「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
それから、数年が経った。
児童養護施設は、今も児童養護施設として機能している。
少なくとも、外から見ればそうだった。
朝になれば、子供たちは職員に起こされる。寝ぼけ眼のまま布団を畳む者がいて、枕元に置いたはずの靴下を探して騒ぐ者がいて、まだ昨日の喧嘩を引きずったまま、隣の子供と目を合わせようとしない者もいる。
食堂に集められれば、そこには湯気の立つ味噌汁と、少し焼きすぎた魚と、まとめて炊かれた白米が並んでいた。
誰かが歯ブラシをなくしたと訴える。
誰かが牛乳をこぼして叱られる。
誰かが宿題を忘れたことを、今さら思い出して青くなる。
職員たちは慣れた様子でそれをさばき、急かし、叱り、なだめ、次の予定へ子供たちを押し流していく。
洗濯物は干される。
寄付品は仕分けられる。
古くなった玩具は箱に戻され、使える服と使えない服が分けられる。
役所に提出する書類には、決められた日付と、決められた印鑑が押される。
帳簿は揃っている。
出席記録もある。
職員の勤務表も、子供たちの生活記録も、外部の人間が必要とする範囲では何一つ欠けていない。
少し古く、少し人手が足りず、けれど社会の片隅で確かに役割を果たしている児童養護施設。
外から見えるのは、その程度の場所だった。
そこに、異常はない。
悲劇もない。
奇跡もない。
ただ、よくある福祉施設の一つとして、そこは日常の中に紛れていた。
ただし、それは表の顔にすぎない。
その内側には、もう一つの顔がある。
数年の歳月をかけて、認識疎外は完全に生活の中へ馴染んでいた。
職員たちは、必要な範囲で見落とす。
子供たちは、気にしなくていいものを気にしない。
行政の目は、書類上の不備がなければ深く潜らない。
見回りに来た人間は、廊下の奥へ進む理由を忘れる。
地下へ続く扉の前に立った者は、なぜそこへ来たのかを思い出せなくなる。
報告書を確認する役人は、数字のわずかな歪みを見逃す。
そのすべてが、ひどく自然だった。
魔術で世界を捻じ曲げているわけではない。
人間の認識を無理やり塗り替えているわけでもない。
そんな大仰なことをすれば、むしろ不自然になる。
彼がしているのは、人間がもともと持っている曖昧さを、ほんの少しだけ撫でることだった。
見たはずのものを、見なかったことにする。
気づいたはずの違和感を、些細なものとして処理させる。
疑問を抱く前に、別の用事を思い出させる。
それだけで、人は簡単に日常へ戻る。
数年の間に、彼はその加減を覚えた。
強すぎれば、不自然になる。
不自然なほど完璧な無関心は、逆に目立つ。
弱すぎれば、疑問が残る。
疑問は連鎖し、連鎖した疑問はいずれ誰かの足を止める。
だから、必要な分だけ薄くかける。
雨上がりの道に残る水膜のように。
窓ガラスについた曇りのように。
人が日常を日常として処理できる程度に、違和感の輪郭を丸める。
それで十分だった。
そもそも、人間は見たいものしか見ない。
職員は、問題なく一日が終わることを望む。
役人は、書類が整っていることを望む。
子供たちは、今日の夕食と明日の遊び場のことで頭がいっぱいだ。
ならば、その望みに沿う形で視界を整えてやればいい。
人間の善意も、怠慢も、習慣も、すべて隠蔽の材料になる。
地下の工房も、今では静かに動いていた。
そこは、かつてのような即席の隠れ場所ではない。
壁には術式図が貼られ、床には魔力の流れを制御するための細い刻印が走っている。作業台には器具が並び、棚には番号を振られた記録媒体と、保存処理を施された検体ごとの反応記録が整然と収められていた。
血の匂いはない。
少なくとも、常に漂っているわけではない。
焦げた肉の臭いも、泣き声も、叫び声も、今はない。
代わりにあるのは、乾いた紙の匂いと、薬品の刺激臭と、魔力を帯びた金属が発する冷たい気配だった。
実験は、混乱から手順へ変わっていた。
失敗は、記録へ変わっていた。
犠牲は、数字へ変わっていた。
初期型のセフィラは、もう使われていない。
あれは粗かった。
意味を重ねるには強引すぎ、器へ沈めるには乱暴すぎた。
母親の魔力核に宿った、わずかなテレズマ。
その直後に起きた爆散。
児童養護施設の子供たちを通して見えた、通常個体の限界。
魔力核と魔術回路の差異。
器の容量、精神の耐久、生命活動との干渉率。
何度も繰り返した失敗。
何度も見直した仮説。
何度も捨てた設計。
それらを踏まえて、現時点での改良版セフィラは、ひとまず実用に耐える形になっていた。
もちろん、完全ではない。
完全などという言葉は、研究において最も信用ならない。
完全だと思った瞬間、観測は止まる。
観測が止まれば、失敗の兆候を見落とす。
失敗の兆候を見落とせば、次に待っているのは爆発か、崩壊か、あるいは何の成果もない沈黙だ。
だから彼は、それを改良版と呼びながらも、常に余白を残している。
完成とは、到達点ではない。
その時点で最もましな仮の名前でしかない。
今使える中では、最も精度が高い。
今までの失敗を、最も多く踏み台にしている。
ただ、それだけだ。
研究は進んだ。
工房は整った。
隠蔽も安定した。
施設は表と裏の両方で、彼にとって都合よく回り始めていた。
だが、問題は研究の外側にもあった。
それは、彼の外見年齢である。
小学生ほどの見た目をした子供が、いつまでも学校に通っていない。
それは、さすがに目立つ。
幼い頃ならば、どうとでもなった。
体調が安定しない。
環境に慣れていない。
施設内で様子を見ている。
いくらでも理由は作れた。
そもそも幼児というものは、社会の輪郭にまだ深く組み込まれていない。多少の不自然があっても、大人はそれを事情という言葉で処理する。
かわいそうな子供。
まだ落ち着かない子供。
保護が必要な子供。
そういう札を貼ってしまえば、それ以上、丁寧に中身を確かめようとする者は少ない。
だが、成長すれば話は変わる。
小学生ほどの子供は、小学校へ行く。
それが表社会における普通だ。
朝になればランドセルを背負い、決められた時間に家を出て、同年代の子供たちと同じ教室に座る。勉強をし、給食を食べ、休み時間に騒ぎ、夕方になれば帰ってくる。
その流れから外れた子供は、理由を求められる。
理由を求められれば、書類が必要になる。
書類が増えれば、関わる人間が増える。
関わる人間が増えれば、認識疎外で丸めなければならない違和感も増える。
もちろん、魔術で押し潰し続けることはできた。
不登校。
療養。
特別な事情。
いくらでも名目は作れる。
だが、それは効率が悪い。
不自然を隠すより、自然に寄せた方がいい。
小学生なら、小学校へ通えばいい。
それだけのことだった。
そして、どうせ学校へ行くのなら、同年代の子供を見る機会にもなる。
この世界には、前世の魔術回路とは異なるものを内側に抱えた人間がいる。
少なくとも、彼はそう観測している。
母親がそうだった。
あの女の内側には、魔術回路ではない何かがあった。
流すための管ではない。
術式を走らせるための回路でもない。
もっと単純で、もっと危ういもの。
魔力を抱え込み、溜め、内側に留めるための核。
彼はそれを、便宜上、魔力核と呼んでいる。
正しい名称など知らない。
そもそも、正しい名称が存在するのかどうかも怪しい。
この世界の人間がそれをどう呼ぶのか。
あるいは、呼び名を持っているのか。
そんなことは、彼にとって重要ではなかった。
名前は後でいい。
分類も後でいい。
まず必要なのは、観測だ。
それが前世の魔術回路とは違い、テレズマを流すのではなく、抱え込む性質を持っている。
その一点だけで、十分に価値がある。
もちろん、誰もが母親と同じ器を持っているわけではない。
むしろ、これまで施設内で調べた限りでは、明確な核を持つ者は多くなかった。
あっても小さい。
あっても浅い。
あっても脆い。
反応はするが、溜められない。
溜められても、耐えられない。
耐えられても、すぐに歪む。
大半はその程度だ。
だからこそ、数を見る必要がある。
児童養護施設の中だけでは、どうしても範囲が限られる。
ここにいる子供たちは、彼にとって都合のいい検体だった。だが、都合がいいことと、質が高いことは別の話だ。
通常個体の限界は見えた。
失敗の傾向も見えた。
ならば次に必要なのは、通常から外れた個体である。
学校なら、同年代の子供が集まっている。
大半は外れだろう。
ほとんどは、調べるだけ無駄に終わるだろう。
だが、百を見なければ一の異常値は拾えない。
そして彼は、その一を探していた。
握手。
肩が触れる。
プリントを渡す。
落とした消しゴムを拾う。
休み時間の遊び。
小学生同士なら、接触の理由はいくらでもある。
深く潜る必要はない。
皮膚越しに、ほんの一瞬、内側の流れを撫でる。
核があるか。
器として使えるか。
テレズマを抱え込む余地があるか。
それだけ確認できればいい。
表向きは、あくまで偽装。
学校に通うことで、彼の存在は社会の中で自然になる。
不自然な孤児ではなく、少し事情のある転校生になる。
それだけで、周囲の認識はずいぶん扱いやすくなる。
検体探しは、そのついでだ。
規格外の器が見つかれば拾い物。
見つからなければ、それはそれで構わない。
観測の母数を増やすだけでも、研究には意味がある。
彼はそう判断し、転入手続きを整えた。
そして、海鳴市の小学校へ入ることになった。
海鳴市。
海に面した、穏やかな町。
表向きには、どこにでもある地方都市の一つだ。
彼がその町に特別な意味を見出していたわけではない。
戸籍上の処理。
施設からの距離。
受け入れ先の都合。
書類の通しやすさ。
いくつかの条件を並べた結果、そこが最も都合がよかった。
ただ、それだけである。
町の空に、何かの名残が薄く滲んでいることには気づいていた。
建物の陰。
送電線の上。
誰も見上げない夕暮れの空。
そこに、すでに消えたはずの力の跡が、ほんのわずかに残っている。
戦闘の痕跡か。
儀式の残滓か。
事故の後始末か。
それとも、この世界ではそう珍しくもない自然現象なのか。
判断材料は足りない。
だから、彼は保留した。
原因不明。
現時点で研究への影響なし。
それで処理する。
過去に何が起きたにせよ、表社会はすでに日常へ戻っている。
ならば、それでいい。
彼にとって必要なのは、表社会へ違和感なく潜ること。
そして、可能ならば使える器を見つけること。
それだけだった。
転校初日。
教室は、ひどく明るかった。
窓から差し込む日差し。
黒板の端に残った、昨日の授業の名残。
机の横にかけられたランドセル。
ざわめき。
筆箱を開ける音。
椅子を引く音。
誰かが笑う声。
誰かが慌てて宿題を写そうとして、隣の子に怒られている。
平和な空間だった。
少なくとも、表面上は。
彼は担任に連れられて、教室の前に立った。
途端に、子供たちの視線が一斉に集まる。
好奇心。
警戒。
無関心。
少しの期待。
転校生という存在は、子供にとって分かりやすい事件なのだろう。
それまでばらばらだった教室の意識が、一瞬だけ彼へ向いた。
観察されている。
そう感じながら、彼もまた教室を観察していた。
机の配置。
窓の位置。
出入口。
教師の立ち位置。
子供たちの表情。
緊張している者。
面白がっている者。
すぐに興味を失いそうな者。
そして、こちらを真正面から見ている者。
どれも、まだ分類には足りない。
初日は印象づけの場だ。
深く潜る必要はない。
担任が黒板に名前を書く。
「今日からこのクラスで一緒に勉強することになった、小尾一くんです」
白いチョークで、三文字が記される。
小尾一。
今生において、彼に与えられた名前。
戸籍に記され、書類に残り、教師が口にして、同級生たちがこれから呼ぶことになる名前。
前世の名ではない。
かつて聖堂教会に属し、天使の模造を追い、実験の果てに死んだ男の名ではない。
それでも、今の彼が社会の中で生きるには、この名前で十分だった。
名前とは、他人が個体を識別するための札である。
そこに魂の連続性など求める方が、よほど非効率だ。
彼は一歩前に出た。
「小尾一です。よろしくお願いします」
それだけでは、少し固い。
小学生の転校生としては、行儀がよすぎる。
そう判断して、彼は軽く笑った。
「好きなものは読書です。苦手なものは、長すぎる自己紹介です。なので、これくらいで終わります」
数人が笑った。
空気が少し緩む。
担任が少し困ったように眉を下げた。
「小尾くん、もう少し何か話してもいいのよ?」
「では、校長先生のお話を最後まで集中して聞けるよう努力します」
今度は教室全体が笑った。
大げさすぎない。
無愛想すぎない。
子供らしさには少し欠けるが、嫌味にはならない。
つかみとしては悪くない。
大人びている。
少し変わっている。
でも、悪い子ではなさそう。
その程度に見えればいい。
完璧な普通を装う必要はない。
完璧な普通は、かえって目立つ。
人間は、完全に平均化されたものを見ると違和感を覚える。むしろ、少し癖がある方が扱いやすい。相手の中で分類が済むからだ。
少し変わった転校生。
大人びた言い回しをする子供。
読書が好きで、妙に落ち着いている男子。
その程度の役割を与えておけば、人間はそれ以上深く考えない。
「小尾くんの席は……高町さんの隣ね」
担任が言った。
彼は示された席へ視線を向ける。
そこに、栗色の髪の少女がいた。
高町なのは。
彼女は、こちらを見ていた。
大きな目。
素直な表情。
転校生が隣に来ることへの、少しの緊張。
そして、それ以上の好意的な興味。
警戒は薄い。
薄いどころか、ほとんどない。
目の前にいる相手が何者なのか。
何を考えているのか。
自分をどう見ているのか。
そういうものを疑うより先に、まず受け入れようとしている顔だった。
彼はランドセルを机の横にかけ、席の前に立った。
「隣、よろしく」
「あ、うん。高町なのはです。よろしくね、小尾くん」
なのはは、明るく笑った。
その笑みは、よくある子供の笑みだった。
初対面の相手に向ける、少し緊張して、けれど仲良くなれたらいいと思っている顔。
少なくとも、表面上はそう見える。
彼は自然な動作で右手を差し出した。
「握手してもいい?」
「握手?」
「隣の席になるなら、最初に友好的な関係を結んでおいた方がいいと思って」
「にゃはは。なんだか難しい言い方だね」
なのはは少し笑ってから、素直に手を差し出した。
「うん、いいよ。よろしくね」
手が触れる。
柔らかい皮膚。
子供らしい体温。
軽い握力。
何の警戒もない、ただの握手。
その一瞬に、彼は解析を通した。
皮膚。
体温。
心拍。
血流。
生命力の流れ。
そして、その奥。
魔力を抱え込む核。
接触時間は短い。
深く潜る必要はない。
今確認するのは、器の有無。
大きさ。
流れ。
許容量。
それだけでいい。
転校初日である。
無理に成果を求めるつもりはなかった。
教室にいる子供を何人か軽く調べ、外れなら外れで構わない。学校という環境に馴染みながら、長期的に母数を増やしていけばいい。
その程度のつもりだった。
そもそも、規格外など簡単に見つかるものではない。
見つかるなら、ここまで苦労していない。
母親は興味深い例だった。
施設の子供たちは通常個体の限界を示してくれた。
その積み重ねの先で、彼はようやく「異常値が必要だ」という結論に辿り着いたのだ。
だから、これは偽装のついでだった。
学校という新しい観測場で、運がよければ何か拾えるかもしれない。
その程度の期待。
その程度の打算。
その程度の、軽い確認。
だったはずなのに。
――大きい。
彼は笑顔のまま、内側で思考を止めた。
ほんの一瞬だけ、何も考えられなかった。
大きい。
あまりにも単純な感想だった。
だが、他の言葉が出てこない。
大きい。
広い。
深い。
桁が違う。
いや、違うのは桁だけではない。
同じ尺度で測ろうとすること自体が、間違っている。
これまで見てきた検体が、器だったとする。
母親が、ひび割れながらも水を抱え込める壺だったとする。
施設の子供たちが、小さな杯や、底の浅い皿だったとする。
ならば、目の前の少女は何だ。
壺ではない。
杯ではない。
容器という言葉で括るには、あまりにも余白がありすぎる。
内側に、空間がある。
魔力があるのではない。
魔力を抱え込むための、広がりがある。
ただ多いだけではない。
ただ強いだけでもない。
受け止める余地がある。
留める深さがある。
流れを乱さず、内側に抱えたまま保つだけの構造がある。
彼は、そこで初めて理解した。
引いたのだ。
転校初日。
最初に隣へ座った少女。
挨拶代わりの握手。
その一回目で。
大当たりを引いた。
ありえない。
そう思った。
だが、解析結果は否定できない。
偶然とは、時にこういう顔をして現れる。
長い準備も、積み重ねた失敗も、慎重に整えた計画も、すべてを嘲笑うように、最初の一手で答えを差し出してくる。
まったく、腹立たしいほど都合がいい。
そして、研究者としては、笑うしかないほど素晴らしい。
母親は、この世界の人間としては興味深い器だった。
児童養護施設の子供たちも、通常個体の限界を測る上では有用だった。
だが、目の前の少女は違う。
比較対象ではない。
通常の延長線上にいない。
器そのものが、大きすぎる。
この少女がどこまで耐えられるのかは分からない。
精神性は見えない。
極限状態で折れるか、耐えるかも分からない。
激しい負荷をかけた時、この器がどこまで形を保てるのかも未知数だ。
優しさが強度になるのか。
それとも、脆さになるのか。
守ろうとする心が器を開くのか。
失う恐怖が器を砕くのか。
今の握手だけでは、そこまでは分からない。
だが、器はある。
それも、彼が数年かけて探そうとしていた規格外の器が。
目の前に。
隣の席に。
何も知らず、無防備に笑っている。
それだけで十分だった。
爆散前提でもいい。
壊れるとしても構わない。
壊れる直前の一瞬。
人間という輪郭が、人間であることに耐えられなくなる、その寸前。
もし、この器がテレズマを受け止めることができたなら。
ただの肉体に、ただの魂に、ただの子供に過ぎない存在が、神の領域へほんの一瞬だけでも指先をかけることができたなら。
その一瞬を観測できる。
その一瞬を記録できる。
その一瞬に、自分は手を伸ばせる。
思考の奥で、何かが熱を持った。
長年積み重ねてきた仮説。
失敗。
爆散。
拒絶反応。
器の崩壊。
通常個体の限界。
それらすべてが、目の前の少女へ向かって一本の線に収束していく。
見つけた。
そう思った。
ようやく。
いや、違う。
ようやく、などという言葉では足りない。
あまりにも早すぎる。
あまりにも都合がよすぎる。
転校初日。
隣の席。
最初の握手。
たったそれだけで、彼は数年分の失敗を踏み越える可能性に触れていた。
笑うな、と思った。
ここで笑うな。
顔に出すな。
呼吸を乱すな。
握手の形を崩すな。
だが、内側の熱は、ほんのわずかに外へ漏れた。
なのはの手を握る指に、力が入る。
子供同士の挨拶としては、少し強すぎる程度に。
逃がしたくない。
壊してでも見たい。
そんな衝動が、指先を通して一瞬だけ滲んだ。
「……小尾くん?」
なのはが首をかしげた。
声には、はっきりとした怯えまではない。
けれど、不思議そうな響きがあった。
握られた手を少しだけ見下ろし、それから彼の顔を見る。
「えっと……ちょっと、痛いかも」
その言葉で、彼は自分の失態を理解した。
まずい。
ほんの一瞬とはいえ、外に出た。
観測対象を前にして、感情が動きすぎた。
彼はすぐに指の力を抜き、手を離した。
表情は崩さない。
笑みの角度も変えない。
呼吸も整える。
「ごめん。少し緊張していたみたいだ」
「そうなの?」
「転校初日だからね。友好的な隣人関係を築こうとして、力加減を間違えた」
「にゃはは。力加減って、握手で言うかなあ」
「今後の課題にするよ」
なのはは、握られていた手を軽く振ってから、安心したように笑った。
疑ってはいない。
痛みよりも、彼が緊張していたという説明の方を受け入れたらしい。
まったく、扱いやすい。
いや。
扱いやすい、などという言葉では片づけるべきではない。
この無防備さも、彼女の性質の一部だ。
警戒より先に、相手の事情を想像する。
痛みより先に、相手を許す。
それが美徳なのか、欠陥なのかはまだ分からない。
だが、観測する価値はある。
「ありがとう。これで隣人関係は円満に始まった」
「にゃはは、やっぱり変わってるね」
「よく言われる」
「でも、悪い意味じゃないよ?」
「それはよかった」
なのはは明るく笑った。
彼も笑い返した。
表面上は、ただの転校生と、親切な隣の席の少女。
少し握手に力が入りすぎた、緊張気味の男の子。
それだけだった。
少なくとも、教室にいる誰の目にも、そう見えていた。
授業が始まる。
教科書が開かれる。
黒板に文字が書かれる。
担任の声が教室に広がる。
彼は周囲に合わせてノートを取りながら、時折、教室の中を観察した。
板書の内容そのものに、目新しいものはない。
小学生向けの授業である。
今の彼にとって必要なのは、そこに書かれた文字ではなく、この教室という小さな社会の構造だった。
誰がよく発言するのか。
誰が教師の目を気にするのか。
誰が周囲を引っ張り、誰が流されるのか。
誰が孤立し、誰が中心に近いのか。
子供の集団は単純に見えて、案外、面倒な秩序を持っている。
力の強い者。
声の大きい者。
成績のいい者。
優しい者。
面倒見のいい者。
そういった性質が、まだ未熟な形で絡み合い、小さな序列を作っている。
彼はその流れを、ノートを取るふりをしながら見ていた。
何人かの子供とは、休み時間に自然な接触があった。
消しゴムを拾う。
プリントを受け取る。
机を動かす時に手が触れる。
そのたびに、軽く解析を通す。
普通。
小さい。
浅い。
反応はあるが、核と呼べるほどではない。
生命力は悪くないが、保持する器が足りない。
流れは素直だが、負荷をかければすぐに潰れる。
どれも、検体として意味がないわけではない。
通常個体の分布を取るには有用だ。
だが、なのはを見た後では、どうしても見劣りした。
基準が壊れた。
それが正しい。
最初に異常値を見てしまえば、以後の観測はすべてその影に沈む。
彼は内心で候補リストを作りながらも、結論をほとんど決めていた。
現時点での本命は、高町なのは。
それは揺るがない。
休み時間になると、数人の子供が彼の机の周りに集まってきた。
「ねえねえ、どこから来たの?」
「前の学校って遠い?」
「好きなゲームある?」
「なんでそんな落ち着いてるの?」
質問は多い。
子供は遠慮がない。
遠慮がない分、誘導しやすい。
彼は一つずつ、曖昧すぎず、詳しすぎず答えた。
遠くから来た。
前の学校とは少し違う。
ゲームはあまり詳しくない。
読書の方が好き。
そう答えるたびに、周囲の子供たちは勝手に彼の輪郭を作っていく。
変わった子。
大人っぽい子。
本が好きな子。
少し話しにくいけれど、怖くはない子。
悪くない分類だ。
その輪の外側から、金髪の少女が腕を組んで彼を見ていた。
アリサ・バニングス。
彼女の視線は、他の子供たちよりもまっすぐだった。
好奇心はある。
だが、それ以上に値踏みの色がある。
転校生だからといって無条件に歓迎するのではなく、自分の目で相手を測っている。
「ふうん。あんた、ずいぶん落ち着いてるのね」
アリサが言った。
声ははっきりしている。
遠慮がない。
しかし、ただ乱暴というわけでもない。
自分が疑問に思ったことを、そのまま口に出しているだけだ。
「緊張しているように見えない?」
「見えないわよ。普通、転校初日ならもっとそわそわするでしょ」
「内側ではしているかもしれない」
「なにそれ。自分のことなのに、かもしれないって言うの?」
「自己観察は意外と難しいからね」
「……変な子」
アリサは呆れたように言った。
だが、嫌悪ではない。
面白がっている。
自分の理解できないものを、すぐに遠ざけるのではなく、まず突いて反応を見ようとしている。
強い。
魔力の器としてではない。
性格の芯が強い。
折れる時は派手に折れるだろうが、折れるまでは簡単に曲がらない類だ。
彼はそう分類した。
「アリサちゃん、そんな言い方したら失礼だよ」
隣から、柔らかい声がした。
紫がかった髪の、穏やかな雰囲気の少女。
月村すずか。
彼女は困ったように微笑みながら、アリサの袖を軽く引いた。
「だって本当のことじゃない。すずかだって、ちょっと変わってるって思ったでしょ?」
「それは……少しだけ。でも、悪い意味じゃなくて」
「ほら、思ってるじゃない」
「アリサちゃん」
すずかは小さくたしなめる。
その声に棘はない。
だが、不思議と相手の勢いを削ぐ柔らかさがあった。
彼は視線をすずかへ向ける。
穏やか。
控えめ。
場の空気を乱さないように動く子供。
そう見える。
だが、ほんのわずかに違和感があった。
なのはのような、巨大な器の気配ではない。
アリサのような、分かりやすい生命力の強さでもない。
もっと別のもの。
体温の奥に、静かな偏りがある。
血の流れか。
生命力の質か。
あるいは、この世界の人間という分類そのものから少しずれた、別種の安定か。
接触なしでは判断できない。
保留。
彼はそう決めた。
「月村すずかです。よろしくね、小尾くん」
すずかが丁寧に頭を下げる。
「よろしく、月村さん」
「すずかでいいよ。みんなそう呼ぶから」
「では、すずかさん」
「さん、つけるんだ」
「初対面だからね」
「ふふ。小尾くんって、やっぱり礼儀正しいんだね」
「そう見えるなら成功だ」
「成功?」
「第一印象の構築に」
「……やっぱり、ちょっと変わってるかも」
すずかは困ったように笑った。
その横で、アリサが鼻を鳴らす。
「ほら、すずかも言ったじゃない」
「アリサちゃんとは言い方が違うよ」
「同じようなものでしょ」
「違うと思うな」
二人のやり取りに、周囲の子供たちが笑う。
そこへ、なのはも少し慌てたように加わった。
「えっと、小尾くんは変わってるけど、悪い意味じゃないよ?」
「高町さん、それは慰めになっているのかな」
「にゃっ!? えっと、なってない?」
「少なくとも、悪意がないことは伝わった」
「よ、よかったの」
なのはがほっとしたように笑う。
アリサが呆れ、すずかが微笑む。
その三人の位置関係を、彼は理解した。
高町なのは。
善意が先に出る。
他人の痛みに手を伸ばす。
警戒よりも共感が早い。
アリサ・バニングス。
押しが強い。
疑問を飲み込まない。
内側にある感情を、言葉と態度で外へ出す。
月村すずか。
穏やかに場を整える。
衝突を和らげる。
しかし、その内側にはまだ未分類の違和感がある。
三人は、この教室の中でも中心に近い。
ならば、近づいておいて損はない。
彼は適当に答えながら、敵意を持たれない距離を保った。
大人びすぎれば気味悪がられる。
子供らしすぎれば、後で無理が出る。
少し変わっているが話せる転校生。
その位置がいい。
そのうち、周囲の興味が少し落ち着いたところで、彼は隣の席へ視線を向けた。
「高町さん」
「なに?」
彼は、隣の席へ視線を向けた。
アリサは別の子に呼ばれて少し離れている。すずかもそれに付き合う形で、机の輪から外れていた。
今、なのはへ声をかけるには、ちょうどいい間だった。
「学校の中を案内してもらってもいいかな。どこに何があるのか、まだ全然分からなくて」
「あ、うん。いいよ」
なのはは、ほとんど迷わず頷いた。
「私でよければ案内するね」
「助かる」
「でも、そんなに広くないから、すぐ覚えられると思うよ」
「地図を見るより、詳しい人に聞いた方が早いからね」
「にゃはは。小尾くんって、言い方がちょっと大人っぽいね」
「背伸びをしているだけかもしれない」
「そうなの?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
なのはは不思議そうにしながらも、楽しそうに笑った。
彼女は警戒しない。
少なくとも、転校初日の隣人に対して、悪意を想定していない。
相手が困っていると言えば、助けようとする。
頼られれば、応じようとする。
差し出された言葉の裏側を疑うより先に、まず手を伸ばす。
その性質が美徳なのか、弱点なのか。
彼は判断しない。
判断する必要もない。
ただ、利用しやすいとは思った。
なのはに案内され、彼は廊下へ出た。
教室の喧騒が背後へ遠ざかる。
廊下には、授業と授業の合間特有のざわめきが残っていた。走らないように注意されながらも小走りになる子供。壁の掲示物を直す教師。窓際で何かを話している上級生。
その中を、なのはは少しだけ先を歩く。
振り返るたび、こちらがついてきているか確かめるように目を向けてくる。
「ここが職員室だよ。用事がある時は、ちゃんとノックしてから入るの」
「なるほど。無断侵入は禁止」
「うん、そうだよ。……普通は禁止だと思うけど」
「普通は大事だね」
「小尾くんが言うと、なんだか変な感じがするよ」
「普通を尊重しているつもりなんだけど」
「にゃはは。尊重って言い方も大人っぽいの」
職員室。
保健室。
図書室。
音楽室。
理科室。
体育館へ続く渡り廊下。
なのはは、一つずつ丁寧に説明してくれた。
どこに何があるのか。
どの先生が少し怖いのか。
どの先生が優しいのか。
図書室では静かにしないといけないこと。
体育館の床は、雨の日の後だと少し滑ること。
保健室の先生は優しくて、具合が悪い時は我慢しなくていいこと。
廊下の角では、よく先生が立っているから走らない方がいいこと。
階段の踊り場には、たまに上級生が集まっていること。
どれも、学校生活を送る上では必要な情報なのだろう。
彼にとっては、半分ほどどうでもよかった。
職員室の位置は、職員の動線を読むために必要だ。
保健室は、怪我や体調不良を理由に人目から外れる場所として意味がある。
図書室は、静かで観察しやすい。
理科室は、器具の管理が甘ければ使い道がある。
体育館へ続く渡り廊下は、人の流れが途切れる時間帯を確認する価値がある。
同じ説明を聞いていても、なのはが見ている学校と、彼が見ている学校はまるで違っていた。
なのはにとって、ここは毎日通う場所。
友人と話し、授業を受け、笑い、時々転んで、また立ち上がる場所。
彼にとって、ここは外部環境であり、観測場であり、必要なら利用するための構造物だった。
だが、彼は興味深そうに聞いた。
普通の転校生なら、そうするからだ。
「高町さんは、面倒見がいいんだね」
「え? そうかな?」
「初対面の相手に、ここまで丁寧に説明してくれる」
「だって、困ったら大変だし。私も分からないことがあったら、誰かに教えてもらいたいから」
「なるほど。相互扶助の精神」
「えっと……助け合いってこと?」
「そう」
「それなら、そうだね」
なのはは笑う。
素直な子供の笑顔だった。
眩しい、という表現が適切なのかもしれない。
曇りがない。
少なくとも、彼の目にはそう見えた。
相手の言葉をそのまま受け取り、相手の困りごとを自分の行動理由にできる。
それは、ある種の強さなのだろう。
同時に、隙でもある。
彼女の善意は、扉に似ている。
誰かが助けを求めれば、内側から開いてしまう。
鍵がかかっていないのではない。
鍵をかける前に、開けるべきだと判断してしまう。
だからこそ、彼の内側に浮かぶ計算とは、ひどく噛み合わなかった。
この少女は、自分が何に見られているのか知らない。
器。
候補。
検体。
改良版セフィラを入れるための、本命。
どれも、なのは本人の言葉ではない。
どれも、彼女が望んだ役割ではない。
しかし、彼にとってはそれが重要だった。
高町なのはという名前。
親切な隣の席の少女。
明るく、少し不器用で、困っている相手に手を伸ばす子供。
そうした輪郭の奥に、規格外の器がある。
ならば、表面の人格も、善意も、笑顔も、すべて観測対象の一部でしかない。
壊れた時に、どこから亀裂が入るのか。
耐える時に、何を支柱にするのか。
極限まで追い込まれた時、その善意は器を広げるのか。
それとも、真っ先に砕ける弱点になるのか。
まだ分からない。
だからこそ、近くで見る必要がある。
なのはは、彼のそんな思考など知るはずもなく、廊下の先を指さした。
「あっちが体育館で、その手前の階段を上がると音楽室だよ」
「なるほど。覚えておく」
「分からなくなったら、また聞いてね」
「頼りにしている」
「うん。任せて」
なのはは、胸を張るほどではないけれど、少しだけ嬉しそうに笑った。
頼られることを、喜ぶ子供。
それもまた、記録しておくべき性質だった。
渡り廊下の途中で、彼は少しだけ足を止めた。
「あ」
「どうしたの?」
「少し、靴紐が」
実際には、ほどけていない。
だが、しゃがみ込む理由にはなる。
彼は膝をつき、靴紐に触れるふりをした。
なのはは心配そうに覗き込む。
「大丈夫?」
「大丈夫。すぐ終わる」
そう答えながら、彼は足元ではなく、周囲の気配を測っていた。
渡り廊下。
教室からは少し離れている。
完全に人目がないわけではない。だが、子供同士の短いやり取りを、わざわざ気に留める者はいない。
仕込むなら、ここだ。
握手の時点で、器の大きさは確認した。
あとは入口を作るだけでいい。
器は、ある。
だが、器は開かなければ意味がない。
乱暴に沈めれば、いかに規格外の器であっても異物として弾かれる可能性がある。今までの失敗が、それを証明していた。
必要なのは、ほんの小さな隙間。
肉体ではなく、意識の隙間。
彼女自身が、たとえ一瞬でも特定の概念へ意識を向けること。
力。
守るための力。
何かを失わないための力。
その言葉が彼女の内側に触れた瞬間、改良版セフィラは滑り込める。
そして、どうせ言うなら。
彼は靴紐に指を添えたまま、ほんの少しだけ口元を緩めた。
どうせなら、一度くらいは言ってみたかった。
前世では、言う機会がなかった。
聖堂教会の代行者として化け物を追い、魔術師として研究に没頭し、天使の模造を夢見て、実験室で検体を壊してきた。
それらしい舞台はいくらでもあった。
それらしい雰囲気も、探せばあったかもしれない。
だが、案外、口にする機会というものはない。
力を欲するか。
手を伸ばすか。
契約するか。
そういう、いかにもな問い。
魔王か、悪魔か、封印された何かが、愚かな人間へ囁くような言葉。
正直に言えば、少し憧れていた。
いや、憧れていたというほどではない。
ないが。
一度くらいは、言ってみたかった。
だから、彼は声を整えた。
ただ口から出すだけではつまらない。
靴紐を結ぶ子供の声では、いけない。
渡り廊下の空気を薄く撫でる。
声の出所を曖昧にする。
反響を少しだけずらし、壁と床と窓ガラスに意味を散らす。
なのはの耳には、それが彼の声ではなく、廊下全体から語りかけられているように聞こえただろう。
低く。
静かに。
妙に荘厳に。
彼は言った。
「――力が欲しいか」
なのはが固まった。
「……え?」
ほんの少し、肩が引く。
目を瞬かせ、周囲を見回し、それからしゃがみ込んでいる彼を見る。
明らかに戸惑っていた。
というより、若干引いていた。
「えっと……今の、小尾くん?」
彼は靴紐を結ぶふりをしたまま、顔を上げない。
「今の、とは?」
「いや、あの……今、声が」
「声?」
「うん。なんか、廊下全体から聞こえたみたいな……」
「不思議なこともあるんだね」
「絶対、小尾くんだと思うの」
「僕は靴紐を結んでいる」
「それは見れば分かるけど」
「なら、問題ないね」
「問題あると思うの……」
なのはは困ったように眉を下げた。
確信はしている。
だが、どう問い詰めればいいのか分からない。
目の前の相手は、どう見ても靴紐を結んでいるだけの転校生だ。
声は確かに聞こえた。
けれど、彼の口元は見えにくく、声の出所も曖昧だった。
小学生が日常の中で処理するには、少しだけ面倒な違和感。
彼はその曖昧さに乗った。
もう一度、廊下の空気を撫でる。
声を低く、遠く、薄く響かせる。
「――力が欲しいか」
「やっぱり小尾くんだよね!?」
「何のことかな」
「今、言ったよね!?」
「君には、そう聞こえたのかもしれない」
「すごくすっとぼけてるの!」
なのはの声に、困惑と抗議が混ざる。
彼は真顔で靴紐を整えながら、内心で少し満足していた。
悪くない。
かなりそれっぽい。
ただ、想像していたよりも相手の反応が現実的だった。
怯えて跪くわけでもない。
絶望に震えて手を伸ばすわけでもない。
ただ、隣の席の転校生が急に変なことを始めたので、困っている。
当然である。
だが、ここまで来たなら最後までやるべきだ。
彼はさらに声を整えた。
「望むならば与えよう」
「え?」
「世界をひれ伏させる力を」
「い、いらないよ?」
「星を砕き、海を割り、空の理をねじ伏せる力を」
「そんなの怖いの!」
「指先一つで王国を滅ぼし、吐息一つで歴史を書き換え、願い一つで宇宙の秩序すら崩す力を」
「もっといらないよ!?」
「手を伸ばしても届かぬものへ届く力。失うはずだったものを奪い返す力。泣いている誰かを救い――あるいは、泣いている誰かごと世界を焼き尽くす力」
「最後のは救ってないよね!?」
「解釈の幅だね」
「ぜったい違うの!」
なのはは完全に引いていた。
半歩ほど後ろに下がり、心配そうな顔と警戒の顔が半分ずつ混ざっている。
支配。
破壊。
改変。
蹂躙。
そうした言葉は、彼女の内側にほとんど引っかからない。
むしろ、提示すればするほど距離を取る。
だが、完全に無反応というわけではなかった。
「でも……」
なのはは、少しだけ真剣な顔になった。
「困ってる人がいたら、助けたいとは思うの」
来た。
彼は靴紐を結ぶふりをしたまま、内側でその言葉を拾った。
支配ではない。
破壊でもない。
世界を膝下に置く力でも、宇宙の秩序を崩す力でもない。
高町なのはという個体が反応するのは、そこではない。
誰かを助ける。
誰かを守る。
手を伸ばして、届かせる。
やはり、この少女の入口は善意にある。
「助ける力なら?」
「それは……あったらいいのかもしれないけど」
なのはは迷うように視線を落とし、それから小さく首を振った。
「でも、急にすごい力とか、世界をどうとか言われても、やっぱり怖いの」
「怖い?」
「うん。だって、そういう力って、間違えたら誰かを傷つけちゃいそうだから」
なのはは困ったように笑った。
「だから、今はいいかな」
「……そう」
「ごめんね?」
謝られた。
世界をひれ伏させる力を提示し、星を砕く力を提示し、宇宙の秩序を崩す力まで提示した結果、小学三年生の少女に怖がられて、丁寧に断られた。
正しい反応だった。
あまりにも正しい。
そして、だからこそ分かりやすい。
魔王路線は合わない。
高町なのはという個体は、支配や破壊への誘惑にまるで反応しない。むしろ、提示すればするほど距離を取る。
ならば、角度を変える。
支配者ではなく、案内人。
悪魔ではなく、契約者。
恐怖ではなく、合理。
彼は靴紐を結ぶふりをしたまま、喉の奥で小さく調整した。
「……うっ、ヴゥン」
「え?」
「んん」
「今、変な声したの」
「靴紐が少し固い」
「靴紐からそんな声は出ないと思うの」
「世の中には色々な靴紐がある」
「ないよ!?」
なのはの抗議を聞き流しながら、彼は渡り廊下の反響をさらに調整する。
先ほどまでの低く荘厳な声を削る。
重さを抜く。
威圧を消す。
代わりに、少し高く、軽く、妙に明るくする。
人間の子供の声ではない。
かといって、大人の声でもない。
親しげで、丁寧で、理屈っぽい。
けれど、感情の温度だけが抜け落ちている声。
まるで、道端に座った白い小動物が、なんでもないことのように人生の契約書を差し出してくるような。
そんな声で、廊下が言った。
「それなら、別の提案をしよう」
なのはは、びくっと肩を跳ねさせた。
「また聞こえたの!」
彼は靴紐に視線を落としたまま、実に自然な声で言った。
「何が?」
「今の声!」
「声?」
「また廊下から聞こえたの!」
「廊下は喋らないと思う」
「そうだけど! そうなんだけど!」
「僕は靴紐を結んでいる」
「それは見れば分かるの!」
「なら、問題ないね」
「問題あるの!」
なのはは彼を見る。
廊下を見る。
また彼を見る。
完全に「絶対この子だ」と思っている顔だった。
だが、彼は徹底して靴紐を結んでいる。
指は紐を整え、視線は足元に落ち、表情には何の変化もない。
まるで本当に、自分には何も聞こえていないと言わんばかりだった。
なのはが困惑するその頭上で、無機質に明るい声が続く。
「君には素質がある」
「素質?」
「誰かを助けたい。困っている人を放っておけない。そういう願いは、とても貴重だ。だから、君が望むなら、その願いを叶える手段を用意できる」
「えっと……小尾くん?」
「どうしたの?」
「今の、絶対小尾くんだよね?」
「今の、とは?」
「だから、声!」
「僕には何も聞こえていない」
「そんなはずないの!」
「君には聞こえている。僕には聞こえていない。認識の差だね」
「すごくごまかしてるの!」
「靴紐は難しい」
「靴紐の話じゃないの!」
なのはは、さらに困った顔になった。
先ほどまでの魔王めいた声より、今度の声の方が、むしろ奇妙だったのだろう。
怖いというより、理解が追いつかない顔だった。
その反応を観察しながら、彼はなおも靴紐を結んでいるふりを続ける。
廊下の声は、平然と続いた。
「願いを一つ叶えよう」
「願い?」
「君が心から望むことを、一つ。代わりに君は力を得て、戦う役割を担う」
「それ、すごく怪しいの」
「怪しいかどうかは主観の問題だよ」
「たぶん、ほとんどの人が怪しいって言うと思うの」
「多数決で真理は決まらない」
「そういう問題じゃないの!」
「君には資格がある。普通の子供ではない。胸の奥に、とても大きな器を持っている」
「胸の奥……?」
ここだ。
彼は思った。
魔王めいた誘惑は失敗した。
世界をひれ伏させる力も、星を砕く力も、宇宙の秩序を崩す力も、小学三年生の少女には丁寧に拒絶された。
だが、ここで退くわけにはいかない。
むしろ、本命はここだ。
言いたかった。
いつか、一度でいいから言ってみたかった。
白々しく。
親切そうに。
感情の温度を抜いて。
相手の人生をひっくり返すことを、まるで明日の天気でも告げるように。
彼は渡り廊下の反響を整えた。
明るく。
平坦に。
無垢で。
最悪な声で。
廊下が言った。
「僕と契約して、魔法少女になってよ」
言った。
とうとう言った。
彼は靴紐を結ぶふりをしたまま、内心で静かに拳を握った。
これはいい。
非常にいい。
魔王の誘惑とは違う方向の完成度がある。
威圧ではない。
恐怖でもない。
これは勧誘だ。
善意を餌にし、願いを針にし、責任を後から差し出す契約の声。
完璧ではないか。
そう思った次の瞬間、なのはが半歩引いた。
「……えっと」
明らかに引いていた。
「小尾くん」
「何かな」
「今の、聞こえてないの?」
「何も聞こえていない」
「魔法少女って聞こえたの」
「そうなんだ」
「そうなんだ、じゃないの!」
「興味深い体験だね」
「小尾くんのせいだよね!?」
「証拠は?」
「ないけど、分かるの!」
「では、感覚的な推論だ」
「むう……!」
なのはは、完全に困っていた。
魔王の時は怖がっていた。
今は、心配している。
目の前の転校生が、急に廊下全体を使って魔王になったと思ったら、今度は妙に明るい声で契約を持ちかけ、魔法少女になれると言い出したのだ。
当然である。
彼は思った。
思ったより恥ずかしい。
かなり恥ずかしい。
だが、後悔はない。
言えた。
その事実だけは、少し満足だった。
「でも……」
なのはは、慎重に言葉を選んだ。
「誰かを助けられるのは、いいことだと思うけど」
廊下の声が、すかさず返す。
「うん」
「今の返事も小尾くんだよね?」
「僕は何も聞こえていない」
「もういいの……」
なのはは、少し疲れたように息を吐いた。
「でも、急に契約とか、戦うとか、魔法少女とか言われても、よく分からないし……」
「理解は後からでもできるよ」
「そこは先にした方がいいと思うの」
「堅実だね」
「普通だと思うの」
なのはは少し眉を下げて、それでもはっきりと言った。
「だから、今はいいかな」
「……そう」
「うん。ごめんね?」
謝られた。
世界を支配する力を拒まれ、宇宙を壊す力を拒まれ、契約による魔法少女化まで丁寧に断られた。
彼は靴紐を結ぶふりをしたまま、数秒だけ沈黙した。
胸の奥に、微妙な熱が残っている。
興奮ではない。
羞恥だった。
これは、思っていたよりもきつい。
相手が悪いのではない。
舞台が悪い。
いや、舞台のせいにするのも違う。
小学生相手に、渡り廊下で魔王ごっこと契約マスコットごっこを連続で行うべきではなかった。
学びである。
「……冗談だよ」
今度は、彼自身の声だった。
なのはがじっと彼を見る。
「やっぱり小尾くんだったの」
「何のことかな」
「今、冗談って言ったの」
「それは言った」
「じゃあ、その前も小尾くんだよね?」
「それとこれとは別問題だ」
「絶対別じゃないの!」
「こっちの話だよ」
「こっちの話って……」
「少し、言ってみたかっただけ」
「言ってみたかったんだ……」
なのはの声に、困惑と、ほんの少しの笑いが混じる。
彼は小さく咳払いをした。
「忘れてくれると助かる」
「にゃはは。うん、分かった。ちょっと変だったけど、冗談ならよかったの」
「変だった、で済ませてくれるならありがたい」
「うん。変だった」
「そこは繰り返さなくてもいい」
なのはは小さく笑った。
警戒は薄れた。
唐突な問いは、奇妙な冗談として処理されたらしい。
それでいい。
むしろ、それで十分だった。
なぜなら、目的はすでに果たされている。
なのは本人にとっては、先ほどのやり取りなど、もう奇妙な冗談の一つでしかないのだろう。
力が欲しいか。
世界を支配する力。
宇宙を滅ぼす力。
契約して魔法少女になること。
どれも本気で受け取るには馬鹿げていて、まともに考え続けるには唐突すぎる。
だから、彼女の意識に深く残っているわけではない。
残っているのはせいぜい、少し変な転校生に付き合わされた困惑と、笑って済ませられる程度の警戒心。
それでいい。
むしろ、その方が自然だった。
必要なのは、言葉そのものを信じさせることではない。
彼女の内側に、ほんの一瞬だけ同じ方向の揺れを作ること。
助ける。
支える。
困っている誰かに手を伸ばす。
そこが入口になる。
彼は立ち上がるために、自然に手を伸ばした。
子供がバランスを取るために、近くの相手へ手を借りる。
それだけの動作。
なのはは、少しだけ迷った。
先ほどの奇妙な問いが尾を引いているのだろう。
だが、すぐに手を差し出した。
「はい」
「ありがとう」
手が触れる。
再接触。
短い接続。
だが、それだけでは足りない。
手から流し込むこともできる。
手首から核へ潜らせることもできる。
けれど、この少女の器は大きすぎる。
深すぎる。
表層から流し込めば、沈むまでにわずかな歪みが出る可能性がある。
ならば、より近い場所から入れるべきだ。
胸の奥。
この少女の内側にある、規格外の器の中心。
そこへ、できるだけ自然に。
できるだけ短く。
できるだけ、事故に見える形で。
彼は立ち上がった。
その瞬間、わざと重心を崩す。
「あ」
「小尾くん!?」
なのはが反射的に身を乗り出した。
助けようとする。
予想通りだった。
彼女は考えるより先に手を伸ばす。
彼はその腕に軽く体重を預けるふりをして、半歩だけ前へよろめいた。
肩が触れる。
制服の布が擦れる。
なのはの手が、彼の腕を支える。
その一瞬、彼の左手がなのはの胸元――正確には、その奥にある核の真上へ触れた。
ぶつかっただけに見える。
倒れないように、咄嗟に手をついたようにしか見えない。
実際、接触はほんの一瞬だった。
制服越しに、胸元の中心をかすめた程度。
肉体に触れるためではない。
彼が狙ったのは、その奥にある器だった。
だが、それで十分だった。
なのは本人にとっては、先ほどのやり取りなど、もう奇妙な冗談の一つでしかないのだろう。
力が欲しいか。
世界を支配する力。
宇宙を滅ぼす力。
契約して魔法少女になること。
どれも本気で受け取るには馬鹿げていて、まともに考え続けるには唐突すぎる。
だから、彼女の意識に深く残っているわけではない。
残っているのはせいぜい、少し変な転校生に付き合わされた困惑と、笑って済ませられる程度の警戒心。
それでいい。
むしろ、その方が自然だった。
必要なのは、言葉そのものを信じさせることではない。
彼女の内側に、ほんの一瞬だけ同じ方向の揺れを作ること。
助ける。
支える。
困っている誰かに手を伸ばす。
そして今、彼女は実際に手を伸ばした。
ふらついた相手を支えようとした。
奇妙な冗談を言ったばかりの相手であっても、目の前で倒れそうになれば反射的に助けようとする。
それが、高町なのはという個体の反応だった。
言葉は残らなくていい。
意味だけが、行動と重なればいい。
その瞬間、器の表面がわずかに開く。
彼はそこへ、改良版セフィラを沈めた。
異物として押し込むのではない。
核の表面に乱暴に刻みつけるのでもない。
彼女自身の魔力の流れに、意味を一つ重ねる。
助けたい。
守りたい。
失いたくない。
そうした感情がいつか強く揺れた時、その奥で目を覚ますように。
祈りのふりをした種。
善悪を問わず、感情に寄生する術式。
天使に似せるための、小さな楔。
善である必要はない。
悪である必要もない。
術式にとって重要なのは、感情の方向ではなく、深さと強度だ。
救いたいという祈りでもいい。
奪いたいという執着でもいい。
守りたいという決意でも、壊したいという憎悪でも構わない。
器が開くほど強く、魂の奥から湧き上がるものなら、それはすべて入口になる。
ただ、高町なのはという個体の場合、その入口は善意の形をしている。
困っている者へ手を伸ばす。
誰かの痛みに反応する。
泣いている者を放っておけない。
ならば、そこを使うのが最も自然だった。
もちろん、別の方法もある。
善意が器を開くなら、絶望もまた器を開くだろう。
大切なものを奪う。
守れなかったという事実を突きつける。
届かなかった手を見せる。
助けたいという願いを、助けられなかったという傷へ反転させる。
高町なのはを壊すための手順なら、いくつか組める。
彼はほんの一瞬だけ、その可能性を考えた。
だが、すぐに保留する。
今はまだ、その段階ではない。
絶望は強い。
だが、強すぎる刺激は不確定要素をはらむものだ。
まずは眠らせる。
日常の中に沈める。
高町なのはという少女が、自分自身の感情で器を開く瞬間を待つ。
その方が、観測としては美しい。
それは、胸元から奥へ沈む。
皮膚ではなく。
肉ではなく。
骨でもなく。
もっと深い場所。
鼓動のさらに内側。
魔力の流れが静かに巡る、器の中心。
本人ですら普段は意識しない、魂の重心に近い場所。
そこに沈み、存在を主張しないまま眠る。
起動はしない。
今は、まだ。
平穏な日常では意味がない。
通常の魔力循環でも足りない。
必要なのは、激しい感情の起伏。
恐怖。
怒り。
悲しみ。
決意。
守りたいという衝動。
失いたくないという叫び。
誰かのために力を求める、その一瞬。
心が大きく揺れ、器が内側から開く瞬間。
その時まで、セフィラは眠る。
高町なのはの胸の奥で。
彼女自身に気づかれないまま。
「だ、大丈夫?」
「うん。ありがとう、高町さん」
彼はすぐに体勢を戻した。
触れていた手も、自然に離す。
長く残せば不自然になる。
短すぎれば事故に見える。
必要なのは、その境界だった。
「ごめん。少し立ちくらみがしたみたいだ」
「本当に大丈夫? 保健室、行く?」
「大丈夫。靴紐との戦いに集中しすぎた」
「靴紐って、そんなに強い相手なの?」
「なかなか手強かった」
なのはは心配そうにしながらも、少しだけ笑った。
痛みはない。
違和感もない。
拒絶反応もない。
改良版セフィラは、問題なく沈んだ。
第一段階は通過。
ただし、彼はまだ成功とは呼ばない。
成功とは、観測の結果につける言葉だ。
今はまだ、仕込みが終わっただけである。
「でも、さっきの声も、今ふらついたのも、本当にびっくりしたの」
「忘れてくれると助かる」
「にゃはは。小尾くんって、やっぱり変わってるね」
「個性として処理してほしい」
「うん、分かった。個性だね」
なのはは素直に頷いた。
疑っていない。
少し引きはしたが、拒絶するほどではない。
距離を置くほどでもない。
奇妙な冗談を言う、少し変わった転校生。
靴紐に負けて、少しふらついた男の子。
彼女の中で、彼はそう処理された。
それでいい。
魔王ごっこと契約ごっこの代償としては、悪くない落としどころだった。
放課後、彼は児童養護施設へと戻った。
表向きには、転校初日を終えた子供として。
少し疲れたように見せ、職員に学校の様子を聞かれ、無難に答える。
クラスは明るかった。
担任は親切だった。
隣の席の子が学校を案内してくれた。
少し変な冗談を言ってしまったが、問題にはなっていない。
もちろん、最後の一つは言わない。
職員は安心し、それ以上深く聞かない。
学校に馴染めそうなら、それでいい。
彼らにとって必要なのは、子供が問題なく一日を終えたという事実だけだ。
彼は部屋に戻り、必要な時間を置いてから地下へ降りた。
工房は静かだった。
地上の生活音は届かない。
子供たちの声も、職員の足音も、食器の触れ合う音も、ここまでは落ちてこない。
あるのは、冷えた空気と、薬品の匂いと、数年分の記録だけだった。
失敗。
爆散。
限界。
調整。
改良。
その積み重ねの先に、今日の結果が加わる。
彼は記録を開き、新しい項目を作った。
観測対象。
高町なのは。
年齢。
同学年相当。
魔力核。
規格外。
器。
これまで確認した検体とは比較不能。
魔力量。
同年代の範囲を大幅に逸脱。
精神的耐性。
未確認。
極限状態での挙動。
未確認。
改良版セフィラ。
定着、第一段階通過。
起動条件。
激しい感情の起伏。
誘導語句。
力。
守護。
契約。
備考。
主計画対象。
彼は、最後の一文を見つめた。
主計画対象。
悪くない言葉だ。
いや、かなりいい。
ただの本命候補では弱い。
候補という言葉には、まだ迷いが残る。
比較対象があり、別案があり、いつでも差し替えられるような響きがある。
だが、これは違う。
高町なのはは、すでに候補という段階を超えていた。
母親は届かなかった。
児童養護施設の魔力核持ちの子供たちは、通常個体の限界を示した。
ならば次は、規格外を使う。
通常個体を前提とした実験は、もはや補助線でしかない。
記録用紙の端に、彼は小さく追記した。
Main Plan.
英語で書く必要はない。
ないが、こういうものは雰囲気も重要である。
研究者としては不要な装飾。
魔術師としても、別に必須ではない。
けれど、男の子としては少し大事だった。
主計画。
メインプラン。
高町なのは。
あの少女は、まだ何も知らない。
自分の内側に何を仕込まれたのか。
それがいつ目を覚ますのか。
目を覚ました時、自分の器が何を受け止めさせられるのか。
何も知らないまま、明日も彼に笑いかけるのだろう。
隣の席の転校生として。
少し変わったクラスメイトとして。
靴紐に苦戦し、廊下の声を自分ではないと言い張り、魔王ごっこと契約ごっこをしていた変な男の子として。
それでいい。
急ぐ必要はない。
小学生は、小学校に通う。
転校生は、隣の席の少女に笑いかける。
少女は、それを自然に受け入れる。
日常とは、そういうものだ。
そして、その日常の内側に、爆弾は仕込まれた。
彼は記録を保存し、椅子の背にもたれた。
改良版セフィラは、高町なのはの胸の奥で静かに眠っている。
起動条件は、激しい感情の起伏。
それがいつ訪れるのかは分からない。
だが、訪れないとも限らない。
人間の心は、存外、簡単に揺れる。
まして、あの少女は手を伸ばす。
困っている者を見れば、助けようとする。
泣いている者を見れば、放っておけない。
届かない場所へも、届かせようとする。
ならば、いつか必ず器は開く。
その時、術式は天使へ届くのか。
彼は薄く笑った。
「クックック……フハハハハッ――げほっ、げほっ」
咳き込み、少しだけ涙目になってから、彼は何事もなかったように息を整える。
「……さて」
誰もいない地下工房で、彼は小さく呟く。
「君は、どこまで神の領域に近づけるかな」
記録画面の片隅で、追記された文字だけが静かに残っていた。
Main Plan.
主計画は、今日、始まった。