「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
管理局が用意した家は、小尾が想像していたよりも普通だった。
収容施設を出ると決まった時点で、もっと管理局らしい場所を用意されるものだと思っていた。壁の中に監視用の術式が仕込まれ、窓は開かず、扉も外からしか操作できない。そんな、住宅という名前を付けただけの収容室を半ば覚悟していたのだ。
ところが、案内された家には普通に玄関があり、普通に台所があり、風呂もあれば居間もあった。窓の向こうには隣の建物まで見える。管理局が用意した住居である以上、何の監視もされていないとは思わないが、少なくとも見た目だけなら、長年暮らしてきた施設とは比べものにならない。
「へえ。本当に家なんだ」
玄関から中を覗き込んだ小尾がそう言うと、後ろにいたなのはが少しだけ笑った。
「そうだよ。今日からここで生活するんだから」
「もう少し檻っぽいものを想像してた」
「檻に入れておいた結果があれだったんでしょ」
返してきたのはフェイトだった。
声に冗談らしいものは混じっていない。小尾が振り返ると、金色の髪の少女は施設を出た時から変わらない目でこちらを見ていた。
「壁を腐らせて、雷を落として、雨までおかしくして。まだ檻がよかったなら戻れば?」
「フェイトちゃん」
「分かってるよ、なのは。戻せないからここにいるんでしょ」
なのはに呼ばれても、フェイトは小尾から視線を外さなかった。
特別保護観察。
言葉だけなら収容よりは軽く聞こえる。だが実際には、小尾の単独行動は原則として認められず、外へ出る時はなのはが同行し、住居の中でも所在を把握される。無断の魔術実験は当然禁止。怪しいものを作れば媒体ごと没収され、危険と判断されれば監督者であるなのはがその場で止める。
そして、その制度とは別にフェイトがいる。
「先に言っておくけど」
靴を脱ぎながら、フェイトが言った。
「ここに来たからって、私はあなたを信用したわけじゃないから」
「知ってるよ」
「なのはを研究対象みたいに見ないで。勝手に触るのも駄目。髪も、血も、爪も、何も取らないで」
「取らないって」
「寝てる時に近づくのも駄目」
「分かったよ」
「本当に?」
「……フェイトが思ってるより、僕は人の話を聞く方だよ」
「だったら最初から、なのはにあんなことしてない」
その一言だけは返しようがなかった。
小尾は黙って荷物を持ち直した。
収容施設から持ち出せたものは少ない。服と日用品、検査を通った本が何冊か。研究資料も、暇に任せて書き溜めた術式も、作りかけの礼装も全部置いてきた。正確には置いてきたのではなく、管理局に押収されたままなのだが、この状況で返してくれと言っても通らないことくらいは分かる。
なのははその少ない荷物を置く場所を説明しながら、家の中を案内していった。
居間、台所、洗面所、浴室。それから寝室。
寝室へ入ったところで、小尾は足を止めた。
シングルベッドが二つ、横に並んでいた。
「二つだね」
「二つだね……」
なのはも同じところを見ていた。
小尾となのはが生活することを前提に用意されたのだろう。正式な監督者はなのは一人で、フェイトが初日から泊まり込むことまで住居を手配した側は想定していなかったらしい。
小尾が横を見る。
フェイトもベッドを見ていた。
「フェイト、帰る?」
「帰らない」
聞き終わるより早かった。
「だよね」
その問題は後で考えることにした。
◇
夕食を済ませ、最初に風呂へ入ったのはなのはだった。
「じゃあ、先に入ってくるね」
「うん」
小尾は居間のソファに腰を下ろし、持ってきた本を開いた。
収容施設でも読書だけは比較的自由だった。新しく入った本は内容を確認されるし、紙質や製本まで警戒された時期もあったが、最終的には本まで取り上げると本人が暇を持て余して別のことを始める、という判断になったらしい。
ここでも本が読めるなら、当面は困らない。
そう思って一頁めくったところで、妙に落ち着かなかった。
文字へ目を落としているのに、意識の端へ別のものが引っ掛かる。
視線だった。
向かいに座ったフェイトが、こちらを見ている。
施設の監視員とは違う。仕事だから見ているのではなく、本人の意思で疑っている目だった。
小尾はもう一頁めくった。
まだ見ている。
「……何?」
「何も」
「さっきからずっと見てるけど」
「見張ってるから」
「それは知ってるよ。施設を出てからずっとだし」
フェイトは答えなかった。
浴室の方から、わずかに水音が聞こえてくる。
そこまで意識して、小尾はようやくフェイトの警戒がさっきより強くなっている理由に気づいた。
「まさかと思うけど」
「なのはのお風呂を覗かないで」
「覗かないよ」
即答した。
それでもフェイトの表情は変わらない。
「信用できない」
「そこまで?」
「なのはの身体に勝手に変なものを入れて、ずっと観察してた人をどうやって信用するの?」
「セフィラは変なものじゃ――」
「そういう話をしてない」
「はい」
本へ目を戻す。
これ以上は何を言っても悪化するだけだ。
しばらくは大人しく読んでいたが、喉が渇いた。台所はほんの数歩先にある。立ち上がろうと腰を浮かせた瞬間、フェイトの声が飛んできた。
「どこ行くの?」
「水」
「そこにいて」
「台所だよ?」
「私が取る」
フェイトは本当に立ち上がり、コップへ水を入れて持ってきた。
「どうぞ」
「……ありがとう」
受け取る。
フェイトは座り直した。
そして、また見る。
小尾は水を飲みながら考えた。
収容施設では、監視員に頼めば水くらいは持ってきてもらえた。今もやっていることだけを見れば大差はないのだが、なぜかこちらの方が圧迫感がある。
たぶん、目だ。
施設の職員は勤務時間が終われば交代した。
フェイトは自分からここにいる。
「……僕が浴室の方を見ただけでも怒る?」
「試してみる?」
「やめとく」
そこは素直に諦めた。
なのはが風呂から上がって居間へ戻ってくるまで、小尾は一度もソファから立たなかった。
◇
次に風呂へ入ることになったフェイトは、脱衣所へ向かう直前まで小尾を見ていた。
「なのは」
「うん?」
「気をつけてね」
「大丈夫だよ」
「何かしようとしたら、すぐ呼んで」
「うん」
それでも心配なのか、フェイトは脱衣所の扉を開ける前にもう一度振り返った。
小尾と目が合う。
「……何もしないよ」
「そうして」
扉が閉じた。
ようやく居間から刺さるような視線が消え、小尾はソファの背へ身体を預けた。
「疲れた?」
なのはが聞いてくる。
同じ監視でも、こちらはフェイトとは少し違った。なのはも小尾を視界から外さないようにはしているが、一挙手一投足に反応するわけではない。危険なことをしないか見ているというより、決められた条件の中で生活できているかを確かめているように見える。
「別に。あれ、毎日やるのかなって思って」
「フェイトちゃん?」
「うん」
なのはは少し考えた。
「しばらくは、たぶん」
「しばらくで済む?」
「小尾君次第じゃないかな」
「僕?」
「ちゃんと約束を守って、変なことをしないって分かってもらえたら、フェイトちゃんも少しは安心すると思うよ」
「それ、何年かかるんだろうね」
「にゃはは……」
なのはの笑い方が乾いていた。
少なくとも、すぐではないらしい。
小尾自身、フェイトの態度が理不尽だとは思っていなかった。嫌われる理由なら十分すぎるほどある。なのはやはやてにしたことを今さら説明し直したところで、フェイトが納得するとも思えない。
ただ、理解できることと、居心地がいいことは別だった。
収容施設から出て最初の夜くらい、もう少し開放感があるものだと思っていた。
◇
フェイトが風呂から上がると、最後に小尾の番になった。
着替えを持って立ち上がり、脱衣所へ向かう。
後ろから足音がした。
一人ではない。
小尾は脱衣所へ入ったところで振り返った。
なのはがいる。
その横にフェイトもいる。
「……何で二人とも来るの?」
「確認するから」
フェイトが当然のように答えた。
「何を?」
「隠し持ってるものがないか」
「服も荷物も、施設を出る前に調べられてるよ」
「身体に隠してるかもしれない」
「どこに?」
「それを確認するの」
話が一周した。
小尾がなのはを見ると、なのはは少し言いにくそうにしながらも、否定はしなかった。
「ごめんね、小尾君。最初だけ、ちゃんと確認させて」
「なのはも賛成なんだ」
「収容中、身の回りにあるものから何度も礼装を作ったって聞いてるから。何も持ってないって分かれば、こっちも安心できるし」
「身体のどこかに礼装を隠してると?」
「小尾君なら、やりそうっていうか……」
「なのはまでフェイトみたいになってきたね」
「私はそこまでじゃないよ!」
「なのはは優しすぎるだけ」
フェイトが横から言った。
どちらにしても、拒否して風呂に入れる空気ではなかった。
小尾は諦めて着替えを置き、上着へ手を掛けた。何も隠していない以上、見せて終わるならその方が早い。
シャツを脱いだところで、二人の気配が変わった。
さっきまで隠し物を探していた視線が、一か所へ止まっている。
「……小尾君」
なのはの声が少しだけ低くなった。
「なに?」
「それ……何?」
小尾は自分の胸元へ目を落とした。
何のことを言われているのか、すぐには分からなかった。
皮膚の下には、細い線が走っている。
胸から腹へ伸びるもの。肩を回り、腕の内側へ続くもの。背中では複数の線が交差し、腰から下では脚の筋肉に沿って枝分かれしている。円や三角形、直線を組み合わせた幾何学的な構造もあり、それぞれが独立しているように見えて、身体全体では一つの大きな術式として繋がっていた。
傷ではない。
少なくとも、皮膚の表面を切った痕には見えなかった。表面そのものは滑らかなままなのに、その一段下へ細い溝を刻み込んだような線が規則正しく残っている。
長いあいだ見慣れすぎていて、小尾にとっては身体の一部でしかなかった。
「ああ、これ?」
さらに服を脱いでいく。
腕だけではない。
腹部にも、背中にも、腰にも、脚にも同じものが続いていた。最後の衣服を外した時には、二人にもそれが一部分だけの処置ではないことが分かったはずだ。
全身へ刻まれている。
なのはが少し近づき、しかし触れる直前で手を止めた。
「傷……じゃないよね?」
「術式だよ」
「術式?」
「うん。僕が自分の身体に刻んだ」
なのはの手が止まったままになる。
フェイトもすぐには言葉を返さなかった。
「自分で?」
「そう」
「全部?」
「全部」
何をそんなに驚いているのか分からず、小尾は二人を見比べた。
ミッドチルダ式でもベルカ式でもない。
それは当然だった。これは魔導師が使う魔法ではなく、小尾が自分自身へ施した魔術だ。
「疑似聖人化って呼んでる」
聞かれる前に、小尾は簡単に説明した。
「聖人は、神の子と身体的な特徴を共有することで、人間のまま普通じゃない力と親和性を持つ。だから、その特徴を後天的に再現できないか試したんだ。成長に合わせて骨格や筋肉、血流、神経、それから魔力の通り道まで調整して、必要な形を身体そのものに刻み込んでる」
「……刻み込んでるって」
なのはの視線が、胸元から腕へ移る。
「これを、ずっと自分でやってきたの?」
「成長すると身体の形が変わるからね。昔のままじゃ合わなくなるところは直してるよ」
「痛く……なかったの?」
そこで初めて、小尾はなのはの質問の意味が分からなくなった。
「痛いよ」
当然のこととして答えた。
「身体をいじるんだから、痛くないわけないじゃん」
「じゃあ、どうして……」
「必要だったから」
小尾にとっては、それで説明が終わっていた。
必要な結果を得るために必要な処置をした。痛みがあるなら耐える。構造が合わなくなれば修正する。失敗する可能性があるなら、できるだけ失敗しない形へ近づける。
研究とはそういうものだった。
けれど、なのはは納得した顔をしなかった。
眉がわずかに下がり、唇が結ばれる。さっきまで術式を追っていた目が、いつの間にか小尾の顔を見ていた。
「……そこまでしなくてもよかったんじゃないの?」
「でも、しなかったら今の結果は出てないよ」
「そうじゃなくて」
なのははそこで言葉を切った。
何を言いたいのか、小尾には最後まで分からなかった。
「……理解できない」
今度はフェイトだった。
声に怒鳴るような強さはない。
むしろ、本当に分からないという顔をしていた。
「何が?」
「自分の身体に、自分でこんなことをすること」
「必要だからだよ」
「それは聞いた」
フェイトの眉間に皺が寄る。
「痛いって分かってて、自分で身体を作り変えて、それを普通みたいに話してる。どうして平気なの?」
「平気じゃない時もあったよ」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
フェイトは答えようとして、やめた。
代わりに、もう一度小尾の身体を見た。
嫌悪している時の目とは違う。なのはを傷つけるかもしれない相手を見る警戒とも違った。理解しようとしても、自分の中に比較できる考え方が見つからない。そんな戸惑いが、そのまま表情に出ていた。
「……やっぱり、分からない」
「僕も、フェイトが何を分からないのか分からないよ」
二人の間に短い沈黙が落ちた。
なのはがその沈黙を切る。
「フェイトちゃん。確認、続けよう」
「……うん」
フェイトは一度息を吐き、さっきまでの戸惑いを押し込めるように表情を戻した。
「口、開けて」
「口?」
「口の中」
「そこにも何か隠してると思ってるの?」
「確認するまで分からない」
身体を見て動揺しても、警戒そのものは消えないらしい。
小尾は少し呆れながら口を開けた。
二人は口内に何か仕込まれていないか確かめる。頬の内側、舌の下、歯の裏まで見て、ようやくフェイトが一歩下がった。
「……何もない」
「最初からそう言ってるんだけど」
「あなたの『何もない』を信用してないから確認してるの」
「徹底してるね」
「小尾君、ごめんね。もう大丈夫だから」
なのはがそう言い、フェイトと一緒に脱衣所を出ていく。
扉が閉まった。
ようやく一人になった小尾は、しばらくその扉を見ていた。
収容施設でも入浴前に持ち物を調べられることはあった。危険物を持ち込まないようにするのだから、それ自体は理解できる。
ただし。
「……風呂くらい、一人で入れてたんだけどな」
施設を出た初日に言う台詞ではない気がした。
◇
風呂から上がったあと、寝室の問題へ戻った。
ベッドは二つ。
三人で使うには、一つ足りない。
「私が床で寝るよ」
なのはが言い出した瞬間、フェイトが首を振った。
「なのははベッド使って」
「でもフェイトちゃん、今日はお客さんだし」
「私は大丈夫」
「じゃあフェイトが床?」
小尾が口を挟む。
フェイトがこちらを見る。
「あなたが床」
「やっぱり?」
「嫌なら私が帰ってもいいけど、その代わり明日の朝までなのはと二人きりになるよ」
「それを嫌がってるのはフェイトでしょ」
「だから帰らない」
どう転んでも結論は同じだった。
なのははまだ申し訳なさそうにしていたが、小尾自身は床で寝ることに大した抵抗はなかった。長い収容生活で寝床に贅沢を求める習慣などないし、一晩くらいならどうにでもなる。
「僕が床でいいよ。なのはが床に寝たら、そっちの方が面倒そうだし」
「面倒って?」
「フェイトが怖い」
「……何もしなければ何もしないよ」
「その言い方がもう怖いんだよ」
結局、二つのベッドをなのはとフェイトが使い、小尾はその近くの床へ簡易の寝具を敷くことになった。
明かりを消す。
横になると、久しぶりに監視装置の表示灯が見えない天井があった。
扉の外から巡回する職員の足音も聞こえない。一定時間ごとに開く確認窓もなければ、壁の向こうに警備員がいる気配もない。
静かだった。
これなら眠れる。
そう思って目を閉じた。
しばらくして、妙な感覚があった。
見られている。
小尾は目を開けた。
薄暗い寝室の中で、片方のベッドへ顔を向ける。
フェイトがこちらを見ていた。
横になっている。
布団にも入っている。
なのに目だけは、はっきりと小尾へ向いていた。
「……フェイト」
「なに?」
「寝ないの?」
「寝るよ」
「じゃあ、何でずっとこっち見てるの?」
「見張ってるから」
「寝るんじゃなかったの?」
「あなたが寝たら寝る」
小尾は数秒、フェイトと見つめ合った。
先に目を逸らした。
もう一度、天井を見る。
気にしなければいい。
そう思って目を閉じる。
十秒ほど数えて、試しにもう一度開けた。
まだ見ていた。
「……怖いんだけど」
「変なことをしなければ大丈夫」
昼間、なのはから聞いたものと似た言葉なのに、安心感がまるで違った。
もう一つのベッドから、なのはの困った声がする。
「フェイトちゃん、小尾君も今日は疲れてると思うよ」
「分かってる」
「なら、フェイトちゃんも寝よう?」
「寝るよ。小尾が寝たら」
譲る気はないらしい。
小尾はフェイトに背を向けるように寝返りを打ち、布団を肩まで引き上げた。
手錠はない。
腰の拘束具もない。
壁の向こうに警備員もいない。
好きな時に水を飲めるし、窓の外だって見られる。少なくとも、昨日までより自由になったことだけは間違いない。
それなのに、背中へ突き刺さる視線が気になって仕方がなかった。
収容施設の監視員なら、仕事としてこちらを見ていた。
フェイトは違う。
本人が寝る時間を削ってまで見ている。
「……収容所の方が、まだ気楽だったかも」
「何か言った?」
背後からすぐに声が返ってきた。
「何も」
小尾は即答して目を閉じた。
少なくとも収容所では、寝床のすぐ横からこんな目で見張られることはなかった。