「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
オーランド・リーヴは、ひとまず目の前の少年を殴らずに済ませる方法を考えているようだった。
無理もない。部下が負傷し、警察署の玄関を壊され、監督役の神父は死徒を追ってどこかへ行ってしまった。その後始末だけでも一日が潰れそうなのに、ようやく署長室へ戻ってみれば、待たせていた客が見知らぬ少女の腹へ頭を突っ込んでいたというのだ。
少なくとも、僕が署長の立場なら頭を抱えると思う。
「……フランチェスカ。お前はここで何をしていた」
「えー? オーランド君を待ってただけだよ。ああ、途中でちょっと面白いことはあったけど」
フランチェスカは来客用のソファへ深く座り直し、足を揺らしながら答えた。彼女の腹は既に元の形へ戻っている。服の下にあの奇怪な歯列が収まっていると思うと実に興味深いのだが、隣のなのはが袖を放してくれないので、もう一度見せてくれとは言い出しにくかった。
「ちょっと、で済ませるな。ここは見世物小屋じゃない」
「それは残念。結構いい出し物だったのになあ」
「署長、ちなみにあれってどういう仕組みか知ってる?」
「知らん。知りたくもない」
「えー、もったいない」
「小尾くん」
なのはが僕の袖を引いた。声は小さかったが、続きを言わせないだけの圧力があった。彼女はまだ、先ほどの一件を引きずっているらしい。
仕方がないので、僕はひとまず内臓の話を諦めた。
オーランドは執務机の後ろへ回り、積み上がっていた書類の一部を脇へ寄せた。机の上には警察署で起きた襲撃の報告書が何枚も重なっている。負傷者の氏名、損壊した設備、回収した武装、現場の封鎖状況。魔術師としての仕事とは別に、署長として片づけなければならない案件が山ほどあるらしい。
そこへ、さらに僕らの問題が加わっている。
「もう一度、最初から確認するぞ。昨夜のホテルで行われた召喚儀式についてだ」
「まだやるの?」
「やる。お前が何者で、どの陣営にも属さずに聖杯戦争へ入り込んだ理由を聞いておかねばならん」
「いやあ、僕の方だって、好きでイレギュラーになったわけじゃないんだけどね。たまたま呼べちゃったというか」
「たまたまでサーヴァントを召喚するな」
「そう言われても、召喚に成功したのは事実だし」
僕が肩をすくめると、署長は机の書類を一枚抜き出した。どうやら僕らが昨夜泊まっていたホテルについての報告らしい。召喚陣の痕跡が残っていることと、現場に通常の魔術戦では説明しきれない損壊があったことは、すでに警察側も把握しているようだった。
ただし、あの現場で何が起こったかを正確に再構成するのは難しいだろう。
偽アサシンが乱入し、僕となのはが応戦し、最後にはパイセンが召喚された。しかも、床や壁を破壊したのは同じ人物ではない。痕跡から順番を割り出すだけでも相当に骨が折れるはずだ。
「召喚したサーヴァントのクラスは?」
「それ、答えなきゃ駄目?」
「聖杯戦争の監督に関わる情報だ」
「でも署長って、監督役じゃないでしょ。監督役はハンザ先輩じゃん」
署長の目が細くなった。
この街の聖杯戦争を仕組んだ側が、教会の監督役とは別に存在していることくらい、僕にも分かっている。昨日から何度も襲われているのだ。さすがに、何も知らないふりを続けるのは難しい。
「それに、他の参加者のクラスや真名を僕に教えてくれるわけでもないんでしょ? だったら、こっちだけ話すのは不公平じゃない?」
「不公平、か。お前にそういう言葉を使う資格があるとは思わなかったな」
「ひどいなあ。僕、昨日からずっと被害者なんだけど」
「被害者は私の部下だ」
それについては否定できなかった。エントランスで右腕を失った警官の姿が頭に浮かぶ。なのはは担架の搬送を手伝っていたが、あの傷が簡単に治るとは思えない。
僕にとっては、警官隊が僕らを包囲していたことと、彼らがアサシンに襲われたことは別々の問題である。けれど、署長にとっては、どちらも自分の施設と部下に降りかかった災難なのだろう。
なのはが申し訳なさそうに頭を下げかけたので、僕はそっと手で制した。少なくとも、彼女が謝る必要はない。
「まあまあ、オーランド君。そんなに怖い顔しなくてもいいじゃない」
フランチェスカが楽しそうに口を挟んだ。
「予定外のマスターなんて、面白いと思わない? しかもサーヴァントまで召喚してるんでしょ。何が起きたのか、私もちょっと気になるなあ」
「お前は黙っていろ」
「ひどーい。せっかくお客さん同士で仲良くなろうとしてるのに」
「仲良くなる前に人の腹を見せびらかす奴があるか」
「見せただけだもん。勝手に頭から入ってきたのは小尾君の方だよ」
「それはそう」
僕が頷くと、なのはが本日何度目か分からない溜息をついた。
フランチェスカは笑いながら僕へ視線を戻した。何とも気楽な態度だが、その目だけは、さっき僕の方から話を逸らした時と変わらない。僕の身体より、隣にいるなのはの方を気にしている。
「ところでさ、小尾君。そっちの子とは、どういう関係なの?」
「彼女だけど」
僕が答えると、隣から小さく息を呑む音がした。
「へえ! 恋人なんだ?」
「うん。なのはは僕の彼女」
「ちょ、小尾くん……!」
なのはは少し頬を赤くして、僕の袖を引っ張った。
「何?」
「何って……そういうの、こんなところではっきり言わなくても……」
「聞かれたから答えただけじゃん。別に隠してないでしょ?」
「隠してないけど! そうじゃなくて……!」
言い返しかけたなのはは、目の前でにやにやしているフランチェスカに気づき、口をつぐんだ。
「いいねえ。こんなところまで彼女連れで来ちゃうなんて、小尾君って大胆なんだ」
「いや、観光に来たわけじゃないんだけど」
「分かってる分かってる。それにしても、面白い組み合わせだなあ」
フランチェスカは声を弾ませていたが、僕らを見比べる目には、単に恋人同士をからかっているだけではない色があった。
「でも不思議なんだよね。人間みたいに話してるし、ちゃんと怒ったり困ったりもする。なのに、見れば見るほど普通の人間とは違うんだもん」
彼女がなのはへ顔を向ける。
「ねえ、なのはちゃん。君は自分が何なのか、ちゃんと知ってる?」
なのははすぐには答えなかった。胸元を探るような仕草をするでもなく、ただフランチェスカの顔を見つめている。
「……あなたに、何を答えればいいんですか?」
「ううん、別に。君が何だと思ってるのか知りたいだけ」
「私は高町なのはです。それ以外に、何を言えばいいのか分かりません」
語気は強くない。けれど、その答え方には、昨日までの彼女とは少し違う慎重さがあった。
なのはは自分の肉体が、もはや人間のものではないことを知っている。だからといって、自分の名前や今まで生きてきた時間まで、別のものになったとは思っていないのだろう。フランチェスカが尋ねているのは存在の分類であり、なのはが答えているのは自分自身のことだった。
どちらも質問と答えとしては成立している。ただし、噛み合ってはいない。
「ふうん……」
フランチェスカは頬杖をつき、少しだけ目を細めた。
「そっか。それなら、今はそれでいいや」
意外とあっさり引いた。
もっともしばらくの間、視線だけはなのはから外さなかったので、興味を失ったわけではないらしい。僕としても、彼女がなのはについて何を理解したのかは気になる。あの腹の仕組み以上に、こちらの研究へ踏み込んでこられると厄介なのだが。
「……それで、荷物の件なんだけどさ」
僕は話を元へ戻すことにした。
「急に何だ」
「いや、もともとその話をしに来たんだって。昨日のホテルに置いてきた鞄、警察が持ってるんでしょ? 中身なんて大したものじゃないんだけどさ」
オーランドは一度目を閉じた。今朝から同じことを何度も聞かされているせいか、額の皺がさらに深くなっている。
「回収物の確認はさせている。ただし、現場に残っていた魔術礼装を、そのまま持ち主だと名乗る者へ渡すわけにはいかん」
「ちゃんと持ち主だって証明するよ。中身なら全部言えるし」
「中身を知っていることと、返却して安全なことは別だ」
「いやいや、そんな物騒なもの入れてないって。測定用の小物とか、術式を書き込んだ札とか、あとは細々した道具ばっかりだよ。召喚に使った大掛かりなものは、そもそも鞄に入る大きさじゃないし」
なのはの視線が僕へ向いた。
「……本当に、それだけ?」
「本当だって。なのはもホテルで鞄見たでしょ? 小さいのばっかりだったじゃん」
「うん。でも、小尾くんの道具って、見た目じゃ何をするものか分からないから……」
「そこは魔術礼装ってそういうものだし」
「お前の説明を聞いて、安心できると思うか?」
オーランドは呆れたように言い、鞄の回収記録へ視線を落とした。
実際、今回持ち込んだのは携帯できる程度の品ばかりで、警察署ごと吹き飛ばすような危険物などない。僕にとっては研究や儀式の際に手元に置いておきたい便利な小道具だ。ただ、何に使うかを一つずつ説明して、署長に研究内容まで知られるのは御免だった。
オーランドは手元の書類を確認し、何かを考えている様子だった。最終的には、召喚陣の残留調査を済ませた上で、安全性を確認できた品だけ返却するという話に落ち着きそうだったが、細かな条件の擦り合わせが始まると、今度は英語の法律用語まで飛び出してきた。
僕が通訳を必要としているわけではない。前世でも仕事で外国へ出る機会はあったし、現世でも必要な言語は覚えている。だが、魔術的な押収物について現地の警察署長と交渉する日が来るとは想定していなかった。
しかも、話が長い。
「……ねえ、署長」
「今度は何だ」
「何か飲み物ないかな? さっきからずっと喋ってるから、喉渇いちゃった」
オーランドの手が止まった。
視線だけが、ゆっくりと僕へ向く。
「……お前は、今の話を聞いていたのか」
「聞いてる聞いてる。調査が終わるまで全部は返せないんでしょ? それはもう分かったからさ。お茶でもコーヒーでもいいんだけど」
「ここは喫茶店ではない」
「そうだけど、来客用のソファもあるし。飲み物くらい出るのかなって」
なのはが僕の肩を引っ張った。
「小尾くん! 署長さん、忙しいんだよ。そんなことお願いしないの」
「いや、別に無理ならいいんだって。ただ聞いてみただけ」
「聞かなくていいよ……」
その向こうでフランチェスカが、何か面白いことを思いついたように身を乗り出した。
「私も何か飲みたーい」
「お前まで乗るな!」
オーランドは机に手をつき、それから長く息を吐いた。
何かを言いかけてやめ、机の上の内線電話へ手を伸ばしかけて、また引っ込める。署内の職員が忙しいことは、本人が一番よく分かっているのだろう。廊下では先ほどから負傷者の搬送先についての連絡が続き、警察署の設備担当まで呼び出されている。
「……待っていろ」
署長はそれだけ言うと、執務室の扉へ向かった。
閉まった扉を見送ってから、僕はなのはへ顔を向けた。
「ほら。あるみたいじゃん」
「そういう問題じゃないよ。自分で取りに行くことになっちゃったんだよ?」
「まあ、忙しい時に誰か呼ぶよりは合理的じゃない?」
「小尾くんが頼まなければ、そもそも行かなくてよかったの!」
そう言われると、返す言葉がない。
フランチェスカはソファの背にもたれかかり、実に楽しそうだった。彼女が飲み物を欲しがったのも本心だろうが、それ以上に、オーランドが困るところを見たかったのかもしれない。
あの腹の歯列といい、余計な質問といい、どうにも愉快な人物である。魔術師としてどんな研究をしてきたのか尋ねてみたい気もしたが、先ほどのやり取りで、ただの物好きではないことは分かっていた。自分の秘密を平然と見せる相手ほど、別の場所では何を隠しているか分からない。
ほどなくして扉が開き、オーランドがトレーを持って戻ってきた。
陶器のカップが四つ。中身はすべてコーヒーで、湯気と一緒に香ばしい匂いが立ち上っている。小さな砂糖の袋とミルクも添えられていた。忙しい合間にしては、なかなか気が利いている。
「おお、ありがとうございます、署長」
僕が素直に礼を言うと、オーランドは何も答えずにテーブルへトレーを置いた。よほど疲れているらしい。僕らの前へカップを配り、自分の分を手に取ろうとしたところで、フランチェスカが口を開いた。
「あ、私、オレンジジュースがいい」
オーランドの手が止まった。
「……何?」
「オレンジジュース。果汁百パーセントのやつがあれば、なおいいかな」
「……最初に言え」
「だって、何があるか聞かれなかったもん」
フランチェスカは悪びれる様子もなく笑った。
「それにさ、コーヒーって苦いじゃない? 私、今日は甘いのが飲みたい気分なんだよねえ」
オーランドは手にしていたカップを、音も立てずにテーブルへ戻した。
その丁寧さが、かえって怖かった。
「……飲まなくていい」
「えー、せっかく四つあるのに」
「なら飲め」
「だからオレンジジュースがいいんだってば」
署長の額に青筋が浮かんだように見えた。
「……す、すみません!」
なのはが慌てて頭を下げた。
「私たちの分まで用意していただいて、ありがとうございます。小尾くんが急に変なことを言い出して……」
「え、なのはが謝ることじゃないって。飲み物欲しいって言ったの僕だし」
「だから謝ってるんでしょ!」
「それもそうか」
僕はコーヒーを一口飲んだ。
うん。悪くない。
昨夜からまともな食事をしていないせいか、温かい飲み物が胃に落ちていく感覚が心地よかった。砂糖を入れずとも十分飲める。署長がわざわざ持ってきてくれたものなのだから、ありがたく頂戴するべきだろう。
なのはも小さく礼を言ってからカップを手に取ったが、まだ気まずそうにしていた。フランチェスカはコーヒーに一度だけ鼻を近づけ、そのまま飲まずに置いている。
「フランチェスカ、それ飲まないの?」
「飲まない。私、オレンジジュースがいいもん」
「じゃあ、僕がもらっていい?」
「いいよー」
「よし、これで二杯目確保」
「……小尾くん」
「分かってる、分かってる。今飲んでるのを片づけてからね」
僕としては実に合理的な判断だったのだが、なぜかオーランドは僕らを見て、また一つ深い溜息をついた。
考えてみれば、署長も災難である。今朝までに起きた襲撃と、目の前の客の態度には何の関係もない。関係がないにもかかわらず、同じ日にまとめて引き受けなければならないのだから、責任者という仕事は大変だ。
それでも、署長室にはようやく幾分か落ち着いた空気が戻った。
そこへ至るまでにも、署長は何度か席を外していた。押収品の照会結果が届けば担当者へ指示を出し、負傷者の容体を尋ねる電話が入れば、こちらの話を中断して対応する。そのたびに僕らはソファへ戻され、フランチェスカは飽きる様子もなく世間話を続けた。まともな事情聴取が進んだ時間より、署長が仕事へ戻っていた時間の方が長かった気がする。
窓の外では、朝から続いていた街のざわめきが、いつの間にか日中のそれへ変わっていた。窓に差し込む光は白くなり、壁の時計の針も正午へ近づいている。警察署の玄関にはまだ規制線が張られているのだろうが、署長室にいる限り、そこまでの騒ぎは聞こえてこない。
むしろ静かすぎるくらいだった。
「さて」
オーランドが、自分のコーヒーを口へ運ぶ前に言った。
「飲み物は出した。そろそろ、こちらの質問にもまともに答えてもらおうか」
「了解。じゃあまず、僕から一ついい?」
「お前が質問するな」
「いや、重要な話なんだって。聖杯戦争の仕組みについてなんだけどさ」
僕はカップを置き、机の上に広げられた街の地図へ目を向けた。
「この街で召喚されたサーヴァントって、全部で何騎なの?」
オーランドの表情が変わった。
今までの苛立ちとは違う。答えるべきかどうかを判断する魔術師の顔である。
「……なぜ、それを聞く」
「だって、僕みたいな予定外のマスターが増えたんでしょ? だったら、今いったい何人で殺し合ってるのか分からないじゃん。普通の聖杯戦争なら七騎だけど、こっちはそうとも限らないんでしょ」
もっとも、僕は本気で参加人数を数えたいわけではない。
この街の召喚システムそのものがおかしいのだ。儀式の器に余裕があればサーヴァントが増える、という単純な話でもない。昨日、偽アサシンの襲撃を受けながら召喚に成功した時点で、僕の把握している冬木式の規則からは相当外れている。
参加者が何を願うか以前に、儀式の構造を知っておきたい。
聖杯と呼ばれるものが、本当に根源へ至る手掛かりを持っているのなら、なおさらである。
「へえ。そこに興味があるんだ」
フランチェスカがカップを持たないまま、口元を緩めた。
「勝ち残るための作戦を聞くかと思ったのに、人数から数えようとするんだね」
「何ができる儀式なのか分かんないと、勝ったところで意味なくない? そもそも僕、あの聖杯がどの程度の願望機なのか知らないし」
「へえ、へえ。なるほどねえ」
彼女はオーランドを横目で見た。
「オーランド君、この子、本当に予定になかったの?」
「だからこそ調べている」
「ふふ。だったら、なおさら面白いね」
その言い方には、何か引っかかるものがあった。
魔術師が面白がる時は、大抵ろくでもないことを考えている。僕自身がそうだからよく分かる。フランチェスカは、何かを教えたがっているというより、こちらがどこまで気づくかを見物しているようだった。
オーランドはそれを知っているのだろう。フランチェスカの方へ厳しい視線を向け、僕へ答えを返そうとはしなかった。
僕も無理に問い詰めるつもりはない。こうした情報は、隠されたこと自体が判断材料になる。少なくとも、予定された七騎という説明だけで済ませるつもりはないらしい。
「……ところで、小尾君さ」
フランチェスカが、また話題を変えた。
「君のサーヴァントって、今もこの部屋にいるの?」
僕はカップを持ったまま、少しだけ考えた。
霊体化したパイセンは、僕が署長室へ入ってからも姿を現していない。普通の人間には見えないだろうが、目の前のフランチェスカがどこまで分かっているかは怪しかった。
ここで肯定しても否定しても、相手に材料を渡すことになる。
「どうだろ。サーヴァントって、いるかどうか分かんないところが怖いよねえ」
「……答える気ないんだ?」
「フランチェスカだって、僕が身体の中をもっと見たいって言ったら、全部見せてくれるわけじゃないでしょ?」
「あははっ、それは確かに!」
笑われた。
案外、こういう交渉は嫌いではないらしい。互いに見せたいものだけ見せ、肝心なところは隠しておく。それで相手がどこまで想像を膨らませるかも、術者にとっては一種の実験になる。
ただし、あまり親しくなりたい相手ではない。
『ずいぶんと気が合うようだな』
不意に、意識の奥へ声が届いた。
パイセンだった。
『いやあ、合いますかねえ。ちょっと危ないタイプだと思いますけど』
『君がそれを言うのかね』
『僕は研究の話になると多少熱が入るだけですって』
『ふむ。ならば、その自覚は大切にしておくことだ』
何とも含みのある言い方だったが、パイセンはそこで会話を切らなかった。
『……プレラーティ、か。妙な名を耳にしたものだ』
『あれ、パイセン。あの子を知ってるんすか?』
『知己と呼べるほどの仲ではない。だが、冬木の第五次聖杯戦争に手を伸ばそうとした術師については、少々心当たりがある』
『へえ。あの子が?』
『冬木では間桐臓硯が外部からの干渉に備えていた。私も、招かれざる術師が儀式へ手を伸ばさぬように動いた覚えはある。もっとも、相手と顔を合わせたわけではないがね』
『うわ、先輩、知らないところでまた誰かの計画潰してたんすか。ぱねーっすね』
『私は必要な仕事をしただけだよ。もっとも、あちらがどう受け取ったかまでは知らん』
それきり、パイセンは黙った。
なるほど。本人と親しく話したわけでもないのに、向こうの計画を邪魔したことだけはある。いかにも魔術師と聖堂教会の間で起こりそうな、面倒な縁である。あのフランチェスカがそれを覚えているとしても、今の僕らの関係に結びつけて考える理由はないだろう。パイセンは姿を見せていないのだから。
僕としては、彼女の腹の仕組みをもう少し知りたいだけなのだが。もちろん、聖杯戦争が終わったあとにでも機会があれば、という程度の話である。
目の前では、なのはがようやくコーヒーを飲み終えようとしていた。さすがに緊張が続いているらしく、カップを持つ指先には力が入っている。フランチェスカがこちらの秘密を探っていることも、オーランドが僕らを警戒していることも、彼女には伝わっているのだろう。
少なくとも、これ以上ここに長居する理由は薄くなってきた。
「じゃあ署長。荷物については、調査が終わり次第返してもらうってことで――」
「待て。その話はまだ終わっていない」
オーランドは、ちょうど入っていた内線を切ると、フランチェスカへ厳しい視線を向けた。部下からの報告は、死徒による襲撃の後始末に関するものだったらしい。
「ジェスターがこの街にいる限り、市民への被害は避けられん。お前たちは、あれが紛れ込んだまま儀式を続けるつもりなのか」
「えー、オーランド君。街の中で聖杯戦争を開くって決めた時から、そういうことは覚悟してたんじゃないの?」
「だからこそ、排除すべき危険は排除する。それが警察官としての私の仕事だ」
「真面目だねえ。でもさ、聖杯戦争を動かしてる人たちは、もう止まるつもりなんてないよ。偽物がどうなろうと、その先の本番を見たいんだから」
「……合衆国の連中は、なおも計画を進める気か」
「もちろん。そっちに呼ばれたマスターたちは、それぞれ政府と話をつけてるんだもの。オーランド君が一人で心配したところで、どうにもならないよ?」
さらりと、とんでもないことを言った気がした。
僕は口を挟まずに、冷めかけたコーヒーを飲んだ。偽物と本番。七騎で収まらない召喚数。今の言葉を信用するかどうかは別として、先ほど僕が尋ねたことへの答えの一部が、向こうから出てきたことになる。
「それに、私だって今朝の騒ぎには少し不満があるんだよね」
フランチェスカは唇を尖らせた。
「せっかく英霊を揃えたのに、今朝の騒ぎで目立ってたのは死徒と代行者じゃない? もちろん、あれはあれで楽しかったけどさ。お祭りの主役を取られちゃ困るんだよ」
「……何を言っている」
「だって、聖杯戦争の華はサーヴァントとマスターでしょ? そろそろ、本当の見せ場が始まらなくちゃ!」
両手を広げて笑う彼女を見て、オーランドが何かを言い返そうとした。
そこまでだった。
窓の外で、何かが空気を引き裂いた。
異変を捉えたのは、ほんの一瞬だった。窓の向こうの街並みが陽炎のように歪み、視界の端を何かが走り抜けた。正体を確かめる間もなく、遅れて押し寄せた衝撃が署長室の窓をまとめて叩き割った。
凄まじい音とともにガラスが砕け、透明な破片が室内へ降り注いだ。カーテンが跳ね上がり、机の上の書類が宙へ舞う。窓際に置かれていた小物が床を転がり、せっかく並べられたコーヒーカップまで音を立てて倒れた。
僕は顔の横を掠めた破片を払い、なのはは反射的に窓を振り返った。オーランドも立ち上がりかけた姿勢のまま外を見ている。フランチェスカに至っては、頭上から落ちてきたガラスを気にする様子もなく、何が起きたのかと目を輝かせていた。
考えてみれば、この部屋にいるのは僕を含めた三人の魔術師と、身体の成り立ちからして人間とは異なるなのはである。飛び込んできたのが窓ガラス程度なら、誰かがわざわざ他の誰かを庇うような状況でもない。問題は、そんな破片が飛び込むほどの衝撃を、いったい何が生み出したのかということだった。
フランチェスカの座るソファの背に、窓枠から外れた細い部材が当たり、乾いた音を立てて床へ落ちた。オーランドは眼鏡についた粉塵を払い、僕は改めて室内を見渡す。幸い、怪我をした者はいない。
ただし、窓は跡形もなくなっていた。
「……えっ、何!?」
なのはが声を上げた。彼女も窓の外を見ているが、何が通ったのかまでは分からなかったようだった。
僕も同じである。
ただし、魔術攻撃でないことだけは分かった。
あの異常な圧力は、何かが爆発したために生じたものではない。速度を持った一点が都市の上を貫き、その通り道に生じた空気の破綻が、あとから周囲へ広がったのだ。しかも、先ほど感じた神秘はただ速いだけの飛び道具とは違う。
矢か。
そう結論づけるまでには、ほんの数秒しかかからなかった。
だが、理解できたからといって納得できるわけではない。弓から放たれた矢が街を横切る。ただそれだけで、離れた建物の窓ガラスがまとめて砕ける。常識的に考えれば、そんなものを矢と呼ぶ方がおかしい。
「……おい」
オーランドがゆっくり顔を上げた。
眼鏡に細かな粉塵が付いている。肩へ落ちた書類を払い、窓のあった場所を見つめる。その視線の先では、日差しを遮るものがなくなったため、室内の床に鋭い光が差し込んでいた。
署長の顔を見て、僕は何となく察した。
この人、相当怒ってる。
「……今度は何だ」
低い声だった。
「今朝の襲撃で玄関を壊されたばかりだぞ……」
オーランドは窓から入った風に髪を乱されながら、卓上へ目を落とした。
そこには、先ほど彼が用意したばかりのコーヒーがあった。
正確には、コーヒーがあった場所である。
僕のカップは身体を動かした拍子に倒れ、黒い液体をテーブルの端から床へこぼしていた。署長の分も衝撃でひっくり返っている。なのはのカップは空に近かったため被害が少なかったが、残しておいたフランチェスカの分は、トレーごと派手に飛んでいた。
実に残念だった。
「……署長。せっかく淹れてくれたのに、もったいなかったね」
「誰のせいだと思っている」
「いや、僕じゃないでしょ!?」
さすがにそれは言わせてほしい。
コーヒーを頼んだのは僕だが、窓を割った覚えはない。いくら前世が代行者だったとはいえ、今の僕に街の向こうから矢を飛ばして警察署の窓を破壊する趣味はない。
「小尾くん、今はコーヒーより外!」
「分かってるって。今の、たぶん矢だよ」
「……矢?」
「そう。弓から放たれた何かが、物凄い速度で通ったんだと思う。直撃じゃないよ。直撃してたら、この部屋自体が残ってるか怪しい」
なのはは割れた窓を見て、それから外のビル群へ目を向けた。
「……そんなに離れたところまで?」
「さあ。射手がどこにいるかまでは分かんないけど、近所で撃ったものじゃなさそうだね」
オーランドは既に無線機を手に取っていた。
「各部署、被害状況を報告しろ。北側の窓面を確認、破片による負傷者がいれば医療班へ――いや、まだ前の負傷者の搬送も終わっていないのか……!」
署長は途中で言葉を切り、別の回線へ切り替えた。警察官として当然の対応である。僕と違って、現象の正体を考えているだけでは仕事にならないのだろう。
その隣で、フランチェスカだけが立ち上がっていた。
彼女は割れた窓へ駆け寄るでもなく、舞い散った紙を拾うでもなく、ただ楽しそうに笑っている。
「あはっ……来た、来た!」
その声に、オーランドの手が止まった。
「……お前、何か知っているのか」
「んふふ。言ったでしょ? 主役の出番だって」
フランチェスカは床へ転がったカップを一瞥すると、まるで劇場の幕が上がるのを待ちきれない観客のように、両腕を大きく広げた。先ほどまでの不満げな表情は消え、代わりに隠しようのない歓喜が浮かんでいる。
「さあ、始まり始まり! パンフレット買った? ポップコーン持った?」
僕は思わず彼女を見た。
「……え、何の?」
「世紀の一戦だよ! ぼんやりしてたら、いいところを見逃しちゃうって!」
彼女の目が、窓の向こうの空を追っている。
「アーチャーが二人もいるんだもん。いつかぶつかるとは思ってたけど、ついに始まっちゃったねえ!」
「……お前たちは、いったい何を召喚した」
無線機を握ったまま、オーランドがフランチェスカを睨んだ。彼の視線は一度、窓を失った壁へ向かう。署長の怒りは、単に設備を壊されたことに向けられているわけではない。あの矢の射線上には、今も市民が暮らしている。
「えー? それ聞いちゃう? 真名なんて、聖杯戦争じゃ一番大事な秘密なのに」
「真名を明かせとは言っていない。だが、これほどの被害を出す存在を野放しにはできん」
「なら頑張ってね、オーランド君。私は観客席から応援してるよー」
その返答に、署長の顔が一段と険しくなった。
「弓兵が、二人……?」
今の話は聞き捨てならなかった。
アーチャーは英霊のクラスの一つである。冬木式の聖杯戦争なら、普通は七つのクラスにそれぞれ一騎ずつを割り振る。だが、僕は先ほど、この街の召喚数がその前提に従っていない可能性を尋ねたばかりだ。
それに対する答えが、思いがけない形で転がり込んできた。
「……なるほど。二騎目のアーチャーがいるんだ」
「小尾くん、感心してる場合じゃないよ!」
なのはが僕の袖を掴んだ。
「外の人たちは大丈夫なの? あんなのが街を飛んでたら……」
「大丈夫とは言えないね。だからって、撃った場所も分からないうちに飛び出したら危ないよ」
そこは僕も本気でそう思っている。
何より、街の上空を横切ったのが英霊の一撃なら、下手に進路へ入ったところで何もできずに巻き込まれる可能性がある。なのはなら耐えられるかもしれないが、だからこそ、どこまで力を使うべきかを判断しなければならない。
しかし、そう考えている僕の方も、興味を抑えきれずにいた。
昨夜、南部砂漠で見た異常な破壊の跡。カジノで出会った、明らかに常人ではない金髪の男。今朝のアサシンと死徒の戦闘。そして、今の矢。
この街の聖杯戦争は、昨日の時点で十分におかしかった。
だが、どうやらまだ序の口だったらしい。
『……ほう』
パイセンの声が、意識の奥に届いた。
『パイセン、今の分かりました?』
『少なくとも、尋常な弓兵の仕業ではあるまい。あの速度と精度では、狙われた者に気づく暇さえ与えんだろうな』
『ですよねえ。いやあ、すごいのがいるな、この街』
『君は実に楽しそうだ』
『だって気になりません? あの一撃、どんな腕力で引いたらああなるんすかね』
『弓の性能だけで説明できるものでもあるまい』
まったく、その通りである。
僕はもう一度、割れた窓の向こうへ目を向けた。遥か先に見える高層ビルの一角で、何かが光ったような気がした。
そこから先の光景を、僕らがこの場所で確かめることはできなかった。
◇
時を少し遡る。
スノーフィールド北部。
乾いた大地を深く裂く渓谷の斜面に、一人の弓兵が立っていた。
その姿は、かつて人々が思い描いた英雄の像からは遠い。
頭部と顔を覆う布。長身の身体にまとわりつく、奇妙なまでに重い気配。手にした弓は、人間の狩人が使う武器に見えて、その実、常識的な寸法や強度を前提としていなかった。
男は遥か彼方の都市を見据え、既に最初の矢を放ち終えていた。
狙いは高層建築の一角。そこにいる黄金の王そのものではない。王が傍らへ置いている、一人の少女だった。
相手の首を取るより、その相手をこの世界へ繋ぎ留めているものを断つ方が、聖杯戦争では合理的である。
単独行動の能力を持つ英霊なら、マスターを失っても直ちに消滅するとは限らない。だが、魔力供給を断つことには意味がある。まして、相手が自ら出向いてくるよう誘導したいのなら、どこを狙うのが最も効果的か、弓兵に迷いはなかった。
矢が空気を裂いた瞬間、射線の周囲へ異常な圧力が広がった。
遥か離れた都市の窓が砕ける。通りに停められた車の警報が鳴り、建物の中にいた人々が理由も分からぬまま身を伏せる。矢が直接その場を襲ったわけではない。ただ通り道が近かったというだけで、都市の表面に細かな傷が刻まれていく。
そして、その一撃はクリスタル・ヒルへ届いた。
◇
黄金の王は、最初の一射を恐れなかった。
恐れる必要がなかった、と言うべきかもしれない。
眼下に都市を見渡せる高層の一室。ギルガメッシュの傍らには、マスターであるティーネ・チェルクが控えていた。王に仕える少女は土地の霊脈との繋がりを持ち、強大な魔力を供給できる。しかし、神代の英雄たちと同じ戦場へ立つための肉体まで持っているわけではない。
だから、遠方から迫った一射が誰を狙っているのかを悟った時、彼女の背筋には冷たいものが走った。
「王よ――!」
声が届くより早く、雷光が閃いた。
ギルガメッシュが所有する宝具の一つが、接近した脅威を自動的に迎え撃ったのである。かつて親友が戯れを仕掛けてきた時のために備えた防衛機構は、王が自ら手を下すまでもなく動き出していた。
雷鳴のような衝突音が遅れて響いた。空気を割って進んできた殺意が、寸前で叩き落とされる。
ティーネは息を呑んだ。
王が守ってくれたからではない。それも確かにある。だが、自分を狙ったものが、ここから見えるどの建物よりもさらに遠くから飛来していたと知ったことの方が、彼女には恐ろしかった。
通常の魔術師なら、この距離から標的を視認するだけでも難しい。まして、狙いを定めた一撃に、都市を横断するだけの速度と威力を与えることなど想像の外にある。
「……ふん」
ギルガメッシュは、砕けた矢の残滓へ一瞥を与えた。
その表情に怯えはない。むしろ、退屈を退けるものがようやく現れたと言わんばかりの笑みが浮かんでいた。
もっとも、相手が自分を狙わず、傍らの少女へ矢を向けたことについてまで愉快に思っているわけではない。
続けて、二射目が来た。
今度は防護の機構をすり抜けるような軌道を描いた矢が、ティーネの命を奪うために飛び込んでくる。
王の身体を黄金の甲冑が覆った。
次の瞬間、ギルガメッシュが振るった左腕と矢が衝突し、甲高い金属音が室内へ響き渡った。矢は弾かれたが、甲冑の表面には僅かな損傷が走り、黄金の破片が床を転がっていく。
ティーネは言葉を失った。
英雄王の防具を、遠距離から放たれた一矢が傷つけたのである。
ギルガメッシュは自らの腕を見下ろし、それから射手がいるはずの方角へ目を向けた。
怒りに顔を歪めたわけではない。
ただ、その赤い瞳から、先ほどまでの退屈は消え失せていた。
「ティーネ。ついて来るがよい」
「……はっ」
短く答えながらも、少女は自分の足が震えていることに気づいていた。王の前で取り乱すまいと膝へ力を入れる。だが、今ここで敵が三射目を放てば、自分の命はまた王の機嫌と迎撃の成否へ預けられることになる。
ならば、王が敵のいる場所へ向かうというのなら、従うしかない。
空中に、黄金の船が姿を現した。
太古の叡智と神秘を積み込んだ飛行船、ヴィマーナ。その機体が陽光を受けて輝き、都市の上空へ影を落とす。
ギルガメッシュは迷いなく乗り込んだ。ティーネも後に続き、船体の一角へ身を寄せる。
次の瞬間、黄金の船は北へ向けて加速した。
人々の暮らす街が瞬く間に後方へ流れていく。
王が向かう先に待っているのは、ただの狙撃手ではない。自らと同じ、アーチャーの器を与えられた英霊だった。
◇
北部大渓谷へ、黄金の船が到着した。
崖上に立つ弓兵は逃げなかった。王の財宝から生み出された移動手段を目の前にしても、その姿勢は崩れない。何かを見極めようとするように顔を上げ、ただ静かに相手の到着を待っている。
ギルガメッシュは船から降りた。
砂礫を踏む音がした。互いの距離は、人間の格闘家なら数歩の踏み込みで詰められる程度でしかない。だが、二人が手にしている力を考えれば、その距離などほとんど意味を持たなかった。
王は相手の顔を覆う布と、その下から伝わる尋常ではない霊基の圧力を見た。
神代に生きた自分でさえ、容易く軽んじることのできない力。
しかし、相手の気配のどこかには不自然な歪みがあった。本来ならば一つの英雄譚に収まるはずのものが、外側から別の意味を押し込まれ、無理やり形を変えられたような違和感である。
ギルガメッシュはそれを興味深く思ったが、問いかけるより先に確認すべきことがあった。
「貴様が、先ほどの矢を放った者か」
弓兵は答えない。
代わりに、弦へ指をかけた。
そして、再び矢を放った。
狙いは王ではなかった。
その背後、ヴィマーナにいるティーネである。
ティーネの呼吸が止まりかけた。矢が放たれたという事実を認識するより先に、死の予感だけが彼女の胸を貫いていた。
だが、黄金の船がそのまま標的になるはずもない。
機体の防護機構が起動し、迫る一撃を迎え撃つ。空中で衝突した矢が砕け散り、破片は崖下へ落ちていった。ティーネが息をつく暇もなく、弓兵は次の矢を番えている。
まるで、ギルガメッシュが目の前に存在しないかのような態度だった。
王のこめかみが僅かに動く。
「……ほう。そこまで我を無視するとはな」
薄い笑みが、次第に危険なものへ変わっていった。
英霊の戦いにおいて、マスターを狙うのは決して間違った選択ではない。相手に関係する弱点を突き、現界を維持する契約を断つ。それは戦略として合理的であり、卑劣であるという理由だけで退けるようなものではなかった。
だが、誰がそれを行うかは別の問題である。
目の前の男は、英雄王を挑発していた。
それも、王を相手として認めず、ただその背後にある脆いものだけを狙い続けるという方法で。
ギルガメッシュの背後に黄金の波紋が開いた。
一つではない。十、二十、さらにその奥へと門が増えていく。それぞれの内部で、剣と槍、斧と長柄の武装が光を受けていた。いずれも人類の宝具へ連なる原型であり、並の魔術師なら一つを目にしただけでも、その神秘の重さに息を呑むだろう。
しかし、布で顔を隠した弓兵は動かなかった。
黄金の王が指先を僅かに動かす。
無数の宝具が射出された。
弓兵の立っていた崖上へ、鋼と神秘の暴風が降り注ぐ。最初の一撃が大地を抉り、次の槍がその裂け目をさらに広げた。後続の武装が岩肌を砕き、立ち上がった粉塵をまた別の刃が引き裂いていく。
攻撃の密度は、ただ数が多いという言葉では足りなかった。
一つ一つが英霊の逸話に結びついた武装である。それらが数十、数百という単位で同じ標的へ向けて放たれる。通常ならば防御することすら考えず、回避に全力を注ぐべき攻撃だった。
だが。
土煙の向こうから、弓兵が歩み出た。
無傷だった。
彼の身体を覆う奇怪な皮布には、撃ち込まれたはずの刃が届いていない。単純な装甲の硬さでは説明できなかった。武装が命中する、その手前で何かが拒絶されている。人の手で作られた宝具という性質そのものを、あの防護が退けているかのようだった。
ギルガメッシュの赤い瞳が、初めて明確な興味を宿した。
ただ頑丈なだけの獣ではない。
この弓兵には、宝具の威力を比べるだけでは測れない何かがある。
そして、その何かを確かめるには、今までと同じ方法を繰り返しても意味がない。
「なるほど。少しは楽しませるつもりがあるらしいな」
王の周囲へ、さらに深い黄金の光が集まり始めた。
対する弓兵は、何も答えずに弓を構え直す。
二騎のアーチャー。
互いに同じ器を与えられながら、背負う伝説も、戦う理由も、世界に向ける敵意もまるで異なる二人の英雄が、いま初めて正面から向かい合っていた。
街の北に広がる渓谷は、その衝突を受け止めるには、あまりに狭かった。