングで気づいたよ」
「へえ」
「職員自身に、自分が何をしたのか説明させた。そこで初めて、自分の判断がおかしかったと気づいた」
「なるほど」
小尾は素直に感心した。
「外から順番に整理されたら、認識の優先順位も戻るのか。面白いね」
「実験結果みたいに言うな」
「僕としては参考になるし」
クロノはため息をついた。
「一つ聞く」
「何?」
「今も使っているのか?」
「使ってないよ」
「本当か?」
「たぶん」
「たぶん?」
「ずっと薄く重ねてたから、どの程度残ってるかまでは分からない」
クロノの表情が固まった。
小尾はそれを見て首を傾げた。
「そんな顔する?」
「するに決まっている」
「でも、もう気づいたんだから大丈夫じゃない?」
その直後だった。
扉の外にいた職員が室内へ顔を出した。
「執務官、時間です」
「ああ」
クロノが立ち上がる。
その横で、小尾が何気なく声をかけた。
「そういえば、読み終わった本があるんだけど、続きって頼める?」
職員が小尾を見る。
「どれだ?」
「机の上の青いの」
「ああ、それなら――」
言いかけて、職員が止まった。
数秒。
顔色が変わる。
「……申請を通してください」
それだけ言うと、職員は視線を逸らした。
クロノは何も言わなかった。
小尾も黙っていた。
扉が閉じてから、小尾がぽつりと言った。
「やっぱり、まだ少し残ってるね」
クロノは頭を抱えたくなった。
◇
「それで、私のところへ来たわけか」
ギル・グレアムは、机の上に並べられた資料へ目を落としていた。
久しぶりに会った老提督は、以前と変わらない落ち着いた表情を浮かべている。
クロノが持ち込んだのは、収容開始から現在までの記録だった。
書籍の購入履歴。
食事記録。
施設内の移動許可。
職員用区画への立ち入り。
そして、夜間外出。
「はい」
「精神干渉の痕跡は見つからない」
「管理局の検査では」
「本人は認識阻害と呼んでいる、と」
「そうです」
グレアムは最初の数か月の記録と、最近の記録を並べた。
「興味深いな」
「僕には頭痛の種にしか見えませんが」
「だからこそだよ」
老人の指が、最初の書籍許可を示す記録へ触れた。
「ここでは何もおかしくない」
「はい」
「危険性を確認した上で一冊の本を渡している。通常の運用だ」
次の記録。
「ここも、まだ理解できる。明らかに危険性のない書籍について確認手順を簡略化した」
さらに次。
「ここから少しずつおかしくなる」
グレアムは記録を追っていった。
しかし、どの一件を取り出しても、それだけで大問題と言えるものは少ない。
本を一冊増やした。
食事を変更した。
休憩区画で読書を認めた。
夜間に食堂へ出した。
一つ前の状態を基準にすれば、それぞれほんの少ししか変わっていない。
「急激な変化がない」
グレアムが言った。
「はい」
「だから誰も、自分の判断がそれ以前と食い違っていることに気づけなかった」
クロノも同じ結論に達していた。
「一度に一つずつです」
「そうだろうな」
「本人もそう言っています」
「少年は、施設を脱走しようとしたわけではない」
「ありません」
「職員へ敵対行動を取ったわけでもない」
「はい」
「ただ、自分が暮らしやすくなるようにした」
「……そうです」
グレアムは椅子へ深く腰掛けた。
しばらく資料を眺めていたが、やがて小さく息を吐いた。
「クロノ」
「はい」
「それが一番厄介だ」
予想していた言葉だった。
「大掛かりな脱走計画なら、目的がある。目的が分かれば、そのために必要な行動を予測できる」
グレアムは夜間外出の記録を指で叩いた。
「だがこれは違う」
「本人にとって、目的と呼べるほどのものではありません」
「腹が減った。本が読みたい。狭い部屋にずっといたくない。ただそれだけだ」
「はい」
「その程度の理由で、何か月もかければ、管理局の収容施設一つの運用をここまで変えられる」
クロノは答えなかった。
グレアムは続ける。
「しかも職員たちは、操られているという自覚すら持たない。自分で考え、自分で判断し、自分で許可を出している」
「カウンセリングを受ければ、おかしいことには気づけます」
「それは救いではある」
「ただ……」
「彼の近くへ戻れば、再び影響を受ける可能性がある」
クロノは頷いた。
グレアムは目を細めた。
「前回、君は地球について私に話したな」
「管理局の知らない体系が存在する可能性についてですか」
「ああ」
聖堂教会。
魔術協会。
抑止力。
冠位。
どこまで事実なのかは、今も分からない。
しかし、小尾が使っている術式だけは現実に存在している。
「我々はこれまで、未知の術式を警戒するというと、攻撃や防御ばかりを考えてきた」
グレアムは言った。
「だが、こんな方法もあるわけだ」
「施設を壊さず、人も傷つけず、警報も鳴らさない」
「それどころか、規則すら破壊しない」
グレアムは資料を閉じた。
「規則を守る人間の側に、『これは例外でも構わない』と思わせる」
クロノは無意識に腕を組んだ。
「対策を考える必要があります」
「当然だ」
「担当者の定期交代。直接接触時間の制限。判断権限を、小尾と接触しない部署へ分離することも考えています」
「悪くない」
「ただ、それでも十分かどうか」
「分からないだろうな」
あっさりと言われた。
クロノは苦い顔をする。
「前回も同じことを言いましたね」
「分からないものを、分かったふりをするよりはいい」
グレアムはわずかに笑った。
その後、机の上の資料へもう一度目を落とす。
「一つだけ、認識を改めた方がいい」
「何でしょう」
「我々は、小尾一を収容施設の中へ閉じ込めているつもりだった」
「はい」
「だが、この記録を見る限りでは少し違う」
グレアムの指が、数か月分の記録をゆっくりとなぞった。
「彼は壁を壊していない。扉も壊していない。警備システムにも触れていない」
それでも。
最後には、夜中に職員と一緒に施設を出ていた。
「収容施設が彼を囲っていたのではない」
グレアムは静かに言った。
「いつの間にか、施設の常識の方が彼に合わせて形を変えていたんだよ」
クロノは返事をしなかった。
その言葉を否定できる材料が、一つもなかったからだ。
◇
同じ頃。
小尾は再び厳しくなった収容区画で、一人本を読んでいた。
出前は禁止。
職員用区画への立ち入りも禁止。
夜間外出など、当然認められない。
ずいぶん前の状態へ戻ってしまった。
「不便になったなあ」
ページをめくりながら、小尾は呟いた。
少し考える。
認識阻害は、もう警戒されている。
同じ方法を使えば、今度はもっと早く気づかれるだろう。
ならば次は、別の方法を考えればいい。
そこまで考えてから、小尾は首を振った。
「まあ、いいか」
今すぐ困っているわけでもない。
本もある。
時間もある。
研究を考えるには、むしろ静かで都合がよかった。
小尾は何事もなかったように、続きを読み始めた。