「力が欲しいか?」と言いたくて!   作:桃たろす

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クロノの頭痛の種2

 

 小尾一に対する収容体制が見直されてから、かなりの時間が経っていた。

 

 以前のような状態には戻っていない。

 

 書籍は申請制。

 

 食事は規定されたもの。

 

 収容区画外への移動も原則として認められず、職員が小尾の希望を聞いたとしても、その場では判断しない。

 

 小尾本人と直接接触していない者が、改めて可否を判断する。

 

 さらに、特定の職員が長期間担当し続けることもなくなった。

 

 食事を運ぶ者。

 

 居室前を警備する者。

 

 書籍を受け渡す者。

 

 健康状態を確認する者。

 

 一定期間ごとに担当を入れ替え、小尾との接触時間そのものも短く抑えられている。

 

 以前、小尾が用いた認識阻害への対策だった。

 

 少なくとも管理局側は、それで十分ではないにしても、同じことを繰り返される可能性は大きく下がったと考えていた。

 

 そして実際、小尾は大人しかった。

 

 規則に従って本を申請し、与えられた食事を食べ、ほとんどの時間を居室で過ごしている。

 

 前のように職員と一緒に夜食へ出かけることもない。

 

 待遇について文句を言うこともなかった。

 

 収容区画の職員たちも、以前ほど小尾を恐れなくなったわけではない。

 

 彼が危険な存在であることは、全員が理解していた。

 

 だからこそ。

 

 今回の異常は、発見が遅れた。

 

     ◇

 

「面会申請?」

 

 クロノは端末に表示された書類を見て、眉を寄せた。

 

「はい」

 

「誰との?」

 

「高町なのはと八神はやてです」

 

 クロノの指が止まった。

 

「申請者は小尾か?」

 

「いえ」

 

「では誰だ」

 

「収容管理部のベルク一等陸士です」

 

「……収容管理部?」

 

「はい」

 

 表示された書類を開く。

 

 確かに、小尾一の名前は面会希望者として記載されているだけだった。

 

 申請そのものを作成したのは職員側。

 

 しかも、一枚提出しただけではない。

 

 面会場所の候補。

 

 警備配置。

 

 緊急時の隔離手順。

 

 なのはとはやての現在の状態を考慮した医療部門との調整。

 

 すでに複数の部署へ問い合わせまで行われていた。

 

「これは、どこまで進んでいる?」

 

「医療部門からは回答待ちです。警備側では、収容施設内で行う場合の配置案が作られています」

 

「誰がそこまで進めた」

 

「ベルク一等陸士を中心に数名が」

 

「止めろ」

 

「はい?」

 

「関連する手続きを全部止めろ」

 

 報告に来た局員が目を瞬かせる。

 

「ですが、まだ審査中で――」

 

「だからだ。これ以上進めるな」

 

 クロノは端末を閉じた。

 

「それと、ベルク一等陸士を呼んでくれ」

 

「今ですか?」

 

「今だ」

 

     ◇

 

「高町なのはと八神はやてを、小尾に会わせようとしているそうだな」

 

「はい」

 

 呼び出されたベルクは、特に動揺した様子もなく頷いた。

 

 三十代の男性局員だった。

 

 現在は警備を中心に担当しているが、食事の搬入や書籍の受け渡しなどで小尾と接触することもある。

 

「理由を聞きたい」

 

「長期収容が続いていますから。精神状態を考えれば、知人との面会くらいは検討してもいいと思いました」

 

「誰がそう言った?」

 

「私です」

 

「小尾から頼まれたのか?」

 

「いいえ」

 

「面会させてくれ、と?」

 

「言われていません」

 

「なのはやはやてに連絡してくれとは?」

 

「それもありません」

 

 クロノは数秒黙った。

 

「では、何があった」

 

 ベルクは少し考える。

 

「……一週間ほど前だったと思います」

 

 警備中。

 

 居室の中で本を読んでいた小尾が、ページから目を離さないまま呟いた。

 

『久しぶりに、八神さんや高町さんに会いたいなあ』

 

「それだけです」

 

「それだけ?」

 

「はい」

 

「君はそれを聞いて、面会手続きを始めた?」

 

「その場では何もしていません」

 

「なら、いつだ」

 

「翌日です」

 

「なぜ?」

 

「面会制度について、少し気になったので調べました」

 

「その次は?」

 

「収容中の未成年者に対する面会規定を確認しました」

 

「その次」

 

「警備上の条件を調べました」

 

「そして?」

 

「可能性があると思ったので、同僚に相談しました」

 

 話は自然につながっていた。

 

 一日目。

 

 制度を調べる。

 

 二日目。

 

 条件を確認する。

 

 三日目。

 

 警備上の問題を検討する。

 

 その後、医療側へ問い合わせる。

 

 どこにも「小尾から命令された」という部分はない。

 

「ベルク」

 

「はい」

 

「小尾一を危険だと思っているか?」

 

「もちろんです」

 

 即答だった。

 

 クロノはわずかに目を細める。

 

「精神干渉を行う可能性があることも?」

 

「把握しています」

 

「以前、この収容施設で何が起きたかも?」

 

「知っています」

 

「小尾を施設外へ連れ出した職員がいた」

 

「はい」

 

「認識阻害によって判断を緩められていた」

 

「報告書を読みました」

 

「では、なぜ君は小尾のためにここまで動いた?」

 

「それは……」

 

 ベルクは言葉を止めた。

 

 だが、前回とは反応が違った。

 

 顔色は変わらない。

 

 自分の行動を異常だとも思っていない。

 

「危険だからといって、すべての希望を無視する必要はないでしょう」

 

「それは一般論としてはそうだ」

 

「なら、警備を十分にした上で検討する価値はあります」

 

「なのはとはやてが、なぜ現在の状態になったのか知っているな?」

 

「小尾一が二人へ行った処置が原因の一つです」

 

「本人たちの同意は?」

 

「ありませんでした」

 

「その相手へ会わせるべきだと?」

 

 一瞬だけ、ベルクが黙る。

 

 それでも答えは変わらなかった。

 

「本人たちが拒否するなら、当然中止すべきです」

 

「そうではない」

 

「では?」

 

「なぜ君は、そこまでして小尾の希望を実現しようとしている?」

 

 ベルクはクロノを見た。

 

「……そこまで、おかしなことですか?」

 

 クロノは答えなかった。

 

 その返答そのものが、十分におかしかった。

 

     ◇

 

 すぐに面談が始まった。

 

 対象は、小尾と一定以上接触していた職員。

 

 警備。

 

 食事搬入。

 

 書籍管理。

 

 医療補助。

 

 以前の認識阻害事件と同じ手順で、心理担当者が一人ずつ話を聞いた。

 

 しかし。

 

 今回は、まるで様子が違った。

 

「小尾一は危険な収容対象ですか?」

 

「はい」

 

「警戒する必要がありますか?」

 

「当然です」

 

「彼の希望を優先する必要がありますか?」

 

「優先する必要はないと思います」

 

「では、高町なのはや八神はやてとの面会については?」

 

「条件次第では認めてもいいのではないでしょうか」

 

「なぜです?」

 

「会いたいと言っていたので」

 

「だから?」

 

「……だから、です」

 

 本人は矛盾していることに気づいている。

 

 小尾が危険だという認識は消えていない。

 

 規則も覚えている。

 

 以前の事件も理解している。

 

 それでも。

 

 小尾が会いたいと言っていた。

 

 なら、どうにかしてやれないか。

 

 その感覚だけが消えない。

 

 別の職員も同じだった。

 

「小尾一に特別な感情がありますか?」

 

「ありません」

 

「好意は?」

 

「特には」

 

「では、彼の食事についてどう思いますか?」

 

「もう少し好みを聞いてやってもいいと思います」

 

「なぜ?」

 

「毎日同じようなものでは飽きるでしょう」

 

「他の収容対象についても同じですか?」

 

「……分かりません」

 

「小尾一だから、そう思う?」

 

「そう言われると……」

 

 職員は困ったように眉を寄せた。

 

 それでも、考えそのものは消えなかった。

 

「でも、別に食事くらいはいいんじゃないですか?」

 

 心理担当者は記録へ目を落とした。

 

     ◇

 

「前回とは違います」

 

 医療局の担当者が言った。

 

 クロノは報告書から顔を上げる。

 

「どう違う」

 

「以前は、認識の一部が意図的に弱められていました」

 

 小尾は危険である。

 

 規則を守らなければならない。

 

 外へ出してはいけない。

 

 その情報そのものを忘れていたわけではない。

 

 ただ、その重要度を低く感じるようになっていた。

 

「だから、自分の行動を外側から整理してやれば比較的戻しやすかった?」

 

「そうです。本人の中にも、本来の判断基準が残っていましたから」

 

「今回は?」

 

「残っています」

 

「なら同じでは?」

 

「いいえ」

 

 担当者は首を振った。

 

「今回の職員は、小尾一が危険だと完全に理解しています」

 

「……そうだな」

 

「彼へ親切にすることと、危険人物として警戒することを、本人の中で両立させているんです」

 

 クロノは黙った。

 

「危険だ。だから監視する。でも、本をもう一冊渡してやりたい。危険だ。だから警備は増やす。でも、高町たちには会わせてやりたい」

 

「そうです」

 

 相反していない。

 

 本人たちの中では。

 

「これは認識を誤魔化されているというより……」

 

「暗示?」

 

「可能性があります」

 

 クロノは息を吐いた。

 

「解除できるか?」

 

「時間がかかります」

 

「どれくらい」

 

「分かりません」

 

「またそれか」

 

「今回は本当に難しいんです」

 

 担当者は一人の面談記録を表示した。

 

「暗示によって作られた感情なのか、その人自身が後から考えた結果なのか、区別がつきません」

 

 小尾へ少し親切にしてやりたい。

 

 それ自体、人間として異常な感情ではない。

 

 一度そう感じた人間が、そこから自分で理由を考えれば、その考えは本人自身のものになる。

 

「無理に全部消そうとすれば?」

 

「本人の正常な感情や価値判断まで傷つける可能性があります」

 

 クロノは額を押さえた。

 

「小尾に聞いてくる」

 

「一人で?」

 

「監視はつける」

 

「その方がいいでしょうね」

 

「僕だって、さすがに学習している」

 

     ◇

 

「暗示だよ」

 

 小尾はあっさり答えた。

 

「やっぱりか」

 

「うん」

 

「認識阻害ではないんだな」

 

「違う」

 

 そこだけは、小尾もはっきり否定した。

 

「前のはもっと大雑把だったから」

 

 小尾は机へ頬杖をつく。

 

「危険だって認識を少し遠ざけたり、重要じゃないように感じさせたり。あれは広く効くから便利なんだけど、その分、外から見ればおかしいところも大きい」

 

「だから今回は変えた?」

 

「そう」

 

「何をした」

 

「小さい暗示を重ねただけ」

 

 クロノは端末を置いた。

 

「詳しく」

 

「毎日、誰かは来るでしょ」

 

 食事。

 

 警備。

 

 健康確認。

 

 本の受け渡し。

 

 どれだけ接触時間を短くしても、完全に人間との接点をなくすことはできない。

 

「一回で大きく何かを変えようとしたら、前と同じになる」

 

「だから少しずつ?」

 

「うん」

 

 小尾は指先を動かした。

 

「声を聞く。顔を見る。物を受け取る。匂いを感じる。廊下を歩く音がする。人間って、そういうのを毎日勝手に覚えていくからね」

 

「五感を利用したのか」

 

「利用できるものは」

 

「何を植え付けた」

 

「植え付けたっていうほど大げさじゃないよ」

 

「小尾」

 

「僕を見た時に、ちょっとだけ気を抜くとか」

 

「…………」

 

「僕が何か言ったら、後でもう一度思い出すとか」

 

「…………」

 

「困ってそうなら、少し助けてやってもいいかな、とか」

 

 クロノの眉間に皺が深くなる。

 

「それを何度も?」

 

「同じものじゃないよ」

 

「どういう意味だ」

 

「一個の暗示を強くしたら、そこを見つけられたら終わりでしょ?」

 

 小尾は当たり前のように答えた。

 

「だから小さいものをいっぱい」

 

「……限定的にか」

 

「そうそう」

 

 前回は。広く浅く、多くの職員の認識をずらし。

 

 収容対象としての小尾一に対する認識全体を、ゆっくりとずらしていった。

 

 今回は局地的。

 

 声。

 

 視線。

 

 日常的な接触。

 

 小さな感覚。

 

 そこへ一つずつ、ごく弱い暗示を混ぜていく。

 

 それぞれ単独では、人間の判断を変えるほど強くない。

 

 だが積み重なる。

 

 小尾を見ると、わずかに気が緩む。

 

 頼まれたことが、少しだけ気になる。

 

 何かしてやった時、少しだけ満足する。

 

 次に似た場面が来ると、その経験を思い出す。

 

 そこへ、また新しい暗示が重なる。

 

「だからカウンセリングでも取れないのか」

 

「取れないわけじゃないと思うよ」

 

「時間がかかっている」

 

「どこが僕の暗示か分からないからじゃない?」

 

 小尾は楽しそうでもなく、ただ事実として言った。

 

「本人が自分で考えた部分もあるだろうし」

 

「分かってやっていたな」

 

「それはまあ」

 

「なのはとはやてとの面会も?」

 

「あれは本当に会いたいなって思っただけ」

 

「信じろと?」

 

「別に信じなくてもいいけど」

 

 小尾は少し不満そうに言う。

 

「久しぶりだし」

 

「だから職員を使った?」

 

「使ったつもりはないよ」

 

「結果として三つの部署が動いた」

 

「あそこまで頑張るとは思わなかった」

 

「君の暗示だ!」

 

「暗示は『会わせろ』じゃないって」

 

「同じだ!」

 

「違うよ」

 

 小尾はそこだけ妙に真面目だった。

 

「命令を入れたら、その命令を探せばいい。今回はそんなことしてない」

 

 クロノの表情が変わる。

 

「じゃあ何だ」

 

「僕にちょっと親切にしてもいいかな、って思いやすくしただけ」

 

「それを利用しているだろう」

 

「僕が『会いたいな』って言った後、何をするかはその人が考えたんだよ」

 

 クロノはしばらく黙っていた。

 

 おそらく小尾にとって、その区別は本当に重要なのだ。

 

 命令したのではない。

 

 操ったのでもない。

 

 ただ、ある方向へ考えやすくした。

 

 その先で何をしたかは本人の判断。

 

 小尾はそう考えている。

 

「暗示を全部解けるか?」

 

「僕に聞かれても」

 

「君がかけたんだろう」

 

「一個ずつなら分かるけど、もう本人の経験と混ざってるからなあ」

 

 小尾は少し考える。

 

「時間をかけてカウンセリングするのが一番じゃない?」

 

「原因を作った本人に言われたくない」

 

「でも、たぶんそれが安全だよ」

 

「……君は」

 

 クロノは言葉を切った。

 

「何?」

 

「前回の対策を見て、今回の方法を考えたのか?」

 

「まあね」

 

「今度は暗示への対策をする」

 

「するだろうね」

 

「その時は?」

 

 小尾が首を傾げる。

 

「その時?」

 

「また別の方法を考えるのか」

 

 数秒。

 

 小尾は普通に答えた。

 

「必要なら」

 

 クロノは大きく息を吐いた。

 

「君は収容されている自覚があるのか?」

 

「あるよ」

 

「なら大人しくしてくれ」

 

「大人しくしてるじゃん」

 

「どこがだ!」

 

 珍しく大きな声が収容区画へ響いた。

 

     ◇

 

 暗示を受けた職員への処置は、その後も続いた。

 

 前回のようにはいかなかった。

 

 ベルクも、自分が小尾の影響を受けた可能性については理解している。

 

 だが。

 

「高町なのはと八神はやてとの面会について、今はどう考えていますか?」

 

「中止で構いません」

 

「小尾一の希望を叶えてあげたいと思いますか?」

 

「……少しは」

 

「それが暗示だと思いますか?」

 

 ベルクは答えるまで時間をかけた。

 

「分かりません」

 

「なぜ?」

 

「今となっては、自分が本当にそう思っているのかもしれないからです」

 

 以前なら簡単だった。

 

 なぜ外へ出した。

 

 腹が減ったと言われたから。

 

 それはおかしい。

 

 確かにそうだ。

 

 そうやって矛盾を突きつければ、自分の判断が歪んでいたことに気づけた。

 

 しかし今回は違う。

 

 小尾へ親切にしたいという気持ち自体に、明確な矛盾がない。

 

 暗示を受けた結果なのか。

 

 暗示を受けた経験を通して、本当にそう思うようになったのか。

 

 本人にも分からない。

 

 心理担当者にも分からない。

 

 一つ一つ、記憶と感情を確認していくしかなかった。

 

 その作業には時間がかかった。

 

 数週間。

 

 さらに一か月。

 

 一部の職員は小尾との接触業務から外され、その間も定期的なカウンセリングを受け続けた。

 

     ◇

 

「前回より厄介になったな」

 

 ギル・グレアムは報告書を読み終えると、そう言った。

 

「はい」

 

 クロノは疲れた顔で答えた。

 

「認識阻害なら、まだ本人の認識と現実の差を突きつけることができた」

 

「今回は差そのものが小さい」

 

「本人たちは、小尾が危険だと分かっています」

 

「それでも親切にしたいと思う」

 

「はい」

 

 グレアムは資料をめくった。

 

「そして、小尾本人は高町なのはと八神はやてへ会いたかっただけだと?」

 

「そう言っています」

 

「何か目的がある可能性は?」

 

「否定はできません」

 

「君自身はどう思う」

 

 クロノは少し考えた。

 

「本当に、ただ久しぶりに会いたかっただけの可能性もあると思います」

 

「なるほど」

 

 グレアムは小さく息を吐いた。

 

「それで複数の職員へ暗示をかけたわけか」

 

「本人の中では、その程度のことなんでしょう」

 

「困ったものだ」

 

「困ったで済ませないでください」

 

「分かっている」

 

 グレアムは少し笑った後、すぐ真顔へ戻った。

 

「前回は、収容施設全体の認識を緩やかに変えた」

 

「本人はマクロと表現しています」

 

「そして今回は、一人一人へ小さな暗示を積み重ねた」

 

「少人数に絞り深く」

 

「対策を取るたびに、違う方法を試す」

 

 クロノは答えなかった。

 

「このままでは、収容そのものが彼にとって研究材料になるな」

 

「僕も、それを心配しています」

 

「完全に隔離することは?」

 

「現実的ではありません。食事、健康管理、物品の受け渡し。どうしても人間との接点が残ります」

 

「機械化すれば?」

 

「今度は機械を利用する方法を考えるんじゃないですか」

 

「あり得るね」

 

「笑わないでください」

 

「笑ってはいないよ」

 

 少しだけ笑っていた。

 

 クロノはため息をつく。

 

 グレアムはもう一度、報告書へ視線を落とした。

 

「ただ、一つだけ分かったこともある」

 

「何です?」

 

「少年は、壁を越える必要がない」

 

 クロノが眉を寄せる。

 

「前回もそうだった。今回もそうだ。扉を壊さなくても、拘束を破らなくてもいい」

 

 グレアムの指が、面会申請書の写しへ触れた。

 

「壁の向こうにいる人間の方から、彼の望むものを運んでくる」

 

 クロノは何も言えなかった。

 

 今回。

 

 その望みは、二人の少女との面会だった。

 

 ただ一言。

 

『久しぶりに、八神さんや高町さんに会いたいなあ』

 

 それだけで。

 

 小尾自身は、収容室から一歩も出ていない。

 

 それなのに職員たちは、自分たちの意思で、なのはとはやてを小尾の前まで連れてくる方法を考え始めた。

 

「……前より悪質だ」

 

 クロノが呟く。

 

 グレアムは否定しなかった。

 

     ◇

 

 その夜。

 

 小尾の居室へ食事が届けられた。

 

 新しい職員だった。

 

 接触時間は必要最低限。

 

 会話も原則として業務上必要なものだけ。

 

「食事です」

 

「ありがとう」

 

 小尾が受け取る。

 

 職員はすぐに扉を閉じようとした。

 

「あ」

 

 小尾が声を出す。

 

 職員の動きが止まった。

 

「……何ですか?」

 

 警戒している。

 

 以前とは違う。

 

 小尾は少し考えた。

 

「いや、何でもない」

 

「そうですか」

 

 扉が閉じた。

 

 鍵がかかる。

 

 足音が遠ざかる。

 

 小尾はしばらく扉を見ていた。

 

 かなり警戒されるようになった。

 

 会話も短い。

 

 顔を合わせる時間も少ない。

 

 同じ暗示を積み重ねるには、前よりずっと時間がかかるだろう。

 

「まあ」

 

 小尾は食事を机へ置いた。

 

「時間はあるし」

 

 急ぐ理由もなかった。

 

 小尾は何事もなかったように、夕食を食べ始めた。

 

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