「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
東京湾の夜空に突如、途轍もなく膨大な魔力反応が出現する。
異変を追い、はやてとディアーチェは東京湾の中央へ急いだ。
東京湾の空気は、いつの間にか重く変わっていた。
気圧が下がったのではない。雨雲が集まったのでもない。空そのものが、何か大きなものを収めるために押し広げられていくような感覚があった。遠くの船舶から警笛が響き、海鳥が一斉に岸へ逃げていく。管理局の観測機器は、それぞれ異なる警報を返した。魔力反応、空間歪曲、未知の高密度エネルギー。どの尺度も、その中心に何があるのかを説明しきれない。
はやては飛びながら眼下を確かめた。救護艇が進路を変え、現場から遠ざかろうとしている。護衛の隊員が負傷者を連れている。オールストン・シーの灯りは部分的に落ち、その向こうに残された観覧施設が、海の中に浮かぶ小さな町のように見えた。
壊してはならないものが多すぎる、と最初は思った。
だが、違う。壊してはならないものが多いのではない。どれも、誰かにとって当たり前の暮らしだった。人間が作ったものも、生き物が暮らしている場所も、誰かが明日を楽しみにして眠るための場所も。その全部が、今ここにある。
メタトロンの翼が静かに振動した。はやての視線に合わせ、金色の細い光が遠方を走る。攻撃ではなく観測のための輝きだった。翼が捉えた熱源、生命反応、魔力の流れが、はやての感覚へ重なる。
『主。上空の対象は、先刻確認した人工知能の投影体とは異なります』
(リインにもわかるん?)
『確実とは言えません。ただ、そこに身体があります。少なくとも、単純な映像ではありません』
はやては奥歯を噛んだ。どこまでが魔導で、どこからがそうでないものなのか。小尾が見せた魔術が教えてくれたのは、自分たちの知っている仕組みが世界のすべてではないという、厄介な事実だった。
だから、測れない相手を測れたことにしてはいけない。
隣を飛ぶディアーチェは、海の向こうを睨んだまま言った。
「来るぞ」
「……うん」
その短いやり取りだけは、二人のあいだで疑いようもなく通じた。先ほどまで争っていた二人のあいだに、言葉はなかった。黒い翼の背を白い翼が追う。眼下には管理局の救護艇が行き交い、少しずつ減速する避難船が遠い灯りを揺らしていた。
はやてのもとに最新の情報が入った。
『クロノ班が永遠結晶とキリエ・イリスの両名を発見しましたが、イリスの反撃により、クロノ執務官と16名の隊員が重症! イリスは上空へ逃走した模様です!』
はやては思わず唇を噛む。
「クロノ班が壊滅やて? オールストン・シーで何があったんや?」
『キリエ=フローリアンの所在は確認できていないそうです』
はやての内側で、リインフォースの声も神妙になった。
はやてたちの頭上に白い月が差し掛かる。
(あれが永遠結晶か!)
しかし月にしては距離が近すぎた。容疑者のひとり『イリス』が眩い結晶体を従え、夜空の中央に佇んでいる。
『主。あの人物、先ほどまでと存在の性質が違います。ホログラムではありません』
「なんやて?」
人工知能のはずの彼女が、今は肉体を有していた。魔導にも精通しているようで、夜天の書を端末とし、結晶体を制御する。
見た目だけなら、いつもと同じ少女だった。
薄く笑う口元。何かを知っている者だけが見せる、少し退屈そうな目。けれど遠くにあるはずの輪郭が、今は妙にはっきりしている。夜風が髪を揺らし、衣服の裾を動かし、光が肌の上に影を落としていた。
はやてはそこに奇妙な違和感を覚えた。人工知能が人間の形を取ること自体は、管理局の技術なら珍しくない。けれど、映像と身体の違いを確かめる方法もまた、管理局にはいくつもあった。今届いている観測結果は、そのどれとも簡単に一致しない。
「イリス!」
呼びかけても、相手は反応しなかった。
彼女の背後にある結晶が、緩慢に明滅する。そこから溢れる力は単純な魔力の量としては捉えられない。まるで、誰かの願いが無数に積み重なり、その重さだけが物質になったようだった。
ディアーチェの表情が変わった。
さっきまでの傲慢さが消えたわけではない。むしろ、傲慢であることに必死になったような顔だった。王として振る舞っていなければ、立っていられない。その原因が目の前にあることを、彼女だけは理屈より先に知っているようだった。
「永遠結晶……!」
言葉が、はやてには説明できない重みを持って響いた。
『主。対象の周囲に多重の反応を確認しました』
(攻撃の準備?)
『判断できません。ですが、空間内の力の流れが一方向へ偏り始めています』
はやては翼を広げた。金色の羽根を何十枚も放ち、イリスを取り囲むのではなく、その外側へ大きな円を描く。万一のとき、力の逃げ道を作るためだった。あまりにも大きな力を押し潰そうとすれば、押し潰した場所にすべてが残る。それなら、最初から行き先を用意したほうがいい。
だが、その円が閉じるより早く、結晶は一度だけ深く脈打った。
まるで、眠っていた何かが、外の世界へ耳を澄ませたように。
ディアーチェに続き、はやてもブレーキを掛けた。
「貴様……イリスとかいったな。一体どういうつもりだ? それはなんだ?」
ディアーチェとイリスは協力関係にあるわけではないらしい。緊迫感で空気が張り詰める中、イリスは飄々と白状する。
「どうもこうも、私のすることは一貫してるわよ。王様たちが欲しがってる力は、この子の胸の中。ここから抉り出せれば、無限の力が手に入る」
はやては声には出さず、頭の中で反芻した。
(……『この子』? 永遠結晶の中に誰かおるんか……?)
巨大鉱石は花開く前の蕾を思わせる、美々しい姿に変異していた。八枚のシールドでその身を固め、真っ白に燦然と輝きながらも、沈黙を続ける。
はやてはメタトロンの観測翼を一枚だけ結晶へ向けた。
返ってきたのは、出力の数値ではなかった。そこにあるものの大きさが、普通の測定で掴める尺度から外れている。夜天の書に似た気配もある。けれど、それだけではない。
『主。これ以上、直接観測を続けると、翼の記録が上書きされるおそれがあります』
(……そんなことまでできるんか)
はやては翼を引き戻した。自分もまた、人間の枠を越えた力を持っている。それでも、得体の知れないものの前では、無造作に近づいてよいわけではなかった。
かつて夜天の書をめぐる事件が起きた頃、はやてには、自分の周囲で何が進んでいるのかを知る方法がなかった。守護騎士たちは隠し事をし、友達は心配し、気がつけば家族が傷ついていた。知らなかったことと、責任がないことは、決して同じではない。
そして今、書を持ち去ったキリエという少女にも、知らないことがあるのだろう。自分が協力している相手の目的。自分が奪ったものの意味。奪い返そうとする人間たちの気持ち。
はやては彼女を許したわけではなかった。フェイトが殴られ、なのはが撃たれ、家族の宝物まで奪われた。それらを、父親を助けたいからという一言で済ませるつもりはない。
しかし、その願い自体を嘲笑うこともできなかった。
(お父さんを助けたいんやな)
亡くしたもの、失いかけたものを取り戻したいという気持ちなら、はやてにもわかる。あの頃、誰かが自分の命と引き換えに家族の命を救えると言っていたら、何も考えずに飛びついたかもしれない。
けれど、それで別の誰かの家族を壊してよい理由にはならない。
はやては翼の配置を変えた。攻撃を受け止めるための陣形から、遠くの味方と繋がるための陣形へ。誰が倒れても、次の人が立ち上がれるように。
「ま、この子は抵抗するでしょうけど」
「我らにそいつと戦え、と?」
「そう。舞台はこの世界のすべて。この子を殺して、勝ち取って」
イリスの意図がまったく読めなかった。
(やっとのことで見つけた永遠結晶を、王様たちと戦わせる……?)
その間にも時空管理局の面々が集まり、イリスの三百六十度に包囲網を敷く。
シグナムがはやてとディアーチェを一緒くたに見つけ、驚いた。
「主はやて? その者から離れてください!」
「大丈夫よ、シグナム。こっちの王様……ディアーチェはもう私と戦うどころやない。そもそも私たち、戦う理由はなかったみたいやしね」
フェイトも合流し、一連の騒動の黒幕をねめつける。
「あれがイリス……キリエさんは?」
「わからへん。ただ言えるのは……永遠結晶を探し求めていたのは、キリエさんやなかったってこと。何もかも、あなたが仕組んだことやったんやね? イリス」
「外野は黙っていろ」
はやての質問を制し、ディアーチェはふてぶてしく腕組みを深めた。
「貴様の口車に乗る我と思うか? そんなことより、貴様に逃げ場はないぞ。永遠結晶と我らについて知っとることは全部、洗いざらい吐け」
はやてもフェイトも苦笑する。
「あのぉ、王様? 王様も一応、包囲の対象なんやけど……」
「ああ、あなたがレヴィの言ってた……悪い子じゃないよ、きっと」
我が物顔で最前線にいるディアーチェは別にしても、時空管理局のフォーメーションはイリスと永遠結晶を完璧に制圧できていた。ただ、すでにクロノ隊を壊滅させられているため、様子見と警告に徹する。
シグナムとフェイトが揃って前へ出た。
「諦めろ。フォーミュラのないお前に、この数は相手にできまい」
「投降してください。お話はちゃんと伺いますので」
シャマルやザフィーラも臨戦態勢で成り行きを見守っている。
「……だめね。永遠結晶はスキャンできないわ」
「油断するなよ、シグナム、シャマル。キリエ=フローリアンの例もある」
その布陣を指揮しながら、はやてはイリスに要求した。
「さあ。夜天の書を返してもらおか」
「ふ……」
にもかかわらず、イリスはまるで動じない。不敵な笑みを浮かべたのは一瞬のこと。
凶暴な敵意を剥き出しにして、永遠結晶を乱暴に殴りつける。
はやての翼が反射的に伸びかけた。
だが、巨大鉱石の内側に確かに何かがいるのなら、相手はただの危険物ではない。敵であると決めつけるのも、無理やり破壊するのも、まだ早い。
ディアーチェが腕を上げた。
「やめろ。その中にいるのは……!」
言葉の最後は、イリスの声にかき消された。
「ユーリ。いつまで寝てんの――起きなさいっ!」
◇
シュテルとの激戦のあと、なのはは救護車両の中で、ユーノと向かい合っていた。
壁に埋め込まれたモニターが、東京湾の状況を秒単位で映し出している。防衛部隊の再配置。負傷者の搬送。沈んだ機動外殻の残骸を処理するための封鎖線。そのどれもが遅れれば別の事故へ繋がりかねない。
なのはは椅子へ腰掛け、両手を膝に置いていた。傷はない。シュテルの砲撃はミカエルで遠くの空へ逃がしたし、霊装に散った光もすでに集まり直している。けれど、だからといって何も失われなかったわけではなかった。
空間を開き続けた間、なのはは絶えず出口を選んでいた。炎の先に誰もいないか。次の砲撃が街へ向かわないか。自分が一瞬でも選択を誤れば、誰かの大切な場所が壊れてしまう。
それだけの判断を、あの短い戦いの間に幾百回と繰り返していた。
「……なのは、聞いてる?」
「えっ? あ、うん。ごめん、ユーノ君」
ユーノは端末を下ろした。
「もう少し休んだ方がいい。身体に傷がないのは分かってるけど、さっきから反応が少し遅いよ」
「平気だよ」
「うん。なのはがそう言うのも、よく知ってる」
責めるような口調ではなかった。そのことが、かえってなのはの顔を曇らせた。
ユーノは続ける。
「昔みたいに、治癒魔法で疲れを取ってあげられたらいいんだけどね。今のなのはには、人間の魔力を前提にした術式が届かない。無理やりかけたら何が起こるかも分からない」
「……うん」
「だから、代わりに約束して。疲れたら疲れたって言って。危ないと思ったら一人で抱え込まないで」
なのはは小さく頷いた。
テレズマで形づくられた身体は、人間の身体とは違う。リンカーコアも、血も、骨も、以前の自分のものではない。それでも、ユーノが心配してくれることは変わらなかった。
「ありがとう、ユーノ君」
その時、通信に高い警告音が混じった。
『執務官と十六名が重傷です。キリエ=フローリアンの所在は不明。イリスは永遠結晶を奪取し、東京湾の上空へ転移した模様です』
なのはの背筋が伸びた。
「クロノ君たちが……?」
モニターの向こうでは、救護艇が次々と発進していた。クロノの指揮系統を失った地上部隊が、エイミィの中継を受けながら負傷者の回収に移っている。
ユーノも顔色を変えた。
「僕は救護へ回る。向こうの応急処置だけじゃ足りないかもしれない」
「うん。お願い、ユーノ君」
ヴィータがグラーフアイゼンを手に、車両の出入口から顔を出した。
「おい、なのは。まだ動くなよ。あっちへ行くなら私らが先だ」
「わかってる」
「わかってる奴の返事には聞こえねえんだよな……」
ヴィータは苦笑したものの、念を押すように続けた。
ヴィータが言葉を選ぶのは珍しかった。いつもなら、無茶をするなと一喝して終わりだった。なのはにはそれがわかる。だから、かえって胸が痛んだ。
かつてヴィータとぶつかり合っていた頃、自分は力を出し切れば気持ちが伝わると信じていた。全力の砲撃に乗せた言葉。相手の魔法を打ち破るほどの意思。それが間違っていたとは思わない。しかし、あのとき自分たちが踏みとどまれたのは、誰もが本当の意味では戦いを望んでいなかったからでもある。
今夜のキリエもそうだろうか。
救いたい父親がいる。その願いは本物だ。だが、自分たちに向けた攻撃も本物だった。誰かを助けたいという気持ちが、誰かを傷つける許可になるわけではない。
「ヴィータちゃん」
「あ?」
「わたし、ちゃんと戻ってくるよ」
「……当たり前だろ」
ヴィータはそれだけ言い、すぐに目を逸らした。
なのはは少し笑った。守るべき約束が一つ増えた。それだけで、これから空へ出る意味が少し変わった気がした。
「お前の力がありゃ、どんな敵だって止められるかもしれねえ。けどな、それと何でも一人でやれってのは別だ」
「……うん」
「じゃ、行ってくる」
ユーノとヴィータが駆け出す。救護車両の扉が閉じると、途端に静けさが戻った。
なのはは自分の手を見た。
指を曲げれば、普通の女の子の手と同じように動く。友達と手を繋ぎ、鉛筆を持って宿題をする、小学五年生の手だ。
けれど、その内側を巡るものは、もう人間の魔力ではない。
なのははその違いを、隠そうとは思わなかった。ただ、誰かを助けたいと願う心だけは、以前の自分から続いていてほしかった。
窓の外でひときわ明るい光が走った。
なのはは反射的に立ち上がりかけ、そこで手を止めた。昔なら、気づいた瞬間に空へ出ていた。事件の現場へ一番先に向かうことが、自分の役割だと思っていた。力があるのだから、力を使うべきだと信じていた。
今は、使うべき力が大きすぎる。
ミカエルの鍵先を一度回せば、隔てられた場所が繋がる。閉じれば、存在の働きそのものを停止させることさえできる。空間を動かすたび、そこにいた人、そこを流れていた風、そこへ向かっていた熱がどうなるかを見定めなければならなかった。
やろうと思えば、目の前の敵を一瞬で無力化することもできるのだろう。しかし相手の身体を支える仕組みにまで干渉してしまったとき、どこから先を傷つけたことになるのか。なのはには、まだ自信を持って答えられない。
何より怖いのは、怖さを忘れることだった。
戦いの中で思い切り鍵を回したいと思う瞬間がある。これなら全て終わらせられる、と直感する瞬間がある。その直感を信じきってしまえば、相手がなぜ戦っているのかを考えなくなるだろう。
シュテルが自分へ向けた炎の熱を思い出した。王を守りたいという声を思い出した。自分とは違う力、違う願い。それでも、きっと同じくらい大切なものがあった。
なのはは深く息を吸った。普通の身体なら肺が膨らみ、胸が上下する。今の身体は同じ動きを自然に模倣していた。生きていると実感するために必要だったのかもしれない。
鍵はまだ呼び出さない。誰かを守るための力だからこそ、使う前に誰かと相談する。その約束を、今夜は守りたかった。
◇
「なのはさん」
聞き覚えのある声がした。
入ってきたのはシャリオ=フィニーノだった。両腕には技術部の端末を抱え、その後ろには管理局員に付き添われたアミティエ=フローリアンがいる。
「シャーリー! アミタさんも?」
アミティエは救護車両へ一歩入ると、真っ先になのはの顔を確かめた。
「怪我は……ないんですね」
「はい。私は大丈夫です」
「そうですか。よかった……」
アミティエは深く頭を下げた。
「すみません。妹が皆さんにひどいことをして……」
「アミタさんのせいじゃありません。それより、お願いしてたことは?」
シャリオが端末を掲げた。
「はい。フォーミュラの戦闘記録と、キリエさんの身体の状態を可能な範囲で整理してきました。システムオルタを使った反動は、まだ残っているはずです」
空中に投影された図には、傷の位置と出力の履歴が並んでいる。なのははその線を一つずつ目で追った。
「フォーミュラを使えば、キリエさんの居場所が分かる?」
「直接は分かりません。でも、もし再びシステムオルタを使おうとしたら……かなり危険です。あの出力は、すでに身体の許容範囲を越えています」
アミティエは唇を噛んだ。
「私が止めます。必ず。あの子は、もう十分すぎるほど傷ついているから……」
なのはは少女の瞳を見た。
自分にも姉や兄がいる。家族のことを考える時の顔が、どんなものかは分かるつもりだった。
「……一緒に助けましょう。アミタさん」
そう言い終わるのとほとんど同時に、通信が割り込んだ。
『なのは!』
「クロノ君!?」
画面には、救急隊員に支えられたクロノが映っていた。右肩から胸にかけて処置が施され、顔色は青白い。声を出すたび、呼吸が僅かに乱れる。
「だ、大丈夫なの? クロノ君」
『僕のことはいい。それより……ぐうっ』
『動かないでください、執務官! 重傷なんですから!』
隊員が肩を押さえる。しかしクロノは通信を切ろうとはしなかった。
『この通信だけさせてくれ。アミティエもそこにいるな?』
「はい。クロノさん」
『あなたも出て行きたくて、うずうずしてるところだろう。僕のほうで許可は出す。キリエ=フローリアンの確保……いや、保護を頼めるか』
アミティエが息を呑む。
「妹に……何があったんですか」
クロノは短く目を閉じた。
『イリスがキリエを裏切ったんだ』
その一言がすべてを変えた。
アミティエは拳を握った。少し前まで、妹に撃たれた記憶が生々しく残っていたはずなのに、その顔に浮かんだのは怒りではなく恐怖だった。
自分が追いかけてきた妹は、今どこで泣いているのだろう。
「……すぐに行きます」
彼女は用意されていたフォーミュラスーツを身につけた。監視員は一瞬だけ身構えたが、クロノの許可を確認すると、拘束具を外す。アミティエは礼を告げ、そのまま飛び出していった。
「ごめんなさい、なのはさん! 急ぎますので!」
「アミタさん! 私も――」
『なのは』
クロノの声が呼び止めた。
『彼女は信用できる。すまないが、君も協力してやってくれ。ただし、自分一人で何とかしようとするな』
それは、つい先ほどユーノとヴィータに言われたばかりのことだった。
「……うん。わかった」
なのはは立ち上がった。
人間が使うバリアジャケットは、もう必要なかった。用意されたデバイスもない。あの頃の魔力は、天使化とともに、自分の中から姿を消したのだから。
代わりに、自分の意志に応えるものがある。
空間の鍵。〈封解主〉ミカエル。
なのはは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
呼び出したのは、人間の世界の魔法陣ではなかった。
足元へ桃色の光が滲み、輪郭を変える。霊装が身体の内側から広がり、濃紺の外套が肩を包んだ。裾の裏には夜空によく似た星の輝きが散らばり、頭上には大きな光輪が灯った。
その中心へ、一本の巨大な鍵が現れる。
光が形を取る間、なのはは地球の海を思い浮かべていた。
人が働き、笑い、眠る場所。友達が遊ぶ約束を交わし、家族が帰りを待つ場所。
この力なら、傷つけずに止められるものがある。今までは失敗もした。けれど、だからといって、もう誰も助けられないわけではない。
「……行こう」
鍵の輪郭が澄んでいく。
その瞬間、エイミィの通信が割り込んだ。
『司令部より全局員へ緊急連絡! 東京湾の上空に新たな敵性反応が出現! 永遠結晶内部から、独立した存在の覚醒を確認しました!』
救護車両の窓が明るくなった。
月明かりではない。海の上で、巨大な白い結晶が花を開くように姿を変え、その内側から淡い光が溢れ出している。
八枚の盾に囲まれた中心に、小さな人影があった。
『イリスの呼称から、識別名は「ユーリ」とします! 繰り返します、識別名はユーリ!』
なのはは窓へ駆け寄り、見上げた。
これだけの距離があっても、そこに誰かがいると分かる。イリスが悪魔と呼び、ディアーチェたちが取り戻そうとしている何かを胸に抱えた、結晶の中の少女。
眠っていた者が目を覚ました。
それだけなら、喜ばしいことのはずだった。
なのに、東京湾の空を覆う威圧感は、今まで出会ったどの敵とも違っていた。
「……キリエさん」
なのはは名前を呟いた。
姉を撃ってでも父を救おうとした少女。友達だと信じていた相手に裏切られ、今は一人きりで泣いているかもしれない少女。
助けたい。
その願いが、鍵を持つ手に力を与えた。
けれど、なのははすぐには飛び出さなかった。ユーノとヴィータの言葉を思い出したからだ。
「エイミィさん。アミタさんの位置は分かる?」
『追跡できてるよ。どうしたの、なのはちゃん?』
「キリエさんを一緒に探したいの。私が一人で動くより、アミタさんと連携したほうがいいと思うから」
『了解。アミティエさんに中継するね』
「それから……はやてちゃんにも、伝えてください。上にいる子を、まだ敵って決めつけないでほしいって」
『うん。必ず伝える』
なのはは鍵を前に差し出した。
「ミカエル。道を開いて」
人間の言葉の後ろに、かすかな音が混じった。文字に書き起こせない、意志をそのまま世界へ渡すような響き。
空間が薄く開き、遠くの夜景をこちら側へ引き寄せた。向こうに見えるのは、東京湾の上空。アミティエが向かった方向だった。
通り道の外では、救護艇が懸命に負傷者を運び続けている。
このまま一息に開けば、転移そのものが周辺の空間へ影響を与えるかもしれない。なのはは鍵をほんのわずかに戻し、口の幅を小さく整えた。たった一人の少女が通れる大きさへ。
そうしてから、振り返った。
救護車両の中にいたシャリオが、黙って頷く。
「行ってきます」
「気をつけて、なのはさん」
なのはは微笑んだ。
――ねえ、キリエ。
この世界の魔導士は『魔法使い』って意味なんだそうです。
不思議な力があったって、悲しい物語はなくならない。
嘘をつかれた人が、いつも救われるわけでもない。
それでも、泣いているあなたを助けようとする人は、ちゃんといる。
魔法を使える人も、使えなくなった人も。
あなただけのために、手を伸ばそうとする人が――。
濃紺の外套が星を散らし、桃色の光輪が夜へ続く。
高町なのはは〈封解主〉ミカエルを携え、真夏の夜空へ踏み出した。
戦いは、まだ終わらない。