「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
ホテルへ戻るまで、二度目の襲撃はなかった。
だからといって、あの連中が僕らを見失ったと思うほど楽観的にもなれない。
砂漠では、鳥の姿を借りた使い魔らしきものを見ている。市街地へ戻った途端に監視の目が人間だけになるはずもなく、追手らしい車が見当たらないからと安心していたら、頭の上からずっと見られていました、なんてことも十分あり得る。
いちいち空を見上げて歩くわけにもいかないので、結局、僕となのはにできることは今まで通り振る舞うことくらいだった。
旅行中の日本人カップル。
この街へ入ってから使っている設定を、見られているかもしれない時にわざわざ崩す理由はない。だからホテルが見えてきても、なのはは僕の腕を取ったままだったのだけれど。
「小尾くん」
「なに?」
「……すごく見られてるよ」
「これは監視じゃないと思う」
自動扉を抜けたところで、受付にいた男と目が合った。
すぐに逸らされたのに、少しするとまた視線が戻ってくる。
まあ、気持ちは分かる。
ホテルを出た時には普通にTシャツを着ていた日本人の男が、数時間後には上半身裸で帰ってきたのだ。
そのうえ隣にいるなのはは、僕がさっきまで着ていた『I LOVE TOKYO』のTシャツを着ている。
事情を知らない人間からすれば、何があったのか気になって当然だろう。
「早く服着てよ……」
「そのために戻ってきたんでしょ」
「私まで変な目で見られてるんだけど」
「恋人だから連帯責任だよ」
「そういう時だけ設定を利用しないで」
小声で文句を言いながらも、なのはは腕を離さなかった。
こういうところは真面目である。
エレベーターへ乗り込んで、扉が閉じたところでようやく手が外れた。
「……疲れた」
「アメリカ旅行一日目にしては、なかなか濃かったね」
「旅行らしいこと何もしてないよ」
「砂漠見たじゃん」
「あれ観光地じゃないからね?」
「コンビニにも行った」
「撃たれたよ!」
そうだった。
思い返してみると、アメリカへ着いてからまともな観光なんて一度もしていない。
空港からタクシーで砂漠へ向かい、昨日そこで起きたらしい途方もない戦闘の痕跡を調べていたら、空には妙な使い魔がいた。市街地へ戻れば今度は僕の手に令呪が浮かび、その直後になのはは頭を撃ち抜かれ、僕も狙撃され、最終的には武装した連中に追い回された。
東京臨時支局が考えていた現地調査とは、たぶんかなり違う。
客室階へ着くと、部屋の前で足を止めた。
出る時に仕込んでおいた簡単な結界は、そのまま残っている。
「どう?」
「僕の仕掛けには触ってないね」
「じゃあ、大丈夫?」
「それしか分からない」
「……やっぱりそういう答えなんだ」
なのはが嫌そうな顔をする。
でも、ここで「大丈夫」と言い切る方が無責任だ。
僕が侵入する側なら、結界があると気づいた時点でなるべく触らない。どうしても中を調べたいなら、魔術的な痕跡を残さずに済む方法を考えるし、必要なら現代の道具だって使う。
魔術師だから魔術しか使わない、なんてことはない。
便利なら銃も使うし、盗聴器だって監視カメラだって使えばいい。
「小尾くん基準なんだね」
「敵の考え方を想像するなら、一番身近な魔術師を参考にするのが早いでしょ」
「一番参考にしたくない魔術師なんだけど」
「酷いなあ」
そう言われる理由に心当たりがありすぎるので、強く抗議できない。
部屋へ入ってからも、なのはには魔術的な異常がないか見てもらった。僕の方は、ぱっと見て変わったところがないか確かめながら、盗聴器でも仕込むなら自分ならどこを選ぶかと考えていく。
電話の周辺や、天井近くにある設備、家具の陰。
もちろん、本気で隠されたものをこの程度で全部見つけられるとは思っていない。
「魔術師でも、本当にこういうの使うんだ」
「使う奴は使うよ。僕なら使うし」
「また小尾くん基準」
「一貫してるでしょ?」
「そこは自慢しなくていいよ」
結局、僕らに分かる範囲では何も見つからなかった。
それなら、今はこれ以上疑っても仕方がない。
カーテンを閉めてからバッグを開き、ようやく替えのTシャツへ袖を通す。なのはも自分の服へ着替えて、借りていた『I LOVE TOKYO』を返してきた。
受け取ってみると、ところどころ赤黒く汚れている。
「これ、捨てる?」
「持って帰る」
「なんで?」
「なんとなく」
「血付いてるよ?」
「誰のせい?」
「撃った奴」
「だけ?」
言われて、少し考えた。
「……半分くらい僕」
「分かってるじゃん」
盾として使った件については、どうやら当分忘れてくれそうにない。
あの状況では間違っていなかったと思うし、実際かなり助かった。
ただし、それを本人の前で「便利だった」と口に出すほど、僕も馬鹿ではない。
たぶん。
◆
着替えを終えたなのはがベッドの端へ腰を下ろした頃には、さっきまでの軽口も自然と減っていた。
部屋の中を調べるところまでは終わった。
なら、次に決めなければならないことは一つしかない。
「小尾くん」
「うん」
「……帰る?」
帰れないわけではない。
むしろ、その気になれば飛行機より簡単に帰れる。
「確認なんだけど、なのはならここから日本まで直接戻れるんだよね?」
「うん。〈封解主〉を使えば、日本まで道をつなげられると思う」
「便利だねえ」
「小尾くんがこうしたんでしょ」
「まあ、そうなんだけど」
自分で原因を作った側が感心するのも妙な話ではある。
それでも、アメリカと日本の間にある距離そのものを無視して出口を作れるというのは、どう考えても便利だった。
だから砂漠であの戦闘跡を見た時点では、僕も帰る気だった。
地形が変わるほどの戦闘が起きていて、龍脈まで妙なことになっている。空には使い魔まで飛んでいた。
何をやっているのかは知らない。
でも、まともな魔術師たちが仲良く集まっているわけではないことくらい分かる。
僕は魔術師を信用していない。
自分自身を含めて。
知らない魔術師が大勢集まり、大掛かりな儀式まで始めているなら、関わらずに帰るのが一番賢い。
少なくとも。
僕の右手に、こんなものが浮かぶまではそう思っていた。
令呪へ視線を落とす。
「ただ、今すぐ帰るのは少し待った方がいいと思う」
「……どうして?」
「なのは、途中から意識なかったでしょ」
言われて思い出したのか、なのはが自分の頭へ手をやった。
「撃たれたからね」
「頭をね」
「わざわざ言わなくていいよ」
最初の狙撃で倒れたなのはは、その後に何が起きたのかを知らない。
僕が担いで逃げたことは知っていても、その途中で相手が何をしてきたのかまでは分からない。
「なのはが倒れた直後、次は僕が撃たれた」
「小尾くんも?」
「うん」
「避けたの?」
「引き金が落ちてから」
「相変わらずおかしい身体してるね」
「頭撃ち抜かれて普通に座ってる人に言われたくないなあ」
「それは……まあ」
なのはも強くは否定できなかった。
僕が気になっているのは、狙撃そのものではない。
あの一発を避けたあと、相手はそのまま諦めなかった。
「すぐ車が入ってきたんだよ。四台」
「四台?」
「前と後ろから挟むようにね。そこから武装した連中が降りてきて、そのまま撃ってきた」
なのはの顔から、少しずつ柔らかさが消えていく。
「何か言われなかったの?」
「何も」
「止まれとか、投降しろとかも?」
「言われなかったね」
僕には、捕まえるつもりがあったようには見えなかった。
狙撃で死ななかった。
だから次の方法で殺す。
あの動きは、それくらい単純だった。
「それで私の服があんなに……」
「そこは僕がなのはを盾にしたから」
「それはもう聞いた!」
「一応、事実関係を」
「そこだけ丁寧に説明しなくていいよ!」
怒られたので、話を戻す。
銃を持っていたこと自体なら、そこまで不思議ではない。
ここはアメリカだし、犯罪組織でも魔術師でも、武器を用意する方法はいくらでもある。
妙なのは、撃ち方だった。
「あのコンビニ、中に店員いたでしょ」
「うん」
「客もいたよね」
「……いた」
「でも連中、ほとんど気にしてなかった」
撃ち続ければ、弾が店内へ飛び込むかもしれない。
流れ弾が人間へ当たるかもしれない。
それでも、僕を逃がさないことの方を優先した。
「一般の人が巻き込まれても?」
「少なくとも、そこで撃つのをやめる気はなかったね」
これだけなら、まだ魔術師で説明できる。
人命に頓着しない奴なんて珍しくもないし、目的のためなら周囲の被害を気にしない奴だっていくらでもいる。
僕が言うのも何だけど。
ただ、もう一つだけ気になった。
「警察も来なかった」
「警察?」
「少なくとも、僕が逃げ切るまではサイレンも聞いてない」
「でも、すぐ逃げたんでしょ?」
「そう。だから、ただ来る前だっただけかもしれない」
そこは分けて考えた方がいい。
警察が来なかったから、警察も敵。
そんな単純な話をするつもりはない。
それでも引っかかる。
僕の手に令呪が現れてから、あの襲撃までは大して時間がなかった。なのに向こうは僕らの居場所を掴み、狙撃手を置き、その狙撃で仕留められなければすぐ次の部隊を動かしてきた。
あれだけ手回しのいい連中が、市街地で派手に銃を撃てば警察が来る、という誰でも思いつく問題だけ無視していた。
それよりは。
警察がすぐには介入してこないと、最初から分かっていた。
そう考えた方が僕にはしっくりくる。
「もしかすると、最初から警察が邪魔に入らないようにしてたのかもしれない」
「……警察に手を回してるってこと?」
「可能性はある」
なのはが考え込む。
「じゃあ、警察より上?」
「かもしれないね」
「政治家とか?」
「いや」
「違うの?」
「そのさらに」
そこまで言うと、なのはも気づいたらしい。
「……アメリカの、政府?」
「最悪の場合はね」
すぐに付け加える。
「まだ可能性の話だよ。証拠なんてない」
怪しいことはいくつもある。
でも、どれも一つだけなら別の説明はできる。
ただ、それらが全部同じ方向を向いているように見えるから、念のため最悪のところまで考えておきたいだけだ。
「ただの魔術師の集団だったら、むしろ話は簡単なんだよ」
「簡単?」
「相手を確認して、なのはに道を開いてもらって日本へ帰る。それでいい」
普通の魔術師が、なのはの空間接続を追ってそのまま日本まで来られるとは思えない。
「じゃあ、相手が分かったら帰れるんだね」
「魔術師の集団ならね」
「政府だったら?」
「そこが面倒」
なのはは正規のパスポートを使って入国している。
僕とは違う。
「なのはの入国記録って、本物でしょ?」
「うん」
「もし相手がそこまで見られる立場だったら、高町なのはって名前はもう知られててもおかしくない」
それまで僕を見ていたなのはの目が、少しだけ揺れた。
「日本に住んでることも?」
「入国記録だけでそこまでは分からないよ。でも、本気で調べられる組織なら、その先へ辿れる可能性はある」
住所や家族。
なのはが普段どこで生活しているのか。
どこまで調べられるかなんて僕にも分からない。
だから、家族が狙われるなんて決めつけるつもりもない。
ただ。
「……お父さんたちも?」
「狙われるって言ってるわけじゃないよ」
そこは先に否定しておく。
「でも、今日の連中が一般人を巻き込むことを気にしてなかったのは見た。そんな相手について、高町家だけは絶対に何もしないって僕には保証できない」
なのはが黙った。
自分だけなら、たぶんここまで迷わない。
でも家族となれば違う。
「何も分からないまま帰って、それで危険まで家へ連れて帰るのは嫌なんだよ。だから相手の正体だけは確認しておきたい」
もし普通の魔術師なら、その時点で帰ればいい。
もっと大きなものが後ろにいるなら、何を警戒して日本へ戻るべきなのか考えてから帰る。
僕が言いたいのは、それだけだった。
なのははしばらく考えてから、ゆっくり頷いた。
「……分かった」
「ほんと?」
「相手が何者なのか分かるまでは残る。でも、危ないって判断したらその時点でやめるからね」
「もちろん」
「家族に危険があるって分かったら、私はそっちを優先するよ」
「当然」
そこで話は決まった。
と思ったのだけれど、なのはの目がまだ僕から離れない。
「でも」
「なに?」
「なんか私、小尾くんにうまく言いくるめられてない?」
「そんなことないよ」
「ほんと?」
「僕、嘘は一個も言ってないじゃん」
これは本当だ。
言っていないことなら、少しある。
例えば。
聖杯という願望機そのものへ、僕がほんの少し興味を持ち始めていることとか。
そこは今の話には必要ない。
◆
「じゃあ、ここに残るとして」
なのはがベッドの上で少し座り直した。
「次はどうするの?」
「サーヴァント呼ぼう」
返事が来ない。
顔を見ると、ものすごく疑われていた。
「やっぱりそれが目的だったんじゃない?」
「違うよ。護衛」
「ほんとに?」
「今の僕、令呪だけあってサーヴァントいないでしょ」
この聖杯戦争にとって、僕がどういう扱いなのかはまだ分からない。
ただ、少なくとも予定通りの参加者ではないことだけは間違いなさそうだった。
突然令呪を持って現れたイレギュラー。
しかも、まだ英霊すら召喚していない。
消したい側からすれば、これほど都合のいい時期もない。
「もしあの連中が僕をイレギュラーとして消したいなら、丸腰のまま待っててあげる理由もないでしょ。サーヴァントがいれば、少なくとも今日みたいな襲い方はしづらくなる」
「……護衛として?」
「そう。別に今すぐ聖杯を取りに行こうって話じゃないよ」
なのははまだ疑っていた。
「勝手に戦わない?」
「戦わない」
「一般の人を巻き込まない?」
「もちろん」
「危なくなったら?」
「撤退する」
「相手が普通の魔術師だったら?」
「日本へ帰る」
そこまで答えると、なのははようやく黙った。
僕が魔術を使うには、彼女の許可がいる。
それは召喚だって同じだ。
だから、ここだけは僕が勝手に決められない。
「……分かった」
「お」
「サーヴァントを召喚するところまでは許可する」
「ありがとう」
「聖杯を取りに行っていいって言ったわけじゃないからね?」
「分かってるって」
よし。
これで召喚できる。
そう思ったところで、なのはがものすごく普通の質問をした。
「それで、どうやって呼ぶの?」
「…………」
「小尾くん?」
そう。
そこなのである。
「昔、聖堂教会で資料を読んだことはあるんだよ」
「うん」
「聖杯戦争についても、サーヴァントについても知ってる」
「うん」
「でも召喚の細かいところは、あんまり覚えてない」
「……え?」
なのはの顔が止まった。
「ずいぶん昔に読んだ資料だし。当時は聖杯戦争に興味なかったからね」
「召喚できるの?」
「たぶん」
「たぶんでやるの!?」
「魔法陣は何となく覚えてるよ」
「詠唱は?」
「ところどころ」
「それ、覚えてるって言わないよ!」
言われてみればそうかもしれない。
当時の僕にとって、聖杯戦争なんて教会が監督へ関わることもある物騒な儀式の一つでしかなかった。
マスターがいる。
サーヴァントを召喚する。
令呪がある。
最後には聖杯を巡って殺し合う。
その程度なら覚えている。
でも、自分が召喚するつもりなんてなかったのだから、術式や長い詠唱を暗記する理由はなかった。
何十年も経って、自分の手に令呪が出るなんて誰が思う。
「それに触媒もないんだよなあ」
「触媒?」
「呼びたい英霊と縁のある物だよ。遺品とか、使ってた武器とか、そういうの」
「持ってるの?」
「あると思う?」
僕らは聖杯戦争へ参加するために日本から来たわけではない。
旅行鞄をひっくり返しても、英霊の遺品なんて出てくるはずがない。
触媒がなくても召喚自体はできたはずだ。
その場合、召喚者との相性が強く影響する。
そこまで思い出して。
「…………」
「なに?」
「僕と相性のいい英霊って、ちょっと嫌だな」
「私も少し心配」
「なのは?」
「だって小尾くんだよ?」
「どういう意味?」
失礼である。
それなら何か、触媒に近い役割を持たせられるものはないか。
そう考えたところで、自然と視線が隣へ向いた。
「嫌だよ」
「まだ何も言ってないじゃん」
「今の顔で分かるよ!」
「なのはそのものを使うとは言ってないよ」
「最初はちょっと考えたでしょ?」
「……ちょっと」
「ほら!」
さすがに本人を召喚陣へ放り込むつもりはない。
ただ、現在のなのはを構成しているテレズマなら、普通の触媒とはまったく違う形で召喚へ影響を与えられるかもしれない。
人間から天使側へ存在そのものを変えた力。
天使という概念へ何かを引き寄せるなら、これほど強いものもそうない。
その辺りを説明したところ、なのはは当然のように警戒した。
「髪とか取らない?」
「取らない」
「血も?」
「いらない」
「何か入れたりもしない?」
「しないって」
「本当に?」
「なのは自身を材料にするんじゃなくて、僕が合図した時に少しだけテレズマを流してくれればいい。出す量も、止めるタイミングもなのはが決めていいよ」
それなら勝手に利用される心配もない。
そこまで確認して、ようやくなのはは渋々頷いた。
「……本当にそれだけなら」
「それだけ」
「危ないと思ったら止めるからね」
「もちろん」
これで触媒については一応どうにかなりそうだった。
次は召喚陣なのだけれど、ホテルの部屋にちょうどいい儀式場なんてあるわけがない。
紙では狭すぎる。
かといって廊下で始めるわけにもいかない。
部屋を見回しているうちに、視線がベッドの下で止まった。
「小尾くん」
「なに?」
「今、床見ながら何考えてるの?」
「魔術師らしいこと」
「それが一番怖いんだけど」
少しベッドを動かして、絨毯の端をめくる。
そこへ机にあった油性ペンを持ってきた時点で、なのはの顔にはかなり不安が浮かんでいた。
「油性ペンでいいの?」
「術式って高級なインク使えば強くなるわけじゃないから」
「そういうこと聞いてるんじゃないんだけど……」
昔見た召喚陣を、そのまま頭の中へ出せるほど覚えてはいない。
ただ、魔術師として見れば、何をしようとしている線なのかはある程度推測できる。
力を受け入れて、術式の中へ導き、中央で召喚へ繋げる。
形を完全に思い出せないなら、意味から組み直せばいい。
最初は、それで何とかなると思っていた。
「……あ」
「なに?」
「ここ違うな」
「違うの!?」
「たぶん」
「油性ペンだよ、それ!」
「知ってる」
消しゴムで消えるわけもないので、間違えた線の上から太く塗り潰した。
なのはの目が一段階険しくなる。
「本当に大丈夫?」
「最終的に術式として意味が通れば――」
「小尾くん、さっきから言ってることがどんどん怪しくなってるよ」
確かに。
少し離れて自分の作品を眺めてみる。
美術品として見ればひどい。
召喚陣として見ても、昔資料で見たものと完全に同じかと聞かれれば自信はない。
ただ、何のために引いた線なのかは自分なりに説明できる。
なら。
たぶん。
「できた」
「今ちょっと間があったよね?」
「気のせい」
「絶対違う」
なのはは疑いながらも、僕に言われた通り召喚陣の外へ立った。
「私はいつ?」
「まだ何もしなくていいよ。僕が合図したら少しだけ流して」
「分かった」
残るのは詠唱だった。
最初の方なら覚えている。
最後も、何となく記憶に残っている。
ところが真ん中へ行くほど怪しい。
いくつか単語は浮かぶのに、それが本当にこの順番だったのか確信が持てない。昔読んだ別の儀式と混ざっている気さえしてきた。
そこで、ようやく僕は自分の足元を見直した。
記憶から組み立てた召喚陣は、途中で一度間違えている。
詠唱も完全には思い出せていない。
普通なら用意する触媒もない。
そして、その穴を埋めるために流そうとしているのが、普通の魔力ですらないテレズマだ。
「…………」
「小尾くん?」
「なのは」
「なに?」
「まだ流してないよね?」
「合図されてないから流してないよ」
「よかった」
「どうしたの?」
何も起きない。
失敗がそれだけで終わるなら、別に構わない。
でも魔術は、失敗すれば必ず不発になるほど親切なものではない。
繋がる先を間違えるかもしれない。
本来収まるはずだった力だけが、術式の中でおかしな動きをするかもしれない。
何が起きるか分からない儀式へ、さらにテレズマまで流し込む。
そこまで考えてしまうと。
「……やっぱり厳しくね?」
「今!?」
「今、冷静になった」
「もっと早く冷静になってよ!」
それは本当にそう。
「中止しよう」
「ほんと?」
「僕の理性が勝った」
「毎回勝ってほしいなあ……」
なのはが露骨に安心した。
成功する自信がなくなっただけなら、もう少し粘ったかもしれない。
止めた理由は、失敗した時に何が起こるか読めなくなったからだ。
なら、無理に思い出そうとする必要はない。
分からない召喚陣は、正しいものを見ればいい。
詠唱を覚えていないなら、知っている人間へ聞けばいい。
そこまで考えたところで、最初に思い浮かんだのは魔術協会だった。
そして、すぐに嫌になった。
知らない魔術師のところへ令呪を付けたまま出向いて、「すみません、英霊の呼び方を教えてください」と頼む自分を想像する。
ないな。
聖杯戦争の参加者なら確実に知っているだろう。
でも、そちらはさらにない。
相手も聖杯を奪い合うために来ているのだから、こんなイレギュラーが訪ねていったところで、親切な魔術講座が始まるとは思えない。
では、参加者ではない。
聖杯戦争について知っていて、マスターがサーヴァントを召喚すること自体には困らない立場の人間。
そこまで考えて。
「あ」
「今度はなに?」
「監督役」
「監督役?」
「聖杯戦争には、聖堂教会から監督役が出るんだよ」
口にした瞬間、自分でも何で今まで忘れていたのか分からなくなった。
僕自身、昔はそっち側にいたのに。
「その人なら知ってる?」
「少なくとも、うろ覚えの僕よりは絶対詳しい」
「……最初から聞きに行けばよかったんじゃない?」
「僕も今そう思ってる」
なのはの視線が、ゆっくり足元へ落ちる。
剥がした絨毯の下には、僕が油性ペンで描いた怪しい召喚陣が残っていた。
「これ、どうするの?」
「…………」
「小尾くん?」
「帰ってきてから考えよう」
「逃げたね」
違う。
優先順位をつけただけである。
◆
監督役がいるとしても、教会そのものまで魔術師の工房みたいに隠されているとは思えなかった。
表向きは一般人が祈りに来る場所なのだ。
ホテルの人間へ近くに教会はないかと尋ねてみれば、それだけで場所は分かった。
「意外と普通に聞いたね」
「なのはは僕を何だと思ってるの?」
「入国審査を暗示で抜けた人」
「…………」
「何?」
「何でもない」
否定できない。
ホテルの外へ出ると、なのはは自然に僕の腕を取った。
ここまで来れば、いちいち恋人設定を確認する必要もない。
誰かがまだ僕らを見ているなら、ホテルへ入る前と同じ二人のまま出てきた方が自然だ。
それに、なのはと話しながら歩いていれば、周囲へ目を向けてもそこまで不自然には見えない。店先を眺めるふりで後ろの様子を拾うこともできるし、空を見ても観光客で済む。
少なくとも、今のところ露骨についてくるものは見えなかった。
「小尾くん」
「ん?」
「教会、あれじゃない?」
なのはが示した先に、十字架が見えた。
外観だけなら普通の教会である。
いかにも魔術組織の拠点です、なんて顔はしていない。
でも、近づくにつれて少しだけ懐かしくなった。
この教会へ来たことがあるわけではない。
それでも聖堂教会という場所は、昔の僕にとって職場だった。
黒衣へ袖を通し、黒鍵を手にして仕事へ出る。
終われば戻ってきて、また次の仕事を待つ。
国が変わっても、こういう建物を見ると、昔の日常だけは妙に簡単に思い出せる。
「なんか嬉しそう」
「懐かしいだけだよ」
「教会が?」
「昔の職場みたいなものだからね」
「……そうだったね」
なのはが何か言おうとして、その前に僕も扉の前にいる人影へ気づいた。
一人のシスター。
近づいてきた僕らを見つけて立ち止まった、という感じではない。
最初からそこにいて、待っていた。
「……小尾くん」
「うん」
「私たちだよね?」
「たぶん」
そのまま近づいていく。
シスターはなのはを見て、次に僕を見ると、最後に右手の令呪へ視線を落とした。
そこで確認が済んだらしい。
「お待ちしておりました」
静かに頭を下げる。
「イレギュラー、7人目のマスター小尾一様」
なのはの腕に少しだけ力が入った。
令呪を把握している。
名前まで知っている。
監督役側が僕をどう扱っているのかは、今のでだいたい分かった。
予定にない参加者。
だからイレギュラー。
「僕?」
「はい」
「へえ」
「小尾くん、驚かないの?」
「驚いてるよ」
「全然そう見えない」
驚きよりも、説明の手間が省けて助かるという気持ちの方が先に来ただけだ。
「ハンザ師父がお待ちです」
「監督役?」
「はい」
「なら、ちょうどよかった」
シスターに促され、そのまま教会の中へ入る。
外から見た印象と同じで、中も普通だった。
正面には祭壇があり、そこへ向かって会衆席の長椅子が何列も並んでいる。古い木と石の匂いがして、静かで、僕が昔出入りしていた教会にもどこか似ていた。
ただし。
最前列に座っている男だけは、祈りに来たようにはまるで見えない。
背もたれへだるそうに身体を預けて、僕らが入ってきても振り返らない。
代わりに。
「よぉ」
片手だけが、ひょいと上がった。
「イレギュラー」
待ち合わせに少し遅れてきた相手でも迎えるような軽さだった。
「……あれが監督役?」
なのはが小声で聞いてくる。
「たぶん」
「たぶんなの?」
「僕も初対面だからね」
案内してくれたシスターが何も言わないのだから、あれで正しいのだろう。
中央の通路を奥へ進む。
「ハンザ師父。お連れしました」
「ああ、ご苦労さん」
そこでようやく、ハンザ・セルバンテスは長椅子の背へ片腕を預けたまま身体を少しひねった。
最初に僕の顔を見て、それから右手の令呪へ視線を落とす。
「お前が小尾一か」
「そうだけど」
「思ってたより普通だな」
「初対面で失礼じゃない?」
「予定にない奴が聖杯戦争へ割り込んできたって聞けば、もう少し面白いの想像するだろ」
「イレギュラーにも色々いるんだよ」
「自分で言うのかよ」
ハンザの視線が、そのまま僕の隣へ流れた。
なのはのところで止まる。
「で、誰だお前?」
「高町なのはです」
なのはが普通に名乗った。
ただ、それだけではハンザから見れば「イレギュラーが連れてきた知らない女」でしかない。
説明するなら色々ある。
僕の監督役。
僕の研究によって天使になった人。
かつて僕が勝手にセフィラを埋め込んだ被害者。
その辺りを全部短くまとめようとして。
「まあ、僕の研究」
「小尾くん?」
すぐ横から声が低くなった。
「何?」
「その紹介やめて」
「短くて分かりやすいじゃん」
「全然よくないよ」
ハンザは僕となのはを見比べた。
魔術師が人間を連れてきて、それを自分の研究だと言う。
こちらの世界なら、その言葉から想像するものはだいたい決まっている。
「研究ねえ。ホムンクルスか何かか?」
「ああ、まあ――」
「違うよ」
なのはに即座に切られた。
「細かく言えば違うだけで」
「細かくなくても違うよ」
「説明すると長いんだよ」
これは本当に長い。
僕の研究から始めて、セフィラとテレズマの話まで説明しなければ、現在のなのはが何なのかには辿り着けない。
今ここでやる話ではない。
ハンザも、魔術師が抱えている事情を一から聞き出す趣味はないらしい。
「まあいい。魔術師が『研究』なんて言って人間連れてんだ。大体ろくでもねえだろ」
「失礼だなあ」
「違うのか?」
「…………」
「黙るなよ」
「小尾くんもそこで納得しないで」
なぜか二人から怒られた。
ハンザはなのはについてそれ以上追及せず、僕の右手へ視線を戻した。
「で。本題はそっちだろ」
「そうそう。召喚陣と詠唱を教えてほしい」
一瞬。
ハンザが黙った。
「……そこからか?」
「そこから」
「よくそれでここまで来たな」
「資料を読んだことはあるんだよ。ただ、何十年も前だし、当時は興味なかったから細かいところが抜けててね」
「何十年も前?」
「あ」
ハンザの目が細くなる。
なのはも横からこちらを見た。
「小尾くん?」
「言葉の綾」
「今のは無理あるよ」
「だよね」
ハンザはしばらく僕を見ていたが、どうやら年齢より別のところへ引っかかったらしい。
「お前、教会にいたのか?」
「いたよ」
「どこだ」
「極東」
「何してた?」
「代行者」
そこで、少しだけ目つきが変わった。
「元代行者?」
「そう」
「いつ頃だ?」
「言峰パイセンが現役だった頃」
「……誰がパイセンだ」
「言峰綺礼」
「名前は聞こえてる。何でパイセンなんだよ」
「先輩だから」
「本人の前でもそう呼んでたのか?」
「まさか」
「だろうな」
そこまで命知らずではない。
横を見ると、なのはが完全に知らない話を聞く顔になっていた。
「小尾くん」
「ん?」
「その話、あとで聞くからね」
「長いよ?」
「聞く」
「はい」
逃げられそうにない。
ハンザはそんな僕らを見たあと、少し考えるように顎を動かした。
「当時の名前は?」
前世の俺だった時の名前を、そのまま正確に告げた。
隠す理由はない。
今は小尾一として生きているけれど、自分がかつて名乗っていた名前まで忘れたわけではない。
ただ、ハンザには聞き覚えがなかったらしい。
「……知らねえな」
「まあ、そうだろうね」
むしろ、その方が自然だ。
僕は教会史へ名前が残るような大物だった覚えはない。
ところが、ハンザはそこで話を終わらせなかった。
「ちょっと待て」
神父服の懐へ手を入れる。
出てきたのは聖書でも黒鍵でもなく、携帯端末だった。
「教会も便利になったねえ」
「何十年前で頭止まってんだ、お前は」
「僕がいた頃、こんなので代行者の記録引けなかったから」
「そりゃそうだろ」
ハンザは僕が告げた名前を打ち込んでいく。
横から画面を覗くわけにもいかないので待っていると、なのはが小声で聞いてきた。
「本当に記録残ってるの?」
「教会で働いてたなら、残ってるんじゃない?知らんけど」
「人事記録みたいな?」
「そう考えると急に普通だね」
「小尾くんが言ったんでしょ」
異端を狩ろうが人外を相手にしようが、組織は組織である。
誰をどこへ派遣して、その人間が帰ってきたのか死んだのかすら残していなかったら、それはそれで困る。
やがて、ハンザの指が止まった。
「……あった」
「ほんとに?」
「ああ」
画面を見たまま、少しだけ眉を寄せる。
「極東方面所属。家系に目立った魔術的背景はなし。魔術回路も……平凡だな」
「普通でしょ?」
「大した功績も残ってねえ。処分歴も特に――いや、本当に薄いな、この記録」
「普通だったんだよ」
「お前が言うと腹立つな」
「なんで?」
もう少し画面を送ったところで、ハンザの指が止まる。
「……任務中に死亡」
「そっか」
「そっかじゃねえよ」
今度こそ顔を上げた。
「年代が合わねえだろ」
「そうだね」
「そうだね、じゃねえ」
横からも視線が刺さる。
「小尾くん?」
「これ掘ると長いんだよ」
「またそれ?」
「本当に長いから」
ハンザは僕をしばらく眺めていたけれど、今ここで無理に聞き出す気はないらしい。
「……まあいい。今は聖杯戦争の方が先だ」
「助かる」
「後回しにしただけだ」
「できれば忘れて」
「無理だろ。昔死んだ代行者の名前を、目の前のガキが自分の名前みたいに喋ってんだぞ」
「それもそうか」
残念。
ただ。
画面の中には、僕ではない僕の記録がある。
そう思うと、少しだけ気になった。
「その人、どんな人だった?」
「知らん」
「今見てるじゃん」
「見た上で言ってんだよ。普通すぎて分からねえ」
ハンザが端末を軽く振る。
「代行者だからって全員が伝説になるわけじゃねえ。派手な功績もなきゃ、大失敗もない。妙な研究をした記録もなし。仕事して、最後は任務中に死んだ。それだけだ」
「……本当に普通だったんだ」
「少なくとも記録の上じゃな」
「僕にもそんな時代が」
「小尾くん、それ別の人なんでしょ?」
「そこ説明するとまた長い」
「もうそれ禁止にしようか?」
なのはからの圧が強い。
これ以上続けても昔の男について新しいことは出てこなさそうなので、本来の目的へ戻ることにした。
「で、召喚陣と詠唱」
「話戻すの早えな」
「それを聞きに来たんだから」
仕事の話になれば、ハンザは早かった。
近くにいたシスターへ声をかけると、少しして召喚陣の見本と、必要な詠唱を書いた紙が用意された。
受け取って眺める。
記憶の中に残っていた形と比べると、似ているところもある。
そして。
ホテルの床へ描いたものとは、明らかに違うところもある。
「…………」
「何だ、その顔」
「いや。途中で止めてよかったなって」
「もうやったのか?」
「召喚はしてないよ」
僕がそう答えた横から、なのはが口を挟んだ。
「ホテルの絨毯剥がして、油性ペンで描いてたけどね」
「なのは?」
「途中で線間違えて塗り潰してたし」
「そこまで言わなくてもよくない?」
ハンザの視線が、ゆっくり僕へ戻ってきた。
「それで英霊呼ぼうとしたのか?」
「途中までは」
「したのかよ」
「でも小尾くん、自分で『やっぱり厳しくね?』って止めたよ」
「なのは?」
「大事なところでしょ」
ハンザが鼻で笑った。
「途中で止める理性くらいは残ってんだな」
「僕を何だと思ってるの?」
「研究対象連れて、ホテルの床にうろ覚えの召喚陣描いて英霊呼ぼうとする元代行者」
「言い方が悪いなあ」
「事実だろ」
否定しづらい。
でも、これで今度は正しいものを使える。
紙をしまおうとして。
そこで、僕の視線がハンザへ戻った。
本来の用事は終わった。
終わったのだけれど。
せっかく聖堂教会まで来たのだ。
「ところで」
「まだあんのか?」
「黒鍵ある?」
「あるが」
「一本持たせて」
「何でだよ」
「久しぶりなんだよ」
転生してから、黒鍵を使わなかったわけではない。
必要だったから、自分で作った。
昔使っていたものを思い出して構造を再現し、術式を組み、類感魔術まで使って本物へ近づけた。
実戦で困るような出来でもなかった。
だから自作品に不満があるわけではない。
それでも、本物だけは今の身体になってから一度も握っていなかった。
ハンザは少し僕を見たあと、一本だけ寄越した。
受け取った瞬間。
自分でも少し驚いた。
考える前に指が収まる。
握り直そうと意識したわけでもないのに、昔使っていた位置へ自然に手が落ち着いた。
自作したものとの違いは、本当に僅かだ。
けれど、その僅かな違いを、今の僕より昔の僕の方がよく知っていた。
「ああ……」
手首を軽く返してみる。
懐かしい。
「……やっぱり本物は馴染むね」
「へえ」
ハンザが僕の手元を見る。
「少なくとも、初めて持った奴の扱いじゃねえな」
「だから言ったでしょ」
疑われていたらしい。
まあ、今の見た目で昔代行者をやっていましたと言って、即座に全部信用する方がおかしい。
「6本欲しい」
「増えたな」
「あと黒衣も」
「黒衣?」
「一着」
「何に使うんだ」
「戦闘服」
「今の服でも戦えるだろ」
「戦えるよ」
それは服が違ったくらいで変わる話ではない。
ただ、昔の僕は仕事へ出る時には黒衣を着ていた。
黒鍵を持ち、黒衣へ袖を通す。
それで身体が仕事の感覚へ戻る。
格好がいいと思っていなかったか、と聞かれたら否定はしない。
でも、それだけでもない。
「僕にとっては、昔からこれが戦闘服なんだよ」
「制服みたいなもんか」
「そんな感じ」
「妙なところだけ代行者らしいな」
「元だからね」
ハンザは少し考え、近くのシスターへ声をかけた。
どうやら用意してくれるらしい。
話が早い。
元同僚というのは便利だな、と感心しかけたところで。
「黒鍵6本と黒衣一式。まとめて、お手頃価格で譲ってやる」
「…………」
今、何かおかしなことを言われた。
「……いや、待って」
「何だ?」
手の中にある本物の黒鍵を見る。
これ。
昔は普通に教会から渡されて使っていた物だ。
「黒鍵って支給品じゃん」
「そうだな」
「支給品売ったら駄目じゃん?」
ハンザが僕を見る。
僕もハンザを見る。
何となく、なのはまで黙って成り行きを見守っていた。
「だから」
「だから何だよ」
「タダでちょうだい」
「帰れ」
「何で!?」
「どうしてその結論になるんだよ」
「いやいや。支給品を私物みたいに売って金取ったら駄目でしょ? だったら元同僚に無料で融通するしかないじゃん」
「その『しかない』がどこから出てきた」
「売れない。でも僕は欲しい。つまり?」
「帰れ」
「答え違うよ」
「合ってる」
ハンザはさっさと話を終わらせるように片手を振った。
「ほら、帰った帰った。召喚陣も詠唱も渡した。もう用は済んだろ」
「黒鍵は?」
「無し」
「黒衣は?」
「無し」
「冷たいなあ」
「聖杯戦争でションベンちびりそうになったら戻ってこい。その時は監督役として保護くらいしてやる」
「そっちはタダなの?」
「監督役だからな」
「じゃあ監督役権限で黒鍵も――」
「帰れ」
「…………」
駄目らしい。
しかも本当に黒鍵を引っ込めようとしている。
「うそ、うそ。買うから」
「……お前な」
「買う。ちゃんと買います。だからしまわないで」
「さっき支給品売るなって言ったよな?」
「知らなかったことにする」
「元代行者がそれ言うのか?」
「元だからね」
「便利だな、その『元』」
仕方がない。
横を見る。
なのはと目が合った。
「…………」
「私?」
「お願いします」
「小尾くんのお金は?」
「まとまった分、なのはが持ってるでしょ」
「……もう」
大きなため息をつかれた。
それでも払ってくれるらしい。
「黒衣も本当に買うの?」
「戦闘服」
「そこはまだ言うんだ」
「そこは大事だからね」
結局、なのはが代金を払った。
僕としては、さっきまで借り物だった黒鍵がこれで正式に僕の物になったことの方が重要だったのだけれど、なのははそれだけでは終わらない。
「領収書お願いします」
「あ?」
「領収書です」
「ああ。はいよ」
ハンザは意外にも嫌がらず、紙を一枚出した。
さらさらと書き込んで、最後に署名まで入れる。
「ほら」
「ありがとうございます」
なのはが受け取り、その場で内容を確認する。
すると、途中で目が止まった。
「……これでいいの?」
「何がだ」
「買った物と、書いてある物が違わない?」
横から覗いてみる。
黒鍵という文字はどこにもない。
黒衣とも書いていない。
代わりに、教会で購入していても特に怪しまれそうにない項目へ置き換えられていた。
「違わねえよ」
「黒鍵って書いてないよ?」
「宗教用品だろ」
「黒衣は?」
「衣料品」
「便利だなあ」
「お前に言われたくねえよ」
完全な嘘というわけでもないところがまた酷い。
なのはは納得しきれない顔で、さらに下へ視線を移した。
「あ」
「今度は何?」
「ここはすごくちゃんとしてる」
発行者のところには、ハンザ・セルバンテス。
所属はスノーフィールド教会。
そのうえ本人の直筆署名まで、妙に丁寧に入っている。
宛先だけは空欄だった。
品目はぼかしておいて、誰が発行した書類なのかという部分だけは堂々としている。
「変なところで律儀だね」
「書類は書類だからな」
「支給品売ってるのに?」
「まだ言うなら返せ」
「ごめんなさい」
即座に謝った。
本物の黒鍵は大事である。
なのはが領収書をしまう横で、僕はケースへ収まった黒鍵を見た。
召喚方法を聞きに来ただけだったはずが、昔の仕事道具まで手に入った。
正しい召喚陣もある。
詠唱も、今度は僕の記憶ではなく紙に書かれている。
かなりいい結果ではないだろうか。
「ほら、今度こそ帰れ」
ハンザが最前列の長椅子へ身体を預け直しながら、面倒そうに手を振った。
「今度はちゃんと紙見ながらやれよ」
「分かってるって」
「本当に読めよ」
「読むよ」
「小尾くん」
なのはまで横から入ってくる。
「今回はちゃんと見てね」
「二人とも僕の信用低くない?」
「ホテルの床見たから」
そこを出されると弱い。
「じゃあ、ありがとう」
「次はもう少しまともな用事で来い」
「聖杯戦争の監督役に召喚方法を聞きに来るって、かなりまともな用事じゃない?」
「途中まではな」
どの辺りからおかしくなったのか。
たぶん黒鍵である。
これ以上余計なことを言って、せっかく買った物を取り上げられるのも嫌なので、素直に教会を出ることにした。
外へ出ると、なのははまた自然に僕の腕を取った。
来た時と同じ、旅行中の日本人カップル。
そのままホテルへ向かって歩き始める。
「小尾くん」
「なに?」
「やっぱり嬉しそう」
言われて、自分でも少し機嫌が良くなっていたことに気づいた。
「久しぶりに昔の仕事道具が手に入ったからね」
「召喚方法を聞きに行ったんじゃなかったの?」
「そっちもちゃんと手に入ったでしょ」
「『そっちも』になってるよ」
「結果が良ければいいんだよ」
なのはが呆れたように笑った。
でも、さっきホテルでやった時とは本当に違う。
今度は曖昧な記憶を頼りに術式を組み直す必要もないし、詠唱の途中で別の儀式と混ざっていないか悩む必要もない。
分からなかったものは、もう手元にある。
なら、帰ってそれを使えばいい。
少なくともこの時の僕は、それで問題はなくなったと思っていた。