「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
なのはが肩から手を離したところで、僕は膝の上着を抱え、今度こそベッドを降りた。
袖へ腕を通すと、裏地に入り込んでいた石膏の粉が、白く汚れた絨毯へこぼれた。払う先も埃だらけなので、綺麗にしている実感は乏しい。それでもなのはが見ているうちに両肩を払っておいた。さっきまで寝直そうとしていた分、出かけるつもりがあることは示しておきたかった。
窓のあった場所から、夜風が吹き込んでいた。外れかけたカーテンが膨らみ、残った窓枠に擦れては、乾いた音を立てる。隣室との壁には人が通れる穴が開いており、足元には、ここに壁があったことを主張する量の瓦礫が散らばっていた。
宿泊代金は払ってある。それでも居残る気になれないあたり、客室としての機能は、僕が思っていたより壁に依存していたらしい。
「言峰さん。さっきの話の続き、聞いてもいいですか」
ベッドの向こうでは、言峰パイセンが裂けた黒衣の脇を確かめていた。なのはに呼びかけられると、その手を止めて顔を上げる。布の奥は影になっていて傷の具合までは見えなかったが、身体を動かす時にも、痛む場所を庇う様子はなかった。動くのに支障はないという返事は、額面通りに受け取ってよさそうだった。
「君が何を聞きたいかによるな」
「サーヴァントとしては、どういう人なんでしょうか。小尾くんの知っている言峰さんと、今の言峰さんは、同じだと思っていいんですか?」
名前と昔の付き合いについては、もう話してある。なのはが知りたいのは、その先だった。僕が知り合いを呼べたつもりでいても、一緒に戦った彼女にとっては、何ができて、何を任せられる相手なのかが分からない。
僕の方にも、聞きそびれたことは残っていた。天使を呼ぶつもりで始めた召喚からパイセンが出てきて、名乗りにはラスプーチンまで混ざったのだ。再会の勢いで流してしまったが、仕組みとして納得できたわけではなかった。上着の前を合わせながら、僕も返事を待った。
「クラスはアルターエゴ。グレゴリー・ラスプーチンの名をもって召喚される霊基だ。ただし、彼自身の役割は既に終わっている。現在、この器を主導している人格は言峰綺礼のものだ」
「では、お話ししている相手は、言峰さんなんですね」
「そう認識してもらって構わん。もっとも、君の隣にいる男が知る私と、何もかも同じだとまでは保証できないがね」
最後の一言で、パイセンの目がこちらを向いた。召喚直後の会話にも、記憶の噛み合わないところはあった。向こうからすれば、見知らぬ顔と声をした僕が、昔と同じ調子で話しかけてくるのだ。その点については、お互い様というほかない。
「ラスプーチンの役割が終わってるなら、今はパイセンだけが残ってるんすか?」
「人格についてはな。霊基を構成するものは、それだけではない。悪竜アジ・ダハーカ、月の精霊バールーに由来する性質も組み込まれている」
「三人が、言峰さんの中に?」
「三つの人格が居合わせている、という意味ではない。複数の存在の性質を取り込み、一騎のサーヴァントとして成立しているのだ」
なのははパイセンの説明を聞き、顔から裂けた黒衣へと目を移した。実際に隣で戦った彼女には、思い当たることがあるのかもしれない。僕が窓から見ていられたのは、二人が建物の陰へ入るまでだった。知らない戦いぶりを知っている顔で頷くのも変なので、まずは聞いたことだけを整理する。
人間へ人ならぬものの性質を重ねるという発想には、もちろん興味がある。だが、霊基に組み込むのと、生きた人間を足場に接続を作るのとでは、土台から違う。似ているというだけで同じ仕組みに分類すると、たいてい後から計算が合わなくなる。
今は細かいところを保留にして、実用上の理解だけを述べることにした。
「強化パイセンってことっすね」
「……それでいいの、小尾くん?」
「昔より強くて、昔はできなかったことができる。これから頼る側としては、大事なとこでしょ」
なのははまだ言いたそうだったが、パイセンの方は、訂正するほどのことでもないと思ったらしい。口元をわずかに緩めた。
「実用上は、それでよかろう」
認めてもらえたものとして受け取った。なのはの方には少し異論がありそうだったが、僕には、その『できること』について確かめておきたい用事があった。
上着の内側から、返してもらった二本の黒鍵を取り出す。柄に残った傷を親指でなぞると、買ってからどれほど短い付き合いだったかまで思い出された。六本を送り出して二本が戻る。仕事としては充分な成果を挙げてくれたのだろうが、財布の側から見ると、あまり続けたい収支ではない。
「その強化された方のパイセン、黒鍵の補充はできたりしません?」
「先ほども気にしていたな」
「四本っすから。教会に経費で出してもらえなかった場合を考えると、なかなか」
「払ったの、私なんだけど」
「だから大事に考えてるんだよ」
なのはは僕の手元を見てから、呆れたように息を吐いた。まとまった旅費を持っていた彼女に、代金を出してもらったのは事実である。だからこそ損失を気にしているのだと説明したかったが、話が買い物の是非まで戻ると困る。僕がパイセンへ視線を戻すと、ちょうど、僕の手元から目を上げ、空いている右手を持ち上げるところだった。
「補充だけなら、難しいことではない」
袖に手を入れる動作はなかった。何もなかった指の間に黒い柄が収まり、その先へ刀身が伸びる。部屋の灯りを細く返す刃が一本、また一本と形を得て、僕が魔力の流れを追い直した頃には、失われた数が揃っていた。
魔力はパイセンの側から流れていた。別の場所に置いてあるものを取り寄せるのではなく、その場で武装として形を与えているらしい。出来上がった柄も刀身も見慣れたものなのに、教会の棚から買う時とは、ありがたみの種類が違った。これができるなら、さっきの経費の相談には、もっと早く終わる道があったはずである。
「……出せるんすか」
「この霊基に備わる武装だ。相応の魔力を費やせば、再形成できる」
「僕、さっき教会でお金払ったんですけど」
「その時には、まだ私を召喚していなかっただろう」
購入時期まで遡って責任を取ってもらうのは、さすがに無理がある。ただ、僕がハンザへの請求を考えていた時にも、パイセンはこの手段を持っていたのだ。交渉して追い返されるところまで見てから教えるつもりだったのではないか。そう聞こうとしたところで、四本の刀身が消え、柄がこちらへ差し出された。
「借りた分だ。これでよいかね」
「最初から、自分のを使ってくれてもよかったんじゃ」
「君が渡してくれたのでな。よい道具だった」
貸した品を褒められると、文句の続け方が難しい。
受け取った一本に魔力を通してみる。外見だけでなく、概念武装としての手応えにも不足はなかった。僕が使えるのなら、仕入れの経緯はひとまず問題にならない。元の二本と合わせて収めると、上着の内側に、買った時と同じ重みが戻った。
「ありがとうございます。次もなくしたらお願いします」
「礼と追加の依頼を、ひと息で済ませるものではないぞ」
「次はなくさないつもり、って言っておこうよ、小尾くん」
努力目標としてなら異存はなかった。けれど、投げて使う道具である以上、回収できない場所へ飛ぶことはある。貸す側がそこまで保証するのもおかしな話なので、礼だけをもう一度言い、上着を閉じた。
僕が黒鍵を収め終えるのを待って、パイセンがなのはへ向き直った。
「では、私からも聞いておこう。高町なのは、君の使う力についてだ」
パイセンの視線が、なのはの右手へ落ちた。今は何も握っていないその手で、さっきまで何をしていたのか、二人ともよく知っている。なのはも意図を察したらしく、軽口に付き合っていた時の顔を引き締めた。
「ミカエルのことですか」
「それを扱う君自身も含めてだ。サーヴァントではないことは分かる。しかし、あの力を通常の魔術と見なすには、いささか無理がある」
パイセンはそこで言葉を切り、なのはの反応を待った。彼女が否定しないのを見てから、自分の見たものを確かめるように続ける。
「空間を操作して通路を作った、というより、空間に対して『開く』という結果を与えたように見えた。あれは術式か。それとも、君に属する権能かね」
「……そこまで分かるんすね」
「分からぬ部分を尋ねている。君から説明を受けるべきことか?」
なのはがこちらへ顔を向けた。力をどう使うかなら本人がいちばんよく知っているが、こうなった経緯の説明は、僕の方が向いている。頷いて引き受けると、念のためという調子で付け加えられた。
「仕組みの説明はお願い。でも、私まで実験の成果みたいに紹介しないでね」
「注文が具体的だなあ」
「小尾くんに頼んでるからだよ」
それでは仕方がない。実際、最短で答えるなら成功例ですの一言だったので、正確に先回りされていた。僕は使う言葉を選び直し、なのはを指さす代わりに、最初に用いた礼装から話し始めた。
「セフィラという概念礼装を使いました。人間を高次の位相へ接続するために作った、霊的な触媒っす。形と意味、役割を重ねて、人間と天使の間に類感の繋がりを作る。世界の側に、その人間を天使として扱わせるための足場ですね」
「その足場を、彼女の内に置いたと」
「はい。接続先から流れ込んでくる力は、テレズマと呼んでいます。本来は量を絞って、身体と魂の変化を確かめながら扱うつもりだったんですが」
僕がなのはの右手へ目をやると、彼女は指を開いた。爪も、関節の皺も、見慣れた人間の手と変わらない。さっき肩へ置かれた時にも、触れ方や温かさに異常があったわけではなかった。
それだけに、外から見えるものを順に挙げていても、彼女の身体の説明にはならない。形を保ったまま、その形を成り立たせるものが変わっている。僕は自分の手も持ち上げ、同じように見える二つの違いを続けた。
「なのはには、僕らの魔術回路とは別の核があった。受け入れられる量が、僕の想定していた人間のそれと違ったんです。結果として、流入したテレズマは肉体だけじゃなく、それを受け止める核の方も作り替えた」
「身体に力を宿すだけでは、済まなかったか」
「ええ。骨も臓器も、血も。元の身体に力を足すんじゃなく、高町なのはの身体として再構成されている。今の彼女を、人間が天使の力を借りている状態と呼ぶのは、不正確です」
なのはは開いていた手を一度握り、ゆっくり下ろした。仕組みの説明は任せてくれている。それでも、話が身体の分類へ近づくにつれ、パイセンを見る目が真剣になっていった。僕には既に何度か伝えたことでも、初めて聞く相手がどう受け取るかまで同じとは限らない。
「人間として生きた記憶と精神を保つ、天使か」
「僕の観測では、そうなります」
「でも、私は私です」
その答えは、なのはが自分で言った。強い声ではないが、僕の説明に任せたまま通り過ぎるつもりもないらしい。パイセンは下ろされた手から彼女の顔へ視線を戻し、言葉を受け止めるだけの間を置いて頷いた。
「承知した。あの鍵を使う時にも、別の何者かに意思を委ねるわけではないのだな」
「はい。何をするかは、私が決めています」
「それを聞いておきたかった」
なのはの肩から、わずかに力が抜けた。パイセンは、その変化を見届けるように一度だけ目を細めたが、どういう分類なら本人が納得するかを問い直したりはしなかった。
身体の材料について説明していた僕とは、確かめたいことが少し違ったらしい。どれほど強い力でも、それを使う意思が本人のものか分からなければ、背中を預けるには困る。先ほどパイセン自身が、まず今の人格について明らかにした理由も、そこにあるのかもしれなかった。
「ちなみに、ミカエルは僕が作った礼装じゃないっすよ。セフィラを介して接続した先で、なのはが得た『開閉』の権能が、鍵として形を持ったものです」
「では、君から同じ鍵を仕入れることはできんわけだ」
「黒鍵のお返しには、ちょっと高いですね」
「売り物にしようとしないで」
なのはから苦情が来たので、仕入れの話は終わりになった。
パイセンはなのはから僕へ向き直った。ついでに質問するというより、そちらを聞き終えるのを待っていたような動きだった。口元にはまだ僅かに笑みが残っていたが、僕も同じ顔で応じてよい話とは限らない。
「では、マスター。君の望みも聞かせてもらおう」
「僕っすか」
「聖杯を得て、何をするつもりだ?」
上着の襟を直しかけた手が止まった。召喚に応じて戦ってもらった以上、目的を聞かれるのは当然である。なのはが何者かを確かめたあとなら、今度はこちらの番になるのも不自然ではない。
それでも返事が一拍遅れた。パイセンに答える前に、隣にいるなのはへ何を話し、何を話さなかったかが頭をよぎったせいだった。
襲ってきた連中の正体を確かめる。サーヴァントは、まず身を守るために呼ぶ。危険なら引き返す。その相談に、僕が聖杯そのものへ抱いている興味は、入っていない。
「……根源っす。そこへ至る足掛かりになるなら、使いたいと思ってます」
パイセンは静かに聞いていた。魔術師が根源を目指すというだけなら、驚く話ではないのだろう。隣ではなのはが顔を上げ、僕が続きを話すのを待っている。その視線を外して説明するのも不自然なので、僕も彼女へ向き直った。
「根源って、何?」
「すべての始まり。魔術も、魂も、世界も、辿っていけばそこへ行き着くとされている場所だよ。僕らの魔術師が目指しているもの」
「そこへ行くために、聖杯が欲しいの?」
「使えるならね。この街の聖杯が、実際にどこまでできるのかは、まだ分からないけど」
「その話、ここに残るって決める時には、しなかったよね」
そこで返事が詰まった。襲ってきた連中の正体を調べたいのも本当だ、と言いかけて、口を閉じる。なのはが聞いているのは、そちらの真偽ではなかった。
召喚を終えるまで戦ってもらい、無事に戻ったところで別の目的を付け足している。僕には以前からあった願いでも、彼女が引き受けた話には入っていなかった。その違いは、本当のことをもう一つ並べても消えそうになかった。
「言ったら、止めると思ったんだよ」
「止められそうなことなら、先に言ってほしかった」
怒鳴られるより返事に困る言い方だった。
なのはは聖杯について詳しくない。根源がどんなものかも、たった今、僕の口から聞いた。その知らないもののために僕がどこまで進むのかは、こちらが伝えなければ分からない。危険なところへ行く時だけ一緒に来てもらって、行き先を選ぶところには口を出させないというのは、さすがに都合がよすぎた。
「今すぐ奪いに行こうって決めてるわけじゃないよ。まず、調べたい」
「うん。でも、調べているうちに欲しくなったからって、勝手に決めないで。さっき約束したことも、なくなってないんだから」
「……分かった。次は、決める前に言う」
なのはは僕の顔を確かめてから、小さく頷いた。聖杯を取りに行ってよいという返事ではない。それだけは、都合よく聞き違えないようにした。
その間、パイセンは口を挟まなかった。取り成すつもりがないのか、僕らがどこまで話を合わせているかも確認したかったのか。なのはが僕から視線を外すと、待っていた問いを静かに続けた。
「根源へ至ったとして、そこで何を望む?」
「見たいんすよ。すべての始まりを」
今度は迷わず答えられた。不老不死や、世界を作り替えるほどの力が手に入れば、便利ではあるのだろう。けれど、それを受け取る代わりに、始まりを見ずに引き返せと言われたら困る。途中で得られるものの価値をどれだけ説かれても、最初に気になったことは残ったままになる。
「何か分かると、その先が気になるじゃないですか。魔術がどう働くかを調べたら、どうしてそんな仕組みが世界にあるのかを知りたくなる。魂を調べたら、その魂がどこから来たのかが気になる。全部を辿れる先があるっていうなら、そこを見たい」
「到達の結果、得られる力ではなくか」
「必要なら、力も欲しいっすよ。でも、欲しかった力が手に入ったから、もう調べなくていいやとはならないんで」
セフィラも、テレズマも、その途中で見つけたものだった。
天使へ近づく方法が分かれば、それだけでも充分に大きな成果なのだろう。けれど、接続できたという事実を手に入れると、今度は接続先がどうなっているのかを見たくなる。方法が一つ見つかったところで、疑問は終わってくれない。
何かを知るたび、まだ知らないものの形が少しだけはっきりする。その繰り返しを、僕はやめられずにいた。
「動機だけ聞けば、ずいぶん簡単だな」
「理由を難しくしても、行くのが簡単になるわけじゃないですからね」
パイセンの口元に笑みが浮かんだ。賛同されたかまでは分からないが、目的と手段を聞き違えられずに済んだらしい。そのことに気が緩み、僕は頼まれてもいない補足をつけてしまった。
「前の分と合わせれば五十年以上生きてますけど、まだ飽きてないんすよ。今さら、ほかにもっと面白いことを探すっていうのも――」
「五十年以上?」
なのはに聞き返され、僕は口を閉じた。パイセンは先ほどと変わらず立っている。魔術師を相手にしていれば、見た目と生きてきた年数が合わない程度では、驚く理由にならないのだろう。
なのはの方は、僕の顔を見直していた。今聞いた数字を、どこから数えたものとして受け取ればよいか考えているらしい。上着を替えても、顔をよく見ても、あと三十年分以上の年齢が出てくるわけではなかった。
「小尾くん。前の分って、どういう意味?」
そこを聞かれると困る、という段階は過ぎていた。自分で口にしたのだから仕方がない。
なのはは続けて、教会で聞いた話を確かめるように言った。
「記録にあった、もう亡くなっている人のこと? 小尾くんが昔、使っていたって言った名前の」
「うん。その時の人生も入れて、って意味」
「……別の人かもしれないって、話してたよね」
「そこは、今もそうだよ。僕が覚えていることと、記録にあることは、全部同じじゃない」
なのはの眉が寄った。答えを聞いて、分からない部分が増えた顔だった。
そこで、パイセンが静かに口を開いた。
「身体が変わった事情は、あとで聞かせてもらう約束だったな」
あの時の約束は、ちゃんと覚えられていたらしい。聞かれたくないことほど聞き漏らしてくれないのは、僕の知っているパイセンと同じだった。なのはも続きを待っているので、今度こそ説明が長くなるの一言では逃げられそうにない。
「説明はできるっすけど、何が起きたか分かったわけじゃないですよ」
「君がどこまで把握しているかは、聞けば分かる」
「私は、その把握してるところも聞いてないんだけど」
なのはに先を塞がれ、僕は入口へ目をやった。廊下はまだ静かで、外の騒ぎも遠い。出る前に済ませるなら、話せるところだけでも今のうちに話しておくしかなさそうだった。
パイセンが半歩位置を変え、僕らと扉の両方を視界に収めた。続きを聞く用意ができたらしい。僕はベッドの端を払って浅く腰を下ろし、立ったまま待っているなのはへ顔を向ける。もう枕の方へ倒れ込むつもりがないと分かったのか、今度は肩を掴まれなかった。
「前の身体で、僕は一度死んでる。教会を離れたあと、研究中の事故でね。テレズマの制御をしくじった」
膝に置いた右手を開くと、五本の指が思った通りに動いた。普段は気に留めないことなのに、あの時の話をすると確かめたくなる。最後に見た右腕は、この形をしていなかった。動かそうとした先に、あるはずのものがない。その感覚だけは、今も思い出そうとするより早く戻ってくる。
「右腕は大半がなくなったし、肋骨も内臓も駄目だった。助かって、そのまま普通に暮らしたとは考えにくい」
「……そこまで覚えてるの?」
「うん。途中からは、どこが痛いのかも、よく分からなかったけど」
なのはが息を詰めたので、怪我の細かい説明はやめた。どこまで失ったかを数えても、今の話に必要な情報は増えない。
パイセンは口を挟まず、僕が続きを話すのを待っていた。傷のひどさより、その後に何が起きたかを聞きたいのだろう。僕も右手を膝へ戻し、記憶に残る次の出来事へ進んだ。
「次に覚えているのが、今の身体で一歳を少し過ぎた頃。転んで額をぶつけて、昔のことを思い出したんだ。教会にいた時のことも、魔術も、研究の手順も。死ぬところまで、まとめて」
「死んで、そのまま小さい子になって目を覚ましたわけじゃないんだね」
「その間がないんだよ。魂だけでどこかを飛んでたとか、誰かに会ったとか、そういう記憶はない。子供が転んだら、覚えているはずのないことを覚えていた。僕が説明できるのは、そこまで」
なのはの目が僕の額へ向いた。昔の傷を探しているのかもしれないが、そこに痕が残っていたとしても、転んだことまでしか分からない。記憶がどこから来たかを示す印でもあれば、僕だってとっくに調べていた。
彼女が次の言葉を探している間に、パイセンが口を開いた。
「一つ、確かめたい。教会の記録と食い違うと言ったな。何が違っていた?」
「死に方っす。あっちは任務中に死亡。変わった研究をしていたような記録も、特になかったそうです。僕の覚えている順番だと、教会を離れてから、実験で死んだことになる」
任務中の死亡と、教会を離れたあとの事故。並べれば違いははっきりしているのに、その理由までは出てこなかった。
ハンザが確認してくれたのは、ひどく簡素な記録だった。僕の手元にも、当時の事情を照合できる書類はない。書かれた最後の一行と、自分の覚えている最後の一日が違う。妙なことではあるが、それを手掛かりにしてよい範囲は、まだ決められなかった。
「研究のことを、教会が知らなかっただけじゃないの?」
「それはある。死因が正確に伝わってないとか、表に出したくない事情があったとかもね。でも、それで全部片づくとも、まだ言えない」
なのはは考え込むように眉を寄せ、それからパイセンを見た。実際に昔の僕を知っているなら、何か分かるのではないか。そう期待するのは自然だったが、向けられた視線への返答は慎重だった。
「私を覚えていることも、決着にはならんな。君の語った仕事には、私にも覚えがある。しかし、今の身体が、その男の続きであると確認したわけではない。互いの記憶が、すべて一致しているわけでもないだろう」
「そうなんすよね。知り合いが出てきたから本人確認が済みました、なら楽だったんですけど」
馴染みのある声を聞けば、昔と同じ調子で返してしまう。話が通じるたびに、そのやり取りが記憶の正しさを裏づけてくれるような気もする。けれど、通じなかったところを後回しにしていたら、都合のよい部分だけを数えたことになる。
パイセンの八極拳を横から眺めたのも、任務で黒鍵を使ったのも、僕には自分の過去だった。それを疑わずに暮らしていけることと、何が起きたかを確かめられることの間には、思いのほか距離があった。
「だから、ここが僕のいた世界とは別なんじゃないか、という可能性も考えてます。よく似た歴史でも、途中から違っていたら、この世界の僕は本当に任務中に死んだのかもしれない」
パイセンは否定しなかった。ただ、頷いて結論にしてくれることもなかった。
「並行世界への干渉。第二魔法の領分か」
「カレイドスコープっすね。もちろん、そういうものがあるって知っているだけで、僕に使えるわけじゃないですけど」
そこで、なのはが僕らを交互に見た。第二魔法と言われて頷けるほど、こちらの呼び方には馴染みがないのだろう。番号をつけて話を進めると置いていくことになるので、僕は彼女へ向き直った。
「似ていても別の歴史を辿る世界がある。その世界同士へ干渉するのが、第二魔法。ただ、僕がそれを使って移動したとか、使える人に運んでもらったって決まったわけじゃないよ」
「記録が違うだけじゃ、そこまでは分からないってこと?」
「うん。記録の方が間違っていれば、世界を増やさなくても説明はつくから」
教会があり、魔術協会があり、魔術師が根源を目指している。僕の覚えている魔術も通じた。それだけ揃っていれば、同じ世界だと思いたくはなる。
だが、同じところを探して安心するのも、違うところを一つ見つけて別物だと決めるのも、たぶん同じくらい雑だった。前の人生で世界中を調べ尽くしたわけでもない。知らなかったものが今になって見えただけなのか、こちらにしかないものなのかさえ、僕ひとりの記憶では分けきれない。
「別の歴史で生きている人たちも、いるんですよね」
なのはは僕の説明を聞き終えると、今度はパイセンへ尋ねた。別の歴史という言葉が、誰かの暮らす場所に結びついたのかもしれない。パイセンは一度だけ目を伏せ、考えをまとめるほどの間を置いてから答えた。
「私には、剪定された人類史に関わった記録がある。存続を許されなかったはずの歴史が、異聞帯として現実に成立していた。その中には、そこで生まれ、そこで生きる者たちがいた」
僕は思わず顔を上げた。パイセンの口調は変わっていないのに、話の中身だけが、知っている理屈の外へ出ていた。別の歴史があり得るという説明ではない。この人には、その歴史の中で暮らす者たちに関わった記録がある。
霊基に組み込まれた名前を聞いただけで、強化パイセンと納得していた自分の理解が、随分と大雑把に思えてきた。増えているのは、できることだけではなかったらしい。
今の一言だけでも、聞きたいことが幾つも増えた。剪定された歴史が、どうやって現実に成立したのか。成立したものは、普通の世界と何が違ったのか。そこに生きていた者たちは、自分たちの世界をどう認識していたのか。
「パイセン。その話、できれば詳しく」
「機会があればな。今の君の来歴を、それで説明できるわけではない」
身を乗り出しかけたところで、先を押さえられた。パイセンは異聞帯の話を続けず、僕の膝に置かれた手へ目を向ける。
「別の人類史があることと、君がそこから来たことは別の問題だ。そして、仮に世界を跨いだとしても、何が移ったのかは、まだ分からん」
「僕自身か、僕の中にあるものだけか、ってことっすね」
パイセンは頷いた。なのはは、そこで少しだけ首を傾げた。
「魂が、今の身体に移ったんじゃないの?」
「その可能性はあるよ。前の身体では生きられなくなったから、魂が別の器へ入った。そう考えると、僕が自分の続きだと思っていることとは、話が合う」
「でも、違うかもしれない?」
「前後で同じ魂だったっていう記録が、ないからね」
なのはは僕の右手を見た。なくなったはずのものが今はある。その部分なら、身体が変わったという説明で納得できるのだろう。けれど、身体が違うことから、その中にある魂の由来まで逆算はできない。
しばらく考えてから、なのははもう一つ尋ねた。
「魂を扱う魔法も、あるんじゃないの?」
「第三魔法、天の杯なら。魂の物質化って呼ばれてる」
僕がそこまで答えると、パイセンが続きを引き取った。
「だが、別の肉体へ魂を移すことと、魂を肉体への依存から解き放つことは、同じではない。器を取り替えたというだけなら、第三魔法の達成を持ち出す理由にはならん」
少なくとも僕は、寝れば回復するし、食べなければ腹が減る。この身体がなくなったあとにも、魂だけで問題なく活動できると確認した覚えはない。
魂を保存したのか、器を移したのか。それより大掛かりなことが起きたのか。どの説明を選ぶにしても、その途中を一度も観測していないという問題が残る。名前のついた凄そうな仕組みを当てはめたところで、空白が埋まるわけではなかった。
「それに、移ったのが魂とは限らない。記憶と人格だけかもしれないし」
僕が付け加えると、なのはが顔を上げた。
「記憶だけ?」
「前の僕は、あそこで死んだ。それで終わり。ただ、その人間が覚えていたことや考え方が、今の僕へ写された。そういう仕組みだったとしても、僕の側からは、同じ経験に感じられるかもしれない」
「でも、小尾くんは、自分がやったこととして覚えてるんでしょう?」
「覚えてるよ。右腕がなくなった時のことも、自分が痛かったこととして」
覚えているからこそ、そこでは行き詰まってしまう。他人から聞いた話なら、自分が経験したこととの間に境目がある。だが、痛みも、その時に考えたことも、同じように写せるのなら、区別するための境目まで消える。
前の人生をすべて覚えた別の人間が目を覚ましても、最初に思うのは、まだ自分は生きているということかもしれない。その人間が今の僕ではないと、僕の記憶だけで証明する方法はなかった。
「自分のこととして覚えている、っていうのと、同じ魂が続いている、っていうのは、同じ証拠ではないんだよ」
なのはは自分の右手を握った。先ほど、身体について説明した時にも見た動きだったので、僕は言葉を止めた。彼女が自分で口にした『私は私です』まで、否定するつもりはなかったのだが、似たところへ話が及んでいるのは確かだった。
パイセンもその手に目を留めた。ただし、次に声をかけたのは、なのはではなく僕だった。答えの出ないところに、別の角度から指を掛けるような問いだった。
「逆に、以前の魂がそのまま移ったと仮定しよう。その場合、一歳まで生きていた子供の魂は、どこへ行った?」
僕は膝の上に置いた両手を見た。この手が何を掴めるようになるよりも前から、父と母は僕を育てていた。昔の記憶が現れる前にも、家には子供がいて、毎日、食べたり眠ったりしていたのだ。自分がはっきり覚えている時間から数え始めると、その一年余りだけを都合よく飛ばすことになってしまう。
「置き換わったか、混ざったか。最初から同じ魂で、記憶だけ遅れて出てきたのか。今のところは、どれも候補っす」
「今の魂を調べても、分からないの?」
「今どうなっているかは、調べられる。でも、比べるものがないんだ。一歳になる前の僕も、死ぬ直前の僕も、魂の状態を記録しておいてくれなかったから」
現在の状態を幾ら詳しく見ても、それが最初からそうだったか、途中で変わったかは別の問題になる。混ざった痕が必ず残るとも限らないし、何か見つかったところで、それが普通の成長では起こり得ないものかまで確かめなければならない。
もっと深く調べる方法があるとしても、そのために今ある記憶を壊したら、本末転倒だった。少なくとも、何が分かるかも決めずに、自分の魂へ手を突っ込むつもりはない。
「調べる側も、昔のことを覚えてる側も、僕なんだよ。壊したら、何が起きたか確かめる手掛かりまでなくなる」
「……止まるの、研究だけじゃないよ」
思っていたのと違うところから返事が来た。顔を上げると、なのはは僕の手元から視線を戻し、まっすぐこちらを見ていた。研究のやり方について、続きを聞きたい顔ではない。僕が何を大事なものとして数えているのか、確かめようとしているようだった。
「自分が前の人とは違うかもしれないって、怖くならないの?」
考えてみたが、怖いというところには、うまく繋がらなかった。
違うという結果が出たら、知りたいことは増える。何が、どうやって写されたのか。元の子供に何が起きたのか。誰かがそれをしたのなら、何のためだったのか。どれも放っておけそうにはなかったが、放っておけない理由は、怖いからではなかった。
「同じであってほしいって、先に決めちゃう方が嫌かな。違うって分かるものを見つけても、見ないふりをしそうだから」
「それは、調べる時の話でしょう」
「僕には、あんまり分かれてないんだと思う」
なのはは口を開きかけて、いったん閉じた。代わりに僕の肩へ手を伸ばし、上着に残っていた石膏片をつまみ取る。最初に払ったつもりでも、縫い目のところに引っ掛かっていたらしい。白い欠片へ目を落としながら息を吐き、それから、言い直すように続けた。
「昔の人と同じかどうかは、私には分からないよ。でも、今ここにいる小尾くんまで、調べるための物みたいに扱わないで」
返事を探すのに少し手間取った。大事にしていないつもりはない。壊したら困るから、無茶な調べ方は避けている。けれど、その説明を繰り返しても、なのはの言葉に答えたことにはならないようだった。
彼女は欠片を床へ落とすと、肩の縫い目に残った粉を軽く払った。調べるためにしか自分を守らないと思われているなら、今ここで理屈を足しても、その印象を強めるだけかもしれない。僕は一度口を閉じ、守れることだけを答えた。
「……分かった。勝手に壊すようなことは、しないよ」
「うん。それは守って」
なのはは、もう一度僕の顔を見てから手を引いた。研究の説明をしていたはずなのに、また生活上の約束が増えている。もっとも、今の身体を壊す予定があるわけでもないので、その点で困ることはなかった。
パイセンは僕らのやり取りを聞いていたが、なのはの言葉を補うことも、僕に代わって答えることもしなかった。二人の会話が途切れたところで、ようやく口を開く。
「君の望みについては、よく分かった」
「来歴の方は、何も分かってないんすけど」
「自分にとって都合のよい答えでなくとも、確かめたいというのだろう。根源を見たいと語った理由とも、矛盾はない」
パイセンは、聖杯への願いを聞いてから、ずっと同じものを確かめていたらしい。僕は肩をすくめた。自分に何が起きたかを知りたいことと、すべての始まりを見たいことの間に、僕自身も大した隔たりは感じない。ただ、手近な謎の方から解けていく仕組みではないのは、少し不公平だった。
「それで、結局」
なのはが僕を見て、それからパイセンへ目を移した。二人とも話がまとまったような顔をしていたので、結論を確かめたくなったのかもしれない。
「小尾くんに何が起きたのかは、まだ分からないんだね」
「うん。分かっていたら、たぶん最初に言ってる」
「最初に言ってほしいことは、ほかにもあったよ」
それには返す言葉がなかった。なのはに話していなかったことは伝わり、今後、勝手に進めないと約束することも増えた。僕の方も、パイセンが持つ異聞帯の記録を聞いて、次に尋ねたいことができている。来歴の謎が解けなくても、話す前と同じところに戻ったわけではなかった。
ただ、どれも今夜の寝床を確保する役には立たない。そちらへ話を戻そうとベッドから立ち上がった時、入口の扉が、強く三度叩かれた。
扉の向こうから英語で呼びかけがあった。警察だと名乗った男が、室内にいる者の安否を確かめたいと告げている。続いて別の足音が近づき、無線の声が短く重なった。
僕はなのはと顔を見合わせた。遠くのサイレンに、自分たちとは無関係であってほしいと思っても、ホテルの壁が抜けている事実は変わらない。無事かどうかを気にして来てくれた相手に、見せられる室内ではないのが問題だった。
「……これは、説明が難しいな」
床の召喚陣から、隣室へ通じる穴へ目を移す。なのはもつられて部屋を見回し、崩れた窓際で視線を止めた。何から説明するかを選んでいるつもりだったが、眺めているうちに、どこも説明したくないという結論へ近づいていく。
「普通の説明で済むもの、あんまり残ってないね」
「僕らは無事ですって、そこだけ伝えれば」
「どうしてこうなったのかは、聞かれると思う」
床へ直接描いた召喚陣は、今から消せる量ではない。絨毯を戻して線だけを隠しても、壁の穴は残る。最低限の片づけで済む段階を、随分前に通り過ぎていたらしい。
再び呼びかけがあり、返答がなければ入室するという警告が続いた。廊下に近い位置にいたパイセンが、扉からこちらへ視線を寄越す。そろそろ決めたまえ、ということだろう。僕が窓の方へ目をやると、なのはの手が袖を掴んだ。
「飛び降りるのは駄目」
「まだ動いてないよ」
「下にも人がいたら、どうするの」
確かに、着地したところを見られたら、その先は追いかけっこになる。壊れた部屋を説明するだけでも困っているのに、窓から飛び降りて警官の前を走り抜けた理由まで増やしたくはなかった。
なのはは僕が窓へ向かわないのを確かめてから袖を離し、家具の倒れていない床の方へ向き直った。彼女の右手が空間へ伸びるのを見て、僕も別の出口を思い出した。
「さっき教会へ行った道なら、開けるよ」
「じゃあ、そこへ。人がいないところに出られる?」
「確かめてからね」
なのはの右手へ光が集まり、金色の大きな鍵が形を得た。普段着のままそれを持ち上げる動きには、こちらが仕組みを説明する時のようなためらいはない。何が起きるかを理屈で追っている僕より、使っている本人の方が、ずっと確かに力を掴んでいた。
〈封解主〉ミカエルの先端が中空で止まり、なのはが手首を返す。すると、何もなかったはずの場所に、開くための境目が生まれた。
細い隙間の向こうには、先ほど二人で歩いた道が見えた。街灯に照らされた舗装と、教会へ続く見覚えのある景色が、壊れた客室の途中へ割り込んでいる。なのはは隙間の位置を確かめるように顔を寄せ、向こうを通る人がいないことを見てから、身体を通せる幅まで広げた。
「今なら大丈夫。小尾くん、先に」
扉の向こうで、金属の擦れる音がした。
ホテルの扉から目を離さずに、パイセンが顎で先を促した。僕は頷いて金色の縁を跨ぎ、夜道へ出たところで脇へ避ける。埃っぽい床の感触が靴底から消え、代わりに舗装の硬さが伝わってきた。
振り向くと、なのはが鍵を持ったまま通路を渡り、最後にパイセンがホテル側から境界を跨いだ。三人とも道へ出たあとでも、開口部の向こうには、僕が座っていたベッドが見えている。すぐ手前まで客室が迫っているような、妙な距離感だった。
パイセンが縁から一歩離れた時、その向こうでホテルの扉が動いた。
「なのは」
「うん」
呼びかけるまでもなく、なのはは鍵を回していた。部屋へ踏み込む靴音と、誰かの短い声が、閉じ始めた通路から届く。制服らしい人影がこちらを向いたようにも見えたが、顔を確かめるより早く、金色の幅が狭くなった。
最後に細い光が消えると、そこには街灯の届く夜道だけが残っていた。ホテルからついてきた石膏の粉が、僕らの靴元へ白く散っている。
「……見られたかな」
「分からない。一瞬だったから」
「見間違いってことにしてくれると、助かるね」
なのはは答えず、ミカエルを消した。見間違いだったかどうかを、見られた側が決めるわけにはいかない。僕もそれ以上は言わず、通りを確かめてから上着の粉を払った。
今のところ、こちらを見て騒いでいる人間はいない。人目を引く前に移動しようと教会へ向かうと、並んで歩き始めたパイセンが、その建物を見上げた。
「ここが監督役の拠点か」
「はい。さっき召喚のやり方を教わったところっす」
「私のことは、まだ話していないのだな」
僕が頷くと、パイセンは教会の入口へ近づく前に足を止めた。なのはもつられて立ち止まり、何か気になることがあるのかと顔を向ける。
「ならば、この先では姿を伏せておこう。召喚に成功したことまで隠す必要はないが、真名や外見を、進んで渡す理由もあるまい」
「監督役の人にも、ですか?」
なのはの問いに、パイセンは僕らへ顔を戻した。ハンザを疑っているかどうかより、これから何を話すかを先に揃えておきたいらしい。
「彼の職務と、こちらが明かすべき情報の範囲は、同じではない。中立を保つ人間であっても、得た情報を忘れてくれるわけではないのでな」
僕もそこには異存がなかった。
ハンザには世話になったが、あの人の仕事は僕らの味方をすることではない。こちらの事情を知った時にも、監督役として判断するはずだった。そういう相手に何を渡すかを決めておくのは、敵か味方かを決めるのとは別の話である。
「了解っす。必要な分だけで」
「小尾くん、聞かれてないことまで話さないでね」
「僕、そんなに口軽くないよ」
なのはは僕の顔を見たまま、何も言わなかった。五十年以上という数字を自分から口にしたばかりなので、こちらもそれ以上は主張しなかった。
パイセンが霊体化すると、黒衣の輪郭が薄れ、その向こうの道が透けて見えた。やがて姿は消えたが、契約を通して感じられる存在は、すぐ近くに残っている。退去したわけではなく、姿を隠したまま同行しているのだ。
僕はなのはと歩き出した。足音は二人分になったが、さっきまでパイセンが立っていた側へ、つい一人分の幅を空けてしまう。そのまま教会の扉へ手を掛けた。
礼拝堂へ入って扉を閉めると、外の風が途切れた。長椅子の列の間を通路が伸び、その先を灯りが静かに照らしている。窓は嵌まっているし、壁に穴もない。先ほど来た時には気に留めなかった当たり前のことが、今はどれもありがたかった。
ハンザ・セルバンテスは長椅子に腰を下ろし、手元の書類を見ていた。こちらの足音に顔を上げ、僕を見て、なのはを見て、それから二人の服についた汚れへ視線を移す。その時点で、あまり歓迎されていないことは分かった。
「こんばんは」
「……何で戻ってきた」
「御挨拶に」
「挨拶だけしに来た顔じゃねえな」
僕は用件を言う前に立ち止まった。顔に書いてきたつもりはないが、服の汚れを見れば、普通に夜の散歩をしていたとは思われないだろう。ハンザは広げていた書類を閉じると、まず僕の右手へ目を向けた。何をしに教会を出たかは、覚えていてくれたらしい。
「召喚はどうした」
「できましたよ。教えてもらった通りにやったら、ちゃんと」
「初めから、そうしろ」
うろ覚えの召喚陣で済ませようとしたところまで持ち出されると、こちらは笑っておくしかなかった。ハンザは僕の返事に付き合わず、閉じた扉の方を見る。三人目が入ってくる様子がないので、改めてこちらへ問いを向けた。
「サーヴァントは」
「います。今は霊体化してますけど」
「クラスは?」
「アルターエゴ」
ハンザの指が、書類の端で止まった。聞き取れなかったという顔ではない。耳にした名前を、七つの基本クラスのどこに入れるか考え、収まらないと確かめたような間だった。
僕はパイセンのいる辺りへ目をやりかけて、やめた。姿を伏せると決めたばかりなのに、困るたびに顔を向けていては、どこにいるかを教えることになる。ひとまず、返事は自分で考えることにした。
「基本の七クラスじゃねえな」
「みたいですね」
「曖昧だな。確認したのか」
「召喚された本人からは、そう聞いてます。僕が勝手につけた名前じゃないですよ」
ハンザは僕の顔を見た。余計な冗談が混じっていないかを確かめられている気がして、こちらも笑うのをやめた。アルターエゴと名乗ったことは伝えられるが、この聖杯戦争の仕組みが、それをどう受け入れたかまでは知らない。曖昧に聞こえても、そこで知っていることを増やすわけにはいかなかった。
「真名は」
「そこは秘密です」
「姿も見せねえ、と」
「能力についても、今のところは」
ハンザの眉が僅かに動いた。なのはは横で黙っている。答える範囲は外で決めた通りなので、こちらへ説明を促すこともない。僕はその沈黙に少し安心して、次の質問を待った。
「じゃあ、何でクラスだけ言った」
「召喚を教えてもらったお礼と、同じ代行者のよしみで」
「お前は、もう代行者じゃねえだろ」
「元でも、縁は縁っすよ」
ハンザは、閉じた書類を一度見下ろした。こちらはお礼のつもりでも、予定にないクラスを申告された側は、報告が正しいかどうかから考えなければならない。ありがとうと言われる種類の贈り物ではなかったらしい。
少なくとも嘘をついたわけではないので、その点だけは評価してもらいたかったが、ハンザが次に口にしたのは別の感想だった。
「召喚方法を聞きに来てた奴が、もう一人前に秘密を抱えやがる」
「召喚できたんで、立場が変わりまして」
「都合よく変わるんだな。……で、その格好は何だ」
ハンザの視線が、僕の袖から靴へ落ちた。外で払ったつもりでも、縫い目には粉が残っているし、靴の汚れはもっとひどい。召喚ができたという報告だけで済ませられる格好ではなかった。
隣のなのはを見たが、彼女は僕が続きを話すのを待っていた。ここまで連れてきてもらったのだから、用件まで代わってもらおうとするのは、少し頼りすぎかもしれなかった。
「ホテルが使えなくなりました」
「何した」
「僕がやった前提なんすね」
「何があった」
言い直してくれたので、こちらも余計な言い方をやめた。
「召喚の最中に、襲われたんです。黒い服の女で、窓を破って入ってきました。結界に触れるまで気づけなかった。気配の消し方と使った技から、アサシンじゃないかと思ってます」
ハンザが書類を脇へ置いた。服の汚れに向いていた目が、僕となのはの顔や腕を順に確かめる。目立つ怪我がないかを見ているのだろう。その目つきが変わったところで、僕も余計な言い回しを足すのをやめた。
「確定か」
「名乗りは聞いてません。ハサン・サッバーハの系統だとは見ていますけど。黒い髪を武器にしていたのと、普通の腕とは別に、胸を狙うものが伸びてきたのは見ました」
「そいつから逃げて、ここへ来たわけか」
「相手が退いたあとっす。なのはとサーヴァントが戻ってから、部屋で少し話してました。僕は、その間もホテルにいたんで」
外の戦いについては、僕が見ていられた範囲が限られる。窓から二人の姿が見えなくなって以降のことまで、分かった顔で話すわけにはいかなかった。僕がなのはへ目を向けると、彼女も一歩前へ出て、戦いの終わりを補った。
「最後は、私たちから離れる方へ逃げていきました。こちらから追いかけてはいません。小尾くんを一人にしていたので、先に戻りました」
ハンザは頷いた。こちらの説明に足りないところを埋めてもらえたらしい。誰が何を使って追い返したのかまでは、すぐに聞いてこなかった。
「今も、追われてる可能性は」
「戻ってから、ここへ来るまでには見ていません。ただ、近づかれるまで気づけなかった相手なので、追ってきていないとまでは言い切れません」
なのはが答えるのを聞いて、僕も頷いた。無事に部屋へ戻れたことと、以後も狙われないことは違う。彼女の説明に、付け足してよい安心材料はなかった。
ハンザは少し考える顔をしてから、最初の報告へ話を戻した。
「ホテルは、どこまで壊れた」
「隣室との壁に、人が通れる穴が。あと、窓の辺りも」
「窓が割れたのか」
「窓のあった辺り、ですかね。壁も含めて」
ハンザは僕の顔を見たまま、しばらく黙っていた。窓と壁の区別を曖昧にしても、被害を小さく受け取ってくれる相手ではないらしい。僕も言い足すのをやめ、次に来るだろう質問を待った。
「怪我人は」
「僕らは、ここまで来られる状態です。ほかの部屋は、全部を確認できたわけじゃありません」
そう答えると、なのはも表情を引き締めた。
自分たちの周りだけを見て、誰も怪我をしていないと言うわけにはいかない。ハンザも、その返事で満足したようには見えなかったが、今ここで分からないものを、知っていることにしろとは言わなかった。
「警察は来たか」
「来ました。僕らが部屋を出る時に、ちょうど入ってきたんで」
「入れ違いか。廊下で会わなかったのか?」
都合の悪いところほど、丁寧に聞かれる。返事を考えている間に、ハンザの視線が入口へ動いた。僕らの服は汚れているが、走って逃げてきたように息を切らしてはいない。警察と入れ違いになった方法も、まだ説明していなかった。
僕が黙ったままでいると、ハンザは聞き方を変えた。
「どうやって、ここまで来た」
「そこは、手札のうちなので」
ハンザは僕を見たまま返事をしなかった。横ではなのはが少し目を伏せる。手段を明かさないことには異論がなくても、頼み事をしに来た相手へ、もう少し言い方があると思ったのかもしれない。
もっと穏当な表現を探し直す前に、ハンザが眉間へ指を当てた。
「さっきのお前に、聞かせてやりてえ台詞だな」
「成長が早いんすよ」
「面倒の増え方もな」
そちらには反論できなかった。黒鍵は六本に戻り、すぐ近くにはパイセンもいる。教会を出た時に欲しかったものは手に入っているのに、寝る場所については、出かける前より困っていた。
ハンザが書類へ手を伸ばしかけたので、僕は慌てて声をかけた。報告を受け取ったところで仕事に戻られては、ここまで来た用事が済まない。
「それで、相談なんですけど」
「ホテルが使えねえなら、他を探せ」
「まだ、何の相談か言ってないじゃん」
「ここまで聞いて、分からねえと思うか」
先に事情を説明しておいた方が相談しやすいと思ったのだが、ハンザは頼まれる前に答えを用意してしまったらしい。こちらが断りにくい言い方を探すより、ずっと手際がよかった。
僕は並んだ長椅子へ目をやった。屋根があり、風が入ってこない。寝具はなくても、あの埃っぽいベッドよりは安心して横になれそうだった。
「日本から来たばかりで、土地勘ないんですよ」
「地図くらい売ってるだろ」
「この時間に、空いてるところを探して歩くのも大変だし」
「だから早く行け」
理屈だけなら正しいので、言い返すと出発がさらに遅くなる。なのはへ助けを求めようと横を見たが、彼女は僕と長椅子を見比べているだけだった。泊まりたいなら、自分で頼んでほしいということらしい。
僕は手近な椅子の背へ手を置きかけた。すぐにハンザの視線がそちらへ動いたので、まだ何もしていないつもりの顔で引っ込める。座ってから交渉する案は、使えそうになかった。
「荷物も、ホテルに残ってるんで」
「なら、取りに行け」
「警察いるじゃん」
「説明して持ち出せ」
「その説明ができれば、ここに来てないんですよね」
ハンザがゆっくりと顔を上げた。僕が困っていることより、その後始末を頼まれるかもしれないことの方が、よく伝わったらしい。事情を理解してくれる相手はありがたいが、お願いを聞いてもらう時には、察しのよさが味方になるとは限らなかった。
最初に来た時、監督役としての保護の話は聞いている。しかし、あれは聖杯戦争から降りる場合の話だ。宿を失くしたことを同じ条件として持ち出したら、ハンザなら、その場で訂正するだろう。
使えそうな理屈を一つずつ諦めても、長椅子が空いているという事実だけは残った。壁も屋根も無事で、今すぐ横になれそうな場所が目の前にある。結局、僕がここに泊まりたい理由は、それで足りていた。
「ハンザ」
「嫌だ」
「まだ言ってないじゃん」
「言う前から椅子を見る奴があるか」
隣でなのはが少し俯いた。笑いを堪えたのか、僕の交渉を聞いているのが気まずくなったのかは、確かめないことにした。
真名も能力も伏せたまま、欲しいものだけ頼みに来たという自覚はある。だが、手の内を明かしたら泊めてくれるという約束もない以上、別々に扱う方がよいはずだった。
僕は咳払いをして、今度こそ、余計な説明をつけずに用件を伝えた。
「今日だけでいいから、ここ泊めて」
「帰れ」