「力が欲しいか?」と言いたくて!   作:桃たろす

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エピローグ 帰ってきた4人

時空管理局東京支局の監視卓に、予定にない反応が現れた。

 

 昼の東京湾は、どこから見ても平穏だった。

 

 数日前まで関東一帯を覆っていた戦闘用の結界は解除され、一般交通も通常運用に戻っている。東京支局の観測網が追っているのは、事件に使用された残存機体の反応と、回収しきれていない機材の所在くらいだった。

 

 だからこそ、指令室のオペレーターは最初、その波形を機器の故障だと思った。

 

「……次元跳躍反応?」

 

 表示を拡大する。

 

 海沿いの、管理局が先日まで臨時の転送地点として使用していた場所。すでにゲート設備は撤収されているはずだった。出入りする者の登録も、今日の予定表にはない。

 

 それでも空間の位相が確かに変化している。

 

「支局長。未申請の次元転移です。場所は、先日の見送り地点付近」

 

 報告を受けたクロノ=ハラオウンは、机から顔を上げた。

 

「転送元は」

 

「照合中です。通常のゲート形式ではありません。入口の位相が周期的にずれていて、発信側の座標が……あれ?」

 

「何だ」

 

「エルトリアの識別情報が出ています」

 

 クロノは立ち上がった。

 

 エルトリア。

 

 つい先ほどまで、帰還手続きの報告書で何度も見ていた名だった。フローリアン姉妹が帰り、ユーリと三人の小さな王たちも、それに同行した世界。

 

 今ここへ戻ってくる予定などない。

 

「人数は?」

 

「位相の重なりがひどくて……待ってください。生体反応、四つ」

 

「四人?」

 

 クロノは一度だけ聞き返した。

 

「出発したのは六人だ」

 

「はい。転送予定の登録と合致しません。これ以上の反応は……ありません」

 

 支局長の前で、波形が鋭く跳ねた。

 

 転送元を示す数字は、一桁ごとに違う値をとっていた。観測器が壊れているのではない。複数の基準を重ねて計算しても、出発地点がひとつの場所として定まらない。

 

 エルトリアへ続いているはずの経路は、行きと帰りでまるで別物だった。

 

「ゲートを安定化できるか」

 

「こちらからでは……! 着地点は固定されていますが、向こう側の空間が閉じています。転送された四人の反応だけが、こちらに残りました」

 

 画面から、赤い警告が一斉に消えた。

 

 異常な経路が切断されたのだ。

 

「……映像を」

 

 小型の監視機が海辺を捉えた。

 

 広場に四つの人影がある。

 

 ひとりが地面に座り込み、残る三人は、その傍らで空を見上げていた。

 

「キリエさん……?」

 

 オペレーターの声に、クロノは答えなかった。

 

 映像を見ただけでは何が起こったのかわからない。四人は生きている。だが、迎えが必要なのは確かだった。

 

「医療班と回収班を出してくれ。周辺の一般人には近づかせない。武装隊は待機にとどめろ。対象は先日の協力者だ」

 

「了解!」

 

「それから、フェイトに連絡を」

 

 支局長は腕にデバイスを装着しながら、指示を追加した。

 

「僕も現場へ向かう」

 

 

 海辺では、潮風が吹いていた。

 

 キリエ=フローリアンは舗装の上に座ったまま、何もない空間へ顔を向けていた。

 

 さっきまで姉のいた場所。

 

 いや、姉がいたのはエルトリアだ。ここではない。頭のどこかで理解しているはずなのに、空を見ていると、そのすぐ向こうに姉が立っているような気がした。

 

 次元跳躍の直前、アミティエは自分の手を離した。

 

 いつも、つないでくれた方の手だった。

 

「……お姉ちゃん」

 

 喉が痛んだ。

 

 何度呼んだのだろう。

 

 呼んでも誰も来ない。呼ぶたびに、声だけが自分の身体から出ていく。もう少し大きく呼べば届く気がして、キリエは唇を開いた。

 

 音にならなかった。

 

 目の前に転がった菓子の包みが、風で少し動いた。

 

 母に持って帰るはずだった土産だった。

 

 母の顔を思い出そうとする。

 

 そこに姉の顔が重なった。

 

 今度こそ、一緒にお茶を飲もうと約束した。

 

 あの家で、もう一度。

 

 そんな話をしていたのは、いつだったか。

 

 昨日かもしれないし、何年も前のことかもしれない。

 

「……帰ってきたのに」

 

 キリエは小さく呟いた。

 

「ちゃんと、帰ってきたのに……」

 

 誰からも返事はなかった。

 

 ディアーチェは少し離れたところで、腕を下ろしたまま立っていた。

 

 大きな魔法を放った後のように、指先だけが細かく震えている。だが、魔力の消耗ではない。もう使う必要のない力を、いつでも使えるようにと身体が構え続けているのだった。

 

「……ユーリ」

 

 口にしてみても、名前は名前のままだった。

 

 使えば相手が振り返る言葉だった。

 

 しかし、振り返る者はいない。

 

 シュテルは周囲を観察していた。

 

 建物の位置。海面の高さ。立っている街灯。地表の色。すべて記憶と一致する。ここは地球だ。四人が戻ると告げられた場所だ。

 

 その確認を、何度も繰り返していた。

 

 もう確認する必要はないとわかっていても、止められなかった。

 

「王……」

 

 ディアーチェが反応しない。

 

「ディアーチェ」

 

「……何だ」

 

「私たちは、戻りました」

 

「見ればわかる」

 

 それだけ答えて、王はまた空を仰いだ。

 

 レヴィは膝を抱え、二人の中間に座り込んでいた。

 

 さっきまでは叫んでいた。

 

 ユーリを連れて来い、戻せ、あの場所へ行かせろと、手当たり次第に怒鳴った。シュテルに腕をつかまれても振り払い、何もないところへ走ろうとした。

 

 だが、何度も空を見上げるうちに、急に声が途絶えた。

 

 今はただ、指を折っている。

 

 一本ずつ。

 

 何を数えているのか、自分でもわからない。

 

 その指が三本目で止まった。

 

「……シュテルン」

 

「はい」

 

「ボクたち、三人だよね」

 

「……ええ」

 

「ユーリ、どこ」

 

 シュテルには答えられなかった。

 

 

 遠くで、転送機の作動音がした。

 

 白い光が海辺の舗装を照らし、その中心からクロノとフェイトが現れる。少し遅れて、医療班の局員たちも降り立った。

 

 フェイトは最初、誰かが怪我をしているのだと思った。

 

 けれど、目に見える出血も、折れた骨もなかった。

 

 そこにいたのは、昨日まで笑っていた四人だった。

 

「キリエさん!」

 

 呼びかけに反応して、キリエの顔が動いた。

 

 しかし、目が合わない。

 

 フェイトの顔に視線を向けたようでいて、その奥を見ている。彼女の瞳は焦点を結ばず、何かを確かめるようにゆっくり左右へ揺れていた。

 

「……フェイトちゃん?」

 

「はい。私です。迎えに来ました」

 

「迎え……」

 

 キリエはその言葉を繰り返した。

 

 フェイトは膝を折り、同じ高さから話しかけた。

 

「怪我はありませんか。どこか、痛むところは」

 

 キリエは首を振ろうとした。

 

 途中で動きが止まった。

 

「……お姉ちゃんは?」

 

 フェイトの手が止まった。

 

「アミタさんは……?」

 

 キリエは何もない空を指差した。

 

「向こうに、いるの。まだ、向こうに……」

 

 言い終える前に、息が詰まった。

 

 はじめは咳のようだった。

 

 次に、喉の奥から引き攣るような音が漏れた。

 

「……違う。違うの。そうじゃなくて……」

 

 突然、キリエが立ち上がった。

 

 ふらつく身体を支えようとしたフェイトの手を払い、空へ両腕を伸ばす。

 

「お姉ちゃん! お姉ちゃんっ!」

 

 声が広場に響いた。

 

「来て! もういいから! もう大丈夫だから、早くこっちへ……!」

 

 キリエは自分のフォーミュラに手を伸ばした。

 

 起動しかけた装置が、短い警告を鳴らす。

 

 座標を指定する画面には何も表示されなかった。すでに出発点を示す情報は失われている。姉が向こう側で固定し続けた座標は、姉が手を離した時点で、どこにも残っていなかった。

 

 その事実を理解する前に、キリエは何度も入力した。

 

「開いて……開いてよ!」

 

 装置が応答しない。

 

「こんなときくらい、言うこと聞いてよぉっ!」

 

 クロノが一歩前に出かけた。

 

 だが、何と声をかけるべきか迷う間に、フェイトがキリエの前へ回り込んだ。

 

「キリエさん。今は、一度ここを離れましょう。ここで装置を動かすのは危険です」

 

「いやっ!」

 

 キリエは泣き濡れた顔を上げた。

 

「あなたたち管理局なんでしょ! 次元を渡れるんでしょ!? だったら開けてよ! もう一回行けばいいだけじゃない!」

 

 フェイトは、その声を遮らなかった。

 

 開けられる、と言えば嘘になる。開けられない、と言い切るにも、まだ何も調べられていない。

 

「……すぐに戻れるって、約束はできません。でも、何が起きたのか、調べます。キリエさんたちを、ここに置いたままにはしません」

 

「そんなの……そんなの、今じゃなきゃ意味ないのに……!」

 

 キリエは何度も首を振った。

 

 いつもなら、相手の言い分を聞いてから引き下がってしまう少女だった。

 

 今は違った。

 

「お姉ちゃんがいるの! ユーリだって! 二人が、二人がまだあそこに……!」

 

 言葉が続かない。

 

 あの白い光の下で、姉は何をしていたのか。

 

 姉の靴に透明なものが這っていた。ユーリの足にも。二人は怖がっていた。それでも、最後まで自分たちを送り出そうとしていた。

 

 思い出した途端、息が吸えなくなった。

 

「っ、は……あ……」

 

 キリエは口元を押さえた。

 

 呼吸が速くなる。吸っても吸っても足りない。海の匂いを含んだ空気が胸へ入ってこないように思える。

 

 フェイトがそっと声をかけた。

 

「キリエさん、私はここにいます」

 

「いや……!」

 

 キリエは首を振った。

 

「私が……私が戻れば……! お姉ちゃんを、迎えに……!」

 

 一歩踏み出そうとして、膝が折れた。

 

 フェイトが抱きとめる。

 

 キリエはその胸に拳を打ちつけた。

 

 一度、二度。

 

 力のこもらない拳だった。フェイトは身を引かず、ただ倒れないように支え続けた。

 

「どうして……どうして私だけ……!」

 

 キリエは泣き叫んだ。

 

「私がお姉ちゃんを連れて帰らなきゃいけなかったのに! だって……あんなに、頑張ってくれたのに……!」

 

 最後には言葉がほとんど聞き取れなくなった。

 

 声を張り上げようとするたび、息が引っかかる。喉が擦れ、涙で視界が潰れ、もう目の前に誰がいるのかもわからなかった。

 

 それでも泣きやめなかった。

 

 ずっと謝っていた。

 

 何に謝っているのか、自分でも定まらないまま。

 

「ごめんなさい……お姉ちゃん、ごめん……ごめんなさ……」

 

 フェイトは何も言い返さなかった。

 

 謝る必要はない、と簡単に打ち消せる言葉ではなかった。

 

 泣くなと言うことも、落ち着けと言うこともできなかった。

 

 ただ、キリエがその場に崩れ落ちないように支えた。

 

 

 クロノは三人の顔を見た。

 

 シュテルは自分から何かを話そうとして、唇を開きかけていた。ディアーチェの手は震えたままで、レヴィはフェイトのいる方をじっと見つめている。

 

 今ここで、誰かから何が起きたのかを聞き出すべきではなかった。

 

「救護班。四人とも医療区画へ搬送してくれ。身体の確認を優先する。事情については、場所を移してからだ」

 

「了解しました」

 

「ほかの部署から問い合わせがあっても、本人たちへの接触は認めない。僕を通してくれ」

 

 クロノは短く指示を重ねた。

 

 それから、フェイトを見た。

 

「フェイト。キリエさんに付き添ってくれるか」

 

「うん」

 

「僕はほかの三人の搬送を確認する。今は誰にも無理に話をさせないでくれ」

 

 フェイトは頷き、力の抜けたキリエを抱き直した。

 

 さっきまで泣き叫んでいた声は、次第にかすれている。

 

 それでも、キリエは何度も姉の名を呼んだ。

 

 やがて、呼ぶための力さえ尽きた。

 

 医療用の小型艇が海辺へ降りた。

 

 キリエは担架へ移される際、激しく身をよじった。

 

「やだっ……! お姉ちゃんが……まだ……!」

 

 起き上がろうとしたところを、フェイトがそっと肩を支える。

 

「私も一緒に行きます」

 

 それだけ言った。

 

 キリエの手がフェイトの袖を掴んだ。

 

 強くはなかった。

 

 かろうじて離れない程度の力だった。

 

 艇内の明かりは薄い。

 

 刺激を抑えるためか、医療班は警告音を切り、端末の画面も低い輝度にしていた。キリエの指先につけた測定器が脈拍を読み取り、数値だけを静かに更新している。

 

 外傷らしい外傷はなかった。

 

 小さな擦過傷と、ひどい脱水。息はまだ不規則だったが、処置が必要な状態として医療班が確認を進めている。

 

 しかしそれだけでは、彼女の状態を説明できなかった。

 

 医療担当者が名を呼ぶ。

 

「キリエさん。ここがどこかわかりますか」

 

 キリエは返事をしなかった。

 

「今、どこか痛むところはありますか」

 

 ゆっくりと瞬きをする。

 

 瞳が相手の顔へ動く。

 

 けれど、そこに焦点が合わない。

 

 質問が聞こえていないわけではなかった。口を開くこともあった。ただ、言葉の意味を選び、答えを作るところまでたどり着けないのだ。

 

 泣き疲れたせいなのか、もう涙は出ていなかった。

 

 代わりに、目の縁だけが赤く腫れている。

 

 時折、何もない方へ手を動かした。

 

 何かを掴もうとしている。

 

 そのたびに指は空を切り、何事もなかったように膝へ戻っていく。

 

「……お姉ちゃん」

 

 ほんの小さな声だった。

 

 フェイトが振り向く。

 

「キリエさん?」

 

 返事はない。

 

 キリエは自分の手を見つめていた。

 

 掌のしわを、一本ずつ確かめている。

 

 そこに残っているはずの、姉の指の温かさを探すように。

 

 フェイトは椅子を寄せた。

 

 キリエの片手が、ずっと握り締められていることに気づいた。泣き叫んでいた時から、何かを離さないように拳を固く閉じていたのだ。

 

 その指が、ほんの少し開いた。

 

 小さな金属の記録ユニットが掌に載っていた。縁は手汗で濡れ、角が皮膚に赤く食い込んでいる。

 

「……お姉ちゃん、が」

 

 途切れた声がした。

 

 キリエはフェイトを見なかった。記録ユニットを見つめているわけでもない。ただ、それを持つ手だけが、ゆっくりフェイトの方へ動いた。

 

「……これ」

 

「私が預かっても、いいの?」

 

 返事はなかった。

 

 それでも、フェイトが両手を差し出すと、キリエの指が力を失い、金属の箱がそこへ落ちた。

 

 フェイトはそれ以上尋ねなかった。医療班に渡して持ち物の確認を受け、本人からの預かり物として記録してもらった。

 

 キリエの目は、その間もどこにも焦点を結ばなかった。

 

 誰かのことを考える時、キリエはいつもまず家族の話をしていた。父の病気。故郷の星。母と姉のこと。あれほど守りたがっていたものが、いま一度に失われたのだとしたら。

 

 いま、この子の中で何が起きているのか。

 

 フェイトには、わからなかった。

 

 わからないことを、無理に埋めようとはしなかった。

 

「……私、ここにいるから」

 

 キリエの手の届く場所に、自分の手を置いた。

 

 それが触れられることは、しばらくなかった。

 

 四人が運ばれた医療区画では、まず診察と処置が行われた。

 

 キリエには静かな個室が用意され、ディアーチェ、シュテル、レヴィには隣の休養室が与えられた。誰ひとり、地球へ戻ったことを喜んではいなかった。

 

 少しして、医療班の確認を終えたクロノが廊下に現れた。

 

「フェイト、少しいいか」

 

「兄さん?」

 

 フェイトはキリエが横たわる個室の扉を振り返ってから、廊下へ出た。

 

「四人に何があったのか、聞かなければならない。ただ、彼女たちを正式な聴取室に連れて行くつもりはない」

 

「……うん」

 

「三人は受け答えができるそうだ。だが、僕や調査官がいきなり質問するより、君の方が話しやすいだろう」

 

 クロノは一度言葉を切った。

 

「フェイト。君から、話せる範囲だけ聞いてもらえないか」

 

「私が?」

 

「ああ。詳しい報告を作るためじゃない。まず、向こうで何が起きて、四人が何を必要としているのかを知りたい。誰かが苦しそうなら、その場でやめていい」

 

「……わかった」

 

 フェイトは頷いた。

 

「でも、キリエさんには今、聞けないと思う」

 

「僕もそう思う。彼女には休んでもらおう。三人にも無理強いはしないでくれ」

 

 クロノは休養室の扉を見た。

 

「それから、もし助けを求められても、まだできると決まっていないことを約束しないでほしい」

 

「うん。……嘘はつきたくない」

 

「頼む」

 

 そう言って、クロノは廊下の反対側へ歩いていった。報告を待つ管理局の職員たちを、四人から遠ざけるためだった。

 

 フェイトは深く息を吸い、休養室の扉を軽く叩いた。

 

「入ってもいい?」

 

「フェイト、か」

 

 返事をしたのはディアーチェだった。

 

「……構わぬ」

 

 部屋には大きな音のする機器も、眩しい照明もなかった。窓の向こうには東京湾が見える。ディアーチェは椅子に座り、シュテルは寝台の端に背筋を伸ばしていた。レヴィは膝を抱えて、床を眺めている。

 

 フェイトは空いている椅子を引いた。

 

「体は、もう大丈夫?」

 

「外傷はありません」

 

 シュテルが答えた。いつもの丁寧な口調だが、声に力はなかった。

 

「レヴィは?」

 

「……へいき」

 

 レヴィは顔を上げなかった。

 

 フェイトは少し間を置いた。

 

「兄さんから頼まれたんだ。帰ってくるまでに何があったのか、みんなが話せることだけ聞いてほしいって。でも、嫌だったら今は話さなくていいよ」

 

 ディアーチェは鼻を鳴らそうとした。

 

 その動きが、途中で止まった。

 

「我らは……戻ってきた。それだけだ」

 

「……うん」

 

「ユーリは、戻らなかった」

 

 ディアーチェの声は、かすれていた。

 

 それきり王は口を閉ざす。椅子の肘掛けを掴んでいる指が、白くなるほど強く曲がっていた。

 

 フェイトは三人を見渡した。

 

 レヴィは膝を抱えたまま俯いている。ディアーチェに、これ以上の説明を求めることもできなかった。

 

 シュテルだけが、まっすぐに座っていた。

 

 顔色は悪い。けれど、目を伏せるたびに何かを順序立てて確かめようとしている。帰還した直後から、彼女はずっとそうしていた。

 

「シュテル。……話せる?」

 

 フェイトは静かに尋ねた。

 

「無理なら、今じゃなくてもいいよ」

 

「いえ」

 

 シュテルは小さく首を振った。

 

「私が、お話しします。ディアーチェもレヴィも、今は……」

 

「うん。ゆっくりでいいから」

 

 フェイトは手元に記録用の端末を置かなかった。向かい合って、シュテルが自分の言葉を選ぶのを待った。

 

「私たちは、予定どおりエルトリアへ帰還しました。次元跳躍の時点では、何も異常はありませんでした」

 

 そこまでは、報告する声だった。

 

「ですが、到着した場所は……私たちが知る故郷ではありませんでした」

 

 シュテルが一度だけ息を吸う。

 

「街は壊れ、地形も変わっていました。上空にあるはずの居住コロニーは見当たらず、地表には、その一部と思われる残骸が落ちていました。家も、研究所も……アミティエたちの家族が暮らしていた場所さえ、元の形では残っていなかったんです」

 

「そんな……」

 

 フェイトは言葉を失った。

 

 先日、地球で一緒に紅茶を飲んだフローリアン姉妹。その二人が帰りたがっていた家が、もうない。

 

「生存者は?」

 

「私たちが確認できた範囲では、誰も。……ただし、すべての地域を調べられたわけではありません」

 

 シュテルは言い添えた。その区別だけは、間違えたくないらしかった。

 

「それから、星の表面が変わり始めました。透明な鉱物のようなものが岩も建物も覆い、まるで違う物質へ作り替えていくんです。触れたものは元に戻りませんでした」

 

 フェイトの脳裏に、先日の東京の景色が浮かびかけた。

 

 だが、シュテルの語るものは、そのどれとも違っていた。

 

「空からは、雷のような光が何度も落ちました。光の当たった場所は結晶化し、次には跡形もなく砕けてしまう。重力の向きまで一定ではなく、空を飛ぶことも、距離を測ることも難しかった」

 

 言葉は整っていた。

 

 けれど、シュテルの膝に置かれた手は震えている。

 

「その原因を、見たの?」

 

「……何かが、いました」

 

 返答まで、長い間があった。

 

「巨大な、何かです。生物なのか機械なのか、私には判断できませんでした。輪郭が定まらず、近づくこともできない。私たちが攻撃してどうにかできる相手では、ありませんでした」

 

 シュテルは言葉を切った。

 

 ディアーチェが顔を上げたが、何も言わない。レヴィは膝に額を押しつけていた。

 

「それで……地球に戻ろうとしたの?」

 

「はい。アミティエが決めました。でも、エルトリア側の空間が変化し続けていて、帰還するための出発座標を固定できなかったんです」

 

 そこから先は、シュテルの声が少し速くなった。

 

「アミティエはフォーミュラを地面へ接続して、座標の補正を繰り返しました。ユーリは永遠結晶の力で、そこから地球までの経路を繋いでいました。二人とも、離れれば通路が壊れるとわかっていて……最後まで、その場所を支えてくれたんです」

 

「ですが、出発点と通路を維持する者が必要でした。二人が手を離せば、誰も戻れない。しかも、侵食が装置の支柱にまで及んでいました」

 

 シュテルは顔を上げた。

 

「最初から、別れるつもりでいたわけではないんです。でも、アミティエが座標を固定し、ユーリが道を支えなければ、誰も跳躍できなかった。……だから二人は、手を離さなかったんです」

 

 フェイトは黙って聞いていた。

 

「私たちも、ユーリのところへ戻ろうとしました。ディアーチェも、レヴィも。けれど、間に透明な境界ができて、越えられなかった。そこで無理に魔法を使えば、残っている足場まで崩れてしまう」

 

 シュテルの声が初めて乱れた。

 

「ユーリは……怖がっていました。それでも、離さなかったんです。私たちの通る道を。最後まで」

 

「シュテル……」

 

「四人が転送されたところまでは覚えています。アミティエが装置を操作して、ユーリが光を支えて……その向こうから、地球の海が見えました」

 

 シュテルの指が服の裾を握る。

 

「その時、二人の足元にはもう、透明なものが広がっていました。私たちは止められなかった。二人がどうなったのか、最後までは見ていません」

 

 彼女は目を伏せた。

 

「だから、生きているとも……そうでないとも、私には言えません。ただ、あの場所に二人を残して、私たちだけが帰ってきました」

 

 フェイトには、かける言葉が見つからなかった。

 

 わかったふりをすることも、大丈夫だと請け合うこともできない。

 

「……話してくれて、ありがとう」

 

 ようやく、それだけを口にした。

 

「もう十分だよ。続きは、今じゃなくていい」

 

 シュテルは首を振ろうとした。

 

 けれど、その動きは途中で止まった。

 

「フェイト」

 

「うん」

 

「クロノには……伝えてください。あの星へ、何の準備もなく行ってはいけません。私たちが見たものは、普通の災害ではありませんでした」

 

「必ず伝えるよ」

 

「それから……」

 

 シュテルは一度ディアーチェを見て、それから膝を抱えるレヴィに目を向けた。

 

「ユーリが、私たちを帰してくれたことも」

 

 言い終えると、シュテルはようやく背を丸めた。

 

 レヴィがそっとその袖を掴んだ。ディアーチェも顔を背けたまま、二人のそばを離れなかった。

 

 フェイトはそれ以上、何も尋ねなかった。

 

 窓の向こうに広がる東京湾は、出発した日のまま静かだった。

 

 六人で向かった故郷から、四人が帰ってきた。

 

 シュテルが語れるのは、そこまでだった。

 

     *

 

 時空管理局東京支局の、事件対応用に設けられた臨時捜査室。

 

 フェイトは机の上に置かれた小さな記録ユニットを見つめていた。

 

 キリエから預かった、アミティエの最後の持ち物だった。シュテルの話が終わってからも、すぐに開こうとは思えなかった。あの子がこれを握り締めていた理由を知ってしまうのが、怖かったのかもしれない。

 

「フェイト」

 

 隣に立ったクロノが声をかけた。

 

「本人が話せるようになったら、記録媒体の扱いについて改めて確認する。今は保全を優先するけれど、内容がエルトリアの救助に関係するなら見過ごせない」

 

「うん。お姉ちゃんが、渡したんだって……キリエさん、そう言おうとしてた」

 

 正確には、その一言さえ最後まで聞き取れてはいない。

 

 それでも、彼女が意識を失いそうになるまで手放さなかったものだった。

 

 技術担当者は記録ユニットを読み取り専用の接続器へ収めた。古いエルトリア式の保存形式で、索引の一部には破損もある。すべての資料を即座に復元できるわけではない。

 

「まず、開ける部分だけを表示します。原本には書き込みません」

 

 フェイトが頷くと、モニターに一つの名前が現れた。

 

 FIL=MAXWELL。

 

「……マクスウェル?」

 

 地球で戦った男の名だった。

 

 その下には、膨大な観測記録が並んでいた。地殻の深部から拾い上げた波形。宇宙へ発せられた信号。外宇宙からの応答を示す欄。そして、フィル自身の音声と、解読途中の研究資料。

 

「これ……アミタさんが見つけたの?」

 

「まだわからない。ただ、エルトリアから持ち帰られた資料なのは確かだ」

 

 クロノの声は慎重だった。

 

 フェイトはスクリーンを見た。地中の観測値が幾重にも重なり、長短の間隔で並んだ波形が映っている。次の画面には、同じ並びを文章へ置き換えようとした翻訳記録があった。

 

 失敗。再計算。保留。再照合。

 

 何十年も続いた解析の末に、マクスウェルは一つの仮説へ辿り着いていた。

 

 ――発信主体に関する考察。

 

 技術担当者が関連資料を開いた。

 

 地殻深部の活動記録。惑星内部の状態変化。信号が生じた時刻と、それらの変化との一致。人工的な送信装置の可能性を、一つずつ除外していった調査結果。

 

 そして、最後の行に記された結論。

 

 ――発信主体は、惑星エルトリアそのものである可能性が高い。

 

「……星が、信号を送ったの?」

 

 フェイトの声が掠れた。

 

「マクスウェルはそう考えていたらしい。だが、観測値だけで意志の存在まで証明できるわけじゃない」

 

 クロノは慎重に答えた。

 

「ただ、彼はその信号を言葉として解析していた。何を伝えようとしていたのか、というところまで」

 

 画面を送る。

 

 そこには翻訳の候補が何十通りも並んでいた。単なる地殻の振動なら必要のない作業だった。ある言葉に近づくたび、解析結果は棄却され、また最初から計算し直されている。

 

 最後に残された音声記録の書き起こしを、技術担当者が開いた。

 

 フィル=マクスウェルは、その信号を救難要請だと考えていた。

 

 けれど、何から救ってほしいのか。

 

 研究資料には、彼自身の躊躇いが幾度も書き込まれていた。星が死ぬことそのものではない。自らを滅ぼした人間たちが、その死を越えてなお生き延びていること。それを、エルトリアは恐れているのではないか。

 

「……どういう、こと?」

 

 フェイトは小さく呟いた。

 

 クロノも答えられなかった。

 

 アミティエとキリエが、どれほど故郷を愛していたか。

 

 父と母と、家の庭と、もう一度花を咲かせる日を、どれほど信じていたか。

 

 フェイトは知っていた。

 

 あの子たちが命を懸けて帰った星が、なぜ外宇宙へ助けを求めたのか。最後の解析結果は、それを示していた。

 

 ――どうか、いまだ存命する生物種を絶滅させて欲しい。

 

 文字を追ったフェイトの指が、画面の前で止まる。

 

「……そんな」

 

 信号が発せられた先には、外宇宙からの応答記録が残されていた。

 

 だが、フェイトはもう、そちらを見ることができなかった。

 

 彼女がずっと救おうとしていた姉妹の故郷。その星が発した願いの意味を、ようやく理解してしまったからだ。

 

 ――エルトリアは、自らが生み出した人類の絶滅を望んでいた。

 




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