「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
桃子が二度目のケーキを出してきた頃には、小尾の胸の奥に溜まっていたものは、随分と軽くなっていた。
なのはの隣に座り、何食わぬ顔で紅茶を飲む。その横では、当のなのはが母親と姉を相手に、先ほどから必死になって誤解を解こうとしていた。
「だからね、お母さん。小尾君とはそういう関係じゃなくて――」
「はいはい、分かってるわよ」
「その返事、絶対分かってないよね!?」
桃子はにこにこと笑っているだけだった。美由希も助け舟を出すどころか、面白そうに二人を見比べている。
実に気分がいい。
ここ数か月、小尾は一人で外へ出ることすら許されていない。仕事へ行くにもなのはと一緒。帰る時も一緒。休日にどこかへ出るなら当然のように同行され、自宅にいる時でさえ、基本的には彼女の目が届く範囲から外れられない。
そうしなければならない理由くらい、小尾にも理解はできる。
理解できることと、不満が溜まらないことは別の話だった。
それが今、目の前で少しずつ解消されている。
胸の奥が、すっきりしていた。
「それで一君は、なのはのどういうところが好きなの?」
「お母さん!」
突然話を振られ、小尾はカップを置いた。
「そうですねえ」
「考えなくていいから!」
せっかくなので少し悩む素振りを見せると、隣から妙な圧を感じた。
なのはが笑っている。
口元だけは。
数か月も一緒に生活していれば、その程度の違いには気づく。普段とほとんど変わらない笑顔なのに、目だけがまったく笑っていない時がある。
あれは危険な方の笑顔だ。
だが、今日は知ったことではなかった。
「ご飯がおいしいところとか」
「小尾君?」
「あと、一緒にいる時間が長いので――」
「小尾君?」
声が一段低くなった。
桃子が「あらあら」と笑い、美由希も肩を震わせている。
小尾はもう一度紅茶へ口をつけた。
うまい。
非常にうまい。
その時、玄関の方から扉の開く音が聞こえた。
「あ、お父さん帰ってきたみたい」
美由希が立ち上がり、ほどなくして一人の男を連れて戻ってきた。
高町士郎。
なのはの父親である。
「ただいま。なのは、来てたのか」
「おかえり、お父さん」
「久しぶりだな」
娘の顔を見た士郎の表情は柔らかかった。なのはも先ほどまでの慌てぶりを一度忘れたように笑っている。
久しぶりに帰ってきた娘と父親の再会。
小尾は邪魔をするつもりもなく、黙って紅茶へ口をつけていた。
問題は、その直後だった。
「あなた、ちょうどよかったわ」
桃子の声が妙に弾んでいる。
「ん?」
「なのはね、今お付き合いしてる人がいるんですって」
「お母さん!」
なのはの声が裏返った。
小尾はそっと視線を逸らした。
ここで自分から口を挟む必要はない。もう種は十分に蒔いたのだ。あとは放っておけば、高町家の人間が勝手に育ててくれる。
「ほう」
士郎の視線がこちらへ向いた。
仕方なく小尾も立ち上がる。
「初めまして。小尾一です」
「なのはの父の、高町士郎だ」
差し出された手を握る。
特別強く握られたわけでもなければ、こちらを試すような露骨な動きもない。ただ、手の皮は少し硬かった。
娘が連れてきた相手へ挨拶する父親としては、ごく普通に見える。
案外まともな人なのかもしれない。
「今、一君となのはは一緒に暮らしてるのよ」
美由希が横から付け加えた。
士郎の手が止まった。
「お姉ちゃん!?」
「同じ部屋で寝てるんですって」
「お母さんまで!?」
「ベッドは別ですよ」
「小尾君は黙ってて!」
事実を補足しただけなのに怒られた。
士郎は娘を見たあと、改めて小尾へ目を向ける。
「……同じ部屋?」
「違うの! 違わないんだけど、ちゃんと理由があって――」
「一君、ご飯もなのはが作ってるのよね?」
「だいたいは」
「小尾君!」
また怒られた。
小尾としては何一つ嘘をついていない。
士郎はしばらく二人を眺めていたが、やがて穏やかな笑みを浮かべた。
「小尾君」
「はい」
「少し、話をしようか」
「ここで?」
「いや。男同士で」
何かがおかしい。
小尾は士郎を見た。
笑っている。
だが、先ほどまでと同じ笑顔ではない。
隣を見ると、なのはも嫌な予感を覚えたらしく、父親と小尾を交互に見ていた。
「お父さん?」
「大丈夫だよ。少し話をするだけだ」
そう言って士郎は居間を出ていった。
小尾も仕方なく立ち上がる。
さっきまで最高に気分がよかったのに。
なぜこうなった。
◇
「……いや、ちょっと待って」
庭へ出たところで、小尾は足を止めた。
高町家の敷地の奥に、道場があった。
物置を少し大きくしたようなものではない。きちんと複数人が稽古できるだけの広さを持った、立派な板張りの道場である。
ここへ来るまで、高町家は普通の住宅だと思っていた。
少なくとも、家の正面から見ただけでは、敷地の奥にこんなものまであるとは思わなかった。
「なんかこの家、広くない?」
「小尾君?」
後ろからついてきたなのはが首を傾げる。
「なのはさん。君、実家について僕に何か隠してない?」
「え?」
「いや、もういい」
聞いたところで道場が消えるわけでもない。
士郎に促され、中へ入る。
長く使い込まれているらしく、板張りの床にも柱にも細かな傷が残っていた。壁際には木刀や稽古用の武具が並び、今でも日常的に使われていることが分かる。
そして士郎は、その中から二振りの小太刀を手に取った。
「…………は?」
思わず声が出た。
「お父さん!」
なのはもようやく状況を理解したらしい。
「何する気!?」
「少し身体を動かすだけだよ」
「小太刀持ってるよね!?」
「大丈夫だ」
「何が!?」
小尾も同意見だった。
男同士で話をするのではなかったのか。
士郎は軽く手首を回したあと、二本の小太刀を自然に構えた。その瞬間、居間で見た柔らかな父親の雰囲気が薄れる。
「小尾君。武術をやっているだろう」
小尾は目を細めた。
「……どうしてそう思うんです?」
「握手した時にね。それに、歩き方と立ち方を見れば多少は分かる」
あの短い時間で見られていたらしい。
隠す理由もないので、小尾は肩を竦めた。
「八極拳を少し」
「少し、か」
士郎が僅かに笑った。
その笑い方を見て、小尾の中で嫌な予感が一段階増した。
「軽く付き合ってくれないか?」
「僕、素手なんですけど」
「嫌なら断ってくれて構わない」
言葉だけなら穏やかだった。
本当に断れば、それ以上無理強いするつもりはないのだろう。
小尾は少し考えた。
なのはの父親を怪我させれば、確実に面倒なことになる。逆に、自分が多少殴られたところで大した問題ではない。
それに、士郎の構えが気になった。
二本の小太刀を持っているのに、どちらを主に使うのか分からない。身体から余計な力が抜けているせいで、次に何をするのかも読みづらい。
ただの趣味人ではない。
「……まあ、いいですよ」
「小尾君!?」
なのはがこちらを振り返る。
「軽くです。軽く」
「二人ともだからね!」
桃子と美由希まで、いつの間にか道場の入口から覗いていた。
誰も本気で止める気はなさそうである。
高町家ではこれが普通なのだろうか。
小尾は靴下を脱ぎ、裸足で床へ上がった。
足を置き、腰を沈める。
力まず、重心だけを落とす。
その瞬間、士郎の目が僅かに細くなった。
「では」
声と動きがほとんど同時だった。
士郎との距離が一気に消える。
「っ」
考えるより先に身体を引いた。
鼻先を小太刀が通り過ぎる。一本目を避けた直後には、すでに二本目が脇腹へ向かっていた。
小尾は退かなかった。
逆に踏み込む。
刃物を持った相手と、その間合いでいつまでも付き合う理由はない。
士郎の腕の内側へ自分の腕を差し込み、そのまま肘から肩へ繋げる。
懐へ入ればいい。
そう考えた瞬間、士郎の身体が半歩だけ横へ抜けた。
肩が空を切る。
追おうとした時には、首筋へ二本目の小太刀が迫っていた。
小尾は頭を沈めてそれを避け、そのまま二歩ほど距離を取った。
「……へえ」
思わず声が漏れた。
速い。
だが、それ以上に間合いの作り方が嫌らしい。
こちらが入りたい場所へ先に刃が置かれている。懐へ潜ったつもりでも、いつの間にか身体をずらされ、追おうとすればもう一本が次の進路を塞いでくる。
もう一度。
今度は小尾から踏み込んだ。
足を入れ、距離を潰す。
肘を出す。
士郎が片方の小太刀で腕の軌道を外した。
その力に逆らわず腰を回し、肩へ切り替える。
今度は完全には逃がさない。
士郎の足が一歩下がった。
そこへ追撃しようとした瞬間、小太刀が足元へ落ちてきた。
踏み込めない。
ほんの僅かに止まっただけで、再び士郎の間合いへ戻されていた。
「なるほど」
士郎の目に、少し違う色が混ざる。
「ちゃんと八極拳だな」
「最初からそう言ってるでしょう」
「いや。形だけ覚えたものじゃない」
視線が、小尾の足から腰、肩へと流れる。
「歩法も、力の繋ぎ方も身体へ入っている。いい師を持ったんだな」
勝手に納得された。
説明するつもりもないので、小尾は否定しなかった。
それより気になるのは、士郎の目が先ほどより明らかに楽しそうになったことだった。
「……なんで今のでやる気出してるんです?」
「せっかくなら、もう少し見たくなった」
「娘の相手を試してたんじゃないんですか?」
「それはそれだ」
「別件になってるじゃん」
士郎が笑う。
直後、再び小太刀が迫った。
そこから先は、小尾にも軽口を叩く余裕がなくなった。
八極拳が通じないわけではない。
何度か懐へ入り、体勢を崩しかけた場面もある。拳や肘が届く寸前まで迫ったこともあった。
それでも、その先へ進ませてもらえない。
二本の小太刀へ対処するうち、少しずつ攻める手段を削られていく。腕を制そうとすれば身体ごと抜けられ、追えば踏み込みへ刃を差し込まれる。
純粋な身体能力と技術だけで続けるなら、いずれ負ける。
小尾はそこまで判断すると、一度大きく距離を取った。
「……仕方ないか」
大人気ない。
その自覚はある。
武術の腕を比べているところへ、魔術による身体強化を持ち込むのだから、もう同じ条件ではない。
とはいえ、全力を出すつもりはなかった。
少しだけ。
身体能力そのものの差を見せれば、この立ち合いも終わる。
そう考え、小尾は体内へ魔力を流した。
腕と脚に、淡い青白色の光が浮かび上がる。
肩から腕へ伸びた幾筋もの光が皮膚の下を走り、腰から脚にも同じような輝きが現れた。
強化する量は最低限。
それでも、先ほどまでとは明らかに違う。
士郎もそれを見れば、普通ではないことくらいは分かるだろう。
そう考えていた小尾の耳に、予想もしなかった言葉が届いた。
「……魔術師か?」
小尾は顔を上げた。
「…………はい?」
士郎は二本の小太刀を構えたまま、青白く光る小尾の腕を見ている。
「今、なんて言いました?」
「魔術師」
聞き間違いではなかった。
魔導師でも、魔法使いでもない。
前世で嫌というほど聞いてきた、その呼び方だった。
「なんで、その言葉を知ってるんです?」
「昔、仕事でな」
「仕事?」
「護衛をしていた頃に、何度か会ったことがある」
小尾の表情から僅かに軽さが消えた。
「……魔術師に?」
「ああ」
士郎は小尾の腕から脚へ視線を動かした。
「そいつらも、術を使う時には腕や脚にそんな青白い光が浮かんでいた」
小尾はしばらく黙った。
「それで分かったんですか?」
「一人だけなら覚えていなかっただろうが、何人か同じものを見たからな。周りから魔術師と呼ばれていたのも覚えている」
「何で光るのかは?」
「知らない」
士郎はあっさり答えた。
「何をしているのかも、詳しい仕組みも聞いたことはない。向こうも護衛相手に自分たちの事情を話すような連中じゃなかったからな」
その答え方に、小尾はかえって納得した。
士郎は魔術について詳しいわけではない。
ただ、過去に本物を見たことがある。
それだけだ。
「……高町家、何なんだよ」
「何か言ったか?」
「いえ。こっちの話です」
聞きたいことは増えた。
だが、それは後でいい。
今は先に、この妙な立ち合いを終わらせる。
「一応言っておきますけど」
「うん?」
「ここから、ちょっとズルしますよ」
「構わない」
即答だった。
ならいい。
小尾は脚へ流す魔力を少しだけ増やした。
床を蹴る。
先ほどまでとは踏み込みそのものが違った。
一歩で間合いが消える。
二本の小太刀が追いつくより先に、その外へ回る。技術がどれだけ優れていても、身体能力そのものに大きな差がつけば限界はある。
これで終わり。
そう考えて士郎の懐へ肩を入れようとした。
その瞬間。
士郎の姿が、揺れた。
「――は?」
いたはずの場所から、身体が消えるようにずれた。
小尾の肩が空を切る。
直後、背後に気配。
反射的に床を蹴って前へ逃れ、振り返る。
士郎がいる。
二本の小太刀を構えたまま、当然のように。
「……いやいや」
もう一度。
今度は小尾から速度を上げる。
右へ踏み込み、急停止。
そのまま逆へ切り返す。
士郎がついてくる。
さらに一段速く。
それにも遅れない。
ぎしっ、と床板が軋んだ。
魔力で強化された小尾の踏み込みに、古い板が悲鳴を上げる。
次の瞬間。
ぎぃっ――。
ほとんど同じ音が、士郎の足元から響いた。
「……ちょっと待って」
小尾は攻撃をやめ、一度距離を取った。
士郎を見る。
魔術を使った気配はない。
何かの道具を起動した様子もない。
それなのに、魔力で身体能力を引き上げた自分についてきている。
「今の、何です?」
「神速」
「神速?」
「ああ」
「いや、それ説明になってないんですけど」
士郎は小太刀を構え直す。
その顔は、先ほどより楽しそうだった。
小尾は青白く光る自分の腕を見てから、もう一度士郎を見る。
「僕、今ちょっと強くなったんですけど」
「ああ。見れば分かる」
「普通ここで終わりません?」
「まだついていけるからな」
「だから、それがおかしいんだって」
士郎の足が床を擦る。
また板が低く軋んだ。
「まだ上があるのか?」
「なんで見たがるんです?」
「武術をやっていれば気になるものだよ」
「僕は今、帰りたいです」
士郎が笑った。
まったく聞いていない。
結局、それからもしばらく立ち合いは続いた。
小尾が速度を上げれば、士郎は神速を使って食らいつく。八極拳の間合いへ強引に潜り込めば、二振りの小太刀で進路を潰される。こちらも身体能力を上げている以上、先ほどのように一方的に押されることはなくなったが、それでも士郎は簡単には崩れなかった。
完全に力で上回ること自体はできる。
もっと魔力を流せばいい。
だが、そこまでやれば本当に大人気ないどころの話ではない。
なのはの父親相手に、何をしているのだろう。
途中から小尾自身にも分からなくなってきた頃、ようやく士郎が小太刀を下ろした。
「よし。もういいだろう」
「……やっとですか」
小尾も構えを解く。
腕と脚を走っていた青白い光が徐々に薄れ、やがて消えていった。
それを確認した士郎は、小太刀を戻しながら満足そうに頷く。
「小尾君」
「はい?」
「君なら大丈夫そうだ」
「何がです?」
「なのはのことだ」
嫌な方向へ話が戻った。
道場の入口にいたなのはも気づいたらしい。
「……お父さん?」
「腕もある。無茶に力へ頼るわけでもないし、立ち合いの最中もちゃんと加減していた」
士郎は腕を組み、小尾を改めて見た。
「少なくとも、なのはが選んだ相手としては認めてもいいと思ってる」
「え」
「え?」
小尾となのはの声が重なった。
「あら、よかったじゃない」
桃子が嬉しそうに手を合わせる。
「お父さんがこんなに早く認めるなんて珍しいね」
美由希まで感心したように頷いた。
「いや、ちょっと待って!」
なのはが慌てて道場へ入ってくる。
「何で勝手にそういう話になってるの!?」
「何でと言われても……」
士郎が困ったように首を傾げる。
「一緒に暮らしてるんだろう?」
「暮らしてるけど!」
「同じ部屋で寝ている」
「それも本当だけど!」
「なのはが食事を作っている」
「そうだけど、そういう話じゃないの!」
「なら、大きな問題はなさそうだな」
「あるよ!」
なのはの声が道場へ響いた。
小尾はその横で、そっと視線を逸らした。
どうやら、先ほどの立ち合いは誤解を解くどころか、士郎の中で何かの審査を通過させてしまったらしい。
「一君」
桃子が笑顔で呼ぶ。
「これからも、なのはをよろしくね」
「はい」
「小尾君!?」
反射的に返事をすると、なのはがものすごい勢いで振り返った。
「いや、今のは流れで」
「流されないで!」
士郎も小尾の肩へ手を置く。
「何かあったらいつでも来るといい。また相手をしよう」
「それは遠慮します」
「そう言わずに」
「そこは本気で遠慮します」
「お父さんも! 勝手に次の話まで進めないで!」
誰もなのはの話を聞いていなかった。
桃子と美由希はすでにすっかり納得した顔をしているし、士郎は士郎で小尾の八極拳にまだ興味が残っているらしい。
小尾も今さら訂正する理由がない。
その中心で、なのはだけが一人取り残されていた。
「もうっ!」
顔を赤くしたなのはが、父親と母親と姉、それから最後に小尾を順番に睨む。
「勝手に話、進めないでよ――っ!」
高町家の道場に、なのはの声が盛大に響き渡った。