「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
カジノから外へ出ると、スノーフィールドの夜気が思いのほか冷たかった。
ついさっきまでいたフロアには、時間という概念をどこかへ置き忘れたような明るさがあった。あれほどの照明と音楽に囲まれていれば、今が深夜なのか早朝なのかさえ曖昧になるのだろう。自動扉が背後で閉まり、車の走る音が聞こえてきたところで、ようやく僕は今日一日の疲れを思い出した。正直、今日はもう歩きたくない。普段なら珍しいものが目に入れば足を止めるところだが、今は真っ先に寝床を確保したかった。
スノーフィールドに着いてからというもの、南部砂漠を見物し、空港へ引き返そうとして妙な連中に狙われ、銃弾と武装部隊を相手にし、ホテルで英霊召喚をやり直したら黒髪のアサシンが乱入してきた。そのうえ言峰パイセンとの再会を果たし、ハンザ先輩に宿を貸してほしいと頼んで追い払われ、最後には人生初のカジノまで経験している。
もう十分だろう。旅行初日に必要な行事としては、三日分くらい詰め込まれていた気がする。
「なのは、ホテル探そっか」
「……うん。そうしよう」
なのはもさすがに疲れたらしく、返事に勢いがなかった。小さな鞄を肩から下げているが、その持ち手は僕から遠い方へ移されている。どうやら、さっきの件はまだ許されていないらしい。
僕が財布を拝借してルーレットへ全部賭けた件である。
ちなみに勝った。元金を増やしたのも僕だ。しかし得られた配当は一ドルも僕の手元に残らず、きっちりなのはの財布へ戻された。元手が彼女の金である以上、そこに不当性を訴えるのも難しい。
「いやあ、でも勝ってよかったよね。これで宿代も心配ないし」
「小尾くん。もう一回言うけど、勝ったからいいって話じゃないからね」
「分かってるって。今後は事前に相談します」
「相談されても、カジノで使うなら貸さないよ」
「話が早いねえ」
褒めたつもりだったが、なのはは僕を一度睨んでから携帯電話へ目を落とした。夜中でも受付の開いているホテルを検索しているらしい。僕も一緒に画面を覗いたが、宿泊料金を比較する以前に、掲載されている部屋の写真が妙に魅力的に思えた。
写真には清潔そうなベッドがあり、しっかりした壁があり、窓にはガラスまで入っている。昨日の部屋を思い出すと、それだけで随分と贅沢な宿に見えた。
「……ねえ、小尾くん。さっきから、何をそんなに見てるの?」
「いや、次のホテルはちゃんと壁が残ってるところがいいなって」
「普通は残ってるよ」
「そう思うじゃん?」
「……もう」
なのはが呆れた顔をしたので、僕はそれ以上言わないことにした。あのホテルの部屋を壊したのは僕だけではないし、そもそも最初に窓から飛び込んできたのはアサシンである。被害者であるこちらが弁償まで考えなければならないというのは理不尽だが、あの部屋で儀式を行った事実も消えてくれない。
とりあえず、明日の僕に任せよう。
「さすがに今日はもう誰も襲ってこないでしょ。今度こそ寝られるって」
「小尾くん……そういうこと言わないでよ」
「いやいや、いくらなんでも相手だって一日中僕らを追いかけるほど暇じゃないでしょ。聖杯戦争の参加者なら、もっと優先して狙う相手だっているだろうし」
「狙われないように気をつける、って考え方はないの?」
「もちろんあるよ。だからホテルに泊まるんじゃん」
「……ホテルに泊まったら安全になるわけじゃないよ」
正論だった。
ただ、今の僕には反論を考える気力がない。睡魔というものは、あらゆる研究者に平等に降りかかる厄介な障害である。疑似聖人化した身体でも、眠りたいという欲求まで消してしまうことはできないらしい。
ホテルの候補が決まると、僕らはタクシーを拾った。車内でなのはが小さくあくびをしたので、僕は窓の外へ目を向けたまま黙っておいた。別に何か面白い話が思いつかなかったわけではない。今夜くらいは休ませてやろうという、僕なりの気遣いである。
なお、そのまま僕までうとうとしてしまい、運転手に目的地だと告げられるまでほとんど記憶がない。
◇
新しいホテルは、前の宿よりも幾分立派だった。
深夜のフロントにはまだ従業員がいたが、高校生くらいの年齢の二人だけで部屋を借りようとするには、やはり未成年という問題がある。その点については、言峰パイセンが実体化して付き添い役を引き受けてくれた。
黒い神父服を着た大柄な男が後ろから現れると、受付の男性は明らかに戸惑った顔をした。僕らの身元や保護者との関係を確認しようとする彼へ、パイセンは落ち着いた口調で必要な説明だけを与えている。僕は横から余計なことを言わずに見ていたが、何しろ、パイセンが僕の保護者だといわれても今ひとつ実感が湧かない。
「……何がおかしいのかね」
受付を終えたパイセンに問われ、僕は笑いを引っ込めた。
「いやあ、パイセンに保護者役をやってもらう日が来るとは思わなかったなって」
「君ほど手のかかる若者を預かる覚えもないがね」
「そこはほら、縁があったということで」
「その縁がどちらにとっての災難であるかは、今後の経過を見て判断しよう」
言い方がひどい。
隣ではなのはが宿代を支払いながら、僕らのやり取りを聞いていた。彼女もパイセンの言葉を否定しないところを見ると、思い当たるところがあるのかもしれない。
案内された部屋には二つのベッドが並んでいた。壁際には小さな机があり、窓の向こうでは街路灯が白い光を落としている。こちらが望む条件はひと通り満たしていたので、僕は荷物もない身軽な身体で、そのまま手前のベッドへ倒れ込もうとした。
「小尾くん、シャワー」
「……明日じゃ駄目?」
「駄目。服も汚れてるでしょ」
「五分だけ寝かせてよ」
「絶対そのまま寝るから、先に入って」
長い付き合いだけあって、なのはは僕の手の内を理解している。仕方なく浴室へ向かい、昨日からの埃を洗い落とすことにした。替えの服がないのは不便だったが、洗ったものを乾かして翌朝また着れば何とかなるだろう。
黒衣を脱ぐ時、袖口に残った粉塵が床へ落ちた。ホテルで暴れ回ったアサシンのことを思い出しかけたが、今はもう調べても仕方がない。明日になれば、前の部屋へ戻って荷物を回収することになる。あの女が再び姿を見せるのであれば、その時に考えよう。
湯を浴び終え、備え付けの衣類で寝支度を整えて戻ると、なのはは既にベッドへ腰を下ろしていた。鞄は枕元に置かれている。例の財布については、もう確認しない方がよさそうだ。
「明日、前のホテルの荷物を取りに行こうね」
「そっすねえ。黒鍵以外の礼装も残ってるし、研究用のものもあるから、あれを買い直すのはさすがに面倒だわ」
「……危ないものも入ってるの?」
「危ないってほどじゃないよ。一般人には触らせない方がいい程度」
「それ、早く取りに行った方がいいんじゃ……」
「大丈夫大丈夫。変な術式が起動しないようにはしてあるから」
なのはは何とも言えない顔をした。そういえば、僕が暇を持て余して作った魔術礼装が管理局で騒ぎを起こしたことを、彼女はまだ忘れていないのだった。前科というものは便利な時には信用になり、不便な時にはいつまでも足を引っ張るらしい。
「それじゃ、おやすみ。明日はちゃんと相談して動いてね」
「分かってるよ。まずは荷物でしょ」
「聖杯戦争のことも、だよ」
それについては昨日、パイセンの前で根源を目指す理由まで説明させられた。僕は最初から聖杯を奪うと決めているわけではない。少なくとも、あの儀式がどの程度の願望機として機能するのか調べるまでは、結論を出しようがなかった。
ただ、なのはに黙って何かを決めるな、と約束したことも覚えている。そこは破るつもりはなかった。何を約束したかについて、お互いの解釈が一致しているかどうかは少し怪しいけれど。
「パイセンは?」
窓際に立っていた言峰パイセンへ顔を向けると、彼は軽く目を細めた。
「私は警戒を続けよう。休息を必要とする君たちとは違うのでね」
「さすがっす。じゃ、何かあったら起こしてください」
「承知した。もっとも、何もなければそのまま眠らせておくよ」
実に頼もしい。
神父服の男はそのまま霊体化し、窓際の闇へ溶けるように姿を消した。僕はベッドへ身体を預け、枕の柔らかさを確かめる。隣ではなのはが明かりを落とし、布団へ入る音がした。
今日だけで、本当にいろいろなことが起きた。
この先もまだ聖杯戦争が続くのだと思えば、退屈する暇はないのだろう。魔術師としては歓迎すべき話だが、同時に寝床を確保する苦労だけは、もう味わいたくなかった。
「……なのは」
「なに?」
「明日は、もうちょっと平和だといいね」
「そうだね」
しばらくして、なのはの声が小さくなった。僕も目を閉じた。
その晩、部屋の窓は割れなかったし、壁が吹き飛ぶこともなかった。カーテンの向こうで夜の街が動き続けている間、僕らはようやく普通の旅行者らしく眠ることができたのである。
◇
翌朝、というにはまだ早い時刻だった。目を覚まして窓の外を見ると、街灯の向こうには夜の暗さが残っている。
あまり長く寝られたわけではない。それでも昨日までの疲れは幾分薄れ、頭の奥に残っていた鈍い重さも消えている。何より、目を開けた時に天井が残っているというだけで、気分がいい。
隣のベッドでは、なのはがちょうど起き上がったところだった。枕元の時計を見てから、こちらへ顔を向ける。
「おはよう、小尾くん。よく眠れた?」
「いやあ、最高。少なくとも、誰にも襲われなかったし」
「……それが普通なんだけどね」
「普通って素晴らしいよねえ」
言いながら起き上がると、部屋の隅から声が届いた。
「よく眠れたようだな、マスター」
パイセンが実体化していた。昨夜と変わらない神父服で、眠気など微塵も感じさせない顔をしている。
「パイセン、お疲れさまっす。何かありました?」
「こちらへの接近を試みた者はいない。街そのものの動きについては、いくらか気になるものもあったが、少なくとも君を叩き起こすほどの出来事ではなかったよ」
「そりゃ何より。できれば今後もそんな感じでお願いします」
「注文の多いマスターだ」
言峰パイセンが薄く笑ったところで、なのはが昨日の話を持ち出した。
「荷物、先に確認しようか。まだ前のホテルに残ってるなら、早めに取りに行った方がいいと思う」
「じゃ、ミカエルで繋いでよ。部屋をちょっと覗けば分かるでしょ」
「うん。でも、中には入らないよ。警察が調べてるかもしれないし」
「了解。見るだけ見るだけ」
なのはが右手を掲げると、空中へ金色の光が集まった。ほどなくして〈封解主〉ミカエルが現れ、長い鍵の先端が何もない空間へ差し込まれる。
そこには本来、扉も窓もない。けれど鍵が回ると、世界の表面に一本の境界が刻まれた。離れた場所と場所が、移動に必要な距離そのものを無視して接続される。僕らの目の前に開いたのは、昨日まで宿泊していたホテルの部屋だった。
「……うわあ。改めて見るとひどいな」
粉塵が落ち着いた室内には、割れた壁材と歪んだ家具が残っていた。窓のあった場所から街灯の淡い光が差し込み、床には警察の規制線を示す黄色いテープが何本も張られている。入口と廊下の一部にも同じテープが見えたので、部屋全体が事件現場として扱われているらしい。
「開いたよ、小尾くん」
「ありがと。じゃ、僕がちょっと確認するね。荷物の置き場所も分かってるし」
僕はなのはの横を抜け、空間の境目へ近づいた。足は新しいホテルの床に残したまま、首から上だけを前へ出す。ちょうど、隣の部屋へ顔を覗かせるような格好だったが、実際には街の離れた場所にある建物同士が繋がっている。
まず右を見る。ベッドのあった場所は残っていたが、僕の鞄はない。左を見ると、倒れた机の周囲もすっかり片づけられていた。少し顎を下げて床を確認し、念のため召喚陣を描いた辺りも見たものの、持ち込んだ荷物らしいものは一つも残っていなかった。
「……んー」
もう一度、きょろきょろと周囲を確認する。警察官が立っている様子はないが、ここで誰かが入ってくれば、壁から突然頭だけを出した不審者と目が合うことになる。想像すると面白かったものの、あまりやりたい経験ではなかった。
僕は首を引っ込めた。
「ないね」
「全部?」
「うん。見事に何もない。たぶん警察が回収したんじゃないかな」
なのはが鍵を引くと、金色の境界は音もなく閉じた。向こう側の壁の穴も警察のテープも消え、目の前には何事もなかったようにホテルの壁が戻っている。
「じゃ、警察に取りに行こっか」
「……警察に?」
「そりゃそうでしょ。持ってったのが警察なら、警察へ行くしかないじゃん」
「うん、それは分かるけど……昨日、そこで召喚儀式をしてたんだよね」
「そうだね」
「部屋も壊れたし、警察の人が来た時にはいなくなってたんだよ?」
「だから今から行って、事情を聞こうって話なんだけど」
なのはは納得しかねる顔をした。どうやら、魔術的に潜入して取り返すような面倒事を心配しているらしい。僕としては、そこまでして警察を敵に回す理由がない。必要な手続きがあるなら済ませればいいし、正体を聞かれたら答えられる範囲で答えればよい。
「僕ら、ただ荷物を取りに行くだけだよ。そんなに構えなくても大丈夫だって」
「……小尾くんがそう言うと、ちょっと心配なんだけど」
「ひどいなあ。人を何だと思ってるのさ」
「……何だと思えばいいのか、私も困ってるよ」
それは少々傷つく。
ともあれ、予定は決まった。僕らは身支度を済ませ、言峰パイセンを霊体化させたままホテルを出た。街を調べる意味でも、警察署までは普通に移動することにする。別にミカエルで何でも済ませられるからといって、毎回空間を繋ぐ必要もないのだ。
まして、今回の目的は至って日常的である。
荷物の回収。
それだけだった。
◇
スノーフィールド市警察署は、思っていた以上に大きな建物だった。
前には警察車両が停まり、ガラス張りの正面入口からは広いエントランスが見える。日本の警察署を想像していた僕には、庁舎というより公共施設か何かに近い印象を受けた。来庁者のための長椅子や案内表示もあり、外から見る限りはごく普通の警察署である。
ただし、近づくにつれて妙な違和感が強くなった。
建物を包む魔術的な気配。それ自体はスノーフィールドへ来てから何度も感じているが、ここでは明らかに一つの場所へ固定されていた。壁の内側に術式を仕込み、人の動線と視線を制御する。用心深い魔術師の工房へ近づいた時に似た感触だった。
「……なのは」
「うん。何かあるの?」
「これ、普通の警察署じゃないかも」
「えっ?」
「まあ、入ってみれば分かるでしょ。今日は荷物を受け取りに来ただけだし」
そう言って扉へ向かうと、なのはは何か言いたそうに僕の後をついてきた。パイセンの気配は少し後ろにある。霊体化しているので通行人には見えないが、昨日のようなことが起きればすぐに動いてくれるだろう。
エントランスには数人の来庁者がいた。受付で書類を記入している年配の男、窓際の長椅子に腰掛けた女性、奥の通路へ案内される親子連れ。夜明けまではまだ少しあるが、警察署なら珍しくもない光景だった。
僕らは受付カウンターの前で立ち止まった。
「ねえ、ちょっといい?」
近くにいた警察官へ声をかけると、若い男性が顔を上げた。まずなのはを見て、次に僕を見る。その視線が僕の黒衣の襟元で止まり、ゆっくりと袖口へ移動した。
まあ、気持ちは分かる。
僕は今、一般の観光客にしては相当妙な服装をしている。黒い聖職者風の上着と外套。本人としては格好よく決まっているつもりなのだが、朝の警察署へ着てくる服として適切かどうかは別問題である。見た目の年齢まで考えれば、黒い聖職者の格好をした高校生くらいの若者と思われても仕方ない。もっとも、黒鍵の柄は上着の内側にしまってあるので、外から見えるのは服装だけだった。
「何か用かな?」
警察官は英語で尋ねた。僕は慣れた言葉で返す。
「昨日の夜、ホテルで事件があったでしょ。部屋に置いてた荷物がなくなっててさ。警察が持ってるなら返してほしいんだけど」
「どこのホテルだい?」
名前を伝えると、男の目が一瞬だけ鋭くなった。すぐに表情を整え、手元の端末へ向き直る。僕は住所と部屋番号も教えたが、その間、彼の指は思ったほど動かなかった。
おや。
「君たちが泊まっていた部屋なのか?」
「そうそう。宿泊記録も残ってると思うよ。まあ、部屋はちょっと壊れちゃったけど」
「……ちょっと?」
「壁がなくなったくらいで」
なのはが横から肘で小突いてきた。
「小尾くん。ちゃんと説明して」
「いや、そういうのは後で話すからさ。とりあえず荷物の所在だけ知りたくて」
警察官は僕らを見比べた。今度はなのはの鞄に視線を落とし、それから僕の黒衣の襟元へ視線を戻す。普通の観光客が着てくる服ではないし、気になるのも無理はない。
「少し待っていてくれるかな。確認してくる」
「はーい」
それだけなら、普通の対応だった。
ただ、男は受付の奥へ戻る前に、ほかの職員と短く何かを交わした。内容までは聞き取れなかったが、こちらを見る視線が一つ増えたような気がする。続いてカウンターの女性が立ち上がり、長椅子に座っていた来庁者へ声をかけ始めた。
「……ねえ、小尾くん」
「ん?」
「なんだか、急に静かになったね」
言われて初めて気づいた。
先ほどまで受付で交わされていた会話が減っている。プリンターや電話の音は聞こえるのだが、足音の向きが変わっていた。入口付近にいた一般人が職員に促されて別の通路へ移動し、近くの長椅子も一つずつ空いていく。
最初は偶然だと思った。用事を終えて帰る人もいるし、案内を受けて別室へ向かう人もいるだろう。しかし、出ていく人間に代わって誰も入ってこない。正面の自動扉も、いつの間にか動かなくなっていた。
受付の奥で、先ほどの警察官が無線へ口を寄せる。こちらの顔を確かめた時とは違い、声量を落としているのが見て取れた。僕の名前とホテルの住所が、誰かの手元にある情報と照合されているらしい。
……なるほど。
どうやら、こちらの用件は少々厄介なものとして扱われているらしい。
「なのは、見て。お客さんがいなくなっちゃった」
「うん。あれ、何か変だよ」
そう言いながら彼女が通路の方を向いた時、そこから制服姿の男が二人現れた。どちらも普通の警察官に見えたが、歩調が妙に揃っている。僕らに近づきすぎない位置で止まると、互いに視線を交わして持ち場を分けた。
さらに別の扉が開く。
スーツ姿の男。防護服の上から警察の腕章を付けた男。腰へ刀剣に似たものを下げた警官。通常の銃器を構えている者もいれば、明らかに現代の警察では使わない形状の武器を携えた者もいる。
武器を見た瞬間、僕はさっきまでの疑問を忘れかけた。
何だ、あれ。
ただの魔術礼装ではない。金属の表面に乗っている魔力の量ではなく、構造に付随する意味そのものが違っている。手にした人間の能力で成立する術式というより、武器の由来を現実へ押し出したような奇妙な反応だった。
宝具に似ている。
だが、持っているのは英霊ではなく、明らかに人間だ。
「……へえ」
思わず口元が緩んだ。これを作った魔術師がいるなら、一度話してみたい。模倣したのは形なのか、記号なのか、それとも逸話の一部なのか。類感魔術を扱う身としては、実に気になる。
ただし、今はその話を聞ける雰囲気ではなかった。
背後にも足音がある。気づけば入口にいた職員さえ姿を消し、周囲には武装した者しか残っていなかった。彼らは僕らを直接狙うというより、逃げ道と射線を押さえる位置に散っている。こちらが突然動けば、すぐ対応できるような配置だった。
「……なのは」
「なに?」
「また何かしたの?」
「私が!?」
なのはが驚いてこちらを向いた。
「だって、なんか僕ら、囲まれてない?」
「囲まれてるよ! でも私、受付で何もしてないからね!」
「じゃあ何でだろ。僕ら、ただ荷物を取りに来ただけなのに」
「それは私も聞きたいんだけど……。小尾くん、受付の人に変なこと言ってないよね?」
「失礼な。なのはって最近、僕を最初から犯罪者扱いするよね。まず疑うのはどうかと思うんだけど」
「昨日、私のお財布を勝手に取ってカジノで使ったの、誰だったっけ?」
「……今は関係ないじゃん」
「関係ないって言い切れるの?」
痛いところを突いてくる。
ただし、こんなところで両手を上げたり、必要以上に怯えたりする気もない。僕は腕を自然に下ろしたまま、もう一度周囲を見た。近くの警察官は僕らの会話を理解したらしく、妙に複雑な顔をしている。
「ねえ、お巡りさん。もしかして、僕の格好がまずかった?」
返事はなかった。
それどころか、廊下の奥からさらに数人が姿を見せた。彼らは先ほどの制服組とは雰囲気が違う。魔術回路を起動できる者もいるらしく、身体の内側を魔力が流れる感触が伝わってきた。
……おっと。
こりゃ、ただの警察署じゃないな。
僕の頭の中では、警察への不満よりも新しい興味の方が大きくなっていた。何しろ、ここまで本格的に魔術師が配置されている施設なら、昨日ホテルで起きた出来事についても何らかの調査が行われているはずだ。
荷物の中身まで調べられたとしたら、少し困る。
しかし、困るといっても取り返しのつかない話ではない。僕はまた受付に声をかけようとしたが、その前に廊下の奥から一人の男が現れた。
◇
その数分前、オーランド・リーヴは部下から届いた受付の報告を見て、すぐに人払いを命じていた。
小尾一。同行者は高町なのは。日本から来た二人組で、前夜に破壊されたホテルの宿泊客だという。そこまでなら警察の事件記録で確認できる話だが、二人の名前は既に別の資料にも載っていた。
ファルデウス・ディオランドから共有された警戒情報である。
スノーフィールドの聖杯戦争は、偽りの六騎を呼び水として本来の七騎へ至るよう設計された儀式だ。その偽りの側へ、用意した覚えのない七人目のマスターが発生した。これまで一度も想定していなかった、制度の外から現れた参加者。報告にはそう記されていた。
ファルデウスは既に排除を試み、失敗している。対象が生きていること、同行の少女が狙撃を受けたにもかかわらず活動を続けていること、入国記録の照合に不自然な欠落があること。最低限の事実は伝えられていたが、二人の能力の全容や正体については依然として不明な部分が多かった。情報をすべて共有する男ではないと知っているだけに、オーランドは報告の空白まで信用するつもりはなかった。
その少年が、今朝はわざわざ自分の警察署へ現れたらしい。しかも、聖堂教会の代行者に似た黒衣をまとっているという。報告書に記された年齢は高校生相当。こんな若者が、なぜ代行者を思わせる格好で警察署に現れたのか。
しかも、この街には聖堂教会から監督役が派遣されているという。教会の影が見える少年が、この時期に現れたことまで偶然と片づけるには、出来すぎていた。
オーランドは軽率に手を出さないよう部下へ念を押し、自分で相手を確かめることにした。既に襲撃の失敗が判明している相手だ。多少の武装で囲んだからといって、捕らえられる保証などない。必要なのはまず、相手の目的と教会との関係を知ることだった。
◇
金髪を整え、隙なくスーツを着こなした男だった。周囲の警官が自然と彼へ道を開くところから、立場はすぐに分かる。少なくとも、僕らの荷物の保管場所について決定権を持っていそうな人物だ。
男は僕らを見た。
最初になのはを確認し、それから僕の顔へ視線を移す。その視線が黒衣の襟元で止まった時、彼の眉がごくわずかに動いた。
「……昨夜のホテルの宿泊客だな」
英語の問いだった。発音は明瞭だが、受付の警官よりもずっと硬い。こちらが何者か分からなくて質問しているというより、答えを本人の口から確認しようとしているようにも聞こえた。
「そうそう。だから荷物を取りに来ただけなんだけど。何でこんな人数に囲まれてるわけ?」
「それは聞いている。まず、名前と所属を聞こう」
「小尾一。日本から来たよ」
「所属は?」
「フリーの魔術師。どこの組織にも所属してないよ」
男は笑わなかった。
当たり前だろう。高校生くらいの年齢の少年が、フリーの魔術師を名乗りながら、なぜ聖堂教会の代行者じみた黒い衣装で警察署へ現れたのか。おそらく、その点が気になるのだ。僕としては服装の好みを所属と結びつけられても困るのだが。
「その服は、どういうものだ?」
「ああ、これ?」
僕は自分の袖を見た。
「代行者の服。こういうの、昔から好きなんだよね」
周囲の何人かが反応した。
金髪の男だけは表情を変えなかったが、視線の鋭さが少し増したように感じられる。
「……代行者、と言ったか」
「うん。あれ、知らない? 聖堂教会の裏の仕事だよ」
「聖堂教会に所属しているというのか?」
「違うって。今はフリーでやってるんだよ。服を着てるだけで教会の所属って決めつけられても困るんだけど」
男はしばらく黙っていた。
無理もない。代行者風の黒衣を着た高校生くらいの少年が、教会の裏側について当たり前のように喋っているのだ。知らない人間なら仮装で済ませるだろうが、知っている人間なら逆に疑う。少なくとも、この男は後者のようだった。
「……では、なぜその服を着ている?」
「趣味だよ。似合ってるでしょ?」
「君は代行者という言葉の意味を知っている。それでいて教会との関係は否定するのか」
「知ってるからって所属してるとは限らないじゃん。フリーの魔術師が教会のことを知ってたら駄目なの?」
男は笑わず、僕の襟元から袖へと視線を移した。聖職者風の服を着ているだけなら変わった趣味の持ち主で済む。だが、聖堂教会の裏側にある役職を自分から口にし、しかも平然と魔術師を名乗る。その組み合わせが、彼にとっては無視できないらしかった。
「聖堂教会から派遣された者ではない、ということだな」
「そうそう。所属なしのフリー。今は旅行で来てるだけだし、警察に用があるのも荷物の件だけだって」
男の表情は動かなかった。信じてくれたとは思えない。もっとも、こちらも前世の経歴を初対面の警察署長へ説明するつもりはなかった。昨夜なのはとパイセンへ説明しただけでも長くなった話を、今ここで蒸し返す理由はない。
「……なるほど。では、なおさら確認が必要だな」
「いや、その前に荷物の話を――」
そこで正面の扉が開いた。
「……失礼するぜ」
聞き覚えのある声だった。
振り返ると、黒い神父服に身を包んだ長身の男が入ってきた。昨日から見慣れてしまった顔である。
「おっ、ハンザ先輩! 昨日ぶり!」
僕は思わず手を振った。
周囲の警察官が一斉に彼と僕とを見比べる。金髪の男も当然、同じ反応を見せた。
ハンザ先輩は入口から数歩進んだところで足を止め、僕の顔を見ると、嫌そうに舌打ちした。
「……チッ」
「いやあ、奇遇っすねえ。先輩も警察に用事? 僕ら、ちょうど荷物を――」
「お前、何でここにいやがる」
「だから、荷物取りに来たんすよ」
なのはは僕より一歩前へ出て、きちんと頭を下げた。
「あっ、ハンザさん。昨日はありがとうございました。おかげで、無事にホテルを見つけられました」
「……そいつは何よりだな」
ハンザ先輩の返事は素っ気なかった。見れば、金髪の男がいかにも興味深そうにこちらのやり取りを眺めている。ハンザはその視線に気づいたらしく、ますます不機嫌そうな顔になった。
「知り合いか?」
金髪の男が尋ねた。
「……仕事とは関係ねえ」
ハンザはそう答え、僕から露骨に目を逸らした。
「えー、先輩。昨日あんなに世話になったのに、他人みたいな言い方しなくても」
「お前はもう黙ってろ」
「だってさ、なのは」
「小尾くん。ハンザさん、お仕事中だよ」
「……はい」
なのはに言われたので、僕は大人しく口を閉じた。ハンザはこれ幸いとばかりに僕らを無視し、金髪の男へ向き直る。
「そっちが署長のオーランド・リーヴだな。聖堂教会から監督役として派遣された、ハンザ・セルバンテスだ」
なるほど。
やっぱり署長だったらしい。
そして、この警察署が魔術師の拠点であることも、ほとんど確定したようなものだった。
僕はなのはの方を見た。彼女も話の流れを理解してきたらしく、武器を構えた警察官たちとハンザを見比べている。今のところ、誰も僕らを解放しようとはしていない。荷物の行方について聞くには、もう少しかかりそうだった。
ハンザ先輩の登場で警官たちの注意が分散したものの、僕らを取り囲む配置が解かれたわけではなかった。彼らは互いの距離を崩さず、武装を下げもしない。聖堂教会の監督役を警戒しているというだけなら分かるが、今の彼らは僕らまでまとめて同じ種類の相手として扱っている。
まあ、そりゃそうか。
僕が代行者の黒衣について話したところへ、現役の神父が現れたのだ。しかも、その本人が僕の名前を知っている。ハンザは仕事とは関係ないと言い張ったものの、さっきからその言葉に説得力があるようには見えなかった。
「……なのは。やっぱ僕、何か誤解されてる?」
「誤解というか……小尾くん、自分で代行者の服だって言ったんでしょ?」
「本当のことじゃん」
「そうだけど、急に言われたらびっくりすると思うよ」
そこは確かに説明不足だったかもしれない。
ただ、今から僕の身の上を一から説明するのも面倒だ。前世の聖堂教会での経歴、テレズマの研究による事故、今の身体に残った記憶と記録の食い違い。あの話を昨日のホテルでパイセンとなのはに説明するだけでも時間がかかったのだから、初対面の警察署長に納得してもらえる保証はない。
僕は会話から少し離れ、周囲の武装を観察することにした。
その間にも、オーランドとハンザの話は続いていた。
「正式な通知もなしに監督役を名乗られても、こちらとしては困るな」
「そっちの儀式が、そもそも教会へまともに話を通していないからだろ。必要な確認に来ただけさ」
「警察の業務にまで干渉される筋合いはない」
「警察の仕事と魔術師の仕事を、随分器用に両立しているようじゃねえか。俺が問題にしているのは後者だよ」
会話の切り返しには、昨夜のハンザを思い出させるものがあった。こちらが面倒な質問をするたびに返答を短く切り上げ、自分に都合の悪い話を始める前に用件へ戻す。態度としてはぶっきらぼうだが、相手に渡す情報量の調整が上手い。
一方のオーランドは、言葉を慎重に選んでいた。口を開く前に周囲の部下を一度見る辺り、どこまで聞かれているかも意識しているのだろう。警察組織の長が魔術師であることを隠しているのか、それとも関係者だけが事情を知っているのか。建物にいる全員が魔術師というわけでもなさそうだった。
「ここの結界、なかなか凝ってるねえ」
思ったことがつい口から出た。
近くにいた警察官がこちらを見た。なのはも僕の袖を掴んだ。
「小尾くん、静かにしてよう?」
「……はい」
今はおとなしくしておこう。
しかし、どうやらここにはキャスター陣営がいるらしい。オーランドの周囲に置かれた礼装は、術者一人が徹夜で作れるような数ではなかった。いずれも基礎構造が揃っており、それでいて個々の形状や働きは違っている。模造の宝具を量産できるような支援者がいると考える方が自然だった。
その正体について調べてみたくなったところで、オーランドの端末が鳴った。
署長は視線を落とし、画面に表示された情報を見た瞬間、表情を変えた。こちらを囲んでいた警官たちも、その反応を見逃さない。何人かが無線へ手をやり、別の者たちは上階へ視線を向ける。
「……全員、警戒を維持しろ」
オーランドの指示は短かった。
それでも、部下たちの動きは速い。僕らを囲んでいた円がわずかに開き、前衛を務める者がエントランスの中央へ移動する。入口と階段の両方に警戒を向け、互いの武器が干渉しない位置を選ぶ。あらかじめ決められた手順があるのだろう。
「……何か来る?」
なのはが小声で聞いた。
「そうみたいだね」
僕は天井を見上げた。
結界の外側に、何かが触れた。
いや、違う。ただ近づいてきたものがある。人間の魔術師なら、普通はあそこまで気配を殺して移動できない。こちらが捉えたのは、対象そのものではなく、周囲の結界が反応した結果だった。
昨夜の嫌な感覚に似ている。
次の瞬間、上階から鈍い衝撃が響いた。窓ガラスが震え、エントランスの照明が一瞬だけ揺れる。オーランドは即座に部下へ指示を出し、ハンザはその様子を見ながら、騒ぎが起きた方向へ目を向けた。
僕はなのはへ顔を寄せた。
「ねえ、これ……」
「うん」
なのはの目も鋭くなっていた。
エントランスの上方に、黒い影が現れる。
女だった。
身体を覆う黒衣。床へ触れそうなほど長い黒髪。落下したというにはあまりにも静かな着地で、足元へ降り立つ直前まで、その輪郭が周囲の闇と見分けられなかった。
昨日、ホテルへ乱入してきたあの女である。
「……あれ、昨日のアサシンじゃん」
僕が言うより早く、武装した警察官たちが動いた。
◇
第一撃は、前衛の警官たちが同時に踏み出すところから始まった。
左右から距離を詰めた二人がアサシンの進路を塞ぎ、少し遅れて別の武装が頭上へ向けられる。背後の銃口は直接女を狙っているわけではなかった。彼女が逃げた場合に動ける方向を制限し、前衛へ追い戻すための配置である。
考えられている。
僕は思わず感心した。サーヴァントを相手にして、生身の人間が正面から殴り合おうとすれば、身体能力の差だけで勝負が決まってしまう。そこを最初から連携で埋めるつもりなら、話は変わる。
アサシンは、目の前へ迫った刃をわずかな動きでかわした。回避というより、攻撃の軌道から身体の輪郭だけを抜くような動きだった。空振りした警官の武器が床へ届く前に、黒髪がその腕へ絡みつく。反対側から別の束が伸び、首元を狙った。
しかし、髪が届く前に、背後の警官が別の武器を差し込んでいた。
光が走る。
髪の束が弾かれ、前衛の男が身を引く。そこへ新しい二人が踏み込み、女が態勢を戻す前に間合いを埋めた。人間としては異常なほど速い動きだったが、身体強化の術式だけで説明できる出力ではない。武器そのものが使い手へ何かを与えているらしい。
「おお……!」
声が出た。
これが、あの偽宝具の働きか。
英霊の伝承を借り受けることで、使用者が武器本来の所有者でなくても、一時的に逸話の力を再現できる。もちろん本物と同じとは限らないが、武装と戦術を揃えれば、人間がサーヴァントへ食い下がることも可能なのだろう。
しかし、ここまで観察できたからといって、勝負が決まったわけではない。
アサシンが片足を引くと、その影の中から何本もの髪が突き出した。狙いは一人ではない。前衛の足首、後衛の銃口、壁際にいる術者の手元。使い分けられた軌道は複数の場所へ同時に伸び、攻撃を防いだ警官のさらに背後へ回り込んでいく。
悲鳴が上がった。
後ろへ退いた男の制服が裂け、床に血が落ちる。別の警官が肩を貸して下がらせる間に、前衛の隊列が組み直された。負傷者が出ても全体の働きが止まらないようになっているのは、相当な訓練の成果だった。
僕はロビーの端へ移動し、壁際の長椅子へ腰掛けた。
ここなら戦闘の中心から距離があり、武装の軌道もよく見える。もっとも、サーヴァントの戦闘に安全な見物席など存在しないことは承知している。それでも、今すぐ射線へ飛び込む必要はなかった。
「なのは、こっちこっち。邪魔にならないようにしよう」
彼女は立ったまま、戦場を見つめていた。
「小尾くん、助けなくていいの!? もう怪我してる人がいるんだよ!」
「だからこそ、まずは警察に任せようよ。見た感じ、対英霊用の部隊なんでしょ。僕らが割り込んだら、連携が崩れるかもしれないじゃん」
「でも……!」
「それに、ここは警察署だよ。市民を守るのが仕事でしょ。税金で食ってるんだし、僕らみたいな一般人は後ろへ下がっておく方がいいって」
「小尾くんは自分で一般人だと思ってるの!?」
「戸籍はちゃんとあるよ」
「そういう話じゃないの!」
なのはは僕の隣へ来るどころか、一歩前へ出ようとした。手を持ち上げかけたところで、僕は外套の袖を軽く引く。
「……なのは。ここでミカエルを使うのは、できればやめてほしいんだけど」
彼女の動きが止まった。僕は彼女にだけ聞こえるように声を落とした。
「ここ、普通の警察署じゃないよ。あの武器も魔術礼装だし、みんな英霊と戦う準備までしてる。事情も分からない僕らが割り込むより、まずは警察に任せた方がいいって」
「……でも、もう怪我をしてる人がいるんだよ」
「だからこそ、今は邪魔しない方がいいでしょ。それに、なのはの力までこんなところで見せる必要ないじゃん」
「小尾くんは、そんなことばっかり……」
不満そうな声だったが、なのはが納得するとは最初から思っていない。彼女が人の命を優先することも、危険だと思えば僕の制止など振り切って動くことも知っている。ただ、ここでミカエルの権能を見せることだけは避けたかった。
そもそもオーランドは、単に警察を率いる一般人ではない。宝具じみた武装を部下に配り、聖杯戦争のために動いている魔術師だ。昨日、僕らを排除しようとしたファルデウスの陣営と、どこかで繋がっていると考える方が自然だった。僕としては、そんな相手がサーヴァントに苦戦していようと、わざわざ手を貸してやる理由がない。それどころか、相手の手札や戦力を知るには絶好の機会である。
もちろん、その話をなのはにするつもりはなかった。僕にとって相手が敵対陣営かどうかという問題と、目の前で負傷した人間を助けたいという彼女の判断は、そもそも噛み合わないのだから。
「……本当に危なくなったら、私、動くからね」
「分かってるよ。とりあえず今は、向こうに任せておこう」
なのはは納得したというより、ひとまず僕の提案を受け入れたらしい。持ち上げかけた手を下ろし、警官たちの動きを追い続けている。少なくとも、金色の鍵がこの場へ現れることはなかった。
僕の方は、今しばらく戦いを見物することにした。
「おー、うまい! 今の囲い方、いいねえ。いけいけー!」
周囲の警官がこちらを見る。
どうやら、応援しているのは僕だけらしい。
「ほら、あそこで槍を持ってる人。さっきから女の逃げ道を先に塞いでるんだよ。ああいうの、なかなかできないよ」
「……小尾くん」
「あとであの武器、ちょっと見せてもらえないかな。宝具の模造品なら、作った人にも会ってみたいんだけど」
「小尾くん!」
「はい」
「本当に危なくなったら、私、助けるからね」
なのはの顔は真剣だった。
「うん。その時は止めない。ただ、なるべく僕にやらせてよ。なのはが動くにしても、ここで何ができるか全部教えてあげる必要はないからさ」
「……小尾くん、私のことを心配してるの?」
「心配もしてるし、警戒もしてる。ここにいるの、聖杯戦争の連中だよ? なのはをただの女の子だと思ってくれてるなら、今のうちはその方がいいじゃん」
彼女はそれ以上反論しなかったが、答えを預けてくれたわけでもない。助けるべき人がいれば、自分で動く。それは彼女の判断であって、僕が決めてやれることではなかった。
少なくとも、現時点ではまだ警察側が戦線を維持している。僕はその限界を見極めることにした。
――もっとも、警察官たちの方にも、こちらを観察している余裕はなかった。
オーランドの指示がロビーへ響いた。彼は武装した部下をただ動かしているわけではない。攻撃が通った場所と通らなかった場所を確かめ、次にどの武器を出すか判断している。魔術師としての計算と、警察官としての指揮が一つに繋がっていた。
アサシンは二度、三度と攻撃を受け、そのたびに軌道を変えながら壁際を走った。かつて僕らがホテルで対峙した時のように、相手の懐へ入るための隙を探している。しかし今度の敵は一人ではなく、逃げた先に常に別の武装が待ち受けていた。
このまま押し切れるか。
そう思いかけた時、アサシンの気配が変わった。
女は攻撃を避けながら、奥の通路へ視線を向けた。何か別の存在を察知したのだろう。その顔に一瞬だけ現れた感情は、戦闘への集中とも怒りとも違っていた。
ほどなくして、僕も同じものを感じた。
人間ではない何かが、警察署へ近づいてくる。
それも、先ほどまでの英霊とは別の仕組みを持つ存在だった。
「……へえ。まだ来るんだ」
僕は椅子から少しだけ身を乗り出した。
嫌になるほど知っている気配だった。
人の形をしている。生きているようにも見える。しかし、肉体を維持している仕組みが人間のものとは異なる。かつて聖堂教会にいた頃、僕が黒鍵を握って追いかけた連中に似ている。
「なのは、ちょっと厄介なのが増えたかも」
「……またサーヴァント?」
「いや。今度のは死徒じゃないかな」
戦闘の騒音に紛れるように声を落として言うと、なのはが怪訝そうに眉を寄せた。
「……しと? 何それ?」
「吸血鬼だよ。昔、僕が聖堂教会で狩ってた連中の一種。生きてる人間が人間とは別のものに変わっちゃったような奴らだね」
「……吸血鬼? それって、昨日のアサシンとは違うの?」
「全然違う。あっちは召喚された英霊だけど、こっちは今もこの世界で生きてる人外。しかも、あの感じだと結構な大物じゃないかな」
なのはは改めて通路の奥へ視線を向けた。吸血鬼の話自体は、僕の前世について説明した際にもしている。ただ、「死徒」という呼び方まで覚えていて当然だとは思わない。彼女にとっては、吸血鬼もまた小尾一の過去に登場する奇妙な存在の一つに過ぎなかったはずだ。
聖杯戦争の召喚によって一時的に現界した英霊とは違い、これから現れるのは、地球で生きてきた人間が変質した存在だ。だからこそ、なのはには余計に信じ難い光景になるかもしれなかった。
黒い髪のアサシンも同じ方向を見ていた。
その視線の先から、男が現れた。
壁際の暗がりから歩いてきたその男は、まるで劇場の客席から舞台へ上がる役者のように、場違いなほど堂々としていた。結界へ無理やり穴を開けた形跡もない。警察署を囲む術式を気にした様子さえ見せず、既に戦闘が始まっているロビーの中央へ、ゆっくりと足を運んでくる。
もちろん、誰も歓迎していない。
警官隊は即座に射線を組み直し、オーランドが侵入者を警戒した。ところが男の方は、自分へ向けられた武器など見えていないかのように、アサシンと彼女を取り囲む警官たちを見比べていた。
「これは驚いた。人間が宝具を手にして、英霊とここまで渡り合うとはね」
口調だけなら感心しているように聞こえる。ただ、その目には戦っている人間への敬意など欠片もなかった。代わりに、妙に楽しそうな、しかしどこか苛立った色がある。
「けれど、困るなあ。そんなに立派に戦って、最後は満足して消えられてしまっては困るんだよ」
何を言っているのだろう。
少なくとも、普通の観戦者が口にする言葉ではない。
アサシンは黒髪を揺らし、男へ視線を向けた。しかし、すぐに攻撃を仕掛けることはなかった。眉間に刻まれた皺は警戒というより、不快なものを目にした時の反応に近い。彼女には、男の顔に見覚えがないのかもしれない。
その間に、クラン・カラティンの一人が動いた。
背後から男へ距離を詰めた青年警官が、手にした短剣を振り上げる。隊員たちの配置を見る限り、彼が単独で突っ込んだわけではない。仲間の射線を避け、侵入者の注意がアサシンへ向いている隙を選んでいた。訓練された動きだ。
しかし、相手が悪かった。
「おっと」
男が振り向いた。
いや、正確には、首がこちらへ向くより先に、手が動いていた。
短い音がした。刃と何かが触れ合ったというより、硬い物が噛み砕かれたような音だった。
「……っ!?」
青年警官の身体が傾いた。振り下ろすはずだった右腕が、肘から先を失っている。彼が握っていた短剣も、消えていた。
男の口元が動く。
金属を噛み砕く音が、妙にはっきり聞こえた。
「ジョン!」
部隊の誰かが叫んだ。
僕は反射的に目を凝らした。死徒が青年警官の右腕を奪った。しかも、武装ごと食ったのだ。あれだけの神秘を帯びた短剣を、まるで食べ物でもあるかのように。
ただの腕力では説明できない。
「……へえ」
口から声が漏れると同時に、僕は自分が少しだけ興奮していることに気づいた。人間が偽宝具を作り出すのも興味深いが、それをああも簡単に壊す存在がいるとなれば、なおさらである。
「小尾くんっ!」
なのはが前へ出かけた。
右腕を失った警官が床へ倒れ、仲間たちが彼を後方へ運び始めている。出血を止めようとする声が飛び、医療班を呼ぶ無線が重なった。なのはの顔から、戦闘を見物する余裕など完全に消えていた。
「なのは、待って。ここは警察に任せようよ」
「でも、あの人、腕が……!」
「見て。もう仲間が運び出してるし、医療班も呼んでる。警察署なんだから、こういう時の対応くらい決まってるでしょ。僕らが勝手に割って入ったら、かえって邪魔になるって」
「だけど、あのままだと、また誰かが……!」
「それでも、僕らが戦う必要はないよ。相手はちゃんと武装した警察官なんだから、まずは自分たちで何とかしてもらおう」
言いながら、僕は椅子へ深く座り直した。彼女が納得していないのは分かる。だが、いま正面で戦っているのは、僕らを包囲した連中でもある。聖杯戦争の参加者が自分たちの拠点で襲われたからといって、こちらから救援を申し出る必要がどこにあるのだろう。なのはには、そういう話をしても意味がない。だから僕は、ただ警察の仕事に口を出すべきではないという顔をしていた。
なのはは倒れた警官と戦場を交互に見つめた。今にも走り出しそうだったが、既に医療班が駆けつけ、仲間の警察官たちが負傷者を後方へ運んでいくのを確認すると、ひとまず足を止めた。それでも、彼女の表情から不安が消えることはなかった。
その間にも、オーランドが手を止めていたわけではない。
署長の周囲へ新たな魔力反応が集まり、結界の術式と連動した使い魔が男の退路へ回り込んだ。警官たちが距離を取ったのに合わせ、異形の影が左右から襲いかかる。
男は足を止めなかった。
使い魔が届くより早く、その姿が崩れる。術式の繋がりを断ち切られたのか、破壊されたのか、判別する暇さえなかった。残された魔力が虚しく散り、床へ落ちる頃には、男はもうアサシンの前に立っていた。
「さて。ようやく君と話せるね」
先ほどまで警官たちを虫けらのように扱っていた男が、そこで態度を変えた。
胸へ手を添え、舞台の上で貴婦人へ礼をするように身を屈めたのである。
その仕草は丁寧だった。しかし、だからこそ気持ちが悪かった。礼儀というより、相手が嫌がると承知したうえで親愛を押しつけているように見えたからだ。
「初めまして、と言うべきかな。この姿では君に会うのは初めてだろうから」
アサシンの髪がわずかに動いた。
「……何者だ」
男は嬉しそうに笑う。
「ジェスター・カルトゥーレ。君をこの街へ招いた者の名だよ」
その名を聞いた瞬間、アサシンの表情が凍りついた。
僕は彼女の反応を見て、なるほど、と頷いた。
召喚した魔術師を彼女自身が殺したのなら、名前を聞いた覚えはあるはずだ。僕らのホテルへ襲いかかったあの時も、この女は聖杯戦争そのものを敵としていた。ならば、儀式へ参加したマスターを殺したという話にも、さほど驚かない。
問題は、殺したはずの相手が目の前で笑っていることだ。
「……貴様は、あの時……」
「そう。君に心臓を奪われた魔術師だ。ただし、あれで私のすべてが死んだわけじゃない。あの肉体は失われたが、私はまだ君の前にいる」
男は胸へ触れ、わざとらしく自分の身体を示した。
複数の肉体、あるいは命を使い分ける死徒。
そう考えれば、目の前の男と死んだ魔術師が同一の存在であることにも説明がつく。死徒の中には、通常の人体構造を前提にしない生命維持の仕組みを持つ者がいる。心臓一つを潰された程度では、存在そのものが終わらないというわけだ。
しかし、アサシンが怒りを露わにした理由は、死からの復活そのものではなかった。
「……まさか、貴様は」
「おや。ようやく気づいた?」
ジェスターは心底楽しそうだった。
「君はあれだけの宝具を使い、これほど激しく戦っている。なのに、どうしてまだ現界していられるのかな。誰の魔力でそれが可能になっているのか、考えたことはなかったかい?」
アサシンは答えなかった。
だが、その顔から血の気が引いたように見えた。
英霊は召喚されたからといって、無制限に魔力を使えるわけではない。単独行動の適性を持つ者もいるし、土地や別の供給源から力を引き出す場合もあるが、少なくとも目の前のアサシンは、昨日から複数の大規模な技を使い続けている。
その維持を可能にしていたのが、殺したはずのマスターだった。
「……そんな、ことが……」
「君の信仰は素晴らしい。自分の願いではなく、正しいと信じるもののために戦い続けている。だから私は、君を簡単に失いたくないんだ」
その声には、確かな熱があった。
ただし、決して善意ではない。
「君が守ろうとしているものも、君が何より嫌うものも、私はよく知っている。そのうえで君がどこまで耐えられるのか、見てみたいんだよ」
「……黙れ」
アサシンが低く告げた。
ジェスターは首を傾げる。
「なぜ? 私は君のマスターだ。それに、もう隠すこともないだろう」
彼は両腕をわずかに広げた。
「私は死徒だよ。君が憎み、拒むべき、人の理に背く存在だ」
次の瞬間、アサシンの黒髪が爆ぜた。
天井へ向かって伸びた束が途中で折れ、鋭い先端を一斉にジェスターへ向ける。彼女の身体から立ち上る魔力は、先ほど警察官たちへ向けていたものとは明らかに質が違った。怒りだけではない。自分がこれまで何を支えに戦っていたのかを知らされたことへの、強烈な嫌悪が混じっている。
「貴様のような人理の敵に、この身を繋がれていたというのか……!」
ジェスターはうっとりと目を細めた。
まともではない。
相手がこれほど嫌悪を見せているのに、まるで待ち望んだ告白でも受けたかのように喜んでいる。死徒には色々な奴がいるが、ああいう手合いには関わりたくないものだった。
「……うわあ。パイセン、あれ相当ひどくないっすか」
『ふむ。少なくとも、相手の信念を壊すこと自体に関心があるようだな』
「そういうことを嬉しそうに話す奴って、いるんすねえ」
『君にも、多少は思い当たる節があるのではないかね』
「パイセンまでなのはみたいなこと言わないでくださいよ」
冗談を返している場合ではなかった。
アサシンが踏み込んだ。黒髪が周囲の床と壁を切り裂きながら、男の首と心臓を同時に狙う。昨日ホテルで見た技と同じく、彼女はためらいなく致命傷を与えにいっていた。
だが、ジェスターは攻撃を受けようとしなかった。
「おっと。今、ここで君に死なれては困るんだ」
彼が左の腰へ手を添えると、衣服の下から赤い光が滲み出した。そこに刻まれた紋様が何なのか、僕にはすぐに分かった。
令呪だ。位置こそ僕の右手とは違うが、聖杯戦争のマスターへ与えられる、サーヴァントへの強制命令権である。
アサシンがその意味を理解した瞬間、彼女の目が見開かれた。
召喚者を殺しても、魔力の経路は断たれていなかった。そして、命令を強制する権限まで残されている。彼女が最も嫌う相手の手に、自分の行動を左右できる力が存在するというわけだ。
ジェスターは腰の令呪を輝かせたまま、アサシンをこの街から可能な限り遠くへ転移させるよう命じた。逃れようとした黒髪が床を抉ったが、その動きよりも早く、強制命令の力が霊基へ作用した。
空間が歪んだ。
アサシンの足元を中心に生じた魔力の奔流が、彼女の身体を包み込む。どれほど抗おうとしても、召喚システムそのものが強制的な転移を実行している以上、単純な筋力では覆せない。彼女は最後までジェスターを睨み続けたが、その姿は一瞬のうちに警察署から消え去った。
静寂が訪れた。
今の一連のやり取りを理解できた者が、ロビーに何人いただろうか。少なくとも、一般の警察官なら目の前で起きた現象の意味を説明するのは難しいはずだ。
「……うわ、令呪まで使った」
僕は思わず呟いた。
いや、使ったこと自体は珍しくない。サーヴァントを従わせるための権限なのだから、言うことを聞かない相手へ用いるのは当然の手段である。
異常なのは、その関係の方だ。
マスターを殺したサーヴァントが、なおもそのマスターから魔力を受け取っている。しかもそのマスターは、彼女が信仰に照らして何より拒絶する死徒だった。
なるほど。こいつが彼女を消滅させずに遠ざけたのは、親切心からではないのだろう。警官隊との戦いで失われることさえ気に入らない。自分の望む形で苦しめるために、わざわざ手元から逃がしたのだ。
いやあ、ろくでもない。
少なくとも、僕ならそこまではしない。
……たぶん。
ジェスターは、アサシンが消えた場所を名残惜しそうに眺めていた。
しかし、いつまでもそこへ立っているつもりはないらしい。やがて首を回し、今度こそ警官隊へ視線を向けた。
「さて。君たちにも礼を言わなければならないね。彼女があれほど見事に戦うところを見せてもらえた」
オーランドは答えず、周囲の隊員へ後退を命じた。
ジョンと呼ばれた警官は既に応急処置を受けていたが、右腕を失った傷は決して軽いものではない。部隊の誰もが男の危険性を理解している。先ほどまでアサシンと渡り合っていた彼らが、今度は明確に押されていた。
それでも、退ききるわけにはいかなかった。
警官たちは武器を構え直した。長柄の武器を持つ者が先頭へ出て、別の隊員がジェスターの左右へ回り込む。英霊を相手に磨き上げた連携は、まだ完全に崩れてはいない。
だが、今度の敵は英霊ではなかった。
正面から迫る槍を、ジェスターは避けようともしない。
刃が男へ届くより先に、宝具を模して作られた武装へ亀裂が走った。警官がさらに力を込めると、今度は武器の方が砕け散る。神秘の量だけなら、生身の人間を上回るはずのものだった。にもかかわらず、それを扱う人間の側に、死徒の存在へ対抗するだけの格がない。
英霊の逸話を借りて作られた武装と、人類史そのものを否定する死徒。
対立しているのは、単純な強度ではない。存在の立脚点だ。
「勘違いしてほしくないな。別に、私があの英霊よりも優れているから、君たちの武器が通らないわけじゃない」
男は割れた刃の破片を指先で弄びながら、芝居がかった口調で語り始めた。
「英雄の力を人間が借りる。発想としては悪くないさ。ただ、君たちが相手にしているのが何なのか、もう少し考えるべきだったね」
彼は警官たちを見回した。
「英霊と、我々死徒とでは、世界に対する立場そのものが違う。君たちには、その違いを埋めるものがない」
オーランドの顔が険しくなる。
署長にとって、これは単なる挑発では済まないだろう。彼らの目標が人間の力による英霊への対抗であるなら、そのための武装を無力化する相手の出現は、戦術以前の問題だ。
僕としては、非常に興味深かった。
人類史を肯定する英霊と、人理の否定者である死徒。両者の関係については聖堂教会にいた頃から知っているが、こうして人間が扱う偽宝具を介して比較すると、構造が実に分かりやすい。
ただし、隣のなのはは違った。
「……あの人、何を言ってるの?」
「簡単に言うと、警察の武器が自分に通じない理由を説明してるんだよ。嫌味たっぷりにね」
「そんなことより、怪我した人がいるのに……」
「だからこそ、ああいう奴なんでしょ」
僕は肩をすくめた。
ジェスターはさらに言葉を続けている。人間が自分たちの力ではなく道具に頼ること、そこに彼が価値を認めていないこと。アサシンの信仰へ向けた気持ちの悪い熱意とは逆に、警官たちへ向ける言葉は徹底して冷淡だった。
オーランドは、答える代わりに日本刀めいた武装へ手を掛けた。
部下たちを守るつもりなのだろう。あるいは、挑発へ乗ったのかもしれない。どちらにせよ、これ以上は自分が前へ出る必要があると判断したらしかった。
ジェスターが楽しそうに笑い、何の変哲もない手を軽く持ち上げる。
それだけで、周囲の警官たちの表情が変わった。
あの手でジョンの腕を奪われたことを、誰も忘れてはいない。対英霊用の武装すら届かない相手が、今度は署長を狙おうとしている。
僕はちらりとハンザ先輩を見た。
あの人は、まだ動いていない。
しかし、その表情には既に仕事を始める代行者のものが浮かんでいた。
署長自ら戦うつもりらしい。
僕は椅子から腰を浮かせたが、別に前へ出ようとしたわけではない。なのはの表情が変わったのが見えたからだ。先ほどまでの迷いが消え、今すぐにでもジェスターと警官たちの間へ入りそうな顔になっている。
「なのは。そこは警察に任せておこうよ」
「……でも、あんなことをした人を、このままにしておけないよ」
「だから、こっちが出ていく必要はないって。ハンザ先輩もいるんだし。ああいう相手を処理するのは、あの人の専門だよ」
なのははそれでも足を踏み出そうとした。僕は続けて何か言いかけたが、結局やめた。彼女の方も、僕が何を言おうとしているかくらいは察しているだろう。聖堂教会の代行者がいる、警察は武装している、僕らは荷物を取りに来ただけだ。理由ならいくらでも並べられる。
ただ、僕がそこまで頑なに手を貸したくない本当の理由は、別にある。
目の前のオーランドは、聖杯戦争を運営する側の魔術師だ。僕を排除しようとしたファルデウスと同じ盤面に立っている以上、こちらの味方として数える方がおかしい。そんな相手の戦力が削られることを、僕がわざわざ防ぐ必要はなかった。なのはが知れば反対するだろうが、だからこそ言わない。彼女へその理屈を押しつけるつもりもない。
そのとき、なのはは負傷者の側へ目を向けた。手当てを受けていた警官が担架へ移されかけており、搬送を急ぐ声が上がっている。
「……私は、見てるだけじゃ嫌だよ」
そう言って彼女は駆け寄り、負傷者を運ぶ警察官たちへ声をかけた。指示を聞き、担架の移動を手伝う。僕が勧めたからではない。助けを必要とする人間を前にして、彼女自身がそう決めたのだろう。目立つ権能を使わずに済むのであれば、僕にもそれを止める理由はなかった。
僕の方は、ジェスターの動きを追い続けた。代行者だった頃なら、死徒だと分かった時点で黒鍵を構えて飛び込んでいたかもしれない。だが、今の僕はもう聖堂教会の人間ではないし、こちらを警戒する警察側の戦いに加わってやる義理もない。自分たちで対処できるなら、それに越したことはなかった。
それに。
ハンザ先輩がいる。
こんな相手を前にして、あの人が黙っているとは思えなかった。
その予想は、間もなく当たった。
ジェスターがオーランドへ向かって歩き出した時、横合いからコーヒーが飛んできたのである。
最初、僕は何を投げたのか分からなかった。褐色の液体が空中で広がり、死徒の顔と衣服へ降りかかる。弾丸を撃ち込んでも平然としていそうな相手が、あまりにも日常的なものを浴びせられたことで、一瞬だけ動きを止めた。
犯人はハンザ先輩だった。
何とも言えない顔で紙コップを捨て、正面から死徒を見据えている。
「……ぶっ」
僕は思わず吹き出した。
なんてことをするんだ、あの人は。
いや、気持ちは分かる。死徒を相手にする時、大事なのは恐怖を見せないことでもある。相手がどれほど人間離れしていようと、代行者としての仕事を果たすのに遠慮はいらない。ただ、わざわざコーヒーを顔へかけるという発想は、なかなか思いつかない。
ジェスターの表情が変わった。
警官たちへ向けていた軽蔑とも、アサシンへ見せていた歪んだ歓喜とも違う。自分を侮辱されたことへの、極めて人間的な怒りだった。
「……ハンザ先輩、相変わらず容赦ないっすねえ」
『よく知っているようだな』
霊体化したパイセンの声が意識の奥へ届いた。
「いや、ここまでやる人だとは思ってなかったっすけど」
『君なら同じようなことをやりかねんと思うがね』
「僕はもっと丁寧に挑発しますよ」
『それはそれで悪質だな』
言峰パイセンは楽しそうだった。考えてみれば、この人も代行者だったのだから、死徒を相手にする時のハンザの気持ちくらいは理解できるのだろう。
一方のハンザは、怒りを露わにするジェスターを見ても、わずかに首を傾けただけだった。立場上、彼は聖杯戦争の監督役である。しかし、目の前にいるのは単なる参加者ではない。人を傷つけた死徒だった。
教会の中立性と、代行者の任務。
同じ聖職者が持つ二つの立場が、ここでは別々の意味を持っている。
ジェスターは監督役の立場を持ち出して咎めているらしかったが、ハンザは取り合わない。少なくとも、外から見る限り、その言葉で攻撃を思いとどまる気配などなかった。
「……おお」
僕は思わず前のめりになった。
ハンザが半身になる。
右足がわずかに引かれ、上体が沈む。相手へ向かって一直線に飛び込むための構えではない。最初の一撃を外し、近づいたところで次の動きへ繋ぐための準備だ。
ジェスターは、その姿を見て笑みを取り戻した。自分の身体能力が人間を遥かに超えていることを信じて疑っていないのだろう。先ほどまで警察官たちが浴びせた攻撃も、この男にとっては恐れるほどのものではなかった。
ならば、代行者一人を相手にするのも同じだと考えたのかもしれない。
しかし、その認識は初撃から崩されることになった。
ジェスターの腕が前へ出る。指先は人間の身体を容易く裂けるほど硬化しており、伸ばしただけで鋭い武器になる。それを受けるつもりなら、通常の人体などひとたまりもない。
ハンザは受けなかった。
足をわずかにずらして軌道を外し、攻撃を避けた勢いをそのまま踏み込みへ変える。相手の腕が伸び切るより早く間合いが詰まり、右肩が胸元へ入り込んでいた。骨と骨がぶつかったような鈍い音のあと、ジェスターの身体が思わぬ方向へ傾く。
……いや。
骨だけじゃない。
衝撃の伝わり方がおかしい。
通常の八極拳に似た、短い距離から力を通す打撃であることは分かる。だが、軸足から腰へ伝わるはずの出力が、途中で一段跳ね上がっている。魔術による身体強化を加味しても、動きの始まりと終わりで力が一致していなかった。
僕は目を細めた。
次にハンザが腕を返した時、ようやく理由が見えた。
袖の内側で金属が動いている。
腕の関節が通常とは違う角度で折れ、動作の切り返しに合わせて内部の機構が駆動した。ジェスターが避けた位置へ追撃が届き、肉を裂くために伸ばされていた爪が、逆に神父の掌打によって外へ押し戻される。
機械化している。
それも、義手を一本取り付けたという程度ではない。
「……マジか。ハンザ先輩、サイボーグじゃん」
声が漏れた。
なのはが負傷者のところからこちらを見た。彼女は包帯を手渡したあと、再びハンザの方を振り向いたが、次の瞬間にはその場で動きを止めてしまった。
「……えっ? 今、あの人の腕……」
見逃したわけではないらしい。彼女の視線は神父の右腕に釘づけになっていた。常識的な関節なら折れてしまうはずの角度から拳が返り、死徒の胸元へ追撃が入る。相手の爪が頬の脇を掠めても、ハンザは表情一つ変えずに間合いを詰めた。ジェスターも壁を砕く勢いで跳び退き、着地した次の瞬間には再び襲いかかってくる。
「身体の中に機械を入れてるんだよ。ほら、腕の動きが普通じゃないでしょ」
「機械って……あの神父さん、生身の人間じゃないの?」
「生身の部分がどれくらい残ってるかは知らないけど、人間だよ。少なくともサーヴァントじゃない」
「……人間、なんだよね」
なのはは確かめるように繰り返し、それからジェスターへ目を移した。吸血鬼の男は胸元に受けた打撃を意に介した様子もなく、今度は人間なら首が折れるような姿勢から上体を起こしていた。彼女が驚いているのは、どちらか一方の速さや力だけではないのだろう。二人とも外見は地球の人間と変わらない。それなのに、目の前で起きているのは、通常の人間同士の格闘とは比較にならない戦闘だった。
「……小尾くん以外にも、地球にはこういう人がいるんだ」
「いるよ。まあ、あそこまで改造した代行者は僕も初めて見るけど」
「昨日の言峰さんも、アサシンも、サーヴァントだからって思ってた。でもハンザさんは、普通にこの世界で生きてる人なんでしょ? あの吸血鬼の人も、昔は人間だったんだよね?」
「そうだね。だからこそ、僕は昔ああいう連中を相手にする仕事をしてたんだよ」
なのはは返事をせず、再び戦いへ視線を向けた。彼女自身、人の身には余る権能を宿している。しかし、自分がそうであることと、これまで一般の人間だと思ってきた地球の住人が、目の前で壁を砕きながら殺し合っている光景を受け入れることは、別の話らしかった。
「むしろ、ああいう相手と戦うために改造してるんじゃないかな。いやあ、最近の代行者って進んでるなあ」
僕も自分の身体をかなり弄っているが、方向性がまるで違う。僕の場合はセフィラとテレズマを使って人間の器を別の存在へ近づけている。ハンザの機械化は、もっと実戦に特化したものだ。
人間の骨格や可動域に囚われない。内部へ武装を隠せる。肉体の弱点を機械で置き換えられる。損傷した場合の修復も、場合によっては生身より合理的だろう。
何より、格好いい。
黒衣の神父が、死徒を相手に機械化した身体を使って戦う。
十代の僕なら、たぶん三日はその話をしていた。
「いやあ、ぱねーっすね、ハンザ先輩。あれ、どうなってるんだろ」
『気になるなら後で本人へ尋ねてみたまえ』
「ですよね。あれ、どういう仕組みになってるのか聞いてみたいっすわ」
『引き受けてくれるとは思えんがね』
僕もそう思う。
だが、聞くだけなら無料である。
戦闘はさらに激しくなった。ハンザの身体からは、人間の四肢だけでは説明しきれない軌道で攻撃が繰り出される。ジェスターも単に押されているだけではなく、踏み込んだところを狙って反撃し、時には自分の肉体を盾のように用いて間合いを崩そうとしていた。
だが、そのたびにハンザは距離を作り直す。必要なら近づき、必要なら外す。その判断が極めて速い。しかも、動作に迷いがないため、相手が防御を固めた時には既に別の角度へ移っている。
義体そのものの性能だけではない。
代行者としての経験と訓練が、機械化した身体の性能を初めて戦闘へ結びつけているのだろう。
昨日の言峰パイセンもそうだった。八極拳を扱う人間ならいくらでもいるが、あの人の技は、相手の判断が終わるより早く次の動作へ移る。優れた使い手は、一つの技を決めてから次を考えているわけではないのである。
ハンザにも、それに近いものがあった。
ただ、戦い方は違う。言峰パイセンが鍛え上げた人体を極限まで使うのに対し、ハンザは肉体の限界そのものを作り替えている。同じ代行者でも、技を極める方法は一つではないらしい。そこまで考えてから、僕は少し笑ってしまった。昔の聖堂教会に、こんな機械仕掛けの神父が現れたら、さぞかし騒ぎになったことだろう。
「小尾くん」
なのはが戻ってきた。警官たちが負傷者を奥へ運び、応急処置を引き継いだらしい。彼女は戦闘の中心を見つめながら、少し緊張した声で続けた。
「……あの二人、まだ止まらないの?」
「たぶん、どっちかが動けなくなるまで続くんじゃないかな。死徒と代行者だし」
「そんな……。あれだけ殴り合ってるのに、二人とも全然止まらないよ」
なのはが驚いているのも無理はない。さっきから打撃が命中するたびに床が割れ、相手が避ければ背後の壁まで抉れている。サーヴァントなら、そういう規格外の存在だと割り切れる部分もあるだろう。しかし、片方は現役の聖堂教会の人間で、もう片方は地球に存在する吸血鬼なのだ。
「うん。普通の人間がやったら、最初の一発で終わってるだろうね」
「……小尾くん、よく平気で見てられるね」
「僕にとっては、昔の仕事を見てるみたいなものだからねえ。でも、なのはが驚くのは分かるよ。地球の裏側って、ああいうところもあるんだ」
もっとも、なのはの驚きをもっともなことだと思う気持ちと、彼女を戦いに加わらせないための計算は別だった。ハンザは今のところ単独で応戦できている。ここへミカエルまで出せば、聖杯戦争の監督役にも警察にも、こちらの事情を一気に知られることになる。
「ハンザ先輩は専門家だよ。どうしても助けが必要になったら、まず僕が動く。それまでは任せておこうよ」
「……うん。でも、危なくなったら待たないからね」
「分かってるって」
どちらかがこちらを巻き込むような攻撃を始めれば、僕も手を出す理由ができる。それまでは見ていればよい。
ほどなくして、床の一角が大きく砕けた。
ジェスターの身体が後ろへ流れ、ガラス張りの正面側へ向かう。相手がわざと下がったのか、ハンザが追い込んだのかまでは分からない。ただ、二人とも屋内の障害物に構う余裕がなくなっているのは確かだった。
ハンザがもう一歩踏み込む。
衝撃が走った。
外壁に近いガラスが破裂し、夜明け前の冷気がエントランスへ吹き込んでくる。割れた破片が床を滑り、警官たちが反射的に身を伏せた。僕はなのはの肩へ軽く手を置いて後方へ引き、そのまま自分も瓦礫の飛んでこない位置へ退いた。
二人の姿が外へ出る。
ハンザの黒衣が一瞬だけ見え、続いてジェスターの影が道路の向こうへ消えた。外から衝撃音が届く。建物を挟んだため細かな動きは見えなくなったが、戦闘が続いていることだけは分かった。
「……行っちゃったね」
なのはが呟く。
「そうだねえ。いやあ、すごかった。ハンザ先輩、やるじゃん」
「……小尾くん、ほんとに見てただけだね」
「もちろん。下手に首を突っ込んだら迷惑でしょ」
「それだけじゃないよね。……私の力、あの人たちに見せたくなかったんでしょ?」
「まあね。僕はもう目をつけられてるみたいだし、せめてなのはのことくらいは伏せておきたいじゃん」
なのはは僕を見つめたまま、少し眉を寄せた。その表情には、僕の考えを理解する気持ちと、目の前で人が傷ついている間も黙って見ていたことへの不満が混じっているようだった。
「……分かるけど、次も黙って見てるとは限らないから」
「うん。そこはなのはが決めることだよ」
それだけ答えると、彼女はようやく小さく息を吐いた。
考えてみれば、今日のところは僕らに被害がない。壁も床も壊されたが、それは警察署の問題である。街中で聖杯戦争をしている以上、こうしたことが起きる可能性は十分に考慮しているだろう。
それに、こちらがわざわざ修理して回る義務もない。
僕は無事だった長椅子へもう一度腰掛けようとして、ふと本来の目的を思い出した。
……あ。
そういえば、荷物を取りに来たんだった。
◇
オーランド・リーヴには、ようやく本格的な災難が始まったという実感があった。
警察署のエントランスは、先ほどまでと同じ場所とは思えない有様になっている。破損したガラスの奥から外気が流れ込み、床には血痕と瓦礫が残されていた。部下は負傷し、一部の武装は損傷している。関係者ではない職員が巻き込まれなかったのは幸いだったが、それで事態が軽くなったわけではない。
何より、今朝の襲撃は、この警察署が聖杯戦争において安全な場所ではないことを明確に示してしまった。
クラン・カラティンは、対サーヴァント戦を想定して組織された部隊である。だが、先ほどの死徒はその想定から外れていた。疑似宝具による防御が期待どおりに働かず、優秀な部下の一人が右腕を失った。彼は直ちに処置を命じたものの、失った腕を簡単に元へ戻すことはできない。
そのうえ、聖堂教会の監督役は死徒を追って警察署の外へ出ていった。これまでの事情を尋ねたくても、今はどこで戦っているかさえ正確には分からない。
「負傷者の搬送を優先しろ。破損した武装は回収して、所在を記録しておけ。一般職員には、この区域へ戻らないよう伝えろ」
オーランドの指示に合わせ、部下たちが動く。彼はさらに通信記録を確認し、外部からの応援要請と近隣への情報統制について指示を与えた。魔術の秘匿だけが仕事ではない。警察署長として、街の治安と職員の安全を守る責任も負っている。
そんな彼の前へ、一人の少年がやって来た。
「あ、署長。そういえばさ」
オーランドは振り返った。
黒い代行者風の衣装を着た日本人の少年だった。フリーの魔術師を名乗りながら教会の裏の仕事にも通じ、先ほどの戦闘中には長椅子へ座って応援していたという、報告書でも扱いかねていたイレギュラーなマスターである。
今は、正直なところ構っている余裕がなかった。
「……何だ。まだいたのか」
「いやあ、いるよ。用事が終わってないし」
「用事?」
「昨日のホテルの荷物。あれ返してよ」
オーランドは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
目の前では部下が負傷者を運び、別の者は破損した施設の安全確認をしている。聖杯戦争の参加者が警察署内へ侵入し、死徒まで乱入するという想定外の事態が起きたばかりだ。
その直後に、荷物。
「……今はそれどころではない」
「いや、忙しいのは分かるけどさ。こっちだって荷物がないと困るんだよ。着替えもないし、礼装も入ってるし」
「礼装?」
思わず聞き返してしまった。
少年は何でもないことのように頷く。
「そう、魔術礼装。だから早く返してって言ってるんだよ」
……分かっていたつもりだったが、報告書から受ける印象とはずいぶん違う。
オーランドは目の前の少年を改めて見た。
服装だけなら、確かに聖堂教会の代行者を連想させる。しかし、見た目は高校生くらいの少年であり、本人はどこにも所属しないフリーの魔術師だと答えている。ハンザとの親しげな様子から教会との繋がりを疑うことはできても、現役の代行者だと断定できる材料はない。にもかかわらず、少年は教会の裏側を知っていることを隠そうともせず、監督役の神父へ気安く声をかけていた。服は趣味だという返答を、額面どおり受け取るわけにはいかなかった。
そのうえ、ホテルの一室で魔術的な異常が起きた事件に関与している。召喚陣の痕跡が確認されている以上、前夜の情報から状況が変わったと考えるべきだろう。ファルデウスの最後の報告では、少年にはまだサーヴァントがいなかったはずである。
オーランドは昨夜の資料を思い返した。偽りの六騎に存在しないはずの七人目。その発生そのものが、計画のどこかに予期しなかった変化が生じた証拠だ。しかも、その当人は英霊と死徒の戦闘を目の前で見ても取り乱さず、長椅子に腰掛けて部下の戦いを眺めていた。
名前は分かっている。警戒対象であることも、既に承知している。本人はフリーの魔術師を名乗っているが、何者と繋がっているのか、どのようなサーヴァントを召喚したのか、隣の少女が何なのかは、まだ分からない。まして聖堂教会の代行者を思わせる格好で、監督役の神父に気安く挨拶してみせた。教会と無関係なイレギュラーとして扱うには、疑うべき点が多すぎた。
「……名前は小尾一だったな」
「そうそう。ようやく覚えてくれた?」
「そちらの少女は?」
「高町なのはです」
なのはが横から頭を下げた。
「お忙しいところ、すみません。私たち、ホテルに荷物を置いてきてしまって……」
彼女の対応は、少年よりずっと常識的だった。実際、戦闘中にも負傷者の手当てを手伝おうとしていたことを、オーランドは把握している。
しかし、その少女もまた普通ではない。
警官たちの報告によれば、彼女は突入してきたアサシンを前にしても退避しようとはせず、戦闘中には負傷者の救護を手伝っていた。少年が何度か彼女を引き留めていたことも確認されている。しかし、魔術の行使や武装の展開は目撃されていない。だからといって、ただの同行者だと考えるには不自然だった。少年は何を隠しているのか。その点も、オーランドには確かめる必要があった。
「君たちの荷物については、後で担当部署に確認させる」
オーランドはそう告げ、部下へ次の指示を出そうとした。
◇
署長は、それで僕らの用件をひとまず終わらせたつもりらしい。しかし、こちらはまだ荷物の所在すら教えてもらっていない。後で確認すると言うなら、せめていつ頃になるのか聞いておきたいところだった。
「えー、後っていつ? 今日中には返してよ」
「……見れば分かるだろう。この状況で、君の私物の確認を最優先にはできん」
「それは分かってるけどさ、確認するだけならそんなに時間かからないでしょ?」
「私が抱えている問題は、荷物の所在だけではない」
「いや、それってそっちの事情じゃん。僕ら、別に警察署を壊しに来たわけじゃないし。荷物を返してって頼んでるだけなんだけど」
オーランドの眉間に、深い皺が刻まれた。
その背後では、担架に乗せられた警察官が運ばれていくところだった。砕けたガラスの撤去も終わっておらず、職員たちは負傷者の確認や各所への連絡に追われている。署長としては、今すぐにでも指示を出さなければならないことが山ほどあるのだろう。
大変そうである。
ただ、それと僕の荷物が返ってこないことは別問題だと思う。
「……分かった。君たちの話は聞こう」
「おっ、話が早い」
「ただし、今すぐではない。まず負傷者の搬送と現場の処理を済ませる。私の部屋で待っていろ」
「署長室?」
「そうだ。廊下を進んだ一番奥だ。勝手に他の部屋へ入るな」
「了解了解。じゃ、先に行ってるね」
僕はなのはへ声をかけ、署長が指し示した廊下へ向かった。背後から深いため息が聞こえた気もするが、たぶん気のせいだろう。
「……小尾くん」
「ん?」
「もうちょっと、相手の事情も考えてあげようよ」
「考えてるって。だから待ってあげるんじゃん」
「そういうことじゃないんだけど……」
なのはは納得していないようだったが、ひとまず一緒についてきてくれた。
エントランスを離れると、先ほどまでの喧騒が少し遠のいた。それでも廊下を行き交う警察官たちの足取りは慌ただしく、無線機からはひっきりなしに報告が飛び交っている。どうやら、当分は落ち着きそうにない。
やがて廊下の突き当たりに、署長室と書かれた扉が見えた。重厚な造りの扉で、廊下の喧騒から切り離されているせいか、ここだけはまだ警察署らしい落ち着きを保っている。
とりあえずノックしてみたが、返事はない。オーランドはまだエントランスで後始末をしているのだから当然だろう。僕がドアノブに手をかけると、隣のなのはが慌てて袖を引いた。
「小尾くん。署長さんが来るまで、外で待ってた方がいいんじゃない?」
「部屋で待ってろって言われたじゃん。なら中で待とうよ。廊下に立ってたら、ここの人たちの邪魔にもなるし」
「それはそうだけど、勝手に開けるのは……」
「鍵がかかってたら、ちゃんと諦めるよ」
試しに回すと、あっさり開いた。どうやら署長は僕らが中へ入ることまで想定していたらしい。そう判断して扉を押すと、冷房の効いた空気と、書類特有の紙の匂いが流れてきた。
室内には大きな執務机と書棚があり、窓際には来客用のソファが置かれている。戦場と化した一階とは対照的に、こちらの調度品には傷一つない。それに、部屋の内側にも監視か防護のためらしい術式が仕込まれていた。警戒している相手をわざわざ署長室で待たせるのは妙だと思ったが、ここなら動きを把握しやすいという判断なのかもしれない。上司の部屋まで壊されていたら、あの署長もますます機嫌を悪くしていただろう。
ただし、無人ではなかった。
「……あれ?」
来客用のソファに、少女が一人、我が物顔で腰掛けていた。
見た目は僕らとそう変わらない年頃だろうか。服装も態度も警察関係者には見えないし、こんな朝早くに署長室でくつろいでいる事情もさっぱり分からない。テーブルには書類が積まれているというのに、当人は何かを待ちくたびれたように脚を揺らしていた。
少女は扉の開く音を聞いて顔を上げると、こちらを見て、ぱっと表情を明るくした。
「あれあれー? オーランド君が戻ってきたのかと思ったら、面白いお客さんが来ちゃった!」
「……誰、この子?」
思わず口に出してしまった。なのはが隣から軽く肘で突いてくる。失礼だと言いたいのだろうが、署長室のソファで知らない少女がくつろいでいたら、普通は誰なのか気になるものである。
少女はまるで気にしなかった。それどころか、こちらを眺めているうちに、ますます楽しそうな顔になっていく。
「あっ、もしかして君が噂の七人目? いるはずのないマスター君でしょ!」
「へえ。僕のこと知ってるんだ」
「もちろん! 予定にないものが突然増えたら、気になるじゃない?」
ごもっともである。僕だって、用意した召喚陣から想定外のサーヴァントが現れたら気になる。実際に昨日そうなったばかりなので、あまり人のことは言えなかった。
「僕は小尾一。こっちは高町なのは。それで、君は?」
「フランチェスカ。フランチェスカ・プレラーティ! オーランド君に用があるんだけど、なかなか帰ってこなくてさあ」
少女は自分のことをフランチェスカと名乗り、こちらへ手を振った。署長が何かと忙しい事情くらい知っているだろうに、気楽なものである。
もっとも、その目つきは単に気楽なだけではなかった。僕の黒衣を一瞥したあと、なのはの方へ向けた視線が、ふと止まったのである。
「……へえ?」
フランチェスカは頬杖を外した。
さっきまで僕へ向けられていた興味が、何かもっと予想外のものを見つけた時のそれへ変わる。顔から爪先まで眺めるような、遠慮のない視線だった。
「ねえ、小尾君。そっちの子って、何?」
「何って、なのはだけど」
「そうじゃなくってさ」
フランチェスカは笑ったまま、あっさりと言った。
「その子、人間じゃないよね?」
なのはが固まった。
僕も、一瞬だけ口を閉じた。
ずいぶん早い。まだ挨拶を交わしただけだというのに、相手はなのはの外見と実際の在り方が一致していないことへ気づいている。単純に魔力が大きいという話ではない。なのははもう、魔術師でも魔導師でも、人間の肉体へ外から力を付け足した存在でもないのだ。
そこを見抜かれたのは、少々よろしくない。
「……どういう意味ですか?」
なのはは戸惑いながらも、少女から目を逸らさなかった。フランチェスカはその反応を見て、さらに嬉しそうに笑う。
「見た目は普通の女の子なのに、なんか違うんだよねえ。人間が魔術を使ってるのとも違うし。あはっ、君の方がずっと面白いかも!」
「いやあ、なのははちゃんと戸籍もあるし、日本で普通に暮らしてるよ」
「そういうことを聞いてるんじゃないんだけどなあ」
「じゃ、僕からも聞いていい? 君は人間なの?」
フランチェスカが目を瞬かせた。
次いで、実に愉快そうに口元を緩める。
「あはは! いいところ突くねえ。さあ、どうだろう? 少なくとも今の身体は、普通の人間とはちょっと違うかな?」
「へえ、そうなんだ」
僕は何でもないように相槌を打った。
これ以上なのはの話を続けられると厄介だ。目の前の少女が何をどこまで理解しているかは分からないが、親切に答え合わせをするつもりはない。なのはの力は、できるだけ知られない方がいい。
もっとも、話題を変えるためだけに聞いたわけでもなかった。
普通の人間ではないと言い切る少女が、自分の身体についても同じようなことを言うのだから、そちらも気になる。
「今の身体ってことは、前は違ったの?」
「ふふーん。今のは使い始めて三年くらいかな。結構気に入ってるんだよ」
「三年? へえ、すごいね。そんな簡単に着替えるみたいなことできるんだ」
「簡単かどうかは、やってみれば分かるんじゃない?」
「いや、僕の専門じゃないし。ちょっとどうなってるのか気になっただけ」
魂の移動や肉体の乗り換えとなれば、関連する魔術はいくらでも思いつく。しかし、僕が追いかけてきたのは主にテレズマと、神秘を人間へ定着させる方法である。他人の秘術を一から調べ上げるほど暇でもなければ、今ここで研究を始めたいわけでもない。
ただ、目の前でそんな話をされたら、どういうものなのかくらいは見てみたくなる。
「ねえ、小尾君。そんなに気になるなら、見せてあげようか?」
「何を?」
「私の身体の中身!」
「え、見せられるの?」
思いがけない提案だった。
なのはは僕とフランチェスカの間へ視線を往復させている。途中から話の向きがおかしくなったことには気づいているらしいが、どう口を挟めばいいのか決めかねているようだった。
「ちょっと待って。中身って……何のこと?」
「内臓だよ、内臓!」
「ないぞう!?」
なのはの声が裏返った。
フランチェスカは、その反応が嬉しくて仕方ないらしい。わざと勿体ぶるように自分の腹部へ手を当てると、衣装の裾を持ち上げた。
そこにあったのは、ごく普通の少女の腹ではなかった。
肌の中央を、左右から噛み合う白い突起が走っている。最初は奇妙な縫い目かと思ったが、よく見ると、一つ一つに歯の形があった。金属のファスナーを取り付けたのではなく、腹そのものに歯が生えている。
「……うわ、何それ?」
「ふふっ、びっくりした?」
「いや、びっくりしたけどさ。これ、口? どうなってんの?」
僕が顔を近づけると、腹部の歯列がぎちりと動いた。
噛み合っていた白い列が離れ、皮膚に走る線がゆっくり開いていく。奥に見えたのは赤黒く濡れた肉の色だったが、妙なのはそれだけではない。人間の腹なら内臓が詰まっているはずの場所に、さらに奥へ続く暗がりが覗いている。
「ほら、すごいでしょ? こんなの、なかなか見られないよ?」
「うわあ、ほんとだ。何これ、結構奥まであるじゃん」
フランチェスカは得意げに笑った。どうやらこちらが驚く様子を期待していたらしい。なのはは一歩引き、僕の袖をそっと掴んだ。
「小尾くん……もう見たよね?」
「うん。見たけど、奥がよく分かんない」
「分かんなくていいと思うよ?」
「そう?」
どうにも不思議だった。
僕は腰を落とし、開いた部分を横から覗いた。フランチェスカは面白がって、さらに口を広げる。頭が入りそうなほど大きく開いたので、つい、もう少し近くから見たくなった。
「……ちょっと、小尾くん?」
なのはが声をかけてくる。
「んー?」
返事をしながら、僕はそのまま顔を寄せた。
そして、頭から突っ込んだ。
「はあっ!?」
最初に聞こえたのは、なのはの素っ頓狂な声だった。
その直後、頭の上からも声が降ってくる。
「えっ!? ちょっと、君! 何してるの!?」
フランチェスカまで驚いている。
見せてくれると言ったのは向こうなのに、なかなか不思議な反応である。もっとも、頭を入れていいとは一言も言われていないので、その辺りは僕も少々早まったかもしれない。
ただ、それ以上に気になることがあった。
湿っぽい。
そして、臭い。
生暖かい空気が顔にまとわりつき、鼻の奥へ血と生肉を混ぜたような臭気が押し寄せてくる。頬には何やら柔らかいものが触れていた。口の中なのか腹の中なのか、今ひとつ分からない。
「うわー、なまぐさーい!」
思わず声を上げた。
「何これ! すっごい臭いするんだけど! しかも広くない!? どうなってんの、これ!」
腹の奥で何かが動き、頬のあたりをぬるりと擦った。
「うわっ、なんか触った!」
「あはっ、あはははは! ちょっと待って! 嘘でしょ、ほんとに入ってきたの!?」
「小尾くん!! 何やってるの!?」
なのはの声がすぐ近くで聞こえたかと思うと、襟首を掴まれた。
「出てきて! 今すぐ!」
「いや、もうちょっと――」
「駄目!!」
強い力で引かれ、視界が一気に明るくなる。
フランチェスカの腹から頭を引き抜かれると、なのはは僕を自分の後ろへ移動させ、少女との間に立った。そこまで警戒しなくてもいいと思うのだが、なのはの顔を見た時点で、口に出すのはやめた。
「小尾くん! 初めて会った人のお腹に、何で頭を入れるの!?」
「いやあ、開いてたからつい」
「開いてたからじゃないよ!」
ごもっともである。
そういえば、僕も昔、研究室の扉が開いていたからという理由だけで勝手に入ってくる人間を嫌っていた。今回の話とはだいぶ違う気もするが、他人の中へ無断で踏み込むのはよくない、という点では同じだろう。
「……悪かったって。ちょっと気になっちゃって」
「ちょっとで頭まで入れないで!」
それもごもっともだ。
しかし、フランチェスカは怒っていなかった。最初こそ呆気に取られていたが、今ではソファへ倒れ込むようにして笑っている。
「あははははっ! 最高! 普通は悲鳴上げるか、逃げるかするところだよ!? なんで自分から入るかなあ!」
「いや、だって気になるじゃん。お腹の中、あんなふうになってるんだよ?」
「だからって頭から行く人は初めて見たよ! しかも感想が臭いって!」
「実際、めちゃくちゃ生臭かったし」
「ひどーい! もう少し褒めてくれてもよくない?」
「いや、面白かったよ。どうなってるのかさっぱりだけど」
僕がそう答えると、フランチェスカはまた笑い出した。
どうやら気に入ってもらえたらしい。怖がらせるつもりだったのだとすれば、少々申し訳ない気もする。ただ、わざわざ内臓を見せてくれたのだから、こちらとしては十分楽しませてもらった。
なのはは鞄からティッシュを取り出し、僕へ押しつけてきた。
「……顔、拭いて。変なもの付いてる」
「えっ、マジ?」
「マジ、じゃないよ……もう……」
差し出されたティッシュで頬を拭くと、薄く赤いものが付いた。何だったのか考えると少し嫌な気分になったので、深く気にしないことにする。
その間にフランチェスカは腹部の歯列を閉じ、服の裾を整えた。
「いやー、君たち二人とも面白いねえ。片方は平気で私のお腹に頭を突っ込むし、もう片方は――」
彼女の視線が、再びなのはへ向いた。
「……本当に、どういう子なんだろうね?」
なのはの肩がわずかに強張った。
僕は手元のティッシュを丸めた。今の口ぶりからすると、最初の違和感を忘れたわけではないらしい。むしろ、余計に興味を持たせてしまったのかもしれない。
「ただの僕の同行者だよ。そういうの、あんまり聞かない方がいいんじゃない?」
「ふうん。隠すんだ?」
「そりゃあね。初対面の相手に、何でもかんでも話すほど仲良くなった覚えはないし」
口元は笑っておく。
フランチェスカも笑っていた。
どこまで理解しているのかは分からない。ただ、僕がその話を避けたがっていることくらいは伝わったはずだ。彼女はそれ以上追及せず、代わりに悪戯を思いついた子供みたいに首を傾げた。
「ま、いっか! オーランド君にも見せてあげようと思ってたんだけど、君ほど面白い反応はしてくれそうにないなあ。最高だったよ!」
「そんなに面白かった? 僕としては、どうなってるのか気になっただけなんだけど」
「うん、満点!」
何の点数かは知らないが、褒められたなら素直に受け取っておこう。
その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
慌ただしい、少しばかり苛立ちの混じった足取りである。扉の前で止まると、ノックもなくドアノブが回った。
「……待たせたな。まず昨夜のホテルの件だが――」
入ってきたオーランドは、言葉の途中で止まった。
フランチェスカがソファで満足そうに笑っている。なのはは僕の隣で、今朝だけで何年分も苦労したような顔をしていた。そして僕は、ティッシュで顔を拭き終えたところだった。
署長は三人を順番に見た。
「……私の部屋で、何をしている?」
「いやあ、署長。フランチェスカがちょっと面白いもの見せてくれてさ」
「……何を?」
「お腹の中」
オーランドが黙った。
「すごかったよ。口みたいなのが開いてさ。思わず頭突っ込んじゃった。いやあ、めちゃくちゃ生臭かったけど!」
なのはが顔を覆った。
フランチェスカが吹き出した。
そして署長の表情から、何かが消えた。
おそらく、期待だろう。