「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
――月村すずか
小尾一くんが転校してきてから、半月と少しが経った。
二週間を越え、三週間目へ入ったばかり。
クラスメイトの名前と顔を覚え、学校の決まりを知り、休み時間に話す相手が何人かできるには、十分な時間なのかもしれない。
実際、小尾くんはもうクラスに馴染んでいた。
休み時間になれば、誰かが声をかける。
給食の時間には、特に誘われた様子もないのに会話の輪の端にいる。
先生に当てられれば、少し困ったように眉を下げてから、難しすぎず、間違いもしない答えを口にする。
体育では目立たない。
勉強では優秀すぎない。
話せばそれなりに面白いけれど、自分から輪の中心へ立とうとはしない。
どこにでもいる男の子。
少しだけ大人びていて。
少しだけ変わっていて。
けれど、それだけ。
みんなは、そう思っている。
なのはちゃんも。
アリサちゃんも。
担任の先生でさえ。
でも。
私は、彼をそんなふうには思えなかった。
「だから、考えすぎだって言ってるでしょ?」
夕暮れの住宅街に、アリサちゃんの呆れた声が響いた。
私は隣を歩きながら、鞄の持ち手を両手で握り直した。
今日は珍しく、送迎の車を使っていない。
迎えに来る予定だったアリサちゃんの家の運転手さんに急な用事ができて、到着が遅れることになったからだ。
待っていてもよかったのだけれど、なのはちゃんが学校から帰る前に言ったのだ。
『今日、お店に新しいケーキが出るんだよ』
それを聞いたアリサちゃんが、目を輝かせた。
『だったら、歩いて翠屋まで行きましょ。なのはを驚かせてやるのよ』
なのはちゃんは家の用事があるからと先に帰った。
私たちは少し遅れて、二人で高町家が営む喫茶店へ向かっている。
「でも、本当に変なんだよ」
「何が?」
「小尾くん」
名前を出した途端、アリサちゃんが大きなため息をついた。
「またその話?」
「うん」
「すずか、最近ずっとそればっかりじゃない」
「だって……」
「本人に何かされたの?」
「されてないよ」
「意地悪を言われた?」
「ううん」
「じゃあ、何がそんなに気になるのよ」
うまく説明できなかった。
小尾くんが私に何か悪いことをしたわけではない。
怖いことを言われたこともない。
むしろ、表面だけを見れば親切な男の子だった。
落とした消しゴムを拾ってくれたことがある。
図書室で高い棚の本を取ろうとしていたときには、黙って踏み台を持ってきてくれた。
目が合えば笑ってくれる。
話しかければ、きちんと返事をする。
誰に対しても態度を変えない。
乱暴なこともしない。
非の打ち所がない。
だからこそ、不気味だった。
「みんな、小尾くんのことを気にしなさすぎると思うの」
「転校生なんだから、最初はみんな気にしてたじゃない」
「最初だけだったよ」
「馴染んだってことでしょ?」
「違うの」
私は足を止めかけた。
アリサちゃんはそのまま歩いていく。
慌てて、その隣へ追いついた。
「みんな、小尾くんのことを覚えてる。でも、見てないの」
「はあ?」
「そこにいることは分かってるのに、ちゃんと見ようとしてないっていうか……」
「分かるように言いなさいよ」
「たとえばね」
半月前の教室を思い出す。
転校初日。
教壇の隣に立っていた、黒い髪の男の子。
病気なのではないかと思うくらい白い肌。
目元にかかる長い前髪。
先生が彼の名前を紹介した。
クラス中の視線が、一斉に彼へ集まった。
それなのに。
休み時間になる頃には、その熱が嘘のように消えていた。
転校生が来た日の教室とは思えないほど、あっさりと。
「転校してきた次の日、小尾くんがどの席に座ってるか、アリサちゃん分からなかったでしょう?」
「そんなこと……」
アリサちゃんが言いかけて、黙った。
「それは、たまたまよ」
「なのはちゃんも、三日目まで小尾くんの上履きの色を覚えてなかった」
「普通は他人の上履きなんて見ないわよ」
「先生も、小尾くんを当てようとして、一度別の子の名前を呼んだよ」
「転校したばかりなんだから、名前を間違えることくらいあるでしょ」
「でも、私はずっと見えてた」
口にした途端、自分でもおかしなことを言っていると思った。
アリサちゃんの眉が寄る。
「見えてたって、何よ」
「分からない。でも、みんなが小尾くんから目をそらしてるように見えるの。無意識に」
「それ、あんたが小尾を気にしすぎてるだけじゃない?」
「そうなのかな」
「そうよ」
アリサちゃんは迷いなく言い切った。
「小尾がちょっと変わってるのは認めるわ。妙に落ち着いてるし、たまに何を考えてるか分からない顔もするし」
「うん」
「でも、それだけ。あいつはただの、ちょっと生意気な転校生よ」
「生意気かな?」
「この前、私が算数の答えを間違えたとき、笑ったのよ」
「笑ってた?」
「口元がほんの少し動いたわ。絶対に笑った」
アリサちゃんが拳を握る。
その姿がおかしくて、私は小さく笑った。
「じゃあ、アリサちゃんも小尾くんを気にしてるんだ」
「そういう意味じゃない!」
いつもの調子で声を上げるアリサちゃんを見て、少しだけ安心した。
私の考えすぎ。
きっと、本当にそうなのだ。
小尾くんは少し変わっている。
私が敏感になっているだけで、危険な人ではない。
そう思いたかった。
細い生活道路へ入ったのは、それから数分後だった。
翠屋へ向かうには、大通りを回るより、この道を抜けたほうが早い。
左右には古い塀が続いている。
道幅は狭く、車が一台通れる程度。
夕方だというのに人影はなく、遠くから犬の鳴き声だけが聞こえていた。
「翠屋に着いたら何を食べる?」
アリサちゃんが尋ねる。
「今日のおすすめを聞いてから決めようかな」
「私は苺のタルト。なかったらシュークリーム」
「アリサちゃん、前も同じこと言ってたよ」
「おいしいんだから仕方ないでしょ」
「新しいケーキは?」
「それも食べるわよ」
「二つ食べるの?」
「歩いたんだから、そのくらい平気よ」
そのときだった。
背後から、エンジンの唸る音が聞こえた。
振り返るより早く、白いワゴン車が私たちの横を通り過ぎる。
乱暴にハンドルを切り、車体を斜めにして道を塞いだ。
タイヤが甲高い音を立てる。
「なによ、危ないじゃない!」
アリサちゃんが怒鳴った。
後部のスライドドアが開く。
男が二人、飛び出してきた。
帽子。
マスク。
黒い手袋。
その姿が何を意味するのか理解するより早く、腕をつかまれた。
「離して!」
アリサちゃんが叫ぶ。
私は口元を布で塞がれた。
「んっ……!」
甘く、嫌な臭いが鼻を刺す。
息を止めようとしたときには、もう遅かった。
頭の芯が急速にぼやけ、足元が大きく傾く。腕を振りほどこうとしても、指先まで力が届かなかった。
「すずか!」
アリサちゃんの声。
怒鳴り声。
男の低い罵声。
鞄が地面へ落ちる音。
私は誰かの腕に抱え上げられた。
ワゴン車の暗い車内へ押し込まれる。
霞む視界の端で、アリサちゃんが男の手に噛みついていた。
もう一人の男が、彼女の頬を叩いた。
助けなければ。
そう思った。
けれど、指一本動かせない。
扉が閉まる。
光が消える。
最後に聞こえたのは、乱暴に回転数を上げるエンジンの音だった。
◇
次に目を覚ましたとき、私は椅子に縛りつけられていた。
頭が重い。
視界がぼやけている。
何度か瞬きをすると、少しずつ周囲が見えてきた。
薄暗い建物だった。
高い天井。
むき出しの鉄骨。
割れた窓。
錆びた棚。
積み上げられた木箱。
油と埃と、湿った土の臭い。
使われなくなった工場か、倉庫のようだった。
両手首には、白い結束バンドが食い込んでいる。
腕は椅子の背もたれへ回され、足首も椅子の脚へ固定されていた。
「すずか」
隣から声がした。
「アリサちゃん……」
アリサちゃんも、同じように椅子へ縛られていた。
頬が少し赤く腫れている。
けれど、意識ははっきりしているようだった。
「怪我は?」
「大丈夫。アリサちゃんは?」
「こんなの、怪我のうちに入らないわ」
声は強かった。
いつものアリサちゃんだった。
でも、強がる声とは裏腹に、アリサちゃんを縛った椅子がかすかに震えていた。
建物の隅では、男たちが電話で話している。
全部で四人。
私たちを車へ押し込んだ二人と、ここで待っていたらしい二人。
「月村のほうは確認が取れた」
「バニングスもだ。どっちも金はある」
「警察に言ったら娘がどうなるか、よく分からせろ」
「時間は?」
「日付が変わるまでには、金を用意させる」
身代金。
その言葉が聞こえた。
アリサちゃんと目が合う。
私たちは何も言わなかった。
何を話しても、男たちに聞かれる。
助けは来る。
そう信じるしかない。
お姉ちゃんは、きっと私が帰ってこないことに気づいている。
アリサちゃんの家の人も、私たちを捜しているはずだ。
外から虫の声が聞こえていた。
割れた窓の向こうで、空がゆっくりと赤く染まっていく。
どれだけ時間が経ったのか分からない。
男たちは何度も電話をかけた。
怒鳴ったり、相談したり、煙草を吸ったりしている。
私は手首へ力を込めた。
結束バンドが皮膚へ食い込む。
少しだけ、樹脂が軋んだ。
普通なら、子供の力で切れるものではない。
でも、私なら。
もう少し時間があれば。
アリサちゃんに気づかれないよう、ゆっくりと力を込める。
そのとき、男の一人がこちらを見た。
「まだ時間かかるらしいぞ」
「面倒だな」
「金は払うんだろうな?」
「払うさ。どっちも金持ちだ」
「だったら、少しくらい――」
男が立ち上がる。
嫌な笑い方をしていた。
別の男が鼻で笑う。
「傷は残すなよ」
近づいてくる。
アリサちゃんが身を固くした。
「触らないで!」
「元気だな、お嬢ちゃん」
男が手を伸ばす。
私は結束バンドを引きちぎろうと、全力を込めた。
樹脂が軋む。
手首の皮膚が裂け、熱いものが流れる。
痛い。
でも、構わない。
お願い。
切れて。
動いて。
間に合って――。
「おや」
声がした。
男の手が止まった。
倉庫の奥。
棚と木箱が重なり、夕暮れの光さえ届かない場所。
誰かが立っていた。
「縛られた女の子が二人。それを囲む大人の男が四人」
軽い声だった。
状況に似つかわしくないほど、落ち着いている。
「君たち、ロリコンか何か?」
「……あ?」
男が振り返る。
暗がりの中で、人影が首を傾げた。
「いや、答えなくていいよ。特に興味はないから」
小さな靴が、影の中から現れる。
黒い服。
膝丈ほどのコート。
細い脚。
厚い靴底。
その姿は、普段学校で見る制服姿とは違っていた。
学校を出たあと、一度どこかへ戻って着替えたのだろうか。
膝近くまである黒いコートも、首元の十字架も、放課後の散歩にはひどく不釣り合いだった。
けれど、顔は知っている。
黒い髪。
白い肌。
深く陰った目元。
「小尾……くん?」
私の口から名前がこぼれた。
「え?」
アリサちゃんが目を見開く。
小尾一くんは、いつもと同じように笑っていた。
「こんばんは、月村さん。バニングスさん」
軽く片手を上げる。
「奇遇だね」
「小尾、あんた、どうして……」
「散歩だよ」
「こんな山の中を!?」
「散歩というのは、目的地を決めずに歩くことだからね。目的地があったら、それは移動だ」
小尾くんは、廃墟の中を見回した。
男たち。
拳銃。
縛られた私たち。
床に落ちた鞄。
それらを順番に眺める。
「廃墟を見つけたから、少し覗いてみただけなんだけど」
それから、わずかに眉を上げた。
「思ったより人がいたな」
助けに来たわけではない。
少なくとも、小尾くんはそう言っている。
私たちがここにいることさえ知らず、本当に偶然通りかかったのかもしれない。
その可能性を考えた途端、安心するより先に、ぞっとした。
「おい、ガキ」
拳銃を腰へ差していた男が声を上げる。
「どこから入った?」
「正面から」
「ふざけてんじゃねえぞ!」
「扉が開いていたんだから、入るだろう?」
「ここがどういう場所か分かってんのか!」
「廃墟」
「そういう意味じゃねえ!」
「では、何だろう。成人男性が女児を椅子に縛って楽しむ、会員制の秘密倶楽部かな」
「てめえ……」
「違うなら訂正してくれ。僕は誤解を放置するのが嫌いなんだ」
男が拳銃を抜いた。
黒い銃口が、小尾くんへ向けられる。
「見られたからには仕方ねえ」
「なるほど」
小尾くんは銃口を見た。
怖がっているようには見えない。
珍しい道具でも観察するように、少し目を細めただけだった。
「目撃者を消す、と」
「待って!」
私は思わず叫んだ。
「小尾くん、逃げて!」
男の指が引き金へかかる。
小尾くんが私を見る。
「親切だね、月村さん」
笑う。
「でも、逃げる必要はないよ」
銃声が鳴った。
耳の奥を叩くような音。
私は反射的に目を閉じた。
けれど、誰かが倒れる音はしなかった。
「な……」
男の声が震えた。
目を開く。
小尾くんがいない。
弾丸が当たったのではない。
さっきまで立っていた場所には、最初から誰もいなかったように空間だけが残っている。
「どこだ!」
「ここだよ」
声は、男のすぐ横から聞こえた。
小尾くんがいた。
いつ移動したのか分からない。
腰を低く落とし、右手を男の顔の前へ添えている。
拳が動いたようには見えなかった。
ただ。
空気が爆ぜた。
乾いた音が倉庫に響く。
男の頭部が、横から見えない何かに押し潰されたように弾けた。
赤黒いものが錆びた棚へ飛び散る。
首から上を失った身体が、二歩だけよろめいた。
それから、床へ倒れる。
力を失った手から拳銃がこぼれ、乾いた音を立てて床を滑った。
何が起きたのか分からなかった。
分かりたくなかった。
アリサちゃんが息を呑む。
声さえ出せないようだった。
小尾くんは、自分の右手を見つめていた。
指を開く。
握る。
もう一度開く。
「あれ?」
小首を傾げる。
「調整、ミスった?」
人を殺したことではなく、予想と違う結果が出たことだけを気にしている。
「まだ、この身体の出力に慣れていないな」
床へ転がった男には目も向けない。
「まあ、いいや」
残った男たちが、ようやく我に返った。
「殺せ!」
「化け物だ!」
一人が拳銃を抜く。
一人が鉄パイプをつかむ。
最後の一人は、仲間を置いて出口へ走り出した。
小尾くんは三人を順番に見た。
銃。
鈍器。
逃走。
それぞれを確認してから、右足を半歩だけ引いた。
腰が落ちる。
背筋は真っ直ぐなまま。
両腕は力なく下がっているように見えた。
けれど、その小さな身体だけが、床へ根を張ったように動かなくなった。
小尾くんが、少し楽しそうに笑う。
「せっかくだ。言峰パイセンの真似でもしてみよう」
拳銃を持った男が発砲した。
銃声が倉庫を揺らす。
小尾くんは、大きく避けなかった。
顔を数センチ傾け、肩を引き、身体の中心を弾道から外しただけだった。
弾丸が長い前髪を揺らし、背後の柱へ食い込む。
二発目。
その引き金が絞られる前に、小尾くんの袖から三本の黒い柄が滑り落ちた。
手首が翻る。
細長い刃が、夕闇の中へ走った。
一本目が拳銃を持つ男の手首を貫く。
二本目が、鉄パイプを振り上げた男の肩へ突き刺さる。
三本目は出口の横を通り抜け、扉そのものへ深く食い込んだ。
「なっ――」
男たちの動きが、同時に止まった。
一本は拳銃を持つ手を止めた。
一本は、鉄パイプを振り上げた腕を封じた。
最後の一本は、逃げようとした男の進路を塞ぐように扉へ突き刺さった。
三本の刃が、男たちの動きを一瞬で鈍らせた。
小尾くんが床を踏んだ。
音は一度しか聞こえなかった。
けれど次の瞬間には、拳銃を持つ男の懐へ入っていた。
男が、反対の拳を振り下ろす。
小尾くんの身体が、その腕の内側へ消えた。
肘が男の胸へ触れる。
ただ、それだけに見えた。
次の瞬間、鈍い音がした。
男の背中が弓なりに反り、口から息と血が同時に漏れた。
胸板を殴ったようには見えない。
衝撃だけが胸板をすり抜け、身体の奥へ直接潜り込んだように見えた。
男の膝から力が抜けた。
小尾くんは、その身体が床へ崩れ落ちる前に肩を踏み台にして跳んだ。
鉄パイプの男が、肩を貫く細長い刃を引き抜こうとしている。
小尾くんは空中で身体を半回転させた。
踵ではない。
膝でもない。
着地と同時に、肩口から男の胸へ体当たりする。
小さな身体がぶつかっただけのはずだった。
けれど男の巨体は床から浮き、後方の柱へ叩きつけられた。
柱が揺れる。
男の胸から、骨がまとめて砕ける音がした。
「今のが靠か」
小尾くんは自分の肩を回した。
男は床へ崩れ落ちながら、それでも鉄パイプを振り回した。
小尾くんは身を沈める。
鉄の棒が頭上を通過する。
その下から、掌が男の顎へ添えられた。
「次」
足が床を踏む。
腰が回る。
掌底が、わずかに押し上げられた。
男の頭が跳ね上がる。
首の奥で、硬いものが折れる音がした。
身体から力が抜ける。
小尾くんは倒れる男を見ず、出口へ向かっていた最後の一人へ顔を向けた。
男は扉へ刺さった黒鍵を避け、脇の隙間から逃げようとしていた。
「仲間を置いて逃げるのかい?」
小尾くんの両手に、新たな黒い柄が現れる。
「正しい判断だ。僕でもそうする」
男が振り返る。
「た、助けてくれ!」
「誰に?」
二本の黒鍵が放たれた。
一本は男の右脚を貫き、床へ縫い止める。
もう一本は左肩を抜け、背後の扉へ深く刺さった。
男の身体が、不自然な姿勢で固定される。
逃げることも、振り返ることもできない。
小尾くんは急がず、その背後まで歩いていった。
「言峰パイセンは、もっと体格があったからね」
男の背中へ手を当てる。
「僕の場合は、一撃ごとに当てる場所を選ぶ必要がある」
掌が押し込まれた。
派手な動きはなかった。
それでも男の胸が前へ突き出され、口から血が噴き出す。
小尾くんが手を離すと、男の身体は黒鍵に支えられたまま動かなくなった。
「でも」
小尾くんは、自分の掌を開いたり閉じたりした。
「なるほど。八極拳と黒鍵の組み合わせは、思っていた以上に合理的だ」
それから、少し感心したように頷く。
小尾くんは、倒れた男たちの間をゆっくりと歩いた。
拳銃を握っていた手首。
鉄パイプの男の肩。
出口脇の扉。
そして最後の男の右脚と、扉へ縫い止められた左肩。
小尾くんは五本の黒鍵を、刺した順番とは逆に回収していった。
彼の指が触れるたび、短い柄から不釣り合いなほど長く伸びていた薄刃が、輪郭を失った。
金属が砕けたのではない。
淡い光の粒へほどけ、最初からそこには存在しなかったように空気へ消えていく。
小尾くんは残った短い柄を引き抜き、本数を確かめてから、一つずつコートの内側へしまった。
人を殺した直後とは思えないほど、几帳面な手つきだった。
証拠を隠しているというより、使い終えた筆記具を筆箱へ戻しているように見えた。
静かになった。
耳鳴りがするほどの静けさだった。
外から虫の声が聞こえる。
どこかで水滴が落ちている。
小尾くんは床に転がった拳銃を爪先で遠ざけた。
黒い服には、赤い染み一つ付いていない。
「さて」
小尾くんが振り返る。
登場したときにも私たちの名前を呼んでいた。だから、誰が捕まっていたのかは最初から分かっていたはずだ。
それでも、今まで私たちを個人として見てはいなかった。
事件現場に置かれた、二つの背景。
その程度だったのだと思う。
けれど、男たちを片づけた小尾くんの視線が、改めて私の顔へ向けられた。
そして、止まった。
笑みが、わずかに深くなる。
「ああ」
何かに納得したように頷く。
「君だったのか」
「何が……?」
「転校してきてから、少し気になっていたんだ」
彼は、血に濡れた床を気にする様子もなく歩いてくる。
私の前で止まる。
「教室のみんなには、僕へ余計な注意を向けないように認識をずらしてある」
「認識を……?」
「僕がいることは分かる。話した内容も覚えている。でも、それ以上深く考えようとはしない。わざわざ観察したり、追いかけたりもしない」
学校で感じていた違和感。
みんなが小尾くんを覚えているのに、見ていない。
気づいているのに、気にしていない。
私の思い込みではなかった。
「先生も、クラスメイトも、よく効いていた」
小尾くんの顔が近づく。
「高町さんは少しだけ抵抗しているようだけど、それでも許容範囲内だ」
冷たい目が、私を観察する。
「でも、月村さん。君だけは違った」
「小尾くん……」
「教室で何度も視線が合った。僕から意識を外すよう誘導しても、少し経てば君はまたこちらを見ていた」
小尾くんは楽しそうだった。
気になっていた疑問の答えが、偶然目の前へ転がり込んできた。そんな顔だった。
「僕を見失わなかったのは、君だけだよ」
彼の手が伸びてくる。
「少し試してみたかったんだ」
「君、吸血鬼だろ?」
「え……?」
頭をつかまれた。
「痛っ……!」
指が髪越しに頭蓋へ食い込み、顔をそらすことさえできなくなる。
乱暴につかんでいるように見えるのに、首が折れるほどの力はかかっていない。
痛みと恐怖だけを与えるよう、正確に力を調整している。
「小尾!」
アリサちゃんが叫ぶ。
「すずかを放しなさい!」
「静かにしていてくれるかな。今、大事な確認をしているんだ」
「何が確認よ! あんた、私たちを助けに来たんじゃないの!?」
「助けに来たわけじゃないよ」
小尾くんは私だけを見ている。
「たまたま通りかかったら、彼らが銃を向けてきた。だから処分した。それだけだ」
「それだけって……」
「結果として君たちが助かったのなら、運がよかったね」
彼は私の手元へ視線を落とした。
「もっとも、僕が何もしなくても、月村さんは自力でどうにかしていたかもしれない」
結束バンドへ入った細い亀裂。
私が力を込めていた痕。
見抜かれている。
「普通の小学四年生が、結束バンドを力だけで引き裂こうとはしない」
「私は……」
「人間ではないな」
小尾くんの声から、わずかに軽さが消えた。
「認識へ干渉する術に抵抗し、人間の子供では出せない膂力を持つ。外見は人間と変わらない」
髪をつかむ指が、頭蓋の形を確かめるようにわずかに動く。
「死徒――にしては、肉体も生命活動も生者そのものだ。混血か、吸血種に近い別種か」
そこで、小尾くんは考えるのをやめるように笑った。
「まあ、分類はあとでいい。君、吸血鬼だろ?」
小尾くんの指が、私の頭をつかんだまま深く食い込んだ。
「試せば分かる。死徒なら、そのまま処分できる。違うのなら、そのとき考えよう」
つかむ手が、さらに高く持ち上げられる。
宙に浮いた椅子が、私の身体ごと小さく揺れた。
首へ、身体と椅子の重さがまとめてかかる。
苦しい。
けれど、小尾くんの腕は少しも震えていなかった。
私を持ち上げているというより、軽い鞄でも提げているように見えた。
「すずか!」
アリサちゃんが叫ぶ。
「何してるのよ! 放しなさい!」
「少し静かにしていてくれるかな」
小尾くんはアリサちゃんを見なかった。
「今から、彼女が僕の知っている化け物かどうか確かめる」
頭をつかむ指へ、わずかに力がこもる。
逃げようとしても、椅子に縛られた身体は動かない。
首を振ることも、顔をそらすこともできなかった。
小尾くんが静かに息を吸う。
その瞬間、倉庫の空気が変わった。
風が吹いたわけではない。
光が消えたわけでもない。
それなのに、目に見えない重圧が、小尾くんを中心に広がっていく。
そして彼は、私を片手で持ち上げたまま、静かに口を開いた。
「私が殺す。私が生かす。私が傷つけ、私が癒す。我が手を逃れうる者は一人もいない。我が目の届かぬ者は一人もいない」
子供の声だった。
それなのに、子供が口にしているとは思えなかった。
祈りというより、宣告。
願いというより、執行。
「打ち砕かれよ」
短い一言が、倉庫の奥まで冷たく響いた。
「敗れたもの、老いた者を私が招く。私に委ね、私に学び、私に従え」
頭をつかむ手から、冷たいものが流れ込んでくる。
皮膚ではない。
骨でもない。
もっと深い場所。
身体の中に隠れている何かを、探られているような感覚だった。
「休息を。唄を忘れず、祈りを忘れず、私を忘れず、私は軽く、あらゆる重みを忘れさせる」
小尾くんの声は乱れない。
椅子ごと私を持ち上げているのに、息すら変わらない。
「装うなかれ」
その言葉だけが、刃のように鋭く落ちた。
「許しには報復を、信頼には裏切りを、希望には絶望を、光あるものには闇を、生あるものには暗い死を」
一節ごとに、胸の奥が冷たくなっていく。
私の中にある、人間ではない何かを探している。
見つけたなら、そのまま引きずり出される。
根拠もないのに、そう思った。
「休息は私の手に。貴方の罪に油を注ぎ、印を記そう」
指先の圧が、ほんの少しだけ強くなる。
それでも小尾くんの表情は変わらない。
「永遠の命は、死の中でこそ、与えられる」
倉庫の音が、少しずつ遠のいていく。
アリサちゃんの声も。
外の虫の音も。
自分の鼓動さえ。
「────許しはここに。受肉した私が誓う」
小尾くんの目が、すぐ近くから私を覗き込んでいる。
「────この魂に憐れみを(キリエ・エレイソン)」
最後の言葉が、静かに落ちた。
その瞬間。
冷たい何かが、頭の先から背骨を通り、身体の奥へ一気に流れ込んだ。
魂をつかまれ、肉体から引き剥がされる。
そんな錯覚。
私は声も出せずに耐えた。
けれど。
何も起こらなかった。
冷たい感覚は、私の中を通り抜けただけだった。
何かへぶつかることもない。
何かを壊すこともない。
最初から、彼が探していたものなど存在しなかったように。
小尾くんの目が、わずかに見開かれる。
「……ん?」
初めて、彼の顔から笑みが消えた。
「効かない?」
私の顔を覗き込む。
目には恐怖も、焦りもない。
ただ、計算と結果が一致しなかった研究者の驚きだけがある。
「詠唱は成立した。対象の指定にも、信仰基盤との接続にも問題はない」
小尾くんが、不思議そうに眉を寄せる。
「死徒なら、肉体か魂のどちらかに拒絶反応が出る。少なくとも、送り返すべき異常霊体があるはずだ」
私の顔を覗き込み、確かめるように首を傾げる。
「それがない。術式が失敗したんじゃない。君の中に、浄化すべきものが存在しない」
突然、頭をつかんでいた手が開いた。
身体が落ちる。
椅子が床へ激突した。
「っ……!」
首と背中に痛みが走る。
小尾くんは、私を落としたことさえ忘れたように自分の手を見ていた。
「君、僕の知っている吸血鬼とは違うのか?」
反射的に、否定しかけた。
けれど、その先に続く言葉を、私は飲み込んだ。
この子に、お姉ちゃんのことを知られてはいけない。
家のことも。
私たちの身体のことも。
「……答えない」
「なるほど」
小尾くんの笑みが、ほんの少しだけ深くなった。
「否定できないのか、否定すること自体が情報になると考えたのか。どちらにしても、賢明だ」
服の内側へ手を入れる。
黒い柄を取り出す。
その先へ、再び細長い刃が現れた。
「まあ、いいや」
「本当なら、連れて帰って詳しく調べたいところなんだけど」
小尾くんは、少しだけ残念そうに息を吐いた。
「君には家族も友達もいる。突然いなくなれば、面倒な捜索が始まるだろう」
黒鍵が持ち上がる。
「それなら、誘拐犯に殺されたことにしておくのが一番簡単だ」
切っ先が、夕暮れの残光を反射した。
私へ向けられている。
アリサちゃんが椅子を倒しながら叫ぶ。
「やめなさい!」
床へ横倒しになっても、必死に身体を動かそうとしている。
小尾くんは穏やかに言った。
「僕の認識阻害が効かない。吸血鬼のような身体能力がある。なのに洗礼詠唱は通じない」
黒い柄から伸びた薄刃が、わずかに揺れる。
「分からないものを放置して、あとから問題になるのは面倒だからね」
私は目を閉じられなかった。
切っ先だけを見ていた。
小尾くんが黒鍵を振り下ろそうとする。
その瞬間。
彼の目が倉庫の入口へ向いた。
「おっと」
動きが止まる。
しばらく、何もない闇の向こうを見つめている。
「二人」
小尾くんが呟く。
「いや、後ろにも何人かいるな」
「何が……?」
「君たちを捜している人たちだよ」
耳を澄ます。
私には何も聞こえない。
でも小尾くんには、分かっているらしい。
「先頭の一人は剣士。もう一人は……なるほど」
小尾くんが私を見る。
「君と同種かな」
お姉ちゃん。
その言葉だけで、誰が来ているのか分かった。
小尾くんは少しだけ考え、私へ向けていた黒鍵を下ろした。
薄刃が消え、短い柄だけが残る。
「ここで続けると、少し面倒そうだ」
それだけ言って、黒鍵の柄をコートの内側へ戻した。
「小尾……」
彼はアリサちゃんの前へ移動した。
横倒しになった椅子のそばへしゃがむ。
「何する気よ」
「後始末」
小尾くんがアリサちゃんの額へ指を当てる。
「触るんじゃないわよ!」
「眠れ」
たった一言。
アリサちゃんの身体から、急に力が抜けた。
瞼が閉じる。
頭が床へ落ちる直前、小尾くんが手を添えた。
「アリサちゃん!」
「安心して。眠らせただけだ」
小尾くんは指先を額へ置いたまま、優しい声で語りかける。
「ここで僕を見た記憶は忘れる」
子供へ本を読み聞かせるような口調だった。
「銃声がした。激しく争う音が聞こえた。怖くて目を閉じていた。次に目を開けたときには、犯人たちは全員倒れていた。誰がやったのかは見ていない」
アリサちゃんの表情から、緊張が消えていく。
「これでいい」
小尾くんが立ち上がる。
私を見る。
「君には、どうせ効かないからな」
遠くから、かすかな足音が聞こえ始めた。
複数人。
私たちの名前を呼ぶ声。
小尾くんは顎へ手を当てる。
「さて、どうしようか」
私を殺すかどうか。
今、それを考えている。
明日の予定でも決めるような顔で。
「ああ、そうだ」
小尾くんが小さく手を打った。
「こうしよう」
笑う。
「君が今日のことを誰かに話そうとしたら、そのたびにクラスの誰かが一人いなくなる」
言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「……え?」
「どうやって分かるのか、という顔だね」
小尾くんは、私の喉元を指さした。
「今日のことを誰かへ伝えようとすれば、僕には分かる」
「そんなこと……」
「できないと思うのなら、試してみてもいいよ」
「小尾一がここにいた。人を殺した。妙な術を使った。そう話そうとしたら、そのたびに一人」
「やめて」
「誰からにしようか」
小尾くんは本気で考えるように、少し上を向いた。
「出席番号の若い順だと分かりやすい。席が近い順でもいいな」
「やめて!」
「冗談だよ」
小尾くんは笑った。
けれど、目は笑っていない。
「順番なんて、どうでもいい」
胸が冷たくなる。
「みんなに何かしたら……」
「したら?」
言葉が続かなかった。
小尾くんは一人で、拳銃を持った大人たちを殺した。
私を片手で持ち上げた。
アリサちゃんの記憶を書き換えた。
私には理解できない術まで使う。
止められない。
今の私には。
「君は優しいからね、月村さん」
小尾くんは、私の頬へ付いた埃を指で払った。
「自分の秘密を話すために、友達を犠牲にはできない。そうだろう?」
「……卑怯だよ」
「そうだね」
「最低」
「否定はしない」
「人殺し」
小尾くんの笑顔が、ほんの少しだけ深くなった。
「それは職歴だ」
足音が近づく。
外で、誰かが指示を出す声。
私たちの名前を呼んでいる。
「では、決まりだ」
小尾くんが一歩後ろへ下がった。
夕陽はほとんど沈み、倉庫の奥から闇が広がっている。
「今日のことは、誰にも話さない。君なら守れるだろう?」
問いかける形をしていた。
けれど、私に選べる答えなど最初からない。
小尾くんは、満足そうに微笑んだ。
「じゃあ、また教室で」
そのまま闇の中へ戻ろうとする。
「待って」
気づけば、呼び止めていた。
このまま行かせてはいけない。
そう思ったわけではない。
ただ、何も分からないまま彼が消えてしまうことが、たまらなく怖かった。
怖かったからかもしれない。
このまま彼が暗闇へ消えたら、すべてが夢だったように思えてしまいそうだった。
小尾くんが立ち止まる。
「何かな?」
「あなたは……何者なの?」
少しだけ沈黙した。
小尾くんは肩をすくめる。
「今のところは、君のクラスメイトだよ」
「今のところ……?」
「立場は流動的なものだからね」
彼の輪郭が、暗闇へ溶けていく。
「洗礼詠唱が効かない吸血種なんて、僕も初めてだ」
声だけが残る。
「次に会ったときから、仲良くしようね。月村さん」
足音は聞こえなかった。
気配もない。
ただ一度、瞬きをした。
次の瞬間には、もうそこにいなかった。
「すずか!」
暗闇の向こうから、聞き慣れた声が響いた。
「お姉ちゃん……!」
壊れかけた扉が、激しい音を立てて開く。
最初に飛び込んできたのは、お姉ちゃんだった。
その隣には、高町恭也さんがいる。
お姉ちゃんの顔が、床の惨状を見た瞬間だけ強張った。
けれど、すぐに私たちを見つけると、死体には目もくれず駆け出した。
恭也さんは倉庫へ入った瞬間、腰を低く落とした。
床に転がる四人の死体。
頭部を失った男。
胸を陥没させた男。
首を不自然に折られた男。
そして、手首や肩、脚に細長い刺し傷を残した男。
床へ落ちた二丁の拳銃と、歪んだ鉄パイプ。
それらすべてを一度に確認し、周囲へ鋭い視線を走らせる。
「すずか! アリサちゃん!」
お姉ちゃんが駆け寄ってくる。
その後ろから、月村家の黒服の人たちが次々と入ってきた。
周囲を確認する人。
拳銃を回収する人。
外へ合図を送る人。
誰一人、死体を見て動きを止めなかった。
「すずか、怪我は? 何をされたの?」
「お姉ちゃん……」
「もう大丈夫。私がいるから」
お姉ちゃんの手が、私の頬へ触れる。
温かかった。
その瞬間、我慢していたものが崩れそうになる。
恭也さんが短い刃物を取り出し、私の手首と足首を縛っている結束バンドを切った。
「アリサちゃんは眠っているだけだ。呼吸も脈も安定している」
横倒しになった椅子を起こし、アリサちゃんの拘束も解く。
それから恭也さんは、倉庫の奥へ視線を向けた。
「すずかちゃん」
「……はい」
「ここに、犯人以外の誰かがいたのか?」
心臓が跳ねた。
小尾くんのことを言わなければ。
あの子は危険だ。
人を殺した。
私も殺そうとした。
今も、同じ教室へ通っている。
小尾くんがアリサちゃんへ植えつけた言葉を思い出す。
あれと同じことを言えば、少なくとも証言は食い違わない。
「ここには……」
口を開く。
教室の風景が頭に浮かんだ。
なのはちゃん。
アリサちゃん。
窓際で本を読んでいる子。
休み時間にボールを追いかけている子。
給食を残して、先生に注意されている子。
一人ずつ。
いなくなる。
「誰かいたのか?」
恭也さんの声は静かだった。
私は唇を噛んだ。
「……分かりません」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
「銃声がして、争う音が聞こえて……怖くて、目を閉じていました」
私は床へ視線を落とした。
「次に目を開けたときには、もう全員倒れていて……誰がいたのかは、本当に分かりません」
恭也さんは何も言わなかった。
私の目を静かに見る。
信じていない。
それでも、これ以上は尋ねなかった。
お姉ちゃんが私を抱きしめる。
その肩越しに、私は倉庫の奥を見た。
闇の中には、もう誰もいない。
それなのに。
どこかから、小尾くんがこちらを見ているような気がした。
◇
三日後。
本当なら、もう少し休むように言われていた。
けれど私は、学校へ行きたいと頼んだ。
小尾くんが、本当にいつも通り教室にいるのか。
それを自分の目で確かめなければ、家にいても眠れそうになかった。
病院での検査と何度もの事情聴取を終え、私は条件付きで登校を許された。
教室へ入ると、小尾くんは何事もなかったように自分の席へ座っていた。
窓から差し込む朝の光の中で、本を読んでいる。
制服姿。
整えられた机。
白い指がページをめくる。
あの日の血も。
黒い柄から伸びた、異様に長い刃も。
あの冷たい笑顔も。
どこにもなかった。
「小尾!」
先に教室へ入っていたアリサちゃんが、彼の席へ近づく。
「私たちが学校を休んでたんだから、少しくらい心配しなさいよ!」
小尾くんが本から顔を上げた。
「聞いたよ。誘拐されたそうだね」
「そうよ!」
「無事で何よりだ」
「他人事みたいに言わないでよ!」
「他人事だからね」
「ほんっと、生意気!」
アリサちゃんは怒っている。
けれど、それだけだった。
彼があの廃墟にいたことを、覚えていない。
あの日、人が死ぬところを見た記憶さえ、曖昧になっているのかもしれない。
小尾くんが私を見る。
目が合った。
唇の前へ人差し指を立てる。
秘密。
それから、何事もなかったように微笑んだ。
「おはよう、月村さん」
逃げ出したかった。
叫びたかった。
誰かに助けを求めたかった。
でも。
教室には、みんながいる。
なのはちゃんもいる。
アリサちゃんもいる。
それが本当かどうか、確かめることさえできない。
私が口を開けば、この中の誰かがいなくなる。
だから。
「……おはよう、小尾くん」
笑うしかなかった。
小尾くんは満足そうに頷く。
それから、私の席の椅子を引いた。
「これで、前より仲良くなれそうだね」
私には、その言葉が脅しにしか聞こえなかった。