「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
言峰パイセンは僕の頼みに頷くと、窓だった場所へ歩いていった。
夜風に黒衣の裾が揺れ、その向こうで、金色の光が立体駐車場の屋上を横切っている。なのはがアサシンを外へ追い出してから、まだ大して時間は経っていない。それなのにコンクリートの柵には新しい傷が増え続けていて、屋上の端から舞い上がった粉塵が、下の街灯を薄く霞ませていた。
パイセンは残った窓枠へ片手を置き、二人の動きを眺めた。どちらが味方かを説明する必要はなさそうだったし、向こうへ渡る方法についても、僕に相談する気はないらしい。大柄な身体が外へ傾いたところで、ようやく肝心なものを渡していないことに気づく。
「パイセン、これ!」
上着から抜いた六本の柄を、背中へ向けて放った。ちゃんと手渡せばよかったと思った時には、相手はもう窓の外へ出ていたけれど、こちらを振り返りもしない右手が、ばらけて飛んだ黒鍵を拾っていく。
最初の二本を指の間へ収め、手首を返す途中でもう一本を左へ渡す。残る柄も身体を捻る動きに合わせて掬い取られ、落下する黒衣が窓の下へ消える頃には、左右の指に三本ずつ収まっていた。僕なら何本か取り落とす。というか、そんな受け取り方を要求される投げ方からして、普通はしない。
「相変わらず器用っすね……」
縁へ近づいて覗き込むと、下方で細長い刀身が一斉に伸びた。壁へ向けて身体を横倒しにしたパイセンが、窓と窓の間に足を置いている。靴底が触れたのは一瞬で、その次には、床を伝って僕の足裏にまで鈍い振動が届いた。
外壁の一角がへこみ、そこを中心に亀裂が走る。砕けた表面材が夜の底へ落ちていく一方、蹴った本人は反対向きに跳んでいた。黒衣が大きく膨らみ、立体駐車場へ向かって街灯の上を越えていく。飛行術式なんて丁寧なものは見当たらない。あの人は、ホテルを踏み台にしただけだ。
感心して見送っていたら、頭の上で嫌な音がした。残っていた窓枠の角が傾き、粉を撒きながら足元へ落ちてくる。慌てて一歩退いたおかげで直撃は避けられたものの、さっきまでより夜景がよく見えるようになってしまった。
「パイセン、ホテル壊してる場合じゃないっすよ」
届くはずのない文句を言ってから、僕は背後を振り返った。壁を抜かれ、天井まで削られた部屋の床には、アサシンが来る前から僕の描いた召喚陣がある。破壊の規模では負けているけれど、弁償の話になった時に無関係な顔をできる立場でもなかった。
せめて黒鍵くらいは、無事に返ってきてほしい。教会で買ったばかりなのだ。
◇
高町なのはが足を引くと、それまで靴先のあった場所を黒髪が穿った。
床に開いた穴から細かい石片が跳ね、普段着の裾を叩く。なのははそちらへ目を落とさず、長い柄を握り直して〈封解主〉ミカエルを横へ向けた。鍵の先で金色の境界が開き、左右から迫っていた髪の束を呑み込んでいく。出口を駐車場の外周へつないだため、なのはを挟み込むはずだった刃は、離れた柵へ内側から突き刺さった。
相手の身体を止められれば、それで済む。けれど、そのために鍵を届かせようとすると、女は必ず間合いを外した。髪を引き戻して退く時もあれば、別の束を足場へ打ち込み、身体を横へ振って抜けていく時もある。ひとつの攻撃を逸らせたからといって、次に近づけるわけではなかった。
何度か向き合ううちに、なのはにも女の狙いが分かってきた。向こうはなのはを倒すことよりも、その背後へ回ることを優先している。攻撃を受け流すたび、黒衣の肩越しに見えるホテルの位置が変わっていた。なのはの注意を髪へ引きつけて、その隙に小尾のところへ戻るつもりなのだ。
ここで押し留めるだけでは、いつまでも終わらない。なのはがホテル側への進路を塞ぎ直すと、女は踏み出しかけた足を止め、急に視線を上げた。
その反応につられて、なのはも夜空を見る。建物の明かりを背にした黒い影が、こちらへ向かって落ちてきていた。大柄な男で、身につけているのは神父服らしい。両手から広がる細長い刀身には見覚えがあったが、顔までは知らなかった。
小尾の召喚が成功したのだろうか。
そう考えるより早く、女の黒髪が空中へ跳ね上がった。着地する前に刺し貫くつもりで、何本もの束が男の進路を塞いでいく。なのはがミカエルを向けかけると、その先で一本の黒鍵が投じられた。
刃は髪の束を横から打ち、隣の束との間を押し広げた。生まれた隙間へ男が肩から身体を通し、なお追いすがる髪を手元の刀身で払う。完全に避けきったわけではなく、黒衣の裾が裂けたが、本人はそれを気にする様子も見せず、女のすぐ前へ降り立った。
着地の音が、足元からなのはの身体へ伝わった。床に亀裂が広がるほどの衝撃を受けながら、男の上体はほとんど揺れていない。沈んだ腰が前へ進み、女が髪を引き戻すより先に、その内側へ踏み込んでいた。
男の左手の刃が髪を外へ押し分ける。女は正面から来る刃を避けて身を捻ったが、その動きを追ったのは右手の黒鍵ではなく、黒衣に包まれた肩だった。踏み込んだ脚と腰が一緒に動き、間に差し入れられた女の腕へ、大柄な身体が短くぶつかる。
受け止めた腕が胸元へ押し戻された。女の足が床を離れ、背後へ流れかけた身体を、床に刺した髪が支える。黒鍵の切っ先は、その立て直しを待ってくれなかった。胸を狙う刃を女が逸らすと、男は伸ばした腕を畳んで、今度は肘を滑り込ませている。
女は顎を引きながら後退した。肘の直撃こそ免れたものの、逃げた先まで男の足が入り、次の掌打を受けるために両腕を上げざるを得なくなる。短い打ち込みに押されて靴底が床を擦り、背中へ回された髪の束ごと外周のフェンスにぶつかった。金網が大きく膨らみ、支柱の根元から錆とコンクリートの欠片がこぼれ落ちた。
なのはは、曲がった支柱から男の足元へ視線を戻した。
今の入り方を知っている。
小尾も、相手の攻撃を大きく避けてから殴り返すことは少なかった。刃や拳が通る位置を少しだけ外し、そのまま相手の近くへ入ってしまう。遠くから見れば身体をぶつけているだけのようなのに、ぶつかられた側がひどく重いものを受けたように崩れるところまで、よく似ていた。
ただ、小尾の動きなら、なのはにも切れ目が見えた。攻撃を捌いてから踏み込み、足が止まったところで力を伝える。そのひとつひとつが、目の前の男では繋がっている。避けたと思った時にはもう肩が入り、防がれた腕が戻る途中で、別の打撃が始まっていた。
同じ技を使っているから似ているのだとしても、二人の間にある違いまで偶然には思えなかった。なのはは男へ何か尋ねたくなったが、フェンスの向こうで動いた黒髪が、その余裕を奪った。
女が屋上の縁を蹴り、道路を挟んだビルへ飛び出した。向かいの外壁へ伸ばした髪を引き絞り、窓の並ぶ壁面に沿って身体を持ち上げていく。そのままホテル側へ回り込ませるわけにはいかず、なのはは移動先の屋上へ鍵を向けた。
「そちらを頼む」
低い声に振り向くと、神父服の男は既に屋上の端へ走っていた。なのはが返事をする前に柵を越え、女よりも低い位置を目指して跳ぶ。届くのかと思ったが、向こうの外壁に靴底を当てた瞬間、窓際のコンクリートが砕けた。男の身体が斜め上へ跳ね返り、窓へ取りつこうとしていた女の横へ迫る。
女は髪で身を引いた。黒鍵が胸元を掠め、逃れた先にあったガラスが内側へ砕け散る。二人の姿がその奥へ消えたのを見届け、なのはも金色の境界を開いた。屋上を塞ぐはずだった出口を、割れた窓から見える床へつなぎ直し、一歩で道路の向こうへ渡る。
オフィスの中は薄暗く、非常灯の緑だけが柱の角を照らしていた。留め具から外れたブラインドが窓際で揺れ、机の上の書類が夜風に攫われていく。床へ落ちた紙の間を、黒髪が音もなく走っていた。
男の足首へ向かった一本が、投じられた黒鍵に貫かれ、床へ縫い止められた。相手がそれを切り離すまでの間に、男は机の列へ踏み込んでいる。手元に残った四本の刀身が照明を拾い、横から回された別の髪を受けた。
そのまま斬り合うのかと思ったなのはの前で、女が自ら距離を詰めた。
男の手首へ黒髪が巻きつき、黒鍵の向きが外へずらされる。先ほどまでは離れようとしていた女が、肩の触れそうな場所まで踏み込んだことで、なのはの背筋が冷えた。黒衣の背後が不自然に持ち上がり、二本の腕とは別のものが、男の胸へ伸びていたからだ。
ホテルで、小尾に向けられた腕だった。
「苦悶を溢せ――『妄想心音』!」
何をされるか、その理屈までなのはが知っているわけではない。それでも、小尾の胸へあの指が近づいた時の嫌な感覚は残っていた。神父服の男が捉えられた手首を返すのとほとんど同時に、なのはは鍵を突き出した。
「開いて!」
胸元へ届くはずの指先が、金色の裂け目へ入った。出口は男の肩より外側に開かれ、伸びた腕が誰もいない空間を掴む。指の曲がるところまでは見えたが、その先をなのはが追うより早く、黒鍵の光が重なった。
男は逸らされた異形の腕を、手首の近くから斬っていた。巻きついた髪をもう片方の刃で断ち、自由になった腕を返す動きで、肘に近い位置へ二撃目を入れる。切断された先が勢いを残して飛び、床へ散るより先に、女が自分から後ろへ跳んだ。
その退き際へ、男の靴底が入り込んだ。
女が胸を守るために上げた前腕を、黒鍵の柄が外へ押す。男は肩をぶつけられるほど近くにいながら、腕だけで無理に殴ろうとはしなかった。短く踏み込んだ脚が床材を割り、腰の回転を受けた肘が、守りの薄くなった脇腹へ沈む。
女の上体が傾いた。髪の束が間に滑り込んだおかげで深くは入らなかったが、その防御へ動いた腕を、男の掌が追っていた。受ける位置を変えられないまま押し込まれ、黒衣が後方へ弾かれる。
会議室を隔てていたガラスが砕け、長机が脚を引きずってずれた。女はそこへ背中から叩きつけられる前に髪を天井へ刺し、身体を振って衝撃を逃がす。着地した靴が長机の上を滑り、そのまま反対側の窓を蹴り抜いた。
追おうとする男の横を、なのはが駆け抜けた。
「外に逃げるよ!」
「見えている」
返事には焦りがなかった。男は窓へ向かいながら一度だけなのはの鍵を見て、僅かに顎を引いた。
「先ほどの助力、感謝する」
なのはが頷いた時には、相手はもう窓際にいた。助けられた驚きより、助けを次の攻撃へ使う判断の方が早いのだろう。何ができるかを細かく聞くこともせず、目の前で起きたことだけでこちらの動きを受け入れている。その落ち着きが頼もしい一方、なのはには、やはりどこか小尾と似たものに見えた。
ただし小尾だったら、お礼のあとに余計な一言がつく。
そんなことを考えた自分に気づいて、なのはは唇を引き結んだ。今は比べている場合ではない。小さな入口を横に開いてホテルの部屋を確かめると、小尾はまだ窓の近くに立っていた。目が合うなり何か言おうとしたが、なのはは「そこにいてね」とだけ伝えて接続を閉じた。
この場を長引かせて、小尾から離れたままになるのも避けたかった。
外へ目を戻すと、女は向かいのビルへ渡りきらず、建物の間に留まっていた。左右の外壁へ突き刺した髪が、その身体を吊っている。追って飛び出した男には次の足場がなく、窓際に残ったなのはからも、ちょうど道路の上へ出たところだった。
そこで、女の黒髪が膨れ上がった。
「夜影を巡れ――『狂想閃影』!」
束の内側からさらに髪が広がり、男の周囲を囲んでいく。正面の刃を払えば、左右から閉じる髪が身体を捉える。落下して逃れようにも、その下には既に別の束が回されていた。窓へ戻る軌道まで塞がれ、男の黒衣だけが街灯の白い光の中に取り残された。
なのはは攻撃全体を見ようとするのをやめ、男の身体が落ちる先へ鍵を向けた。髪を一本ずつ逸らす必要はない。囲まれた場所から出る道があればいい。
金色の境界が男の斜め下に開いた。向こう側には、なのはがいる窓から見える別棟の屋上が映っている。男は身体を捻って腕を差し入れ、その肩を追った黒髪より一瞬早く、裂け目の向こうへ抜けた。
屋上を叩く靴音が、開いた道を通してこちらまで響いた。
なのはは男の通過を見届けて接続を閉じ、追っていた刃を空振りさせた。女の顔が新しい屋上へ向く。しかし、その時には男の手から黒鍵が離れていた。狙いは女の身体ではなく、それを吊り上げている髪の束だった。
切られた一本が弛み、女の姿勢が傾く。別の髪で立て直そうとしたところへ、屋上から跳んだ男が迫った。さっきまで空中で囲まれていたはずの相手が、今度は十分に足場を蹴った勢いを乗せてくる。女は正面から受けず、残る支点を手放して下方へ逃れた。
男の黒鍵が髪を掠める。斬り残された束が外壁を削り、そのすぐ脇へ男の足がついた。靴底の下で仕上げ材が剥がれ、骨組みに近い硬い部分を蹴った身体が、女の落ちる先へ回り込む。
なのはは窓から二人を追いながら、ようやく最初の跳躍も理解した。あの人にとっては、床と壁の違いがほとんどない。そこへ足をつける向きに身体を返しさえすれば、落下する途中でさえ、次の一歩に変えてしまえるのだ。
女も、それが分かったのだろう。外壁の近くへ降りるのをやめ、髪で身体を大きく振って路地の反対へ移った。男が足場を得るところから離れ、自分だけが宙に留まれる距離を選んでいる。
なのははその先の屋上へ渡った。女の横を取ろうと鍵を向けると、すぐに数本の髪がこちらへ飛ぶ。身を引いて入口の位置を変える間に、女はまた別の壁へ支点を移していた。追う二人のうち、道を作っている方を放っておくつもりはないらしい。
頬の近くを通った髪が背後の設備を切り、金属板が耳障りな音を立てた。なのははそれに気を取られず、屋上の縁へ近づいて神父服を探した。男はビル側面の狭い出っ張りを蹴ったところで、次に届く壁までには少し距離がある。
「足元、つなぐよ!」
なのはは男の落下先と、自分のいる屋上の床をつないだ。開いた境界の奥へ男が片足を入れ、こちら側のコンクリートを踏む。なのはの靴の下で床が震え、押し返された黒衣が、宙にいる女へ向かって進路を変えた。
今度は女の方が、距離を読み違えた。
身体を支える髪を引くより早く男が近づき、手元に残る三本の黒鍵が、その間を払った。女は腕を上げて刃の向きを逸らし、男の胸へ膝を突き込む。男の上体が横へずれたが、黒衣の脇が裂け、布の下に赤い線が走った。
なのはは思わず鍵を上げた。けれど男は退かなかった。女の腕へ添えた手を離さず、その身体の回転に合わせて外側へ移る。二人が近くの壁へ寄ったところで、男の靴が壁面を捉えた。
足場を得た身体が、女を壁へ押し込む。
短い肘を女が受け、黒髪が間に入り込んだ。黒鍵の刃がその束を割り、開いた位置へ肩が押しつけられる。背後の壁に亀裂が広がったのは、男の身体が一歩分だけ前へ出た時だった。女はその衝撃を受けきらず、自分から壁を蹴って横へ抜ける。崩れた仕上げ材が二人の間へ散り、なのはは落ちていく破片ごと見失いかけた。
すぐに次の屋上へ出口を開いたが、そこへ女の姿が現れた時には、男も非常階段の踊り場へ取りついていた。鋼板がたわみ、手すりが留め具から外れる。男は壊れかけた足場を離れ、女が屋上へ上がるのとほとんど同時に、その縁へ片手を掛けた。
なのはが境界を越えて戻ると、女は屋上中央を避けて走っていた。神父服の男と正面から向き合わず、なのはにも近づかない。短くなった髪の束を引き戻しながら、建物の向こうへ渡るための支点を探している。
ホテルはもう、女の背後にはなかった。
先ほどまでは、離れても必ず小尾のところへ戻ろうとしていた。それが今は、二人の間から抜けることだけに動きが揃っている。なのはが進路を塞ごうとミカエルを持ち上げると、男の声が止めた。
「追う必要はない」
「でも、また小尾くんのところへ来るかもしれない」
「ならば、ここで追い回すより、彼の傍らに戻るべきだろう」
男は女から目を離さずに答えた。その右手の黒鍵は下がっておらず、こちらの会話を攻撃の隙にさせる気もないらしい。女が足を運ぶのに合わせて半歩だけ向きを変え、ホテル側へ回れる角度を塞いでいる。
「君も、あれを仕留めるために出てきたわけではあるまい」
なのはは返事をしかけて、口を閉じた。
逃したくない気持ちばかりが先に立っていた。小尾を殺そうとした相手なのだから、動けないようにしておく方が安心できる。けれど、そのために小尾を一人にして追い続ければ、何を守りに出てきたのか分からなくなる。
なのはが鍵の先を少し下げた時、女の足元から髪が走った。退くための動きに紛れ、屋上の床を這って男の脚へ向かっている。男は四本目の黒鍵を投じ、それを足元へ届く前に縫い止めた。
女は髪を切り離し、そのまま屋上の縁を越えた。向かいの建物へ伸びた別の束が張り、黒衣の姿が壁の陰へ振られていく。次の屋上に一度だけ影が見えたが、それもすぐに消えた。なのははしばらくその方向へ鍵を向けたまま、戻ってくる気配がないことを確かめていた。
急に、通りを走る車の音が聞こえるようになった。
戦っている間も鳴っていたはずなのに、耳へ入る余裕がなかったらしい。なのはが息を吐くと、男も両手の黒鍵から刃を消した。最後まで手元に残った二本の柄を黒衣へ収める仕草は、あれだけの攻防の後とは思えないほど静かだった。
「あの。小尾くんが召喚した人、だよね?」
「そうだ。彼に頼まれて来た」
男が初めて、きちんとなのはへ顔を向けた。戦っている間は大柄な身体と刃ばかりを追っていたが、近くで見ると、こちらを見下ろす目には奇妙な落ち着きがあった。傷ついた脇腹へ手を当てることさえせず、なのはが何を聞くのか待っている。
名前を尋ねようとして、なのはは別の疑問を先に口にした。
「前から、小尾くんを知ってるの?」
「本人が、随分と親しげだったようだが」
「それは……小尾くん、初めて会う人にもあんな感じだから」
男の口元が少し動いた。笑ったのかどうか、なのはには判断できなかったが、否定する気がないことだけは分かった。
「なるほど。それで?」
「戦い方が似てたの。小尾くんが、あなたを見て覚えたのかなって」
言葉にしてみると、戦闘中に感じていた引っ掛かりがはっきりした。小尾に似た人が現れたというより、小尾が真似していた動きの元を見たのだと思う。今まで小尾だけの癖だと思っていた足の運びまで、目の前の男には自然に馴染んでいた。
「私が教えた覚えはないがね」
「でも、見たことはあるんだよね。あなたが戦ってるところ」
「その話なら、彼を交えてするのがよかろう」
穏やかな返事だったが、男の視線は既にホテルへ向いていた。ここで答えを待っている理由がないのは、なのはにも分かる。疑問を一度飲み込み、ミカエルを持ち上げると、半壊した部屋へ戻る道を開いた。
◇
最初のうちは、僕もちゃんと見ていた。
立体駐車場の屋上なら、この部屋からでも二人の位置は分かる。細かな攻防までは追えなくても、なのはが金色の道を開き、パイセンがそこへ飛び込んでいくところは見えた。応援が届く距離ではなかったけれど、黙って眺めているのも何なので、何度か声くらいは掛けた。
困ったのは、戦いがビルの向こうへ移ってからだ。
割れるガラスの音はするし、少し遅れて外壁から粉塵も上がる。けれど肝心の三人は見えない。なのはが一度こっちを確かめに来たので、今どんな感じか聞こうとしたら、そこにいてと言われて終わってしまった。向こうは忙しいらしい。
僕だって、追いかけようと思えば走れる。階段を下りて道路へ出て、あのビルまで行くくらいなら大した距離でもない。ただ、着いた頃に全員が隣の建物へ移っていたら、それで終わりだ。僕には空を飛ぶ手段も、なのはみたいに好きな場所へ道を開く力もない。
そのうえ、戻った二人が僕を探すことになる。なのはにそこにいろと言われた直後に外へ出るのは、さすがに怒られそうだった。
というわけで、待つことにした。
窓際は風が強いうえ、パイセンが蹴った辺りから時々破片が落ちてくる。あまり長居をしたい場所ではなかったので、部屋の奥へ戻り、比較的無事な場所を探した。隣室との間には大きな穴が開き、机は使い道に困る角度で割れていたが、ベッドだけは原形を留めている。
布団の端に乗った瓦礫をどけ、シーツの粉を払って腰を下ろすと、脚が少し軋んだ。試しに体重を掛け直してみても、それ以上は傾かない。頭上の天井もここなら残っていて、少なくとも窓の下に立っているよりは落ち着けそうだった。
「優秀だなあ」
僕は枕へ頭を預けた。天井の傷を眺めていると、ようやく肩から力が抜けていく。
今日は狙撃されたし、知らない連中に追いかけられたし、教会へ相談にも行った。黒鍵と黒衣を買えたところまでは気分がよかったのに、ホテルへ帰って召喚を始めたら、今度はアサシンである。しかも、来てくれたサーヴァントは言峰綺礼だった。
前世で一緒に仕事をしていた相手が、僕のサーヴァントになる。そんなことがあるのかと考えかけて、自分が別の身体で生き直している時点で、今さらでもあると思い直した。気になることはいくらでもあったが、本人がいないところで想像していても答えは出ない。
遠くで低い音がしたので身体を起こすと、建物の上に薄い粉塵が浮かんでいた。あの辺りにいるらしい。しかし、それ以上は分からなかった。
「がんばれー」
もう一度横になり、破れた壁紙へ目を戻す。僕の応援が必要な二人でもないし、かといって応援以外にできることもない。少し目を閉じていただけのつもりだったが、部屋の中へ金色の光が差し込んだ時には、思ったより身体が重くなっていた。
「あ、おかえり」
片手を上げると、裂け目を越えてきたなのはが立ち止まった。普段着の袖には白い粉がついていて、髪も少し乱れている。大きな怪我は見当たらないので安心したが、僕を見る目は、どういうわけか戦闘帰りにしては険しかった。
後ろからパイセンも入ってきた。黒衣の脇が裂けているのに気づいて、そちらへ目を向ける。本人は気にせず部屋を見回しており、なのはも慌ててはいない。少なくとも、今すぐ手当てで大騒ぎする状態ではなさそうだった。
「小尾くん、寝てたの?」
「待ってたんだよ。言われた通り」
「ベッドに入って?」
「座ってても横になってても、待つのは同じかなって」
なのはは何か言いかけて、いったん息を吐いた。手にしたミカエルが光へほどけ、狭い部屋に持ち込まれた大きな鍵の輪郭が消えていく。それから改めて僕を見たので、どうやら話を終わらせてくれるわけではないらしい。
「さっきまで、あの人に殺されそうになってたんだよ?」
「だから、二人が追い払ってくれるのを待ってた」
嘘ではない。途中で眠くなったのも本当だけれど、戻ってくると信じていなければ横にはならない。そう説明すれば納得してもらえるかと思ったのに、なのははますます言いたいことが増えたような顔をした。
助けを求めてパイセンを見ると、あの人はベッドの足元へ視線を落としていた。
「居場所を変えなかったのは結構だ。こちらも探す手間が省けた」
「ですよね。合理的な判断っすよ」
「もっとも、それで彼女が納得するかは別の話だが」
こちらへ向いた目に、ほんの少し笑みがあった。助け舟が出たと思って乗りかけたら、なのはの前へ押し戻されたらしい。昔からこういうところがある人だった。
僕が仕方なく起き上がると、なのはは隣の男を見てから、こちらへ向き直った。
「それで、小尾くん。この人のこと、ちゃんと紹介して」
「ああ。言峰綺礼。教会で話に出たでしょ」
「言峰……」
なのはの視線がパイセンの顔へ戻った。ハンザとの会話には名前だけが出てきたのだから、今になって顔と結びついたのだろう。僕の知っている先輩だと言う前に、本人が落ち着いた声で続けた。
「彼の召喚に応じたサーヴァントだ。ひとまず、その名で呼んでもらって構わない」
「高町なのはです。さっきは、ありがとうございました」
「礼を言うならお互い様だろう。君が道を開いてくれたおかげで、随分と動きやすかった」
なのはが少しだけ表情を緩めた。そのまま二人で普通に挨拶を済ませそうだったので、僕は裂けた黒衣の脇を指して聞いた。
「パイセン、その傷は大丈夫なんすか」
「動くのに支障はない。それより、君はいつまでその呼び方を続けるつもりかね」
「もう何回も呼んじゃったし、今さら戻すのも変かなって」
ハンザには、本人の前でそんな呼び方はしないと言った気がする。あの時は本当にそのつもりだったのだ。ただ、いきなり目の前へ出てこられると、頭の中で使っていた呼び方がそのまま出てしまう。最初の一回を取り消せない以上、あとは慣れてもらうしかなかった。
パイセンは返事をせず、こちらをしばらく眺めていた。やめろと言われるより、何を考えているのか分からない沈黙の方が気になる。僕が目を逸らした先で、なのはが腕を組んだ。
「やっぱり、前から知り合いなんだね」
「昔、仕事で何度かね」
「じゃあ、小尾くんの戦い方が似てるのも、その時に覚えたから?」
思ったより具体的なところを突かれた。
なのはは僕とパイセンを交互に見ている。名前を知る前から気づいていたらしく、驚いた顔ではなかった。あの人の八極拳をまともに見る機会があれば、僕の動きに混じっているものが分かるのも不思議ではない。
「うん。参考にした」
「教わったんじゃないの?」
「教わったってほどじゃないよ。一緒に仕事をすると、近くで見る機会はあるから」
どこの仕事で、いつの話かまでは付け足さなかった。前世について説明し始めれば、この部屋が壊れた理由より長くなる。パイセンへ目を向けると、こちらの言葉を訂正することもなく聞いていた。
「見ただけで、あんなふうにできるものなの?」
「できてるかどうかは、見た人に聞いてもらった方が」
なのはの視線が移り、パイセンはそこでようやく口を開いた。
「本人が参考にしたと言っているのだ。君には、それを見分けられる程度には残っていたのだろう」
「ちゃんと褒めてもらっていいっすか」
「腕前を見せるより先に評価を求めるのか。随分と気が早いな」
確かに、召喚してから僕はほとんど何もしていない。六本投げて渡したところは見てもらえたけれど、あれは受け取った側の手柄だった。
なのはは少し考えてから、僕へ向き直った。
「似てたよ。でも、言峰さんの方が、動きが繋がってた」
「そこは仕方ない。年季が違うから」
「小尾くんにも、分からないことあるんだね」
「いっぱいあるよ。今日だけでも結構困ってるでしょ」
僕は床の召喚陣へ目をやった。なのはもそれを見て、何とも言えない顔になった。教会へ聞きに行くことになった経緯を思い出したのかもしれない。話が僕の過去から逸れたのはありがたかったので、そのまま戦闘の結果を尋ねることにした。
「で、アサシンは逃げた?」
「うん。途中までは、小尾くんのところへ戻ろうとしてたんだけど、最後は私たちから離れる方へ逃げていった」
なのはは窓の向こうを見た。戻ってこないか気にしているらしい。パイセンもそちらへ目を向けたが、もう追う気はなさそうだった。
「君への攻撃を中断させるという目的は果たした。無理に追って、ここへ戻る機会を与えることもあるまい」
「なるほど。助かりました」
そこは素直に礼を言った。僕の胸へ手を伸ばしてきた時点で十分困る相手だったし、なのは一人に押しつけたままにもしたくなかった。二人とも戻ったなら、ひとまず頼んだ結果としては申し分ない。
ただ、パイセンが黒衣から取り出した物を見て、僕は少し首を傾げた。
差し出された黒鍵の柄は、二本だった。
「……残りは?」
「四本は向こうだ。投げたものを回収する暇はなかったのでな」
「ああ、そっすよね」
窓から見ていた時にも、何本か飛んでいくのは見えた。だから分かっていたはずなのに、六本揃えて買ったものが二本になって戻ると、急に買い物としての損失が実感される。支給品を使っていた頃は、こういう気分にならなかった。
受け取った柄には傷がついていたが、使えなくなってはいない。指の間へ収めて確かめていると、なのはが僕の手元を覗き込んだ。
「取りに行こうとか、今は言わないでね」
「言ってないじゃん」
「言いそうだったから」
信用がない。拾いに行くにしても、アサシンがどこかにいる状態で瓦礫の中を探す趣味はないのだけれど、そこまで説明すると、あとで行く気はあるんだねと言われそうだった。黙ってしまっておくと、パイセンが僅かに目を細めた。
「必要な道具は、いずれ補充すればよい」
「教会でまた買うんすかね。もう教会側に経費で落としてもらえるように頼むか?」
「自分の戦闘で使った武器の代金を、監督役へ請求するつもりか」
「ダメっすか」
「申し出ること自体は止めんよ」
引き受けてくれるとは一言も言わなかった。ハンザに追い返される僕が見たいだけではないかと思ったけれど、確かめても面白がられそうなのでやめた。
その横で、なのはが部屋を見回した。戦闘が終わって落ち着いてくると、改めて被害が気になるらしい。割れた机へ近づき、持ち上げかけた手を止める。下の脚まで曲がっているので、位置を戻しても机としては使えなかった。
「小尾くん。今夜、どうするの?」
「どうするって、泊まるんじゃないの」
なのはが振り返り、何も言わずに窓の方を示した。僕もつられて見る。外がよく見えるのはさっきから分かっていたが、言われてみれば、向こうからもこちらがよく見えるということになる。
「ベッドは使えたよ」
「そういう問題じゃないよ。ここ、もう部屋になってないでしょ」
僕が寝ていた場所まで戻ってきたなのはは、シーツの端を指でつまんだ。払ったつもりの白い粉がまだ残っていて、軽く持ち上げただけで床へ落ちる。こちらへ向けられた目を見て、これを寝具として推薦し続けるのは難しいと悟った。
「じゃあ、フロントに言って部屋を替えてもらう?」
「替えてもらう前に、これを説明しないと」
それはそうだった。僕が窓へ目をやると、パイセンも崩れた外壁を眺めている。なのはは知らないかもしれないが、穴がここまで広がったことについては、あの人にも少し責任があった。
「パイセンも共犯っすよね。そこ、蹴ったし」
「その部分については否定せん」
思ったよりあっさり認められた。ならば説明も半分くらい引き受けてもらえるだろうか、と期待したところで、パイセンの視線が床へ落ちた。
「では、こちらの線については君が説明するのかね」
召喚陣だった。
アサシンのせいにするには、あまりにも儀式らしい形をしている。しかも、床を削られた場所とは別に、僕が最初に間違えて塗り潰した線まで残っていた。なのはもそこを見たので、黙って絨毯を戻すという手段は今の時点で潰えた。
「……これが聖杯戦争ってことで」
「英霊を召喚するたびに、宿の主人へそう説明して回るわけか」
「それで通るなら助かるんすけど」
パイセンは口元に薄い笑みを浮かべたまま、答えなかった。なのはは呆れたように目を閉じてから、僕の上着を拾い、膝へ載せた。部屋を出る準備をしろということらしい。
受け取った上着にも白い粉がついていた。払おうとしたら、ベッドから新しい埃が上がる。何だかもう面倒になって、僕は少しだけ枕の方へ身体を倒した。
「寝たら、明日には何とかなってません?」
「小尾くん、起きて」
「諦めたまえ。君が眠っても、この部屋は元に戻らん」
なのはが肩を掴み、パイセンがその向こうで落ち着いて言った。仕方なく身体を起こすと、二人とも、それでようやく話が進むという顔をしている。
召喚してから、まだ一時間も経っていないはずだった。僕を起こすことに関してだけは、妙に息が合っていた。