「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
時空管理局・東京臨時支局にて、クロノはエイミィとともに事件を振り返った。
それでもクロノの顔には、事件だけでは説明のつかない疲れが残っていた。夜天の書の強奪、負傷者の救護、高速道路の被害調査。それらを指揮しながら、彼は別件の報告書を何度も開き直していた。
小尾一。
その名が載った収容記録である。
取り調べでは質問を逸らされる。昨日は収容施設の職員が、規定にない面会を許可しようとしていた。本人に事情を聞いても、許可した経緯をうまく説明できない。別の職員は不自然なほど穏やかな気分になり、施錠確認を忘れかけたという。本人たちは勤務上の疲労だと言い張るが、クロノには小尾の暗示を疑うだけの前例があった。
しかも、被疑者は拘束されたままである。通常の魔力反応を監視していても、あの男の使う術式がすべて見つかる保証はない。処置を増やせば職員の仕事も増え、取り調べのやり直しも増える。何より肝心の本人が、問い詰められるほど楽しそうに答えるのだ。
「……頭痛の種が、一つで済むならいいんだが」
「何か言った、クロノ君?」
「いや。報告を続けてくれ」
エイミィは少し気遣わしげに彼を見たが、今は目の前の事件を優先した。クロノも小尾の書類を閉じる。二つの問題を、ひとつの机で片付けることはできない。
報告に来た部下は、あえて躊躇わずにまくし立てる。
「本日未明、江戸川区の廃車場にて爆発事故が発生。その後、都内各所で重機盗難事件が相次ぎました。その容疑者と目される、異世界渡航者がこちらの二名――」
物々しい事件にしては華やかなビジョンが立ちあがった。
「イリス。キリエ」
クロノとエイミィは息を飲む。
「三原木四丁目付近の高速道路にて、『イリス』が八神捜査官を強襲」
まずは赤いドレスの少女、イリス。彼女は機動外殻を引き連れ、はやてに夜天の書を要求した。一般人や道路を狙う攻撃に対処している間に書へ迫られたものの、アミティエの介入によって窮地を脱している。
「撃破した機械群は現在、技術部が解析中です」
「盗難した重機をベースに作ったと見て、間違いないな」
「だね」
映像がショベルカーのものに切り替わった。
「詳しい数値は未確認ですが、装甲の強度や内部の構造など、もとの構成素材とはまったくの別物になっているそうです」
「そういった技術を持っている……ということか」
エイミィが呟く。
「あの武装……フォーミュラ、だっけ?」
「関連はあるかもしれない。しかし、イリスはここでロストか」
クロノは腕組みを深め、今日の戦闘を順番に思い出した。
キリエの協力者らしい人工知能のイリスが出張ってきたのは、一度だけ。八神はやてを襲撃するも、夜天の書の奪取には失敗している。
「こちらが結界を張ると踏んで、外で待機し、キリエの脱出を手引きしたか……だとしたら、なかなか頭の切れる連中だ」
「アミティエさんのことは、よっぽど警戒してたみたいだね」
「ああ。だからイリスも交戦は避けたんだろう。アミティエの相手は厄介と踏んだのか、それとも……イリス自身に大した戦闘力はないのか」
エイミィが不思議そうに指摘した。
「ねえ、このイリスって子……可愛いよね」
彼女の暢気な物言いに、クロノも部下も呆気に取られる。
「いきなり何を言い出すんだ?」
「エイミィさん……」
「そ、そうじゃなくて! おかしいと思ったの」
エイミィは神妙な声で続けた。
「はやてちゃんがアミティエさんから聞いた話によれば、この子はAIなんでしょ? なのに、容姿にここまでソースを分けてるのが、ちょっと気になって……」
「趣味性の強い人工知能なら、あるんじゃないか? ほら、AIのアイドルとか」
「うん。だから……このイリスって子、戦闘向けじゃないよね」
彼女の言わんとするところが、だんだんとクロノにも読めてくる。
「確かに……戦闘AIなら、ひとの形に拘ったりしないな」
「でしょ? バルディッシュだって、フェイトちゃんの魔法を効率よく使うために形を変えるわ。なのにイリスは、人の姿を作ること自体にずいぶん力を使っているように見えるの」
つまりイリスは戦闘用の人工知能ではない。容姿の優先度が高い、何かしら特別な用途のあるAIという可能性が浮上してきた。
「キリエについても聞こう」
「はい」
部下が報告の続きを読みあげる。
「次の戦闘は臨海道方面、高速道にて『キリエ』を捕捉。彼女の姉『アミティエ』の協力もあり、一時は拘束に成功しましたが、対象の抵抗により複数の捜査員が負傷。救護と道路の崩落への対応の間に、八神捜査官の『夜天の書』を奪われました」
クロノとエイミィの表情がともに苦々しくなった。
「キリエの武装と能力については?」
「ええと……シームレスに形状変化する武装と、こちらの魔導を戦闘中に解析し、無効化する技術。システムオルタなる極めて危険度の高い高出力の機動術式。いずれも現在、本局技術部にて解析中です」
実体がないらしいイリスとは打って変わり、キリエ=フローリアンはさまざまな戦闘関連のスキルを有している。
「ああも瞬時に魔法を解析できるものかな。どういう技術なんだろう」
「出身地は確かエルトリア……だっけ? ユーノ君に調べてもらうのはどう?」
「もう伝えてあるよ。あとで聞く」
クロノは息をつくと、部下を下がらせた。
「報告ありがとう」
「はい。追加情報がまとまり次第、ご連絡します」
東京臨時支局のオフィスでは今なお慌しい時間が続いている。
「ともあれ、解析待ちかあ」
「ああ。対策をして挑まないと、同じ轍を踏むことになる」
解析待ち、報告待ちの現状にやきもきしつつ、エイミィが声のトーンを下げた。
「みんな軽症で済んだのは不幸中の幸いだけど……さっきのはやてちゃん、大丈夫かな」
「あの調子だもんな。あれは相当、気負ってるぞ」
夜天の書を奪われたことで、はやては今までにないプレッシャーを感じているに違いない。それはクロノにとっても気掛かりだった。
「シャマルにでも一言、念を押しておくか。……ところで『彼女』のほうはどうだ? さっき意識は戻ったと聞いたが」
アミティエの話になるや、エイミィが苦笑する。
「いやあ……それがね?」
その頃、救急病棟には次々と料理が運ばれていた。
カレーライス、チャーハン、親子丼。十人前にも至りそうな量を、アミティエはノンストップで平らげていく。
『あのぉ……まだ食べますか?』
『いただきます!』
その様子をモニターで眺めながら、技術部のマリエル=アテンザは感心していた。
「すごいわね、彼女。骨の強度も筋出力もミッド人の数十倍、心肺機能も桁違い。これなら過酷な環境でも適応できるでしょうね」
あの豪快な食べっぷりも、怪我を治すための補給らしい。常人とは新陳代謝の作りが根本的に異なっているのだろう。
装備科の主任だけあって、マリエルはアミティエの武装にも注目する。
「装備の技術もすごいわ。許されるなら、じっくり研究したいくらい……」
彼女の手元には魔導士たちのアームドデバイスが集められていた。
クロノから催促が来る。
『マリエル。どれくらい掛かりそうだ?』
「みんなの装備の改修と更新……突貫でやれば2、3時間でできると思うよ。ただ、フェイトちゃんのバルディッシュは難しい子だから……」
『そうか。押しつけて悪いが、よろしく頼む』
「任せて! 完了したら連絡するね」
マリエルは調子よくウインクを決めた。
同じく装備科のシャリオ=フィニーノは、回収された戦闘記録を手元へ転送した。天使化したなのはの〈封解主〉ミカエルは、局の魔導技術で調整できる装備ではない。いま技術部が対策を講じられるのは、フェイトや守護騎士たちの装備と、彼らが使う術式の側だった。
「シャリオ、そっちも何か見つかった?」
「まだです。魔導の解析と無効化について、前の記録とも比べてみます」
シャリオが示した画面には、フェイトや守護騎士たちの戦闘ログと、キリエが魔導を無効化した際の反応が並んでいた。解析されるまでに何が起きたのかを突き止めれば、次の交戦で同じ方法を通用させずに済むかもしれない。
メンバーそれぞれが動き出す。
次は負けないために。
◇
幕間 夜の公園
キリエ=フローリアンは、夜の一般道をバイクで走っていた。
高速道路での戦闘から、まだそれほど時間は経っていない。時空管理局の追跡はひとまず振り切ったものの、システムオルタの反動は想像以上に深刻だった。右の脇腹には自分で撃ち抜いた傷が残り、フォーミュラの応急処置によって出血こそ抑えられているが、ハンドルを握る姿勢を維持するだけでも苦痛が走る。
痛みは脇腹だけにとどまらない。
フォーミュラが送り返す全身の診断は、綺麗な赤で埋まっていた。大腿の筋繊維に細かな断裂。肋骨の内側には微小な出血。神経伝達を補助する回路は、限界を超えた負荷の記録を吐き出し続けている。システムオルタが無理やり引き出した速さに、肉体の側が置き去りにされた結果だった。
アクセルを回す右手に力を入れるたび、指先から感覚が遠のいた。遠くの信号が二重に滲む。閉じれば、そのまま瞼が開かなくなりそうだった。
『キリエ、今度は左足の反応が落ちてる。操舵補助を強めるから、無理に動かさないで』
「……まだ、握れる」
『握れるのと、運転できるのは別。お願いだから、今は頑張らないで』
悔しさよりも先に、寒気が背骨を這い上がった。キリエは黙って、ふらつくハンドルの修正をイリスに任せる。スーツの中で傷口を圧迫する音が、車輪の回転に紛れて聞こえていた。
夜天の書は確保した。あとは拠点へ戻り、傷の治療とナノマシンの補充を済ませれば、ひとまず今回の作戦は成功といえるだろう。
しかし、そう自分に言い聞かせても、キリエの表情は晴れなかった。
(お姉ちゃん……)
アミティエを撃った時の感触が、どうしても頭から離れない。自分の身体ごと姉を撃ち抜いた。そうするほかなかったとはいえ、あれほどの怪我を負わせる必要が本当にあったのか。
考え始めれば、答えなど出るはずもなかった。
『キリエ、速度を落として。さっきから出力が不安定になってる』
「……わかってるわよ」
『わかってないから言ってるんだけど。右側の循環系もまだ正常じゃないし、無理すると拠点に着く前に倒れちゃうよ』
「大丈夫。あと少しでしょ?」
『最短経路ならね。でも管理局が道路を監視してる可能性があるから、少し迂回した方がいいかも』
イリスの指示に従い、キリエは大通りを外れた。
住宅地へ入ると、急に交通量が減った。街灯に照らされた道路はよく整備され、歩道には植え込みが続いている。夜になっても騒音と人の気配が絶えない地球の都市は、キリエが生まれ育ったエルトリアとは何もかも違っていた。
故郷なら、これほど豊かな緑があるだけで、どれほどの研究成果になることか。
そんなことを思いながら、緩やかな坂道を下っていた時だった。
乾いた音が聞こえた。
金属同士が激しくぶつかり合うような、短く鋭い音だった。続いて、何かが木へ突き刺さる鈍い音。人間の短い悲鳴。
「……何?」
『どうかした?』
「今、何か聞こえなかった?」
イリスが周囲の音声を解析する。
『ちょっと待って……あ、本当だ。前方の公園みたい。複数の人間がいるけど、何かの訓練かな?』
「こんな時間に?」
『さあ。地球の人たちの習慣まではわからないし』
キリエは眉を寄せた。
公園の周囲に人影はなかった。住宅地の中にしては不自然なほど静かで、通行人はもちろん、犬を散歩させる者の姿すら見当たらない。
普段のキリエなら、余計なことには関わらなかっただろう。すでに管理局と敵対し、身体には重傷を負っている。この星の事件へ首を突っ込んでいる場合ではない。
だが、悲鳴がした。それも、尋常ではない切迫した声だった。
キリエは少し迷った末、バイクを公園の外周にある植え込みの陰へ停めた。
「少しだけよ。様子を見て、何でもなかったらすぐ戻るから」
『……その言い方、あんまり信用できないんだけど』
「うるさいわね」
エンジンを止め、奪取したものを収めた収納具を確認する。青い石板を抱えると、キリエは身体を低くして公園の入口へ向かった。
最初の一歩で、右膝が折れた。植え込みへ手をついて呼吸を整える。立っているだけで腹の奥が軋む。フォーミュラが関節を補助しなければ、公園の入口まで歩くことさえ難しかった。
『引き返そう。少なくともここで戦闘になったら、今のあなたじゃ――』
「……戦わないわよ。何が起きてるか確かめるだけ」
自分の声が、妙に遠かった。
そこは住宅地の中に設けられた、比較的大きな公園だった。園内には遊歩道と芝生の広場があり、奥には木々に囲まれた池がある。ところどころにベンチや街灯が設置され、昼間なら親子連れが遊んでいても不思議ではない。
かつてこの海鳴の公園でも、二人の少女が夜空の下で向かい合ったことがあった。けれど、その時交わされた魔法の光と、今夜ここへ流れ込んでいるものとは、同じ言葉で呼べるものではなかった。
しかし今夜の公園には、異様な雰囲気が漂っていた。
人の気配がないわけではない。むしろ奥の広場からは複数の人間の気配が伝わってくる。それなのに、誰も近づこうとしない。
キリエは入口を抜け、遊歩道の脇に並ぶ木々へ身を隠した。
そこで、ようやく音の正体を目にした。
「……何、あれ」
公園の中央で、黒衣の男たちが一人の少女を取り囲んでいた。
男たちは六人。いずれも身体に沿った黒い衣服をまとい、手には奇妙な剣を握っている。刀身は長く、柄は短い。しかも普通の剣とは違い、刃の形状は薄い金属板のように見えた。
その中心に立っているのは、黒髪の少女だった。
歳の頃はキリエと大差ないだろう。地球の学生が着る制服を身につけ、長い髪を背中へ垂らしている。華奢な身体つきで、武器らしいものは何一つ持っていなかった。
どう見ても、六人の大人を相手に戦えるような少女ではない。
ところが様子がおかしかった。
包囲している男たちの方が、明らかに緊張している。剣を構えたまま距離を詰めようとせず、互いの位置を確かめながら少女の動きを警戒していた。
『映像は確認できてる。だけど、装備の規格がわからない。少なくとも、この星で一般的に使われてる武器じゃなさそう』
「……喧嘩、じゃないわよね」
『たぶんね』
キリエがそう呟いた直後、男たちが動いた。
正面の二人が同時に踏み込む。一人は上段から剣を振り下ろし、もう一人は少女の膝を狙って低く斬り込んだ。上下へ攻撃を分散させ、回避できる方向を限定する連携だった。
しかし少女は、そのどちらも避けなかった。
左腕で上からの刃を受け、右足を引いて下段の攻撃を外す。
剣が腕へ食い込んだ。
それなのに、少女は顔色ひとつ変えなかった。
「……っ!」
攻撃した男が、逆に狼狽した。
少女は自分の左腕に突き刺さった剣を、右手で掴んでいた。刃を引き抜こうとした男の腕が止まる。その間に、もう一人が背後へ回り込んだ。
少女の首筋へ、別の剣が突き出される。
普通の人間なら、まず助からない一撃だった。
しかし、刃が届く寸前。
少女の身体が崩れた。
黒い制服も、白い肌も、長い髪も。輪郭を失い、赤黒い霧へ変わっていく。
「……え?」
キリエの口から、間の抜けた声が漏れた。
剣が空を切る。つい先ほどまで少女が立っていた場所に、黒衣の男たちだけが取り残された。
霧は地面を這い、男たちの足元を抜けていく。
「後方!」
誰かが叫んだ。男たちはすぐに振り返ったが、遅かった。
霧が一人の背後で凝集し、白い腕が伸びる。少女が姿を取り戻した時には、男の肩が掴まれていた。
次の瞬間、鈍い音とともに男の身体が後ろへ引き寄せられた。
少女の口が、その首筋へ沈む。
「が……っ!」
男の身体が痙攣した。それだけではなかった。腕が細くなる。頬がこけ、皮膚が急速に萎み、衣服の下から肉が失われていく。
あまりにも速かった。数秒前まで鍛えられた体格をしていた男が、目の前で老人のように痩せ衰え、やがて骨と皮ばかりになっていった。
少女が口を離す。男は糸の切れた人形のように倒れ、二度と動かなかった。
『……キリエ』
イリスの声も、普段より低かった。
『あの子から離れた方がいい』
キリエは返事をしなかった。できなかった。
少女が、ゆっくりと顔を上げる。その瞳は赤かった。街灯の光を受け、縦に細くなった瞳孔が不気味に輝いている。血に濡れた口元には、小さな牙が覗いていた。
そして、少女に仲間を殺された男たちは逃げなかった。
残った五人は即座に陣形を組み直し、互いの距離を調整した。正面の二人が少女の注意を引き、左右の二人が退路を塞ぐ。最後の一人は後ろへ下がり、懐から小さな容器を取り出した。
「霧化を確認。通常の拘束は無効だ」
「周囲の血を使わせるな。三番、封鎖を!」
「了解!」
後方の男が容器の中身を地面へ撒いた。短い詠唱が響き、白い光が芝生を走る。少女の足元には、幾何学的な紋様が浮かび上がった。
奇妙な力を使っているのは、少女だけではないらしい。
「……イリス、今の」
『解析してる。でもこの星の魔導技術とは反応が違う。キリエ、あんまり近づかないで』
『さっきから変なんだ。空間の座標も正常だし、結界に相当するものも見つからない。それなのに、人の進路だけが公園から外れていく。まるで機械ではなく、人間の認識へ直接触ってるみたい』
キリエは頷き、木の陰へ身を寄せた。
少女の足元で、赤いものが動く。
先ほど倒れた男の身体から流れ出た血液が、地面を這いながら少女の方へ集まっていた。細い糸となり、何本にも枝分かれし、やがて芝生の上へ複雑な網目を描いていく。
「足元だ!」
左側の男が叫ぶ。
少女の指が動いた。
地面に広がっていた血が、一斉に跳ね上がる。
男たちは咄嗟に飛び退いたが、一人だけ動きが遅れた。足首へ絡みついた血の糸が、瞬く間に膝から腰へ巻きついていく。
「くそっ!」
男は黒鍵を振り下ろした。血の糸が切れる。しかし、その切断面から新しい糸が伸び、腕へ絡みついた。
力任せに引き千切ろうとした瞬間、少女が動いた。
十数メートルの距離を、一足で詰める。
男は拘束されていない手で黒鍵を投じた。刃が少女の肩へ突き刺さる。続けて二本目。今度は胸へ命中した。
確かに効いていた。刃の刺さった周囲の皮膚が焼け、少女の身体がわずかによろめく。男たちが使っている武器には、この少女を傷つける何らかの力が備わっているらしかった。
ところが、その程度では止まらない。
少女は肩の黒鍵を掴んで引き抜くと、拘束した男の胸元へ逆に突き立てた。
「ぐあっ!」
男が悲鳴を上げる。さらに少女の指が動き、周囲へ散った血液が男の首へ集まっていく。赤い糸が喉を締めつけた。
男は必死に抵抗したが、少女はその背後へ回り込んでいた。
首筋へ牙が沈み、またしても男の身体が急速に萎んでいった。
二人目。
キリエは思わず目を逸らした。
しかし、残る四人は怯んだだけではなかった。
「下がれ! 第三封鎖まで誘導しろ!」
男たちの声が響く。二人が黒鍵を続けざまに投げつけ、少女が進む方向へ刃の壁を作った。少女は再び霧へ変わろうとする。
だが、今度は違った。
赤黒い霧が地面へ広がりかけた途端、周囲に描かれた白い紋様が発光した。霧の一部がその光に触れ、弾ける。
「……っ!」
少女が初めて、明確に苦痛の表情を浮かべた。霧は途中で形を失い、再び人の輪郭へ戻っていく。
そこへ三本の黒鍵が突き刺さった。
右肩。左の太腿。そして腹部。
少女の身体がよろめき、膝をつく。
「今だ!」
正面の男が駆け込んだ。黒鍵を逆手に握り、少女の首を狙う。だが、振り下ろす寸前で男の身体が止まった。
少女が顔を上げていた。
赤い瞳が、間近で男を見据える。
「……痛いなぁ」
小さな声だった。怒鳴ったわけではない。ただ、少し困ったように呟いただけだった。
少女の腕が伸びる。男の手首が掴まれ、握力だけで骨が砕けた。
「があっ!」
黒鍵が地面へ落ちる。少女は立ち上がると、その腕を引き寄せ、男の身体を近くの木へ叩きつけた。木の幹が大きく揺れ、枝から葉が散る。
男はそのまま動かなくなった。
三人目。
少女は肩と腹部に刺さった黒鍵を抜き取った。刃の周囲には損傷が残っていたが、それも次第に塞がっていく。
「……まだ三人もいるんだね」
少女が呟いた。
そこに怯えはなかった。むしろ、何かを確かめているようだった。
残された三人のうち一人が後退しながら新しい黒鍵を投じ、もう一人が詠唱を始める。しかし少女が指先を動かすと、背後へ回り込んでいた血の糸が一人の足首を掴んだ。
「後ろ――」
警告が終わるより早く、網が跳ね上がる。両脚、腰、両腕へと絡みつき、男を地面へ引き倒した。
少女の姿が霧となって消え、男の背後で再び形を取り戻す。
首筋へ牙が沈んだ。
男の悲鳴は長く続かなかった。
四人目。
キリエはもう、数えるのも嫌になっていた。
男たちは間違いなく危険な集団だった。それでも敵わない。負傷した少女の動きには多少の鈍りが生じるものの、黒鍵の傷が塞がるたびにその不利さえ失われてしまう。しかも少女は、相手が傷つけようとした箇所や封鎖の方法を、戦いながら学んでいるようだった。
(……あれは駄目だわ)
キリエは小さく息を呑む。
今度こそ逃げよう。そう決意して後ずさった、その時だった。
「やっほ」
「ひゃあっ!?」
すぐ背後から声がした。キリエは飛び上がるように振り返る。
そこには、一人の少女が立っていた。
歳の頃は自分と同じくらいだろうか。気楽そうな笑みを浮かべ、まるで偶然知り合いに出会ったかのような調子で片手を上げている。
「……だ、誰!?」
「ん? アタシ?」
少女は自分を指差した。
「須方スナオ。よろしくー」
「いや、よろしくじゃなくて! いつからいたの!?」
「えー、いつからだろ。さっきから?」
「さっきっていつよ!」
「細かいこと気にしてるとハゲるよ?」
「ハゲないわよ!」
キリエは思わず怒鳴った。しかし、すぐに我に返る。
公園の中央では、今も殺し合いが続いている。それなのに、目の前の少女はあまりにも落ち着いていた。
「……あなた、あの人たちの仲間なの?」
「一応ね。アタシも聖堂教会の代行者だから」
「……だいこうしゃ?」
「あー、知らないか。まあ簡単に言えば、ああいう化け物を始末するのが仕事の人たちってこと」
スナオは親指で広場を示した。
そこでふと、キリエの方へ視線を戻す。
「……っていうかさ、あんた、なんでここにいるの?」
「え?」
「いや、だから。どうやってこの公園に入れたの?」
「どうやってって……普通に入口からだけど」
「ふーん。普通に、ねえ……」
スナオは首を傾げた。
「おっかしいな。この辺一帯には人払いを張ってあるんだけど」
「ひとばらい?」
「そ。代行者以外の一般人は、この公園に近づけないようになってんの。近くまで来ても、なんとなく別の道へ行きたくなるわけ。普通はね」
「……そう言われても」
「なのにあんたは、平気な顔して入ってきた。しかも、その格好と持ち物。普通の人じゃないよね?」
キリエは腕の装備を隠すように身を引いた。
「……あなたに説明する義務はないでしょ」
「あはは、そりゃそうだ。でも、今それどころじゃないし」
スナオはあっさり興味を失い、広場へ目を戻した。
少女の足元で血液が集まり、再び細い糸を作り始めている。
「あーあ。こりゃ駄目だ」
「……え?」
「あの死徒、やっべーわ」
「……しと?」
「死徒。分かりやすく言えば吸血鬼だね。ただし、童話に出てくるような連中とはちょっと違う」
スナオは指を一本立てた。
「人理を否定する存在。人間の側の秩序から外れた、正真正銘の化け物ってわけ」
「……吸血鬼」
「そ。しかも、あれはかなりタチが悪い。黒鍵が効いてないわけじゃないのに、あの再生速度。普通なら、あそこまでやられた時点で動きが鈍るはずなんだけどねぇ」
キリエは広場へ目を向けた。少女の肩にはまだ黒鍵による傷が残っていたが、すでにそのほとんどが塞がっている。
「……そんなに危険なの?」
「危険も何も。アレに付き合ったら死ぬ」
「……え?」
「いやー、無理無理。あんなの聞いてないって」
「だったら、仲間を助けに行かなくていいの?」
「仕事だからって死んでいいわけじゃないでしょ? というわけで――」
スナオはにっこり笑い、片手を振った。
「命大事にー!」
「ちょ、ちょっと待って!」
キリエが呼び止めるより早く、スナオは踵を返した。
その直後、姿が消えた。
「…………」
キリエは瞬きをした。今、確かに少女は目の前に立っていた。それが一瞬で、道路の向こうまで移動している。しかも、あの気楽な笑顔を崩さないまま。
「……逃げた」
『逃げたね』
「……仲間を置いて?」
『そうみたい』
キリエは呆然とした。あれほど速く動けるなら、仲間を助けることだってできたのではないか。少なくとも、彼女にはそう思えた。
しかし、スナオが振り返らなかった理由は、すぐに理解することになった。
「――動くな!」
広場から怒号が響いた。
残された代行者の一人が、少女の正面へ飛び込んでいた。手にした黒鍵が少女の首を貫く。深々と刺さった刃が反対側へ突き抜け、少女の身体が大きく仰け反った。
「……っ!」
キリエは息を呑む。さすがに、今度こそ致命傷だろう。
そう思った。
ところが、少女は倒れなかった。
首に黒鍵を突き刺されたまま、ゆっくりと男へ視線を向ける。刃の周囲からは白い煙のようなものが上がり、傷口の再生も止められていた。黒鍵が、単なる鋼の刃ではないことは明らかだった。
それでも少女は動いた。
伸ばされた右手が、男の襟元を掴む。男は別の黒鍵を取り出そうとしたが、その腕へ赤い糸が巻きついた。
続いて肩、腰、脚。瞬く間に全身が拘束される。
男は必死に抵抗したものの、少女の指先が僅かに動くと、血の糸は容赦なく締まり始めた。
骨の砕ける音がした。
男が絶叫する。
次の瞬間、少女はその首筋へ牙を立てた。男の身体が急速に萎んでいく。
五人目。
残った一人が、悲鳴とも怒号ともつかない声を上げた。両手に黒鍵を構え、少女へ突進する。
しかし足元の芝生から血の糸が噴き上がり、男の足首を拘束した。体勢を崩したところへ、別の血の糸が胸へ絡みつく。
少女は首に黒鍵を刺したまま、ゆっくりと振り返った。
男は身体を捩り、何とか剣を振るおうとするが、腕は動かない。何かを叫ぶ声にも少女は答えなかった。ただ男の首筋へ顔を寄せ、静かに牙を立てた。
それで終わった。
最後の代行者が倒れ、公園に静寂が戻る。
「…………」
キリエは動けなかった。
先ほどスナオが言った言葉が、ようやく理解できた。
あれに付き合ったら死ぬ。
確かに、その通りだった。
どれほど訓練を積んでいようと、どれほど強力な武器を持っていようと、あの少女に正面から立ち向かえば、同じ結末を迎えるのだろう。
ならば、今すべきことは一つしかない。
(……逃げる!)
キリエは身を翻した。公園の出口へ向かって駆け出す。
だが、その足が二歩目を踏み出すことはなかった。
「……え?」
右足に何かが絡みついた。続いて左足、腰、両腕。地面から細い赤い糸が何本も伸び、瞬く間にキリエの身体を拘束していく。
「なっ……何よ、これ!」
キリエは反射的にフォーミュラへ力を回した。腕の装甲が展開し、拘束を引き千切ろうとする。しかし赤い糸は切れなかった。無理に引っ張ると締めつけが強くなり、脇腹の傷にまで力が掛かる。
「いった……!」
『キリエ、動かないで! 傷が開く!』
胸部の警告が重なって鳴った。オルタの負荷が抜けていない脚を無理に動かせば、そこから先は、フォーミュラにも守りきれない。赤い糸は、その弱みを知っているように、装甲と肉体の隙間へ入り込んでくる。
「そんなこと言ったって!」
『拘束材の構造を解析中……駄目、反応が一定じゃない。液体のはずなのに、引っ張るほど強度が上がってる!』
「液体って……これ、血!?」
『たぶん!』
キリエは絶句した。フォーミュラの出力を上げれば、かえって自分の身体を傷つけてしまいそうだった。
「……嘘でしょ」
ゆっくりと振り返る。
少女が歩いてくる。
首には、まだ黒鍵が刺さっていた。それなのに、その足取りは何事もなかったかのように軽い。
少女はキリエの数歩手前で立ち止まると、自分の首元へ手を伸ばした。
「あ……これ、まだ刺さってたんだ」
まるで髪に付いた葉を見つけたような口調だった。
少女が黒鍵の柄を掴み、ゆっくりと引き抜く。刃が首から抜けると同時に傷口から血が溢れたが、それも一瞬だった。裂けた皮膚が閉じ、損傷した肉が再生していく。流れ出た血液さえ傷口へ戻り、数秒後には何もなかったような白い首筋が残されていた。
少女は黒鍵を眺め、少し困ったように眉を下げた。
「……これ、やっぱり痛いなぁ」
そして、キリエを見た。
赤い瞳が興味深そうに細くなる。
「……あれ? さっきから、そこにいた子だよね?」
「…………」
「こんばんは」
にこりと笑う。
キリエは返事ができなかった。つい先ほどまで何人もの人間を殺していた少女が、今度は何事もなかったかのように挨拶している。その笑顔だけなら、普通の女の子と何も変わらない。
「……どうしたの?」
少女が心配そうに覗き込む。
「顔色、あんまりよくないみたいだけど……大丈夫?」
「……だ、大丈夫なわけないでしょ」
「そうなの?」
「そうよ!」
キリエは思わず声を上げた。しかし、少女は怒るでもなく、ただ不思議そうに瞬きをした。
「……そっか。ごめんね」
そう言って、柔らかく微笑む。
キリエは背筋に寒気が走るのを感じた。
「……あなた、何者なの?」
血の網に拘束されたまま、ようやくそれだけを絞り出した。
目の前の少女は少し考えるように首を傾げた。
「んー……死徒、かな?」
「……はい?」
あまりにも軽かった。今日の天気でも答えるような口調だった。
「死徒」
少女はもう一度言った。
「人理を否定する存在……らしいよ?」
「らしいって……」
「私も最近、そう呼ばれるようになったばっかりだから、まだよく分からなくて」
くすりと笑う。その口元から、先ほど人間の血を吸い尽くしたばかりの犬歯が覗いた。
キリエは笑えなかった。
「じゃ、じゃあ……さっきの人たちは?」
「ああ」
少女は背後を振り返った。公園の広場には、黒衣をまとった死体が散乱している。干からびたもの、血を抜かれたもの、首を折られたもの、木の幹へ叩きつけられたもの。
「聖堂教会の代行者っていう人たちなんだって」
「だって?」
「うん」
少女は困ったように笑った。
「いっつも襲ってくるんだよね。ほんと迷惑してるの」
「迷惑って……あなた、今ほとんど殺したじゃない!」
「だって殺しに来るんだもん」
至極当然のように返された。
「でもね」
少女は自分の手を見る。指を握る。開く。そこへ血が集まり、小さな球になって浮かんだ。
「最近、ちょっとずつ上手くなってる気がするんだ」
「……何が?」
「戦うの」
血の球がほどけ、細い糸になり、また掌へ吸い込まれる。
「最初は霧になるタイミングもよく分からなかったし、血もこんなに細かく動かせなかったんだけど。あの人たちが何度も来てくれるから、少しずつ慣れてきたみたい」
「…………」
「首に刺さっても平気って分かったし」
少女は先ほど黒鍵が刺さっていた自分の首筋を撫でた。
「心臓も、たぶんそんなに大事じゃないみたい」
「そんな確認の仕方する!?」
「する必要があったから」
少女はそこで、ぱっと表情を明るくした。
「ねえ」
「な、なによ」
「ずっと見てたよね?」
「……見たくて見てたわけじゃないけど」
「どうだった?」
「どうって?」
「私」
少女が一歩近づいた。赤い瞳が期待するようにキリエを覗き込む。
「すごかった?」
「…………」
「前より、ずっと上手くなってると思うんだ」
その顔だけを見れば普通の少女だった。テストの点数でも聞いているような。料理を初めて作って、感想を待っているような。
「ねえ。すごかったよね?」
「……人を五人以上殺しておいて聞くこと?」
「人数は関係ないよ」
「あるわよ!」
「でも、小尾くんなら」
少女の声が少し弾んだ。
「褒めてくれると思う」
キリエの眉が寄った。
「……誰?」
「小尾くん」
「いや、だから誰よ」
「私に色んなことを教えてくれた人」
少女は嬉しそうに笑う。
「魔術も。身体のことも。魂のことも。神様のことも。人間が人間じゃなくなる方法も」
「最後おかしいでしょ」
「そう?」
「そうよ!」
「でも、小尾くんはそういう人だから」
声が柔らかくなる。
「きっとこの身体を見たら、すごく喜んでくれると思う」
「…………」
「だって、小尾くんが残した理論だけでここまで出来たんだよ?」
少女は胸元へ手を置いた。
「直接教えてもらわなくても」
一歩。
「もう傍にいなくても」
また一歩。
「資料を読んで、考えて、試して、失敗して」
赤い瞳が細くなる。
「ちゃんと、以前の私とは違うものになれた」
キリエの背筋に寒気が走った。
「……あなた」
「うん?」
「狂ってるわ」
一瞬、少女が黙った。それから「あ」と声を漏らし、嬉しそうに笑った。
「分かる?」
「え?」
「そうなの。私、小尾くんに狂ってるんだと思う」
その名を口にすると、少女の頬が赤く染まった。だが、声はどこまでも穏やかだった。
「小尾くんの研究に。小尾くんの理論に」
少女がまた一歩、近づく。
「小尾くんの言葉に、小尾くんの考え方に、小尾くんの実験に、小尾くんの失敗に、小尾くんの成功に、小尾くんの工房に、小尾くんのノートに、小尾くんの術式に、小尾くんの黒鍵に、小尾くんの類感魔術に、小尾くんのセフィラに、小尾くんの疑似聖人に、小尾くんが見ていた天使に、小尾くんが見たかったものに」
「ちょ、ちょっと……」
「小尾くんが捨てたものも、小尾くんが残したものも、小尾くんが諦めなかったものも、小尾くんが壊したものも、小尾くんが作ったものも」
少女の笑みが深くなる。
「全部。全部、知りたい」
キリエを拘束する血の網が、ひとりでに脈打った。
「小尾くんが何を見て、何を考えて、何を面白いと思って、何を失敗だと思って、何を成功だって笑うのか。知りたい。もっと知りたい」
少女は胸元へ両手を重ねた。白い指が落ち着きなく絡み合う。頬の赤みはいつしか耳まで広がり、本人はそれを恥ずかしがるように少しだけ俯いた。
けれど、言葉は止まらなかった。
「小尾くんを知りたい。小尾くんの研究を知りたい。小尾くんの見ていた世界を知りたい。小尾くんが辿り着けなかったところまで行きたい。小尾くんが残した続きをやりたい。小尾くんが帰ってきた時に、見せたい」
両手を広げる。
血まみれの公園を。乾いた死体を。そして、自分自身を。
「ねえ、見てって」
少女は笑った。
「私、こんなになったよって」
その笑顔には一点の曇りもなかった。
「小尾くんの理論、ちゃんと正しかったよって」
さらに嬉しそうに。
「褒めてもらいたいの」
「…………」
「すごいね、すずかって」
少女は自分でその言葉を口にして、頬を赤くした。
「……えへへ」
とうとう恥ずかしさに耐えられなくなったのか、両手で頬を覆った。指の隙間から覗く赤い瞳が、うっとりと細められている。
「ああ……もし本当に、そんなことを言ってもらえたら……」
頬を包む指先へ、ぎゅっと力が籠もった。
ぷつり。
奇妙に小さな音がした。
キリエは目を瞬かせた。少女の白い頬を、一筋の赤が伝っている。
爪が皮膚に食い込んでいた。それも、ただ引っ掻いたという程度ではない。柔らかな頬の肉へ指先がめり込み、その周囲の皮膚が裂けている。
ぽたり、と血が落ちる。
しかし少女は気づかない。
「……小尾くん」
幸せそうに、その名を呟く。
さらに指へ力が籠もった。頬に新しい傷が生まれる。けれど傷は生まれたそばから塞がっていった。裂けた皮膚が繋がり、零れた血が逆流するように傷口へ戻っていく。
指先が肉を傷つける速度と、肉体が再生する速度。その二つが、ほとんど同時に進行していた。
少女の頬では、破壊と再生が絶え間なく繰り返されている。本人だけが、それをまったく気にしていない。
「……ねえ」
「な、なによ……」
「小尾くん、喜んでくれるかな?」
両手を頬へ添えたまま、少女は恥ずかしそうに微笑んだ。その指の間から、また一滴、赤い雫が零れた。
「私、ちゃんと頑張ったんだよ。小尾くんに教えてもらったこと、無駄にしてないよって……伝わるかな」
声は、どこまでも柔らかかった。
やがて少女は名残惜しそうに両手を下ろす。頬には傷一つ残っていない。ただ指先には血が付着し、制服の袖口にも小さな赤い染みが幾つかできていた。
それにも気づかず、嬉しそうに微笑んでいる。
キリエは何も言えなかった。
さっきまで人間を殺していた時より。
首から黒鍵を引き抜いた時より。
血で自分を縛った時より。
今の笑顔が、一番怖かった。
しばらくして、少女はようやく自分が何を話していたのか思い出したらしい。気恥ずかしそうに目を伏せ、指先を軽く合わせた。
「……ごめんね。小尾くんの話になると、つい夢中になっちゃって」
「……つい、ね」
キリエは強ばった頬を動かした。どうにか笑顔の形を作ろうとしたが、上手くいかなかった。
落ち着け。相手は危険だ。間違いなく危険だが、会話はできる。少なくとも、突然こちらの首へ牙を立てない程度の理性はあるらしい。
ならば交渉するしかない。
「……ねえ」
「なあに?」
「とりあえず、これ解いてくれない?」
キリエは身体に絡みついた血の網を顎で示した。
「ああ、これのこと?」
「そう。それ」
「うーん……でも、どうして?」
「どうしてって……私、あなたに何もしてないでしょ?」
「うん。そうだね」
「だったら解いてよ」
「でも、さっき逃げようとしたでしょう?」
「そりゃ逃げるわよ!」
思わず声が大きくなった。
「目の前で何人も殺して、首に刺さった刃を平然と抜いて、傷まで勝手に治る人を見たら、普通は逃げるでしょ!」
「……そうなの?」
「そうなの!」
「そっか……でもね、逃げられちゃうと、わたしも困るんだ」
「何が困るのよ!」
「だって、見られちゃったから……」
「今さら!?」
キリエは思わず広場を振り返った。芝生には干からびた死体が転がり、木の幹には黒鍵が突き刺さっている。今さら目撃者の存在を気にするというのか。
「こういう時、小尾くんならどうするのかな……」
少女がぽつりと呟いた。
キリエの表情が固まる。
その名前は危険だ。先ほど身をもって学んだばかりではないか。下手に刺激すれば、またあの異常な興奮が始まるかもしれない。
だが同時に、あの名前が少女の行動を左右するほど大切なものであることもわかっている。
「……あなた、その小尾くんに褒めてもらいたいのよね?」
少女の顔がぱっと明るくなりかけた。
「うん。小尾くんがね――」
「その話はいいから!」
キリエは慌てて遮った。
「つまりね、こんな何もしてない人を縛り上げてるところを見たら、その人、どう思うかしらって話!」
「……うーん」
少女は少し考えた。
「小尾くんなら、たぶん先に身元を確認すると思うよ」
「なんでよ!」
「だって、人払いを抜けてきたんでしょう? 普通の人だったら、ここには入れないはずだから」
「…………」
「それに、その機械も……わたし、見たことないな」
赤い瞳が、キリエのフォーミュラと青い石板へ向けられる。
「小尾くんだったら、きっと興味を持つと思う」
「持たなくていい!」
「少し調べてみたいって言うかもしれないね」
「調べなくていい!」
「分解してみたり……」
「もっと駄目!」
キリエは反射的に石板を抱え直した。
『キリエ、その子に私を渡さないでね』
「絶対渡さないわよ!」
「あ……それ、お喋りできるんだね」
「……できるけど」
「すごいなぁ。ねえ、ちょっとだけ見せてもらってもいい?」
「嫌!」
「そっか……残念」
『信用できないよ、この子!』
「イリスも黙ってて! 余計に興味持たれてるから!」
『もう遅いってば!』
キリエは頭を抱えたくなったが、まだ両腕を血の網で固定されているため、それもできない。
方針を変えなければならない。小尾の話題は危険だし、研究や機械の話も危険だ。そうなると、使えそうな交渉材料は一つしか残っていなかった。
「……ねえ!」
「なあに?」
「あなた、さっき聞いたわよね? どうだった、って」
「あ……うん!」
少女の表情が明るくなった。
「私、まだちゃんと答えてないわよね」
「うん。聞かせてほしいな」
「この状態じゃ、落ち着いて感想も言えないの」
「……そうなの?」
「そうなの!」
「そっか……じゃあ、解いても大丈夫かな」
「大丈夫! 絶対大丈夫!」
「でも……逃げちゃわない?」
キリエは反射的に返事をしかけ、思いとどまった。解放されてすぐ逃げるつもりなのだから、嘘をつけば後で面倒なことになる。
「……いきなり走って逃げたりはしない。話が終わるまでは」
「本当に?」
「本当!」
少女はキリエの顔をじっと見つめたが、やがて小さく頷いた。
「……じゃあ、もう一つだけお願いしてもいい?」
「まだあるの?」
「お名前、教えてほしいな」
「……名前?」
「うん。わたし、月村すずか」
少女は自分の胸へ手を当てた。
「あなたは?」
キリエは少し迷った。しかし、この状況で名前だけ隠しても意味はないだろう。
「……キリエ。キリエ=フローリアン」
「キリエちゃん」
「……ちゃん付けするのね」
「だって、同じくらいの歳でしょう?」
「……たぶんね」
「ふふっ。じゃあ、よろしくね」
すずかが指を下ろすと、身体を締めつけていた血の網が緩み始めた。
赤い網目が腕、腰、脚からほどけていく。無数の血の糸は地面へ落ちることなく、すずかの方へ流れ、最後には一本の細い線となって指先へ吸い込まれた。
キリエはすぐに数歩下がる。
「……あ。キリエちゃん、逃げないって言ったよね?」
「距離を取っただけ!」
「……そう?」
「そう!」
「そっか。ごめんね、疑っちゃって」
すずかは申し訳なさそうに笑った。
キリエは自由になった両腕を擦った。フォーミュラはいつでも展開できるが、先ほどの戦闘を見た後では、それが何の慰めにもならない。
霧になって移動する相手から、走って逃げ切れるのか。考えないことにした。
「それで……どうだったかな?」
すずかが期待に満ちた瞳を向けてくる。
「さっきの、戦いのこと」
「…………」
キリエは困った。ここで機嫌を損ねるのはまずい。だが、嘘をつく必要もなかった。
「……すごかったわよ」
「ほんと?」
「ものすごく。霧になって後ろへ回るのも、血を動かすのも、あれだけ傷ついて治るのも……正直、どうなってるのか全然わからなかった」
「えへへ……ありがとう」
すずかは照れたように笑った。
「怖かったけど」
「…………」
「あ」
キリエは自分の失言を悟った。
「……怖かった? わたしが?」
「いや、その……強すぎて怖かった、って意味」
「強すぎて……?」
「そう」
すずかは数秒ほど考え、それから頬をほんのりと赤く染めた。
「……そっか。じゃあ、小尾くんにも……」
小さく呟き、両手が頬へ伸びる。
「――ちょ、ちょっと待って!」
「……え?」
「その話、もういいから!」
「……そう?」
「そう!」
すずかは不思議そうに瞬きした後、少し残念そうに微笑んだ。
それでも、先ほどの異様な興奮が再発しなかったことに、キリエは心の底から安堵した。
これ以上ここにいてはいけない。
「……じゃ、じゃあ私、急いでるから」
「うん?」
「またね!」
身体を翻す。
『キリエ!?』
「走るわよ!」
地面を蹴ろうとした、その瞬間。
「――あ、ちょっと待って」
背後から声が飛んできた。
キリエの身体がびくりと止まる。また血の網が来る。そう思い、フォーミュラへ力を回しながら恐る恐る振り返った。
「……な、なによ」
すずかは追いかけてきていなかった。ただ、その場に立っている。そして。
「よかったら、携帯の番号、交換しない?」
「…………」
『…………』
キリエは瞬きをした。
「……はい?」
「携帯」
すずかは制服のポケットから携帯電話を取り出した。表面には少し血が付着していたが、本人は気にした様子もなく画面を開く。
「せっかく知り合えたんだし……またお話できたら嬉しいなって」
「……ちょっと待って」
「うん?」
「今?」
「うん。今」
「この状況で?」
「……駄目かな?」
「駄目とかそういう問題じゃないでしょ!」
キリエは思わず公園を指差した。倒れている黒衣、干からびた死体、散らばった黒鍵、赤く染まった芝生。つい先ほどまで殺し合いがあった場所とは思えないほど、すずかの態度は平然としていた。
「ここ見なさいよ!」
「……?」
「人が死んでる!」
「……代行者の人たちだよ?」
「職業の話してるんじゃないわよ!」
「でも……また来ると思うから」
「そういう問題でもない!」
すずかは少し困ったように眉を下げた。
「……キリエちゃんって、面白いね」
「あなたにだけは言われたくない!」
「ふふっ。だから、またお話してみたいなって」
「どう繋がるのよ!」
『キリエ』
「なに!」
『この子、本気みたいだよ』
「それが一番怖いの!」
すずかは楽しそうに笑った。
「ねえ、キリエちゃん。番号、教えてもらってもいい?」
「……ないわよ」
「え?」
「携帯なんて持ってない!」
今度はすずかが固まった。
「……持ってないの?」
「今日この星に来たばっかりなのよ!」
「……この星?」
「あ」
『キリエ』
キリエは口を閉じた。遅かった。すずかの赤い瞳が、興味深そうに細められる。
「……キリエちゃん、地球の人じゃないの?」
「今のなし!」
「別の世界から来たの?」
「なしって言ったでしょ!」
すずかはしばらくキリエを見つめ、嬉しそうに微笑んだ。
「……すごいなぁ。小尾くん、きっと喜ぶと思う」
「なんでそこで小尾くんが出てくるのよ!」
「だって、地球の外から来た人なんて、なかなか会えないでしょう?」
すずかの頬が再び赤くなる。
「小尾くん、きっと興味を持ってくれると思うの」
両手がまた頬へ伸びかけた。
「――やめて!」
キリエは即座に叫んだ。
「その先は言わなくていい!」
「……え? そう?」
「そう!」
「……分かった」
すずかは少し残念そうに微笑んだ。その一瞬のやり取りだけで、キリエは全身に冷や汗をかいていた。
『キリエ、もう行こう』
「分かってる!」
再び逃げようとすると、すずかが「あ、じゃあ」と声を上げた。
「わたしの番号だけでも、持っていってくれないかな?」
「いらない!」
「……そう?」
「いらない!」
「でも、何か困ったことがあったら、連絡してくれたら嬉しいな」
「今日一番困った原因があなたなのよ!」
「……あ」
すずかは少し考えた。
「でも、また死徒に襲われたりしたら、わたしも手伝えると思うし……」
「あなたでしょうが!」
「……そっか」
すずかは納得したように頷き、周囲を見回した。
「あ、ちょうどいいものが……」
「……何してるの?」
「書くもの、ないかなって」
近くに倒れていた代行者のところへ歩み寄り、その衣服のポケットを探り始めた。しばらくして、小さなメモ帳とペンが取り出される。
「あ、あった。ちょっと借りるね」
「死体から物を借りるな!」
キリエの抗議は聞き流された。
すずかはメモ帳から一枚を破り取り、さらさらと番号を書き込んだ。そして何事もなかったかのように戻ってくる。
「はい」
「……いらないって」
「なくさないでね」
「聞いてる?」
「携帯を買ったら、電話してくれると嬉しいな」
「しない!」
「……じゃあ、わたしから電話してもいい?」
「番号知らないでしょ!」
「あ、そっか」
すずかは少しだけ考えた。それからにこりと笑う。
「じゃあ、また会えた時に教えてね」
「二度と会わないわよ!」
「ふふっ。またね、キリエちゃん」
「話聞きなさいよ!」
キリエはとうとう走り出した。
と言っても、足はほとんど前へ出なかった。最初の数歩で視界が暗くなり、倒れかけた身体をフォーミュラの補助が強引に引き起こす。傷口の奥に熱いものが広がった。イリスが位置を示す細い矢印だけを頼りに、石板を抱え、公園の出口へ向かっていく。
背後から追ってくる気配はなかった。血の網も現れない。霧が行く手を塞ぐこともない。それでもキリエは振り返らず、ひたすら住宅地へ続く道を走り抜けた。
しばらくして。
『……キリエ』
「なによ!」
『その紙、持ってるよ』
「…………」
キリエは走りながら自分の右手を見た。そこにはいつの間にか、すずかの電話番号が書かれた小さな紙が握られていた。
「……いつ渡されたのよ、これ」
『さあ?』
「さあ、じゃないわよ!」
キリエは紙を睨みつけた。受け取った覚えはない。何度も断った。それなのに、手の中にある。
あの少女は、こちらがまったく気づかないうちに紙を握らせていたというのか。
キリエの頬が引きつった。
「……捨てる!」
『うん』
紙を持った右手を振り上げる。そのまま投げ捨てようとして、止まった。
「…………」
キリエは数秒ほど考え、無言で紙を折り畳んだ。それからポケットへ突っ込む。
『……捨てないんだ』
「今捨てたら風で飛ぶでしょ!」
『ふーん』
「何よ!」
『別に?』
「絶対何か言いたそうじゃない!」
『いやあ、せっかくお友達ができたんだし、大事にした方がいいかなって』
「友達じゃない!」
『でも、番号交換したんでしょ?』
「してない! 一方的に押しつけられただけ!」
『そっかそっか』
「その納得してない感じやめて!」
キリエは再び走り出した。
管理局の捜索網。夜天の書。システムオルタの反動。考えなければならないことはいくらでもある。
それなのに、頭の中を占めているのは、あの赤い瞳をした少女のことばかりだった。
月村すずか。死徒。人理を否定する、人ならざる存在。
黒衣の男たちを次々と殺し、その血を吸い尽くしながら、最後には何事もなかったかのように携帯番号を交換しようとしてきた少女。
そして何より。小尾一という名前を出した途端、顔を真っ赤にして、自分の頬を傷つけながら幸福そうに微笑んでいた、あの姿。
「……イリス」
『なに?』
「……あの小尾って人、何者なのかしら」
『さあ……』
「……会いたくないわね」
『……奇遇だね。私も』
イリスはここに来て初めて、解析画面に残した不明項目を数え直していた。聖堂教会。代行者。黒鍵。人払い。死徒。
時空管理局の魔導技術なら、少なくとも魔力と術式を何らかの数値へ落とせた。それなのに、今見た力は、始まりから終わりまでその枠から抜け落ちていた。端末には存在しないはずの機構、初めからそうだったかのように組み替わる肉体、こちらを避けるように働く人の認識。
『……この星のこと、私たち、何も知らなかったのかもね』
「そんなの、今言われても……」
キリエは言い返しかけ、喉の奥で息を止めた。父を救うために地球まで来た。けれど、地球の表側にいる魔導士のことを調べただけで、すべての力を知った気でいたのかもしれなかった。
珍しく、二人の意見が完全に一致した。
キリエは拠点への道を急いだ。公園の外に停めたバイクを回収するまでは、まだ気を抜けない。振り返ってあの赤い瞳をもう一度見ることだけは、絶対に避けたかった。
植え込みの陰へ辿り着いたところで、とうとう片膝をついた。
『キリエ! もう自分で運転しないで。後ろに身体を預けて、固定するから』
ベルトが胸を締めた。声を返す力は残っていなかった。
イリスが車体を走らせる。夜天の書を包んだ腕だけは、痺れながらも最後まで離さなかった。
◇
その頃。
すでに遠くなった公園の中央で、月村すずかは小さく手を振っていた。
「またね、キリエちゃん」
返事はなかった。
けれど、すずかは少し嬉しそうだった。
今日は色々なことがあった。
自分を追ってきた連中に気づいた時、いちばん困ったのは、彼らが宿泊先までついてくるかもしれないことだった。そこには友達がいる。だからすずかは一度だけ背後を振り返り、人のいない公園へ向かった。相手もまた、誰にも見られない場所で決着をつけたかったらしい。
それが正しかったのかどうか、今となってはもう確かめようがない。
代行者たちが、自分を殺そうとしてきた。黒鍵も洗礼詠唱も、思っていた以上に厄介だった。身体を貫かれるのは痛かったし、霧へ変わっても完全に攻撃を避けられるわけではなかった。
けれど、負けなかった。
最初は見えていなかった相手の動きも、途中から少しずつ分かるようになっていた。どこを警戒し、どこへ逃げ、どの瞬間に攻撃してくるのか。それらを理解し、対応できた。
自分が以前より強くなっている。それを確かめられたのは、大きな収穫だった。
それに、新しい知り合いまでできた。
キリエ=フローリアン。少し怒りっぽくて、よく喋る女の子。最初はひどく怖がっていたけれど、最後にはちゃんと感想を言ってくれた。
すごかった。ものすごく。強すぎて怖い。
そう言われたことを思い出し、すずかは小さく頬を緩めた。
「……小尾くんにも、そう思ってもらえるかな」
ぽつりと呟く。それだけで胸の奥が温かくなった。
「ああ……」
両手が、そっと頬へ伸びる。赤みを帯びた顔を覆い隠すように、指先が添えられた。
「……小尾くん」
その名を口にするだけで、自然と笑みが零れてしまう。
「わたし……頑張ったよ……?」
細い指に力が籠もる。
ぴしり。
皮膚が裂けた。赤い血が頬を伝う。けれど、すずかは気づかない。
「えへへ……」
恥ずかしそうに身体を揺らす。
「……もし、小尾くんが褒めてくれたら……」
頬を覆う手に、さらに力が加わった。白い指先が肉へ沈み、血が滴る。しかし傷ついた皮膚は瞬く間に再生し、流れ出た血液も元の場所へ戻っていった。
すずかは何も感じていないようだった。
「……嬉しいなぁ」
どこまでも柔らかな声だった。目を閉じ、幸せそうに微笑む。
「……うん。もっと頑張ろう」
そう呟いて、ようやく両手を下ろす。頬には傷一つ残っていない。制服の袖に付着した血液だけが、先ほどの興奮の名残だった。
すずかは公園を見回した。
黒衣の男たち。散らばった黒鍵。血に染まった芝生。
つい先ほどまで何人もの人間が命を落としていたとは思えないほど、夜の公園は静まり返っている。
「……帰ろっと」
何でもないことのように呟き、歩き始める。
足取りは軽かった。友達の家で楽しい時間を過ごした後のように。
そして、誰に聞かせるでもなく、小さく笑う。
「今度会ったら、キリエちゃんにも小尾くんのこと、もっと教えてあげたいな」
その言葉を聞いた者は誰もいなかった。ただ冷たい夜風だけが、血に濡れた芝生を静かに揺らしていた。
園の外れでは、停められた黒い車両から別の人影が降りていた。散らばった黒鍵を拾い、倒れた男たちへ近づき、地面の術式を静かに消していく。遠くで犬が一度吠えたが、その声も長くは続かなかった。
彼らが扱っているのは時空管理局の機材ではなかった。魔力を測る装置も、次元跳躍の座標もない。ただ、人々の記憶から出来事を遠ざけ、夜明けまでに痕跡を消すための、地球の別の仕組みがそこにあった。
すずかはその作業には近づかず、ホテルへ戻る方角へ歩きだした。友達のことが気に掛かっていた。なのはも、フェイトも、はやても、今夜は大変な目に遭ったばかりなのだから。
歩きながら、袖口を見た。制服の黒い布に、乾ききらない赤が小さく残っている。これでは、みんなを余計に心配させてしまう。
六人の代行者が帰らなかった公園に、すずかは振り向かなかった。彼らのことを思い出せないわけではない。ただ、今は友達のところへ急ぎたかった。
◇
クロノは通信でユーノと今回の件を相談していた。
その間にも都内からは細かな事故の情報が流れ続けていたが、海鳴の公園で起きたことは、一件の通報にもなっていない。人払いと、後始末を引き受ける別の者たちの手が、出来事を日常から切り離していた。クロノが追っているのはあくまでキリエたちの痕跡である。
『そうか……フェイトも怪我を。なのはも、撃たれたんだね』
「すまない。標的の戦力を過小評価した、僕のミスだ」
『いや、誰のせいでもないってことはわかってるよ。それより……』
何冊もの本を同時に捲りながら、ユーノが語る。
『EC4280エルトリアについて、ざっと調べてみたよ』
「EC4280……遠いな」
『うん。この距離を一発で飛んだとすれば、大した技術力だ。そのエルトリアだけど……星はもう滅んでると言ってしまっていいかもしれない』
まさかの真実にクロノは驚き、傍らのエイミィと顔を見合わせる。
「滅んだ……?」
『惑星エルトリアはね。住人はすでにコロニーへ移ってる』
ユーノは躊躇いがちに続けた。
『どうやら環境悪化が行き過ぎて、星の生命力が枯渇したらしい。エルトリア政府は『死蝕』という名の災害だと発表したようだけどね』
「表立って自分たちの環境破壊が原因、とは言えないか」
『そういうこと。まあ便宜上、誰もがそう呼ぶようになって……それで本星を捨てて、コロニーを第二の故郷としたんだ』
クロノの脇からエイミィが割り込む。
「ちょっと待って? ユーノ君。コロニーって普通、住人の武装は禁止してるよね?」
『うん。コロニーに穴でも空いたら、大惨事だからね』
「でもキリエ……今回の重要参考人も、そのお姉さんも、すごい武装を持ってるの。それっておかしくない?」
クロノとユーノは同時に押し黙った。
「……事情が見えてきたな」
『ああ。その姉妹は多分、コロニーじゃなくて本星にいたんだ』
あの武装や強化された肉体は、死の星で生き抜くために必要なのだろう。キリエの叫びはモニタリングを介して、クロノたちも耳にしている。
「パパを助けるとか言ってたよね? あの子」
「永遠結晶があれば、か……ユーノ、永遠結晶についてわかったことは?」
答えを期待したが、ユーノは申し訳なさそうにかぶりを振った。
『ごめん。夜天の書と関わりがあるみたいだけど……ただ、それこそがキリエたちの最終目的なんじゃないかな』
「じゃあ永遠結晶を手に入れるために、はやてちゃんの夜天の書を……」
「何にせよ、アミティエの聴取が始まれば、そのあたりの事情もはっきりするだろう」
クロノは椅子に深くもたれ、肘掛けをとんとんと叩く。
「ユーノ。君はその永遠結晶とやらも、地球にあると思うか?」
『可能性は高いと思う。でも、まだ推測だよ』
慎重な答えに、エイミィは首を傾げる。
「ええと……ユーノ君?」
『もし別の世界にあるなら、次元を超えなくちゃいけない。管理局の把握している地球の科学技術だけでは、次元跳躍に必要な設備を用意するのは難しいはずだ』
そこでユーノは言葉を切った。
『ただし、だから地球には不可能だ、と断定はできない。闇の書事件で、僕たちは小尾一の扱う「魔術」の一端を見たからね』
「……あの男の術式か」
クロノの視線が、机の端に置いた収容記録へ向いた。
『うん。僕らの魔導と似た現象があっても、成り立ちから違う。管理局の観測装置で捉えきれないものもあった。あの体系の全容を知らない以上、この星に次元を渡る手段が絶対に存在しない、とは言えないよ。もっとも、実際にそんな術式が使えるという証拠も、まだないけど』
クロノは頷いた。不明なものを可能とも不可能とも言い切らない。それは小尾を取り調べるたび、身に染みていたことだった。
「現時点で、僕たちが具体的に想定できる帰還手段は限られる。たとえば地球近海のアースラ級を占拠する方法だが……キリエとイリスのふたりだけでは、さすがに難しいだろう。それでも動いたということは」
『永遠結晶が夜天の書と同じ次元にある、という見方がまず成り立つ。あるいは、僕らの知らない手段をイリスが確保しているのかもしれない。今は前者の可能性を優先して調べるべきだと思う』
キリエとイリスには猶予も余力もないはずだった。おそらく傷を癒しながら潜伏し、永遠結晶へと迫るチャンスを窺っている。たとえ未知の帰還手段があるとしても、まずは二人の行方を掴まなければ確かめようがなかった。
当面の捜索方針は立った。だが、エイミィが瞳を瞬かせた。
「ねえ……じゃあキリエは、永遠結晶を手に入れたあと、どうやってエルトリアへ帰るつもりなのかな」
クロノもユーノも顔色を変える。
「エイミィの言う通りだ。僕らは彼女たちの帰還計画をまだ確認していない」
『管理局に助力を求めるつもりなのか、それとも転移に使った装置や術式をもう一度動かせるのか……どちらもわからない。少なくとも、現状では帰還手段が見えてこないね』
エルトリアから地球へ到達した方法はある。だが、それが帰路にも使えるとは限らず、キリエたちがどうやって永遠結晶を持ち帰るつもりなのかは不明だった。用意周到に見えた行動には、重大な情報の欠落がある。
「何かがおかしいぞ。こいつは……」
『僕ももう少し情報を集めたら、そっちへ行くよ』
胸騒ぎを覚えながら、クロノはアミティエの回復を待った。
ホテルのベランダで、なのははひとり夏の夜風と戯れていた。
その小さな後ろ姿にアリサが声を掛ける。
「なのは、大丈夫? 撃たれたって聞いたけど……」
「平気。霊装で受けたし、身体には傷も残ってないよ」
(平気なわけないでしょ)
アリサの胸の中で不安はさらに大きくなった。
なのはの隣に並び、そっと横顔を覗き込む。
「でもなんか、思い詰めた顔してる」
まるで星の輝きを求めるように、なのはは夜空を仰いだ。
「助けなきゃならないひとを助けられなかった。悔しいよ……」
幼い顔つきを引き締め、きっと誰に対してでもなく自分自身に言い聞かせる。
そんな彼女を応援しかできないことが、アリサは悔しかった。
「まだチャンスはあるんでしょ?」
「うん。次はもう負けないし、絶対に助ける」
いつものちょっとした任務や、試作品のテストとは違う。今夜の作戦、なのはは笑って帰ってこられない――と、アリサには確信めいた予感がある。
(このカオ、最近しなくなったと思ってたんだけどな……このままどこか遠くに行って、そのまま帰ってこなくなりそうな、そんなカオ……)
以前はなのはに距離を感じることなどなかった。すずかと三人一緒に心地よい時間を過ごしていた。なのに、今はこうして並んでいても、同じ場所にいる気がしない。
ここで捕まえておかないと、もっと遠くへ行ってしまう――。
「あんまり気負いすぎるんじゃないわよ」
アリサは笑い、なのはのお尻をばしんと叩いた。
「ひゃっ?」
「ちゃっちゃと終わらせて、帰ってきなさい。夏休みは始まったばかりなんだから」
アリサに発破を掛けられ、なのはは照れ笑いを浮かべる。
「うん。ありがとう、アリサちゃん」
「どーいたしまして」
信じるしかない。なのはが無事に帰ってくることを。
そう思い、願いながら、アリサはなのはと一緒に夏の夜空を見上げた。
フェイトもリンディとともに外に出て、夜風に当たる。
「キリエさん……昔の私と少し似てるんです」
自分の台詞がフェイトには重々しいものに感じられた。単なる同情ではないキリエへの共感が、フェイトを煩悶させる。
「大切なひとのために必死で……夢中で、周りが見えなくなって。そのために、また大切なひとたちを傷つけて……」
少し似ているどころではなかった。
同じだ。今のキリエは昔の自分と、まったく同じことをしている。
「助けたいです」
だからこそ、フェイトはそう心に決めた。
「助けたいんです、キリエさんを。取り返しのつかないことになる前に」
リンディも真剣な面持ちで頷く。
「助けましょう。みんなで」
「はい」
同じ気持ちの仲間たち、そして母親がいることが頼もしかった。
スイートルームではやては胸へ手を当て、内側のリインフォースへ意識を向けた。書を奪われた際の異常への対処は続いているものの、返ってきた応答は先ほどより落ち着いていた。
「よし……リイン、どうや?」
『主との繋がりに問題はありません。言語補正も、通常の会話であれば間に合います』
はやては頷き、作戦会議のためにビジョンを立ちあげようとする。
それを制したのは、様子を見に来ていたすずかだった。
公園を離れてから、まださほど時間は経っていない。
ホテルへ戻ったすずかは、真っ先に手を洗った。爪の際に残っていた赤を落とし、袖口の汚れた服を脱いで、清潔なものに着替えた。鏡の前で髪を整え、濡れた指先をタオルで拭く。それだけで、いつもの月村すずかに戻った。
あの公園には、黒鍵を握った六人の男がいた。すずかが立ち去る頃には、一人も立っていなかった。霧になって刃を躱した感触も、血を操った時の手応えも、まだ身体のどこかに残っている。
それでも、はやての顔を思い浮かべると、すずかの胸を締めつけるのは友達への心配だった。戦っている間にも、ずっと気に掛かっていた。あの子たちが怪我をして、また無理をするかもしれない。それが嫌で、ホテルへ戻ってきた。
つい先ほどまで部屋にはいなかったはずのすずかが、長袖の袖口をきちんと整え、普段と同じ穏やかな顔で立っている。はやてはその姿に安堵した。
「まだだめ。はやてちゃんもリインちゃんも、あと三十分は休息って、約束でしょ?」
「ううん、平気。私が頑張らんことには――」
「平気でも大丈夫でもないっ!」
いきなり目の前で怒号が弾け、はやては面食らう。
「え、ええと……すずかちゃん……?」
すずかの瞳から大粒の涙が零れた。
「なのはちゃんもフェイトちゃんも、ひぐっ、撃たれた、殴られたって聞いて……私とアリサちゃんがどれだけ心配したと思ってるの? ちゃんと聞いてってば!」
すずかは堪えきれず、はやての袖を掴んだ。
布地を摘む指先は震えていた。力を入れれば、相手の手首の骨くらい簡単に砕ける。そのことをすずか自身、今夜あらためて確かめたばかりだった。けれど、はやての袖に触れる手つきは、壊れやすいものを扱うように慎重だった。
石鹸の匂いがした。洗い落とした血の痕跡はない。目の前の少女が少し前まで別の人間の命を奪っていたことを、はやては知らない。
自分のために泣いてくれている。怒ってくれている。
その涙に嘘はなかった。だからこそ、はやては何の疑いもなく、すずかのいたいけな気持ちに胸を揺さぶられた。
「歩けるようになったからって、何でもかんでも、ひとりでやろうとしないで……!」
狭まっていた視界が一気に広がるかのように、周りが見えてくる。自分も見えてくる。
「すずかちゃん。私は……」
八神家の家長だから、夜天の書の主だから。
そう思って、頑張ってきた。それ自体は間違っていないと、はやては思う。
しかし今、当たり前のことに気付かされてしまった。
「私は……まだ小学五年生なんやな」
書を守れなかった悔しさに、守護騎士たちを率いる責任に、主という呼び名に。いつの間にかそれらの方ばかり数えていた。自分には力がある。けれど、力があるという理由だけで、誰かの心配まで振り切ってよいわけではない。
クロノや守護騎士たちに自分で言ったはずの言葉が、はやてを苛む。
『とんだ失態や。申し訳ない』
『取り返すよ。失態のツケも、私の宝物も』
はやてたちにとって、確かに夜天の書はかけがえのないものだった。それを奪われたのは言葉通りの失態で、こうして状況を長引かせていることも、皆に申し訳ない。
けれども友達を泣かせてしまったことは、もっと情けなかった。いつも口癖のように言っている八神家の家長としても、夜天の書の主としても。
はやてはすずかと額をくっつけ、懺悔する。
「ごめんな、すずかちゃん。せやけど、やっぱり自分で歩けるようになった分は、頑張りたいねん。それだけ、堪忍してもらえへん?」
すずかは泣き止むと、涙の混じった瞳ではやてを見詰めた。
「うん……ごめんね? はやてちゃん」
「謝るのは私のほうやで? ありがとう、すずかちゃん」
ふたりの小学五年生は笑みを交わす。はやての胸の内で、リインフォースも静かに安堵していた。
すずかは涙の跡を指で拭った。その指は白く、爪も綺麗に整えられている。さっきの公園で黒鍵を引き抜き、血まみれの地面に立っていた少女と同じ手だった。
はやてがもう一度その手を握ると、すずかは嬉しそうに握り返した。自分の友達が無事でよかった。その思いと、代行者たちが死んだ夜の記憶は、すずかの中で少しもぶつかり合っていなかった。
「なのはちゃんとフェイトちゃんのこともお願いね」
「任しとき。ふふっ」
はやての内側へ、リインフォースの落ち着いた応答が返る。
『私もお手伝いします。主お一人にはいたしません』
頑張る意味を問いただされた、夏の夜――。
オールストン・シーのホテル、最上階に近いスイートルームにて。
なのはたちは一堂に介し、違法渡航対策部門・本部長のレティ=ロウランから通信で、アミティエの容態について聞いていた。
『重要参考人の治療は無事に成功。今はもう普通に話が出来る状態になったわ』
アミティエと最初に接触したはやてが、ほっとする。
「随分早い回復ですねえ」
『簡単な治療処置のあと、エネルギー補給をしてもらったら、あっさり治っちゃったそうよ。食事を十人前平らげたと聞いた時は、驚いたけど』
なのはとフェイトは顔を見合わせる。
「すごいね」
「うん。量もだけど、食べるだけで怪我が治るなんて……」
短いとはいえ休息のおかげか、シグナムたち守護騎士勢も落ち着き払っていた。
「人工的に身体を強化したのかもしれん」
「あのスーツや武装が使えるように、かよ? とんでもねえの」
「キリエ=フローリアンも同様と考えるべきだ」
「でも本当に危なかったのよ? 処置が遅れたら、どうなっていたか」
ほかにリンディやアルフ、アリサとすずかも同席している。
「レティ。アミティエさんの聴取はすぐにでも?」
『そのつもりよ。ただ……彼女ね、取調べするなら、聴取担当者を指名したいって』
「指名?」
『ええ。フェイトちゃんを』
意外な形で名指しされ、フェイトは少し戸惑った。
「私……ですか?」
はやてもなのはも首を傾げる。
「なんでフェイトちゃんなんやろ?」
「ええと……優しそうだから?」
ヴィータが大袈裟な溜息をついた。
「そこのド天然……今、真面目な話をしてっから」
「ええ~?」
生温かい視線に囲まれ、なのはは苦笑い。
フェイトははきはきと応じた。
「聴取は誰かがやるんだし、アミタさんの希望なら、私にやらせてください」
『了解よ。作戦会議が終わったら、別室へ移ってちょうだい』
映像がレティからクロノに切り替わる。
『みんな、揃ってるか』
一同は顔を引き締め、頷いた。
『はやてもクールダウンできたみたいだな』
「そう言われると、ちょっと居たたまれないんやけど……」
はやての目配せを受け、すずかが微笑む。
なのはやフェイトにも迷いの色はなかった。緊張感が立ち込める中、クロノが次の作戦を説明し始める。
『僕もそっちへ行く。目下の急務はキリエとイリスの捜索だ。そこで――』
「待って、クロノ君」
それを制したのは、はやてだった。
「編成のほうは私に任せてもらえへんかな」
『君が? 案があるなら聞かせてくれ』
クロノは二つ返事ではやてにフォーメーションを一任する。
はやてはてきぱきと今夜のチームを分けていった。
「本局からの応援は五十人やったね。シグナム班、ヴィータ班、シャマル班で十人ずつ、あとはクロノ班に二十人でどうかな」
そう話しながら、なのはやフェイトにも視線を投げる。
「フェイトちゃんはシグナム班、なのはちゃんはヴィータ班に入って。シグナム班とヴィータ班は東京湾を中心に、キリエたちの捜索を頼むわ」
シグナムとヴィータは誇らしげに合意した。
「問題ありません」
「おうよ!」
「ザフィーラはシャマル班で、シャマルのサポート。ええか?」
「お任せください。主」
銀狼のザフィーラはすっくと立ち、シャマルの傍まで移動する。
「シャマル班はみんなの捜索をフォローしつつ、結界の準備を。キリエたちとはまた戦闘になるやろうから、いつでも展開できるようにしといて」
「わかったわ」
「あと……リンディさんとアルフには、ここで情報の中継をお願いできますか?」
「任せてちょうだい」
「了解。みんなのアームドデバイスは私が届けるよ」
そこでクロノが口を挟んだ。
『ユーノもそちらに向かってる。もうすぐ到着するはずだよ』
「まあ、本当に?」
「心強いわね」
リンディやシャマルの声が弾む。
それもそのはず、防御魔法においてユーノの右に出る者はいない。彼の防壁なら、キリエのシステムオルタの支離滅裂な猛攻にも対抗できるだろう。
「クロノ君は臨機応変に動いてもらってええよ」
『ああ、その編成で行こう。なのははちゃんとヴィータの指示を聞くように』
皆の前で釘を刺されてしまい、なのはは頬を膨らませる。
「なんで私だけ~?」
「へへっ。肝に銘じとけよ、なのは」
クロノの冗談でいくらか和んだものの、一同はすぐに姿勢を正した。
『キリエ=フローリアンとて、あの怪我だ。そう遠くへは行ってないだろう。僕たちに拠点を捕捉されるのは時間の問題と踏んで、今夜中には動き出す可能性が高い』
「そこを確実に押さえる。次こそ止めような、みんな」
人海戦術を用いてのキリエの捜索。彼女の凶行を食い止め、夜天の書を取り戻すためにも、今夜が正念場だった。
映像の向こうでエイミィがクロノを促す。
『クロノ君。例の件』
『っと、そうだった。ところで……シグナム。君たちにとっては思い出したくないことかもしれないが、聞きたいことがあるんだ』
「遠慮はいらん。何でも聞いてくれ」
『助かる。闇の書事件の時、君たちは色んな次元でページを集めてただろ? その際、どうやって次元を跳躍してたのか、確かめておきたくてね』
シグナムはヴィータやシャマルと頷きあった。
「夜天の書の力を借りて転移した。そうだったな? ヴィータ」
「おう。一番遠くへ行くやつが夜天の書を持って、帰りに仲間を回収していく感じだ」
「夜天の書そのものに次元を超える力があるのよ。守護騎士の私たちは夜天の書とリンクすることで、単体でも多少の距離は飛べるかしら」
ザフィーラがクロノの意図を読む。
「われわれなら夜天の書の在り処、つまりキリエ=フローリアンの居場所へ直行できると思いましたか? 執務官。申し訳ないが、今は漠然としか気配を感じ取れません」
『いや、そうじゃないんだ』
クロノはシグナムたちの話に納得した様子で打ち明けた。
『さっきユーノやエイミィと話しててね。キリエがどうやって惑星エルトリアへ帰るつもりなのか、今の情報では説明がつかないんだ』
守護騎士たちのみならず、なのはやフェイトも訝しげに瞬きを繰り返す。
「帰れないのに来ちゃったの? あれ?」
『そうとは限らない。僕らがまだ知らない手段も考えられるからね。ただ、帰還の見通しが立たないまま行動している可能性はある。アミティエの事情聴取が終わったら、みんなにも説明するよ。フェイト、アミティエにはここへ来た方法と、どうやって帰るつもりかも聞いてくれ』
「うん。大事なことみたいだね」
続けざまにクロノは夜天の書の主、はやてに問いかけた。
『それから……はやて、『永遠結晶』という名に心当たりはないか? どうやら夜天の書に関わるものらしいんだが』
はやては胸の内へ問いかけ、リインフォースの返事を待った。
「ないよ。夜天の書の解析は、充分したはずやけど……」
『少なくとも、現在確認できている記録の中に、その名を直接示す情報はありません』
内側で受け取った返事を、はやてはクロノへ伝えた。初代リインフォースはここにいる。以前のような暴走の原因となるナハトも、もう残ってはいない。それでも、何かの名前を聞くだけで、書のすべてがわかるわけではなかった。
「リインにも、今わかってる範囲では心当たりはあらへんって。無理に決めつけんと、もう少し調べなあかんね」
シグナムたちも真剣な面持ちで頷いた。
「イリスが書の何を必要としたか、そこから確かめるしかないな」
「ああ。私たちが知っていることだけで、全部わかったつもりにはならねえようにしよう」
答えの見つからない沈黙が流れる。そんな中、クロノが作戦会議を締めた。
『みんなはキリエの捜索を始めてくれ』
映像の脇からエイミィが顔を出す。
『装備は更新が終わり次第送るから、空の上で受け取ってね』
「了解や。リイン、行こか」
『承知しました、主』
胸の内の応答を確かめ、はやては立ち上がった。
今夜はまだまだ長くなりそうだった。
技術部の一室にて、シャリオはキリエとの交戦記録を何度目かの解析にかけていた。
「……これが、システムオルタの介入した瞬間?」
画面にはフェイトのバルディッシュ、シグナムのレヴァンティン、ヴィータのグラーフアイゼンに残された記録が並んでいる。構造も術式も違う装備だった。それなのに、キリエは交戦のさなか、それぞれの魔導を読み取り、対処してみせた。
シャリオは映像を止める。魔法が発動する直前、装備から使い手へ流れる信号の一部に、奇妙な乱れがあった。
「術式が完成してから止めてるんじゃない。組み上げる途中を読まれてる……?」
ならば装備を強化するだけでは足りない。相手に解析されるまでの時間を延ばすか、解析されても動ける手段を残しておく必要がある。
別の画面には、技術部が検討中の管制型ユニット『フォートレス』の構想図を呼び出した。複数の装備を連携させる案には可能性がある。だが、制御系統を増やすほど敵に渡す情報も増えるのでは、本末転倒だった。
「使う側が仕組みを知っているのと、敵に仕組みを見せるのとは違うのよね……」
シャリオは机の端に置いたアミティエの装備調査申請書へ目を向けた。あの姉妹が持つフォーミュラには、こちらの魔導とは異なる発想が組み込まれている。協力が得られれば手掛かりにはなるだろう。しかし、負傷している重要参考人に無断で装備を分解するわけにもいかない。
その一方で、なのはの戦闘記録は解析画面から切り離してあった。
彼女の身体を満たすテレズマは、魔導士の魔力とは異なる。〈封解主〉ミカエルの現象を観測できたとしても、その仕組みを人間用の術式として組み直すことはできない。天使となったなのは自身、もはや人間の術式を使えなかった。
シャリオが今、手を加えられるのは仲間たちの装備だ。人間の魔導が通用しなくなる瞬間を見極め、その先でどう戦うかを考えるしかない。
「……よし。もう一回、最初から」
彼女は映像を巻き戻し、反応の変化を一コマずつ追い始めた。
別室にてリンディの監督のもと、アミティエの聴取が始まる。
「緊張しないで、肩を楽にして、ね」
「はい。リンディさん」
フェイトはモニター越しに重要参考人と向かいあった。
「では、これより聴取を始めさせていただきます。会話はすべて証拠として保存されますので、ご理解をお願いします」
『はい』
アミティエは入院患者のような恰好で素直に応答する。
彼女の立場はあくまで『重要参考人』ゆえに、治療のためとはいえ、実際は時空管理局に身柄を押さえられている形に近い。それでも彼女は律義に従ってくれた。
「まずは、あなたのお名前を」
『アミティエ=フローリアンです。アミタと呼んでください』
その気持ちはフェイトにもよくわかる。
フェイト自身、時空管理局で裁判を受けたことがあるからだ。あの時は叙情酌量が働くよう、リンディやクロノに尽力してもらっている。
だからこそ、今度は自分がアミティエの力になりたかった。
「身体のほうはどうですか?」
『ご心配をお掛けしてしまい、すみません。もう大丈夫ですので』
「じゃあ、その……詳しい事情を聞かせてもらえますか」
『わかりました』
深呼吸を挟んで、アミティエは少しずつ経緯を語りだす。
『私たちの故郷、エルトリアは砂漠化の進行や地上資源の枯渇、環境汚染といった生存環境の悪化が著しく……エルトリアのひとびとは星を捨て、宇宙での生活を選びました。
ですが、私たちフローリアン家は星に留まり、研究を続けています。
エルトリアの再生と緑化が家族の夢なんです。しかし……』
淡々としていたアミティエの声が、不意に沈んだ。
『父が病に倒れ、余命幾許もない状態で……研究は中止。フローリアン家はエルトリアから引きあげ、コロニーへ移ることになったんです』
キリエの真相にフェイトは固唾を飲む。
「じゃあキリエさんは、お父さんを助けるために……」
『はい。父の病気はエルトリアに特有の『死蝕』というものでして、もはや成す術がありません。もう何ヶ月も意識が戻ってないんです』
やはり昔の自分と同じだった。
母プレシアのために戦線へ赴き、なのはと戦った、あの頃の自分と。
『ところがキリエは見つけたようなんです。星の命さえ操るという永遠結晶を』
「永遠結晶……?」
戦闘の最中、キリエもそんな言葉を使っていた気がする。
『キリエの研究データによれば、その鍵となるのが、はやてさんの持つ魔導書……』
「夜天の書、ですね」
キリエ=フローリアンの目的も明らかになってきた。
『妹の調査は綿密でした。永遠結晶の在り処、計画にとって重要となる人物の選定……高町なのはさんとフェイト=テスタロッサさん、あなたがたも狙われていたんです』
「え……?」
フェイトは驚き、腰を浮かせそうになる。
『私にはよくわかりませんが……おふたりでなければならない理由があったようです。キリエはその、プレシア=テスタロッサ事件も調べていて……ごめんなさい』
アミティエは深々と頭を下げた。
『キリエがフェイトさんの触れられたくないところに触れていたら、それは私が謝罪しておかないと、と……』
「大丈夫ですよ。でもお気遣いありがとうございます」
フェイトの口元から小さな笑みが零れる。
(このひとはお姉さん気質なのね)
キリエをただ止めるのではなく、彼女と一緒に助けたい――今こそそう思えた。
主要なメンバーはこの聴取を聞いているはず。自分たちが狙われた件については、クロノやはやてに任せ、フェイトはアミティエに話の続きを促す。
「キリエさんを止めるために、アミタさんもここへ?」
『半日遅れでやってきました』
「その時点で時空管理局に相談なりしていただければ、よかったんですけど」
フェイトの指摘を受け、アミティエはばつが悪そうに渋面になった。
『それは、あの……』
時空管理局に連絡すれば、妹は次元犯罪者として逮捕されてしまうかもしれない。それを危惧し、単独でキリエを追いかけたのだろう。
『すみません。姉として至らず……』
「いえ、アミタさんのせいじゃありません。今後も協力していただけますか?」
『もちろんです』
アミティエは安堵の色を浮かべるも、すぐに鬼気迫る表情となった。
『妹を庇いたい気持ちもありますが……今回の事件、真犯人はほかにいます。キリエはあの子の口車に乗せられて、こんなことをしてるんです』
フェイトはまさかと口を開きかける。
「はやてを襲った……」
『イリスです』
アミティエの口舌は止まらない。
『そもそも永遠結晶なんて、私には信じられません。本当にそんなものがあるなら、父がとっくに発見してるはずですので』
「そのイリスについて、わかってることは?」
『キリエが幼い頃に近くの教会で見つけた、石碑型の人工知能です。キリエが調査に使っていました。こちらへも小型の端末を持ち出したんでしょう。キリエにとっては友達みたいな存在……のようですから』
彼女の物言いにフェイトはふと違和感を覚えた。
「妹の友達……なのにアミタさんは、イリスと面識がないんですか?」
『見かけたことくらいは何度もありますが……イリスは私、特に父さんや母さんには絶対に姿を見せようとしないんです』
人工知能のイリスはキリエとだけ接触するらしい。
『はやてさんを襲ったという車も、その人工知能が操作してたんだと思います。キリエのフォーミュラスーツにシステムオルタを搭載したのも、彼女で間違いないでしょう』
「イリスがキリエさんを唆し、手引きした可能性がある……と?」
『はい』
いつの間にか前のめりになっていたらしいフェイトは、背筋を伸ばした。
「あと、お聞きしたいことがもうひとつ……アミティエさんはエルトリアから、どうやってここまで来たんですか?」
『さっきお話した、教会の石碑です』
「帰りはどうするおつもりで?」
『恥ずかしながら……自力では帰れそうにありませんので、妹と合流次第、時空管理局にお願いしようと』
そこに不整合があることに、アミティエが気付く。
『あれ? キリエはどうやって永遠結晶を持って帰るつもりなんでしょうか』
重症のアミティエにまだ無理はさせられないと判断し、フェイトは聴取を終えた。
「ありがとうございました。状況が大分、掴めてきました」
『いえ、こちらこそ……勝手に押しかけた身で、治療までしていただいて』
フェイトとアミティエの笑みが重なる。
「ところで……どうして聴取の担当者に私を指名したんですか?」
「あ、はい。フェイトさんは優しそうなかたでしたので」
アミティエの言葉になのははにっこりと微笑んだ。
「ね? ヴィータちゃん」
「へいへい」
一緒に夜空を飛びながら、ヴィータはげんなり。
すでにヴィータ班、シグナム班はキリエの捜索を始めていた。東京湾の一帯に捜索エリアを絞り、キリエとイリスの行方を追う。
通信越しにシグナムやシャマルの声も届いた。
『キリエもアミティエと同じとすれば、そろそろ回復する頃合いか……』
『あの傷で、よく痕跡を残さずに逃走できたものね』
日中の蒸し暑さもなりを潜め、眼下の街は黙々とネオンを光らせている。
キリエとの戦闘は一部始終を本局のほうでモニタリングしていたが、逃げきられてしまった。外部からイリスの介入があって、ロストしてしまったらしい。
シグナムが声のトーンを下げる。
『さっきの聴取……気になる内容だったな』
相槌を打つのはヴィータ。
「永遠結晶で家族を救えるってのは、デタラメかもしんねえぞ」
『私も同感よ。キリエはイリスに踊らされてるんだわ』
シャマルにもはっきりと明言され、なのはは小さな唇をきゅっと噛んだ。
(キリエさん……)
キリエはイリスに騙されている――その可能性は高かった。
人工知能のイリスには実体らしい実体がないため(質量は確認されたが)、キリエを唆し、実行犯に仕立てあげたのだろう。病床の父親を理由にすれば、制御も容易い。
何よりキリエが、エルトリアへどう帰るつもりなのか、まだわからなかった。
仮に夜天の書の力で帰還するつもりなら、はやてに返す約束はどうなるのだろう。なのに、
『少しの間貸して欲しいだけなの! だから、そこをどいてってば!』
それ以前に、魔導の心得がない彼女に夜天の書を扱えるのか。
「あの能力で夜天の書を解析してんのかな」
『あるいはイリスが、すでに……』
怪訝そうにヴィータはまた別の疑問を提示した。
「あいつ、フェイトのデータを持ってったよな? なのはのほうは、ちゃんと取れたかもわからねえ。それが永遠結晶を手に入れるのに必要ってのが、わからねえ」
『いや。そのことについては察しがつく』
と、銀狼のザフィーラが口を挟む。
『なのはは人間だった頃、夜天の書にリンカーコアを蒐集されている。書に残った情報と、今回のフェイトのデータを合わせて使うつもりなのかもしれん』
シグナムとシャマルも頷いた。
『ふむ……なるほど』
『可能性はあるわね。闇の書事件のことはよく調べてたようだし』
魔導士における魔力の核、リンカーコア。人間だった頃のなのはの情報が書に残っていることと、今回のフェイトの採取との間に、関係があるのかもしれない。ただ、それが永遠結晶へどう繋がるかまでは、まだわからなかった。
『キリエは……いや、イリスは夜天の書で、何を始める気なんや?』
「私たちで止めようね。絶対に」
メンバーと話し込んでいると、誰かが通信に割り込んだ。
『いずれにせよ、夜天の書が永遠結晶の鍵となるのは、間違いないだろうね』
「ユーノ君!」
『こんばんは。なのは』
資料部務めのユーノ=スクライアは移動中らしい。
『と……悠長に挨拶していられる状況でもないか。調べられるだけ調べたけど、永遠結晶の詳細は掴めなかった。ただ、イリスとキリエの目的にはどうやら齟齬がある』
『ごめん、お待たせ』
同じタイミングでフェイトもシグナム班に合流する。
『ユーノもこっちに来てくれるんだね。助かるよ』
『僕にもできることはありそうだし。とにかく……永遠結晶で星を救えるというのは、十中八九、真っ赤な嘘だ。そのことをキリエに伝えないと』
ヴィータの嘆息が夜空に散った。
「はあ……そいつが聞く耳持たねえってことは、私らが証明しちまったからな」
『闇の書事件の時の私たち、ね……』
シャマルの表情も沈む。
かつて守護騎士たちは八神はやての命を救うため、夜天の書のページを収集した。なのはとフェイトのリンカーコアを狙ったのも、夜天の書を完成させるためのこと。
ところが夜天の書には、完成とともに暴走するようにプログラムが仕組まれていた。それを知ったなのはたちは説得を試みるも、交渉は決裂、刃を交えている。
シグナムは果敢に言い切った。
『説得はあとまわしにして、先にキリエ=フローリアンを拘束してしまえばいい』
あくまで『話を聞く』スタンスでありたいなのはは当惑する。
「シグナムさん? でも……」
『ううん、なのは。シグナムの言う通りだよ』
しかしなのはの反論は、フェイトがやんわりと制した。
『キリエさんを気遣ってたら、かえってキリエさんを助けられなくなる……前に言ってたことだよね、シグナム』
『ああ。高町、お前の気持ちもわからなくはないが』
なのははスローモーションで頷きを返す。
「うん……」
本当はわかっていた。
臨海道方面の高速道路で戦った時も、キリエを気遣うあまりチャンスを逃している。彼女に逃げられてしまったのは、魔法を無効化されたからでもなければ、システムオルタに驚かされたからでもない。自分が説得に拘ったせいだ。
その結果、キリエはより危うい状況に陥ってしまった。イリスのてのひらの上で踊らされている――それが本当なら、彼女は第一の犠牲者にもなりかねない。
決意を胸に、なのはは夏の夜空を駆けていく。
「早くキリエさんを見つけよう!」
「待て待て! 勝手に突っ走るんじゃねえ」
クロノから通信が入った。
『キリエの逃走ルートを再計算した。僕の班は市街に降りて探すから、シグナム班とヴィータ班は引き続き、空から当たってくれ』
『了解した』
「了解~。あと、なのはが私の指示を聞かねえ時は、どうすりゃいい?」
『ユーノに押しつけるのが一番だ』
『ええっ? まさか、そのために僕を呼んだんじゃ……』
この街のどこかにキリエがいる。
(待っててください。今度は必ず……助けます!)
その確信はあっても、正確な居場所まではわからないのが、もどかしかった。
電灯もつかない廃ビルの一室で――。
傷んだソファーに寝そべり、キリエは息を乱していた。
部屋へ着く前、途中で何度も意識が遠のいた。車体の自動制御へ身体を預け、壁にもたれて転がり込むまでを、うまく思い出せない。
右脇腹には銃創がある。だが、その傷のほかにも痛む場所は無数にあった。システムオルタによって引き裂かれた筋肉、疲弊した循環系、異常を警告し続ける神経補助回路。止血だけで済む身体ではない。
あの公園で見たものも、目を閉じれば浮かんでくる。黒衣の男たちの短い剣。地面に浮いた幾何学的な紋様。ありもしない場所から立ち上がった赤い霧。時空管理局の魔導とは違う、人間の側の暗がり。
夜天の書を盗めば父を救えると信じていた。けれど、たった数時間で、今まで知らなかった力がこの星にいくつもあると知ってしまった。知らないことの多さが、そのまま恐ろしかった。
「はあ、はあ……」
「これで止血はオーケー、と」
傷口の処置を終え、イリスがキリエの柔肌にシャツを被せる。
「まったく。自分ごと撃つなんて、無茶しすぎ」
「……イリス。あの公園、何だったの」
包帯の端を押さえていた手が一瞬止まる。
「……今は考えなくていいよ。解析できてないものが多すぎるし、あんなところへ戻る必要もない」
「そっか……」
返答が妙に早かった。イリスもまた、あの光景を理解できていないのだろう。少なくともキリエには、そう聞こえた。
「あ、あはは……つっ?」
友達の手前、無理にでも笑うしかなかった。
目的は果たせたのだから、名誉の負傷。イリスが手に入れ損ねた闇の書も、土壇場で奪取することができた。それでも今、こうしてまたイリスの手を煩わせている。
「ごめん……」
「いいから。あとは血液と一緒に流れちゃったナノマシンの補充だね。準備するから、もう少しだけ我慢してて」
イリスが背中を向けるのを確かめてから、キリエはきつく目を瞑った。脇腹の傷は塞がったとはいえ、今なお痛みは続いている。
その激痛のせいで弱気になっているのだろうか。
(大事なパパと故郷を救う……その一心で、この星へ来たけど……)
固かったはずの信念が、胸の中で揺らぎ始めていた。自分もろとも姉を撃った、あの瞬間が脳裏でフラッシュバックする。
『わかんないでしょ? わたしがどんな思いで、どんな覚悟でここにいるか』
(どうして私、あんなふうに言っちゃったんだろ)
『お姉ちゃんはいつもそうやって『いい子』なんだよね』
(あんな、あてつけみたいなこと……)
アミティエも大切な家族なのに。アミティエのことが好きだったはずなのに。
よくできた姉と比べられるのが、幼い頃から気に入らなかった。しかし父も母も、一度としてキリエとアミティエを比較したことはない。
なのに自分は癇癪を起こし、姉に致命傷まで与えてしまった。
エルトリアの再生計画が頓挫したこと、父がもう助からないこと――そんな現実に対する苛立ちが爆発したのかもしれない。
だからといって、アミティエを撃ってよかったのか。
魔導士たちを痛めつけてまで、闇の書を奪うことは正しかったのか。
八神はやての、乱れてからようやく言葉になった声を思い出す。
『それは、うちの家族のものなんよ。大切なものなんや』
(大切なものを守りたいって気持ちは、みんな同じ……)
もし赤の他人がやってきて、『ちょっとだけ貸して』とキリエの父や母を連れ去ろうとしたら、自分はどうするだろうか。
あの子と同じことをしないか。
『うちのフェイトちゃんは優しい子なんで、苛めないであげてくださいね』
『力になれるよう頑張りますから。お話、聞かせてください』
高町なのはとフェイト=テスタロッサにしても、いきなりキリエを攻撃するような真似はしなかった。その隙に乗じて、キリエはふたりを出し抜いている。
そして、ついにはシステムオルタの力でフェイトを殴り倒してしまった。なのはは殴られても、撃たれても、キリエの傷を案じて近づいてきた。その間にも、自分は逃げるための手段を探していた。
誰にも迷惑を掛けない――だったら機動外殻など持ち出さず、こちらから話し合いの場を設ける方法もあったはずなのに。
イリスがナノマシンの注入器を手に戻ってくる。
「痛むけど、我慢してね?」
その先端がキリエの腕に押し当てられた。
身体中で血液が暴れるような激痛が生じ、キリエは悶絶する。
「うああああああッ!」
これは罰かもしれない。
あの子たちの大切なものを、ことごとく踏みにじったことへの――だからといって誰に許されるわけでもない、独りよがりな罰。
やがて容態も落ち着き、イリスが安堵の色を綻ばせた。
「バイタル安定。よかった、一安心ね」
「うん……ありがと、イリス」
キリエは身を起こし、シャツのボタンを閉じる。
不意にイリスの口調が変わった。
「キリエ、後悔してない?」
「なんで?」
彼女はキリエを直視せず、器具を片付けながら淡々と語る。
「酷い目に遭って お姉ちゃんとも喧嘩しちゃったでしょ。私の言う通りにしたの、後悔……してないかなって」
「そんなことないわ。イリスは私にチャンスをくれたの」
これだけは即答できた。
罪悪感を振りきるつもりで、キリエは持ち前の明るい調子を演じる。
「さ、やっちゃいましょ。鍵の取り出し」
「うん」
イリスは奪ってきた夜天の書をかざし、詠唱に入った。
(本当に何でもできるのね、イリスは……)
魔導に精通しているわけではないキリエには、見守ることしかできない。
夜天の書がひとりでに宙に浮いた。
「フォーミュラ・エミュレート。アルターギア『闇の書』、コードロック解除」
どこからともなく光の粒子が集まってきて、廃ビルの一室を照らす。夜の暗さに目が慣れていたせいで、やけに眩しい。
魔導書はページを開いた。
「管理者権限にアクセス。封印の鍵……起動!」
イリスの正面で光が収束し、一個のエネルギー体を浮かびあがらせる。
ただならない威圧感を覚えるとともに、キリエは期待を滲ませた。
「これが永遠結晶への鍵?」
「ええ。渇望に身を焦がしながら、幾星霜もの間、深き闇の中でたゆたっていた……」
「ふうん……詩人だったのね、あなた」
キリエの冗談を聞き流し、イリスは『鍵』を見詰める。
『我は誰だ……何も思い出せん』
それがエネルギー体の言葉らしいことに、キリエははっとした。
イリスは動じず、当然のように話しかける。
「あなたは王様。古い魔道書の中で眠らされていたの」
黒く淀みきった『それ』から、赤と青、ふたつのエネルギー体が分離した。赤と青のエネルギー体はあたかも衛星のように、本体を中心にゆっくりと旋回を始める。
「あなたの周りをまわってるのは、あなたの大切な臣下」
『臣下……』
「私たちはあなたに、失った力を取り戻すチャンスをあげたいの。永遠結晶の無限の力」
中央の本体が荒々しく揺らめいた。
『永遠結晶! それだ……我が求める、大いなる力』
「王様のものよ。だから、取り戻すための力を貸してあげる」
黒いエネルギー体が俄かに形を変える。
そこにはひとりの、裸の少女が立っていた。髪は脱色したような色合いだが、見覚えのある顔立ちに、キリエは思わず声を上擦らせる。
「これって……」
「闇の書の現所有者の容姿と資質を、書に蓄積された魔導の構成へ合わせたわ。悪くないでしょ」
目の前に今、『八神はやて』がいた。
「思い出したぞ。我が名は『ディアーチェ』……」
八神はやてと瓜二つの少女はそう名乗り、イリスを睨む。
それも意に介さず、イリスはキリエを促した。
「キリエ、ふたりのデータを」
「あ、うん」
キリエは手甲をかざし、高速道路上の戦闘で取得したデータを差し出す。フェイト=テスタロッサの記録には解析の完了が示されていたが、高町なのはの欄には、未確定の表示が残っている。
「こっちは、まだ……」
「いいの。使えるものは、もうあるから」
イリスはなのはの未完了の記録を採用せず、書の内側に残る別の情報を呼び出した。人間のリンカーコアから得られた魔導の資質。今の身体から読み取ろうとして、答えを得られなかったものよりも、こちらのほうが構成に適していた。
夜天の書のページが二枚、剥がれるように外れた。
一枚は書に残る、人間だった頃の高町なのはのデータを得て、赤いエネルギー体と。もう一枚は今回取得したフェイト=テスタロッサのデータを得て、青いエネルギー体と融合する。
その色を髪の色とした少女が、ディアーチェの両隣に並んだ。
人間の身体のおかげか、ディアーチェの言葉はより明瞭に聞こえる。
「我が臣下……そうだ。シュテル」
高町なのはと同じ顔の、赤い髪の少女が頷いた。
「レヴィ」
フェイト=テスタロッサと同じ顔の、青い髪の少女も頷く。
「あぁ、思い出した……あらゆる望みは我が手の中に。世界のすべては我が腕の中」
ふたりを従え、ディアーチェは高らかに宣言した。
「無限にして無敵の王に、我はなる!」
キリエはぞくっと震える。
「な、なんか……すごい子たちね」
「あの子たちは鍵よ。とても大切な鍵……」
イリスは警戒もなしにディアーチェたちに近づいた。
「データから組みあげた、かりそめの肉体だけど。どう?」
「なんだ? 貴様は」
『王様』らしいディアーチェは尊大な物腰でイリスと対峙する。
(この子たちが永遠結晶の鍵? ほんとに言うこと聞いてくれるの?)
疑問と不安とがキリエの胸を掠めていったが、さすがに突っ込まずにいられなかった。
「ね、ねえ……王様だっけ? まずは服をどうにかしない?」
ディアーチェも、シュテルも、レヴィも、素っ裸で平然としている。
にもかかわらず、首を傾げる王様。
「何を言っとるのか、わからん。シュテル、通訳しろ」
シュテルは真顔のままでまくし立てた。
「使用してる言語は同じです。が……防御の面でいささか不安のある恰好という点は、否定できません。甲冑の着用を具申致します」
「あっ、武器! 武器も欲しいっ!」
対照的にレヴィは表情をころっと変え、無邪気に笑う。
ディアーチェたちは瞬時のうちにバリアジャケットを生成、その身にまとった。書に蓄積された魔導と、それぞれの身体を形にしたデータを参照し、魔力で構築したらしい。
「これでよかろう」
「ちょうどいいわ。邪魔しに来る連中がいるから、その装備で相手してあげて。足止めしてくれれば、それで充分」
イリスは共闘を持ちかけるも、ディアーチェの返答は素っ気なかった。
「我らは誰の指図も受けぬ。たとえ貴様が我を呼び出した術者とあっても、な」
「あら……私たちの目的が『永遠結晶』だとしても?」
ところが、その一言にディアーチェが眉を顰める。
「貴様……」
「指図じゃないわ、協力よ。それならいいでしょう? 王様」
戦端は開かれつつあった。
真夜中、東京湾の上空。
三対の黒い翼をはためかせながら、ディアーチェは腕組みを深めた。
「あのおさげの女が言っておった通りだな」
その傍らでシュテルは生真面目に索敵を遂行する。
「空にいるのはおよそ三十……いえ、四十に近い数ですね。地上のほうでも二十ほど動きまわっているようです」
「ふん。大した数ではないが、寝起きの準備運動くらいには……」
一方で、レヴィは能天気にはしゃいでいた。
「このカラダおもしろ~い!」
空中で跳ねたり、まわったり、ひっくり返ったり。
頭を逆さまにしてシュテルに近づき、一緒に遊びたがる。
「シュテルンもほら、面白いって! ねえねえ」
「落ち着きなさい。王の御前ですよ。あと私は『シュテル』ですので」
そう窘めつつ、シュテルは左手を前へかざした。その手が紅い炎を呼び出し、間近にいたレヴィを驚かせる。
「おわあっ?」
「ですが本当にすごいですよ、ディアーチェ」
ディアーチェは溜息をついた。
「浮かれおって……まあよい。今のうちに、その身体の性能を把握しておけ」
「は~い! 王様」
「すでに万全ですので、ご心配なく。元になったデータと少し差はあるようですが」
これが本来の姿ではないことを、ディアーチェたちは感覚的に知っている。しっくりと来ないのは、どうやら勘違いではないらしい。
封印の眠りが長すぎて、記憶の大半を失ったのだろう。
不満そうにレヴィがぼやく。
「で……王様? ホントにあんなやつらの言うこと、聞いちゃうわけぇ?」
「確かイリスとキリエ、でしたね。信用はできないと私も思います」
ふたりの部下の意見はもっともだった。
イリスたちは何かしらの目的があって、ディアーチェたちを目覚めさせたうえで、手伝わせようとしている。それに気付かないディアーチェではない。
「我も信用などしておらぬ。だが我々が動くことで、見えてくるものもあるだろう。やつらが我々を利用するなら、こちらも利用してやるまで」
「王の仰せのままに」
「ボクも賛成っ! てゆーか、王様の言うことが間違ってるはずないし」
「それに……」
ふとディアーチェは物憂げな表情で、自分のてのひらを見詰めた。
「永遠結晶――あれは、どうあっても『我がもとになくてはならない』もの……だ」
シュテルとレヴィも口を揃える。
「私にとっても『何より必要で大切なもの』です」
「う~ん……『近くにいないと、なんか落ち着かない』ってのは、わかる」
三人の魔導士は頷きあうと、悠々と東京湾の一帯を見渡した。
「ユーエンチとやらは、どれだ?」
「イリスの地図によれば、あちらの城がある島です」
「そーだ! ボクたちのお城にしちゃお」
ディアーチェたちの視線の先にあるのは、オープン間近のオールストン・シー。
「管理局とかいう羽虫どもの拠点らしいな。あの女の指示など聞くつもりはないが、邪魔をされる前に片付けておくとしよう。行けるな? シュテル」
「当然です」
意気込むシュテルとは裏腹に、レヴィは暢気に手を挙げる。
「王様、王様! ボクは何をすればいいの?」
ディアーチェに代わり、シュテルが宥めるように言い聞かせた。
「レヴィはあそこへ突っ込んで、ディアーチェを悪く言う相手を叩きのめしてください」
「ん、わかった!」
レヴィがバルディッシュと同系統のアームドデバイスを掲げ、頭上で旋回させる。
「突撃ぃ~!」
その瞬間、東京湾の夜空が唸った。
同じ夜空で、なのはたちは一斉に警戒を強める。
『先ほどの魔力爆発地点から、大型の魔力反応が3つ! 高速で移動しています!』
『追跡対象キリエ=フローリアンと思われる反応も確認!』
通信越しにクロノの檄が飛んだ。
『シャマル班は結界を用意! シグナム班は3つの魔力反応の警戒を、ヴィータ班はキリエを追跡してくれ!』
「了解っ!」
シグナムの隣を飛びながら、フェイトは気を引き締めなおす。
「バルディッシュは間に合わなかったか」
「調整が難しいみたいで……でも大丈夫、この子でなんとかします」
フェイトのアームドデバイスはスペアだった。出力は抑え気味で、カートリッジシステムも搭載していないが、基本の性能はオリジナルのバルディッシュに遜色ない。
これでも戦える――そう思った矢先、フェイトは顔色を変えた。
夜空の上から巨大な物体が落ちてくる。
「隕石っ?」
今夜のオペレーティングを一手に引き受けるエイミィの声も緊迫した。
『墜落予測地点……オ、オールストン・シー、エリアD!』
「私が止める!」
いの一番に行動に出たのは、守護騎士のシグナムだ。
「行くぞ、レヴァンティン!」
長剣レヴァンティンが鞘と合わさり、フォームを弓へと変える。そして光の矢を番え、迫りくる隕石に真正面から狙いを定めつつ、カートリッジをリロード。
シグナムの雄々しい叫びが木霊した。
「翔けよ、隼ッ!」
炎をまとった矢が、ロケットじみた勢いで放たれる。
シグナムの一撃は一直線に夜空を駆け抜け、隕石に突き刺さった。隕石は爆散し、失敗した花火のように煙の塊と化す。
「さすがだね、シグナム」
「油断するな、テスタロッサ。何かいるぞ」
緊張の一瞬――にもかかわらず、お気楽な声が響き渡った。
「なんだよもー。せっかく運んできたのに壊すとか、何者だ? 名を名乗れっ」
煙の中から青い髪の少女が姿を現す。
フェイトと同じ背格好で、フェイトと同じ顔立ち。
(まさか……このために私のデータを?)
本物のフェイトはシグナムと目配せしつつ、奇妙な少女と相対した。
「大規模危険行為で現行犯逮捕する」
「あなたの氏名と出身世界を」
「どこから来たか? ボクだって知らな~い」
彼女はバルディッシュに似たアームドデバイスを振りあげ、自慢げに名乗る。
「誰が呼んだか知らないが、ボクの名はレヴィ。雷光のレヴィとはボクのことさ!」
さらに彼女の後方で、海面が大きく膨れあがった。
「そしてボクがわざわざ運んできた、ボクの下僕。灰燼のトゥルケーゼ!」
先ほどの隕石にも引けを取らない巨体が、圧倒的な存在感を放つ。
「機動外殻だと?」
「大きすぎる! あんなので出てこられたら……」
雷光のレヴィは愉快そうにはにかんだ。
「さあ、遊んであげるよ!」
別の方向からもオールストン・シーへ巨体が近づいていく。
そのせいで、ヴィータ班もキリエの追跡どころではなくなってしまった。
「こんにゃろー! そっちに行くんじゃねー!」
ヴィータは電磁ランチャーで応戦するも、相手が大きすぎて手応えがない。しかも機動外殻は自己修復の機能まで備え、瞬く間に再生してしまった。
「ちっ! もっとデカいのをぶち込んでやらねえと……なのは!」
「了解!」
なのははオールストン・シーの敷地を足場にして、〈封解主〉ミカエルを構えた。霊装の濃紺の外套が翻り、その内側の星空が海の灯りと重なる。機動外殻が振り下ろそうとした左腕の前へ、空間の切れ目を開いた。
鍵の先が、離れた機体の腕部へ触れる。
〈封解主〉は砲でも槍でもない。目の前にない部分へ空間を接続し、触れたものの働きを開き、また閉じる。装甲の厚さを競う必要など本来はないのだ。
なのはは機体の関節機構と武装への供給経路を見分け、鍵の先端を僅かに捻った。腕を閉じるだけなら、次の腕が動く。大きな機体を完全に閉じてしまえば、そのまま重心を失い、下にいる者たちへ落ちる。そのため、まずは一か所だけを選んだ。
そこで、動きが止まった。
装甲を砕く砲撃を受けたのではない。腕を動かしていた機能そのものが閉じられ、巨体が振り抜くはずだった一撃を、途中の姿勢で止められている。なのははその向こうにある胴体へ視線を移し、次に触れるべき部分を探した。
「左腕は止めたよ! ヴィータちゃん、砲口を押さえて!」
「おうよ! とどめは任せろ」
機動外殻が別の武装を向けてくる前に、ヴィータが電磁ランチャーを連射。
ところが、その背後へ特大の火球が襲い掛かる。
「ヴィータちゃん!」
すかさずなのはは飛翔し、ヴィータの背面で空間を開いた。迫っていた火球は命中の寸前でその口へ入り、誰もいない海上の空へ抜けて、爆炎を宙に散らす。
「悪ぃ、なのは」
「ううん。でも、まだ止めきれてないね……」
その頃には機動外殻が残る腕と脚で姿勢を立て直し、オールストン・シーへの侵攻を再開していた。
「なるほど。よき連携です」
少女の淡々とした声に、なのはとヴィータはどきりとする。
火球を繰り出したのは赤い髪の彼女らしい。
その『見覚えのある』顔立ちを前にして、なのはとヴィータは目を見張った。
「ど、どうして私が……」
「なのはと同じカオだぞ? こいつ」
高町なのはにそっくりの少女が、先端に赤い魔力光を宿した長杖を振りかざす。
「名乗らせていただきましょう。我が名はシュテル……殲滅のシュテル」
機動外殻の巨体が唸りのような稼働音を立てた。
「そしてあれが王からたわまった我が下僕、城塞のグラナート。あなたがたに恨みはありませんが、ここで消えていただきます」
東京湾の上空で、ヴィータ班も決戦の火蓋を切る。
同時刻――はやてもまた、自分と瓜二つの少女と相対していた。
「貴様が闇の書の主か」
「夜天の書の主、八神はやてです」
少女の背後には三対の黒い翼が広がっていた。はやての背後に連なる白い翼とは、色も、形も、その力の生まれかたも違う。
「我が名はディアーチェ。失われた力を取り戻すために蘇った、王の魂」
「王……」
王を自負するだけの貫禄と威圧感があった。強敵と一対一で対峙した経験のないはやては、緊張感のあまり固唾を飲む。
(今は頑張らなあかん時や……わかってくれるやろ? すずかちゃん)
ディアーチェと名乗った少女は、はやてと同じ顔で眉を顰めた。
「我が力を取り戻すには、貴様らが目障りだとかでな」
「キリエさん……いやイリスの差し金やね」
「答える必要はないな」
その手がアームドデバイスを掲げ、魔導の輝きを放つ。
ディアーチェの背後で、翼と同じ数の魔方陣が浮かびあがった。
三角形の魔方陣はベルカ式――守護騎士たちが使うものとして、馴染みはあった。それでも、自分と同じ顔の少女がそこから魔法を引き出す姿には、不思議な感覚があった。
「……うちが普通に魔導師になってたら、ああいう感じやったんかな」
「我を貴様の仮定に使うな」
「顔そっくりなんやし、しゃあないやん」
はやては過去の自分を見ているのではない。人間の魔導師として活動したことは、一度もなかった。リインフォースが内側で支える今の身体も、夜天の書に記録された魔法を、そのまま使うことはできない。
ディアーチェは当然のように唱えた。
「クラウソラス!」
六つの魔弾が束の放物線を描きながら、はやてを追尾する。
対するはやては、白い翼を前へ送った。魔弾の一つに触れた翼がそれを受け止め、別の一枚が脇へ回り込んだものを遮る。 〈絶滅天使〉メタトロンの光と、ベルカ式の魔導から生まれた光がぶつかり、空中で爆発を連鎖させた。
はやての背後では、翼の一枚一枚が独立して角度を変えていた。防ぐための〈天翼〉、鋭く伸ばして魔弾の軌道を断つ〈光剣〉、散った破片と余熱を引き受ける残りの端末。どれも同じテレズマから生み出されているのに、役割を一つに揃えてしまえば、細かな加減は利かなくなる。
はやては光の一枚をディアーチェの背後へ回そうとして、途中で止めた。その先には無人ではない船舶がある。細く撃てる。相手の肩を掠めるだけにもできる。だが、光が抜けた後に残るものまで、自分の都合で消せるわけではなかった。
『主。西側の進路を空けてください。破片をそちらへ流せます』
(わかった。けど、あの船が通り過ぎるまでは待ってな)
自分の内側にいるリインフォースが計算を整える。はやては頷き、細かく分かれた翼を傘のように畳んだ。ディアーチェから見れば、目の前の少女は圧倒的な光量を持ちながら、そのほとんどを攻撃へ使おうとしない。不自然で、理解し難い戦い方だった。
同じ魔法を撃ち返しているのではない。その違いに、ディアーチェの眉が僅かに動いた。自分の身体の基礎とされた相手が、同じ体系で戦わない。書と主の関係について、呼び起こした女が語らなかったことがあるのかもしれなかった。
「ほう……この程度では落ちんか」
「そうはいかんよ。キリエさんもイリスも止めなあかんし……」
「奪われた宝物も、返してもらわなあかんからね!」
ふたりの『はやて』は、互いの力が届く間合いで睨みあった。
「王様にもお話、聞かせてもらうで」
「フン――頭が高いっ!」
ディアーチェの怒号が反響する。
それに呼応して、夜空を大きな鳥の影が突っ切ってきた。
「空戦タイプの機動外殻で、あのサイズやて……?」
視界を覆い尽くすほどの巨躯を前にして、はやては翼を広げ直した。落下させれば、その下には海も、オールストン・シーもある。リインフォースの観測を内側で受け取りながら、機体を押さえる位置と、人のいる場所とを確かめる。
大きさは問題にならなかった。〈日輪〉へ翼を束ねれば、周囲を白い光で満たし、あの機体を一息に焼き払うだけの出力を引き出せる。けれど、空戦型の機動外殻は遊園地の上へ張り出していた。砕かれた装甲も、焼き切られた推進器も、すべて下へ降る。ましてや余波が沿岸の施設へ及べば、誰かを守るための力は、そのまま別の災害になる。
(……大きな光ほど、当てる場所があらへん)
はやては〈日輪〉への集束を解いた。残された翼を〈光剣〉に変え、推進器だけへ射線を細かく合わせる。最初の一枚は牽制、二枚目は回り込むための目印、三枚目がようやく破損しかけた機体の外側をかすめた。爆発しそうな箇所には、別の翼が防壁を重ねている。
撃てないのではない。撃つ場所を選び過ぎている。それが今のはやての戦いだった。
ディアーチェは高らかに言い放った。
「我が下僕、獄炎のアメフィスタが貴様らをなぶり殺しにしてくれよう!」
さしものクロノも焦っていた。
「これだけ警戒して、おめおめと先手を取られるなんて……!」
隊員とともにオールストン・シーへ取って返す。
まさかオールストン・シーを急襲してくるとは、予想だにしなかった。
逃走中のキリエたちがわざわざ遊園地を襲撃することに、何の意味があるのだろうか。オールストン・シーに管理局が拠点を置いたと知っているのなら、なおのこと。
そのうえ、想像を上まわる戦力を投入してきた。
なのはやフェイトの力に固執したのも、夜天の書で『コピー』を作り出すためだったらしい。ただ、いかに夜天の書とはいえ生命の複製はできないはず。それはプレシア=テスタロッサ事件でも証明されたことだ。
「夜天の書を媒介にして、何かに形を与えたか……」
『まずいよ、クロノ君!』
エイミィから緊急のコールが掛かる。
『これじゃ結界を展開できない!』
「わかってる」
クロノたちの作戦をよそに、最悪の事態となってしまった。すでにシャマルたちも防衛に駆り出され、結界を構築するどころではない。
それ以前に、あれほど巨大な機動外殻が同時に三体も出現しては、結界で覆いきることができなかった。オールストン・シーを守りながら戦うほかない。
(なぜだ? 遊園地を壊して何になる?)
疑問に疑問を重ねていると、ユーノから通信が入った。
『もうじき着く! 少しでいいから持たせてくれ』
「すまない。あてにしてるぞ」
状況は厳しい。それでもユーノが来れば、防衛のほうは目途が立つだろう。
クロノは急ぎながらも頭をフル回転させ、ひとつの推測を弾き出す。
「こいつは陽動か?」
『それだけじゃないよ。今わかったことがある』
ユーノの表情は確信に満ちていた。
『僕たちと戦うだけなら、結界の中でも構わない。脱出の手段さえあればね。でもイリスには、オールストン・シーに結界を張られちゃ困る理由があるんだ』
「なんだって?」
『結界を張られたら、本物のオールストン・シーの中には入れない。つまり……』
エイミィの大声が割り込む。
『永遠結晶はオールストン・シーにある!』
まさかの真相だった。
クロノは驚愕するも、すぐに冷静な思考を取り戻す。
『でも永遠結晶なんて、オールストン・シーのどこに……ずっと工事してたんだから、もう誰かが見つけてるんじゃないの?』
「エイミィ、オールストン・シーの関係者に繋げないか?」
『え? ええと……次長に中継してもらえば、月村さんかバニングスさんには』
今は一秒たりとも時間が惜しかった。
「あの子たちは? なのはの友達の」
『それならすぐにでも……あっ、あの子たちも逃がさなくっちゃ!』
エイミィは異論を挟まず、オールストン・シーのアリサとすずかに通信を繋ぐ。
『きゃっ! クロノ君?』
『こっちが着替え中だったら、どうするのよ』
「すまない、緊急事態なんだ。教えて欲しい。オールストン・シーに永遠結晶があるとしたら、どこか、心当たりはないか?」
アリサとすずかは不思議そうに顔を見合わせ、はっとした。
『アクアリウムの巨大鉱石!』
永遠結晶を巡り、イリスたちとの競争が始まる。
三体の機動外殻を迎撃すべく、総員が出撃。
バックアップのはずのシャマルも前線に出て、灰燼のトゥルケーゼに挑んだ。
「もう少し食い止めて、シグナム!」
「承知!」
指輪の形のアームドデバイス『クラールヴィント』で敵の内部を覗き込んで、機動外殻の全制御を司っているらしいコアを発見。
「見つけた。そこね」
クラールヴィントがシャマルの手首から先を、その内部へ転移させるとともに、数メートルの大きさにまで拡大させる。
シャマルの『手』がトゥルケーゼのコアを鷲掴みにした。
「捕まえた! 全身を制御するためのコアパーツ……シグナム、あとはお願い!」
「ああ! レヴァンティン!」
シグナムが垂直に跳躍し、トゥルケーゼの真上を押さえる。そして魔剣と呼ぶに相応しい愛用のアームドデバイス、レヴァンティンを両手で握り締めた。
カートリッジをリロード。
「紫電一閃!」
足場のベルカ式魔法陣を蹴り、墜落するような勢いでトゥルケーゼに斬りかかる。
上から下へ鋭い閃光が走った。
トゥルケーゼの左半身に対し、右半身がずれ落ちる。一刀両断。
機動外殻の巨体が海面を膨らませながら沈む。
ヴィータ班も城塞のグラナートと熾烈な攻防を繰り広げていた。こちらはトゥルケーゼよりもオールストン・シーに近いため、防御の一回ごとに隊員は肝を冷やす。
「ヴィ、ヴィータさん! もう持ちません!」
「だらしねえぞ、根性見せやがれ! ……ちっ、弾切れか」
ヴィータは電磁ランチャーを投げ捨て、愛用のグラーフアイゼンを手に取った。
シグナム班の戦いぶりから、今回の機動兵器に魔法が通用することはわかっている。ならば『鉄の伯爵』ことグラーフアイゼンで砕けないはずがない。
奮戦するヴィータのもとへ、シャマルからの通信が届いた。
『そっちにザフィーラが行ったわ! コアの位置はザフィーラに教えてあるから』
「おっし! あとは任せろ」
その通信が終わらないうちに、ザフィーラが持ち前の俊足で駆けつける。
彼は人間の姿となって、右腕に渾身の力をたわめた。
「うおおおっ!」
単身でグラナートの猛攻をかいくぐり、豪快な拳打を叩き込む。
グラナートの装甲に大穴が空いたところで、さらにザフィーラは間髪入れず、魔法で異物を挟み込ませた。装甲は再生を妨げられ、稼働中のコアを露出させる。
「でかした、ザフィーラ! 行くぞ、アイゼン!」
グラーフアイゼンがフォームを大槌に変えた。柄も伸ばし、旋回半径を拡大。それをヴィータが水平に二回、三回と降りまわす。
遠心力に遠心力が乗り、遠心力が重なった。
グラーフアイゼンの後部がバーニアを噴かせて、推進力も合わせる。
「ぶ・ち・く・だ・けーッ!」
破壊。
一点集中の破壊の力が、グラナートの巨体に横殴りを直撃させた。装甲は砕け、コアはホームランのようにかっ飛ばされる。
それは上空のシュテルを横切ると、轟音とともに爆散した。
「大したものです」
グラナートを失っても、シュテルは眉ひとつ動かさない。
その間もなのははシュテルに迫っていた。
「武器を捨てて、投降してください!」
「それはできない相談です」
なのはとシュテルがすれ違うのに数秒ほど遅れて、大小の爆発が連鎖する。
(この子、強い……!)
まるで昔の自分を相手にしているかのようだった。高出力の砲撃をメインに立ちまわる戦法も、人間の魔導士だった頃の高町なのはのものと一致する。
攻撃のすべてが炎を伴うせいか、狂暴な印象もあった。なのははミカエルを返し、飛来する炎の前へ空間を開く。射撃はなのはへ届く前に海上の空へ逃れたが、シュテルはその動きを見て、次の弾を違う角度から放ってきた。なのはを撃ち抜くことよりも、彼女が何をして防いでいるのかを確かめるような攻撃だった。
シュテルが滞空しつつ、ロッドを振りかざした。
「回避はさせませんよ。この範囲なら……!」
炎が雨となってなのはに降り注ぐ。
自分の身体は霊装で守れるものの、オールストン・シーは剥き出しだった。
鍵を一度回して閉ざせば、この炎を形づくる魔力と術者との繋がりを断つことはできる。ただし、一斉に断たれた炎はその場所で霧散するとは限らない。すでに熱と圧力を持った火が、周囲へ散ればどうなるのか。なのはにはよく分かっていた。だからこそ、先に逃げ道を開く必要がある。
杖を持っていた頃なら、まっすぐ撃ち返すことを考えただろう。今は違う。勝つ方法の数が増えた分だけ、周囲を傷つけずに済む方法を選ぶための時間が必要になっていた。
「ヴィータちゃん!」
「おう!」
間一髪、ヴィータが広範囲にベルカ式の防壁を展開。地上への被弾は辛くも免れる。
「防御はこっちでやる! お前はあいつを何とかしろ!」
「うんっ!」
再びなのはは夜空を乱舞し、シュテルと熾烈な牽制を繰り広げる。
間合いが狭まったと思いきや、シュテルが口を開いた。
「質問していいですか」
「え? 今?」
困惑しながらも、なのはは彼女との距離を保つ。
「あなたは先ほどから、地上の建造物を守るような挙動を取る。生命反応はないのに、です。無人の建造物を守るのはなぜですか」
「あ、当たり前だよ」
そのようなことは説明するまでもなかった。
「この遊園地はみんなが一生懸命作ってるもので、完成を楽しみに待ってるひとがいる。たくさんのひとの努力とか、期待がこもってる場所だから、壊したくないの」
シュテルは肯定も否定もせず、攻撃の続行を予告する。
「それを守りながら、私の攻撃を受けきれるとでも?」
「やってはみるよ。無理でも何でも、ものわかりよく諦めちゃうと後悔するから」
戦いの中で、なのはは自分の決意を反芻した。
「だから決めたんだ。どんな時でも諦め悪く食らいついて」
諦めない、と。
「私の力が届く距離にあるものは全部、守っていくんだって」
そして今度こそ守る――と。
シュテルは少し感銘を覚えたように頷いた。
「それがあなたの覚悟ですか」
彼女は自分の話を聞いてくれている――そうなのはは直感する。
(声の届かない相手じゃない!)
しかしシュテルはなのはに理解を示しながらも、決して靡かなかった。その双眸に強い意志の光を宿し、啖呵を切る。
「私にも覚悟はあります。王を守り、王の願いを叶える炎であるという覚悟です!」
バインドの光が、なのはの腕と脚を取り囲んだ。
(しまった?)
会話に気を取られていたせいで、接近を許してしまった。それでも、なのはが鍵を動かすと、足元と上空とを繋ぐ切れ目が開く。身体がその向こうへ抜け、光の輪だけがもとの場所に残った。
その間にシュテルは、直径が十メートルにも及ぶ火球を膨張させていた。
「し……収束魔法?」
「私とあなたの心と心、どちらが強いか、比べあうとしましょう」
正々堂々と宣言し、さらに魔力を高めていく。
大きすぎる火球を見上げ、なのはは鍵を握り直した。以前なら、こちらも収束砲を構えていたかもしれない。けれど今の身体から流れるのは、人間の魔力ではない。相手と同じ魔法を使い、同じかたちで覚悟を示すことは、もうできなかった。
彼女は撃つ気だ。なのはを好敵手と認めたからこそ、力比べをしようとしている。
そこに『避ければ遊園地を破壊してやる』という狡猾さはなかった。ただ純粋に、なのはとの決闘に臨む――言葉通りの『覚悟』。
(あの子の魔法を、壊さずに止める)
砲口へ鍵を触れさせれば、その機能を閉じることはできる。ただ、今はシュテルの前にも、散らされた炎が浮いている。術者を止めるだけで終わらせず、その攻撃も地上へ落とさないようにしたかった。なのはは海上へ視線を移し、射線と、開くべき出口の向きを確かめた。
ヴィータも火球の下へ入り、防壁を重ねていた。
「あんにゃろ、オールストン・シーをぶっ壊そうってのか?」
「ううん。そんなこと考えてないよ、あの子は」
ほんの数秒のうちに、なのはは必死に逡巡した。
シュテルを止めるために、守ろうとしていた場所を壊しては意味がない。広がっている炎を逃がし、術者へ近づき、その上で動きを止める。どちらか一方だけを選ぶつもりはなかったが、地上へ流れる余波まで見張っていれば、鍵を向ける位置を限られてしまう。
「なのは!」
勇ましい一声がなのはの葛藤を吹き飛ばした。
「なのは、大丈夫! 地上は僕が守る!」
「ユーノ君っ!」
優しいグリーン色の防壁が、一瞬にしてオールストン・シーの全域を覆い尽くす。
ユーノ=スクライアの防御魔法だった。
「こっちは気にせず、なのははあの子を止めて!」
「ありがとう!」
みるみる力が湧いてくる。
防壁だけの話ではない。自分に初めて魔法を教えてくれた彼が、見守っている。以前と同じ魔法を使えなくなった今でも、彼はなのはが何を守りたいのかをわかって、地上を引き受けてくれた。
なのははミカエルを前へ伸ばした。鍵を回すと、シュテルとの間に空間の口が開く。反対側の出口は、なのはが今見た海上の空へ繋がっていた。射撃がそのまま地上へ落ちない向きに整え、なのはは光輪の輝きを深める。
「……k接続x――開いて」
人間の声ではない音が、短い言葉へ混じった。
シュテルの目が細められる。魔導の詠唱なら読めたはずだった。しかし目の前の少女が何を構築しているか、その手順も、魔力の流れも見えない。自分の身体に用いられた基礎情報と、この高町なのはとの間には、容姿の一致では埋められない隔たりがあった。
それでも、杖を下ろすことはなかった。
「ルシフェリオン……」
火球の光が膨れあがった。
「ブ・レ・イ・カーーーーーッ!」
シュテルは撃つ。流星のような渾身の一撃を。
収束魔導砲は、なのはの前で開かれていた口へ突き刺さった。凄まじい炎がそこへ入り、海上の空に開いた出口から噴き出していく。二つの砲撃が衝突する爆発は起きず、熱の激流だけが、人のいない方向へ走った。
ヴィータが顔を庇った。
「無茶しやがって~!」
それでも余波はユーノの防壁に遮断され、オールストン・シーには届かなかった。なのはの霊装の裾を炎がかすめ、桃色の輪郭が光を散らす。その光はすぐに集まり直し、衣服を焦がされた人間のような傷を残すことはない。
ルシフェリオンブレイカーを制御しつつ、シュテルは目を見開いた。
「この砲撃を……受けていない?」
なのはが耐えきれるかどうかを考えていた。それなのに、こちらの魔法は彼女の身体へ届いてさえいない。撃ち続けるほど、自分の魔力だけが流れ、なのはとの間にある見えない隔たりは残ったままだった。
右へ射線を動かす。すると空間の口も、その方向へ開き直された。次に杖を戻した時、なのはの姿が正面から消える。
「たああああー!」
声は、すぐ脇から聞こえた。
シュテルは反射的に近接用の攻撃へ切り替えた。
「ヒート――」
なのはは、その杖へ鍵を触れさせた。
「閉じて」
杖と術者を結んでいた魔力の流れが途絶える。残っていた炎は、まだ開かれている空間の口へ吸い込まれ、最後の輝きが海上の空へ逃れた。シュテルは杖を引こうとしたが、なのはのもう一方の手が手首を押さえている。力で振り払える相手ではないと、そこでようやく理解した。
ブレイカーの輝きが消えた時、勝負は決していた。
全力の砲撃を放ち続けたシュテルの身体から、力が抜ける。こちらを傷つけるための一撃は最後まで来なかった。その代わり、王のために振るおうとした力が、杖を通って出てこなくなっている。
なのははミカエルを下げ、握った手首を離さなかった。シュテルは仁王立ちで余裕を浮かべようとするも、
「無念……です」
瞼を伏せ、身体を支える魔力が薄れていった。なのはは握った手を離さず、もう一方の腕で、傾いていく身体を支えようとする。
「あっ?」
なのはが抱き上げるまでもなく、下から追いついたヴィータが彼女を受け止める。
「よっと。お前はちょっと休め? なのは」
「ありがとう、ヴィータちゃん」
同じ顔立ちのせいか、シュテルには親近感を抱かずにいられなかった。気を失ったにしては安らかなシュテルの寝顔に、なのはは小声で囁きかける。
「私の勝ちだね……目が覚めたら、お話聞かせてね」
『トゥルケーゼ、グラナートの撃破を確認! ヴィータ班、シュテルを確保!』
勝利した。