「力が欲しいか?」と言いたくて!   作:桃たろす

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アルテミット・ワン

自爆の閃光は、なのはの頭部を吹き飛ばしていた。

 

 だが、その消失が死を意味する身体ではない。砕けた肉体から散ったテレズマは途切れることなく集まり、首の上に細い光の骨格を組み、顔の輪郭と瞳を物質化し始めている。

 

 その再構築が終わるまでの、ごく短い時間。

 

 なのはの意識は、現実の空間から少しだけ遠ざかっていた。時間も距離も定かでない、記憶の奥のような場所にいた。

 

「私……今度はみんなを守れたかな……」

 

 手も足も見えなかった。ただ、戦いが終わったことの実感だけはある。

 やりきった。今度こそ『誰かの大切なもの』を守り通せた。なのに、思ったほどの達成感が胸に込みあげてこない。

 それでもなのはは自身に言い聞かせた。

 

「ならいいや。満足――」

 

「ほんとうにまんぞく?」

 

 と、自分と同じ声が反響する。

 

「なら、あなたはきっと、あんまり自分が好きじゃないんだね」

 

 どきりとさせられた。目の前に昔の、もっと幼い頃の『なのは』がいたのだから。

 あんまり自分が好きじゃない――その言葉がなのはの胸の内を暴く。

 

「誰かの役に立って、誰かを助けてあげられる自分じゃないと、好きになれないんだ」

 

 なぜこうまでして戦うのか、それを初めて自覚した。同時に思い知らされた。

 まだ小学生のなのはに、生き様や矜持といった複雑な感情はない。ただ漠然とした使命感に突き動かされて、魔導士を続けている。

 その根底にあるのは、まっすぐな正義感ではない。無力感と後悔だ。

 フェイトの母親も、これまで救えなかった誰かの命も戻せない。あの時の悔しさを、『自分は子どもだから』などという身勝手な理屈でやり過ごしたくない。

 だからこそ、なのはは今も抗っている。

 

「誰かを助けたいのも、自分が後悔したくないから?」

 

「そうなのかもね」

 

 幼い自分が哀れみの色を浮かべた。

 

「つらいね」

 

「少しね」

 

 なのはは自嘲しつつ、戦いの日々で得たものを数えていく。

 

「だけど魔法と出会って、みんなと出会って、辛くなくなってきたよ。魔法と出会うきっかけをくれたユーノくんは、今でも私の大切な友達で、魔法の先生」

 

 ユーノ=スクライアにレイジングハートを託された時、なのはの物語は始まった。

 

「リンディさんやクロノくん、エイミィさんたちは、色んなことを教えてくれる」

 

 時空管理局の皆とともに頑張ってきた。

 

「楽しそうにしてるはやてちゃんや、八神家のみんなを見てると、切なくなるくらい幸せな気持ちになる」

 

 皆がそれぞれの場所で生きている。それを思うと、胸が締めつけられる。

 

「アリサちゃんやすずかちゃんがいつも話を聞いてくれて 心配してくれて……」

 

 小学校の友達には今回も心配を掛けてしまった。

 フラッシュバックする記憶の中で、フェイトが儚げに微笑む。

 

『なのは』

 

 視界が涙で滲んだ。

 

「フェイトちゃんと友達になれた時、みんなが私の名前を読んでくれるのが……ほんとうに、ほんとうにうれしくて……」

 

 声が涸れる。

 幼い頃の自分が背伸びして、頭を撫でてくれた。

 

「自分を好きになれなくてもいいよ。だけど、あなたのことを好きで大切に思ってる、みんなのことを忘れないで。大切なひとを泣かせるのはいやでしょう?」

 

「うん」

 

「自分を好きになれる日も、きっと来るよ」

 

「うん……」

 

 優しく涙も拭いてくれて。

 

「だからほら。いつかきっとね――」

 

 幼い自分の姿が薄れていく。

 

 なのはの意識が現実へ戻る頃、失われた頭部の再構築も終わろうとしていた。

 

 光が頬の形を結び、瞼ができ、その下に瞳が生まれる。首と頭部を繋ぐ輪郭が定まると、桃色の粒子が霊装の細部まで織り直した。最後の光が髪の先へ収まり、なのははゆっくりと目を開いた。

 

「あ、あれ……?」

 

 真正面に青く美しい星があった。地球だ。

 その姿を捉えた途端、なのはは自分がまだ宇宙空間にいることを思い出した。天使となった身体を構成するテレズマが淡く発光し、無意識のうちに外界との境界を保っている。もう手元にデバイスはない。

 

 肉体には傷ひとつない。頭部を失うほどの損傷でさえ、もう跡形もなく再構築されていた。ただ、膨大な量のテレズマを物質化し直し、何度も空間を開閉した反動は、意識の奥に重たく残っている。呼吸を整えるように目を閉じると、わずかに思考が鈍った。

 地球の自転に置いていかれる錯覚もした。

 なのに、不思議と怖くない。

 幻想的なほどに綺麗な地球を、ずっと眺めていたくなる。

 

「さっき、夢を見たんだ」

 

 答える者はいない。それでもなのはは、昔の自分に尋ねられたことを思い出していた。

 

「ちっちゃい頃の私と話したの。最後にね、こう言われたんだ」

 

  「私は本当に幸せだね、って」

 

 やがて地球の中からふたつの光が近づいてきた。

 フェイトとはやてが上空のなのはを見つけ、手を振る。

 

「なのはーっ!」

 

「待たせてごめんなあ」

 

 ふたりは同じ高度に達すると、小さななのはを抱き締めた。

 

「ふたりとも……だめだよ。無茶しちゃ」

 

「こっちの台詞です」

 

「ほんまにな」

 

 なのはの胸に、今まで感じられなかった嬉しさが込みあげてくる。

 

(もっと自分を好きになろう)

 

 そう想いながら、なのははフェイトの手に掴まった。

 

「帰ろう、なのは。みんなが待ってる」

 

「うん!」

 

 青い星に新しい朝が来る。

 

7月下旬、東京都新宿――。

 事件は終わり、管理局の面々は事後処理に追われていた。

 そんな中、なのはは本部局の医務室にて絶対の安静を厳命されている。

 

「あのぉ、フェイトちゃん……もう大分よくなったし、そろそろ……」

 

「だめです」

 

 林檎の皮を剥きながら、フェイトは厳しく言いつけた。

 

「まだ安静。出歩く時も車椅子ですっ」

 

 フェイトと背中合わせでキリエも繰り返す。

 

「お姉ちゃんもね。ナノマシンだって残ってないんだから」

 

「は、はい……」

 

 隣のベッドでアミティエは無念そうに頭を垂れた。

 体内のナノマシンが足りず、もう食べるだけでは傷を治せないのだとか。脇腹を貫通するほどの大怪我を負ったため、ずっとベッドから動けずにいる。

 なのはの身体に傷はなかった。自爆で頭部まで失ったとは信じられないほど、肉体は完全に再構築されている。それでもテレズマの再物質化と、途方もない規模の空間操作を繰り返した負荷は、意識の奥にまだ残っていた。『無茶をしない』との約束を片っ端から反故にしたことで、フェイトを始め、皆の目は厳しい。

 

「でもよかったですね、キリエさん。早く帰してもらえるみたいで」

 

「私はイリスと一緒に償いを、と思ってたんだけど……」

 

 キリエは視線を落とし、溜息を交えた。

 騙されてのこととはいえ、イリスは事件の主犯格として今も事情聴取を受けている。

 一方でキリエは、単身で夜天の書を奪還し、また管理局に介することなく八神はやてに返却したことで、裁判の前に和解が成立。姉のアミティエ=フローリアンとともに『事情あっての密航』とみなされ、大体のことが不問となった。

 アミティエが苦笑する。

 

「クロノ支局長にはご迷惑を掛けてばかりとなりますが……」

 

「気にしないでください。母さんも『クロノにはいい勉強』って言ってますし」

 

「フェイトちゃんのお兄さんなんだっけ?」

 

 クロノ=ハラオウン支局長は新宿のオフィスで缶詰とのこと。始末書の山を相手に孤軍奮闘しているらしい。

 のみならず、フローリアン姉妹の帰還については父グランツの容態も考慮された。

 ユーリの力があれば助かるかもしれない。その可能性がある以上、エルトリアへの帰還は早いほうがよい、との判断だ。

 しかしキリエは喜ばず、むしろ困惑する。

 

「本当にいいのかな……これって『永遠結晶』を手に入れた、みたいで」

 

「キリエさん……」

 

 なのはとフェイトは口を挟めない。

 アミティエは穏やかな笑みを綻ばせた。 

 

「忘れましたか? キリエ。父さんはユーリの友達なんです」

 

「あ……うん」

 

「私たちがユーリを見ず知らずのひとのところへ連れていくのではありません。ユーリが友達を助けるために来てくれるんです」

 

 ユーリにとってグランツは『どこかの誰か』ではない。40年前の惑星再生委員会で、母のエレノアとともに親交があった。だからこそユーリは自ら力を貸してくれる。

 フェイトが声を明るくした。

 

「イリスさんもグランツさんのことを心配して、管理局に掛けあってくれたそうです」

 

「エレノアさんもユーリちゃんたちに会いたがってると思います」

 

 なのはからも励ましの言葉を受け、キリエは観念したようにはにかむ。

 

「ふたりには敵わないよ。ほんと」

 

 笑い声が重なった。

 

 アリサとすずかは目を丸くする。

 

「ちょっと、ちょっとぉ? せっかく色んなお洋服持ってきたのに」

 

「み、みんな縮んじゃってるね……」

 

 真中の幼児がふてくされた。

 

「好きで縮んだわけではないわっ」

 

 ディアーチェ、シュテル、レヴィの背丈はアリサたちの胸ほどにしかない。

 3人は運よく人間の姿を取り戻せたものの、その生成にはまだまだ時間を要した。しばらくは幼児の身体で過ごすほかない。

 レヴィはうなじを掻き、シュテルはお腹を撫でる。

 

「これなら猫のまんまでよかったかも。動きにくい……」

 

「じきに慣れるでしょう」

 

「問題は魔力を取り戻せるかどうかだ。力がなくては、あの泣き虫を守れぬ」

 

 ディアーチェが踏ん反り返ったところで、もはや貫禄はなかった。

 

 オールストン・シーのホテルの屋上にて、はやてはユーリと肩を並べる。

 少し離れたところでシグナムたちも見守っていた。

 

「ユーリはこれからどうするん?」

 

「エルトリアに帰りたいです。まずは亡くなった仲間たちを弔って……グランツやエレノアの病気も、私が診てあげられたら、と」

 

 はやての意識に、誰にも聞こえない声が届いた。

 

『主はやて。彼女には故郷で果たしたいことがあるのですね』

 

(そやな。ちゃんと帰してあげな)

 

 リインフォースの言葉に胸の中で頷き、はやては微笑んだ。

 

「エレノアさんたちとは、昔からのお知り合いなんやったね」

 

「前に会った時は、こんなに小さかったんですけど」

 

 ユーリは胸の高さでてのひらを寝かせた。

 

「イリスとも話ができて、わかってもらえて……停まっていた時間が、やっと動き出した気がします。本当に全部みなさんのおかげです」

 

「私らは少しお手伝いしただけや」

 

 はやては苦笑いで謙遜する。

 ユーリもまた夜天の書の守護者として、八神家の一員に数えることができた。

 しかし彼女は自らの意志でエルトリアへ帰ることを決めた。そんなユーリを、まだ出会って間もないはやてが引き留めるわけにはいかない。

 

「せっかく仲良くなれたのに、もうお別れになるのは寂しいなあ……」

 

 リインフォースもまた、はやての心の内側で別れを惜しんでいた。

 

『夜天の書の守護者として、もっとお話を聞いてみたかったのですが』

 

 はやてはその想いを無理に代弁することはせず、ただユーリの顔を見つめていた。

 ユーリは正直に語った。

 

「私が話せることなんてほとんどないです。私はただ付き添っていただけで……『彼女』を幸せにはしてあげられませんでしたから」

 

 そしてはやての手を取り、万感の笑みを浮かべる。

 

「長い旅の最期に、あなたのような主に出会えたこと。きっと幸せだったと思います」

 

「そうやったら……ええな。ありがとう」

 

 握手に力を込めながら、はやては守護騎士たちのほうへ振り向いた。

 

「シグナムやヴィータもいつか、ユーリみたいに自分のやりたいこと見つけて、旅立つ日が来るかもしれへん。そう思ぉたら、ユーリのこと、ちゃんと見送らんとな」

 

『寂しいことですが、素敵な考えだと思います』

 

 リインフォースの声に、はやては心の中で笑いかけた。

 

「な? その時は私、立派な『主』でいたいから……」

 

 夏の空は青く眩しい。

 

それから一週間ほどが経過し、エルトリアの一行が帰る日となった。

 海岸に面した広場まで、大勢が見送りに集まる。

 なのははシュテルと握手を交わした。

 

「高町なのは、お元気で」

 

「うん。シュテルも元気でね」

 

 アリサとすずかもシュテルに別れの言葉を惜しまない。

 

「落ち着いたら、ちゃんと連絡しなさいよ?」

 

「私たち、もう友達なんだもの。ね?」

 

「はい。友人です」

 

 なのはも便乗して名乗りをあげる。

 

「シュテル、私! 私も友達?」

 

「あなたはライバルです」

 

「……あれぇ?」

 

 レヴィはフェイトとアルフを見上げて、八重歯を光らせた。

 

「キミらも元気でなー」

 

 フェイトは気恥ずかしそうに微笑む。

 

「妹ができたみたいで楽しかったよ。またね、レヴィ」

 

「え~? ボクがお姉さんで、妹はフェイトのほうだろ」

 

「それでもいいよ」

 

 傍らのアルフがレヴィの頭をがしがしと撫でた。

 

「そっかあ、姉と妹か。うんうん!」

 

「な、なんだよ? もう」

 

 フェイトには分身となる『姉』がいた――それを今、やっと乗り越えることができたのかもしれない。

 

「これでいいんだよね。母さん、リノス、アリシア」

 

「母さんって、リンディってひとのこと?」

 

「うん」

 

 同じようにディアーチェ、ユーリも挨拶を済ませつつあった。

 照れくさそうにディアーチェが呟く。

 

「貴様にもまあ、なんだ……世話になった」

 

「こちらこそ。ユーリも向こうで頑張ってな」

 

「はい。私と夜天の書はホットラインですので、また近いうちに」

 

 はやてやユーリの声も弾んだ。

 フローリアン姉妹はリンディに土産を持たされる。

 

「い、いいんですか? 本当に……」

 

「ええ。ご両親にもよろしくね」

 

 そこへエイミィが、もうひとりの『仲間』を伴ってきた。

 

「今日しか時間作ってあげられなくて、ごめんねー」

 

 キリエとユーリが同時に声をあげる。

 

「「イリス!」」

 

 今回の事件の首謀者でもあるイリスは、申し訳なさそうに前へ出た。

 キリエの顔を直視できないまま、訥々と打ち明ける。

 

「あたしは裁判とか色々あるから、その、当分はこっちに残るんだけど……終わったあとのこと、今のうちに相談しておかなきゃって」

 

 ユーリが首を傾げた。

 

「終わったあとのこと?」

 

「ユーリのこと誤解して、みんなを巻き込んで……でも、私もエルトリアに――」

 

 一言ごとに震えるイリスの唇を、キリエの人差し指が塞ぐ。

 

「あの夜も言ったでしょ? 償うのも謝るのも一緒にやっていこ、って」

 

「キリエ……」

 

 やっとイリスが顔をあげた。

 

「イリスだって、見返りを求めてユーリと仲良くなったんじゃないでしょ? 私もそう。イリスがいつも私を助けてくれるから、イリスのこと好きになったんじゃない」

 

 なのはやフェイト、一同も静かに耳を傾ける。

 夏の太陽がキリエの背中を照らした。

 

「それにね? 私、ここへ来て思ったの」

 

 キリエは両手を広げながら、地球の青い蒼穹と海原に臨む。

 

「コロニーに移住していったみんなの気持ちも、わかっちゃうなあ……って」

 

 ずっと裏切り者だと思っていた。薄情な連中とばかり思っていた。

 けれども、キリエはこの星で知った。

 大切な家族や友達と一緒にいられる、幸せでいられる日々の尊さを。コロニーのひとびともキリエと同じ心を持ち、愛を抱き、生きていることを。

 青い空も豊かな緑も、本当はどうでもよいことだ。

 たとえ劣悪な環境の中に置き去りにされた、小さな家族でも。

 

「本当に大切なのは、エルトリアを綺麗な星に戻すことじゃないの。みんなで一緒に笑っていられるような……そういう素敵な場所を、私は作っていきたい」

 

 そう宣言し、キリエはイリスに手を差し伸べた。

 

「だからイリスも手伝って。私がひとりじゃ何もできないの、知ってるでしょ?」

 

 イリスはキリエの手を握り締め、涙ぐむ。

 

「うん……うんっ!」

 

 アミティエは感無量といった顔つきでメンバーを一瞥した。

 

「それではみなさん、私たちはそろそろ」

 

 なのはとフェイトが前に立つ。

 

「またいつか、どこかで」

 

「それまでお元気で」

 

 エルトリアへのゲートが開いた。ディアーチェが、レヴィが、シュテルが、ユーリが、アミティエが門をくぐり――最後にキリエが振り返り、ウインクを決める。

 

「またね! 可愛い魔法使いさん」

 

 別れの笑顔は爽やかに。

 

そして、六人は故郷へ帰った。

 

 跳躍の感覚は短かった。

 

 次元ゲートの中では距離に意味がない。地球からエルトリアまでの途方もない隔たりを、ひとつの光の廊下が折り畳む。先頭を行くアミティエのフォーミュラは航路を確かめ、最後尾のキリエが何度も振り返った。閉じつつある入口には、あの海辺の広場と、手を振る友人たちがまだ小さく見えていた。

 

 もう一度、なのはの笑顔が見えた。

 

 キリエは唇だけで「またね」と繰り返した。今度は相手に聞こえなくてもよかった。約束とは、そういうものなのだと思えたから。

 

 やがて入口は点となって消え、行く先に別の光が生まれた。

 

「さあ、皆さん。到着します」

 

 アミティエが背中越しに呼びかけた。

 

「到着したら、まず母さんに連絡を入れます。父さんの具合も確認しなくては」

 

「わかってるってば、お姉ちゃん。……ねえ、ユーリ。パパのこと、お願いしてもいい?」

 

「もちろんです」

 

 ユーリはこともなげに答えた。

 

「グランツもエレノアも、私にとっては大切な友達ですから。まず診て、それから何ができるか一緒に考えましょう」

 

「うん!」

 

 キリエは肩に担いでいた荷物を持ち直した。

 

 リンディから渡された土産がある。地球のお菓子、乾燥した茶葉、アリサの母親から届いた小さな包み。すずかが選んだ布地もある。母に似合うかどうかは、帰ってから皆で決めればいい。

 

 ほかにも話したいことは山ほどあった。地球で食べた料理のこと。海の匂い。なのはとフェイトのこと。アリサがディアーチェを着せ替え人形にしてしまったこと。父が笑えば咳き込んでしまうかもしれないけれど、その時はユーリがいる。

 

 今まで夢の中でしか思い描けなかった帰郷が、いま目の前にある。

 

「ふむ。最後の別れは少々騒がしかったな」

 

 幼い姿になったディアーチェが、両腕を組んで感想を漏らした。

 

「王様は、もっとみんなとお話ししたかったんでしょ?」

 

「違うわ、レヴィ。あやつらが離さぬから仕方なく付きあってやったのだ」

 

「ええ。ですがディアーチェ、あなたも随分と名残惜しそうでした」

 

「シュテルまで余計なことを言うでない」

 

 シュテルは口元にわずかな笑みを浮かべた。

 

 地球で得た衣服はまだ身体に馴染まない。三人とも本来の大きさを取り戻せないままだが、腕を動かせばちゃんと隣の者に触れる。それを確かめるためか、レヴィはことあるごとに二人へ寄り掛かってくる。

 

「まず何から始めましょうか」

 

 シュテルの質問に、ユーリは少し考えてから答えた。

 

「庭の様子を見たいです。四十年も経っているから、あの花壇はもう残っていないと思いますけど」

 

「そんなの、また作ればいいじゃん」

 

 レヴィは即答する。

 

「ボク、穴掘り得意だし!」

 

「レヴィが掘るのは穴ばかりでは困ります。土の配合から調べなくては」

 

「うう、むずかしそう……」

 

「そのために私たちがおるのだ。役目を分ければよい」

 

 ディアーチェは胸を張った。

 

「我が指揮する。シュテルが考え、レヴィが働く。ユーリは花を咲かせればよい」

 

「王様は働かないの?」

 

「指揮も立派な仕事だ!」

 

 ユーリが笑った。アミティエも笑った。キリエはそれを見て、やっと自分も笑えることに気付いた。

 

 ゲートの出口が大きく開いた。

 

 最初に感じたのは、懐かしいはずの空気だった。

 

 エルトリアの空気は薄く、乾いている。機器で浄化していない場所では細かな砂が喉につき、金属のような味がする。それでもキリエには故郷の匂いだった。

 

 小さい頃、家の窓を開けるときに母から注意された。砂が入るから、あまり長く開けないで。父がまだ元気だった頃、二人で風向きを確かめ、庭の苗を守るために遮風板の角度を変えた。

 

 そういう何でもない記憶が、帰るという言葉の内側に詰まっていた。

 

 だからキリエは、出口の向こうに足を踏み出してからも、すぐには異変を理解できなかった。

 

「……あれ?」

 

 誰も応じなかった。

 

 空があった。

 

 ただ、それが空と呼ぶべきものか、一瞬、わからなかった。

 

 エルトリアの空はもともと灰色だ。雲が厚く、地平線には砂がかかる。けれど今日見えているのは灰色ではなかった。表面の色を失った金属のように、薄く濁った白が広がっている。太陽に当たる位置だけ、傷口のように色が変わっていた。

 

 遠くに見えるはずの山がなかった。

 

 正確には、山があった位置に別のものがあった。

 

 地平線を幾筋もの裂け目が横断している。大地は巨大な鋤で乱暴に掘り返されたようにめくれ、断面が何層にも重なっていた。灰色の土の下から黒い岩盤が露出し、その黒さの中に、見たことのない透明な筋が走っている。

 

 岩か、氷か、硝子か。

 

 遠すぎて判別できない。

 

「着地点を誤ったんじゃないの?」

 

 キリエは自分の声を不自然なほど明るくした。

 

「ここ、どこ? お姉ちゃん。絶対、違う場所でしょ」

 

 アミティエは返事をしなかった。

 

 フォーミュラの測位画面を開いている。ほんの数秒前まで確かだった表情が、数字を追うたびに失われていった。

 

「座標は……合っています」

 

「そんなわけないじゃん」

 

「地表基準点も、重力偏差の記録も、ここがエルトリアだと示しています」

 

 姉の説明は難しかった。キリエは理解しようとしなかった。

 

「コロニーは? ほら、空の上。ここに来る時、何度も見たじゃない。あの細長い光」

 

 誰も空を指ささない。

 

 エルトリアの軌道上には、政府の管理する居住コロニーがあった。人類が母星を離れ、空気と水を確保して生き延びるための場所。夜には細い明かりの列が見える。地上に残されたフローリアン家にとって、あの光はいつも遠かった。

 

 しかし、遠くにあることと、ないことは違う。

 

 空には何もなかった。

 

 光の列も、軌道上の輸送施設も、そこから定期的に降りてくる補給船の航跡も。

 

「雲が厚いだけじゃ……」

 

 言いかけて、キリエは気付いた。

 

 雲そのものが見えない。空の濁りに奥行きがない。空気の層を何枚も重ねた向こう側が、ぬるりと一枚の板になってしまったような違和感だった。

 

 ユーリが瞳を細める。

 

「魔力の流れが、おかしいです」

 

「どのように?」

 

 シュテルの問いかけに、ユーリは言葉を選んだ。

 

「何かが増えているのではなく……ずっと前からあったものが、表へ出てきているような」

 

 自分でも説明できないらしく、首を傾げる。

 

 ユーリは地面に触れようとして、手を止めた。花を育てる時、いつもなら土の中に微かな息遣いを感じる。しかし今は、どこに手を置けばいいのかわからなかった。

 

 アミティエが母への通信を試みた。

 

「母さん。こちらアミティエです。聞こえますか」

 

 端末には応答待機の表示が出た。

 

「母さん。キリエと帰りました。ユーリも一緒です。通信を受け取ったら……」

 

 音がしなかった。

 

 通信そのものが失敗したのではない。呼び出し信号は送られている。相手の回線を見つけられないのだ。

 

 次に父の研究室。予備回線。緊急用の直通番号。地上の中継装置。

 

 いずれも返事はなかった。

 

「機器が故障してるんだよ。ほら、帰ったら直せばいいじゃん」

 

 レヴィの声は努めて元気だった。

 

「そうですよ。建物が壊れていても、地下施設は残っているかもしれません」

 

 シュテルも言った。

 

 ディアーチェは黙っていた。

 

 その小さな手が、ユーリの袖を掴んでいる。自分が誰かに触れていることなど、普段の王なら気にも留めないはずだった。

 

「移動しましょう」

 

 アミティエが告げた。

 

「ここから自宅までは遠くありません。距離にして……」

 

 彼女は測位画面を見たまま、しばらく動かなかった。

 

 遠くないはずだった。

 

 けれど、見慣れた地図の道路はどれも地表に存在しない。分岐を示す標識も、かつての浄水施設も、風力発電の塔も消えていた。記録の上では数キロ先にあるものが、いま見渡す限りには何ひとつない。

 

 空を飛べば早い。

 

 そう判断してフォーミュラを展開したアミティエは、上昇した途端、急に姿勢を崩した。重力制御の数字が一瞬だけ逆転し、身体が横へ引っ張られる。ユーリが支えなければ、地表へ叩きつけられていた。

 

「お姉ちゃん!」

 

「大丈夫です。装置に異常が……いいえ、装置だけではなさそうですね」

 

 アミティエは地表へ降り、深呼吸した。

 

 地球で受けた脇腹の傷はまだ完治していない。キリエに無用な心配をさせたくなくて、帰路ではずっと平静を装っていた。だが血液に乗せるナノマシンは不足したまま、身体には再負傷を許す余裕がない。

 

 今、痛みより厄介なのは、それを忘れさせるほど異様な景色だった。

 

 先頭を行くアミティエに続き、六人は裂け目の間を歩いた。

 

 数百メートル進むと、足元の砂が変わった。茶色と灰色の粒に混じって、細かな透明の破片が現れる。粒の一つひとつが、風に流されず地面に貼りついていた。

 

 レヴィが拾おうとする。

 

「待ちなさい」

 

 シュテルがその手を押さえた。

 

「何が含まれているかわかりません。触れない方が安全です」

 

「砂だろ?」

 

「そうとは限りません」

 

 シュテルの声は硬かった。

 

 この星の岩石には本来ない結晶格子が、測定器に現れている。化学成分の照合はエラーになり、密度だけが異常に高い。光を通すはずの薄い欠片が、その内側では光を何度も曲げていた。

 

 彼女は結果を口にしなかった。

 

 正しい数字がひとつも返ってこない装置を、皆に見せても仕方がなかったから。

 

 その先で、一行は途方もない大きさの影を見つけた。

 

 破断した山脈の向こうに、人工物の縁が見えた。水平線のような輪郭に沿って、等間隔の骨組みが並んでいる。建物の屋根にしては大きすぎる。橋脚にしては厚すぎる。

 

 近づくにつれ、その巨大さだけが増していく。

 

 断面の向こうには、居住区らしい小さな街の残骸が見えた。窓が並ぶ壁。崩れた通路。密閉区画を隔てていたはずの隔壁。住居の一室を丸ごと横倒しにしたような空間には、家具に似たものが天井に貼りついている。

 

 コロニーだった。

 

 エルトリア政府が住民を移住させた、軌道上の居住区。その外殻の一部が、地上へ食い込んでいた。

 

「……え?」

 

 キリエは口を開いたまま、息を止めた。

 

 軌道上にあったはずのものが、なぜここにあるのか。

 

 落ちたからだ。

 

 説明はそれ以外にない。それでも心は、その単純な答えを拒んでいた。

 

「そんな。コロニーって……」

 

「ひとつではありません」

 

 シュテルの声が震えた。

 

 さらに遠く、別の方角にも同じような輪郭がある。周囲の地面は巨大な衝突で円形にめくれ上がり、黒い砂が何重もの堤防を作っていた。

 

 それがコロニーの数だけあるのだとしたら。

 

 母星を捨てた人々が、最後に選んだ生活圏さえ。

 

 キリエは途中まで考えて、やめた。

 

「……みんな、どこに行ったの?」

 

 誰も答えられなかった。

 

 地表には、風の音があった。ただし建物の隙間を抜ける風ではない。裂けた岩盤の深くから、長い管を鳴らしたような低い音が続いている。鼓膜に触れると身体が冷える、妙な響きだった。

 

 アミティエは進む方向を変えた。コロニーの内部を調べれば、何か生存の手掛かりがあるかもしれない。しかし父と母がいるはずの場所は、さらに数キロ先だった。

 

 どちらを先にするか、選ばなくてはならなかった。

 

「キリエ。家へ向かいましょう」

 

「……うん」

 

 妹は、いつものように姉の判断を受け入れた。

 

 けれど、その返事には普段の甘えがなかった。

 

 家の位置を指す座標だけが、なお正確だった。

 

 最後の曲がり角があった場所で、アミティエは足を止めた。

 

 正しくは、そこに曲がり角があったことを、地図だけが覚えていた。

 

 道の脇には昔、背の低い防風壁が続いていた。壊れた壁を父が手ずから直し、まだ幼いキリエがモルタルに指を押しつけて怒られたこともある。雨の降らない星だったから、そこに残った小さな手形は長いあいだ消えずにいた。

 

 いまは、道路自体がない。

 

 鋭い亀裂が大地を斜めに横切り、土台ごと引き剥がされた岩盤が反対側へ乗り上げていた。割れ目の底に何かが光っている。水かもしれないと一瞬だけ思ったが、液体ならあんな形で動かずにいるはずがなかった。

 

「この先です」

 

 アミティエの声は小さかった。

 

「建物の位置は、間違いありません」

 

 キリエは姉より先に歩きだした。

 

 その場所を知らないわけがなかった。道はなくても、丘の勾配と周囲の岩の形なら覚えている。砂嵐の日に自分が迷子になって、アミタが迎えに来てくれた斜面も。家へ帰るのが嫌でわざと遠回りした時、母がどこまで迎えに来たかも。

 

 丘を越えれば屋根が見える。

 

 そうだった。

 

 だから、最後の数歩は走った。

 

「パパ!」

 

 返事はない。

 

「ママ! ただいま!」

 

 丘の向こうへ躍り出て、キリエは両手を広げた。

 

 その腕が、行き場を失う。

 

 家がなかった。

 

 屋根も、壁も、研究棟へ伸びる渡り廊下も。玄関の脇にあった小さな庭も、父の車を置いた車庫も、全部。

 

 地面が抉れていた。

 

 見渡す限り、そこだけ何かに穿ち取られたような凹地になっている。破れた岩盤が周囲で立ち上がり、内側には暗い色の粉が積もっていた。柱一本残されていない。

 

 キリエはしばらく、それを見つめた。

 

「……どこ?」

 

 背後の足音は聞こえていた。けれど振り返らなかった。

 

「お姉ちゃん。家、どこ?」

 

 アミティエが画面を拡大する音がした。

 

 方角を確かめ、別の測位方式へ切り替える短い電子音。どの結果も変わらない。それでも姉はもう一度試した。

 

「ここです」

 

 ようやく答えた声は、普段のそれに似ていた。

 

「ここが、私たちの家です」

 

「違う」

 

 キリエは即座に否定した。

 

「家がないんだよ。だって見たらわかるでしょ。こんな……ここ、何もないじゃん」

 

「……ええ」

 

「なら違うってことじゃない!」

 

 叫んだあと、キリエは自分の声の甲高さに怯んだ。

 

 アミティエは何も言わなかった。妹の肩を掴もうとして、途中で手を下ろした。

 

 キリエは凹地へ降りていった。

 

 靴が灰色の粉を巻き上げる。昔なら畑の土を踏みしめていた場所に、足跡だけが続いた。

 

「ここ……ここに玄関があったの。こっちが居間で」

 

 自分に言い聞かせるように呟く。

 

「パパの部屋は向こう。ママはいつもこっちの窓から……」

 

 窓がない。

 

 それがわかるたび、キリエは指を別の方角へ向けた。

 

「研究室は地下だから。そうだよ。下なら残ってるはず。パパ、地下で寝てるんじゃ……」

 

 足元の粉を掻き分けた。

 

 薄い破片が爪に引っ掛かった。食器の欠片のように見えたけれど、形を確かめるとただの岩だった。別の破片を拾い、また捨てる。両膝をつき、砂を押し退け、少し深いところへ指を突っ込む。

 

 何かが見つからなくてはおかしかった。

 

 父が使っていた端末。母の椅子。玄関の靴。壊れても、焼けても、何かひとつは残る。地球から帰ってきた自分が家を見つけられないなんて、そんなことが起こるはずがなかった。

 

「パパ!」

 

 喉が痛くなる。

 

「ねえ、パパ! 帰ってきたよ! ユーリもいるの!」

 

 アミティエが息を呑んだ。

 

 ユーリはゆっくりと凹地へ降りてきた。キリエのそばへ膝をつき、掘り返した砂の中へ手を入れる。

 

 魔法の光が少しだけ生まれた。

 

 砂粒がふわりと浮き、そこに混じっていた幾つかの物質が選り分けられる。赤いもの、白いもの、透明なもの。どれも、もとは何だったのか、わからないほど小さい。

 

 ユーリは目を閉じた。

 

 もっと大きな力を使えば、土を元の形に戻せるかもしれない。けれど、その下に埋もれているはずの家や人まで、同じように戻せるとは限らない。失われたものを無理に寄せ集めても、そこへ命は戻らない。

 

 かつて自分はエルトリアに花を咲かせた。

 

 あれほど乾いた土地でさえ、種を受け入れる余地があった。

 

 今、目の前の砂は、何かを育てるための土ではなかった。

 

「キリエ」

 

 ユーリが呼んだ。

 

「ごめんなさい。ここでは……」

 

「言わないで」

 

 キリエが顔を伏せた。

 

「まだ、何もわかってないから。わかんないままで、いいから」

 

 指から力が抜け、拾った破片がこぼれ落ちた。

 

「ママ」

 

 今度はほとんど息だけだった。

 

「ママ、どこ……?」

 

 返事のない家の跡で、キリエは泣き始めた。

 

 声を上げて泣くには、まだ何が起きたのか理解できていなかった。呼吸だけが細かく切れ、止めたくても止まらない。いつか母に見つけてもらうまで、そこで待っていればいいような気もした。

 

 ディアーチェが近づきかけた。

 

 しかし彼女の足をシュテルが止めた。

 

「……ディアーチェ」

 

「わかっておる」

 

 それでも王は苛立たしげに答えた。

 

 泣いている者のそばに行くことと、その者を助けることが同じとは限らない。けれど、見ているだけで何もしないのも、耐えがたかった。

 

 レヴィはキリエの背後に座った。

 

 何も言わなかった。ただ、立ち上がった時に手が届く距離にいた。

 

 アミティエは凹地の縁で通信を続けていた。

 

 地表の中継設備。コロニーの緊急呼び出し。父が私用に使っていた短距離の信号。起動している端末を探し、光学式の受信に切り替え、それでも応答がないとわかると今度は地下施設の識別記録を引き出した。

 

 誰にも聞こえないほど小さな声で、父と母の名前を呼んだ。

 

 娘たちの帰還を知れば、母は必ず応答する。

 

 父が動けなくても、母は応答する。

 

 ならば受信できないのは、電波が届かないせいかもしれない。端末が壊れたせいかもしれない。家屋が消えていても、離れた避難所にいる可能性は残る。

 

 可能性という言葉だけを握って、彼女は足元の現実と折り合いをつけようとしていた。

 

 手元のフォーミュラが、ごく微かな信号を拾った。

 

 発信源は西方の丘陵地帯。以前から人が寄りつかなくなっていた廃教会の付近だった。

 

 キリエが幼い頃、隠れるように通っていた場所。

 

 そして、イリスと出会った場所。

 

 アミティエは通信の周波数を固定した。

 

 民生用ではない。認証番号も製造元も記録にないが、信号形式の一部には見覚えがあった。古い惑星再生委員会の研究記録で、発掘資料として見た方式に似ている。

 

 四十年以上前の設備が、まだ動いている。

 

 ここへ来て初めて、アミティエは両手が震えていることに気づいた。

 

「……ユーリ」

 

 声をかけると、ユーリが顔を上げた。

 

「キリエを、お願いできますか」

 

「アミティエ?」

 

「近くに、稼働している設備があります。人が残っているかもしれません。私が確かめてきます」

 

 キリエが身を起こした。

 

「私も行く」

 

「あなたはここにいてください」

 

 姉はいつもの調子で答えようとした。

 

「でも……」

 

「すぐに戻ります。ユーリと、王様たちのそばにいてください。それに、私が見つけたものを、みんなに伝えなければ」

 

 その言葉に嘘はなかった。

 

 けれど、その声に余裕がないことをキリエは見抜いていた。

 

「お姉ちゃんも、帰ってきてよ」

 

「当たり前じゃないですか」

 

 アミティエは微笑んだ。

 

 胸の中では、帰れる場所という言葉が急に重たくなっていた。

 

 見渡しても建物のない丘の上から、彼女はひとりで歩きだした。

 

 廃教会が見えたはずの岩山は、二つに割れていた。

 

 かつては祭壇の奥に小さな窓があり、朝の光が差すと古い床石が白く光った。母から聞いた話では、信仰の違う移住者たちがそれぞれの習慣を持ち込み、最後には誰も使わなくなった建物なのだという。

 

 今は塔も壁も見当たらない。

 

 地形図に残る基礎構造と、崩れ落ちた岩の向きから場所を特定するしかなかった。

 

 アミティエは破断した地面を渡った。

 

 教会の周囲は、家のあった場所と壊れ方が違う。巨大なものが表面を削り取ったような長い溝がいくつも走り、深いところだけが滑らかに光っていた。溝の角度は一定ではない。何かが曲がり、立ち止まり、また進んだようにも見える。

 

 足を置くたび細かな音がした。

 

 割れた硝子を踏む感触に似ている。しかし透明な欠片をよく見ると、ひとつの粒の中に幾何学的な模様が閉じ込められていた。それは傷とも気泡とも違う。隣の粒にも、またその隣にも、同じ規則が繰り返されている。

 

(……何がここを通ったんでしょう)

 

 アミティエは思考を止めた。

 

 原因を探るより、生存者がいないかを確かめる方が先だ。

 

 信号の発信源は足元にあった。

 

 巨大な裂け目の底。岩盤の一部が崩れ、そこに古い人工階段が露出している。手すりは錆びておらず、表面に灰色の膜を被っていた。階段の下には扉があり、その隙間から、赤い光が細く漏れていた。

 

 地下の電源は生きている。

 

 アミティエはフォーミュラのブレードを短く展開した。

 

 扉は古い方式の認証で守られていた。廃教会の地下に、どうしてそんなものがあるのか。

 

 外部端末へ接続すると、認証画面が立ち上がった。

 

 製造年の数字に、アミティエは目を疑った。

 

 四十年以上前だった。

 

 そして、そのすぐ下に記されていた管理者名を見て、彼女の背筋が冷たくなった。

 

 FIL=MAXWELL。

 

 フィル=マクスウェル。

 

 ユーリとイリスを利用し、あの研究所で大勢を殺し、地球でも惨劇を引き起こした男。

 

 その名前が、今は誰もいないはずのエルトリアの地下で生きていた。

 

 アミティエはしばらく扉を見つめた。

 

 立ち去るべきかもしれない。関係者をひとりで追ってはいけないと、地球で教わったばかりだった。なのはやフェイトがここにいたら、まず全員へ連絡するだろう。

 

 しかし連絡を呼びかけても、通信は乱れ、送信完了の表示が出ない。

 

 扉の奥には電気がある。少なくともひとつ、正常に動く設備がある。

 

 そこが危険かどうかも、開けなくてはわからない。

 

 アミティエは深く息を吸い、古い認証を破った。

 

 低い駆動音がした。

 

 扉の向こうには、狭い通路が続いていた。

 

 廊下の壁には古い観測機器の銘板が並び、年月の経ったケーブルが天井を這っている。研究所の表向きの施設なら、もっと多くの人が出入りできる幅を取ったはずだった。ここは一人で仕事をするために作られている。そう感じられるほど、何もかもが細く、閉じられていた。

 

 突き当たりの部屋で、観測装置が動いていた。

 

 何列ものディスプレイ。古い計算機。物理的な記録媒体を収めた棚。外からの電力供給なしに稼働できる独立した蓄電装置。その中央には、異様なほど大きい受信器があった。

 

 受信器は地表ではなく、下を向いている。

 

 エルトリアの中心へ。

 

 部屋の入口をくぐった時、アミティエはひとつの疑問に行き着いた。

 

 この装置は、いったい何を観測していたのだろう。

 

 それも、四十年以上も前から。

 

 人のいない部屋は静まり返っていた。

 

 アミティエは中央の端末に手を伸ばした。画面は暗く、触れたところで何も起きない。端子を確かめ、フォーミュラの接続線を差し込み、旧式の操作信号を送ると、ようやく起動灯が点いた。

 

 認証画面には研究所長の権限が求められた。彼女は扉の認証で見つけた旧規格の管理番号を入力し、保存媒体を読み取り専用で開いた。

 

 認証成功。

 

 観測記録閲覧許可。

 

 記録の一覧が現れた。音声、測定波形、計算の中間結果。どれも膨大な数で、ひと目では見通せない。アミティエはまず、地下受信器の最初の記録から調べることにした。

 

 かつての研究所長が残した文書は、整理されたものとは言い難かった。観測日、軌道計算、地下振動の記録、惑星内部の物質分布。アミティエが専門としてきたテラフォーミング技術と重なるものもあれば、全く関係がないように見えるものもある。

 

 何より不可解なのは、その記録の向きだった。

 

 地表の汚染を調べるためなら、地下の水脈や大気の成分を測る。コロニーへの移住を計画するなら、軌道上の安全を確かめる。しかしこの装置が受け取っているのは、エルトリア内部の深いところで発生した、規則的な振動だった。

 

 星の中心に近い場所から始まり、地殻を伝わるうちに減衰する。その微細なゆらぎを、いくつもの受信器が何十年も記録し続けていた。

 

 アミティエは古い波形を拡大した。

 

 振動には、一定の間隔があった。

 

 自然界の周期現象と見なすには複雑すぎる。同じ間隔の中で、短いものと長いものが繰り返されている。それを発信元の位置へさかのぼり、外宇宙で観測された微弱な信号と照合した結果までが保存されていた。

 

 地中で発生したゆらぎと、宇宙へ向けて飛び出していった信号。

 

 形式が一致している。

 

「……星の内側から?」

 

 まさかと思った。

 

 規則的な信号。長短を組み合わせた周期。遠い宇宙へ向けて発せられたもの。

 

 だが、それだけで誰かが言葉を発しているなどと考えるのは早計だ。惑星内部の圧力変化が偶然そう見えているだけかもしれない。測定器そのものが故障している可能性だってある。

 

「……所長は、これを何だと考えたんでしょう」

 

 アミティエは記録の索引を開いた。異なる観測点の波形を比較し、解析の手順を辿る。所長は装置の交換や独立した測定によって誤差を除こうとしていた。検証欄には、失敗した仮説と否定された原因が何頁にもわたって並んでいる。

 

 その末尾に、フィル自身の音声メモが関連づけられていた。アミティエは日付を確かめ、再生欄を指で押した。

 

 スピーカーに雑音が走った。

 

 フィル=マクスウェルの音声だった。

 

『私が最初にこれを観測したのは、まだ委員会が設立されるより前のことだ』

 

 録音は古く、声の輪郭に雑音が混じっている。けれど話し方は、地球で聞いたあの男のものだった。

 

『地殻変動に関する通常の研究だった。大地が死にかけている原因を探し、地中の水脈を確かめ、そこに救えるものが残っていないか調べていた。ところが地下の深いところで、説明できない規則が見つかった』

 

 短い沈黙。

 

『初めは装置の誤作動を疑った。次に、まだ知られていない物理現象だと考えた。しかし、いずれも違った。あれは信号だった。私たちへ向けたものではない。遠く、あまりにも遠くへ向けて発せられていた』

 

 アミティエは画面を繰った。

 

 発信波形。翻訳途中の構文。照合に失敗した膨大な仮説。その先に、意味の通る短い文章が保存されていた。初期の解読画面には「翻訳不能」の文字が幾つも残っている。そこから同じ信号を何年も照合し直し、少しずつ対応する意味を絞り込んだらしい。

 

 理解するまで、数秒かかった。

 

 表示された文字を、もう一度読み直す。

 

 何かの警告かもしれないと考えた。

 

 しかし、その言葉は警告ではなかった。

 

 救援の依頼だった。

 

 救援の対象だけが、想像と違っていた。

 

 ――どうか、いまだ存命する生物種を絶滅させて欲しい。

 

 アミティエはしばらく動けなかった。

 

 言葉としては理解できた。

 

 それゆえに理解したくなかった。

 

「……何を」

 

 声がかすれた。

 

 次の記録には、解読の経緯があった。フィルはひとりでこの信号と向き合い、何度も読み替えた。「消えてほしい」という言葉の主語や、消えるべき対象の範囲を疑った。誤訳の可能性も調べた。記号を分解し、同じ文章を別の方式で再構成し、互いに異なる解読結果を突き合わせた。

 

 最後には、同じ意味へ戻ってきていた。

 

 アミティエは次の資料を開いた。

 

 表題は『発信主体に関する考察』。信号と地殻活動の相関、惑星内部の状態変化、人工的な発信器の存在を否定するための調査結果がまとめられている。所長は単なる暗号を解いただけではない。誰が、何のために送ったのかを突き止めようとしていた。

 

 頁の最後に、異様な一文が記されていた。

 

 ――発信主体は、惑星エルトリアそのものである可能性が高い。

 

「……え?」

 

 アミティエは読み間違いを疑った。

 

 観測地点が惑星内部にある、という説明ではない。信号を発した存在が、星そのものだと書かれている。

 

「星に……意思があるっていうんですか……?」

 

 そんな仮説を、すぐに信じられるはずがなかった。生き物が言葉を持つように、大地にも意思があるなどと。しかし記録の中には、そう結論づけた根拠と、誤りを探し続けた年月が残っていた。

 

 さらに読み進めるほど、恐ろしいことがわかった。

 

 それが求めているのは、星に残る汚染の浄化でも、枯れた大地の再生でもない。

 

 星の上に生まれ、星の外へ逃げ、なお生き続けようとするものたちを、終わらせることだった。

 

 所長が試みた翻訳と、信号の変化を突き合わせた資料には、一つの感情を示す語が繰り返し現れていた。

 

 恐怖。

 

 それは星自身の死に対する恐怖ではない、とフィルは注記している。星を母とする人類が、自分の死を越えてなお生き延びることを恐れていたのだと。

 

『エルトリアは、もう自分が回復できないことを知っている』

 

 フィルの声が、以前より低くなった。

 

『おそらくこの信号が示すものは、われわれが星の死と呼ぶ現象より、ずっと深いところにある。』

 

 画面には、惑星の断面図が浮かんだ。

 

 外殻から中心へ向かって、測定不能の領域が何層にも広がっている。地上で観測される有害な粒子の増加も、その一部として記録されていた。

 

『地表に現れる異常な粒子や、汚染の拡大は、星を殺している原因だと考えられてきた。だが順序が逆なのかもしれない。基盤となる働きが衰え、すでに失われたことによって、ああした現象が表へ漏れ出しているのではないか』

 

 アミティエは画面の数式を読み解こうとした。

 

 しかし資料が古すぎる。測定の方式も現在の機器と違い、その仮説を正しく評価できる手元の情報がない。

 

 わかるのはひとつだけだった。

 

 自分たちが何十年も治そうとしていたものと、この研究室が観測していたものは、同じ名前で呼ばれながら、違う深さにあった。

 

 父と母は星を蘇らせるために働いていた。

 

 大地へ水を戻し、植物を育て、ひとが再び暮らせる場所を作ろうとしていた。

 

 フィルが観測していたのは、その努力が届くより深い場所で起こっている、星全体の変化だった。

 

『それでもわれわれは生きられる。コロニーを造り、空気と水を循環させ、惑星という土地を失っても社会を残せる。私はそれを希望だと考えていた』

 

 沈黙があった。

 

『しかし、この信号は違う』

 

 アミティエは目を閉じた。

 

 録音が続く。

 

『星が死ぬことそのものを、拒んでいるわけではないらしい。自らが終わることに抗っている様子は読み取れない。むしろ自分の死を前提としている』

 

 フィルは何度も言葉を切った。

 

『……恐怖、と呼ぶほかにないようだ。あくまでも翻訳に基づく推論だが、この星は、自らが生んだ人間たちの手によって死に至ることさえ、受け入れていたらしい。生み出した生命も自分とともに終わるなら、それは許容できた。だが、人間は外へ出た。コロニーを造り、自分を置き去りにして生き延びようとした』

 

 録音の向こうで、長く息を吸う音がした。

 

『自分が死んだ後も、自分が生み出したものだけが存続する。それが恐ろしいのだろう。だから最期に、外宇宙へ訴えた。まだ生きている生物種を絶滅させてくれと。……正気の人間がこんな報告を信じられるはずもない。だが、私はこの結論を覆せなかった』

 

 アミティエは父の顔を思い浮かべた。

 

 ベッドの上で研究資料を読み、苦痛のさなかにも娘たちへ笑いかけていた父。

 

 死にかけているとわかっていても、土へ還るまでこの星を離れたくないと言っていた人。

 

 家族がそれほど愛した場所が、家族の存在そのものを終わらせるよう求めていた。

 

 それが事実だとして、何を思えばいいのか。

 

 アミティエはそこで音声を止めた。動悸が収まらないまま、索引を先へ送る。政府宛ての報告書と日付を揃えた音声記録が見つかったので、彼女はそれを選んだ。

 

『私は政府へ報告した』

 

 別の日付の録音だった。

 

『彼らは信じなかった。地中の振動を生物の言葉に見立てているだけだと言われた。研究費を流用して妙な仮説を追いかけている、と。私の説明が足りなかったのだろう。そう考えて資料を作り直し、何度も会議へ持ち込んだ』

 

 書類の画像が次々と現れた。

 

 却下。保留。再審査。予算削減。

 

 そのほとんどには短い署名しかなかった。

 

『私は、まだ誰も知らない危険を見つけた。ならば説明しなくてはならない。大地が再生する可能性を否定するつもりはなかった。けれど、その前に守るべきものがある。星に残った人間も、外へ逃げた人間も、同じ命だ』

 

 少し早い呼吸が混じる。

 

『相手にしてもらえなかった。資金は断たれ、設備は解体されかけた。私の頭がおかしくなったと言う者までいた。……そうかもしれない。だが、そうだったとして、あの信号が消えるわけではない』

 

 アミティエの視線が、棚の奥へ向いた。

 

 誰にも知られず残した装置。地下に隠した観測記録。ここが研究所としてではなく、避難場所として作られたのだとすれば。

 

 フィル=マクスウェルがどれほど追い詰められていたとしても、人を殺したことは変わらない。イリスへ嘘をつき、ユーリの力を奪おうとしたことも、地球で無関係の命を危険に晒したことも。

 

 しかし彼の語る恐怖には、単なる作り話と片付けられない、別の記録が結びついていた。

 

 アミティエは棚に残された別の記録媒体を読み込み、外宇宙観測の項目を選んだ。画面に、エルトリアから離れた空域の観測値が表示される。

 

 長い年月を隔てて、外宇宙からの応答が届いていた。

 

 星の信号が出ていくよりもはるか先。アミティエの知る航路図にも、管理局の提供した星間資料にも記載のない深い領域。

 

 そこで何かが、確かに信号を受け取っていた。

 

『最初は反射かと思った』

 

 録音されたフィルの声は、妙に落ち着いていた。

 

『しかし応答の間隔は、こちらの送信と一致しない。新しい情報が返ってきていた。向こうが何なのかはわからない。天体なのか、人工物なのか、生命なのかさえ、観測装置には判断できない』

 

 しばらく、紙を繰る音。

 

『ただ、応答があった。われわれの知らない何かが、依頼を受け取ったという事実だけが残った』

 

 アミティエは椅子へ手をついた。

 

 大地が割れた理由。コロニーが墜ちた理由。故郷へ戻ってきた自分たちを迎えた、この空の色。

 

 ひとつの物語として繋げたくなる。

 

 けれど、まだ繋げてはいけなかった。

 

 ここには四十年も前の記録があるだけだ。誰かが残した説明と、今起きている現象が似ていても、それが同一の原因によるとは限らない。

 

 科学者の娘として、そう考えた。

 

 けれど娘としての自分は、もう父と母を疑うことすらできなかった。

 

 手元の端末が、もう一枚の資料を表示した。

 

 イリスの開発設計図だった。

 

 生態型テラフォーミングユニット、IRS07。

 

 公開されていた仕様書には環境調整と自己増殖の機能が記されている。しかし地下に保存されたものには、別の項目が並んでいた。未知の物質に対する構造適応。膨大な資源を用いた自律戦力の量産。外宇宙から接近する物体との交戦を想定した長距離運用。

 

『私は、これに対抗するための力が必要だと思った』

 

 フィルの声が重なる。

 

『コロニーに移っても、あれがどこまで追ってくるかわからない。ならば迎え撃てるものを作るしかない。どれほど頼りなくても、何もしないよりはいい』

 

 彼はこのためにイリスを作った。

 

 それを初めから軍需品として売るためではなかった。

 

 自分たちが置かれているかもしれない、途方もない危険を前にして、必要だと信じたからだった。

 

 その後に何をしたのかを思えば、アミティエは彼を許せなかった。研究の継続を阻む人々を邪魔者とみなし、命を奪ってまで進めようとした時点で、彼が守ろうとしたはずの人間と、彼の行動は決定的に食い違っていた。

 

 警告が本当だったからといって、何をしても許されるわけではない。

 

 その簡単なことを、彼は最後まで認めなかった。

 

 観測記録の最後に、別の種類の履歴が保存されていた。

 

 地球側の生産設備からエルトリアへ向けた、機体の転送記録だった。

 

 完了、完了、通信途絶。完了、観測不能。別の機体が起動し、途絶える。同じ欄がいくつも並んでいる。

 

 アミティエはあの裂け目の脇で見た、金属の塊を思い出した。

 

 朽ちたコロニーのそばに、何かの装甲らしい板が無数に突き刺さっていた。地球で見た量産型の機動外殻とよく似た輪郭だった。

 

 それも、この星で戦っていたのだろうか。

 

 相手は何だったのだろう。

 

 最後の画面が開いた。

 

 黒地に赤い数字。

 

 到来予測。

 

 当初の予測値には長い余裕があった。幾度も観測を重ねるうちに、数値が少しずつ短くなっていく。星から離れた発信源を特定するために使われていた遠距離計算が、誤差を縮め、更新のたびに到着時刻を近づけていた。

 

 最新の表示は、ゼロだった。

 

 00:00:00。

 

 小さな赤い灯りが点滅している。

 

 到来済み。

 

 アミティエは表示が壊れているのだと思った。

 

 更新時刻を確かめる。装置の内部時計は正常だった。異なる電源で動く別の計算機にも、同じ結果が残っていた。

 

 数日前から表示は動いていない。

 

 ここへ戻ってきた時には、とっくに終わっていたのだ。

 

「……そんな」

 

 ようやく声が出た。

 

 フィルが何十年も恐れていたもの。

 

 地球でさえ数を揃えようとし続けた理由。

 

 その予測に従うなら、もう、この星へ着いている。

 

 アミティエは立ち上がろうとした。

 

 その時、部屋の照明が消えた。

 

 代わりに、壁の非常灯が点いた。

 

 警報が鳴った。

 

 画面に新しい数字が流れ始めた。地表の観測装置が、何かの変化を拾っている。

 

 生命反応、検出。

 

 複数。

 

 所在地は、彼女たちが帰還した座標と一致していた。

 

 アミティエは息を呑む。

 

 自分たちを検知している。

 

 いや、そうとしか考えられない表示だった。さっきまで動かなかった装置が、六人の到着をきっかけにしたように測定を更新している。

 

 画面の端で、別の点が明滅を始めた。

 

 地平線の彼方。

 

 何かの活動開始を示す赤い記号が、ゆっくりと大きくなっていた。

 

 アミティエは端末を閉じた。

 

 まだ読んでいない記録があった。更新途中で途切れた観測資料、意味を確定できなかった信号の断片、フィルが残した音声の続き。一覧の下には、未整理の項目が何百件も残っている。

 

(あとで、全部確かめないと……)

 

 けれど、ここで読み続けている時間はなかった。

 

 アミティエは端末の下にある記録装置を開いた。棚に並ぶ予備媒体ではない。観測値と所長の私的な研究記録が保存された、独立型の記録ユニットだった。厚みのある小さな金属製の筐体が、固定具を外すとようやく抜けた。

 

 取り外しの警告が画面を覆ったが、彼女は読み取りを停止したことを確かめ、電源を切った。フォーミュラで最低限の記録一覧だけを確認する。保存データの大部分は、まだ中に残っている。

 

 この場から持ち出せるものは、それだけだった。

 

 アミティエは記録ユニットを胸元の内ポケットへしまい、重要な座標だけを自身のフォーミュラに記録すると、出口へ駆けだした。

 

 奥から聞こえたのは、もうひとつ別の音だった。

 

 あの地殻の深くを鳴らしていた、長い管のような響き。

 

 地上から遠く離れたここまで届くほど、低く、鈍く、規則正しい音が鳴っていた。

 

 階段を駆け上がる間に、廊下の照明が一つずつ消えた。

 

 残る最後の赤い灯りの下で、アミティエは一瞬だけ立ち止まった。

 

 ここには真実があった。

 

 しかし父と母の居場所を教えてくれる記録は、最後までひとつも見つからなかった。

 

 地上へ出た時、風向きが変わっていた。

 

 先ほどまでは裂け目に沿って流れていた砂が、今はどこへも進まない。薄い粒子が空中に留まり、ひとつひとつが細かな光を反射している。風がないわけではなかった。アミティエの髪は激しく乱れているのに、砂だけが取り残されている。

 

 足元に映った影もおかしかった。

 

 太陽はひとつしかない。しかし影は二重に伸び、片方がゆっくりと彼女の足から離れようとしていた。

 

 装置の誤作動ではない。

 

 アミティエは顔を上げた。

 

 地平線の向こうに、何かが立っていた。

 

 初めは山の影かと思った。

 

 破断した大地の上に、巨大な鉱物の柱がいくつも突き出している。柱の間には不規則な隙間があり、その向こうには空が見えた。ところが視点を変えると、隙間は消え、柱が一枚の平面へ重なってしまう。

 

 巨大な構造物が、遠方でゆっくりと姿勢を変えていた。

 

 外殻のようなものは何枚もの透明な板でできており、重なるたび色が変わる。そこから節くれだった脚にも柱にも見えるものが放射状に延び、先端が大地へ触れるより早く、触れられるはずの地形が別の姿になった。山ひとつを跨いだのか、山が勝手に近づいたのか、アミティエには区別できない。

 

 生物にたとえようとすると、どこかが必ず違う。山脈にたとえれば動きすぎている。機械にたとえれば輪郭が一定しない。光を通す部分と、光を吸い込む部分が互いに入れ替わり、遠近の判断さえできなくなる。

 

 大きさの基準さえ失われたその姿は、ひとつの生命というより、別の世界の法則が形を持って歩いているようだった。

 

 その周囲では地表の色が変わっていた。

 

 黒い大地を透明な何かが這っていく。遠目には霜のようだった。しかし、霜が降りるには範囲が大きすぎる。目に見える丘の一つが、上から下まで薄く透き通り、内側へ見慣れない幾何学模様を閉じ込めていた。

 

 結晶化した領域の縁では、地層も鋼材も同じ模様へ揃えられていく。鉱物が増殖しているというより、空間そのものが異なる性質に塗り替えられ、その結果としてあらゆる物が透明になっていた。

 

 その次には、丘の輪郭そのものが崩れた。

 

 音は、遅れて届いた。

 

 崩落した山の向こうで空がひときわ明るくなり、やがて低い震動が足元を揺らした。

 

「……来ている」

 

 アミティエは自分が何を口にしたのかわからなかった。

 

 フィルの記録を信じるなら、四十年以上前に信号へ応えた何かだ。

 

 しかしあれがそうである証拠はない。地平線の向こうにあるものが一体である保証すらない。見えているのが本体なのか、何かの影なのかさえ、装置には判断できなかった。

 

 ただ、ここにいたら危険だということだけはわかった。

 

 アミティエはフォーミュラを起動した。

 

 推進器が一拍遅れて応答する。

 

 身体を浮かせる力が弱まり、別の方向へ引っ張られる。周囲の重力場を測ろうとしても、機器は一定の値を返さない。上下が一瞬ごとに揺らぎ、加速するほど自分の身体が何を基準に動いているのかわからなくなった。

 

 それでも彼女は飛んだ。

 

 傷の残る脇腹がきしんだ。体内のナノマシンが警告を送り、使用可能なエネルギーの残量が赤く染まる。

 

 家の跡まで戻らなければならない。

 

 妹たちへ、あれを見せる前に。

 

 アミティエは何度も姿勢を立て直し、灰色の空を横切った。

 

 途中で、別の残骸を見つけた。

 

 裂け目に挟まれた平原に、機動外殻が何十体も転がっている。地球でマクスウェルが動かしていたものと、ほとんど同じ形だった。装甲に見覚えのある記号が残り、脚部や砲身には焼けた痕がある。

 

 そのうち何体かは、壊れているというより別の材料へ置き換わっていた。

 

 金属の表面を透明な結晶が覆い、内部の配線まで同じ形に変わっている。砲口が開いたままの機体も、片脚を踏み出した途中で固まった機体もあった。戦った姿勢を残しているのに、戦闘の相手だけがどこにも見えない。

 

 あの男は、ここへ兵器を送っていた。

 

 何度も。

 

 完成した端から。

 

 機体が相手の進行を止めたのか、ほんの数秒でも遅らせたのかはわからない。残骸があったという事実以外、ここには何も残っていなかった。

 

 アミティエは目を逸らした。

 

 その時、遠くで光の筋が走った。

 

 空から地上へ落ちたのではない。

 

 地平線のほうから空へ向けて、一本の線が立ったように見えた。

 

 次の瞬間、線の周囲が白く染まり、雲ひとつない空に異様な円が広がった。

 

 その内側から、稲妻に似た光が無数に降り注ぐ。

 

 一本一本が不規則に折れ、枝分かれしながら大気を突き破り、幾重もの衝撃波を生み出していく。

 

 閃光が大地に触れた。

 

 岩盤が、砂が、地層そのものが瞬く間に透明な結晶へと変質する。

 

 直後、結晶化した大地が内側から爆ぜた。

 

 轟音とともに無数の破片が空高く舞い上がる。小さなものですら家屋ほど、大きなものは高層ビルにも匹敵する巨大な結晶片だった。

 

 太陽の光を受け、空一面が眩い輝きに満たされる。

 

 そして、それらが一斉に落下した。

 

 巨大な結晶が地表に激突するたび、新たな爆発と崩壊が連鎖する。その最中にも、空からは次の閃光が降り注いでいた。

 

 後から届いた計測値には、電気的な放電では説明できない高エネルギー粒子の束が刻まれていた。

 

 フォーミュラの警報が甲高く鳴った。

 

 高エネルギー粒子流を検出。

 

 測定上限超過。

 

 アミティエは数値を見ていなかった。

 

 家の跡が見えたからだ。

 

「キリエ!」

 

 声が届く前に、ユーリが顔を上げた。

 

 ユーリたちはまだ凹地にいた。キリエは赤くなった目で砂を掘っている。レヴィがそのそばから離れず、シュテルは周囲の地形を記録していた。ディアーチェだけが空を仰いでいる。

 

「アミティエ。あれは何だ」

 

 王の問いには、普段の尊大さがなかった。

 

 アミティエは地面へ降りた。

 

「皆さん、ここを離れます」

 

「お姉ちゃん……何か見つけた?」

 

 キリエの顔がわずかに明るくなった。

 

「パパは? ママは? 誰かいたの?」

 

 アミティエは喉を鳴らした。

 

 妹を見ていられなかった。

 

「通信できる場所がありました。でも人は……」

 

 言葉が途切れる。

 

 キリエは少し待ってから、首を振った。

 

「大丈夫。次、探そ。きっと誰かいるから」

 

 アミティエは返事の代わりに、妹の手を握った。

 

 何を見たか説明するには時間が足りない。記録された信号と、星から外宇宙へ出された言葉。自分たちが帰ってくる前からゼロになっていた予測表示。それを口にしても、この空の下では夢物語にしか聞こえないだろう。

 

 そして、信じてもらえたところで何ができるのか。

 

「……向こうに何かいます」

 

 ユーリが静かに言った。

 

 彼女は地平線を見つめていた。

 

 アミティエは頷いた。

 

「詳しいことは、ここから離れてから話します。まずは安全な場所へ――」

 

 発言の途中で、地面が揺れた。

 

 激しい揺れではなかった。

 

 重たい机を誰かがゆっくり傾けているように、地平線そのものがわずかに傾いだ。足元の砂が同じ方向へ流れ始め、石がひとつ、ふたつと坂を転がる。

 

 ところが、次の瞬間には流れが反転した。

 

 大きな岩が地面から離れ、斜め上へ滑っていく。

 

「何これ……!」

 

 レヴィが声を上げた。

 

 身体が軽くなる。と思った途端、全身に何倍もの重さがのしかかってきた。シュテルがレヴィの肩を支え、ディアーチェは踏ん張ろうとして片膝をついた。

 

 重力が一定していない。

 

 フォーミュラの計測画面は、上下左右に向いた矢印を繰り返し表示していた。数値の更新に表示速度が追いつかない。ほんの数歩歩いただけで、そこが斜面なのか平らな土地なのかさえわからなくなる。

 

 アミティエは妹の手を強く握り直した。

 

「ユーリ。みんなを……」

 

「はい」

 

 ユーリが夜天の書の残光に似た薄い光を広げる。

 

 六人の足元に小さな安定領域ができ、少なくとも自分の身体が地面を踏んでいる感覚だけは戻ってきた。

 

 その外側で、大地がゆっくりと透明になった。

 

 黒い岩が薄い硝子へ変わるのではない。

 

 輪郭は岩のまま、質量もあるように見える。しかし光を通す方向が変わり、内部に今までなかった結晶の境界が生まれる。やがてその境界が外へ伸び、隣の岩へ繋がり、二つがひとつの巨大な構造へ編み直されていく。

 

 岩の中に埋もれていた金属片も、砂粒も、区別されなかった。

 

 見えているものが次々と同じ透明の模様を持ち始める。

 

 侵食は触れた部分だけで止まらなかった。まだ透明になっていない岩の表面にも、同じ結晶の断面が先回りするように現れる。ひとたび侵入を許せば、そこはもうエルトリアの物理法則だけでは測れない領域となるらしい。

 

 ディアーチェが魔導書を構えた。

 

「全員、下がれ!」

 

 借り受けていたものではない。自らの残った魔力を支えるため、応急的に組み直した術式だった。小さな身体からは考えられない威圧感が広がり、黒い魔弾が結晶の先端へ叩き込まれた。

 

 破裂した。

 

 しかし、破壊されたのは先端の、ごく薄い部分だけだった。

 

 その奥では結晶の成長が続いている。

 

 砕けた破片が地面へ落ちる前に透明な粒へ変わり、次の層へ取り込まれていく。

 

「……通じぬ?」

 

「破壊はできています」

 

 シュテルが言った。

 

「ですが、破壊した量より多くの部分が同時に変質しています。攻撃対象の境界を定められません」

 

「要するに、撃っても止まんないんだろ!」

 

 レヴィが槍を構えた。

 

 雷撃が地面を走り、透明な領域を大きく抉った。けれど雷が消えると、抉れた場所へ別の結晶が伸びてきた。穴を塞ぐためではない。最初からそこに同じものがあったかのように、周囲の形が揃っていく。

 

 ユーリは光を強めた。

 

 大地の中から木の根を呼び出し、結晶へ巻きつける。生命を育てる力。かつてこの星の庭を蘇らせた力だった。

 

 根は確かに伸びた。

 

 しかし、先端が透明な領域へ触れた瞬間、その一部が結晶に変わった。変わった部分を切り離すと、残る根はすぐに枯れた。根に注ぎ込んだ力が奪われたのか、それとも受け入れるべき土が存在しなくなっていたのか、ユーリにもわからない。

 

「……この星は」

 

 ユーリの声がかすれた。

 

「どうしたの?」

 

 キリエが尋ねた。

 

 ユーリは答えられなかった。

 

 彼女が四十年前に咲かせた花は、失われた命を取り戻したものではなかった。辛うじて生き残っていた土地へ、もう一度育つ力を与えただけだ。

 

 今は、その足掛かりとなるものが見つからない。

 

 大地の奥に広がっている感触は、土の死とも違っていた。そこにはもう、土と呼ぶための性質すら残されていないように思えた。

 

 六人はようやく走りだした。

 

 どの方角へ向かえば助かるのか、誰も知らなかった。

 

 ただ、透明な領域が迫ってくる方とは逆へ進んだ。

 

 走るうちに、キリエは一度だけ後ろを振り返った。

 

 地平線の向こうの巨大なものは、さっきより近くに見えた。

 

 実際に進んできたのか。周囲の土地が消えたため遠くまで見通せるようになったのか。どちらでもよかった。空に突き出した輪郭が動くたび、透明な領域が波のように広がってくる。

 

「……あれ、生きてるの?」

 

 キリエが呟いた。

 

 誰も答えない。

 

 見つめ返す目があるわけでも、怒鳴る声があるわけでもない。何かに恨まれていると考えた方が、まだ理解できたかもしれなかった。

 

 あれは怒っていない。

 

 追いかけてくる理由を問いただせる相手かどうかさえ、わからない。

 

 ただ、こちらがいる場所を変え続けている。

 

 かつての家の跡が透明になった。

 

 キリエは足を止めかけた。

 

 もう家は残っていなかった。それでも何かを探そうと、何時間でもそこにいたいと思っていた場所。その凹地が、縁から中心へゆっくりと別の形へ変わっていった。

 

 砂を掻いた自分の指の跡も、持ってきた土産の包みを一度置いた場所も、区別なく消えていく。

 

 荷物はまだ背中にある。

 

 中身だけが、急に重く感じられた。

 

「キリエ! 止まらないで!」

 

 姉の声で、ようやく足が動いた。

 

 空が白くなった。

 

 今度は地平線ではなかった。

 

 頭上の一角が、不自然に膨らむように明るくなっている。雲の形でも、太陽の周りにできる暈でもない。細い光の筋が無数に走り、互いに交差しながら、空の色そのものを塗り替えていた。

 

 光の筋は、稲妻の形をしていた。だが雷雲はない。はるかな異形から放たれた宇宙線が、何千もの白い枝となって空を覆い、間断なく降り注いでいる。ひとつの束が逸れれば別の束が落ち、遠方の山が光の雨に削られて消えた。

 

 アミティエの測定器は現象の分類に失敗していた。

 

 光の筋そのものを見ているのか、高エネルギーの粒子が大気や地表の物質へ作用して生じた発光なのかさえ判別できない。測定値だけが更新され、警告欄が次々と埋まっていく。

 

 高エネルギー放射。

 

 局所重力場異常。

 

 表面温度上昇。

 

 一万度。

 

 それはどこの温度なのか、アミティエにはわからなかった。少なくとも彼女たちのいる場所ではない。遠方の一点で、常識外れの熱源が観測されている。

 

 次の更新で十万度になった。

 

 さらにその次では百万度を越えた。

 

 まだ上がっている。熱源の中心では、上昇が止まる兆候すら見えなかった。周囲へ広がる重力偏差は数値化できないほど急になり、遠方の岩盤が引きちぎられ、空へ吸い上げられていく。アミティエたちの足元へ届く熱はまだその一部に過ぎなかったが、距離によって安全になるという保証はどこにもない。

 

 表示はそこで破綻した。

 

 測定器の上限を越えた数字が、何度も繰り返される。画面の一部が暗転し、警告音が止まった。もう安全になったのではなく、警告するための機能が失われたのだ。

 

 アミティエはその意味を理解した。

 

 この星の地表で、人間が想像している程度の爆発が起きているのではない。

 

 放射、重力、熱、物質の変質。

 

 それぞれが別の現象として進みながら、同じ範囲へ重なってくる。どれかひとつを避けたとして、ほかから逃れられる保証はない。

 

 星が死んだという言葉は、今になって初めて別の重さを持った。

 

 アミティエは背後の空を見た。

 

(このままでは、誰も……)

 

 考え終える前に、斜面が持ち上がった。

 

 地面が壁のように起きあがり、六人の前へ立ち塞がる。ディアーチェが咄嗟に魔弾を放ち、岩盤に穴を開ける。その向こうは、もう地面の続きではなかった。

 

 空間がねじれていた。

 

 彼らが走っていた方向には、さっき通り過ぎたはずの裂け目がある。迂回しても同じ場所へ戻される。どこかで距離が短くなり、別の場所で急に長くなっている。アミティエのフォーミュラはそのたび、既知の地形との照合に失敗した。

 

「お姉ちゃん! どうしたらいいの!」

 

 キリエが叫ぶ。

 

 姉は答えた。

 

「地球へ戻ります」

 

 その言葉を口にするまで、アミティエは何度も迷っていた。

 

 父も母も見つかっていない。生存者がほかにいるかもしれない。帰ってきたばかりなのに、またこの星を置いていく。

 

 けれど、残れば一緒に死ぬだけだという事実が、もう目の前にあった。

 

「ここから次元跳躍を試みます。私のフォーミュラに、地球の座標は残っています」

 

 ディアーチェが振り返った。

 

「可能なのか」

 

「……わかりません」

 

 アミティエは正直に言った。

 

「それでも、ほかに方法がありません」

 

 次元跳躍の準備は、普段なら複数の安全装置を確認してから始める。

 

 座標の再照合。送り先の地表環境。転送経路に障害物がないこと。跳躍先で展開する保護領域。地球へ来る時も、帰る時も、アミティエはそれらを省略しなかった。

 

 今は、最初の項目から応答がなかった。

 

 画面に地球の座標は表示されている。しかし現在位置からそこまでの道筋を計算すると、途中で距離が変わってしまう。開いたはずの経路が別の方向へ折れ、出発点に戻される。跳躍先が失われたのではない。侵食されたエルトリア側の空間が、座標の基準として定まらないのだ。

 

 アミティエはフォーミュラを地面へ接続した。ここを仮の原点とし、重力の変化と空間のひずみを測り直す。だが測定が終わるより早く原点そのものが移動し、画面に表示された数値が次々と書き換わった。

 

「……固定できない」

 

 いくら地球側の座標が正しくても、ここからそこへ向かう道筋を保持できなければ、跳躍させた者がどこへ流されるかわからない。

 

 六人の上空で、透明な細い線が走った。

 

 地面の結晶が空へ伸びたようにも見えた。しかしそこには何もなく、ただ離れた二点の間に不自然な境界ができている。横切った砂粒は、透明な面へ触れた途端、薄く潰れて散った。

 

 アミティエは計算を中断した。

 

「地球の場所はわかるんです。でも、こちら側の空間が変わり続けていて……フォーミュラで出発点の座標を固定しないと、誰を送り出すこともできません」

 

「なら我が支えよう」

 

 ディアーチェは魔導書を開いた。

 

 しかしアミティエは首を振った。

 

「ありがとうございます。でも、この場所は何度も書き換わっているんです。私がフォーミュラで原点を押さえても、途中の経路はすぐに潰れてしまう。出口まで繋ぎ続ける、別の力が必要です」

 

 計算画面の端から警告表示が増えた。上空の光の雨が近づくたび、座標は別の値へ飛び、いま打ち込んだ数値が無効になる。装置を止めれば再計算さえできなくなり、動かし続ければ侵食が近づく。

 

 ユーリが前へ出た。

 

「私なら、できるかもしれません」

 

 その声は、思いのほか穏やかだった。

 

 キリエが顔を上げる。

 

「ユーリ?」

 

「アミティエがこちらの座標を固定してください。私が、開いた道を地球まで繋ぎます。少しでも途切れたら、私のほうで押し広げますから」

 

「それって……」

 

 キリエは妹としての勘で、姉の表情を見た。

 

 アミティエの口元が強張っている。

 

「ユーリ。危険です」

 

「ここに残れば、もっと危険です」

 

「あなたまで残ることはありません。私が何とか……」

 

「アミティエ」

 

 ユーリは首を振った。

 

 普段なら、誰かに頼られた時にしか前へ出ない少女だった。四十年前もそうだった。イリスが花を見たいと言うから、ユーリは花を咲かせた。誰かの役に立ちたいから、力を使った。

 

 しかし今、彼女が手を伸ばしたのは、頼まれたからではなかった。

 

「まず、みんなが帰れる道を作りましょう。私がこの場所を離れたら、道が消えてしまいます。……それでも、いま開かなければ」

 

 ユーリの声も震えていた。

 

 地面の割れる音が聞こえた。

 

 近くの裂け目から透明な柱が伸び、周囲の岩を連れてゆっくりと盛り上がる。柱の先端は空中の境界へ触れ、その境界ごと大きく湾曲した。

 

 ディアーチェが背後へ魔弾を撃ち込む。

 

「急げ!」

 

 レヴィも加勢しようとしたが、シュテルが腕を掴んだ。

 

「私たちが撃ち続けても、あれは止まりません。今は通路を守るのです」

 

「わかってる。でもさ……!」

 

 レヴィは槍を握り締めた。

 

 誰かを守るために欲しかった力が、ここでは何の役にも立たない。そんなことを認めたくなかった。けれど透明な地面の向こうには、倒すべき敵の姿さえない。

 

 アミティエがフォーミュラを地面へ打ち込んだ。

 

 四本の支柱が広がり、岩盤を掴む。ナノマシンが地面の形を測り、今いる場所の空間座標を強制的に保持し始めた。警告が鳴る。支柱が食い込んだ岩盤は、すでに少しずつ透明になっていた。

 

「座標保持……開始。ユーリ、お願いします!」

 

「はい!」

 

 ユーリは装置の中央に手をかざし、永遠結晶から淡い光を注ぎ込んだ。水晶のような球体が浮かび、内側で無数の線が結ばれる。アミティエが動かせなくなった出発点を、ユーリの力が遠い地球へ繋ごうとしていた。

 

 今まで永遠結晶から感じられた光は、どこか暖かかった。

 

 今回は違った。

 

 白い輪郭が空中へ押し広げられ、見えない抵抗に当たっては縮む。無理に引き伸ばされたものが、次の瞬間には元へ戻ろうとする。球体の表面にひびが走り、光の欠片が雨のように降った。

 

 その時、上空の稲妻状の光が枝分かれした。

 

 一本が支柱のそばへ落ちた。岩盤が内側から白く光り、周囲の砂が瞬時に透明な粒へ変わる。フォーミュラの警告が重なった。

 

 座標保持率、急落。

 

「っ……!」

 

 アミティエは支柱を一本切り離し、残る三本で新しい原点を組み直した。切り離した支柱が光の中で砕ける。失った分の負荷が腕へ跳ね返り、彼女は歯を食いしばった。

 

 ユーリは光の流れをいったん細くして、崩れかけた経路の縁を押さえた。細い流れの内側だけが、どうにか途切れずに残る。

 

「アミティエ! いま、繋がっています!」

 

「わかっています……! あと少しだけ、お願い!」

 

 アミティエは計算結果を見つめた。

 

 出口候補が一つだけ現れた。

 

 地球。

 

 それも、別れを交わしたあの海辺に近い、管理局が使った臨時の跳躍地点だった。向こうの座標は安定している。現地の時間も正常に進んでいるらしい。

 

 問題は、こちら側だけだった。

 

 出発点を固定し続けるアミティエのフォーミュラは、重力の変化が起きるたびに補正値を更新した。ユーリが永遠結晶から注ぐ力で、経路の先に一瞬だけ細い穴が開く。二人が同時に出力を合わせ、崩れようとする両端を押さえた時、穴の向こうに明るい色が見えた。

 

 青かった。

 

 地球の空だ。

 

「開いた!」

 

 キリエが声を上げた。

 

 その瞬間、通路は再び縮んだ。

 

 アミティエは装置を支える腕に力を込めた。

 

「……繋ぎ直します。ユーリ、もう一度だけ」

 

「はい!」

 

 収束しかけた光の縁に、ユーリの両手が触れる。結晶の表面を赤い亀裂が走ったが、押し返すように淡い光が広がった。アミティエもフォーミュラの補正値を書き換える。足元を侵食する透明な筋が、支柱に沿って彼女の靴へ迫っていた。

 

 空間が開く。

 

 通路の向こうに、東京湾の青い空が見えた。

 

「見えた……! お姉ちゃん、帰れるんだよね?」

 

 キリエが喜びかけた、その時だった。

 

 アミティエが身を少し傾ける。袖を掴もうとした妹に応じる、ただそれだけの動作だった。だが、途端に補正値が乱れ、海の輪郭が砕けるように歪んだ。

 

「っ……!」

 

 アミティエは重心を戻し、必死に計算を修正する。ユーリも光の裂け目を両手で押さえた。どうにか空の色が戻る。

 

 その様子を見ていたシュテルの顔色が変わった。

 

「……アミティエ。あなたは、そこから離れられないのですか」

 

 アミティエは答えようとして、喉を詰まらせた。

 

「この場所の座標は、もう一定ではありません。私がフォーミュラで押さえていなければ、地球への出発点そのものが消えてしまいます」

 

「なら、装置を残して……」

 

「できないんです。地面の位置が変わるたび、私が直接、測り直して補正しなくてはならない。ほんの一瞬でも止まれば、みんなをどこへ飛ばしてしまうか……」

 

 言い終える前に、上空から光が降った。

 

 ユーリの永遠結晶が震え、東京湾の景色がまた細くなった。

 

「ユーリも……?」

 

 レヴィが、かすれた声で尋ねる。

 

「はい。向こうまで道を繋いでいるのは私です。手を離したら、もう……」

 

 ユーリは無理に笑おうとした。けれど口元が震え、笑顔にはならなかった。

 

「ふざけるな!」

 

 ディアーチェが叫んだ。

 

「ならば我が代わる! 我の魔力を使え! 夜天の書でも何でも、使えるものはすべて――!」

 

 黒い魔力が彼女の周囲に立ちのぼる。だが、細い光が通路の縁へ触れた瞬間、出口がぐらついた。シュテルが咄嗟にその腕を掴み、魔力を止めさせる。

 

 地面がまた一段、透明になった。

 

「……違う力を足したら、保てなくなる」

 

 シュテルの声は静かだった。静かにしようとしているのがわかるほど、不自然に。

 

 アミティエは機械の画面を見た。補正値は一秒も同じ数字に留まらない。支柱は次々と侵食され、外側の地面は重力に引き裂かれようとしている。

 

 それでも彼女の手が動いている間だけ、出口はそこにあった。

 

 ユーリの足元には、透明な模様が這い寄っていた。

 

 誰かが残ると決めたのではなかった。

 

 二人が手を離せば、ほかの誰も帰れない。ただ、それだけだった。

 

「……いまなら、まだ繋がっています」

 

 ユーリが言った。

 

 声の奥に、抑えきれない恐怖があった。

 

 アミティエが頷く。額から落ちた汗が、結晶化しかけた支柱の上で一粒の光に変わった。

 

 地球の空が、大きく開いた。

 

 静かな海が見えた。あの星のどこにも残っていなかった、穏やかな青だった。

 

 キリエは姉の袖を掴んだ。

 

「離さないから」

 

「キリエ」

 

「お姉ちゃんも来て。ユーリも一緒。私、そんなの嫌だよ。だって、やっと……やっと帰ってきたんだよ?」

 

 何を言っても無駄だとわかり始めていた。それでも、言葉を止めた途端に本当になってしまいそうで、キリエは首を振った。

 

「パパもママも、まだ見つけてないのに。これからみんなで、もう一回……」

 

 アミティエは妹の手に触れた。

 

 引き剥がそうとしたのではない。

 

 昔、キリエが転んで泣いた時と同じように、指先を包み込んだ。

 

「キリエ。……向こうに着いたら、ちゃんとご飯を食べるんですよ」

 

「……え?」

 

「朝も昼も、抜いたらいけません。お腹が空いていると、考えることもできなくなりますから」

 

「何、言ってるの……」

 

「夜も、ちゃんと眠ってください。夢中になると、あなたはすぐに無茶をするから」

 

 いつもの小言だった。

 

 研究に没頭して寝坊した朝も、姉と喧嘩して部屋に閉じこもった夜も、何度となく聞かされた言葉だった。

 

「そういうの……帰ってから言ってよ。いつもみたいに、うるさいって言わせてよ……!」

 

 アミティエの指が、少しだけ強くなった。

 

「……私、嬉しかったんです」

 

「やめて……」

 

「キリエと、また一緒にいられて。ちゃんと話ができて。喧嘩したことも、間違えたことも、これから取り戻せるって……思っていました」

 

 最後のほうは、声になりきらなかった。

 

 キリエは姉の腕にしがみつこうとする。けれど、アミティエがフォーミュラから手を離せないせいで、抱き返してはもらえない。

 

「だったら取り戻そうよ! 今からでも……!」

 

 答えの代わりに、アミティエは胸元の内ポケットへ手を入れた。

 

 取り出したのは、地下の研究室から持ち出した小さな金属の記録ユニットだった。

 

「……これ、持っていって」

 

「なに、これ……そんなの、あとでいいよ!」

 

「マクスウェルの研究資料です。まだ、全部は読めていません。向こうに着いたら……調べてもらって」

 

 アミティエは妹の掌へそれを押し当てた。

 

 キリエは受け取るつもりなどなかった。今はそんなものより、姉の手を放したくなかった。しかし細い指が閉じると、硬い金属の角が掌に食い込んだ。

 

「そんなの、お姉ちゃんが持って帰ればいいでしょ……! 一緒に、帰ってから見ればいいじゃない!」

 

「……ごめんなさい、キリエ」

 

「謝らないでよ!」

 

 声が裏返った。

 

「お願いだから、そんなふうに言わないで……!」

 

 アミティエは記録ユニットを握った妹の手を、最後に一度だけ包んだ。

 

 少し離れた場所では、レヴィがユーリへ駆け寄ろうとしていた。

 

「ユーリ! もういいよ! ボクたち、ここにいるから! もう頑張らなくていいから!」

 

 シュテルが追い、ディアーチェも手を伸ばす。

 

 しかし三人とユーリの間に、透明な細い線が横たわった。線は空間の中にあり、飛び越えるべき高さも、潜るべき隙間もわからない。そこへ魔力を向けると、反対側の足場が崩れかけた。

 

「ユーリ……!」

 

 シュテルが呼ぶ。

 

 ユーリは返事をしようとした。だが、通路へ注ぐ力をわずかに緩めただけで、永遠結晶の内側に亀裂が走った。必死に押さえ直し、三人へ顔を向ける。

 

「……ディアーチェ」

 

 王の肩が跳ねた。

 

「あなたは、昔から二人の前に立っていましたね。小さかった頃から、ずっと」

 

「そんな昔話はよい! こっちへ来い! これは命令だ!」

 

「……でも、あなたまでひとりで頑張らなくていいんですよ。二人を頼ってください。あなたも、二人に守ってもらっていいんです」

 

「ユーリ……やめろ」

 

 ディアーチェの声が、途切れた。

 

「シュテル」

 

「……はい」

 

「一緒に本を読んだの、覚えていますか? あなたはいつも、私のすぐそばで聞いてくれました。ページをめくるたび、顔を上げて……」

 

 シュテルは頷いた。何度も頷いた。何かを答えようとしても、息しか出てこなかった。

 

「……今度は、二人の話も、聞いてあげてくださいね。あなたが何か言いたい時は、ちゃんと言うんですよ」

 

「私には、まだ……聞いていただきたいことが、たくさん……!」

 

「……私もです」

 

 ユーリは、ほんの少しだけ笑った。

 

「レヴィ」

 

「やだ!」

 

 名前を呼ばれただけで、レヴィは首を振った。

 

「いやだよ! そういうの、最後みたいに言わないで! ボク、まだユーリに抱っこしてもらってない! また一緒に遊ぶんでしょ!」

 

「……ええ。そうしたかったです」

 

 ユーリの声が震えた。

 

「あなたが走ってきて、私の膝に飛び込んでくるのが、大好きでした。あんなに小さかったのに……もう、こんなに大きくなったんですね」

 

「ユーリぃ……!」

 

「もう一度、抱きしめたかった」

 

 無理に作っていた笑顔が、そこで崩れた。

 

 ユーリ自身も泣いていた。

 

「……三人にまた会えて、本当に嬉しかったんです。私の、大切な家族だから」

 

 ディアーチェが何かを叫んだ。

 

 シュテルが口元を覆い、レヴィは境界へ両手を押しつけた。

 

 今は腕がある。足もある。力もある。

 

 それでも、あの娘のもとへは届かない。

 

「……三人で、仲良くしてくださいね」

 

 ユーリは最後まで、あの庭にいた頃と変わらないことを願った。

 

 上空で稲妻状の光が一本に束ねられ、彼女たちの足元へ落ちてきた。

 

 ユーリが片手を伸ばす。防護の光が空中に広がり、最初の衝撃で細かく砕けた。二枚目、三枚目と重ねて押し返そうとするが、支えた先から白く剥がれていく。

 

「アミティエ……! いま、お願いします!」

 

 フォーミュラの残った支柱が一斉に赤く光った。出発点の座標が一瞬だけ揺らぐ。アミティエは歯を食いしばり、補正を重ね、数値を押し戻した。

 

 必要な数値は揃っていた。

 

 道を繋げられるのは、アミティエが座標を押さえ、ユーリが向こうへ支え続けている間だけだった。次の一撃の後まで保てる保証はなかった。

 

 キリエが姉へ手を伸ばす。

 

 アミティエはその手を離した。

 

「お願い……届いて……!」

 

 アミティエはフォーミュラに最後の命令を送った。

 

 転送開始。

 

 透明な光の膜がキリエたちの身体を包み込んだ。

 

 キリエは飛び出そうとしていた。姉のもとへ戻ろうと、身体を前へ倒していた。けれど踏み出す前に足元の地面が消え、身体が別の方向へ引っ張られた。

 

「お姉ちゃんっ!」

 

 シュテルがユーリへ向けて腕を伸ばす。

 

 レヴィはもがき、ディアーチェは魔導書を開こうとした。

 

 どれも間に合わなかった。

 

 キリエたちの輪郭が通路の中へ引き延ばされ、向こう側の光へ吸い込まれていく。

 

 アミティエの画面に、転送完了の表示が出た。

 

 送り出した全員が、地球の座標へ到達した。

 

 それを確認した瞬間に、装置の支柱がひとつ折れた。

 

 経路を保つための出力が急に失われる。ユーリが永遠結晶へさらに力を込めたが、球体の内側にはもう誰の影もなかった。

 

 開いた通路は縮み始めていた。

 

 地球側の空が、細い裂け目になっていく。

 

 アミティエが座標の保持を解き、ユーリが通路から手を離しても、二人自身を送り出す者はもういなかった。

 

 アミティエは自分の脚を見た。

 

 靴の表面が透明になっていた。

 

 次いで足首が変わった。

 

 結晶の模様は装甲の縁を越え、衣服と皮膚の区別もなく広がっていく。境目を指で押さえようとしたが、指先から同じ透明な筋が伸び始めた。

 

 ナノマシンが一斉に警告を発した。

 

 組織の異常を検知。修復不能。

 

 警告はすぐに途絶えた。

 

 回路そのものが変質し、故障を知らせる仕組みまで機能しなくなったのだ。

 

 アミティエは立とうとした。

 

 脚が動かなかった。

 

 ユーリのほうでも、足首から透明なものが這い上がっていた。白い靴が硬くなり、その内側にあるはずの足の形まで、ひとつの光る塊へ変わっていく。

 

 ユーリは永遠結晶をもう一度操作しようとした。

 

 光が生まれた。

 

 しかし、結晶化は止まらない。

 

 彼女の手から伸びる白い糸のような魔力が、途中で透き通る粒へ変わった。力の通り道が消え、残った光は行き場を失って薄く散る。

 

 指が曲がらなかった。

 

 胸元へ透明な筋が届く。

 

 アミティエも腕を動かせなくなっていた。

 

 痛いのかどうか、判断する余裕さえなかった。身体の一部が自分のものではなくなる感覚だけが、意識の端を埋めていった。

 

 向こう側の空が見えなくなる。

 

 地球へ続いていた通路は閉じた。

 

 最後に見えたのは、誰も立っていない青い光だけだった。

 

 その直後、遠方の巨大なものの周囲で空が白くなった。

 

 先ほどから吹き出していた高エネルギーの粒子流が、ひときわ強い放射の束となって広がった。空を埋めていた稲妻状の宇宙線が一斉に太くなり、光の雨が白い幕となる。中心では超高温の領域がなお膨張し、重力に引きつられた岩盤が一瞬だけ浮いた。

 

 その宇宙線の奔流に、桁違いのガンマ線が重なった。光に触れた結晶が一瞬だけ内側から発光し、次の瞬間にはそこにあることを許されなかったかのように崩れた。

 

 その一帯を覆った光には、あらゆるものの輪郭を失わせる力があった。

 

 アミティエとユーリの身体に進んでいた結晶構造が、同時に砕けた。

 

 透き通った腕が細かな粒へ分かれた。脚も、肩も、胸も。人の形を残していたものが、破断した結晶の断面となって散り、その粒がさらに細かく分解されていく。

 

 結晶の内側に残っていた組織も、ユーリの存在を支えていた構造も、光の通過した後には続かなかった。

 

 あの場所にいた二人は、そこで死亡した。

 

 肉体は残らなかった。

 

 意識を移した装置もなく、永遠結晶の中へ退避した人格もない。二人を形作っていた物質と、それを繋いでいた働きは、ガンマ線の奔流によって完全に失われた。

 

 現地の装置に残ったのは、送り出しを終えたという一度きりの転送記録だけだった。

 

 それも、装置が結晶へ変わるとともに消えた。

 

 しばらくして、その場所には何もなかった。

 

 崩れた装置も、砕けた岩も、二人が踏んでいた地面も。

 

 巨大なものはなお動いていた。

 

 動いていること以外、その行為に何の意味があるのかはわからなかった。

 

 怒った様子も、満足した様子もなかった。

 

 そこに二人がいたことを、知っていたのかどうかさえわからなかった。

 

 

 地球では、海に陽が差していた。

 

 大きな雲がゆっくりと形を変え、港の外へ流れていく。昼の気配が残る海辺の広場は、見送りが行われた時と少しも変わっていなかった。

 

 けれど、そこへ戻ってきたのは四人だけだった。

 

 キリエは転送の勢いのまま地面へ倒れた。

 

 舗装された地面の硬さが、膝と掌に伝わる。顔を上げると、背後の空にまだ細い裂け目が残っているように見えた。そこから出てきたばかりなのだ。戻ればいい。たった数歩、戻れば届くはずだった。

 

 立ち上がる。

 

 何もない。

 

 通路は消えていた。

 

「……お姉ちゃん?」

 

 呼んでも返事はなかった。

 

 キリエは空中へ手を伸ばした。さっき姉の袖を掴んでいた指だ。あれだけ強く握っていたのだから、布の感触がまだ残っていてもおかしくない。

 

 しかし、指先にあるのは普通の空気だった。

 

「お姉ちゃん、もういいよ」

 

 声が震える。

 

「出てきて。だって、帰れたんだから……」

 

 ディアーチェは一歩も動かなかった。

 

 見慣れた海の上に、何かが浮かんでいるような気がしていた。あの娘は、ユーリは、いつも最後には笑っていた。どれほど弱っていても、三人を見れば小さな笑みを浮かべてくれた。

 

 だから、その顔を探した。

 

 何も見つからなかった。

 

「ユーリ」

 

 王の声は、かすれていた。

 

「ユーリ。もうよい。出てこい」

 

 シュテルが口を開きかけ、何も言えずに閉じた。

 

 レヴィは両手を握り締めたまま、地面を見ている。

 

 次元跳躍に成功したことはわかる。身体はここにある。呼吸もできる。潮の匂いもする。

 

 キリエの閉じた片手には、姉が渡した金属の記録ユニットが残っていた。何を託されたのかを考えることすらできず、ただ握り締めていた。

 

 しかし、助かったという言葉が思い浮かばなかった。

 

 あの場所で何が起きたのか、四人は見届けていない。

 

 通路が閉じた向こう側に戻る術も、いまは持たない。

 

 ならばまだ間に合うのかもしれない、と口に出すことはできた。けれど、それを言えば何かが戻ってくるわけではない。残された最後の言葉が、あまりにも普段通りだったことが、かえって四人を黙らせていた。

 

 ちゃんとご飯を食べるんですよ。

 

 もう一度、抱きしめたかった。

 

 三人で、仲良くしてくださいね。

 

 大げさな別れの挨拶ではなかった。

 

 それぞれの家で、明日も聞けるはずだった言葉だ。

 

 キリエはもう一度、背後を振り返った。

 

 やはり何もない。

 

 荷物が肩からずれ落ち、地面に触れた。

 

 口を開けた包みから、地球の茶菓子がひとつ転がり出た。母に食べてもらおうと思っていたものだった。拾うために屈むと、紙の包装が少し破れているのが見えた。

 

 それだけで、どうしようもなくなった。

 

 キリエは包みを持ち上げることもできず、その場に座り込んだ。

 

 ディアーチェはなお空を見ていた。

 

「ユーリ」

 

 今度は、名前だけだった。

 

 遠くで誰かが笑っていた。

 

 道の向こうを歩く人の声だった。何が起きたのか、知るはずもない。海の上では一隻の船が白い航跡を引き、空には昨日と同じ色の雲が浮かんでいる。

 

 地球は変わっていなかった。

 

 四人が生きていることも、確かだった。

 

 けれど、アミティエとユーリはいない。

 

 誰かがその二人のいない場所を埋めてくれるわけでもなかった。

 

 キリエは顔を上げられず、レヴィは唇を噛み、シュテルはひどく小さな呼吸を繰り返していた。ディアーチェが握り締めた手から、何かが落ちることはなかった。

 

 海の風が吹く。

 

 明るい、いつもの地球の午後だった。

 

 あの二人がいないことだけが、不自然に残っていた。

 

 

 




どうしても、型月展開にしたかったとです。
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