「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
引き渡しの日。
小尾一は、何年も暮らした収容区画から外へ出された。
両手には手錠が掛けられ、腰にも拘束具が回されている。左右には収容施設の職員が一人ずつ付き、少し前をクロノが歩いていた。
ここまで来ても扱いは収容対象のままだった。正式な引き渡しが完了するまでは、最後まで気を抜かないということらしい。
もっとも、小尾自身には今さら逃げるつもりもない。
持ち出しを許された荷物は、驚くほど少なかった。
衣服と、事前に内容を確認された数冊の本。あとは最低限の日用品だけで、小尾が収容生活の間に書き溜めた紙束は一枚も入っていない。
「本当にこれだけ?」
自分の荷物を横目で確認しながら、小尾が聞いた。
「これだけだ」
振り返りもせずにクロノが答える。
「紙は?」
「新しい住居で必要な分だけ支給される」
「ペン」
「同じだ」
「僕が書いた研究資料」
「持ち出し不可」
「クロノがパクったやつ」
「押収だ!」
今度は振り返った。
「何年その言い方を続けるつもりだ!」
「だって返ってきてないし」
「返せる内容じゃないからだ!」
収容最終日だというのに、このあたりは何も変わらない。
付き添っている職員も、二人のやり取りには反応しなかった。付き合いの長い者なら聞き慣れているし、新しく配置された者なら余計な会話をするなと教育されている。
その教育費まで自分のせいで発生していると聞いた時には、小尾もさすがに申し訳ないとは思った。
ほんの少しだけ。
通路を進むたびに、背後で隔壁が閉じていった。
何重もの認証を必要とする扉。監視装置。非常時には区画ごと封鎖する設備。小尾が何年も暮らしてきた場所は、途中から明らかに一般的な収容施設ではなくなっていた。
自分一人のために、よくここまでやったものだと思う。
まあ、その設備を何度か壊したのも自分なのだが。
「最後の扉だ」
クロノの言葉とともに、前方の隔壁が左右へ開いた。
その向こう側に、二人の女性が待っていた。
小尾の足が止まる。
高町なのは。
フェイト・テスタロッサ・ハラオウン。
二人とも管理局の制服を着ていた。
最後にまともに顔を合わせた頃は、まだ三人とも小学生だった。それから何年も経ち、小尾自身も外見だけなら高校生ほどに成長している。
なのはも、あの頃とまったく同じ姿ではない。
天使化以降、成長速度そのものは人間だった頃より明らかに遅くなっている。それでも身長は伸び、顔立ちから幼さが減り、管理局の制服を着て立つ姿には、ランドセルを背負って海鳴市を歩いていた頃の面影と、現在の彼女が同時に残っていた。
小尾は思わず、上から下まで眺めてしまった。
資料では何度も見ている。
定期検査の数値も、成長記録も、クロノが見せてくれた範囲なら覚えている。
だが、記録と本人はやはり違った。
「久しぶり、小尾君」
視線に気づいたなのはが、少し笑う。
「……久しぶり」
なのはも小尾の姿を見直した。
「小尾君も大人になったね」
「高町さんも。記録で見るのと実際に見るのじゃ――」
そこまで言ったところで、小尾は妙な圧力を感じた。
なのはの隣。
フェイトがこちらを見ている。
表情そのものは大きく崩れていない。ただ、その目には管理局員が危険人物へ向ける警戒とは少し違うものが混ざっていた。
嫌悪。
怒り。
そして何より、なのはへ近づけたくないという個人的な意思が分かりやすい。
何年も会っていない人間へ向ける目としては、かなり強烈だった。
「……フェイトさんも、久しぶり」
とりあえず挨拶してみた。
返事はない。
小尾は少し待った。
「フェイトさん?」
「私に話しかけないで」
「……はい」
予想以上だった。
小尾が大人しく前を向くと、クロノが疲れたように息を吐いた。
「フェイト。今日は正式な引き渡しだ。もう少し普通にできないのか」
「何もしてないよ」
「その目だ」
「見てるだけでしょ」
「…………」
確かに、まだ見ているだけだった。
今のところは。
なのはが困ったように笑う。
「フェイトちゃん」
「なのは」
「なに?」
「もう少し離れて」
「小尾君から?」
「うん」
「まだ手錠されてるよ?」
「関係ないよ」
フェイトは即答した。
「今まで何回、『この状態なら何もできない』ってところから何かしたの?」
なのはが言葉に詰まる。
認識阻害。
暗示。
収容後に作った即席の魔術礼装。
紙と糸しかなければ紙と糸で何かを作り、金属片があれば利用し、水と塩でも実験を始めた。結果として壁が腐食し、設備に雷が落ち、施設内に酸性の雨まで降ったことがある。
小尾としては大半が予定外の事故だったのだが、管理局側がそう評価してくれないことは知っていた。
「クロノ」
「何だ」
「聞いてたより嫌われてる」
「十分説明した」
「実物は違うね」
「喋らないで」
すぐにフェイトから飛んできた。
「はい」
小尾はまた黙った。
◇
正式な手続きは、収容施設内の応接区画で行われた。
長机の上にクロノが書類を並べ、なのはが監督者としてその正面へ座る。小尾は手錠をされたままなのはの向かいへ座った。
フェイトだけは座らなかった。
なのはの斜め後ろに立ち、小尾をずっと見ている。
最初は気にしないつもりだった。
しかし、視線というものは意外と分かる。
小尾が一度だけ振り返ると、きっちり目が合った。
「…………」
「何?」
「いや、何でもない」
「だったら見ないで」
「はい」
小尾は正面へ戻った。
その一連の様子を見ていたクロノが、眉間を指で揉む。
「フェイト。もう少し普通にできないか」
「無理」
「即答するな」
「危険人物を危険人物として見てるだけだよ」
「言い方というものがあるだろう」
「本人も自覚してるでしょ」
小尾は少し考えた。
「まあ、危険人物かどうかなら――」
「あなたに聞いてない」
「はい」
余計なことを言わない方がよさそうだった。
クロノもこれ以上は諦めたらしく、書類を一枚めくった。
「なのは。最終確認だ」
「はい」
「本日をもって、小尾一の施設収容を終了する。その後は君を主監督者とする特別保護観察へ移行する」
「はい」
「小尾の単独行動は原則禁止。外出時には君、もしくは管理局が指定した監督者が同行すること」
「分かっています」
「住居内でも、可能な限り所在を把握しておいてくれ。夜間も同様だ。生活上どうしても難しい場合を除き、異常があればすぐ確認できる距離を維持する」
「はい」
条件が読み上げられるたび、小尾の表情が少しずつ渋くなる。
収容施設から出られる。
確かに出られる。
ただし、壁がなくなる代わりに、人間型の監視装置が付いてくる。
しかも、その人間型監視装置は自分より強い。
「無許可の魔術実験を確認した場合は、即座に中止させて構わない。正体不明の術式媒体を作成している場合も同様だ。完成前であっても没収していい」
「はい」
「逃亡、攻撃、監督命令への重大な違反。それ以外でも、君が危険と判断した場合には現場判断で制圧を許可する」
なのはが書類から顔を上げた。
「だって、小尾君」
「僕に言われても」
「変なことしなければ大丈夫だよ?」
にこりと笑う。
昔から変わらない、柔らかい笑顔だった。
だからこそ怖い。
「……その顔で言われる方が嫌なんだけど」
「どうして?」
「高町さん、自分で分かってない?」
「何が?」
「いや。いいです」
小尾はそこで諦めた。
実際、監督者としての高町なのはは非常に相性が悪い。
怒りに任せて攻撃してくる相手なら、まだ行動を読める。逃げ道を作り、注意を逸らし、必要なら術式を組んで対抗すればいい。
なのはは違う。
逃げようとすれば逃げ道を閉じる。
術式を使おうとすれば、その接続を閉じる。
身体を動かそうとすれば、動くという機能そのものを閉じられる可能性さえある。
しかも、本人の基本方針は殺すことではなく止めることだ。
小尾が抵抗する手段を一つ増やすたび、それを一つずつ閉じていけばいい。
性格と権能の両方が、監督者として嫌になるほど噛み合っている。
「なのは」
フェイトが呼んだ。
「なに?」
「その人の『やりません』は信用しないで」
「そこまで?」
「認識阻害、暗示、壁の腐食、雷、酸性雨」
フェイトは指を折りながら数えていく。
「それに、職員を怪我させて、精神的な治療まで必要にした」
「事故も混ざってるんだけど」
「黙って」
「はい」
「これだけやってる人の『もうしません』を信用する理由ある?」
なのはは少し考えた。
「……これから頑張ってもらう?」
「なのは」
「冗談だよ」
なのはは笑った。
フェイトは笑わなかった。
◇
「最後に、こちらへ署名を」
クロノが引き渡し確認書をなのはへ差し出した。
監督責任。
定期報告。
小尾の健康状態。
外出記録。
魔術使用の有無。
異常発生時の報告。
緊急時の制圧権限。
なのはは一項目ずつ確認した後、ペンを取った。
高町なのは。
署名を終えると、クロノも管理局側の担当者として名前を記入する。
「これで正式に引き渡し完了だ」
その言葉を待っていた収容施設の職員が、小尾の後ろへ回った。
まず腰の拘束具が外される。
続いて両手。
乾いた金属音が室内に響き、何年も小尾を繋いできた最後の拘束が手首から離れた。
小尾は軽く手首を擦った。
「自由――」
「違うよ、小尾君」
なのはがすぐに訂正した。
「今日から私が監督するんだからね?」
「分かってるよ」
「約束は?」
「単独行動しない。勝手に魔術実験しない。危ないものを作らない」
「私が止めてって言ったら?」
「止まる」
「よろしい」
なのはが満足そうに頷いた。
「子供扱いしてない?」
「何年経っても勝手に実験する人が悪いんじゃないかな?」
「…………」
これは反論できない。
小尾が黙ったところで、フェイトが一歩前へ出た。
「それと」
「まだあるの?」
「あるよ」
フェイトは小尾の正面に立った。
「なのはを研究対象として扱わないで」
思っていたより真っ直ぐな言葉だった。
「別に、今さら実験するつもりは――」
「勝手に触るのも駄目。髪や血を採るのも駄目。寝てる間に観察するのも駄目」
「最後のは、事前に許可があれば――」
「そういうところ」
「何が?」
「研究って言えば許されると思ってるところ」
「思ってないよ」
小尾としても、それは少し心外だった。
少なくとも今は管理局の監督下にあり、本人の同意なしに何かをすれば即座に問題になる程度の常識は身につけている。
たぶん。
「じゃあ、なのはが寝てても近づかない?」
「観察が必要なら、事前に許可を――」
「ほら」
「だから許可を取るって言ってるでしょ!」
フェイトがなのはを見る。
「なのは。絶対許可しないで」
「えぇ……」
「特に髪とか血とか爪」
「爪はちょっと欲しい」
口にした直後、小尾は失敗したことに気づいた。
部屋が静かになる。
「小尾君?」
なのはの声がした。
見ると、笑っていた。
先ほどまでと同じように見えるのに、なぜか少し圧がある。
「…………冗談」
「今、間があったよね?」
「気のせいです」
「爪、何に使うの?」
「何にも使いません」
「本当に?」
「はい」
即答した。
フェイトはまだ疑わしそうだったが、それ以上の追及はしなかった。
小尾は小さく息を吐く。
「何で僕、引き渡し初日に変態扱いされてるの?」
「日頃の行い」
「研究者としての行いであって、変態としての行いじゃないんだけど」
「その区別が信用できないの」
「ひどいなあ」
否定したい。
だが、本人の同意なしで人体に礼装を埋め込んだ過去を持つ人間が言っても、あまり説得力がないことくらいは分かっていた。
フェイトが警戒している本当の理由も理解している。
高町なのはは、小尾にとって長年の研究対象だった。
しかも、最重要の。
そこだけは、何年経ってもフェイトが忘れることはないのだろう。
◇
「じゃあ、行こっか」
なのはが席を立った。
「管理局が用意してくれた家、ここからそんなに遠くないよ」
「今日から?」
「今日からだよ」
「心の準備ができてないんだけど」
「何日も前にクロノ君から聞いてたでしょ?」
「施設を出る心の準備はできてたよ。高町さんと同居する心の準備ができてない」
「どうして?」
「僕の自由がほとんどないから」
「変なことしなければ普通に暮らせるよ?」
「その『変なこと』の範囲が広いんだって」
「小尾君基準で決めたら駄目だよ」
「厳しいなあ」
小尾は荷物を持ち、なのはの隣へ並ぼうとした。
その瞬間、フェイトが自然な動きで二人の間に入った。
なのは。
フェイト。
小尾。
見事な並びだった。
小尾は数歩歩いたところで気づき、横を見る。
「フェイトさん」
「何?」
「何で間に入ったの?」
「嫌だから」
「何が?」
「あなたがなのはの隣を歩くのが」
あまりにも即答だった。
「僕、今日から高町さんと一緒に住むんだけど」
「知ってる」
「今ここで離しても意味なくない?」
「あるよ」
「どういう意味?」
「私の気分」
「…………」
これは理屈ではないらしい。
小尾は助けを求めるようにクロノを見る。
「クロノ」
「何だ」
「何とかして」
「無理だ」
「即答?」
「なのはへの引き渡しは完了した。ここから先は基本的に彼女の監督下だ」
「フェイトさんの件は?」
「僕の管轄外だ」
「逃げたな」
「長い付き合いで学習したんだ」
「何を?」
「面倒なことには不用意に首を突っ込まない」
「執務官としてそれでいいの?」
「君にだけは言われたくない」
それだけ言うと、クロノは本当に取り合わなくなった。
なのはが小さく笑う。
「じゃあ、本当に行こっか」
「うん」
フェイトが答える。
小尾も仕方なく、その後ろについて歩き出した。
◇
施設の外へ出た瞬間、小尾は足を止めた。
頭上にあるのは天井ではない。
視界の先を遮る隔壁もなく、遠くまで建物が続いている。人が歩き、車両が行き交い、収容区画では聞こえなかった雑多な音が一度に耳へ入ってきた。
何年間も、小尾の世界は施設の内部だけだった。
情報としてなら外の変化を知っている。
本も読んだ。
許可された記録も見た。
クロノから話を聞くこともあった。
それでも、自分の目で見るのとは違う。
「……変わったな」
「ミッド?」
なのはが聞いた。
「うん」
時間が止まっていたのは、自分の周囲だけだった。
当たり前のことなのに、施設から出て初めて実感した。
「ゆっくり見ればいいよ」
なのはが言う。
「これからは外に出られるんだから」
「高町さん付きでね」
「そうだよ」
「ずっと?」
「基本的にはずっと」
「…………」
「そんなに嫌そうな顔しなくても」
「高町さんが嫌なんじゃないよ。高町さんに監視されるのが嫌なんだよ」
「同じじゃない?」
「全然違う」
監視者として嫌なのであって、人間として嫌いなわけではない。
むしろ研究対象としてなら――。
そこまで考えて、小尾は自分で思考を止めた。
今その続きを口にすれば、後ろから何か飛んでくる気がする。
そう思ったところで、本当に背中へ視線を感じた。
振り返る。
フェイトが見ている。
前を向く。
しばらく歩く。
また視線を感じる。
もう一度振り返ると、やはり目が合った。
三度目は確認しなかった。
「高町さん」
「なに?」
「フェイトさん、ずっと僕を見てない?」
「見てるね」
「いつまで?」
「今日はずっとじゃないかな」
なのはがそう答えた直後、後ろから声が飛んできた。
「これからも見るよ」
小尾が振り返った。
「これからも?」
「仕事が終わったら、できるだけなのはのところに行くから」
「毎日?」
「できる限り」
「何で?」
「なのはが心配だから」
「僕は?」
「どうでもいい」
「知ってた」
そこまで迷いなく言われると、いっそ清々しい。
「なのはに何かしたら、その時はどうでもよくないけど」
「それ、どういう意味?」
「そのままだよ」
小尾はなのはを見る。
「高町さん」
「ん?」
「僕の制圧担当、高町さんだよね?」
「そうだよ」
「フェイトさんに個人的に制圧される可能性について、契約書に書いてなかったんだけど」
「フェイトちゃん」
なのはが少し困った顔をした。
「勝手に攻撃しちゃ駄目だからね?」
「分かってるよ」
フェイトは素直に頷いた。
「先になのはに任せる」
「先に?」
小尾が聞き返す。
フェイトは答えなかった。
「高町さん」
「聞かなかったことにしよっか」
「怖いんだけど」
「変なことしなければ大丈夫だよ」
またそれだった。
小尾は大きく息を吐いた。
何年間も暮らした収容施設には、分厚い壁があった。
警備員がいた。
監視カメラがあり、定期検査があり、危険物を持ち込めないよう徹底した管理体制が組まれていた。
今日から、それらはなくなる。
代わりに高町なのはがいる。
ほぼ二十四時間、自分の行動を確認できる距離にいる。
さらにその外側を、フェイトが自主的に見張るらしい。
「……収容所の方が気楽だったかもしれない」
「今さら遅いよ」
なのはが笑った。
その横で、フェイトだけは最後まで小尾から目を離さなかった。
こうして小尾一は、何年ぶりかに収容施設の外へ出た。
もちろん、自由になったわけではない。
壁と警備員の代わりに高町なのはが付き、そのなのはを守るという理由で、なぜかフェイトまで周囲をうろつくようになっただけである。
少なくとも、小尾が想像していた社会復帰とはかなり違っていた。