「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
「帰れ」
お願いを口にした途端、ハンザから返ってきたのは、迷いのない一言だった。
いくらなんでも判断が早すぎないだろうか。長椅子の端でひと晩寝かせてほしいというだけである。こちらも贅沢を言うつもりはない。敷布団がなくたって文句は言わないし、毛布くらいなら自分で探す。聖杯戦争の監督役をしている神父なら、これほど慎ましい頼み事にはもう少し慈悲があってもよさそうなものだった。
もちろん、そんな義理がないことは承知している。ハンザは監督役で、僕は元代行者を名乗っているだけの部外者だ。しかも召喚を教えてもらったばかりで、今度は襲撃で使えなくなったホテルの代わりを求めている。頼り方としては相当図々しい。しかし理解していることと、諦めることは別問題なのである。
スノーフィールドへ来て最初の夜は、まだ終わっていなかった。教会の静けさは夜が更けるにつれて一段と深まり、窓の外を通る車の音も、ここまで来ると遠い。古い建物特有の冷えた空気は、埃と石と、ほのかな香油の匂いがした。かつて同じ組織で働いた身には、案外落ち着く場所である。もっとも、教会に所属していた頃でさえ、任務先の責任者に宿を押しつけて歓迎された記憶はない。
なのはは机の横に立ったまま、背もたれのある椅子と僕の顔を交互に見ていた。無理もない。アメリカまで来るだけでも大仕事だったのに、スノーフィールドへ着いてからは南部砂漠の異常な戦闘痕を見に行き、帰国便を確保しようと空港まで引き返し、得体の知れない相手に尾けられ、とうとう狙撃と武装部隊の襲撃を受けた。頭を撃ち抜かれたなのはを、あろうことか僕が盾代わりに使ったことについては、まだ許してもらえた気がしない。教会へ召喚の相談に来たと思えば、ホテルへ戻って儀式をやり直し、今度は黒髪のアサシンに乱入されて部屋が壊れた。警察が踏み込んできたところを入れ違いで抜け出したはいいが、その後もパイセンとの自己紹介やら魔術の話やらで、まともに眠る暇がない。なのはが僕を見て何か言いたそうなのは、疲れているからだけではないだろう。
だからこそ、せめて今夜の寝床くらい僕が確保したい。そう思っているのは本当だった。ただし、そのために彼女の言うことを素直に聞くかどうかは、また別の話である。
「いやあ、残念っすねえ。ハンザ先輩のところなら、身も心も安らかに眠れると思ったんですけど」
「勝手に期待するな」
「で、先輩はこれからお出かけっすか? せっかくだし僕らも一緒に――」
「連れてかねえぞ」
「まだ最後まで言ってないじゃないっすか」
「言わなくても分かる」
ハンザは机の上から上着を取り、書類の束を片手でまとめた。先ほどまで居座る理由を探していた僕にとって、その動きはなかなか重要だった。少なくとも、これからずっと教会にいるつもりではないらしい。
「えっ、どこ行くんすか、ハンザ先輩。夜のお勤めってやつ? いやあ、懐かしいなあ、僕も昔はよく――」
「だから帰れと言ってるだろうが」
「いやいや、そりゃ聞きましたよ。でも先輩がどこへ行くかは聞いてないじゃないっすか。ね、ちょっとだけ教えてくださいよ」
ハンザは振り返らなかった。なのはは僕の隣で、これ以上の押し問答を続けるのはよくないと考えている顔をしていたが、彼女も宿の当てを持っているわけではない。さっきから何度か入口の時計を見ているところからすると、こちらがどこまで粘るかより、いつになったら休めるのかが気になっているのだろう。
「小尾くん。私たちでホテルを探そうよ」
「いやいや、なのは。ハンザ先輩はこう見えて聖職者さんだよ? だから実は心の中では、宿もなくて途方に暮れている哀れな子羊を放っておけないはずなんだ」
「放っておきてえから、さっきから帰れって言ってんだろうが」
「またまた。口ではそう言っても、本当は僕たちを案内してくれるんでしょ? 不器用だなあ、ハンザ先輩は」
「どこをどう聞いたら、そうなる」
「……小尾くん。その子羊って、私も入ってるの?」
「当たり前じゃん。なのはだって、今夜泊まるところないでしょ」
「その原因を作ったのは誰だったっけ?」
「……いやあ、人生いろいろあるよね」
「話を逸らすな」
僕は精いっぱい誠実な顔をしたつもりだったが、なのはの視線がますます厳しくなっただけだった。一方のハンザは、僕が何を言おうと態度を変える気配がない。たしかに子羊という表現には多少の誇張があったかもしれないが、困っている子供を見れば助けたいと思うのが聖職者というものではないのか。僕が代行者だった頃には、そこまで親切にした覚えはないけれど。
「さっき来た時は、英霊の呼び方を教えろと言った。今は英霊を連れて、ホテルの後始末と宿を寄越せと言う。お前は相談するたびに面倒が増えてるじゃねえか」
「そこはほら、成長が早いってことで」
「悪化の間違いだろ」
ハンザは壁際の棚から何かを取ると、懐に収めた。そこには聖堂教会の紋章入りの封筒が何通も置かれており、机には現地の地図と、何度も書き直されたらしい走り書きが残っている。彼の任務が、部屋に座って契約書へ押印することだけで済まないのは明白だった。表向き中立を掲げる監督役であっても、参加者の動向を把握し、不審な魔術の痕跡を調べ、場合によっては一般人の保護を手配する。僕がいた頃とは細部のやり方が違っても、雑用の山からは逃れられない。
「ハンザさん、今夜もお仕事なんですか?」
なのはの問いは、僕のような居座りの算段を含まない、ごく普通のものだった。彼はそちらへ顔を向け、わずかに声の調子を変える。
「そうなる。挨拶をしておかなきゃならねえ相手がいてな」
「えっ、誰誰? 誰に挨拶するんすか? マスター? それともサーヴァント?」
つい身を乗り出すと、ハンザは上着に通しかけていた腕を止めた。
「お前に教える義理はねえ」
「えー、ケチくさい。監督役がわざわざ会いに行く相手でしょ? そりゃ気になるじゃないっすか」
「知ってどうする」
「いやあ、僕もついでに挨拶くらいはしておこうかなって」
「するな。ついてくるな」
「ハンザ先輩、さっきの子羊の話をもう忘れたんすか?」
「忘れさせろ」
「小尾くん。他の人のお仕事の邪魔をしちゃ駄目だよ」
「邪魔なんかしないって。遠くから静かに見守るだけ」
「それ、ついていくってことだよね?」
「細かいところに気づくね、なのは」
「褒めても駄目」
結局、なのはに腕を引かれて教会の外へ出た。だが歩き始めてみれば、ハンザ先輩が向かう方向と僕らの向かう方向は、偶然にもぴったり一致している。少なくとも、僕はそのつもりだった。
教会の扉が閉まると、ハンザは僕らを振り返り、次は本気で怒るぞという顔をした。だが、それで歩く速度を上げたり、こちらを撒くために路地へ入ったりはしなかった。隠れたつもりで追いかけている子供のために、わざわざ手加減してやるほど優しいとも思えない。おそらくは、害がないと判断した相手を放っておく種類の男なのだろう。迷惑かどうかは、別問題として。
道路沿いには、夜間営業の店がまだ明かりを残していた。ガソリンスタンドの洗車機が唸り、タクシーがひっきりなしに交差点を曲がっていく。遠くのビル群は光をまとい、砂漠のどこかで起きた巨大な地形変動など最初からなかったかのような顔で建っていた。昼間あれほどの衝突が起きても、市民の大部分は日常を続けている。知らされていないからか、それとも知っていても生活を止められないからか。どちらにしても、秘匿が守られるとは便利なことだ。
ただし、管理されているということと、安全だということは違う。屋根の上には通信機器にしか見えない妙な設置物があったし、電線には、こんな夜更けには不自然なほど鳥が止まっていた。同じ位置から一向に動かない鳥を二度見つけて、僕はわざと視線を逸らした。この街を監視している連中の存在は、砂漠で目にした使い魔からも分かっている。こちらの正体を悟らせる必要はないし、見られているからといって、毎回目を潰すのも面倒だ。
「小尾くん、ちゃんとホテルを探す気はある?」
「あるある。もちろんあるよ。ただその前に、ハンザ先輩の今夜のご予定をちょっとだけ確認したくてですね」
「ご予定を聞いても、部屋は増えないよ」
「なのは、最近ほんとに厳しくなったね」
「小尾くんが変わらないだけ」
スノーフィールドの夜は、昼間の砂漠から受けた印象よりもずっと冷える。建物の間を抜ける風に埃の匂いが混じっていたが、中心街へ近づくにつれ、飲食店の看板と車のライトが目立つようになった。こんな時間でも活動をやめない都市というのは、寝床を探している身にはありがたい。残念ながら、ホテルの空室がそれに比例している保証はなかった。
ハンザの少し後ろに、いつの間にか四人の少女がついていた。
服装も髪型もばらばらだが、歩調の合わせ方は訓練を受けた者のそれだった。黒髪の少女はハンザの足取りを見ており、まっすぐな髪の少女は通りの両端へ目を配っている。ツインテールの少女だけは、僕らを見て露骨に呆れた顔をした。もう一人、短く切りそろえた髪の少女が仲間へ小さく何かを告げる。
護衛というより、彼自身が率いる実働班だろう。夜間の市街地であからさまに警戒態勢を取らない程度には、この仕事に慣れている。人数を確認したところで、ハンザが急に足を止めた。
「師父、その二人は?」
黒髪の少女が尋ねた。こちらの顔より先に、ハンザの返事を待つ辺りも手慣れている。
「迷子だ。拾った覚えはねえが、勝手についてくる」
「迷子じゃないっす。元同業者っす」
「だったら、なおさら厄介だろうが」
黒髪の少女は判断を保留するように黙り、ツインテールの少女が呆れた顔でこちらを見直した。なのはだけが小さく頭を下げる。
「すみません。ご迷惑をおかけしています」
「本当にそう思うなら、こいつを連れて帰ってくれ」
「そうしたいんですけど……」
四人の部下を引き連れた聖堂教会の監督役。その後ろを断りもなくついて回る小学生二人。目立ちそうな集団なのに、街はそんなことに構ってくれなかった。
「お知り合い?」
なのはが小声で尋ねる。
「たぶん同業者。僕じゃなくて、ハンザ先輩のね」
「だったら、なおさらついていかない方がいいんじゃ……」
「大丈夫。気づいてるのに、まだ追い払われてないし」
実際には、追い払うのを諦めているだけかもしれなかった。
やがてハンザが入っていったのは、周囲より一段明るい高層ビルだった。入口には夜通し働く係員が立ち、玄関ホールの奥からは規則的な電子音とざわめきが漏れてくる。外壁の照明と磨き上げられた床を見る限り、安宿とは縁のない建物らしい。てっきり宿泊施設を訪ねるものと思っていた僕は、ハンザが案内表示を一瞥しただけで奥の扉へ進んでいくのを見て足を止めた。
「……カジノ?」
なのはが看板の文字を読み上げた瞬間、僕は思わずその向こうを覗き込んだ。開いた扉の隙間から、緑のフェルト張りの卓が見える。煌々と照らされたフロアに、きらきらしたチップの山。天井には大袈裟な装飾があり、壁際の機械からは景気のよい音楽が鳴り続けていた。
本物だ。
「うわ、すげえ。なのは、カジノだよ。カジノ!」
「書いてあるから分かるよ。……小尾くん、声、大きい」
「いや、実物初めて見たんだって。映画で見るやつと同じだ。ルーレットもある!」
広いフロアの端にはカードを並べる卓があり、その奥では幾つもの筐体が電子音を競い合っていた。誰かが勝つたびに機械が派手に祝福し、その数歩先では別の誰かが、今度こそ取り戻せるはずだと次の金を差し出している。規則はそれぞれ違うだろうが、どの遊びも金を増やすことに客の注意を集中させる点では共通しているようだった。
見物客を眺めていた僕の目は、やがてルーレットへ戻った。
大きな円盤の中で、小さな白い球が転がっている。どう見ても、白い球がどこに入るかを当てる以外の仕事はない。あれほど単純な仕掛けを囲んで、よくこれだけの人数が真剣になれるものだ。ところが輪の内側から聞こえる歓声や溜息に耳を傾けていると、こちらも一度くらい、あの小さな球に自分の運命を預けてみたくなる。勝算があるわけではない。むしろ勝算がないことそのものが、ひどく新鮮だった。
「小尾くん。入っちゃ駄目なところだよ」
「うん。普通ならね」
「普通じゃなくしていいって意味じゃないよ」
至極もっともな注意である。だが、すでにハンザは入口を通り抜けてしまった。警備員がこちらを見たので、僕は軽い認識阻害を重ねる。姿を消したのではなく、二人連れの年齢についていちいち考える必要はない、と注意の向きをずらしただけだ。
「……今、何かしたよね」
「通れるように、少々」
「あとで話があるから」
「カジノ初体験の記念日なのに?」
「そういう日じゃないから!」
なのはは僕の袖を掴んだが、力ずくで引きずり出そうとはしなかった。ここで騒ぎを起こして、ただの観光客を巻き込むわけにはいかないと考えたのだろう。そういう分別が、僕にはありがたく、彼女にとってはおそらく不本意なのだった。
「五分だけ。ハンザ先輩の用事が済むまででいいから」
「見るだけなら、ね。絶対に変なことしないでよ」
「分かった分かった」
僕は頷いた。五分だけという約束を破る気はない。いまのところ、ない。ただ、初めて足を踏み入れたカジノで、ゲームもせずに引き返すのは、土産物屋の前まで来て何も見ずに帰るのと同じくらい惜しい気がした。いや、さっきから十分見物はしているのだが、見るのと参加するのとでは大違いだろう。何より、あの丸いチップというものを一度くらい手にしてみたかった。
問題は金である。
僕の所持品は、先ほど壁ごと風通しがよくなったホテルの部屋に置いてきた。ここへ来るまでの移動費も、そのほとんどをなのはに頼っている。彼女がいなければ僕は今頃、アメリカの路上で身ぐるみを剥がされる心配をする以前に、屋根のある場所へ辿り着けていなかったかもしれない。
そして、そのなのはは、小さな鞄を肩に掛けていた。
目の前には夢のような遊興施設。横には財布を持った同行者。しかも彼女は、この場所が子供の立ち入るべきところではないと知っているため、僕がとんでもないことを始めないかと周囲ばかり気にしている。
なるほど。条件が揃っている。
「……小尾くん?」
「んー? どうしたの、なのは」
「さっきから私の鞄、見てない?」
「気のせいじゃない? それより、あの天井すごいね。電気代いくらするんだろ」
彼女が顔を上げた一瞬を使った。
人に気づかれずに間合いへ入り、手元の物を抜き取る。代行者時代にも何度か使った技術で、もちろん当時は敵の武器や術式の触媒を奪うためのものだった。同行者の財布を抜くために覚えたわけではない。なのはの感覚が鈍いのでもない。ただ、彼女は僕がそこまでするとは思っていない。その信用につけ込むのだから、やっていることは実によろしくなかった。
気づかれないうちに鞄の口から財布を抜き、僕は人の往来を背にして中を覗いた。見慣れない紙幣がきちんと額面順に並んでいる。こんなところまで几帳面なのが、いかにも彼女らしい。
「ひー、ふー、みー……」
指先で札を繰りながら、つい声が漏れた。
宿代と食費くらいは残しておくべきだろう。うん、当然だ。そう考えながら最後の一枚まで数え終えてしまったのだから、人間の良心というものは案外あてにならない。ちなみに僕の良心は、残高が確認できたところで仕事を終えたらしい。
紙幣を懐へ移し、空になった財布を鞄の元の位置へ滑り込ませる。そこまで終えてからなのはへ向き直ると、彼女はまだ僕の方を見ていた。
「何?」
「ううん。今、何かした?」
「生まれて初めてのカジノに感動してた」
「……それは、さっきから知ってるよ」
嘘ではない。大事なのは嘘をつかないことではなく、相手が聞いていないことまで親切に教えないことだ。そんな考え方を聖堂教会で教わった記憶はないが、僕はたいへん重宝している。
両替カウンターでは、係員の視線へもう一度、薄い認識阻害を重ねた。年齢について考えようとする意識を逸らし、懐から出した米ドル紙幣を差し出す。人の手から手へお金が移るだけなのに、それが色とりどりの丸いチップになって戻ってきた瞬間、僕は思わず頬が緩むのを抑えられなかった。
わあ。すごい。
分厚い。重い。縁に細かな模様が入っている。指の間で二枚を擦ると、小さな硬い音が鳴る。これが賭場の通貨か。人間とはよくできたもので、紙幣が丸い板になっただけで、さっきまでの金銭感覚がどこかへ行ってしまうらしい。
「小尾くん。何を持ってるの?」
「チップ。見て、なのは。本物だよ、本物」
「……何のお金で替えたの?」
「いやあ、いろいろと」
「いろいろじゃ分からないよ。小尾くん、お金は――」
「おい、小尾!」
少し離れた卓から、ハンザの声が飛んできた。僕が振り向くより早く、なのはの指がこちらの袖を掴んだが、彼女も呼ばれたこと自体は聞こえている。僕は咄嗟に、これ以上ないほど都合のいい用事ができたと思った。
「ほら、ハンザ先輩が呼んでる」
「今はお金の話をしてるんだけど」
「逃げないよ。すぐ戻るから。一緒に行こう、ね?」
「……あとでちゃんと説明してよ」
「もちろん。誠心誠意」
いつ説明するかについては、具体的な約束をしなかった。
人垣の向こうでハンザが手招きしていた。先ほどまで入口で追い払おうとしていたくせに、自分の方から呼ぶとは珍しい。用件を尋ねようと近づくと、彼は僕の抱えたチップを一瞥し、片方の眉を上げた。
「ずいぶん早えな。もう遊ぶ気か」
「いやあ、社会勉強ですよ。せっかく来たんで」
「お前に社会を教えたら、社会の方が迷惑するだろうが」
もっともな意見である。こちらも否定するつもりはなかった。
ハンザは僕らを卓の前へ案内し、周囲に聞こえない声で言った。
「監督役として、これから一人、顔を合わせる相手がいる。勝手な真似はするなよ。特にお前だ、小尾」
「えっ、誰誰? ひょっとしてこの中にマスターかサーヴァントが?」
「だから黙ってろって言ってんだ」
「はーい」
返事をしてから隣を見ると、なのはは少し困った顔で頭を下げた。
「すみません。小尾くんがまた……」
「お嬢ちゃんが謝ることじゃねえ。そいつが悪いのは見りゃ分かる」
「そうそう、なのはは何も悪くないんですよ」
「お前は少しは悪びれろ」
そこまで言ってから、ハンザはようやく卓へ顔を戻した。
向かいに腰掛けているのは、金髪の男だった。
最初に目についたのは、派手な装いではない。賭場に集う人間たちが、卓に置かれたチップや白い球の行方へ向けている注意を、その男だけはまるで必要としていないことだった。豪奢な照明も高価そうな酒も、周囲のざわめきも、すべて自分に与えられて当然のものだとでもいうように、肘掛けへ片腕を預けている。
僕は一目見て、失敗したと思った。
魔術師の家に生まれ、代行者として人外とやり合ってきた経験は、こういう時には嫌になるほど役に立つ。見知らぬ相手を前にした瞬間、どこまで近づけば危険か、喧嘩を売ればどの程度の損害を受けるか、そんな見積もりが勝手に始まるのだ。しかし目の前の男については、比較に使えるものが何もなかった。魔力の大きさを量っているわけではない。ただ、格が違うという直感だけが先に来る。
しかも、男はこちらに目を向けた。
赤い瞳が僕の顔を捉え、次いでなのはへと移る。その一瞬で、今すぐ回れ右をしてカジノから出た方がいいという結論が頭に浮かんだ。さっきまでの浮ついた気分とは別のところで、冷たいものが背筋を伝う。
……うわあ。これ、近づいちゃ駄目な人じゃん。
それなのに、もう一度見てみたいという気持ちが、その警戒をあっさり上回ってしまった。危険だから離れたい。危険なのに、何者なのか知りたい。僕が昔から失敗するのは、だいたいこの二つが同時に湧いた時である。
「おい、何を突っ立ってる」
「いえ、金髪の兄ちゃん、えらく堂々としてるなって」
「言葉には気をつけろよ」
「それはもう。僕、礼儀には定評があるんで」
「誰の評価だ」
「僕の」
ハンザが露骨に嫌そうな顔をした。なのはは何も言わなかったが、袖を引く手に少し力がこもった。彼女もあの男に、何か尋常ではないものを感じているらしい。それでも僕がここから動かないのだから、彼女一人だけ帰るわけにもいかないのだろう。
その間に、金髪の男が無造作にチップを動かした。
置いた先は、黒。
ハンザはそれを見てから、自分のチップを同じ色へ置いた。まるでどちらに賭けても構わないとでもいうような、気負いのない仕草だった。僕は思わず男の手元とハンザの顔を見比べた。
「ハンザ先輩、いま、あの人に乗った?」
「そう見えたんなら、そうなんじゃねえか」
「へえ。ハンザ先輩がねえ……」
偶然同じ色を選んだだけなのか、それともあの男に何か勝算があるのか。どちらにせよ、ハンザが相手の選択を知ったうえで黒へ置いたことは確かだった。そう考えると、先ほどまで単なる赤と黒にしか見えなかった卓が、急に意味のあるものに見えてくる。
ハンザは僕が抱えているチップへ視線を落とした。
「せっかく替えたんだろ。お前もここに賭けろ。……一枚でいいぞ」
「えっ、先輩が勧めるんすか?」
「その一回で気が済んだら、今度こそ宿を探せ。いいな」
「小尾くん、駄目だよ。見るだけって約束したでしょ」
「聞いた、聞いた。だけど、ここまで来てハンザ先輩に勧められたら、断る方が失礼というものでは?」
「失礼じゃないよ!」
なのはの抗議は正しい。しかし、僕はそれより前に男の横顔を見てしまっていた。
この金髪の男が黒を選んだ。ハンザもそれを見て黒を選んだ。しかもハンザ本人が、僕にも同じところへ賭けろと言っている。
先ほど感じた危険は、少しも薄れていない。むしろ相手が賭けを始めても微塵も集中した様子を見せないせいで、かえって気味が悪かった。もしや勝敗の行方など、とっくに見えているのではないか。馬鹿げた発想だと思う一方で、ではなぜそれほど平然としていられるのかという疑問が頭を離れない。
ならば、一度乗ってみたかった。
もちろん、男の考えが分かるわけではない。ただ、正体の分からない何かが選んだ結果を、自分の目で確かめられるというだけで、今は十分に魅力的だった。
「分かりました。ハンザ先輩を信じます」
「一枚だっつったろ」
「いや、ほら。一枚だと面白みに欠けるじゃないっすか」
僕は両腕に抱えたチップを、一息に黒へ押し出した。
「おい、小尾!」
「ちょ、ちょっと小尾くん!?」
ハンザの呆れたような声と、なのはが僕の腕を掴むのはほとんど同時だった。だがディーラーが賭けの締め切りを宣言し、もう取り消すことはできない。緑の卓上に残ったのは、僕の抱えていたチップの全部だった。
さっきまで触っているだけで楽しかった色とりどりの円盤が、急に今夜の寝床や食事に見えてきた。
「……いくら賭けたの?」
「……全部」
「全部って、小尾くんのお金を?」
「そこなんだけどね」
「そこなんだけど、じゃないよ」
なのはが鞄の中を確かめる。財布を開き、もう一度開き、最後には中身を指先でなぞった。外へ出る前に入れていたはずの米ドル紙幣は、一枚も残っていない。
「……小尾くん。私のお金、どこ?」
「一応、あそこに」
僕は、黒へ積んだチップの山を指さした。
「……え?」
「ひーふーみー、ってちゃんと数えたんだよ。枚数は間違えてない」
「数えたかどうかじゃないよ! いつ財布を取ったの!?」
「天井を見てた時」
「それ、盗ったってことだよね?」
「……まあ、事後承諾で何とか」
「承諾してない!」
声が大きくなったところで、なのはは慌てて周囲を見た。客の注意は回り始めたルーレットへ向いていたし、こちらが騒がしいことには誰も不思議そうな顔をしない。だからといって、怒りが収まったわけではなさそうだった。
ハンザはなのはの財布を一度見て、事情を察したらしい。僕を叱りつけるでもなく、ルーレットへ向き直った。
「……お前、相変わらずろくでもねえな」
「ハンザ先輩。資金の有効活用と言ってほしいっすね」
「その言い分を、持ち主に通してみろ」
「いま丁度、交渉中です」
「小尾くん、交渉なんてしてないよ! 私のお金、勝手に取ったんでしょ!」
「……そうとも言うね」
「そうとしか言わないよ!」
なのはの怒りはもっともだった。しかし、僕がわざわざ財布を返しても、中の現金はすでに卓上の黒へ変わっている。今はどれほど誠実な顔をしても、取り返せるものがない。だからといって、黙っていれば許してもらえるという話でもなかった。
「なのは。負けたら、その、あとでちゃんと返すから」
「どうやって返すの?」
「……ほら、サーヴァントも召喚できたし。今後の可能性に期待ということで」
「期待しない!」
ハンザが喉の奥で短く笑った。
「俺が言ったのは一枚だぜ。どこで何を賭けようが、そこから先はお前らの話だ」
「ほら、なのは。ハンザ先輩も僕らの自主性を尊重して――」
「小尾くん!」
「はい。黙ります」
今のところ、返済計画はない。なにしろ所持品の大半は、警察のいる壊れたホテルに置き去りなのだ。ここで負けたら、僕らは財布の中身どころか、しばらくの生活費まで失うことになる。
ようやく、背筋が冷えてきた。
金髪の男は、そんな僕らを眺めている。何が面白いのかは分からないが、僅かに口元を持ち上げていた。その顔を見て、なおさら思った。
ああ、やっぱり、こいつに近づくんじゃなかった。
なのに、怖いもの見たさを後悔していない辺りが、自分でも始末に負えない。
白い球が円盤の上を走った。軌道が乱れるたび、近くの客が声を漏らす。僕の隣では、なのはが腕を組んだまま黙っている。ハンザも僕の方を見ない。金髪の男だけが、まるで関係のない景色を眺めるように、ゆっくりとグラスを傾けた。
球が止まる。
黒。
周囲から歓声が上がり、配当のチップが卓へ押し出された。僕の前には、さきほどより大きな山ができた。
「……あ、当たった」
「見れば分かる」
ハンザの声が冷たい。
「すごい、なのは。これ、倍に――」
「小尾くん」
「……はい」
なのはは僕の顔を見たまま、ほんの少し首を振った。
「勝ったからって、勝手に財布を取っていいことにはならないからね」
「……ごめんなさい」
「ホテル代も食費も、全部そこにあったんだよ。負けてたらどうするつもりだったの?」
「……全くもって、仰る通りで」
「もう一回、なんて絶対に言わないで」
「言いません」
僕はそう言いながら、もう一勝すればどれくらい増えるのかを考えていた。なのはが僕の手からチップを回収し、換金カウンターへ向かったので、その計算もそこで打ち切りになった。
戻ってきた紙幣を、彼女は一枚ずつ確かめる。増えた分も含めて財布の奥へ入れ、今度は鞄をしっかり閉じた。さっきまで肩に掛けていた鞄が、いつの間にか僕から遠い側へ移っている。細かな配慮が身に沁みた。
「本当にすみません。ハンザさん。小尾くんがご迷惑を……」
なのはがもう一度頭を下げる。自分の金を盗られた側なのに、僕の代わりにハンザへ謝るのだから、なんとも申し訳ない話である。
「お嬢ちゃんが頭を下げることじゃねえさ。財布をすった奴の面倒まで、背負わなくていい」
「いやあ、ハンザ先輩、そこはもう少し僕の方もかばって――」
「自分で取った金だろ。自分で謝れ」
「……なのは、すんませんでした」
「私にだけ謝れば済むってことじゃないからね」
「はい」
反省すべきことは多い。だが、今夜の宿代が増えたことだけは事実である。口に出せばなのはの機嫌をさらに損ねると分かっていたので、さすがに黙っておいた。
ハンザは上着の襟を正し、首元の十字架を表へ出した。さっきまで客の一人としてゲームに混じっていた男が、今度は堂々と聖堂教会の人間として振る舞うつもりらしい。
「この土地の聖杯戦争を預かる監督役として、挨拶は済ませておく。俺の名はハンザ・セルバンテスだ」
その言葉は、周囲の客には場違いな自己紹介にしか聞こえなかっただろう。
「よほど物好きな監督役だな」
黄金の男が、面白がるように言った。威圧的な声ではある。だが、わざと迫力を作っているのではなく、話すこと自体が当然の権利であるという響きだった。こちらの存在を誰かに認めさせようと苦心する人間とは、出発点からして違う。
「そう言われることも多い。だが、この街じゃ事情が事情でね。顔を見せておいた方が、後で無駄な行き違いをせずに済む」
「貴様が何者であろうと、我には関わりのないことよ」
「そりゃそうだろうな。だからといって、こちらの仕事がなくなるわけでもない」
ハンザは愛想笑いもへりくだった態度も見せなかった。相手が明らかに尋常ではないと分かっていながら、礼儀を失わず、必要以上に身を低くしもしない。代行者として腕が立つ男なのだろうが、相応の胆力も持っているらしい。
男の傍らで、隠されていた気配が僅かに揺らいだ。それだけで彼は隣を一瞥し、柔らかくはないが、不思議と急かしてもいない調子で何かを告げた。声はよく聞き取れなかった。隠れている相手の存在を気にかけているのだということだけが、僕にも分かった。
ハンザはそちらへ一瞥をくれただけで、深追いせずに卓を離れた。
「小尾。余計なことをするなよ。今日ここで見たことも、興味本位で喋り散らすな」
「分かってますって」
「それから、賭けの結果まで俺のせいにするんじゃねえぞ」
「勝った時はお礼言ってもいいじゃないっすか」
「余計な理屈をつけるな」
ハンザが声を少し抑えたのは、周囲の客に監督役の仕事を聞かせないためだったのだろう。僕も、これ以上余計なことを言わずにおいた。
男はハンザを見やり、笑みを浮かべた。礼儀として応じたのではなく、こんな場所にまで出向いてくる神父を、それなりに面白がっているようだった。
ハンザが換金を終えると、先ほど見かけた四人の女性が、自然な間隔を空けて集まってきた。神父に従う女性たちというには少々目立つ組み合わせだったが、周囲の客は酔いと興奮のおかげで、その奇妙さを深く考えないようだった。
「小尾。お前らはここまでだ。今度こそ宿を探せ」
「せっかく勝ったんだから、もう一回くらい――」
「小尾くん」
「……はい。帰ります」
言い方に懐かしさを感じるほど、繰り返し聞いた言葉である。
僕がまだ卓へ視線を残していると、なのはは袖を引いた。その力は決して強くない。強くする必要がないことを、僕自身が一番よく知っていた。
「もう、行こう」
「はいはい。じゃあ、ハンザ先輩。またそのうち顔出しますね」
「次は用件を決めてから来い」
宿が決まったら、少なくとも今夜は訪ねる用事もないはずだ。そう思ったところで、自分の荷物が壊れたホテルに残っているのを思い出したが、今さら口にしても対応は変わらないだろう。
ハンザと四人の少女たちが出口へ向かうのに合わせ、僕らも歩き出した。なのはと並んでフロアを抜けながら、僕は肩越しに一度だけ卓を振り返った。
金髪の男は、もうこちらを見ていなかった。
初めてのカジノは、思っていたより面白かった。ただし財布をすったことはすっかり露見し、勝った金も全部なのはの財布へ収まった。僕の手元には一枚のチップも残っていない。何か違うような気もするが、最初から僕の金ではないので異論を挟む権利もない。ハンザの後ろをついてきただけで、ずいぶん余計な騒ぎを起こしてしまった。
何より、僕は眠かった。
◇
監督役の神父と、その後ろについてきた子供たちがフロアの奥へ消えたあとも、ルーレットの玉は回り続けていた。
アーチャーの英霊、ギルガメッシュにとって、目の前の勝敗は余興にすぎない。先ほど黒へチップを置いたのも、金を増やすためではなかった。王が選んだ色へ、監督役の神父が続けて賭け、その神父にさらに少年が乗った。目先の勝ち負けより、その軽率な便乗の仕方の方が、余興としてはいくらか面白かった。
むしろ、余計な客が一人残っていることの方が気になった。
少年たちが立ち去ったにもかかわらず、その霊的な気配だけが卓から離れない。霊体化という隠れ蓑を被ったまま、こちらの出方を見ている。先ほど子供の背後にいた者と同じだと、ギルガメッシュは最初から気づいていた。
「ティーネ。少し離れておれ」
隣に控える少女が、僅かにためらった。姿を隠す術によって周囲の客には気づかれていないが、本人まで警戒を解いたわけではない。
「王よ、何か――」
「案ずるな。昔馴染みの客が一人、帰り損ねているだけよ」
昔馴染み、という意外な言葉に、少女は不思議そうな表情をした。しかし理由を問い返すことはなく、言われた通りに席を外す。彼女の気配が人波へ紛れたところで、ギルガメッシュは空いた隣席へ目をやった。
「姿を見せよ。いつまで突っ立っているつもりだ」
通路の柱の陰に、一人の男が現れた。
黒い神父服に身を包み、堅牢な体格をした長身の男だった。さっきの監督役とは異なり、賭場の華美な照明にも、行き交う客にも興味を向けていない。男は当たり前のように椅子へ腰を下ろすと、向かいの王へ会釈した。
「久しいな、英雄王」
ギルガメッシュは杯に手をかけたまま、男を見た。
「ほう。ずいぶんと珍しい顔が現れたものよ」
「このような土地で再会するとは、私も思っていなかった。冬木の第四次聖杯戦争以来か」
男――言峰綺礼は、そこでわずかに言葉を切った。相手が見知った容貌をしていることと、以前の召喚に関わる記憶を持っていることは別である。それを同一視するほど、彼はサーヴァントの仕組みに疎くなかった。
「もっとも、以前の召喚での出来事だ。今の貴方が覚えておられるとは思わんが」
「何を言い出すかと思えば」
王は片眉を上げ、呆れたように笑った。
「我が貴様を忘れたとでも思ったか、綺礼」
言峰の目が僅かに細くなる。
王の声音には、彼の名を知る者の単なる反応とは異なるものがあった。久しく耳にしていない呼び方だった。かつての冬木で、こちらの苛立ちも困惑も意に介さず、己の愉しみのためだけに言峰を問い詰めてきた男の声。その響きが、確かにそこにある。
生前の記憶を受け継ぐ自分と、冬木の英雄王との間に、再会が成立するとは考えていなかった。言峰にとって第四次聖杯戦争は過去の出来事だが、ここに呼び出されたギルガメッシュは本来、あの時と同じ個体ではない。ならば、名を告げ、事情を説明し、知らぬ者として言葉を交わすつもりだった。
その準備が、たった一言で不要になった。
「……これは意外だったな」
「フン。あのように手間のかかった男の顔を、忘れてやるほど我は慈悲深くないぞ」
「手間がかかった、か」
「違うと申すか?」
反論しかけた言峰は、結局、口元に苦笑を浮かべるだけにした。
冬木での己は、何が欲しいのかを知らなかった。与えられた務めを果たし、研鑽を積み、それでも充足を見いだせずにいた。その自分に、ギルガメッシュは何度も問いを投げた。美しいものを見て喜べないなら、何を見れば喜ぶのか。救いを求めると言いながら、人の破滅に心を動かされるのはなぜか。
不愉快な相手だった、と言うこともできる。
けれど、その不愉快さから逃げきれなかったことも事実である。
「かつての私は、貴方の問いを随分と煩わしく思っていた」
「それで?」
「今となっては、必要な問答だったのだろうな」
「時臣の下にいた頃から、そう素直に答える男ではなかったがな」
ギルガメッシュは嘲るというより、古い遊びの手順を思い出すように言った。
「時臣は礼を知る男ではあったが、あまりに退屈だった。貴様も当初はその傍らで、己の望みさえ見いだせぬ顔をしておったな」
「そうだったな。師に従うことと、己が何を望むかは、私にとって別の問題だった」
「そして、別の問題だと認めることすら嫌っていた」
卓上に玉の転がる音が響いた。隣の客が歓声を上げる。負けた男は唇を噛み、すぐさま次のチップを用意した。その様子を眺めたギルガメッシュが、ふと視線を戻す。
「綺礼よ。此度の聖杯戦争で、貴様は何を見る?」
かつての問いを思わせる言葉だった。
言峰は少し考える素振りを見せたが、その口元にはすでに薄い笑みが浮かんでいた。
「さてな。聖杯に叶えてもらいたい願いがあるわけでもない。だが、折角こうして現界したのだ。ただ見物して帰るというのも味気ないだろう」
「ほう。では、どうする?」
「かつて貴様に教えられた通り、己の愉悦に従ってみようかと思ってな。なに、退屈凌ぎにはなるだろうさ」
ギルガメッシュは一瞬、言峰の顔を見つめた。
そして、口元を吊り上げる。
「ク、ハハハハハ! よもや貴様の口から、そのような言葉が出ようとはな!」
「何かおかしいかね?」
「いや、結構! 実に結構だ、綺礼! かつては己の愉悦を認めることすらできなかった男が、今では自らそれを求めると言うか!」
「ふむ。言われてみれば、随分と遠くまで来たものだ」
言峰は静かに笑った。
「もっとも、それだけの時間はあったのでね」
それ以上、過去を語り合う必要はなかった。
言峰には、いま仕えるマスターがいる。聖杯戦争を勝ち残りたいと願う者ではあるが、その眼差しは聖杯そのものの向こうを見ている。しかも隣には、必要ならば彼を止めることをためらわない少女がいる。いずれ何かが起こるかもしれないし、何も起こらないまま終わるかもしれない。先に答えを決めるのは、言峰の役目ではなかった。
「では、失礼する。英雄王」
「行くがよい、綺礼」
人混みへ入る前、言峰は一度だけ振り返った。
ギルガメッシュはすでに卓へ目を戻し、何事もなかったかのように次の賭けを見守っている。
言峰もまた、柱の陰で再び姿を消した。小尾たちを追いかけるのに急ぐ理由はない。彼らはおそらくまだ、ハンザに宿を紹介させる算段を考えているはずだった。
その思い違いが少しだけおかしくて、神父は誰にも見せず、口元を緩めた。
しばらくして、王のそばへティーネが戻った。何者と会っていたのかを尋ねたそうにしている少女へ、ギルガメッシュは何も説明しない。ただ、次の勝負が始まると、当たり前のようにチップを手に取った。
今夜は面白い客が来た。監督役の神父も、連れの財布をすってまで賭けた少年も、そして何より、かつての冬木で我を退屈させなかった男も。王の一夜としては、それで十分だった。