「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
ミッドチルダの朝は、エルトリアのそれとは随分と違う。
窓を開ければ風が入る。空気の成分を調べる必要も、屋外で活動できる時間を計算する必要もない。水道の蛇口を捻れば飲める水が出て、街路には街路樹があり、花壇には花が咲いている。
それらを見ても、キリエ・フローリアンは以前ほど驚かなくなった。
しかし、当たり前だと思えるようになったかといえば、まだ少し違った。
「キリエー! 起きてるー?」
扉の向こうからレヴィの声が飛んできた。
「起きてるわよ」
「ごはんできてるよー!」
「わかったってば!」
返事をしてから、キリエはベッドの端に腰を下ろした。
起き上がれないわけではない。体調が悪いわけでもなかった。ただ、寝室の床に朝の光が落ちるのを、ほんの少し眺めていたかった。
昨夜はよく眠れた。途中で一度目が覚めたが、時計を見て、部屋の中を確かめて、また眠ることができた。
それだけのことを、今は喜んでもいいと思っている。
エルトリアから戻った当初、睡眠は休息にならなかった。
あの日、姉の指先を掴み損ねた感触が、夢の中では何度も蘇った。閉じていく次元の通路。透明なものに侵される大地。背後で誰かが叫んでいるのに、自分には何もできない。
夢の中でさえ、結末は変わらなかった。
『キリエ。……向こうに着いたら、ちゃんとご飯を食べるんですよ』
姉の声が、不意に記憶の底から浮かんだ。
キリエは膝の上で拳を握り、ゆっくり息を吐いた。
ここはミッドチルダ。今日は管理局の勤務日。扉の外ではレヴィが朝食に呼んでいる。
ひとつずつ確かめる。
かかりつけの医師に教わったことだった。
あの日は終わった。自分は今、この部屋にいる。
何度確かめても悲しさまで消えるわけではないが、それでも体は少しずつ落ち着いてくれる。
「……よし」
立ち上がって洗面所へ向かった。
鏡の中には父親譲りのくせっ毛が跳ねている。どうやら寝癖の手入れだけは、エルトリアを離れても簡単にはならないらしかった。
食卓にはすでに四人が揃っていた。
「遅いぞ、キリエ。余を待たせるとはよい度胸だな」
「まだ時間には余裕があるでしょ、ディアーチェ」
「時間があるからといって怠けてよい理由にはならぬ」
「朝から王様のお説教? 食欲がなくなっちゃうわ」
「誰のせいだと思っておる!」
シュテルは二人の応酬を聞き流し、端末に表示された勤務表へ目を落としていた。レヴィは先ほど朝食を終えたはずなのに、パンをもう一枚取ろうとしてイリスに手を叩かれている。
「レヴィ。お皿、空にしたばっかりでしょ」
「だから次のお皿がいるんじゃん!」
「そういう理屈は通らないの」
「えーっ」
それだけのことで笑いが起こった。
キリエは席につき、焼きたてのパンを手に取った。
五人で暮らすことになったのは、誰かが望んで描いていた未来ではない。必要な手続きを済ませ、住む場所を決め、管理局の協力を得て、気がつけばこうなっていた。
居場所を作らなければ、明日を迎えることさえ難しかった。
そうして作った居場所が、最近になってようやく、帰ってくる場所と呼べるものになった。
それでも、食卓にはいない者がいる。
誰も、そこへ無理に言葉を置こうとはしなかった。
◆
キリエたちは時空管理局の仕事に携わりながら、少しずつ社会復帰を進めていた。
いきなり現場に出るわけではない。担当するのは技術資料の整理や解析の補助、エルトリア製のフォーミュラに関する技術的な説明などが中心だった。
機動外殻の制御に詳しいイリスは技術部から重宝され、シュテルたちも適性に応じた仕事を任されている。ディアーチェは時折、上司に対しても王様のような口を利くが、仕事は正確だった。レヴィについては、仕事が速いのと落ち着きがないのが、どうやら同じくらいの割合らしい。
キリエも自分の仕事を持てるようになっていた。
ただし、勤務は医師の意見を踏まえた範囲に限られる。診察の日は休む。疲れが強く出た日には作業を切り上げる。本人が悔しがっても、その取り決めは変わらなかった。
大きな音や光の変化に、体が先に反応することがある。
透明な鉱物を用いた試験の予定が入れば、事前に知らせてもらうことになっていた。それで平気な日もあるし、そうでない日もある。
原因がわかっていても、症状を意思だけで止められるわけではない。
以前のキリエなら、そうした配慮を屈辱と感じただろう。
今でも多少は感じる。
しかし、自分が倒れれば周囲の仕事が増えると知ってからは、少なくとも無理をする前に相談できるようになった。
それが回復なのだと、医師は言った。
ある日、勤務を終えようとしていたキリエに、一人の人物が声を掛けた。
「キリエ。少し時間をもらえるか」
クロノ・ハラオウンだった。
「クロノさん? 何か仕事?」
「仕事というより、君が持ち帰った資料の件だ」
その一言で、キリエの指先が止まった。
「……お姉ちゃんの?」
「ああ」
エルトリアへ帰還した、あの日。
変わり果てた故郷でアミティエが発見し、キリエに託した記憶データ。フィル・マクスウェルの秘密研究室に残されていたものだった。
逃げ延びた直後のキリエには、それを読む余裕などなかった。
管理局が預かり、内容を解析し、危険な情報が含まれていないか精査していると聞いていた。
「解析が終わったの?」
「すべてではない。だが、君にも伝えておくべきことがある」
クロノは周囲を見回した。
「ここで立ち話をする内容じゃない。場所を変えよう」
案内された会議室では、リンディの部下が確認した記録が端末に用意されていた。
資料の冒頭には、故人の名前がある。
フィル・マクスウェル。
キリエにとって、忘れようにも忘れられない名前だった。
エルトリアの再生に関わった科学者。その裏で何人もの研究員を殺し、ユーリを道具として扱おうとした男。
しかし彼が遺した記録には、キリエの知らなかった事実が記されていた。
「マクスウェルは、四十年以上前から惑星内部の異常な信号を観測していた」
クロノが画面を切り替える。
複雑な波形と、その解析手順が続いていた。何度も検証された数式や観測時刻。その先に、短い文章がある。
『どうか、いまだ存命する生あるものを絶滅させて欲しい』
キリエは息を詰めた。
知っている。姉のデータにも入っていた。
それでも、あらためて読めば、胸の奥に冷たいものが落ちていく。
「マクスウェルは、この信号をエルトリア自身が発したものだと解釈していた。星は自分の死を受け入れたが、地上の生命がコロニーへ移り、自分の死後も生き延びることを恐れた――彼の結論はそうなっている」
「私たちは……星を助けようとしてたのに」
口にしてしまえば、あまりにも小さな言葉だった。
父は命を削って研究を続けた。母も、姉も、自分も、いつか故郷に緑を取り戻すことだけを考えていた。
そんな自分たちを、故郷そのものが望んでいなかったという。
クロノは、慰めになるような言い換えをしなかった。
「ただ、ここは区別しておきたい。これはマクスウェルが観測し、解読したという記録だ。現時点で管理局が、惑星の意思の存在まで独自に証明できたわけではない」
「……うん」
「彼は、この信号に外宇宙から応答があったことも記録している。信号の発信源は遠く、既知の通信方法では説明の難しい部分がある。何者が応答したのかは、彼自身にもわからなかったようだ」
その後、マクスウェルは危険を訴えた。警告は受け入れられず、研究は停滞し、彼は孤立した。
そして彼自身の判断によって、研究所の人々が殺された。
「警告の一部が事実だったとしても、彼の犯罪が正当化されることはない」
クロノはそう明言した。
キリエにも異論はなかった。
ただ、あの星で実際に起きたことを思えば、まったく無関係の偶然だと片づけることもできなかった。
「……ねえ、クロノさん」
「なんだい」
「私たちが見た、あれ。何だったのか、わかるの?」
クロノは首を横に振った。
「今はまだ、わからない」
キリエは膝の上で指を絡めた。
「けれど、一人だけ、こうした話に心当たりがあるかもしれない人物を知っている」
「誰?」
「小尾一だ」
「……小尾?」
どこかで聞いたことがある。
耳に残る響きを繰り返した途端、キリエの脳裏に地球の夜の公園が浮かんだ。
月村すずか。赤い瞳。芝生に倒れた黒衣の男たちと、その身体から抜かれた奇妙な刃。目の前で何人も殺した少女が、頬を赤くしながら、ある名前を何度も口にしていた。
『でも、小尾くんなら』
『褒めてくれると思う』
あの時、すずかは自分の身体を変えたのも、研究の手掛かりを残したのも、その人物だと話していた。名前を口にするたびに嬉しそうになり、頬に食い込ませた指の下から血が流れても、まるで気づいていなかった。
あの笑顔は、人を殺した時よりもずっと怖かった。
「……あの子が言ってた、小尾くん?」
「心当たりがあるのか?」
「地球で、月村すずかって子に会ったことがあるの。その子が何度も言ってた名前よ。……本人には会ったことないけど」
クロノは表情を引き締めた。
キリエは唇を噛む。
あの時は、もう会いたくないと思った。姿も知らない相手なのに、名前だけでそう思った。
その人間が、いま目の前に差し出されようとしている。
「その人は、管理局の人?」
「いや。現在は収容施設にいる」
「……収容施設?」
クロノはため息をついた。
「非常に厄介な人物だ。なのはやはやてに関係する事件を起こし、今も取り調べが続いている。本人は自分を魔術師と呼んでいる。管理局の魔法とは違う技術だというが……僕らにはその全容がわからない」
「その人が、エルトリアのことを?」
「知っているとは思わない。ただ、僕らとは違う観点から何か言えるかもしれない」
期待しすぎるべきではない。クロノの顔には、そう書いてあった。
「もし君が望むなら、僕が同席して面会の手続きを取る。無理に行く必要はないよ」
キリエは考えた。
知ったところで、取り戻せるものはない。
それを、もう知らないわけではなかった。
しかし、姉が最後に渡してくれたデータを、何もわからないまましまい込んでおくことにも耐えられなかった。
「……行きたい」
「いいのか? 心当たりがあるなら、なおさら慎重に考えてほしい」
「怖くない、とは言わないわ。でも……私、知りたいの。何が起きたのか」
クロノはしばらく彼女を見つめ、静かに頷いた。
「わかった。調整しよう」
◆
面会当日、予定は早々に崩れた。
『本当にすまない、キリエ』
通信画面のクロノは、後ろに積み上がった書類に目をやりながら頭を下げた。
『緊急の案件が入った。僕が行かなければならない』
「ええっ。今日の面会は?」
『予定通りだ。付き添いを代わってもらえることになった』
画面の脇から、見知った女性が顔を出す。
『こんにちは、キリエさん』
「リンディさん?」
『ええ。今日は私がご一緒するわ。施設側とも話は済ませてあります』
クロノは、ますます疲れた顔になった。
『母さん、くれぐれも気をつけてくれ。あいつは普通の被収容者じゃない。以前も職員に暗示を掛けて、接触した人間の判断を――』
『報告書は全部読んだわよ』
『……ならいいが』
どうやら、クロノの警戒は単なる職務上のものではないらしい。
施設に収容されてなお、職員へ暗示を掛け、規則の隙間を探し、どうにかして自分に都合のよい状況を作り出してしまうという。
面会に同席するのがリンディになったことより、その相手をクロノがこれほど心配していることのほうが、キリエには気掛かりだった。
収容施設は市街地から離れた場所にあった。
厳重な認証を何度も通り、二人は面会用の区画へ進む。
リンディは歩きながら注意事項を確かめた。
「今日は、同じ部屋で直接話をすることになるわ」
「……直接?」
「ええ。ただし、職員も同席するし、小尾君には両手にバインドを掛けておく。資料は施設が検査した端末から見せることになっているの」
「そんなに警戒する必要がある人なんですか?」
「知識も技術もある人よ。それを他人のために使うとは限らない、ということね」
キリエは頷いた。
「彼が何か頼み事をしても、約束はしないでね。気になることがあれば、私に任せて。危険だと判断したら、すぐ面会を切り上げるわ」
「わかりました」
面会室の扉が開いた。
中は、驚くほど真っ白だった。
壁も天井も床も、継ぎ目の目立たない白。窓はなく、照明も影を薄くするように配置されている。中央に置かれた机と椅子だけが、かろうじて部屋らしさを与えていた。入口近くには警備職員が二人。机の端には、記録用の端末がある。
向かい側の椅子に、一人の少年が座っていた。
黒髪。年若い顔。退屈そうな目つき。
なのはたちとそう変わらない年頃に見える。
その両手首には、淡い光を帯びたバインドが掛けられていた。二つの光輪を結ぶ短い拘束帯のせいで、手を広げることはできない。足首にも同じような光輪があり、椅子から立ち上がっても歩幅を制限される仕組みになっているらしい。少年は手首を揃えて机に載せ、退屈そうに指先を動かしていた。
彼の正面に椅子が二つ用意されている。
ガラスも映像も挟まない、文字どおりの対面だった。
少年は扉の開く音に顔を上げ、こちらを見るなり声を上げた。
「おっ、今日はクロノ君じゃないんだ」
そしてリンディへ目を向け、首を傾げる。
「あれ。えっと……誰だっけ?」
リンディは微笑んだままだった。
「……顔は覚えてるんだけどなあ。名前が出てこないんだよね。ほら、前に会った、あの……」
「リンディ・ハラオウンよ」
「ああ、そうだ! リンディさん。クロノ君のお母さん!」
「思い出してもらえてよかったわ」
「いやー、申し訳ない。僕、人の顔と名前を結びつけるのが苦手でさ。クロノ君はよく来るから覚えたんだけど」
悪びれずに笑った。
キリエはどう反応すべきかわからず、リンディを見た。
「あ、そうだ。リンディさん、ちょうどいいや。一つ言ってもいい?」
「何かしら?」
「これ、どうにかならない?」
小尾は机の上で両手を持ち上げた。手首を繋ぐ拘束帯が張り、淡い光が揺れる。さらに足元へ目を落とし、椅子の下で片足をわずかに動かした。そちらにも光の輪が掛けられていた。
「毎回毎回さ、面会のたびに手も足もバインドでぐるぐるって。別に暴れたりしないのに、ひどくない? 客が来るたびに縛られる身にもなってほしいんだけど」
「あなたの安全と、面会に来た方の安全のためよ」
「僕の安全は僕が面倒見るよ。だいたいねえ、僕、ここには自分からいるんだよ?」
何気ない調子だった。
不服そうに口を尖らせながらも、その声には焦りも怒りもなかった。
「出ようと思えば、いつだって出られるんだからさ。こんなの付けたって意味ないと思うんだけどなあ」
キリエは思わず少年の手首を見た。
光輪が壊れかけているわけでもない。拘束は確かに働いているように見える。それなのに、小尾はそれを、単に面倒な服装の決まりでもあるかのように扱っていた。
「……小尾君」
リンディの声は穏やかだった。だが、笑顔の奥にあった警戒が、ほんの少し濃くなる。
「施設には施設の規則があるわ。それに、以前あなたが拘束を破ったことも、職員へ暗示を掛けたことも、こちらは忘れていないの」
「ああ、あれねえ。だからって毎回手足まで?」
「ええ。面会を行う以上、必要な措置よ」
「ふーん。管理局って融通利かないなあ」
小尾は大げさに溜息をついた。
ただし、解除しろと繰り返すことも、実際に光輪を壊してみせることもなかった。手首を机へ戻し、指先を暇そうに動かし始める。
「まあ、いいや。クロノ君に会ったら、次はせめて手だけにしてって言っとこう」
「その要望は、正式な手続きを通してちょうだい」
「はいはい。そういうところ、親子でそっくりだね」
小尾は笑った。
リンディには、それが単なる虚勢とは思えなかった。拘束を破った前例がある以上、彼の言葉を軽く扱うわけにはいかない。少なくとも、この少年が今ここに留まっている理由を、バインドの強さだけで説明することはできなかった。
キリエには、なおさら理解できない。収容されている人間が、好きでそこにいると言う。しかも、出ようと思えばいつでも出られるとまで。
そんなことが本当なら、目の前の少年を閉じ込めているものは何なのだろう。
「ところで、なのはとはやては元気?」
今度は思い出したように、少年が尋ねた。
「ええ。二人とも元気にしているわ」
「そう。よかったよかった。最近ちっとも顔を見ないからさ。はやては仕事、忙しそうだしね。なのはも相変わらず?」
「相変わらず、というのがどういう意味かによるわね」
「あはは。手厳しいなあ」
キリエは、机を挟んで座る少年を見つめた。
収容施設で会う人物。なのはとはやてを知っているらしい人物。だが、クロノもリンディも、その少年がいったい何をしたのかについては、詳しい説明を避けていた。
「ねえ、ひとつ聞いてもいい?」
「どうぞどうぞ」
「あなた、何をやったの? どうしてここにいるの?」
リンディが小さく息を吸った。
答えを急ぐ前に、少女が何を尋ねたか確認したかったのだろう。しかし、口を開いたのは小尾のほうが早かった。
「いやー、はやてを天使に変えたんだけどさ」
「……天使?」
「うん。そしたら、はやてがいっぱい人を殺しちゃって……てへっ」
小尾はバインドに繋がれた両手を小さく持ち上げ、片目を瞑って舌を出した。
謝罪の仕草を冗談にしたような、それはひどく軽いものだった。
「…………」
キリエは返す言葉を失った。
人が大勢死んだと、この少年は言った。しかも、友達が飲み物をひっくり返した時のような口振りで。
リンディの声音が一段低くなる。
「小尾君。はやてさん自身の意思で人を殺したような言い方は、やめなさい。あの時、何が彼女の意思で、何が暴走した力によるものだったか、すべてが明らかになっているわけではないのよ」
「そうだったっけ」
「それに、あなたが本人の同意なく手を加えたことが、事件に繋がっている。その責任をはやてさんへ押しつけることはできないわ」
「いやあ、そこは否定しないけどねえ」
否定しないと口では言いながら、小尾の顔から笑みは消えない。
キリエは膝の上で手を握り締めた。
知らない人たちの死を、軽く扱われたのが嫌だった。それ以上に、あの日、自分が失った人たちのことまで同じ調子で語られたらと思うと、背筋が冷えた。
「そういえばさ。あの闇の書事件だっけ? 復興のほう、進んでるの?」
小尾は唐突に話題を変えた。
リンディは彼を見据えたまま答える。
「被害を受けた場所では、今も復旧が続いているわ」
「だよねえ。あんなに街をぶっ壊しちゃったんだから。……でもさ、なのはもはやても、もう地球にはいられないでしょ。あれだけの騒ぎになったら、普通の生活なんか無理じゃない?」
リンディは一瞬、口を噤んだ。
小尾は、地球で何が公表されたかを知らないらしい。
「地球では、あの事件の被害はガス爆発による災害として処理されたみたいよ。事情を知っている人は、そう多くないわ」
「…………へえ」
小尾の指先が止まった。
「ガス爆発、ねえ」
「ええ」
「……なるほど。そりゃ便利だ」
声には、さっきまでと同じ軽さが戻っていた。
しかし、胸の内では別の記憶が動いていた。
――ガス爆発。
聖堂教会。隠された神秘。表に出せない惨事。そして、一般社会へ差し出すことになっている、実に聞き飽きた説明。
前世、聖堂教会の代行者として働いていた頃。事件の後始末で幾度も目にした常套句だった。
もちろん、同じ言葉が使われたからといって、こちらの地球にも聖堂教会が関わっていると断定できるわけではない。
だが、小尾にはその言い訳が誰の好みか、痛いほどよくわかった。
(……そっちの世界でも、ガス爆発って言うんだ)
不意に可笑しくなり、喉の奥で小さく笑う。
「何かおかしいことがあるかしら?」
「いやいや、なんでもないよ。なのはとはやてが無事なら、僕としては何より」
リンディは納得した様子ではなかった。
だが、そこで問い詰めても、少年が素直に胸の内を語るとは思えない。答えは今の面会の目的とも無関係だった。
彼女はその一瞬の反応を記憶に留め、話を戻すことにした。
小尾一は椅子にもたれ、ようやくキリエへ視線を向けた。
「で、そちらのお姉さんは? 見ない顔だけど」
「キリエ・フローリアンよ。今日は彼女の持っている資料について、あなたに聞きたいことがあるの」
「へえ。僕に?」
小尾はバインドの掛かった両手を、挨拶代わりに少し持ち上げた。
「初めまして。こんなところまでご苦労さま」
「……初めまして」
キリエは目の前の顔を見つめた。
すずかがあれほど嬉しそうに話していた相手は、この少年なのか。
てっきり、もっと年上の、いかにも恐ろしげな人物だと想像していた。ところが実際に目にしても、あの公園で聞いた名前と目の前の顔がうまく結びつかない。
「……私、あなたの名前を聞いたことがあるの」
「へえ。どこで?」
「地球で。月村すずかって子が、『小尾くん』って何度も言ってたわ」
「あら、すずかちゃんと知り合ってたのね」
リンディは知っている子の名前が出たことに、ちょっと驚いた様子だった。それ以上、何かを詮索することはなかった。
小尾は小首を傾げる。
「すずかが? へえ、何の話をしてたんだろ」
「……あなたの研究のこと」
「ああ、なるほどねえ」
それだけ言って、小尾は頷いた。先ほどバインドへの不満をあれほど口にしたくせに、いまはその話をすっかり脇へ置いた様子だった。
キリエには、すずかの頬を伝っていた赤い血が、妙にはっきりと思い出せた。あの公園で起きたことを、ここで詳しく話す気にはなれない。
挨拶だけを聞けば、どこにでもいる少年だった。
だからこそ、クロノが何度も注意を重ねたことが引っ掛かった。
リンディが端末を操作する。
表示されたのは、灰色に衰えたエルトリアの観測記録だった。
「この惑星について、何か知っていることはあるかしら」
小尾は画像を見た。
惑星の輪郭と識別番号、表面温度、旧観測資料。
数秒眺めてから、あっさりと首を横に振った。
「知らない」
あまりに速い返答だった。
「……もう少し見ていただける?」
「いや、見ても知らないものは知らないよ」
小尾は揃えられた手首を動かし、投影された惑星の画像を指先で示した。
「そもそもさ、なんで僕が別の星のことまで知ってると思うの?」
「あなたは通常の魔導体系とは異なる知識を持っているでしょう?」
「それはそうだけど、僕が知ってるのは地球の魔術だよ? 地球。宇宙を巡って星々の生態を調査してたわけじゃないんだからさ」
キリエは瞬いた。
「でも、クロノさんが、あなたなら……」
「クロノ君、僕を何だと思ってるんだろうなあ」
小尾は困ったように笑った。
「魔術師だって、知らないことは知らないよ。まして聞いたこともない惑星の事情なんて、わかるわけないでしょ。僕だって今日初めて見たんだから」
リンディは落ち着いた様子で頷いた。
「ええ。エルトリアそのものについて知っているとは、私たちも思っていないわ。見ていただきたいのは、こちらの記録なの」
「ああ。最初からそう言ってくれればいいのに」
相変わらず気安い調子だった。
キリエは少し腹が立った。こちらは何日も迷って来たのに、少年は世間話の延長のように答えている。
けれど、知らないという人間に無理やり答えさせても仕方がない。
それくらいはキリエにもわかっていた。
画面が切り替わった。
マクスウェルの観測した信号、その解読手順、応答記録が順に示される。
『どうか、いまだ存命する生あるものを絶滅させて欲しい』
小尾は一読して眉を上げた。
「……何これ」
リンディが説明を続ける。
死に瀕した惑星の内部から信号が発せられ、研究者はそれを惑星自身の意思によるものだと解釈したこと。外宇宙から何らかの応答があり、その後、エルトリアで実際に壊滅的な事態が起きたこと。
小尾は画面とリンディの顔を交互に見た。
「いや、待って。これ、僕に何を聞きたいの?」
「あなたは、管理局で扱っている魔法とは別の技術を知っているのでしょう?」
「魔術のこと?」
「ええ。私はそれがどういうものなのか、まだよくわかっていないわ。でも、私たちと違う見方で考えられることがあるのではないかと思って」
リンディはそこで言葉を切った。
彼女が知っている魔術とは、ほとんど小尾一という少年を通じて見聞きしたものだった。管理局の魔導理論では説明のつかないことをする。人の判断へ暗示を差し込む。そうした事実は把握していても、魔術師が何を学び、どのような理屈で力を使うのかまでは知らない。
ましてや、死にかけた惑星の信号について、魔術が何かの答えを用意してくれると期待していたわけではなかった。
「……ああ、そういうことか」
小尾はようやく納得したようだった。
「だったら、僕の知ってる地球の話ならできるよ。そもそも魔術師っていうのは、星をただの大きな岩石の塊として見ているわけじゃないんだ」
「……どういうこと?」
キリエには、まるで見当がつかない話だった。
「地球そのものに、意思とか魂みたいなものがあるんじゃないか、って考え方もある。人間が地球の上で生きていることと、地球自身がどういう存在なのかは、別の話として扱うわけ」
「星に……魂があるの?」
リンディが思わず聞き返した。
小尾はあっけらかんと頷く。
「そう考える連中がいたってこと。僕がここで証明したわけじゃないし、科学の教科書に載ってる話でもないけどね」
「じゃあ、エルトリアも……」
「だから、そこまでは言ってないって」
キリエの言葉を小尾が遮った。
強い口調ではなかった。ただ、話が飛躍するのを止めただけだ。
「僕がしゃべってるのは、あくまで地球のこと。君の星については何も知らない。資料に『星の声を解読した』と書いてあるなら、それは書いた人の結論だよ。実際に何が起きたのかは別に確かめないとね」
「……そうね。私も魔術について知っているわけではないもの。今のお話は、地球にはそういう考え方もある、ということなのね」
「そうそう。それなら話は早い」
小尾は軽く笑った。
ようやく言いたいことが伝わったらしい。だが、キリエの表情は晴れなかった。知らない星の出来事を、知らないままにしておける少年の気楽さが、今は少しだけ腹立たしかった。
小尾は画面へ顔を寄せた。
「それより、これを書いた人、よくここまで解析したねえ。機械で信号を拾って、意味があるものとして読めるところまで持っていったんだ。僕なら最初から魔術のほうへ寄せて考えちゃいそうだ」
キリエは返答に迷った。
マクスウェルの能力を褒めているのだろう。実際、科学者としては並外れた人物だったのかもしれない。
だが、その名前を聞いて浮かぶのは、ユーリを利用した実験と、研究所で失われた命のことだ。
「その人は……何人も殺したのよ」
「ん?」
「これを記録した、マクスウェルって人」
小尾は画面から目を離した。
「……ああ、そうなんだ」
短い返事だった。
そこには同情も、非難もない。
ただ新しい情報を聞いた、という反応しかなかった。
「だからって解析結果が全部嘘になるわけじゃないし、もちろん殺した事実が消えるわけでもない。そこは別々に考えたほうがいいよ」
それもまた、間違ってはいなかった。
キリエは何も言い返せず、膝の上で拳を握った。
リンディが最後の資料を開いた。
画面に現れたのは、マクスウェルが四十年以上前に受信した応答信号の記録だった。受信時刻、観測方向、解読できない波形。そこにあるのは数字と符号ばかりで、外宇宙の何者かが実際に来訪した光景など残されていない。
当然だった。
彼がこの記録を作った時、エルトリアはまだ滅んでいなかったのだから。
「これで、マクスウェルが遺した情報はほぼ全部よ」
リンディは小尾へ説明した。
波形が途絶えて以降、何が起きたかを彼が記録したわけではない。少なくとも今回の資料には、来訪した存在の姿も、能力も、四十年後の星の最期も書かれていない。
「へえ。ずいぶん長いこと返事を待つ羽目になったんだね、その星」
小尾は信号の記録を眺めた。
「で、実際に何が来たの?」
「わかっていないわ。残された観測情報からは、相手の姿すら特定できないの」
リンディが答えると、キリエが小さく口を開いた。
「……私、見たわ」
二人の視線が彼女へ向く。
「あの日、エルトリアで。全部じゃないけど……見た」
マクスウェルの資料に映像がないことは知っていた。それでも、あれを見た自分は生き残っている。
だから、自分が伝えなければならないのかもしれない。
「キリエさん。無理をしなくていいのよ」
「……うん。でも、少しなら話せる」
キリエは膝の上で指を組んだ。
目を閉じれば、あの光景は簡単に蘇った。だから、目を閉じずに、机の端を見つめる。
「……透明なものだった。最初は、何なのかもわからなかったの。地面も、建物も……そこにあったはずのものが、どんどん結晶みたいになっていって」
声が震えた。
言い終えるまで、リンディは口を挟まなかった。
「触れたらどうなるとか、そんなことも考えられなかった。あんまり大きすぎて、逃げるしかなくて……」
あの時、姉は。
その先が出てきそうになり、キリエは言葉を止めた。
息を吐き、床に置いた両足へ意識を戻す。
今は収容施設の面会室だ。ミッドチルダにいる。
「……ごめんなさい。今は、ここまで」
「充分よ」
リンディは短く答えた。
小尾も、それ以上を尋ねなかった。ただ、聞き覚えのある単語を頭の中で転がしている。
数字だけの古い通信記録には何も映っていない。だが、四十年後のエルトリアにいた少女の証言なら、話は別だった。
「……結晶、か」
小さな呟き。
「何か知ってるの?」
キリエが尋ねると、小尾は首を振った。
「いや。これについては知らないよ」
「そう……」
「ただ、別の話を思い出した」
キリエは顔を上げた。
「別の話?」
「うん。地球の話」
小尾は念を押すように言った。
「君の星じゃなくて、地球。地球にある、ちょっと変わったものについての資料を、昔読んだことがある」
小尾はバインドに繋がれた両手を机に戻した。
「どこで読んだんだったかな……ああ、時計塔だ。天体科の資料を覗いたときだったと思う。自分の専門とは違う分野の文献を読むのも、案外面白いんだよね」
「時計塔?」
「ロンドンにある、魔術師の学校だよ。魔術を教えたり、研究したりする場所。魔術協会の拠点でもあるけど、要するに魔術師が集まる学校だと思えばいい」
「……ロンドン?」
キリエが首を傾げた。
星や次元世界の名前なら少しは覚えている。しかし、地球の都市の名前など、これまでほとんど気に留めていなかった。
「イギリスの首都よ。地球にある都市の一つ」
説明したのはリンディだった。
かつて地球に関係する案件を扱ってきた彼女には、ロンドンが何処かくらいわかる。
「へえ……そんな場所に、魔術師の学校があるの?」
「ある、というのが僕の知ってる話。普通の観光客が入れるような学校じゃないけどね。ああ、時計塔って名前でも、有名な時計台の話とは別だよ」
リンディは軽く眉を上げたが、小尾がなぜそんな場所にある文献を読めたのかについては問いたださなかった。
小尾は前世のことを誰にも話していない。二人には、彼が地球の魔術に詳しいと知る手掛かりしかなかった。
どうでもよさそうな説明を挟み、小尾は記憶を探る。
「確か、天体科の資料だったはず……いや、あれは閲覧先が天体科だっただけだったかな」
小尾はしばらく額を指で叩いていた。
だが、その指がふいに止まる。
「ああ、そうだ。ORT」
聞き慣れない三文字だった。
「オーアールティー?」
「そう。オルト。地球に関する古い資料で、その名前を見たことがある」
「……何なの、それ?」
「何なんだろうねえ」
「ちょっと。あなたが言い出したんでしょう?」
キリエが眉を寄せると、小尾は苦笑した。
「いや、名前は知ってるけど専門家じゃないんだよ。僕だってちゃんと研究したわけじゃない。ただ、あれは……とにかく、洒落にならないほどヤバいってことは覚えてる」
軽い口調に反して、その目は笑っていなかった。
「地球の外から来た存在だったはず。外宇宙……太陽系のずっと外、オールトの雲の辺りから、いや、その彼方からやってきた、だったかな。細かい記述は曖昧だけど、とにかく地球で生まれたものじゃない」
「オールトの雲?」
「地球の太陽系、そのずっと外縁の話。今は地球のどこかにいるらしい、という記録だったよ」
リンディはキリエと顔を見合わせた。
未知の天体から生命が飛来すること自体は、次元航行の存在する世界では想像もつかない話ではない。しかし、小尾が何を根拠にそう言っているのか、彼女たちには判断できなかった。
「それで、もう一つ。侵食固有結界」
「……しんしょく、こゆう……?」
「結界。ORTの周囲で起こる現象のこと。確か『水晶渓谷』とか呼ばれてた」
「結界というのは、私たちが使うものと同じなのかしら?」
「同じ『結界』って呼んでるだけで、仕組みは別物だよ」
小尾は椅子の上で姿勢を直した。
「管理局の魔導士が使う結界は、魔力で空間を区切ったり、人目から隠したりするものでしょ? 魔術師の結界にも防護や隠蔽のためのものはあるけど、同じ理屈で動いてるわけじゃない。で、魔術師の中でも特殊な『固有結界』ってやつは、使い手の内面にある世界――心象風景を、一時的に現実へ展開するものなんだ」
「それも、結界なの?」
リンディには言葉の共通点しかわからなかった。
小尾は頷いた。
「魔術の中でも、そっちはとびきり例外的なものだけどね。で、ORTの場合は、さらに話が違う。僕が資料で読んだ『侵食固有結界』は、魔術師が術式を組んで張る結界とも、心象風景を投影する固有結界とも違うらしい。あれはORTという異物が存在するだけで、周囲がそいつの側の環境に侵されていく現象なんだ」
「……存在するだけで?」
「そう。地球の上にいても、そこが地球のままでなくなる。周囲の法則ごと、異星のものに置き換わっていく。魔法陣を展開して『はい、結界を張りました』っていう話じゃないんだよ」
小尾はそこで言葉を切り、曖昧に首を傾げた。
「まあ、僕が覚えてるのはそこまで。石も木も結晶みたいになっていくって記述があったと思う。資料では『水晶渓谷』って呼ばれてたかな。実物なんか見たことないし、見に行きたいとも思わないけど」
キリエは膝の上へ視線を落とした。
小尾の口にした「結晶」という言葉が、ついさっき自分で語った光景と重なる。
あの日、透明になっていった街の輪郭が、また目の裏へ浮かびかけた。
リンディは気づいているのか、端末の輝度を少し落としていた。
「それって……」
「待った」
小尾が繋がれた両手を少し上げた。
「その先は、言わなくてもわかる。でも、似てるから同じものだ、とは言わないでね」
「……どうして?」
「僕が知ってるORTは、地球で語られていた存在だ。エルトリアに現れたものが何なのか、僕は見てもいない。結晶化っていう共通点だけで同一視するのは乱暴すぎるでしょ」
リンディは静かに頷いた。
未知の現象に既知の名前を貼りつけてしまえば、理解したつもりになれる。しかし、それでは調査にならない。
「ORTというものが、地球にいたという話を知っている。それと、周囲の環境を結晶に変えてしまう特性を持つ。あなたが覚えているのは、そこまでなのね?」
「あと、とにかくヤバい。あれは本当にヤバい」
小尾は念を押した。
「魔術師の中には、自分の力量を棚に上げて何にでも首を突っ込みたがるのがいるけど、ORTはそういう相手じゃない。僕だって近づこうとは思わないよ」
キリエは息を呑んだ。
なのはやはやてに何をしたかを知るリンディでさえ手を焼く、あの少年が言っている。
自分では何も知らないと繰り返しながら、その危険性だけは言葉を濁さない。
「……その資料、まだあるの?」
「あるかもしれないけど、僕の手元にはないよ。僕が見たのは時計塔にあった、地球についての資料だからね」
「誰か、詳しい人は?」
小尾は天井へ目を向けた。
「うーん……天体科で見たんだったと思うんだよな。だったら……」
「アニムスフィアの家系かな」
リンディが端末へ名前を記録した。
「アニムスフィア……?」
「うん。時計塔の天体科を仕切ってる魔術師の貴族。正確には、あそこを治める君主の家系だね」
「魔術師にも貴族がいるの?」
キリエは聞き返した。
学校があり、そこへ通う人々がいるというところまでは、どうにか想像できる。だが、なぜ学校を貴族が治めているのかはわからなかった。
「いるいる。魔術師の社会じゃ、どんな魔術を何代かけて受け継いできたかっていうのが、ものすごく大事なんだよ。魔術の才能も研究成果も、家ごとに積み重ねて次の世代へ渡していくからさ」
「それが、アニムスフィアという家系なのね」
「そう。あそこは特に古い。たしか……紀元前から続いてたんじゃなかったかな」
小尾は拘束された両手の指を折って、何かを数える仕草をした。
「神代が終わった後くらいだったか……いや、年表はうろ覚えだな。とにかく、西暦が始まるより前から名前があったような、そんな家系だよ。何千年単位の話だと思ってくれればいい」
リンディの指が止まった。
その年数に驚かないわけにはいかなかった。だが、それ以上に、その数千年をかけて何を受け継いできたのかが気になった。
「その家系なら、ORTについても知っているかもしれない、ということ?」
「かもしれない。僕が天体科で資料を見たから、君主なら関連する記録を管理してるんじゃないかと思っただけ。直接聞いたことはないし、保証はできないよ」
小尾は顎に指をやりかけ、バインドに繋がれた手を机に戻した。
「ああ、そうだ。もう一人いたな」
「もう一人?」
「キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ」
キリエには、どこで区切ればよいのかもわからない名前だった。
「……誰?」
「宝石翁とか魔道元帥とか、いろんな呼び名のある爺さん。時計塔じゃ知らない人のほうが少ないんじゃないかな。あの人も、ORTについて何か知ってそうだね」
「その方も魔術師なの?」
リンディが尋ねる。
小尾はちょっと考えてから、笑った。
「魔術師って呼ぶだけじゃ収まらない人かな。『魔法使い』って言ったほうが正確だけど、こっちの魔導士とはまた意味が違うんだよね。……まあ、それは置いといて。僕が知ってる中じゃ、魔術世界でも別格の人物だよ」
「その方に会えば、答えがわかるのかしら」
「さあ。僕、本人にORTのことを聞いたわけじゃないから。でも、知っていてもおかしくないと思う」
調べる先は二つになった。
アニムスフィアの家系と、ゼルレッチという人物。
だが、どちらも小尾の記憶を頼りにした名前でしかない。
「……で、そんな人たちは何のために、何千年も研究してるの?」
キリエが尋ねると、小尾はきょとんとした。
「根源を目指すためでしょ。少なくとも、アニムスフィアみたいな魔術師の家系はね。僕と同じだよ」
「根源……?」
キリエには初めて聞く言葉だった。
リンディは違う。小尾の取り調べに立ち会ったこともあれば、報告書に目を通したこともある。本人が何度も口にしていたその言葉を、聞き間違えるはずがなかった。
「あなたが、ずっと目指しているという『根源』ね」
「そう、それ」
小尾は嬉しそうに頷いた。
「万物の始まり。まあ、君たちに話すと長くなるから説明は省くけど。僕もそこに辿り着きたいし、魔術師の古い家系だって、それぞれの方法で同じところを目指している。そういう連中だよ」
リンディは、その説明をすぐには肯定できなかった。
根源という言葉は知っている。小尾がそれを求めていることも知っている。だが、彼のいう魔術の歴史や、家系の営みについては何も知らなかった。
知っているのは、小尾一がその目的のために何をしてきたか、ということだけだ。
「それでね、リンディさん」
小尾が、いかにも気軽な調子で続けた。
「僕を見てれば何となくわかると思うけど、魔術師って、ろくでもないやつの集まりだよ」
「……あなたがそれを言うのね」
「うん。自分も魔術師だからねえ」
少年は悪びれずに笑う。
キリエは、すずかが公園で話していたことを思い出した。あの少女は小尾の研究を読み、自分の身体を作り替えたのだという。あの夜に見たもののすべてが、小尾自身の仕業とは限らない。それでも、今の言葉を聞いていると、二人が無関係だとはとても思えなかった。
「研究を優先するのは当たり前。後継ぎのために子供の人生を決めることもあるし、何代もかけて積み上げた成果を守るためなら、他人の事情なんて気にしないやつもいる。もちろん全員が全員そうとは言わないけど、根源を目指してる連中に、人道主義の研究機関を期待するのはやめたほうがいいと思うな」
リンディは返事をしなかった。
魔術師という集団について、彼女はほとんど何も知らない。小尾が語ることを、そのまま世界の常識として信じるわけにもいかなかった。
それでも、少なくとも一人だけ、知っている魔術師がいる。
小尾一。
なのはやはやての身体を本人たちの同意なく変え、その結果を研究として扱った少年。収容施設の職員に暗示を掛け、本人の意思と術によって誘導された判断との区別を曖昧にする。管理局はその一人を相手に、今なお調査と対処を続けていた。
その小尾が、何千年も積み重ねてきた魔術師の家系を、当たり前のように話している。
もし、小尾のような判断をする者が、その家系の中にいたなら。
代々の研究成果も、資産も、人脈も、守るべき秘密も、小尾一人とは比較にならない規模になっているかもしれない。
彼と同じような人間が、同じ目的のために幾世代も準備を重ねていたとしたら――。
考えかけ、リンディはそこで思考を止めた。
その家系の人間が実際に何をしているのか、自分にはわからない。名前を聞いただけで危険人物と決めつけることもできない。
だが、無防備に接触してよい相手ではない。
キリエにとっては大切な手掛かりであっても、本人を連れてその門を叩くような真似は、到底勧められなかった。
「……ありがとう、小尾君。参考になったわ」
リンディは微笑んだ。
だが、内心ではクロノへ伝える報告の内容が増えていた。名前だけを照会するのでは足りない。相手が何を知っているか以前に、どのような者たちなのか確かめる必要がある。
「どういたしまして。でも期待しすぎないでね。アニムスフィアの人たちも、ゼルレッチ翁も、僕が名前を知ってるだけだから」
少年は、こちらが何を危惧したかなど気にも留めない様子で、椅子へ背中を預けた。
キリエは手元の記録へ目を落とした。
ORT。
アニムスフィアの家系。
ゼルレッチ。
ロンドンの時計塔。
どれも、今日まで聞いたことのなかった言葉だ。
正体を知るにはほど遠い。ただ、何もなかったところに、一つだけ調べる先ができた。
「その……ロンドンって場所へ行けば、時計塔に会えるの?」
「会えるって、学校は人間じゃないけどね。地球のロンドンにあるって話だよ」
「じゃあ、私たちがそこに行けば……」
「いや、そこはどうだろうね」
小尾は顎に指をやろうとして、手首のバインドを見下ろした。
「僕が知っているのは、時計塔の資料に書かれていたことと、そこで扱われていた魔術のことだよ。今、ロンドンのどこを訪ねたら誰に会えるか、なんて聞かれても困るなあ。そもそも魔術師の学校が、一般の人に『ここです』って看板を出していると思う?」
「……思わないわね」
「でしょ? 僕にだって、アニムスフィアの家系の当主やゼルレッチ翁が今どこで何をしてるかなんてわからないし」
リンディは静かに頷いた。
地球なら管理局にも観測と連絡の手段がある。だが、それだけで所在地不明の魔術師の組織を見つけられるとは限らない。
まして、問題は見つけた後だった。
「……そうね。ひとまず名前の記録だけは残しておきましょう」
「そうしたら? 僕が案内しろって言われても困るし」
最後の一言は、まったく頼りにならなかった。
けれど、それこそがこの少年の持っている情報の限界なのだろう。
「……ありがとう」
キリエが言うと、小尾は目を瞬かせた。
「ん?」
「わかること、教えてくれたから」
「大したこと言ってないけどね」
そう言って小尾は笑った。
「……ところでさ、リンディさん。次元の壁って、何だと思う?」
「……は?」
リンディは、思わず聞き返した。
エルトリアの記録についての話は、たった今終わったところだ。時計塔や魔術師の名前をどう扱うべきか考えていた矢先に、何の前触れもなく別の質問を投げ込まれても、すぐには頭を切り替えられない。
「次元の壁だよ。地球とミッドを隔ててる、あれ」
「何を指しているのかはわかるわ。……でも、今、その話をする理由があるの?」
「別に。ちょっと気になっただけ」
「小尾君。今はキリエさんのための面会なのよ」
「わかってるよ。だから用件が終わるまで待ってたじゃない」
まるで、食後に天気の話でも始めるような口振りだった。
リンディは隣のキリエへ目を向けた。キリエも困惑した顔をしている。
「……何か、さっきのエルトリアの話と関係あるの?」
「いや。全然ないよ」
小尾はあっさり答えた。
それならなおさら今持ち出す話ではない、とリンディが言いかけたところで、少年は続けた。
「ここにいると暇なんだよね。地球とミッドの間にある次元の壁って、結局何なんだろうって、ずっと考えてたんだ。せっかく管理局の人が目の前にいるんだし、聞いてみようと思って」
「……それで、私に?」
「うん。リンディさんなら知ってるかなって」
リンディは眉間に軽く指を当てた。
収容施設から出るのはいつでも可能だと言い、今度は次元の壁の仕組みを知りたがる。話題の飛び方も、その関心の向かう先も、彼女には理解しがたかった。
「あなた、何か次元航行に関わることを企んでいるわけではないでしょうね?」
「えー、何それ。僕は壁が何なのか聞いただけだよ。船を奪う相談なんかしてないって」
「……そう。なら、質問の意図をもう少し説明してちょうだい」
小尾は拘束された両手を持ち上げ、二つの手首の間にできた僅かな隙間を眺めた。
「管理局は次元の壁を越えられる。そこは知ってる。でもさ、その壁がどうして存在するのかって、考えたことある?」
「……いいえ」
リンディは少し考えてから答えた。
「次元世界を隔てる境界として、そういうものがあると理解しているわ。航行理論はその越え方を説明するものだけれど、境界そのものが何故あるのか、と改めて聞かれると……考えたことがなかったわね」
「でしょ? 僕もそこが引っ掛かったんだ」
「待って。あなたには何か考えがあるの?」
「推測だけどね。あの壁は単なる空間の仕切りじゃなくて、世界の法則を区切る薄い膜なんじゃないかなって」
小尾は、何故か楽しそうに付け加えた。
「玉ねぎを想像してみてよ」
「……今度は玉ねぎ?」
キリエが呆れたように言った。
リンディも同じ気持ちだった。先ほどまで惑星の滅亡について話していたのに、気がつけば少年は食材を持ち出している。
「世界には、玉ねぎみたいに幾重にも重なった層があるんだよ。層ごとに成立する法則が違う。魔術師の間じゃ『テクスチャ』、あるいは『位相』って呼ばれてる。呼び方が違うだけで、同じものさ。これは別に僕が考えついたことじゃない。魔術師なら知ってるような話だよ」
「……ちょっと待ってちょうだい」
リンディは彼の言葉を遮った。
「テクスチャ……位相? それは一体何なの? 管理局の次元航行理論に、そんな言葉は出てこないわ」
「ああ、そっか。魔術師の間じゃ当たり前でも、管理局じゃ通じないんだね」
小尾はあっけらかんと笑った。
「簡単に言えば、同じ場所に重なっていても、法則が違う世界の層ってこと。神代のテクスチャや世界の裏側なんて話もあるし、天界や地獄のような位相もある。そういう世界の重なり自体は、魔術師にとって別に珍しい話じゃないんだ」
「……天界? 神代?」
聞き慣れない単語が次々に飛び出してくる。
リンディは、この少年が言う『魔術』を自分がほとんど知らないという事実を、改めて思い知らされた。
「じゃあ、地球とミッドは違う層なの?」
キリエが尋ねた。
「いや、たぶん同じ層だよ。さっきの玉ねぎの話、覚えてる?」
「……覚えてるけど」
「玉ねぎの層を一枚取って、もっと細かく見てみるんだ。そこには小さな細胞がいくつも並んでるでしょ。地球とミッドも、そんなふうに同じ層の中にある別々の世界なんじゃないかって思うんだよ」
「……玉ねぎの細胞が、それぞれの次元世界ってこと?」
「例えとしてはね。僕ら人類が繁栄してる辺りの層を、便宜上『人理の層』って呼んでるんだけど。別に正式な名前じゃないよ」
リンディは眉を寄せた。話はまだ、何故次元の壁を持ち出したのかという疑問に答えていない。
「それで、その玉ねぎの話が、次元の壁とどう関係するのかしら?」
「細胞と細胞の間には、細胞壁があるじゃない」
「……ええ」
「僕はね、地球とミッドを隔てる『次元の壁』も、それに似た仕切りなんじゃないかと思ってる。『人理の層』の内側にある、極端に薄いテクスチャ。仮に『人理テクスチャ』とでも呼ぼうか」
「……待って。それは魔術師の間で知られていることなの?」
「いや。位相とテクスチャが同じものだっていうのは、昔から知られてる。でも、管理局が越えてる次元の壁までテクスチャの一種だって考えたのは僕。そこはまだ証拠のない仮説だよ」
小尾は拘束された手首を軽く動かした。
「要するに、管理局は玉ねぎの同じ層にある細胞壁なら越えられる。でも、玉ねぎの一枚外側や内側――法則の違う別の層へ行けるわけじゃない。僕の考えが当たってれば、だけどね」
「……何だか、余計に難しくなったわ」
リンディは正直に言った。
「つまり……あなたが『人理の層』と呼んでいる階層の中で、管理局は世界を仕切る壁だけを越えている。天界のような別の層へ移動しているわけではない……ということ?」
「そういうこと。もしこの考えが合ってるなら、天界みたいな別の位相が地球とミッドの両方に重なっていても、おかしくないでしょ。まあ、次元の壁の正体が本当に人理テクスチャなのかは、確かめてないけどね」
リンディは腕を組んだ。
テクスチャ――すなわち位相が魔術師の間で知られた概念なのだとしても、リンディには確かめる術がない。まして、それと管理局が越えてきた次元の壁とを結びつける根拠は、今のところ小尾の推測だけだった。
「……その話と、あなたが何度も口にしている『根源』には関係があるの?」
「そこはまだわからない。玉ねぎの中心かもしれないし、全部の層の外かもしれない。そもそも、位置で表せるものかどうかも怪しいし」
「次元の壁が、あなたの言う『人理テクスチャ』だという証拠はあるの?」
「そこはまだないよ。テクスチャ、つまり位相っていう概念は魔術師なら知ってる。でも、管理局の次元の壁がその一種だって話は別だから。そこだけは、ここで暇つぶしに考えてた僕の仮説。……案外、筋は通ってると思うんだけどね」
小尾はけろりと笑った。
リンディは溜息を飲み込んだ。次元航行の根本に関わるかもしれない話を振っておいて、最後は『暇つぶし』で片づけてしまう。あまりに勝手で、あまりに彼らしい。
話の正誤は判断できない。ただ、今この場で結論が出る話でもなかった。
「……わかったわ。考え方としては聞いたけれど、今の段階で正しいとも間違っているとも言えないわね」
「そうだろうね。僕だって確かめようがないんだから」
小尾はさも気軽に付け加えた。
「まあ、管理局にはいつか玉ねぎの層そのものを越えられるように期待してるね」
「……あなた、ずいぶん簡単に言うのね」
「期待するだけなら自由でしょ?」
「それなら、今日の面会はここまでにしましょう」
「はいはい。あ、次にクロノ君に会ったら、このバインドのこと、もう一回文句言っとこう」
「要望は正式な手続きを通してちょうだい」
「ほんと、親子でそっくりだなあ」
小尾は椅子にもたれた。白い机の上に戻した両手首で、バインドの光が揺れている。
リンディは最後まで彼から目を離さなかった。
警備職員が一歩進み、退出の手続きが始まる。バインドはそのままで、小尾は退屈そうに二人を見送ろうとした。
キリエも静かに席を立った。
◆
施設を出ると、夕暮れの風が頬に触れた。
キリエはしばらく空を見上げていた。
エルトリアの空は、こんな色をしていなかった。
それでも、夕方になれば食事の時間が来て、誰かが帰りを待っていたことは同じだった。
「疲れたでしょう」
リンディが尋ねた。
「……少し。でも、大丈夫です」
「そう。帰りは無理せず、ゆっくり行きましょう」
キリエは手元の端末を握り直す。
「リンディさん」
「なあに?」
「クロノさんに、調べてもらうことって……できるかな」
「時計塔と、アニムスフィアの家系、それからゼルレッチという方のこと?」
「うん。ロンドンって場所まで、わかったんでしょ?」
リンディはすぐに答えなかった。
ロンドンという都市なら知っている。しかし、そこに小尾の語る魔術師の学校が存在するのか、存在するとして何者が出入りしているのかは、何ひとつわかっていない。
そもそもリンディ自身、魔術というものを小尾以外から学んだことがなかった。
ひとりの少年を相手に、管理局がどれだけ手を焼いてきたか。その経験だけが、警戒の根拠だった。
「……まずは、今日聞いた名前をクロノに伝えておくわ」
「それで、調べてもらえる?」
「クロノにも仕事があるから、すぐにとは言えないわね。必要なことは、こちらでも整理しておくから」
言葉を選んだ返事だった。
嘘は言っていない。だが、キリエが望んでいる『地球の魔術師に会って話を聞く』という次の一歩については、何も約束していない。
「……そう。わかった」
キリエは頷いた。
「私、もう何も知らないままなのが嫌だったから」
足を止め、ゆっくり息を吸う。
「お姉ちゃんが最後に私に渡してくれたもの、ちゃんと確かめたい」
リンディは黙って聞いていた。
「何がわかったって、お姉ちゃんは戻ってこない。それは……わかってる」
言葉にすると、胸の奥が痛んだ。
今日も、帰る場所には姉がいない。
どれだけ情報を集めても、あの日の最後の瞬間へ戻ることはできない。
キリエは端末を両手で包み、しばらく俯いた。
「でも、知りたいの」
リンディが小さく頷く。
「ええ。お姉さんの遺した記録は、きちんと保管してあるわ」
口にしたのは、そこまでだった。
今日得た名前は、もちろんクロノに報告するつもりでいる。だが、時計塔やアニムスフィアの家系へ接触するかどうかは別問題だった。
小尾が言うには、魔術師たちは何代もかけて根源を目指し、ときには他人の事情など顧みないという。真偽の確認すらできない言葉だが、リンディには小尾一という具体的な前例がある。
ましてキリエは、ようやく日常の一部を取り戻してきたばかりだった。
そんな少女を、正体の知れない魔術師の社会へ近づけたくはない。
彼女が求める答えが見つかる可能性まで否定するつもりはなかった。けれど今は、話をはぐらかすことを選んだ。
ロンドンへ行くという話はもちろん、管理局から誰かを派遣するという提案さえ、当面は口にしない。
リンディは少しだけ声を和らげた。
「その代わり、調査のために治療や生活を後回しにするのはなしよ」
「……わかってます」
「約束ね」
「はい」
キリエは苦笑した。
まるで姉に言い聞かされているようだった。
そう感じた瞬間、胸が詰まる。
それでも、今度は泣き崩れずに済んだ。
似ている、と感じたことを、似ているまま受け止められた。
帰ればイリスがいる。ディアーチェも、シュテルも、レヴィもいる。
朝はまた来るし、仕事もある。休まなければならない日も、眠れない夜も、きっとまだあるだろう。
それでも、今日を終えて家に帰ることはできる。
「……今日、ちゃんとご飯食べなきゃね」
キリエは独り言のように呟いた。
「何か言った?」
「ううん。何でも」
リンディと並んで歩き出す。
ミッドチルダの空は、いつも通りの夕焼けだった。
◆
一方、面会が終わった収容施設では、小尾一が両手足を拘束されたまま、職員に連れられて廊下を歩いていた。足首のバインドが歩幅を制限しているため、いつもより少し歩きにくい。
「それにしても、別の惑星の話を振られるとはねえ」
誰にともなく呟く。
「僕、いったいどんな物知りだと思われてるんだか」
クロノに今度会ったら一言文句を言ってやろう。
そう決めたところで、ふと別の考えが浮かんだ。
ORT。
昔、時計塔の天体科で見かけた資料。
外宇宙、オールトの雲の彼方から来たという異物。侵食固有結界と呼ばれた異界化現象――水晶渓谷。
地球の魔術師たちが記録していた、理解の及ばない存在。
自分はそれを研究したわけではない。記憶に残っているのは名前と、危険性と、あの異様な結晶化くらいだ。
今日、キリエから結晶化の話を聞いて思い出したのも、その単語が引っ掛かったからに過ぎなかった。マクスウェルが四十年以上前に残した信号の資料には、結晶の観測など一行もなかった。
エルトリアへ現れた何かと、地球にいるとされたORT。
同じものかどうかなど、知るはずがない。
そもそも、あの少女たちの故郷がどこにあるのかさえ、今日初めて聞いたのだ。
「……まあ、それはそれとして」
小尾は、ほんの少し口元を緩めた。
星が死ぬ。
死にゆく星が、外の何かへ助けを求める。
それを科学的な信号として捉え、解読した人間がいる。
エルトリアについては何も知らない。
だが、その記録は興味深かった。
真偽を確かめる手段がないことまで含めて、実に研究者泣かせの話だった。
「……ま、考えたって答えは出ないか」
呟くと、先を歩いていた職員が振り向いた。
「何かおっしゃいましたか?」
「いや、こっちの話。今日の夕飯、何かなって」
「予定表に記載されています」
「そっか。それは楽しみだね」
いつもの調子で笑ってみせる。
職員は何も答えず、足を進めた。
小尾もまた、その後を歩く。
ここを出ようと思えば、彼にはその手段がある。それでも今のところ、その必要を感じていなかった。
彼にとって今日の出来事は、収容中の退屈をいくらか紛らわせてくれる話題に過ぎなかった。
エルトリアの死者たちの名前を、彼は一つも知らない。
知ろうとも思わなかった。
ただ、遠い昔に地球で見かけた資料の名前だけが、久しぶりに記憶へ戻ってきていた。
ORT。
そして、それを調べるならば――ロンドンの時計塔、天体科、アニムスフィアの家系。
あるいは、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ。
もっとも、彼はその名がリンディに与えた警戒の意味など、考えてもいなかった。
それ以上の答えを、小尾一は持っていなかった。