「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
同時刻――ディアーチェもまた自身の『オリジナル』と相対していた。
互いの距離は決して遠くなかった。目の前の少女は、はやてがかつて持っていたものを写し取ったような顔をしている。紫を帯びた瞳。夜天の書に残された資質を素地として組み上げられた身体。だが、背中から生えた三対の黒翼と、手に握る杖は、はやてのものではなかった。
そしてディアーチェも、すぐにその違いを知ることになった。
「ちっ、シュテルとレヴィが敗れたか。すぐに救出してやると言いたいところだが……」
通信の不通から部下の戦線離脱を悟ったらしい。ディアーチェは苛立たしげに上空を睨みつけた。
「この小ガラスが鬱陶しい!」
黒い翼が一斉に広がり、ベルカ式の魔法陣から暗色の魔弾が放たれた。
ディアーチェが魔法を放つ前に見せた動きは、ほんの一瞬の指先の震えだけだった。書から引き出した力を、自分の身体の一部のように扱っている。はやてはそれを認めざるを得なかった。人間の魔導師として訓練した経験のない自分と違い、相手はその体系で戦うために組み上げられた存在なのだ。
最初の魔弾が迫る。軌道は正確だった。正面から向かってくるのではなく、二つは左右へ分かれ、一つは上から落ちる。ほかの弾はその間の隙間を埋め、逃げる方向を制限している。
はやては白翼を広げ、弾幕の中央へ細い隙間を作った。わざと自分の位置を知らせるための隙間だった。
『主、その位置では包囲されます』
(ええねん。うちを狙ってくれたら、ほかには飛ばん)
リインフォースが黙った。
はやては、その沈黙の意味を知っていた。正しい作戦だと認めてくれているのではない。もっと安全な方法があるかどうか、探してくれているのだ。
『主。三時方向に民間船舶。敵の次弾がそちらへ逸れた場合、こちらで受けます』
(頼むわ)
大きな力を持つというのは、何もしなくても安全だという意味ではない。まして、力を受け止める者がほかにいる戦場では。はやてはもう一度だけ周囲を見渡し、羽根の先端を細く尖らせた。
あの王様には王様の願いがある。けれど今は、聞くために倒れられては困る。はやては目を逸らさず、次の弾を迎えた。
はやては反撃しなかった。
正確には、できなかったわけではない。どこへ、どれだけの力を放てばいいのか、その選択にこそ時間が必要だった。
彼女の周囲には、白い翼が幾重にも連なっていた。霊装〈神威霊装・一番〉エヘイエーをまとったはやての背から、〈絶滅天使〉メタトロンが放つ光の翼。薄い羽根のように見えて、その一枚一枚は観測器であり、防壁であり、収束砲でもある。
光の板が六枚、はやての前へ滑った。
白い衣装をまとってから、はやては鏡の中の自分を見ても、どこか借り物のような気持ちになった。霊装の意匠は花嫁衣装を思わせるほど清冽で、足元から裾へ至るまで汚れ一つない。そんな姿の自分が、いつも使っていた関西弁で喋り、家族の夕食の献立を考えている。その落差に、初めのころは自分で笑ってしまったものだった。
今は笑えない。
翼は祈りの象徴などではなかった。機能だ。望めば空を焼き、対象を切り裂き、光を束ねて巨大な砲門にもなる。美しいと形容してしまうのがためらわれるほど、危険な機能だった。
六枚の板が重なり、敵弾を防ぐ。はやてはその一枚一枚に別の命令を与えていた。正面の二枚は偏向、下方の一枚は衝撃吸収、外側の二枚は周辺の船舶の監視。最後の一枚は、攻撃に転じる余地ができるまで待機。
戦闘とは敵を見ることだと、シグナムは教えてくれた。今は敵だけを見ていては守れない。大切なものを数えるほど、目を向けるべき方向が増える。
小学五年生が背負うには多すぎるものだった。それでも、八神家の家長でありたいという気持ちだけは、誰かに押しつけられたものではない。第一の魔弾を受けた翼が傾き、爆発の圧力を上へ逃がす。第二の弾は別の翼の縁に沿って分解され、第三の弾は直後に開かれた防壁の内側で消えた。
魔法を相殺しているのではない。テレズマで形を取った翼が、異なる原理で干渉し、攻撃そのものの進路と結果を制御していた。
「何だ、その翼は……!」
「うちの大事な力や。王様の使う魔法とは、少し違うけどな」
『主。左下に避難船、右舷の海上に救護班の輸送艇を確認しました』
リインフォースの声が、はやての内側でだけ響いた。
彼女は別の場所にいるのではない。夜天の書から切り離されることなく、最初からはやての中でともに在る。観測と演算、そして人間の言葉への補正。そのすべてを一身に引き受けながら、主の意思を支えていた。
(わかっとる。そっちへ落としたらあかん)
光の翼の先がほんの少し回る。それだけで次の魔弾は下方へ逸れず、二百メートルほど上方へ運ばれた。夜の空高くで、小さな火花となって消滅する。
海は広いようで、決して無人ではない。航路には作業船があり、オールストン・シーでは壊れた設備の修理と避難が続いている。ここでメタトロンの砲門を開ききれば、ディアーチェを倒すのに数秒も要らないかもしれない。しかし、同じ一撃がどれほどの範囲を焼くのか、はやてにも正確には測れなかった。
力そのものが足りないのなら、話は単純だった。強くなる方法を探せばいい。訓練し、経験を積み、手札を増やす。守護騎士たちが繰り返してきた努力は、その積み重ねだった。
はやての場合、逆だった。目の前には、何をしてもなお余るだけの力がある。どこか遠い位相から汲み上げられる光は、彼女の命令を待ち、忠実すぎるほど忠実に結果を返す。命令が乱暴であればあるほど、結果は迅速で取り返しがつかなかった。
はやては初めてメタトロンの出力を解放したときの感触を思い出す。翼の先にあるのは、実際の距離とは別の距離だった。何百メートル先も、視界の端も、意思を向けた瞬間には手の届く場所になる。相手を倒すことより、倒さずに止めることのほうがはるかに難しい。
『主、敵性反応が右上に偏っています。砲門を一つに限定すれば、周辺への漏出は減らせます』
(せやけど、右上には飛行船が……)
『確認しています。命中までの予測時間を延ばし、対象が航路を外れるのを待つ方法もあります』
(待ったら王様が次の魔法を撃ってくる)
『はい』
リインフォースは否定しなかった。はやての中だけに聞こえる声は、いつも静かだった。安心させるために都合のいい嘘をつくこともない。だからこそ、はやては彼女の助言を頼りにできた。
(なら、待つあいだは防ぐ。砲門を開くんは、それからや)
白い羽根が重なり、半球の光幕を織った。相手の攻撃を受け止めるだけなら、たしかに容易い。しかし真正面で受け止めれば、衝突の衝撃が海面へ落ちる。はやては羽根を傾け、逃がした熱が空へ抜けるよう、少しずつ角度を変えた。
はやての額に汗が滲む。敵の攻撃は軽い。難しいのは、敵の攻撃以外のすべてだった。
「逃げてばかりで、我に立ち向かう気概もないか!」
「うちが本気で撃ったら、王様だけでは済まへんのよ」
その返答は挑発のつもりではなかった。それでもディアーチェの顔が引き攣る。
「我を愚弄するな!」
黒い翼のあいだに六つの魔法陣が連なり、同じ数の砲撃が重なった。
はやては目を細めた。メタトロンの翼のうち四枚を離し、無数の細い光条へ変えていく。金色の線が海上に網を編み、砲撃の先端へ一点ずつ触れた。触れた部分から力がほどけ、海へ達する前に六つの弾道が崩れる。
最後の一条だけは逃れた。
はやての肩を掠めた暗い光が、背後の夜へ走る。光の翼が追いつき、上方へ弾く。ほんの一瞬遅ければ、海に浮かぶ作業艇を巻き込んでいた。
『危険です。さらに翼を増やせば、精密制御の負荷が……』
(わかっとる、リイン。でもここで大きいのを撃つ方が危ない)
はやては笑ってみせた。笑顔の形を保つだけで、霊装の下にある人間だった頃の感覚が薄れていく。疲れているのは肉体ではない。自分がどこまで力を許してよいのか、絶えず判定し続ける意思の方だった。
光の翼を幾つか遠方へ飛ばした。金色の羽根はそこに留まり、独立した観測端末となって海上と園内の動きを映し返す。リインフォースがそれらを統合し、刻々と変わる安全な射線をはやてへ伝えた。
直後、さらに大きな影が戦場へ割り込んだ。
獄炎のアメフィスタ。
飛行タイプの大型機動外殻は、ディアーチェの頭上から両翼を開き、海面近くまで届く弾幕を張った。熱を帯びた砲弾がいくつも雨のように落ちてくる。
「はあっ……またあんな大きいのが!」
地上の時空管理局員から通信が飛び込んだ。
『八神捜査官、アメフィスタの下は避難経路です! こちらの防壁はもう限界で――』
「わかった! 進路、変えさせる!」
はやては横へ回り込み、金色の光剣を数本だけ顕現させた。メタトロンの翼を刃へ変えたものだ。
巨大な機動外殻の翼へ切っ先を向ける。そのまま断てば早い。だが、装甲片が降り注ぐ場所には、海へ退避している作業艇がいる。
はやては斬らなかった。
光剣の一本を機体の外縁へ差し込み、もう一本をその向こうへ沿わせる。翼が小さく動くたびに剣を滑らせ、飛翔のための機構だけを少しずつ削る。相手が航路から外れていくよう、刃の入れ方を調整し続けた。
ディアーチェの魔弾がそこへ割り込む。
ディアーチェは白い翼を睨んだ。魔導の形を取っていない。詠唱の起点も、術者が計算を始める前兆もない。しかも、あの翼は戦っているようで、敵に向かっていない時間のほうが長かった。
「我を侮っているのか!」
はやては返事をためらった。侮っているわけではない。だが、相手にそう見えてしまう理由もわかった。魔弾を避けるたび、はやてはその裏にある船の位置を見ていた。大きな翼で身を守るたび、翼の先が地上に影を落とす場所を確かめていた。ディアーチェから見れば、視線を外して戦う不遜な敵に映るだろう。
「ちゃう。そうやないんよ」
「何が違う!」
「うちは、王様だけを見てたらあかんのや」
その言葉に、ディアーチェの表情が険しくなった。
はやての背後へ回り込もうとした黒翼が、光の羽根に行く手を塞がれる。剣の形へ変わった一枚がディアーチェの喉元に届く寸前まで進み、そこで止まった。殺すための距離ではなかった。動きを知らせるための距離だった。
ディアーチェは歯を食いしばり、黒い翼で光剣を弾き返した。弾かれた羽根は砕けず、光の粒子へほどけ、海面へ落ちる前に再びはやての背後へ集まった。
「貴様、我に情けをかけているつもりか!」
「情けやないよ。ちゃんと話を聞きたいだけや」
「そのために我が誇りを踏みにじるのか!」
はやては言葉を失った。倒さずに止めることは、相手からすれば一方的に勝利を与えない行為にもなる。ましてディアーチェは、目覚めて間もない王だ。臣下を失い、力を失い、その理由を理解できないまま、新しい存在の自分と対面している。
だからといって、手加減をやめるわけにはいかなかった。はやてにできるのは、相手の尊厳まで奪わずに、この場所で起きる被害を止める方法を探すことだけだった。
「よそ見をしている余裕があるか!」
はやての横腹へ暗い光が迫った。
六枚の翼が反応する。しかしそのうち二枚はアメフィスタの弾幕を押さえている。別の二枚は避難艇を観測していた。残る防壁を間に差し込んだ時には、爆発の中心がすでにはやての至近にあった。
白い光が砕けた。
「……っ!」
身体の輪郭が一瞬ぶれ、霊装の肩口から細い火花が散る。人間の血ではない。テレズマが削がれ、形を取り直す際の輝きだった。
『主、出力をお上げください。このままでは――』
(あかん。誰かを守るために、誰かを消してしもたら……)
小尾一によって施された術式。その果てに自分が何へ変わったのかを、はやてはまだ完全には理解していなかった。けれど、何のためにこの力を抑えるかだけは分かる。
別々に生きている、家族も友達も知らない人も、無事に朝を迎えられるようにするためだ。
はやては翼を広げ直した。
その中心に、ひときわ太い光条が生まれる。収束砲としてのメタトロン。
はやては最初、全翼を一度に動かそうとした。
その瞬間、眼下の海が白く見えた。水面が光っているのではない。翼の先に集まった力が、現実の夜景を塗り潰しかけていたのだ。
『主、出力が上がりすぎています』
「っ……!」
はやては息を呑み、すぐに命令を変更した。広がろうとしていた翼を束ね、光の一部を観測へ回す。残した力の行き先を、敵の位置ではなく、その周りの何もない空間へ合わせる。
制御を失ったわけではなかった。だが、意識を向けただけで、力が大きくなりすぎる。以前なら、もっと威力が欲しいと願った場面で、今は威力を削ることに必死になっている。
リインフォースが静かに言った。
『主。翼を小さくする必要はありません』
(……え?)
『働きを変えればよいのです。破壊ではなく、守るために』
はやては目を見開いた。
翼が一枚、遠くへ滑った。次の一枚は少し低く、さらに一枚は敵の背後へ回り込む。空を埋め尽くしかけた光が、一本の砲撃へ集まるのではなく、広大な防護の輪へ変わっていく。
それは、敵を倒すための力を諦めることではなかった。敵と戦っているあいだも、守ることをやめないという選択だった。
「……せやな」
はやては少しだけ笑った。
「全部、撃たんでもええんや」
遠方の船が防護の輪の下を通り抜ける。白い羽根はそのあいだだけ進路を変え、誰の目にも危険と映らない距離を保った。ディアーチェは新しい攻撃を警戒して身を捩ったが、はやては彼女に照準を合わせなかった。
狙いはアメフィスタの胴体でもない。観測翼から戻った微かな反応――両翼の付け根に隠された、二つの制御コアだった。
『主。左右の推力が均衡を保っています。片方だけ止めれば、機体はオールストン・シーの方へ傾きます』
(せやな。ほな、両方一緒や)
収束した光を二つに分けた。普通の砲撃なら、分離した瞬間に精度も威力も落ちる。だが、メタトロンは翼の一枚一枚が独立した砲門だった。二本の光は少しも乱れず、互いに逆方向から機体へ突き進む。
火柱のような光が、左右の翼の根を同時に貫いた。
アメフィスタの推力が消えた。
『制御コア停止。機体、惰性飛行へ移行』
「よし……あとは落ちる場所や」
はやては観測翼を海上へ展開し直した。いくつもの光の板が巨大な機体の下へ入り、推進力を失った重量を支える。普通の魔力で生じた防壁なら耐えきれないほどの質量。だが、翼が受けているのは力ではなく、落下の方向だった。
何枚かが軋み、端から千切れた。はやては手を握り、砕けた端末の代わりに新しい翼を生み出した。
海面が近づく。避難艇が航路の外へ抜けるのを確かめてから、はやては最後の翼を外した。
アメフィスタが沖合へ落ちた。
高い水柱が上がり、機体の巨体は海へ沈んでいく。破片は、あらかじめ張った光の網に掛かっていた。
その一部始終を見て、ディアーチェは怒りも忘れたように沈黙した。
「……今の力、何だ」
「うちにも、まだわからんことは多いよ」
はやての霊装は、白い翼を揺らしながら夜空に佇んでいる。その姿だけを見れば、戦いのさなかにいるとは思えないほど静かだった。
「ただ……大事なもんを守りたくて、使っとる。それだけや」
ディアーチェが歯噛みした。
「それで我を愚弄し続けるか。よかろう……貴様には、王の魔導がいかなるものかを見せてやる!」
ベルカ式の魔法陣が幾つも重なった。空間に黒い穴が生まれる。上にも下にも、右にも左にも。出口の見えないそれらから、暗色の弾丸が現れた。
「高まれ、我が魔力。震えるほどに暗黒……!」
『主。射線が固定できません。攻撃の発生地点が、そのつど変わっています』
リインフォースの声がわずかに切迫した。
はやては視線を巡らせた。空間を渡ってくる弾丸なら、飛んでくる方向そのものが変わる。いくら観測翼を増やしても、安全な場所を先にすべて選ぶことはできない。
「絶望に足掻け! アロンダイト!」
魔弾が殺到した。
黄金の翼が一斉に回り、はやてを包む球状の光膜を形づくる。はやて自身へ向かう弾丸は受けられる。だが、背後へ抜けていくものまで止めようとすると、光膜の輪郭が歪む。
ならば、撃った相手を閉じ込めればいいのか。ほんの一瞬、はやての心にその解答が浮かんだ。
すべての翼を束ねて射線を埋め、魔法陣ごとディアーチェを蒸発させる。
できる。
できてしまう。
だから、やらなかった。
(王様だって、大事なもんがあるはずやもん)
肩を掠めた光が霊装を削り、再び白い粒子が散った。次の弾丸を受け止めると、はやての足元で海が大きく窪んだ。翼で力を分散させても、衝撃は完全には消えてくれない。
『主、私が補正を引き受けます。言葉は一時的に不安定になりますが、観測を優先してください』
(ええよ。今はみんなを守ろ)
はやての唇が動く。
「――nza、vuel……下がって……!」
言葉の途中へ、聞き取れない音が混ざった。通信用の符号には変換できない、意味そのものが先に届くような響き。魔法ではなく天使の力が高まるほど、はやての言葉は人間の音声から遠ざかっていく。
しかしリインフォースがすぐに補正を戻した。
「みんな、ここから離れて! あとはうちが受ける!」
光の翼が分裂し、何百という小さな羽根になった。一本一本が黒い魔弾を選り分け、人のいない上空で打ち消す。そこには攻撃らしい攻撃がない。ただ、降ってくるものを一つ残らず地上へ届かせまいとする意地があった。
やがてディアーチェの連射が途切れた。
彼女もまた肩で息をしていた。王の魔導が空を満たしても、目の前の少女は倒れない。しかも自分を攻撃する余地を、最後まで残していたらしい。
「……化け物め」
「そうかもしれへん」
はやては静かに答えた。
「でも、うちは八神はやてや。それだけは忘れんようにしとる」
ディアーチェは反論しかけた。その時、海の下から重い振動が伝わってきた。
大きな光が、一度だけ東京湾の夜を照らす。
「……む? この気配は」
はやても胸の奥が冷えるのを感じた。
『主。反応源はオールストン・シーです。私たちが追っていたものとは、系統が違います』
「永遠結晶……!」
ディアーチェの顔から一瞬にして怒りが消えた。今までの砲撃戦さえ忘れてしまったように、遠くの一点を見据える。
「この感覚……我は知っている。この力の持ち主を……」
はやても光の翼を集め始めた。
「王様、待って! あれは何なん?」
「貴様に話す道理があるか! ついてくるな!」
黒い翼が羽ばたき、ディアーチェが一気に加速する。
「ちょ、ちょっと待ってぇや、王様! あと、うちの名前は八神はやて!」
『追いかけましょう、主』
(うん。これ以上、誰にも怪我させられへん)
白い翼を翻し、はやても続いた。
この東京湾で、何かが目覚めようとしていた。
◇
その戦いのすべては陽動だった。
オールストン・シーの水族館では、自動放送が避難経路を繰り返し案内していた。機動外殻が突きつけた脅威に対応するため、警備員たちは園の外へ集められている。
その裏で、機械仕掛けの扉が一つずつ開いた。カードキーを使う者はいない。施錠の信号だけが、あり得ない順番で書き換えられていく。
キリエの腕には簡易固定具が巻かれていた。システムオルタの反動は、拠点でナノマシンを補充したくらいでは消えていない。傷口は塞がっても、身体を動かすたび、深いところから痛みが返ってくる。
それでも彼女は歩いた。立ち止まれば、何のために姉を撃ち、はやてから夜天の書を奪ったのかを考えてしまうからだった。
キリエはイリスとともにオールストン・シーへ潜入し、先を急いだ。
「囮になんてしちゃって、いいのかな……あの子たち」
「どうして? 作戦を考えたのは私だけど、今の状況はキリエの望み通りじゃない」
「そう……だけど」
永遠結晶に近づいている――そう確信するほどに、罪悪感も大きくなった。
姉を撃ち、少女たちの心を踏みにじって今、自分はここにいる。そのうえディアーチェたちを体よく時空管理局にけしかけ、囮に使ってまで。
隣でイリスがほくそ笑む。
キリエはその横顔を見た。長い付き合いの中で、イリスは何度も自分の手を引いてくれた。エルトリアの砂嵐を避けるための経路、父に見せるための研究結果、諦めそうになった時の励まし。
なのに今夜は、その声の裏を確かめたいという気持ちが消えない。
逃走の途中で見た、夜の公園の光景が脳裏に浮かんだ。黒鍵。人払い。血の糸。自分の知っている魔導とは違う何かが、この地球では、見知らぬもの同士が異なる原理の力を使い、平然と人を殺していた。あの時、イリスの解析は答えを出せなかった。それなのに、永遠結晶だけは疑いなく手に入ると、イリスは信じきっている。
(……私、何を知らないままでいるんだろう)
喉まで出かかった言葉を、キリエは飲み込んだ。今それを訊ねるのが、怖かった。
「ふふふ……これだけの魔力がぶつかりあって、渦巻いてるんだもの。しかも戦ってるのは『あの子たち』なんだから、今に目覚めるわ」
「目覚める……?」
「ええ、見つけるだけじゃだめ。目覚めさせないとね」
とにかく今は走るほかなかった。
(そうよ。やっとここまで来たんだもの)
もうすぐ永遠結晶が手に入る。それを持ち帰れば、父親を救える。
その一心でオールストン・シーを走り抜け、やがて海中のエリアに出た。多種多様な魚が水槽に閉じ込められているのを見て、キリエは
「研究所?」
「違うったら。ここはね、水族館」
もとよりキリエにはレジャー施設全般の知識がない。
ガラスの向こうを、見慣れない生物が泳いでいた。
透き通った身体を持つ小魚。岩陰へ潜る甲殻類。大きな尾を振り、悠々と進む魚影。光を受けて揺れる水草。キリエは思わず足を緩めた。
エルトリアの地表では、これほど多様な生物が同じ場所に生きている光景など見られない。保存されている映像資料ならある。父の研究室にも、昔の地球によく似た水辺の生態系を記録したデータがあった。だが、映像の魚は永遠に同じ場所を泳ぎ、生きているものの都合で動くことはない。
いま目の前の魚は、こちらに興味がない。
ただ泳いでいる。
そのことが、キリエには眩しかった。
故郷を救いたいという願いは、父親を助けたいという気持ちだけではなかった。父の研究を継ぐことができれば、いつかこのような場所をエルトリアにも取り戻せるかもしれない。土を湿らせ、種を芽吹かせ、空を見上げる木を育てる。そうした当たり前の営みが、故郷では途方もない夢になっていた。
「……綺麗」
キリエは無意識に呟いた。
「そう? ただの魚よ」
イリスは先を急ぐ。
その言い方に、キリエは小さな違和感を覚えた。
「ただの魚じゃないわ。あの子たちがここで生きられるように、人が環境を作ってるんでしょ?」
「まあ、そういう施設ね」
「父さんが見たら、きっと喜ぶわ」
イリスは答えなかった。
キリエは水槽へ指を当てた。冷たいガラス越しに、魚がこちらへ近づき、すぐに背を向けていく。こちらが何を望んでいるかなど知るはずもない。
それでいいと思った。
この場所の生き物は、キリエが来なくても生きていける。誰かの夢を叶えるために存在しているわけではない。ただ、自分の時間を生きている。
なのはが遊園地を守ろうとしたこと。フェイトが攻撃する前に話を聞こうとしたこと。はやてが家族の書を返してほしいと訴えたこと。
少しずつ、別々の光景が繋がっていった。
みんなには、みんなの暮らしがある。
その暮らしを何度も壊そうとしたのは、自分だ。
キリエはガラスから手を離した。
冷たさが指に残る。生き物が生きていることを、こんなにも明確に感じたのは久しぶりだった。
「イリス。もし永遠結晶が手に入ったら……」
「ええ」
「ちゃんと、みんなに謝らなくちゃね」
イリスはしばらく黙っていた。
「……そうね。後でね」
キリエはその一言を信じ、また歩き始めた。
「……あれは」
オールストン・シーの水族館、海中の鉱石展示ホールにて。
キリエとイリスは紫色の輝きが美しい、大きな宝石を目の当たりにした。全長は五メートルほどあり、ホールの中心で異様なまでの存在感を放っている。
宝石の表面にうっすらとキリエの顔が映った。
感慨深そうにイリスが呟く。
「やっと見つけた……これが永遠結晶……」
むしろキリエよりも彼女のほうが、永遠結晶を求めていたかのような声色で。
「キリエ。私を永遠結晶のほうへ」
「あ、うん」
キリエはイリスの本体である石版を取り出し、紫色の巨大鉱石へそっと近づける。
指先が触れそうになった瞬間、キリエはわずかに手を止めた。
石板はいつもと同じ重さだった。幼い頃から傍にあった重さ。毎日、数えきれないほど触れてきた冷たい感触。
公園で死徒の血の糸に縛られた時、イリスは離れるように警告していた。キリエ自身、命の危険を感じていた。けれど、この石板を相手へ渡さないことだけは考えずともできた。
自分がそこまで守ろうとしたものは、自分を守るためにここにあるのだろうか。
「アクセス。システムドライブ……ウイルスコード起動」
イリスの台詞に不穏な言葉が混ざった。
「イリス? ウイルスって……」
今まで考えもしなかったことが脳裏をよぎる。
どうしてイリスはここまで親身になって、協力してくれるのだろう。イリスにとって永遠結晶には何の意味が――。
「そこまでだ」
しかしキリエの逡巡は、第三者の一声によって妨げられた。同時にバインドの魔法がキリエと、イリスの石版をも拘束する。
「くっ? でもこの魔法なら、とっくに解析済み……」
そのつもりが、思うように無効化できなかった。魔法そのものは解除したはずなのに、依然として拘束具は残っている。
「無駄だよ。魔力はすでに物理エネルギーに変換したあとだからね」
対応されてしまった。
仮に炎の魔法を無効化しても、燃え移った分の火を消せるわけではない。このバインドも物理的な拘束具となった時点で、もとの魔法から切り離されている。
(やってくれるじゃないの……!)
青年は二十名に近い部下を連れ、キリエたちを取り囲んだ。
「僕は時空管理局・東京臨時支局の支局長、クロノ=ハラオウンだ。キリエ=フローリアン、そしてイリス。次元法違反の現行犯で逮捕する」
この包囲にしても、あまりにタイミングがよすぎる。やはりキリエたちが永遠結晶の前で無防備になるのを狙って、待ち伏せしていたに違いなかった。
キリエは舌打ちしたい心境で固唾を飲む。
「まさか……そっちも永遠結晶の在り処に気付いて?」
「君たちの行動を分析したまでだ。君たちの事情についてもアミティエから聞いてる」
フォーミュラで一気に――とは思うものの、バインドにはフォーミュラの発動を抑制するらしいプログラムが仕組まれていた。
(さすが時空管理局……この数時間のうちに、ここまで対応できるなんて……)
前回は奇襲ゆえのアドバンテージがあったのだろう。今回は時空管理局が磐石の布陣で構えているのに加え、おそらくアミティエも関与していた。
(でも……お姉ちゃんは無事なのね)
それを口にする資格がないことくらい、キリエは自覚している。
そのせいで安堵と悔恨とがない交ぜになり、キリエの戦意を妨げた。少なからず自分は今、この行動に疑問を感じ始めているのだから。
(システムオルタで蹴散らして……ううん、先にコレを外さないとね)
それでも抵抗を諦めず、キリエはイリスに目配せする。
包囲網の中、イリスは平然と言ってのけた。
「もう遅いわ」
石版は雁字搦めにされようと、ホログラムのほうは拘束されていない。実体らしい実体がないのだから、されようもない。
「だけど、ちょうどよかった。身体を作るための材料が必要だったから」
「イリス?」
「すぐ終わらせるわ。キリエ、ちょっと待ってて」
呼び掛け方まで、いつもと同じだった。
だからキリエは動けなかった。ほんの少し先の未来に、もう二度と元へ戻れない境目があると知っていたなら、何か別の答えを選べたのかもしれない。
しかし、その予感にはまだ名前がなかった。
イリスが手をかざすと、クロノたちは一斉に構えた。
「動くんじゃない!」
「こんなの動いたうちに入らないでしょ?」
優しいイリスのものとは思えない冷笑が、キリエを驚かせる。
(イリス、何を……)
永遠結晶が鈍い光を放った。
次の瞬間、管理局の隊員たちの身体を、内部から黒い『何か』が突き破る。
「ぐあああっ?」
「ど、どうし――あぐう!」
指揮官のクロノもいきなり右肩を抉り取られた。
全員が全員、前触れもなしに次々と身体に穴を空けられ、赤黒い血を噴き出す。
何が始まったのか、キリエにはわからなかった。凄惨な地獄絵図を見間違いだと思い、最初のうちは呆然とする。
(永遠結晶の力、なの……?)
そして戦慄した。この暴虐にまるで躊躇いがないことに。
ほかでもない親友のイリスがやったことに。
「使わせてもらうわ」
クロノたちの身体から飛び出したモノを集め、イリスは変移した。それを文字通り己の血肉と化し、肉体を生成。本物の瞳を開き、生きたイリスとなる。
クロノたちは気を失うとともに倒れ、立っているのはイリスとキリエだけとなった。
「う……あ……」
驚愕のあまりキリエは話すに話せない。表情を慄然と強張らせたまま、ぱくぱくと口を小さく開け閉めするだけ。
イリスが指先から『魔法』を放ち、キリエの拘束具を引き千切る。
「ふうん。データだけでも、それなりに使えそうね」
身体の自由が戻った拍子に、キリエは我を取り戻した。見るに堪えない惨状を一瞥し、悲鳴のような声を張りあげる。
「イリス! どうしてこんな真似……なるべく穏便にって、私、言ったじゃない!」
「穏便?」
「無関係のひとは巻き込まないって! それが、なのに……」
しかしイリスは関心もなさげに嘆息した。
「キリエだって散々暴れたじゃないの。ずっと年下の子を痛めつけて、闇の書を強奪して……同じことでしょ?」
「だ、だってあれはパパのためで……」
反論しようにも、キリエは言い切れずに口ごもる。
今まで『パパのため』を合言葉に己の罪悪感を誤魔化してきた。目を逸らしてきた。その身勝手さを叱責されたような気分になる。
イリスは振り向きもせず、面倒くさそうに吐き捨てた。
「あなたはもう帰っていいわよ」
彼女の背中をやけに遠くに感じながら、キリエは声を震わせる。
「か、帰っていいって……ど、どういう意味……?」
「……はあ。あのね、キリエ」
向こうで大きな溜息が漏れた。本物となったイリスの唇が真相を語り出す。
「この永遠結晶の中には悪魔が一羽、眠ってるの。途方もない力を持った悪魔が」
何を言っているのか、キリエにはまるでわからなかった。
「悪魔……?」
「そう。だから星を救うとか、あなたのパパを助けるとか、そんなことには使えないの」
イリスの言葉はあたかも死刑宣告のように、キリエの心を萎縮させる。
「だけどイリス……永遠結晶はエルトリアを救済するための力、だって……」
「ああ、あれ? ごめんね。嘘をついたわ」
どくんと心臓が跳ねた。冷や汗がこめかみを伝う。
「パパの病気も治るかもって……」
「それも嘘。そうでも言わなきゃ、あなたに手伝わせることができなかったから」
無意識のうちにキリエは平衡感覚を失い、くずおれていた。歩くことはおろか、立つことさえままならず、四つん這いに近い姿勢でイリスに問いただす。
「嘘よ、そんな……ねえ、イリス? 嘘よね?」
「そうね、嘘だったわ。あなたに話したこと、あなたに言った言葉も」
ようやくイリスは振り向き、別人のような嘲笑を浮かべた。
「出会ってから全部、嘘」
その声は小さかった。大声で憎しみを投げつけられた方が、まだ耐えられたかもしれない。
キリエは覚えている。父の研究室で夜を明かしたこと。初めてフォーミュラを動かした日。姉に褒められなくても、イリスだけは自分の考えを面白がってくれたこと。
同じ出来事を、イリスも覚えているはずだった。
それらのすべてが、今、たった一言で別の意味を持ち始めた。
冷たい衝撃がキリエの全身を突き抜けていく。
「甘ったれのあなたと付き合うのは、大変だったわ」
イリスとの思い出の日々が走馬灯のように脳裏をよぎった。その記憶のすべてを、ほかでもないイリスによって踏みにじられる。
彼女にずっと騙されていたなど、考えたこともなかったのに――。
「だけど一応感謝はしてるから、教えてあげる」
「いやっ! やめて!」
混乱の中、キリエは両手で耳を塞ぐ。
今さら何を聞かされるのか、それが怖かった。しかしイリスは直通の回線をこじ開け、キリエの頭の中へ、じかに語りかけてくる。
私は人工知能なんかじゃない。
エルトリアで暮らしてた人間だった。
だけど、この悪魔に私は、命も家族も大切なものも全部奪われた。
心だけが生き残って、石版の中で眠ってた。
眠ってる間もずっと探してたの。
この悪魔に復讐するための方法を。
悪魔、そして復讐。
彼女の本当の目的を垣間見て、キリエは背筋を凍らせる。
「だけど、だからって……」
「何が悪いの?」
イリスは肩を竦めると、悪びれる様子もなしにまくし立てた。
「心から願った想いがあるなら、他人がどうなろうと関係ない。キリエもそうやって、自分の願いを叶えようとしたでしょ? みんなを傷つけて」
「違う! 私はパパのために――」
「ハッ、まだ言うの? あれだけ殴って、痛めつけて、お姉さんまで撃ったくせに」
パパのため、という自己暗示の言葉が虚しく響く。
「同じよ、私もあなたも。何より自分の目的が大事なの。そのせいで、どこかの誰かさんが酷い目に遭ったとしても、ね」
キリエは血の気が引くほど蒼白になり、頭を垂れるしかなかった。
この星でキリエが他人の痛みを顧みなかったのと同じように、イリスもまた、キリエという他人の一切合切を否定した。
そして用済みになれば、あとは切り捨てるだけ。
「お話は終わり。バイバイ、『どこかの誰か』」
イリスはキリエに背を向けると、永遠結晶とともに転移してしまった。
光が消えたあとも、キリエはしばらく目を開けたままだった。
展示ホールの天井では非常灯が赤く明滅していた。永遠結晶が消えた場所には、何も残っていない。そこに立っていたイリスの姿も、もうない。光が巡ってくるたび、床の上に空白だけが浮かびあがる。誰かがいた場所に、誰もいない。それだけのことが、どうしてこんなにも理解し難いのだろう。
「……イリス?」
呼んでみた。
返事はない。通信を開いても、いつもすぐに現れた小さなウィンドウは立ち上がらなかった。機器の状態を表す無機質な表示だけが、何度更新しても同じ情報を返す。
子どものころ、エルトリアの荒れた地表で拾った石碑のことを思い出した。わからない文字で埋め尽くされた板。最初に声が聞こえた日の驚き。教科書にも、家の研究資料にも載っていないことを、彼女だけが知っていた。夜中に研究を続けるキリエの隣で、退屈そうに文句を言いながら、それでも付き合ってくれた。
友達だった。そう思っていた。
友達という言葉の意味を、キリエは生まれて初めて考え直した。必要なものを手に入れるまでそばにいる相手。役に立たなくなったら捨てる相手。そんなものに、友達という名前をつけた覚えはない。
けれど、イリスの笑顔を疑わなかったのは、自分だった。
父のためだと言えば、すべてが許されると思っていたのも、自分だった。
何を奪ったか、誰を殴ったか、誰の名前を傷つけたか。思い返せば、どれもイリスの手ではなく、自分の手が最後に実行したことだった。
キリエは膝を抱えようとして、脇腹の痛みに身体を折った。傷口は塞がっていたが、痛みは消えていない。システムオルタの反動で震える指先を、ゆっくりと掌に押し込む。
涙が落ちた。乾いた床に、小さな丸い染みができた。
空いた場所へ向かって、もう一度だけ名前を呼んだ。
「……イリス」
返事はなかった。
キリエの瞳から大粒の涙が溢れる。とめどなく頬を濡らしては、嗚咽に混ざる。
背後で、金属が床を擦る音がした。
振り向けば、倒れた管理局員の一人が身体を起こそうとしていた。腕の下に血が広がり、もう片方の手は傍らの仲間へ伸びている。声を掛けようとしているのに、喉がうまく動いていないらしい。
キリエはようやく、そこに自分以外の人間がいたことを思い出した。
クロノたちが倒れている。彼らは自分を捕まえようとしたが、イリスのようにこちらを殺そうとはしなかった。拘束し、事情を聞こうとしただけだった。
少なくとも、あの青年はそう言っていた。
キリエは四つん這いの姿勢から、ゆっくりと片膝をついた。視界が揺れる。まだ動いている人がいる。倒れた隊員の一人が、脇腹を押さえながら、仲間の肩を揺さぶっていた。
自分ができることはないのか。
フォーミュラへ指を伸ばす。傷の状態を調べる機能は残っている。だが、今その装備を起動したら、目の前の人たちはどう思うだろう。また攻撃されると怯えるかもしれない。
キリエは迷い、結局、声を掛けることしかできなかった。
「……あの」
返事はなかった。
「助け……」
言葉が喉で止まった。
自分が言ってよい言葉なのか分からなかった。自分は彼らを危険にさらした張本人だ。助けようとすれば、それで許されると思っているのではないか。そんな考えが次々に浮かび、身体が動かなくなる。
イリスは自分と同じだと言った。
たしかに、自分は願いのために人を傷つけた。
けれど、同じでいたくはなかった。
違うと叫ぶだけなら簡単だ。違うことを証明するには、これからどうするかを選ばなければならない。
キリエは震える指で救護用の通信を開いた。管理局の正式な識別符号は持っていない。それでも、この施設の非常回線なら残っているかもしれなかった。
「誰か……お願い……」
声が途切れる。
「ここに、怪我した人が……たくさん……」
返事が届くまでの数秒が、途方もなく長く感じられた。
『こちら防災センター。聞こえています。今、どちらにいますか?』
「水族館の……鉱石展示ホール。大勢、倒れて……血が……」
『わかりました。救護を向かわせます。あなた自身は怪我をしていますか?』
答えようとして、キリエは傷のある脇腹を押さえた。身体の奥がきしむ。けれど、目の前の人たちを置いて自分の痛みを訴えることなど、今はできそうになかった。
「私は……まだ、動けるから。お願い、先にこの人たちを……!」
『必ず伝えます。あなたも無理に動かず、その場で待っていてください』
回線の向こうには、名前も顔も知らない相手がいる。その人は、キリエが何をしてきたのか知らない。それでも怪我人を助けようとしてくれる。
キリエは通信を切らず、膝をついたまま、もっとも近くで倒れている隊員へ目を向けた。自分のしたことが消えるわけではない。謝れば許されるとも思わない。
それでも、今ここで、自分が見捨てたくないものだけは、見捨てずにいたかった。
「うっ、うぐ……ヒック……うああああああーーーっ!」
涙が止まらなかった。今さら父を救えないと知ったからだけではない。家族のためにと思って踏みにじってきたものを、取り返す方法が分からなかった。
はやての声を思い出す。夜天の書は家族のものだと、震えながら訴えていた。フェイトの手を思い出す。こちらを殴り返すより先に、話を聞こうとしてくれた。
そして、あの公園で赤い瞳の少女が繰り返した、奇妙な言葉。何もかもを知りたい。自分が何者になったか、誰かに見せたい。
キリエがイリスに見せたかったものは何だったのだろう。何を見てもらえたと思っていたのだろう。
イリスという名前を呼んでも、もう返事をくれる相手はいなかった。
非常灯だけが瞬く展示ホールに、キリエの絶望が木霊した。