「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
時空管理局東京支局の監視卓に、予定にない反応が現れた。
昼の東京湾は、どこから見ても平穏だった。
数日前まで関東一帯を覆っていた戦闘用の結界は解除され、一般交通も通常運用に戻っている。東京支局の観測網が追っているのは、事件に使用された残存機体の反応と、回収しきれていない機材の所在くらいだった。
だからこそ、指令室のオペレーターは最初、その波形を機器の故障だと思った。
「……次元跳躍反応?」
表示を拡大する。
海沿いの、管理局が先日まで臨時の転送地点として使用していた場所。すでにゲート設備は撤収されているはずだった。出入りする者の登録も、今日の予定表にはない。
それでも空間の位相が確かに変化している。
「支局長。未申請の次元転移です。場所は、先日の見送り地点付近」
報告を受けたクロノ=ハラオウンは、机から顔を上げた。
「転送元は」
「照合中です。通常のゲート形式ではありません。入口の位相が周期的にずれていて、発信側の座標が……あれ?」
「何だ」
「エルトリアの識別情報が出ています」
クロノは立ち上がった。
エルトリア。
つい先ほどまで、帰還手続きの報告書で何度も見ていた名だった。フローリアン姉妹が帰り、ユーリと三人の小さな王たちも、それに同行した世界。
今ここへ戻ってくる予定などない。
「人数は?」
「位相の重なりがひどくて……待ってください。生体反応、四つ」
「四人?」
クロノは一度だけ聞き返した。
「出発したのは六人だ」
「はい。転送予定の登録と合致しません。これ以上の反応は……ありません」
支局長の前で、波形が鋭く跳ねた。
転送元を示す数字は、一桁ごとに違う値をとっていた。観測器が壊れているのではない。複数の基準を重ねて計算しても、出発地点がひとつの場所として定まらない。
エルトリアへ続いているはずの経路は、行きと帰りでまるで別物だった。
「ゲートを安定化できるか」
「こちらからでは……! 着地点は固定されていますが、向こう側の空間が閉じています。転送された四人の反応だけが、こちらに残りました」
画面から、赤い警告が一斉に消えた。
異常な経路が切断されたのだ。
「……映像を」
小型の監視機が海辺を捉えた。
広場に四つの人影がある。
ひとりが地面に座り込み、残る三人は、その傍らで空を見上げていた。
「キリエさん……?」
オペレーターの声に、クロノは答えなかった。
映像を見ただけでは何が起こったのかわからない。四人は生きている。だが、迎えが必要なのは確かだった。
「医療班と回収班を出してくれ。周辺の一般人には近づかせない。武装隊は待機にとどめろ。対象は先日の協力者だ」
「了解!」
「それから、フェイトに連絡を」
支局長は腕にデバイスを装着しながら、指示を追加した。
「僕も現場へ向かう」
海辺では、潮風が吹いていた。
キリエ=フローリアンは舗装の上に座ったまま、何もない空間へ顔を向けていた。
さっきまで姉のいた場所。
いや、姉がいたのはエルトリアだ。ここではない。頭のどこかで理解しているはずなのに、空を見ていると、そのすぐ向こうに姉が立っているような気がした。
次元跳躍の直前、アミティエは自分の手を離した。
いつも、つないでくれた方の手だった。
「……お姉ちゃん」
喉が痛んだ。
何度呼んだのだろう。
呼んでも誰も来ない。呼ぶたびに、声だけが自分の身体から出ていく。もう少し大きく呼べば届く気がして、キリエは唇を開いた。
音にならなかった。
目の前に転がった菓子の包みが、風で少し動いた。
母に持って帰るはずだった土産だった。
母の顔を思い出そうとする。
そこに姉の顔が重なった。
今度こそ、一緒にお茶を飲もうと約束した。
あの家で、もう一度。
そんな話をしていたのは、いつだったか。
昨日かもしれないし、何年も前のことかもしれない。
「……帰ってきたのに」
キリエは小さく呟いた。
「ちゃんと、帰ってきたのに……」
誰からも返事はなかった。
ディアーチェは少し離れたところで、腕を下ろしたまま立っていた。
大きな魔法を放った後のように、指先だけが細かく震えている。だが、魔力の消耗ではない。もう使う必要のない力を、いつでも使えるようにと身体が構え続けているのだった。
「……ユーリ」
口にしてみても、名前は名前のままだった。
使えば相手が振り返る言葉だった。
しかし、振り返る者はいない。
シュテルは周囲を観察していた。
建物の位置。海面の高さ。立っている街灯。地表の色。すべて記憶と一致する。ここは地球だ。四人が戻ると告げられた場所だ。
その確認を、何度も繰り返していた。
もう確認する必要はないとわかっていても、止められなかった。
「王……」
ディアーチェが反応しない。
「ディアーチェ」
「……何だ」
「私たちは、戻りました」
「見ればわかる」
それだけ答えて、王はまた空を仰いだ。
レヴィは膝を抱え、二人の中間に座り込んでいた。
さっきまでは叫んでいた。
ユーリを連れて来い、戻せ、あの場所へ行かせろと、手当たり次第に怒鳴った。シュテルに腕をつかまれても振り払い、何もないところへ走ろうとした。
だが、何度も空を見上げるうちに、急に声が途絶えた。
今はただ、指を折っている。
一本ずつ。
何を数えているのか、自分でもわからない。
その指が三本目で止まった。
「……シュテルン」
「はい」
「ボクたち、三人だよね」
「……ええ」
「ユーリ、どこ」
シュテルには答えられなかった。
遠くで、転送機の作動音がした。
白い光が海辺の舗装を照らし、その中心からクロノとフェイトが現れる。少し遅れて、医療班の局員たちも降り立った。
フェイトは最初、誰かが怪我をしているのだと思った。
けれど、目に見える出血も、折れた骨もなかった。
そこにいたのは、昨日まで笑っていた四人だった。
「キリエさん!」
呼びかけに反応して、キリエの顔が動いた。
しかし、目が合わない。
フェイトの顔に視線を向けたようでいて、その奥を見ている。彼女の瞳は焦点を結ばず、何かを確かめるようにゆっくり左右へ揺れていた。
「……フェイトちゃん?」
「はい。私です。迎えに来ました」
「迎え……」
キリエはその言葉を繰り返した。
フェイトは膝を折り、同じ高さから話しかけた。
「怪我はありませんか。どこか、痛むところは」
キリエは首を振ろうとした。
途中で動きが止まった。
「……お姉ちゃんは?」
フェイトの手が止まった。
「アミタさんは……?」
キリエは何もない空を指差した。
「向こうに、いるの。まだ、向こうに……」
言い終える前に、息が詰まった。
はじめは咳のようだった。
次に、喉の奥から引き攣るような音が漏れた。
「……違う。違うの。そうじゃなくて……」
突然、キリエが立ち上がった。
ふらつく身体を支えようとしたフェイトの手を払い、空へ両腕を伸ばす。
「お姉ちゃん! お姉ちゃんっ!」
声が広場に響いた。
「来て! もういいから! もう大丈夫だから、早くこっちへ……!」
キリエは自分のフォーミュラに手を伸ばした。
起動しかけた装置が、短い警告を鳴らす。
座標を指定する画面には何も表示されなかった。すでに出発点を示す情報は失われている。姉が向こう側で固定し続けた座標は、姉が手を離した時点で、どこにも残っていなかった。
その事実を理解する前に、キリエは何度も入力した。
「開いて……開いてよ!」
装置が応答しない。
「こんなときくらい、言うこと聞いてよぉっ!」
クロノが一歩前に出かけた。
だが、何と声をかけるべきか迷う間に、フェイトがキリエの前へ回り込んだ。
「キリエさん。今は、一度ここを離れましょう。ここで装置を動かすのは危険です」
「いやっ!」
キリエは泣き濡れた顔を上げた。
「あなたたち管理局なんでしょ! 次元を渡れるんでしょ!? だったら開けてよ! もう一回行けばいいだけじゃない!」
フェイトは、その声を遮らなかった。
開けられる、と言えば嘘になる。開けられない、と言い切るにも、まだ何も調べられていない。
「……すぐに戻れるって、約束はできません。でも、何が起きたのか、調べます。キリエさんたちを、ここに置いたままにはしません」
「そんなの……そんなの、今じゃなきゃ意味ないのに……!」
キリエは何度も首を振った。
いつもなら、相手の言い分を聞いてから引き下がってしまう少女だった。
今は違った。
「お姉ちゃんがいるの! ユーリだって! 二人が、二人がまだあそこに……!」
言葉が続かない。
あの白い光の下で、姉は何をしていたのか。
姉の靴に透明なものが這っていた。ユーリの足にも。二人は怖がっていた。それでも、最後まで自分たちを送り出そうとしていた。
思い出した途端、息が吸えなくなった。
「っ、は……あ……」
キリエは口元を押さえた。
呼吸が速くなる。吸っても吸っても足りない。海の匂いを含んだ空気が胸へ入ってこないように思える。
フェイトがそっと声をかけた。
「キリエさん、私はここにいます」
「いや……!」
キリエは首を振った。
「私が……私が戻れば……! お姉ちゃんを、迎えに……!」
一歩踏み出そうとして、膝が折れた。
フェイトが抱きとめる。
キリエはその胸に拳を打ちつけた。
一度、二度。
力のこもらない拳だった。フェイトは身を引かず、ただ倒れないように支え続けた。
「どうして……どうして私だけ……!」
キリエは泣き叫んだ。
「私がお姉ちゃんを連れて帰らなきゃいけなかったのに! だって……あんなに、頑張ってくれたのに……!」
最後には言葉がほとんど聞き取れなくなった。
声を張り上げようとするたび、息が引っかかる。喉が擦れ、涙で視界が潰れ、もう目の前に誰がいるのかもわからなかった。
それでも泣きやめなかった。
ずっと謝っていた。
何に謝っているのか、自分でも定まらないまま。
「ごめんなさい……お姉ちゃん、ごめん……ごめんなさ……」
フェイトは何も言い返さなかった。
謝る必要はない、と簡単に打ち消せる言葉ではなかった。
泣くなと言うことも、落ち着けと言うこともできなかった。
ただ、キリエがその場に崩れ落ちないように支えた。
クロノは三人の顔を見た。
シュテルは自分から何かを話そうとして、唇を開きかけていた。ディアーチェの手は震えたままで、レヴィはフェイトのいる方をじっと見つめている。
今ここで、誰かから何が起きたのかを聞き出すべきではなかった。
「救護班。四人とも医療区画へ搬送してくれ。身体の確認を優先する。事情については、場所を移してからだ」
「了解しました」
「ほかの部署から問い合わせがあっても、本人たちへの接触は認めない。僕を通してくれ」
クロノは短く指示を重ねた。
それから、フェイトを見た。
「フェイト。キリエさんに付き添ってくれるか」
「うん」
「僕はほかの三人の搬送を確認する。今は誰にも無理に話をさせないでくれ」
フェイトは頷き、力の抜けたキリエを抱き直した。
さっきまで泣き叫んでいた声は、次第にかすれている。
それでも、キリエは何度も姉の名を呼んだ。
やがて、呼ぶための力さえ尽きた。
医療用の小型艇が海辺へ降りた。
キリエは担架へ移される際、激しく身をよじった。
「やだっ……! お姉ちゃんが……まだ……!」
起き上がろうとしたところを、フェイトがそっと肩を支える。
「私も一緒に行きます」
それだけ言った。
キリエの手がフェイトの袖を掴んだ。
強くはなかった。
かろうじて離れない程度の力だった。
艇内の明かりは薄い。
刺激を抑えるためか、医療班は警告音を切り、端末の画面も低い輝度にしていた。キリエの指先につけた測定器が脈拍を読み取り、数値だけを静かに更新している。
外傷らしい外傷はなかった。
小さな擦過傷と、ひどい脱水。息はまだ不規則だったが、処置が必要な状態として医療班が確認を進めている。
しかしそれだけでは、彼女の状態を説明できなかった。
医療担当者が名を呼ぶ。
「キリエさん。ここがどこかわかりますか」
キリエは返事をしなかった。
「今、どこか痛むところはありますか」
ゆっくりと瞬きをする。
瞳が相手の顔へ動く。
けれど、そこに焦点が合わない。
質問が聞こえていないわけではなかった。口を開くこともあった。ただ、言葉の意味を選び、答えを作るところまでたどり着けないのだ。
泣き疲れたせいなのか、もう涙は出ていなかった。
代わりに、目の縁だけが赤く腫れている。
時折、何もない方へ手を動かした。
何かを掴もうとしている。
そのたびに指は空を切り、何事もなかったように膝へ戻っていく。
「……お姉ちゃん」
ほんの小さな声だった。
フェイトが振り向く。
「キリエさん?」
返事はない。
キリエは自分の手を見つめていた。
掌のしわを、一本ずつ確かめている。
そこに残っているはずの、姉の指の温かさを探すように。
フェイトは椅子を寄せた。
キリエの片手が、ずっと握り締められていることに気づいた。泣き叫んでいた時から、何かを離さないように拳を固く閉じていたのだ。
その指が、ほんの少し開いた。
小さな金属の記録ユニットが掌に載っていた。縁は手汗で濡れ、角が皮膚に赤く食い込んでいる。
「……お姉ちゃん、が」
途切れた声がした。
キリエはフェイトを見なかった。記録ユニットを見つめているわけでもない。ただ、それを持つ手だけが、ゆっくりフェイトの方へ動いた。
「……これ」
「私が預かっても、いいの?」
返事はなかった。
それでも、フェイトが両手を差し出すと、キリエの指が力を失い、金属の箱がそこへ落ちた。
フェイトはそれ以上尋ねなかった。医療班に渡して持ち物の確認を受け、本人からの預かり物として記録してもらった。
キリエの目は、その間もどこにも焦点を結ばなかった。
誰かのことを考える時、キリエはいつもまず家族の話をしていた。父の病気。故郷の星。母と姉のこと。あれほど守りたがっていたものが、いま一度に失われたのだとしたら。
いま、この子の中で何が起きているのか。
フェイトには、わからなかった。
わからないことを、無理に埋めようとはしなかった。
「……私、ここにいるから」
キリエの手の届く場所に、自分の手を置いた。
それが触れられることは、しばらくなかった。
四人が運ばれた医療区画では、まず診察と処置が行われた。
キリエには静かな個室が用意され、ディアーチェ、シュテル、レヴィには隣の休養室が与えられた。誰ひとり、地球へ戻ったことを喜んではいなかった。
少しして、医療班の確認を終えたクロノが廊下に現れた。
「フェイト、少しいいか」
「兄さん?」
フェイトはキリエが横たわる個室の扉を振り返ってから、廊下へ出た。
「四人に何があったのか、聞かなければならない。ただ、彼女たちを正式な聴取室に連れて行くつもりはない」
「……うん」
「三人は受け答えができるそうだ。だが、僕や調査官がいきなり質問するより、君の方が話しやすいだろう」
クロノは一度言葉を切った。
「フェイト。君から、話せる範囲だけ聞いてもらえないか」
「私が?」
「ああ。詳しい報告を作るためじゃない。まず、向こうで何が起きて、四人が何を必要としているのかを知りたい。誰かが苦しそうなら、その場でやめていい」
「……わかった」
フェイトは頷いた。
「でも、キリエさんには今、聞けないと思う」
「僕もそう思う。彼女には休んでもらおう。三人にも無理強いはしないでくれ」
クロノは休養室の扉を見た。
「それから、もし助けを求められても、まだできると決まっていないことを約束しないでほしい」
「うん。……嘘はつきたくない」
「頼む」
そう言って、クロノは廊下の反対側へ歩いていった。報告を待つ管理局の職員たちを、四人から遠ざけるためだった。
フェイトは深く息を吸い、休養室の扉を軽く叩いた。
「入ってもいい?」
「フェイト、か」
返事をしたのはディアーチェだった。
「……構わぬ」
部屋には大きな音のする機器も、眩しい照明もなかった。窓の向こうには東京湾が見える。ディアーチェは椅子に座り、シュテルは寝台の端に背筋を伸ばしていた。レヴィは膝を抱えて、床を眺めている。
フェイトは空いている椅子を引いた。
「体は、もう大丈夫?」
「外傷はありません」
シュテルが答えた。いつもの丁寧な口調だが、声に力はなかった。
「レヴィは?」
「……へいき」
レヴィは顔を上げなかった。
フェイトは少し間を置いた。
「兄さんから頼まれたんだ。帰ってくるまでに何があったのか、みんなが話せることだけ聞いてほしいって。でも、嫌だったら今は話さなくていいよ」
ディアーチェは鼻を鳴らそうとした。
その動きが、途中で止まった。
「我らは……戻ってきた。それだけだ」
「……うん」
「ユーリは、戻らなかった」
ディアーチェの声は、かすれていた。
それきり王は口を閉ざす。椅子の肘掛けを掴んでいる指が、白くなるほど強く曲がっていた。
フェイトは三人を見渡した。
レヴィは膝を抱えたまま俯いている。ディアーチェに、これ以上の説明を求めることもできなかった。
シュテルだけが、まっすぐに座っていた。
顔色は悪い。けれど、目を伏せるたびに何かを順序立てて確かめようとしている。帰還した直後から、彼女はずっとそうしていた。
「シュテル。……話せる?」
フェイトは静かに尋ねた。
「無理なら、今じゃなくてもいいよ」
「いえ」
シュテルは小さく首を振った。
「私が、お話しします。ディアーチェもレヴィも、今は……」
「うん。ゆっくりでいいから」
フェイトは手元に記録用の端末を置かなかった。向かい合って、シュテルが自分の言葉を選ぶのを待った。
「私たちは、予定どおりエルトリアへ帰還しました。次元跳躍の時点では、何も異常はありませんでした」
そこまでは、報告する声だった。
「ですが、到着した場所は……私たちが知る故郷ではありませんでした」
シュテルが一度だけ息を吸う。
「街は壊れ、地形も変わっていました。上空にあるはずの居住コロニーは見当たらず、地表には、その一部と思われる残骸が落ちていました。家も、研究所も……アミティエたちの家族が暮らしていた場所さえ、元の形では残っていなかったんです」
「そんな……」
フェイトは言葉を失った。
先日、地球で一緒に紅茶を飲んだフローリアン姉妹。その二人が帰りたがっていた家が、もうない。
「生存者は?」
「私たちが確認できた範囲では、誰も。……ただし、すべての地域を調べられたわけではありません」
シュテルは言い添えた。その区別だけは、間違えたくないらしかった。
「それから、星の表面が変わり始めました。透明な鉱物のようなものが岩も建物も覆い、まるで違う物質へ作り替えていくんです。触れたものは元に戻りませんでした」
フェイトの脳裏に、先日の東京の景色が浮かびかけた。
だが、シュテルの語るものは、そのどれとも違っていた。
「空からは、雷のような光が何度も落ちました。光の当たった場所は結晶化し、次には跡形もなく砕けてしまう。重力の向きまで一定ではなく、空を飛ぶことも、距離を測ることも難しかった」
言葉は整っていた。
けれど、シュテルの膝に置かれた手は震えている。
「その原因を、見たの?」
「……何かが、いました」
返答まで、長い間があった。
「巨大な、何かです。生物なのか機械なのか、私には判断できませんでした。輪郭が定まらず、近づくこともできない。私たちが攻撃してどうにかできる相手では、ありませんでした」
シュテルは言葉を切った。
ディアーチェが顔を上げたが、何も言わない。レヴィは膝に額を押しつけていた。
「それで……地球に戻ろうとしたの?」
「はい。アミティエが決めました。でも、エルトリア側の空間が変化し続けていて、帰還するための出発座標を固定できなかったんです」
そこから先は、シュテルの声が少し速くなった。
「アミティエはフォーミュラを地面へ接続して、座標の補正を繰り返しました。ユーリは永遠結晶の力で、そこから地球までの経路を繋いでいました。二人とも、離れれば通路が壊れるとわかっていて……最後まで、その場所を支えてくれたんです」
「ですが、出発点と通路を維持する者が必要でした。二人が手を離せば、誰も戻れない。しかも、侵食が装置の支柱にまで及んでいました」
シュテルは顔を上げた。
「最初から、別れるつもりでいたわけではないんです。でも、アミティエが座標を固定し、ユーリが道を支えなければ、誰も跳躍できなかった。……だから二人は、手を離さなかったんです」
フェイトは黙って聞いていた。
「私たちも、ユーリのところへ戻ろうとしました。ディアーチェも、レヴィも。けれど、間に透明な境界ができて、越えられなかった。そこで無理に魔法を使えば、残っている足場まで崩れてしまう」
シュテルの声が初めて乱れた。
「ユーリは……怖がっていました。それでも、離さなかったんです。私たちの通る道を。最後まで」
「シュテル……」
「四人が転送されたところまでは覚えています。アミティエが装置を操作して、ユーリが光を支えて……その向こうから、地球の海が見えました」
シュテルの指が服の裾を握る。
「その時、二人の足元にはもう、透明なものが広がっていました。私たちは止められなかった。二人がどうなったのか、最後までは見ていません」
彼女は目を伏せた。
「だから、生きているとも……そうでないとも、私には言えません。ただ、あの場所に二人を残して、私たちだけが帰ってきました」
フェイトには、かける言葉が見つからなかった。
わかったふりをすることも、大丈夫だと請け合うこともできない。
「……話してくれて、ありがとう」
ようやく、それだけを口にした。
「もう十分だよ。続きは、今じゃなくていい」
シュテルは首を振ろうとした。
けれど、その動きは途中で止まった。
「フェイト」
「うん」
「クロノには……伝えてください。あの星へ、何の準備もなく行ってはいけません。私たちが見たものは、普通の災害ではありませんでした」
「必ず伝えるよ」
「それから……」
シュテルは一度ディアーチェを見て、それから膝を抱えるレヴィに目を向けた。
「ユーリが、私たちを帰してくれたことも」
言い終えると、シュテルはようやく背を丸めた。
レヴィがそっとその袖を掴んだ。ディアーチェも顔を背けたまま、二人のそばを離れなかった。
フェイトはそれ以上、何も尋ねなかった。
窓の向こうに広がる東京湾は、出発した日のまま静かだった。
六人で向かった故郷から、四人が帰ってきた。
シュテルが語れるのは、そこまでだった。
*
時空管理局東京支局の、事件対応用に設けられた臨時捜査室。
フェイトは机の上に置かれた小さな記録ユニットを見つめていた。
キリエから預かった、アミティエの最後の持ち物だった。シュテルの話が終わってからも、すぐに開こうとは思えなかった。あの子がこれを握り締めていた理由を知ってしまうのが、怖かったのかもしれない。
「フェイト」
隣に立ったクロノが声をかけた。
「本人が話せるようになったら、記録媒体の扱いについて改めて確認する。今は保全を優先するけれど、内容がエルトリアの救助に関係するなら見過ごせない」
「うん。お姉ちゃんが、渡したんだって……キリエさん、そう言おうとしてた」
正確には、その一言さえ最後まで聞き取れてはいない。
それでも、彼女が意識を失いそうになるまで手放さなかったものだった。
技術担当者は記録ユニットを読み取り専用の接続器へ収めた。古いエルトリア式の保存形式で、索引の一部には破損もある。すべての資料を即座に復元できるわけではない。
「まず、開ける部分だけを表示します。原本には書き込みません」
フェイトが頷くと、モニターに一つの名前が現れた。
FIL=MAXWELL。
「……マクスウェル?」
地球で戦った男の名だった。
その下には、膨大な観測記録が並んでいた。地殻の深部から拾い上げた波形。宇宙へ発せられた信号。外宇宙からの応答を示す欄。そして、フィル自身の音声と、解読途中の研究資料。
「これ……アミタさんが見つけたの?」
「まだわからない。ただ、エルトリアから持ち帰られた資料なのは確かだ」
クロノの声は慎重だった。
フェイトはスクリーンを見た。地中の観測値が幾重にも重なり、長短の間隔で並んだ波形が映っている。次の画面には、同じ並びを文章へ置き換えようとした翻訳記録があった。
失敗。再計算。保留。再照合。
何十年も続いた解析の末に、マクスウェルは一つの仮説へ辿り着いていた。
――発信主体に関する考察。
技術担当者が関連資料を開いた。
地殻深部の活動記録。惑星内部の状態変化。信号が生じた時刻と、それらの変化との一致。人工的な送信装置の可能性を、一つずつ除外していった調査結果。
そして、最後の行に記された結論。
――発信主体は、惑星エルトリアそのものである可能性が高い。
「……星が、信号を送ったの?」
フェイトの声が掠れた。
「マクスウェルはそう考えていたらしい。だが、観測値だけで意志の存在まで証明できるわけじゃない」
クロノは慎重に答えた。
「ただ、彼はその信号を言葉として解析していた。何を伝えようとしていたのか、というところまで」
画面を送る。
そこには翻訳の候補が何十通りも並んでいた。単なる地殻の振動なら必要のない作業だった。ある言葉に近づくたび、解析結果は棄却され、また最初から計算し直されている。
最後に残された音声記録の書き起こしを、技術担当者が開いた。
フィル=マクスウェルは、その信号を救難要請だと考えていた。
けれど、何から救ってほしいのか。
研究資料には、彼自身の躊躇いが幾度も書き込まれていた。星が死ぬことそのものではない。自らを滅ぼした人間たちが、その死を越えてなお生き延びていること。それを、エルトリアは恐れているのではないか。
「……どういう、こと?」
フェイトは小さく呟いた。
クロノも答えられなかった。
アミティエとキリエが、どれほど故郷を愛していたか。
父と母と、家の庭と、もう一度花を咲かせる日を、どれほど信じていたか。
フェイトは知っていた。
あの子たちが命を懸けて帰った星が、なぜ外宇宙へ助けを求めたのか。最後の解析結果は、それを示していた。
――どうか、いまだ存命する生物種を絶滅させて欲しい。
文字を追ったフェイトの指が、画面の前で止まる。
「……そんな」
信号が発せられた先には、外宇宙からの応答記録が残されていた。
だが、フェイトはもう、そちらを見ることができなかった。
彼女がずっと救おうとしていた姉妹の故郷。その星が発した願いの意味を、ようやく理解してしまったからだ。
――エルトリアは、自らが生み出した人類の絶滅を望んでいた。
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