「力が欲しいか?」と言いたくて!   作:桃たろす

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魔術師は走りたくない

 翌朝、フェイトは朝食を済ませると、なのはより一足先に家を出ることになった。

 

 今日は執務官として別の仕事が入っているらしく、昨日のように一日中なのはの隣にいるわけにはいかない。それ自体は小尾にとってありがたい話だったが、本人は玄関を出る直前までこちらを信用するつもりがないらしく、靴を履きながら何度も振り返っていた。

 

「なのはから勝手に離れないで」

 

「分かってるよ」

 

「魔術も勝手に使わない」

 

「それも分かってる」

 

「なのはが仕事してるからって、変なこと考えないで」

 

「最後のはどうやって判断するの?」

 

「顔を見れば分かる」

 

「そんなに?」

 

「分かる」

 

 迷いのない返事だった。

 

 昨日から同じことを散々言われているので、小尾も今さら反論する気にはならなかった。フェイトは最後になのはへ「何かあったらすぐ連絡して」と念を押し、それからようやく扉の向こうへ消えていった。

 

 扉が閉まり、足音が遠ざかる。

 

 小尾は少し待ってから息を吐いた。

 

「……静かになったね」

 

「小尾君」

 

「もう聞こえないよ」

 

「忘れ物して戻ってくるかもしれないよ?」

 

 なのはに言われて、小尾は思わず玄関を見た。

 

 数秒待っても扉は開かない。

 

 ようやく本当に出勤したらしい。

 

 昨夜は寝る直前までベッドの上から見張られていたことを考えれば、今日一日くらいは静かに本でも読んで過ごせそうだった。

 

 少なくとも、小尾はそのつもりだった。

 

     ◇

 

「じゃあ小尾君、準備できた?」

 

 朝食の片付けが終わったあと、着替えを済ませたなのはが当然のようにそう言った。

 

 居間のソファに座って本を開こうとしていた小尾は、しばらく彼女を見つめる。

 

「何の?」

 

「出掛ける準備」

 

「なのはが?」

 

「私と小尾君が」

 

「……僕も?」

 

 なのはが不思議そうに首を傾げた。

 

「私、仕事だから」

 

「それは聞いてるけど、僕はここにいればいいんじゃない?」

 

「一人にできないよ」

 

「ああ」

 

 そこを忘れていた。

 

 施設を出たからといって、単独行動まで許可されたわけではない。外出にはなのはの同行が必要で、住居内でも所在を把握される。なのはが仕事へ出る以上、小尾だけを家へ置いておくという選択肢は最初から存在していなかった。

 

 収容施設にいた頃なら、特に予定がなければ部屋にいればよかった。食事は出るし、本を読んでいても誰にも文句は言われない。それと比べると、自由になった結果として監督者の出勤にまで付き合わされる現在の生活は、意外なほど面倒だった。

 

「保護観察って大変なんだね」

 

「する方もね」

 

「僕はされる方の話してるんだけど」

 

「私はする方だもん」

 

 なのはは笑いながら小尾の上着を指した。

 

「ほら、準備して」

 

「はいはい」

 

 断れる雰囲気ではなかった。

 

     ◇

 

 なのはの勤務先へ到着しても、小尾が自由に歩けるわけではなかった。

 

 必要な手続きはすでに済まされているらしく、なのはが同行している間に限って指定された区画へ入ることは認められている。ただし、小尾の素性まで一般の隊員へ知らされているわけではない。

 

 長期間にわたって収容され、収容施設そのものへ認識阻害や暗示を仕掛け、最終的に高町なのはの監督下へ移された危険人物。

 

 そんな説明を一般の局員にする必要はないし、むしろ知られれば「なぜそんな人間がここにいるのか」という話になる。

 

 周囲から見れば、小尾は高町なのはが何らかの事情で連れてきた見慣れない少年。それだけだった。

 

 廊下を歩いている時にも何度か不思議そうな視線を向けられたが、小尾は特に気にしなかった。自分から事情を説明するつもりもないので、なのはの少し後ろをついて歩く。

 

 やがて到着したのは、なのはが普段教導を行っている訓練区画だった。

 

 すでに何人もの訓練生が集まっており、その周囲では開始前の確認をしている局員たちが忙しそうに動いている。

 

 なのはが姿を見せると、そのうちの一人がすぐに歩み寄ってきた。

 

「高町教導官、おはようございます。今日の参加者は全員揃っています」

 

「おはようございます。体調が悪い人はいませんか?」

 

「今のところは大丈夫です」

 

「分かりました。じゃあ予定通り始めましょう」

 

 短いやり取りを終えると、なのはは訓練生たちの方へ向かった。

 

 高町教導官。

 

 その呼ばれ方を耳にして、小尾はあらためて彼女の背中を見る。

 

 昔から真面目ではあった。

 

 戦っている姿だって何度も見ている。

 

 それでも、小尾の中に残っている高町なのはは、自分と同じ教室に座っていた少女という印象の方が強かった。

 

 その彼女が今では何人もの訓練生を前にして、訓練内容を確認し、参加者の状態を見ながら一人一人へ必要な指示を出している。声そのものは普段と大きく変わらないのに、誰かから教えられる側ではなく、誰かを教える側として振る舞う姿には迷いがなかった。

 

 自分が知らない年月のあいだに、なのはもずいぶん変わったらしい。

 

「小尾君」

 

「なに?」

 

「ここにいてね」

 

 説明を終えて戻ってきたなのはが、訓練区域の端に用意された場所を示した。

 

「勝手にどこか行かないこと。魔術も使わない。それから、面白そうなもの見つけても勝手に触らない」

 

「僕を何歳だと思ってるの?」

 

「暇だからって壁を溶かした人」

 

「……本読んでるね」

 

 反論を諦め、小尾は椅子へ座った。

 

     ◇

 

 しばらくは本当に本を読んでいた。

 

 ところが午前中の訓練が一段落したところで、なのはがこちらへ戻ってくると、その平穏はあっさり終わった。

 

「小尾君、ちょっと身体動かそっか」

 

 本から顔を上げる。

 

「嫌だよ」

 

「まだ何するか言ってないよ?」

 

「身体動かすんでしょ?」

 

「うん」

 

「じゃあ嫌だ」

 

 小尾は本へ視線を戻した。

 

 なのははそのまま諦めてくれるかと思ったが、目の前から動かなかった。

 

「健康状態も監督項目に入ってるんだよ」

 

「健康だよ」

 

「昨日見たのは身体だけでしょ。普段どのくらい動けるのかは見てないもん」

 

「普通だよ」

 

「なら、確認しても大丈夫だよね?」

 

 見事に逃げ道を塞がれた。

 

 結局、本を閉じることになった。

 

 最初にさせられたのは軽い走り込みだった。魔力も疑似聖人化も使わず、現在の肉体だけでどの程度動けるのかを見るらしい。

 

 小尾自身は普通だと言ったが、その言葉に嘘はない。研究をしていた頃の生活は、実験して、結果を記録して、条件を変更し、また実験することの繰り返しだった。机へ何時間座り続けても苦ではないし、記録の整理なら夜通しでもできるが、毎日身体を鍛えていたわけではない。

 

 まして、周囲にいるのは管理局で日頃から訓練を受けている人間ばかりである。

 

 しばらく走れば、当然のように呼吸が乱れた。

 

「……まだ?」

 

「まだそんなに走ってないよ?」

 

 横を平然と走っていたなのはが、小尾の顔を覗き込む。

 

「小尾君、思ってたより普通なんだね」

 

「だから普通だって言ったじゃん」

 

「昨日、身体にあんな術式いっぱい刻んでたから、もっとこう……」

 

「何もしなくても超人だと思ってた?」

 

「ちょっとだけ」

 

「研究者に何を期待してるの」

 

 小尾は息を整えながら速度を落とした。

 

「魔力を使えば別だけどね」

 

「今は使わないで」

 

「分かってるよ」

 

 そもそも疑似聖人は常時使うためのものではない。術式を起動し、その先からテレズマを引き込めば、それだけ身体にも術式にも負荷が掛かる。日常生活でわざわざそんなものを動かす理由はなかった。

 

 走り終わった小尾は、これでしばらく休ませてもらえるものだと思っていた。

 

 なのはは違ったらしい。

 

 水を渡してくれたあと、近くで行われていた徒手の近接訓練へ視線を向けた。

 

 その顔を見た時点で、小尾には嫌な予感がした。

 

「……なのは」

 

「なに?」

 

「変なこと考えてない?」

 

「ちょうど近接の訓練してるなって」

 

「僕には関係ないよね?」

 

 なのはは答えず、訓練に参加していた一人の若い男性隊員を呼んだ。

 

 突然呼ばれた本人は、なのはの前まで来ると、その隣に立っている小尾へ不思議そうな視線を向ける。

 

「この子と一度、徒手でお願いしてもいいですか?」

 

「自分が、ですか?」

 

「はい。普通の訓練と同じで大丈夫です」

 

 小尾がなのはを見る。

 

「やっぱり僕?」

 

「うん」

 

「さっき走ったばっかりなんだけど」

 

「疲れてる時の状態も分かるからちょうどいいかなって」

 

「僕はよくないよ」

 

 抗議は採用されなかった。

 

 なのはは監督者として、小尾が実際にどの程度戦えるのかを把握しておきたいらしい。その理由自体は分からなくもないので、小尾も最後には諦めて訓練区域へ出た。

 

「小尾君は魔力なしね」

 

「分かった」

 

 相手の隊員も構える。

 

 小尾も軽く腰を落とした。

 

 合図と同時に、最初に仕掛けてきたのは相手だった。

 

 まっすぐ伸びてきた拳を、身体を半歩だけずらして外す。腕の内側へ自分の腕を差し込みながら距離を詰めたが、相手も日頃から訓練を受けているだけあって反応は早かった。すぐに足を引き、小尾が得意とする距離へ入る前に間合いを作り直す。

 

 続いて飛んできた蹴りもまともには受けず、軌道から身体を逃がしながら懐へ入った。

 

 力そのものは強くないし、速さも際立っているわけではない。それでも、相手の力が伝わりにくい位置へ身体を移し、自分が最も力を出せる位置へ入る技術だけは身体に染みついている。

 

 一度懐へ入れば拳だけに拘る必要もなく、肘や肩、掌、重心を崩すための足まで、狭い間合いで身体全体を使える。

 

 隊員も途中から、小尾を単なる素人として扱うことをやめたようだった。

 

「……上手いね」

 

 なのはの声が聞こえた。

 

 だが、技術だけで埋められる差にも限度はある。

 

 先ほどまで走らされていた疲労が残っているうえ、基礎となる体力では普段から鍛えている隊員の方が上だった。攻防が続くにつれて、小尾の呼吸は再び乱れ始め、最初なら間に合っていた足が少しずつ遅れていく。

 

 その遅れを、相手は見逃さなかった。

 

 懐へ入ろうとしたところで逆に腕を取られ、重心を崩される。立て直す前に足を払われ、小尾の身体が床へ落ちた。

 

「そこまで!」

 

 なのはの声で止まった。

 

 小尾は床へ仰向けになり、しばらく天井を見た。

 

「……ほら」

 

 息を整えながら身体を起こす。

 

「普通でしょ」

 

「普通の人は、今の人とあそこまで近接できないと思うけど」

 

 なのはが苦笑する。

 

 相手の隊員も頷いていた。

 

「かなり慣れてますよ。途中まで崩せませんでした」

 

「でも負けたよ」

 

「体力が続けば、また違ったと思います」

 

 小尾はそこで少し考えた。

 

 負けたこと自体は別にいい。

 

 だが、なのはが次に何を言い出すかは何となく想像できる。ならば先に済ませてしまった方が早い気がした。

 

「なのは」

 

「なに?」

 

「次、魔力使っていい?」

 

 なのはの表情が変わった。

 

「使いたいの?」

 

「使わない状態は見たでしょ。監督するなら、使った時も分かってた方がいいんじゃない?」

 

 半分は正論だった。

 

 残り半分については、小尾も考えないことにした。

 

 なのはは少し迷ったあと、頷いた。

 

「身体の術式だけね。外へ向けて魔術を使ったり、何か作ったりするのは禁止」

 

「分かってるよ」

 

「それと、無茶はしないでね。何か変だと思ったらすぐ止めること」

 

「そこまでやるつもりないよ」

 

 小尾は立ち上がり、乱れた呼吸を整えた。

 

 まず、魔術回路へ魔力を通す。

 

 腕の皮膚の下に、細い青白い光が浮かんだ。

 

 光は肩へ伸び、身体の内部を通って脚まで広がっていく。昨日、なのはとフェイトが見た疑似聖人化の術式とは別に、小尾自身が持つ魔術回路が魔力によって活性化し、その走行が皮膚の下から淡く浮かび上がっていた。

 

 そこから魔力を、身体へ刻み込んだ術式へ流す。

 

 術式が起動した。

 

 その瞬間、なのはの表情が変わった。

 

「……これ」

 

 魔力ではない。

 

 術式の向こう側から、小尾の身体へ別の力が流れ込んでくる。

 

 量は少ない。

 

 なのは自身の身体を常に満たしているものと比べれば、あまりにも細い流れだった。しかも安定しているとは言い難く、術式によって無理に作られた通路の中を、必要な分だけ引き込んでいるような揺らぎがある。

 

 それでも、力の性質そのものは間違えようがなかった。

 

 なのはが今、自分の力として扱っているもの。

 

 テレズマ。

 

「私のと……同じ?」

 

「同じ種類だよ」

 

 小尾は軽く拳を握った。

 

「量は全然違うけどね。僕は術式を魔力で動かして、そこから必要な分だけ引っ張ってるだけだから」

 

「ずっと使えるの?」

 

「無理だよ。安定しないし、たくさん引き込むほど術式にも身体にも負担が掛かる。このくらいならまだ余裕だけど」

 

「……量を変えられるんだ」

 

「ある程度はね」

 

 なのはは小尾の腕へ浮かぶ青白い光を見つめた。

 

「じゃあ、もっと強くすることもできるの?」

 

「できるよ。でも今やる意味ないでしょ。目の前の人と訓練するだけなんだから」

 

 今流している量は低い。

 

 目の前の隊員を相手にするだけなら、それ以上は必要なかった。

 

 だが、その低い出力でさえ、小尾の肉体へ起きた変化は大きかった。

 

 疲労そのものが消えたわけでも、身体が別人に作り替えられたわけでもない。ただ、人間の肉体だけでは発揮できなかった力が、疑似聖人として調整された身体へ通り始める。

 

 頭の中にある動きを、身体が遅れず実行できる。

 

 それだけで十分だった。

 

「もう一回お願いしてもいいですか?」

 

 相手の隊員が頷く。

 

 先ほどより警戒した構えだった。

 

 合図が出る。

 

 今度は、小尾が先に踏み込んだ。

 

 先ほどまでとは距離の消え方が違った。

 

 隊員が反応して腕を上げた時には、小尾はすでにその内側へ入り込んでいる。拳を振り抜く必要はなく、踏み込みから腰、肩、腕へ繋がった力をそのまま掌へ乗せればいい。

 

 掌底が胸元の直前で止まった。

 

「……っ」

 

「そこまで」

 

 なのはがすぐ止める。

 

 一度離れると、隊員は驚いた様子を見せながらも、もう一度構えた。

 

 二度目は、小尾の踏み込みを最初から警戒して距離を取る。

 

 それでも変わらなかった。

 

 逃げる方向へ身体を合わせ、相手が次の動作へ移る前に間合いを潰す。伸びてきた腕の外へ回り込むのではなく、もっと短い距離から中へ入り、肘と肩を使って姿勢を崩した。

 

 倒す必要はない。

 

 崩れた相手の喉元へ、拳が寸前で止まる。

 

 三度目はさらに短かった。

 

 相手が弱いわけではないし、小尾の技術も数分前と何一つ変わっていない。

 

 先ほどまでは、技術に身体が追いつかなかった。

 

 今は追いついている。

 

 違いはそれだけだった。

 

「……もういいかな」

 

 なのはが止めた。

 

 小尾も異論はない。

 

 魔術回路へ流していた魔力を絞り、術式を停止させる。高次元側との細い接続が途切れると、身体を満たしていたテレズマも消えていき、皮膚の下に見えていた青白い光も徐々に薄くなった。

 

「これが昨日言ってた疑似聖人ってやつなんだね」

 

「そう」

 

「もっと出せる?」

 

「出せるよ。でも、出力を上げれば上げるほど身体と術式に無理が掛かるから、今やる意味ないでしょ」

 

「常に使わないのも、そのせい?」

 

「それもあるね」

 

 小尾は一度肩を回した。

 

 今回は低出力だったので、目立った負担はない。

 

 なのははそんな小尾を見ながら、何か考えているようだった。

 

「じゃあ午後は、出力を変えた時の――」

 

「やらないよ」

 

「まだ最後まで言ってないよ?」

 

「聞かなくても分かるよ」

 

 午前中だけで、もう十分だった。

 

     ◇

 

 昼休みに入り、なのはと一緒に訓練区画を離れたところで、小尾は廊下の向こうから歩いてくる人物に気づいた。

 

 足が止まった。

 

 最初は単純に、見覚えのある姿だと思った。

 

 その次に名前が出てきた。

 

 そこまで理解したところで、先ほど一般隊員を相手にしていた時とはまったく別の意味で身体が動いた。

 

「あ」

 

「小尾君?」

 

 なのはが振り返る。

 

 小尾は答えず、その後ろへ回り込んだ。

 

「え?」

 

 さらに距離を詰め、なのはの背中へ顔をぴたりと押しつける。額だけではなく鼻先まで完全になのはの背中へ埋め、正面を見なくて済むようにした。

 

「ちょ、小尾君!?」

 

「なのは。ちょっとこのままでいて」

 

「なんで?」

 

「気まずい」

 

 理由はそれだけだった。

 

 正面には、八神はやてが立っている。

 

 なのはが少し身体を動かそうとしたので、小尾もそれに合わせて動いた。

 

「小尾君、近いよ」

 

「今だけ許して」

 

「私を隠れるのに使わないでよ」

 

「お願い」

 

 はやては少し離れた場所から、その様子を呆れたように見ていた。

 

「……何しとるん?」

 

 声が聞こえる。

 

 小尾は顔を上げなかった。

 

 代わりに、なのはの横から片手だけを出した。

 

「ひ、久しぶり!」

 

「顔見て言いや」

 

「今は無理」

 

「なんでやねん」

 

「だから気まずいんだって」

 

 何を言えばいいのか分からなかった。

 

 戦闘なら相手を見るし、理解できない現象なら原因を探せばいい。失敗した術式なら、どこで何を間違えたのかを一つずつ切り分けていけば、少なくとも次に何をするべきかは見えてくる。

 

 けれど、目の前にいる本人へどんな顔を向ければいいのかという問題だけは、それまで使ってきたどの方法でも答えが出なかった。

 

 自分が何をしたのかは分かっている。

 

 その結果、彼女が何になったのかも知っている。

 

 だからこそ、正面から顔を見るのが気まずかった。

 

「なのはちゃん」

 

 はやてが呼んだ。

 

「なに?」

 

「そのまま動かんといて」

 

「え?」

 

「そいつ、なのはちゃんに合わせて動いとるから」

 

 なのはの身体が止まった。

 

 小尾も止まる。

 

「なのは?」

 

「ごめんね、小尾君」

 

「裏切ったね」

 

「最初から味方してないよ?」

 

 逃げ道がなくなった。

 

 しばらくして、はやてが小さく息を吐く。

 

「まあ……久しぶりやな」

 

「うん」

 

 普通だった。

 

 少なくとも、声を聞く限りでは。

 

 そこで小尾の意識が、別のところへ引っ掛かった。

 

 はやては普通に喋っている。

 

 言葉が崩れていないし、意味の分からない音が混じることもない。

 

「……あれ?」

 

「なんや?」

 

 はやてが首を傾げる。

 

 小尾は答えず、少し考えた。

 

「そういえば……なのはも普通に喋ってるね」

 

「今さら?」

 

「いや、今さらなんだけど」

 

 言われてみれば、昨日からずっとそうだった。

 

 食事をしている時も、風呂の時も、今朝フェイトを見送った時も、訓練をしている間も、なのはの言葉に異常はなかった。

 

 天使へ変質した直後のように、意味を拾えない音が混じることもない。

 

 あれほど目立つ現象だったのに、普通に会話できることへ慣れてしまったせいで、今まで疑問にすら思っていなかった。

 

「何でだろう」

 

「何が?」

 

「ノイズ」

 

 なのはが瞬きをする。

 

「変化した直後は、人間の言葉に落とせない音が混ざってたでしょ。でも今は二人とも普通に喋れてる」

 

 小尾はなのはの背中へ顔を押しつけたまま考える。

 

「日常会話程度なら、人間の言語だけで情報を処理できるのかな。それとも、人間だった頃の人格が残ってるから、普段はそっちを経由して喋ってる? でも、それなら変化直後に崩れた理由が別に必要になるし……天使側の概念や権能に近い内容を言葉にしようとした時だけ、情報量が――」

 

「小尾君」

 

「なに?」

 

「また始まってるよ」

 

 小尾の思考が止まった。

 

「……何が?」

 

「そうやって気になること見つけると、周り見えなくなるの」

 

「ああ」

 

 自覚がなかった。

 

 ついさっきまで、はやてと顔を合わせることすら気まずがっていたはずなのに、気づけば本人を目の前にして、どうして普通に会話できているのかばかり考えていた。

 

「でも気にならない?」

 

 小尾が尋ねると、なのははすぐには答えなかった。

 

 ほんの一瞬だけ、はやてへ視線を向ける。

 

 はやてもなのはを見返した。

 

 それは本当に短いやり取りだった。何かを確認したようにも見えたが、小尾がその意味を考えるより先になのはが口を開く。

 

「今は普通にお話しできてるから、それでいいかな」

 

「そういうもの?」

 

「そういうもの」

 

「せやな。普通に暮らせとるんやったら、それでええやろ」

 

 はやてまで同じようなことを言う。

 

 妙に息が合っている気がした。

 

 小尾は少し眉を寄せた。

 

 天使へ変質した直後と現在で明確に状態が違う以上、何らかの理由はあるはずだった。

 

 時間の経過だけで安定したのか。

 

 人間だった頃の人格が発声を制御しているのか。

 

 あるいは、話す内容によって――

 

「小尾君」

 

「なに?」

 

「今はそこまでね」

 

 先回りされた。

 

 その横では、はやてまで何も言わずに頷いている。

 

 どうやら二人とも、これ以上この話を続けるつもりはないらしい。

 

「……はい」

 

 小尾は不満を残しながらも、ようやく思考を止めた。

 

「久しぶりに会うて、気になるんがそこなん?」

 

 はやてが呆れたように尋ねる。

 

「いや、ちゃんと最初に挨拶したよ」

 

「なのはちゃんの背中に顔くっつけたままな」

 

「そこは勘弁して」

 

「こっちが気まずいわ」

 

 そう言われ、小尾はようやく少しだけ顔を上げた。

 

 なのはの肩越しに、はやてを見る。

 

 目が合った。

 

 すぐに背中へ戻った。

 

「小尾君」

 

「無理」

 

「まだ何も言ってないよ」

 

「顔を見るのはもう少し待って」

 

 はやては数秒黙ったあと、とうとう笑い出した。

 

「なんやねん、それ」

 

 小尾は少し困った。

 

 怒鳴られるか、責められるか、最低でも露骨に嫌な顔をされると思っていた。

 

 笑われるとは思っていなかった。

 

「……怒ってないの?」

 

 なのは越しに聞く。

 

「怒ってへんとは言うてへんで」

 

「だよね」

 

「せやけど、久しぶりに会うていきなりなのはちゃんの後ろに隠れられたら、怒るタイミングなくすやろ」

 

「それはよかった」

 

「よくないわ」

 

 即座に返された。

 

 それでも、少なくとも会話は成立している。

 

 小尾は少し迷ってから、ようやくなのはの背中から顔を離した。完全に横へ出るところまではいかず、半分ほど身体を隠したままだったが、はやての顔を見ることくらいはできるようになった。

 

「ほんま、何しとるんやろな」

 

「僕もそう思う」

 

「自覚あるんかい」

 

 はやてがもう一度笑う。

 

 小尾としては、午前中の格闘訓練より疲れた気がした。

 

「じゃあ、はやてちゃん。また今度お家に遊びに行くね」

 

「うん。いつでも来てな」

 

 なのはが嬉しそうに頷く。

 

 そこで、なのはが小尾を見た。

 

「小尾君も一緒にね」

 

「行かないよ」

 

 小尾は即答した。

 

「え?」

 

「僕は行かない」

 

「なんで?」

 

「今の見たでしょ」

 

 はやて本人と会うだけで、なのはの背中へ顔を押しつける羽目になった。

 

 そこからさらに本人の家へ行く必要性が、小尾にはまったく理解できなかった。

 

「一回会ったんだから、次は大丈夫じゃない?」

 

「そういう問題じゃないよ」

 

「まあ」

 

 はやてが少し考えた。

 

「小尾が来たら、ヴィータあたりがうるさそうやけどな」

 

 小尾の動きが止まった。

 

「……ヴィータ?」

 

「小尾のこと、めっちゃ言うてたからな」

 

「めっちゃって?」

 

「めっちゃや」

 

 具体的な内容が一つも分からないのに、嫌な意味だけは十分伝わった。

 

「どのくらい?」

 

「聞きたいん?」

 

 小尾は少し考えた。

 

「……やっぱりいい」

 

 その瞬間、昨夜の光景が妙に鮮明に蘇った。

 

 なのはが風呂へ入った途端、一歩動くだけで行き先を確認してきたフェイト。

 

 眠ろうとしているのに、ベッドの上から暗闇の中でこちらを見続けていたフェイト。

 

 なのはに触るな。

 

 髪を取るな。

 

 血を取るな。

 

 爪も取るな。

 

 寝ているところを観察するな。

 

 本人であるなのはは普通に話しているのに、その横にいる人間の方が何倍も自分を嫌っている。

 

 小尾は、嫌な既視感を覚えた。

 

「……行かない」

 

「さっきも聞いたよ?」

 

「絶対行かない」

 

 なのはが笑う。

 

「でも私がはやてちゃんの家に行く時、小尾君を一人にできないよ?」

 

「その日は収容所に預けてよ」

 

「駄目だよ」

 

「じゃあ玄関で待ってる」

 

「それも駄目」

 

「なんで全部駄目なの?」

 

 はやてが肩を揺らして笑っていた。

 

「まあ、ヴィータには先に言うといたるわ」

 

「何を?」

 

「いきなり殴ったらあかんって」

 

「いきなりじゃなければいいの?」

 

「そこはヴィータと相談して」

 

「ますます行きたくなくなったんだけど」

 

 小尾はそこで、もう一人の姿をぼんやりと思い出した。

 

「……あと、あのピンクのお姉さんもいるよね」

 

「シグナム?」

 

「ああ、それ」

 

「それって何や」

 

「名前まで覚えてなかったんだよ」

 

「本人の前で言わん方がええで」

 

「言わないよ」

 

 それくらいの分別はある。

 

「その人は大丈夫そう?」

 

「ヴィータほど騒がへんと思うよ」

 

「よかった」

 

「たぶん黙って見とるだけや」

 

 小尾は少し考えた。

 

 それはそれで嫌だった。

 

「やっぱり行かない」

 

「頑固やなあ」

 

「命の危険を感じるんだよ」

 

「午前中、一般隊員さん圧倒してた人が何言ってるの」

 

 なのはに言われ、小尾は少しだけ眉を寄せた。

 

「そういう問題じゃないんだって」

 

 戦えばいい相手の方が、まだ楽だった。

 

     ◇

 

 はやてと別れ、訓練区画へ戻ったあと、なのはは午前中の記録確認を始めた。

 

 小尾はその隣から何となく端末を見る。

 

 そこには訓練時間や参加者、魔力消費量、命中率、被弾数、訓練前後の変化といった数字や記録が並んでいた。

 

 午前中に走らされたり殴り合ったりしていた時より、こちらの方が遥かに見慣れた光景だった。

 

「これ、全部なのはが確認するの?」

 

「うん。今日の分はまとめないといけないから」

 

「多いね」

 

「今日はちょっとね」

 

 小尾は画面を眺める。

 

 少し見ただけで気になるところがいくつかあった。

 

「これ、前回と条件違うよ」

 

「え?」

 

「訓練時間が違う。この二つ、そのまま比較してもあんまり意味ないと思う」

 

 なのはが画面を確認する。

 

「あ、本当だ」

 

「あと、この人は後半だけ被弾が増えてる。魔力消費も同じ辺りから大きくなってるから、配分が悪いか疲れてるんじゃない?」

 

「小尾君、こういうの得意なの?」

 

「研究者だからね」

 

 小尾にとっては特別なことではなかった。

 

 研究は実験だけをしていればいいものではない。条件と結果を残し、前回の記録と比較し、変化があれば理由を探して次へ反映する。記録がなければ成功しても失敗しても再現できないので、実験そのものより記録と向き合っている時間の方が長い日も珍しくなかった。

 

「じゃあ小尾君、これ少し手伝ってくれる?」

 

「嫌だよ」

 

 即答した。

 

 なのはが瞬きをする。

 

「早いね」

 

「僕の仕事じゃないし」

 

「そっか」

 

 なのははそれ以上頼まなかった。

 

 小尾は満足して、持ってきた本へ手を伸ばす。

 

 これで午後は静かに過ごせる。

 

「じゃあ少し休んだら、午前中の訓練の続きしよっか」

 

 本を開こうとしていた手が止まった。

 

「……続き?」

 

「うん」

 

 なのはは端末を見たまま、何でもないことのように答える。

 

「基礎体力ももう少し見たいし、疑似聖人も低い出力しか見てないでしょ。出力を変えた時にどのくらい負担が変わるのかも――」

 

 小尾は机の上に積まれた記録を見た。

 

 なのはを見る。

 

 もう一度、記録を見る。

 

「……それ、貸して」

 

「え?」

 

「書類」

 

「さっき嫌だって言ったよね?」

 

「気が変わった」

 

 なのはの口元が少し緩んだ。

 

「走るの、そんなに嫌なの?」

 

「書類の方がいい」

 

「近接訓練もあるよ?」

 

「やる」

 

「書類を?」

 

「早く貸して」

 

 なのははとうとう笑った。

 

 もちろん、何でも小尾へ見せられるわけではない。個人情報や教導上の機密に当たる部分を除き、小尾が見ても問題のない記録だけを選んで渡してくる。

 

 端末を受け取ると、小尾はすぐに作業へ入った。

 

 まず条件ごとに記録を分け、前回と比較できるものだけを揃える。表記の違いを統一し、同じ内容が重複しているものをまとめながら、数値の変化が大きい箇所を抜き出していった。

 

 一件終われば次へ進み、その記録も過去のものと比較する。

 

 訓練の内容そのものについては、なのはの方が遥かに詳しい。だが、数字を整理し、条件の違いを探し、異常値を抜き出す作業なら話は別だった。

 

 しばらくして戻ってきたなのはが、小尾の端末を覗き込んだ。

 

「……もうこんなに終わったの?」

 

「うん」

 

「早くない?」

 

「そう?」

 

「これ、私だったらもっと掛かるよ」

 

「研究記録より条件少ないから楽だよ」

 

 小尾は画面の一部を指した。

 

「この三人、同じ日の後半だけ数値が落ちてるよ。三人とも同時なら本人の問題じゃなくて、訓練内容の可能性もあると思う」

 

 なのはが記録を確認する。

 

「この日は……連続戦闘の訓練だ」

 

「じゃあ持久力か、魔力配分じゃない?」

 

「なるほど……」

 

 なのはは少し考え込み、それから別の記録を開いた。

 

「小尾君、こっちは?」

 

「どこを見るの?」

 

「この子、最近ちょっと動きが悪い気がするんだ」

 

「じゃあ比較する項目決めないと」

 

「そういうところ研究者だよね」

 

「条件を決めないでどうやって比較するの?」

 

 小尾からすれば当然の話だった。

 

 なのはは笑いながら必要な条件を説明する。

 

 それを聞いて記録を絞り込めば、変化はすぐに見つかった。

 

「三回前から魔力消費が増えてる。あと後半の被弾率も少しずつ上がってるよ」

 

「ほんとだ……」

 

「疲労じゃない?」

 

「次の訓練で見てみるね」

 

 気づけば、なのはが現場で感じた違和感を、小尾が記録から確かめる形になっていた。

 

 なのはは実際に動いている人間を見て、小尾は残された数字を見る。得意なものが違うだけで、組み合わせてみれば思っていた以上に効率がいい。

 

「小尾君」

 

「なに?」

 

「すごく助かったよ。ありがとう」

 

「別に」

 

 小尾は次の記録を開きながら答えた。

 

「走るよりこっちの方がいいだけだから」

 

「そこは最後まで研究者っぽくいてよ」

 

「研究者だから走りたくないんだよ」

 

 なのはが笑う。

 

「じゃあ明日もお願いしていい?」

 

「明日も訓練ある?」

 

「あるよ」

 

「じゃあやる」

 

「判断基準そこなんだ」

 

 小尾は返事をせず、次の記録へ目を落とした。

 

 疑似聖人を使って一般隊員を圧倒するより、何十件もの数字を整理している方が落ち着く。

 

 午前中の訓練が明日も続くというなら、今日はできるだけ多く仕事を片付けておいた方がいい。

 

 その日の帰りまでには、小尾は明日も整理する記録が残っていることを、少しだけ願うようになっていた。

 

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