「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
誘拐事件から、半月ほどが経った。
教室には、いつもと同じ昼休みが流れていた。
窓から差し込む日差し。
机を寄せて、お弁当の残りを食べる子。
黒板の前で、くだらないことで笑っている男の子たち。
廊下を走って、先生に怒られる子。
何も変わっていない。
何も起きなかったみたいに。
「それでね、今度のお休み、うちに来ない?」
私がそう言うと、アリサちゃんの顔がぱっと明るくなった。
「行く! 絶対行くわ!」
返事が早い。
まだ何をするかも言っていないのに。
「アリサちゃん、すごく乗り気なの」
「だって、すずかの家でしょ? 猫がいっぱいいるんでしょ?」
「うん。みんな人には慣れてるよ」
「前から一度見てみたかったのよね。写真だけじゃなくて、ちゃんと触りたいわ」
アリサちゃんは机の上へ身を乗り出すようにして言った。
なのはちゃんも、隣で楽しそうに笑っている。
「私も楽しみ。猫さん、抱っこしても大丈夫かな?」
「無理に追いかけなければ大丈夫だよ。向こうから来てくれる子もいるから」
「ほんと?」
「うん。なのはちゃんは優しいから、きっとすぐ仲良くなれると思う」
「えへへ、そうかな」
なのはちゃんが照れたように笑う。
アリサちゃんが、すかさず口を挟んだ。
「私は?」
「アリサちゃんも、たぶん」
「なんで私だけ、たぶんなのよ」
「だってアリサちゃん、かわいいって思ったら、すぐ抱きしめそうだから」
「そ、そんなことしないわよ!」
「すると思うの」
「なのはまで!」
三人で笑った。
いつもと同じように。
事件より前と、何も変わらないように。
私は笑いながら、教室の端へ目を向けた。
小尾くんは、自分の席で本を読んでいた。
図書室で借りたらしい、子供向けの冒険小説。
頬杖をついて、静かにページをめくっている。
ただの男の子に見える。
私たちと同じ、小学四年生。
あの手で、人間の頭を砕いたとは思えない。
赤いものが飛び散った。
倒れた男は、もう動かなかった。
小尾くんは血に濡れたまま、笑っていた。
思い出しただけで、指先が冷たくなる。
視線を戻そうとした。
その前に、アリサちゃんが私の顔をのぞき込んだ。
「すずか」
「え?」
「さっきから、あいつのこと見てない?」
心臓が跳ねた。
「あいつ?」
「小尾よ、小尾」
アリサちゃんは隠す気もなく、小尾くんのほうへ顎を向けた。
「何か気になることでもあるの?」
「ううん」
慌てて首を振る。
「そういうんじゃないよ」
「そういうのって、どういうのよ」
アリサちゃんの目が、いたずらっぽく細くなった。
「もしかして、すずか――」
「違うよ」
「まだ何も言ってないわよ」
「でも、絶対違うから」
声が少し強くなってしまった。
アリサちゃんが一瞬だけ目を丸くする。
なのはちゃんは笑わなかった。
心配そうな顔で、私を見ている。
「すずかちゃん」
「なに?」
「小尾くんと、何かあったの?」
優しい声だった。
だからこそ、苦しかった。
何もない。
そう言えば、嘘になる。
本当のことを話せば、なのはちゃんやアリサちゃんまで危険に巻き込んでしまう。
小尾くんは、秘密を話せばクラスのみんなを消すと言った。
その言葉が、本気ではないと思える理由はなかった。
「……何もないよ」
結局、私はそう答えた。
なのはちゃんは、しばらく私の顔を見つめていた。
きっと納得していない。
それでも、それ以上は聞かなかった。
「そっか」
ただ、それだけを言った。
アリサちゃんは小尾くんを見て、腕を組む。
「まあ、ちょっと変なやつではあるけどね」
「アリサちゃん、そういう言い方はよくないよ」
「だって変じゃない。授業中に先生より詳しいことを言ったかと思えば、体育になると急にやる気がなくなるし。休み時間も一人で本ばっかり読んでるし」
「でも、小尾くん、悪い人じゃないと思うよ」
なのはちゃんが、苦笑しながら言った。
私はすぐに返事ができなかった。
悪い人。
いい人。
そんな簡単な言葉で、小尾くんを分けられるのだろうか。
私を助けた。
人を殺した。
私を脅した。
なのはちゃんたちを傷つけるつもりはないと、笑って言った。
そのどれが本当で、どれが嘘なのか。
たぶん。
全部、本当なのだ。
「……そうだといいね」
やっと、それだけを口にした。
その直後。
小尾くんが本から顔を上げた。
目が合った。
まるで、ずっとこちらの会話を聞いていたみたいに。
小尾くんは、いつもの笑顔を浮かべた。
それから、片手を軽く振った。
私は反射的に目を逸らした。
そのあとの授業中も、私は何度か小尾くんの席を見てしまった。
けれど、小尾くんは一度もこちらを見なかった。
昼休みのことなど、最初から何もなかったみたいに。
やがて最後の授業と帰りのホームルームが終わった。
「それでね、お父様が――」
アリサちゃんの話を聞いていたはずだった。
三人で昇降口へ向かっていた。
廊下には帰宅する子供たちが溢れ、開け放された扉の向こうからは、運動場で遊ぶ声が聞こえていた。
靴箱の前では、何人もの子が上履きを脱いでいた。
誰かが友達を呼んだ。
誰かが笑った。
先生の声も聞こえた。
いつもの、騒がしい放課後。
私は靴を履き替え、指定鞄を肩へ掛けた。
アリサちゃんの声に返事をしながら、顔を上げる。
そこで初めて気づいた。
「……あれ?」
静かだった。
さっきまで人でごった返していた昇降口に、誰もいない。
運動場からは、遠く子供たちの声が聞こえていた。
校門の向こうにも、帰っていく子たちの姿が見える。
それなのに。
この昇降口と、そこから続く通路だけが、不自然なほど空いていた。
ほんの少し前まで、肩が触れそうなくらい子供たちがいたはずなのに。
なのはちゃんとアリサちゃんも、いなくなっていた。
二人と別れた記憶はある。
なのはちゃんは、急いで帰らなくてはいけないと言った。
アリサちゃんも、何か用事を思い出した。
でも。
何の用事だったのか、思い出せない。
どんな顔で。
どんな言葉を残して。
どちらへ歩いていったのか。
肝心なところだけ、薄い霧がかかったみたいに曖昧だった。
背中に冷たいものが走る。
私は昇降口を見回した。
誰もいない。
正確には。
もう一人だけ、いた。
昇降口と校舎をつなぐ中央通路。
普段なら、下校する子やクラブ活動へ向かう子で絶えず人が通る場所。
そこの壁へ、小尾くんが背中を預けていた。
「月村さん」
肩が跳ねた。
小尾くんは、いつもの調子で笑っている。
「今日、うちに来ないかい?」
私は誘いには答えなかった。
「なのはちゃんたちは?」
「帰ったよ」
「どうして?」
「何か用事があったんじゃないかな」
小尾くんは知らないふりをして首を傾げた。
誘拐されたときと同じだ。
人が、小尾くんの存在を不自然に見落としていた。
そこにいるのに。
誰も、おかしいと思わない。
「小尾くんが、何かしたの?」
「人払いを少々」
あっさりと認めた。
「人払い?」
「話を聞かれたくないからね。皆には、ここから離れる理由を思いついてもらった」
「なのはちゃんたちにも?」
「そうなるね」
悪びれた様子はない。
小尾くんが作った理由を、自分の記憶だと思い込んでいた。
気づかなければ、二人が帰ったことを疑問に思うことさえなかったのだろう。
「私に、何の用?」
「君に話がある」
「ここで?」
「前半はね」
小尾くんは壁から背中を離した。
ゆっくりと、私のほうへ歩いてくる。
「月村さん」
「なに?」
「君、地頭がいいよね」
唐突だった。
「地頭?」
「覚えた知識の量じゃない。見たものから情報を拾って、足りない部分を推測する力さ」
小尾くんは指を一本立てた。
「周りの人間が僕を認識していない異常に気づいた」
二本目。
「僕が何者なのか、自分なりに考えた」
三本目。
「誘拐された現場でも、泣き叫ぶだけじゃなく状況を観察していた」
四本目。
「事件のあと、家族や警察へ本当のことを話さなかった」
五本目。
「そして今も、高町さんやバニングスさんへの危険を考えて沈黙を選んでいる」
開いた手のひらを、私へ向けた。
「怖かっただろうに、感情だけで動かなかった」
「……脅したのは、小尾くんでしょ」
「そうだね」
否定しなかった。
「それでも、怖くなれば誰かに話す人間は多い。子供に限らず、大人もね」
小尾くんは、少しだけ目を細めた。
「小学四年生にしては、かなり優秀だ」
変な言い方だった。
小尾くんも、小学四年生のはずなのに。
まるで、自分はそこに含まれていないみたいに。
「それで?」
「そこで、相談がある」
「相談?」
「僕の助手候補にならないかい?」
「……候補?」
「今の君を、いきなり研究助手にするつもりはないよ」
小尾くんは何でもないことのように言った。
「知識も経験も足りない。専門的な作業を任せられる段階じゃないからね」
自分も子供なのに。
その言葉は飲み込んだ。
「僕が必要としているのは、目先の労働力じゃない」
小尾くんは私を観察するように見た。
「五年後。十年後。その先まで含めて、僕の研究を理解し、補佐できる人間が必要になる」
「そんな先のことを考えてるの?」
「研究は数日で終わる遊びじゃないからね」
その言い方に、背筋が寒くなった。
「最初は雑用と勉強。それから観察記録。適性があれば、少しずつ実務へ移ってもらう」
「私が大人になるまで?」
「そのつもりだ」
小尾くんは迷わず答えた。
「君は観察力がある。状況を整理できる。秘密を守る必要性も理解している」
「それだけで?」
「それだけじゃない」
穏やかに笑う。
「君を、近くに置いておきたい」
心臓が強く鳴った。
「どうして?」
「君は僕を怖がっている。それでも、目を逸らしきらない」
「……」
「恐怖の対象を理解しようとする人間は貴重なんだ。何も考えず従う人間より、ずっと価値がある」
それは褒められているのだろうか。
分からなかった。
「必要なことは、これから覚えてもらう」
「私が、嫌だと言ったら?」
聞くには勇気が必要だった。
喉が渇いている。
小尾くんは少し考えた。
「別に、無理にとは言わないよ」
その言葉を聞き、一瞬だけ息が緩んだ。
けれど。
「ただ、君は僕のことを知りすぎている」
小尾くんは続けた。
「僕の近くに置かないなら、普通の生活へ戻れるように、記憶を少し整理する必要がある」
「でも、前に言ったよね。私には効かないって」
「バニングスさんへ使った程度の暗示はね」
小尾くんは、自分のこめかみを指で軽く叩いた。
「君の抵抗力は強い。表面へ働きかけて、都合のいい記憶を信じ込ませる方法では弾かれる」
「じゃあ、できないんじゃ……」
「表面から無理なら、もっと深いところを切ればいい」
小尾くんの指が、頭から胸元へ下りる。
「脳か、魂か。記憶と人格を結びつけている部分へ直接干渉する」
「そんなこと、できるの?」
「できなくはない。ただ、僕は精神操作の専門家じゃない。どの記憶が人格のどの部分を支えているか、完全には把握できないんだ」
「人格……?」
「家族の顔を覚えていても、家族への愛情だけを失うかもしれない。高町さんたちとの出来事を覚えていても、友達だと感じられなくなるかもしれない」
口調は軽かった。
まるで、消しゴムで必要な線だけを消せないかもしれない。
その程度の話をしているみたいに。
「運が悪ければ、月村すずかという人格そのものが、今とは別の形になる」
「そんな……」
「だから、なるべくやりたくないんだよ」
小尾くんは困ったように笑った。
「せっかく気に入った人格を、僕の失敗で壊すのは寝覚めが悪い」
私自身ではなく。
使い物になる私を惜しんでいる。
そう聞こえた。
断ってもいい。
けれど、安全に断ることはできない。
これは相談ではない。
勧誘でもない。
命令だ。
でも。
小尾くんから離れれば、何も分からなくなる。
なのはちゃんやアリサちゃんへ何をするつもりなのか。
次に誰を選ぶのか。
近くにいたところで、止められるとは限らない。
それでも。
何も知らずに待っているよりは、ずっといい。
「分かった」
「うん?」
「助手候補になる」
自分の声が、遠く聞こえた。
小尾くんは目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「それじゃあ、契約を交わそうか」
「契約?」
小尾くんが指定鞄から、一枚の紙を取り出した。
古びた羊皮紙。
表面には見たことのない文字と複雑な紋様が、黒いインクで隙間なく書き込まれていた。
「自己強制証明。セルフ・ギアス・スクロール」
「前のときには、こんなもの出さなかったよね」
「あのときは、君を助手にするつもりがなかったからね」
小尾くんは羊皮紙の端をつまんだ。
「自己強制証明は、条件を決めて術式を組む必要がある。思いつきで使える道具じゃない。この半月、君を観察しながら用意したんだ」
「何、それ」
「契約を破れなくするための術式文書だよ」
小尾くんは羊皮紙を広げた。
そこには、私が小尾くんの研究や正体に関する情報を、許可なく第三者へ開示しないこと。
工房の設備や研究資料を、許可なく持ち出したり破壊したりしないこと。
小尾くんは、助手として定めた範囲を超えて、私へ命令を強制しないこと。
契約違反への処置を除き、私の生命、記憶、人格へ故意に干渉しないこと。
いくつもの条件が記されていた。
「これで、本当に小尾くんも縛られるの?」
「もちろん」
「契約を破ったら?」
「誓約に応じた罰を受ける。どこまで抵抗できるかは、破ろうとした内容次第だ」
「死ぬこともあるの?」
「あるだろうね」
私は羊皮紙から目を上げた。
「そんなものに、契約しろって言うの?」
「僕も、この契約に書かれた条件へ縛られる」
小尾くんは指先を差し出した。
その先に、小さな針があった。
「少なくとも、僕の気分一つで君を殺したり、人格を弄ったりはできなくなる。今よりは安全だと思うよ」
安心させるような言葉なのに、まったく安心できない。
「拒否してもいい」
穏やかな声だった。
拒否した先に何があるのか。
もう聞いている。
私は針を受け取った。
親指の腹へ当てる。
少し押すと、鋭い痛みが走った。
赤い血が、小さく膨らんだ。
「ここへ」
小尾くんが羊皮紙の端を指差した。
私は震える親指を押しつけた。
赤い拇印が残る。
同時に。
何かが、指先から吸い取られた。
血ではない。
もっと奥にあるもの。
私を私にしている何かへ、細い糸が結びついた。
胸の内側が締めつけられる。
「っ……」
「これで君の分は成立した」
小尾くんも自分の親指を針で刺した。
私の隣へ、血の拇印を押す。
羊皮紙の文字が、二人分の血を吸って黒ずんだ。
光も、音もなかった。
それでも、胸の奥へ打ち込まれた杭のような感触が残った。
破ればどうなるのか。
説明されなくても、分かってしまった。
「成立だ」
小尾くんは羊皮紙を畳んだ。
「これで君は、正式な助手候補だ」
最初から、交渉なんてしていなかったくせに。
「よろしく、助手君」
◇
小尾くんについて歩いていくと、学校からそれほど遠くない場所に、大きな建物が見えてきた。
門の横に、施設名が書かれた看板がある。
児童養護施設。
私は足を止めた。
「ここ……」
「僕の家だよ」
「小尾くん、ここで暮らしてるの?」
「言ってなかったっけ?」
「聞いてないよ」
「そうだったかな」
小尾くんは本当に忘れていたような顔をした。
私は校外学習で聞いた説明を思い出す。
いろいろな事情で、家族と一緒に暮らせない子供たちが生活する場所。
小尾くんには両親がいないのだろうか。
聞こうとして。
やめた。
小尾くんは、私の迷いに気づいたらしい。
「両親ならいたよ」
「え?」
小尾くんは門を開けながら、今日の天気についてでも話すように続けた。
「母親を最初の人体実験に使ってね。失敗して死なせた。父親も、その後始末に巻き込まれて死んだ。それで身寄りがなくなった」
足が止まった。
「……お母さんを?」
「適性がありそうだったからね。結果的には見込み違いだったけど」
小尾くんは振り返った。
「どうしたの?」
「どうしたのって……」
「早くおいで。門を開けたままにすると怒られる」
本当に。
それだけの話なのだ。
小尾くんにとっては。
自分の母親を実験に使ったことも。
その結果、孤児になったことも。
給食の献立と同じように、日常会話の中へ置ける出来事なのだ。
私は何も言えないまま、門をくぐった。
「今日の給食、妙に薄味じゃなかったかい?」
「……そうかな」
「味噌汁なんて、ほとんど色のついたお湯だった」
もう次の話をしている。
さっきの言葉を引きずっているのは、私だけだった。
「私は普通だと思ったよ」
「月村さんは健康的な味覚をしてるんだね」
「小尾くんが濃い味に慣れてるだけじゃない?」
「それは否定できない」
誘拐事件のことも。
契約のことも。
母親を実験で死なせたことも。
全部なかったみたいに。
小尾くんは学校の宿題について文句を言った。
漢字の書き取りは非効率だとか。
同じ字を十回ずつ書かせる意味が分からないとか。
「でも、小尾くん、この間『働』の右側を間違えてたよね」
「あれは事故だよ」
「先生に赤で直されてた」
「人間は失敗する生き物なんだ」
「小学四年生らしい失敗だね」
そう言うと、小尾くんは少しだけ嫌そうな顔をした。
施設へ入ると、職員の女の人が笑顔で迎えてくれた。
「あら、おかえりなさい」
「ただいま」
「そちらは、お友達?」
普通の質問だった。
私は少し緊張しながら頭を下げる。
「月村すずかです。お邪魔します」
「まあ、礼儀正しいのね」
職員の人は嬉しそうに笑った。
「小尾くんがお友達を連れてくるなんて珍しいわね」
「勉強を手伝ってもらうんだ」
小尾くんが答えた。
嘘ではない。
たぶん。
「そうなの。おやつ、あとで持っていきましょうか?」
「いらないよ。地下にいるから」
「分かったわ」
職員の人は一度も聞き返さなかった。
地下に何があるのかも。
どうして子供二人だけで入るのかも。
その言葉に疑問を持つこと自体を、忘れてしまったように。
それだけだった。
小尾くんは廊下の奥へ進む。
私はその後ろを歩いた。
階段を下りる。
一段。
また一段。
地上の音が遠ざかっていく。
施設全体が、小尾くんの影響下にある。
誰も止めない。
誰も地下へ向かう私たちを気に留めない。
それは信頼ではない。
見えているのに、疑問を持てなくされている。
階段の先で、小尾くんが扉を開けた。
「どうぞ」
私は中へ入った。
◇
最初に目に入ったのは、光だった。
何台ものモニター。
青白い画面。
数字。
折れ線のグラフ。
人間の身体を正面と横から描いた図。
その上へ重ねられた、赤や黒の線。
プリンターが低い音を立て、複雑な紋様の描かれた紙を吐き出している。
机の上には、医学書。
宗教書。
知らない文字で書かれた古い本。
赤い十字架のような形をした、黒い金属の道具。
そして。
小さな宝石。
赤。
青。
黄色。
透明。
色も形も違う宝石が、十個。
大切なものには見えないほど無造作に、金属製の皿へまとめて置かれていた。
「それ、何?」
「セフィラ」
小尾くんは短く答えた。
「僕が作った礼装だよ」
礼装。
その言葉の意味は、まだ分からなかった。
小学生の部屋には見えない。
学校の理科室とも違う。
病院。
研究所。
それから。
もっと悪い場所。
棚には、番号の振られたファイルが並んでいた。
その一冊が、少しだけ開いている。
私は見てしまった。
写真だった。
人間の腕。
皮膚には、黒い筋のようなものが浮かんでいる。
別の写真には、胸元へ奇妙な印が刻まれた男の子。
顔は写っていない。
生きている人を撮ったものなのか。
死んだ人を撮ったものなのか。
分からなかった。
写真の端には、小さく文字が書かれていた。
検体七号。
反応停止。
私はファイルから目を逸らした。
すると、奥の壁際に並んだものが見えた。
大きなガラス容器。
三つ。
薄暗い液体で満たされている。
一つには、何も入っていないように見えた。
二つ目には、動物らしい影。
三つ目には。
人の形に近いものがあった。
小さい。
膝を抱えるように丸まっている。
髪の毛のようなものが、液体の中で揺れていた。
「……あれは、何?」
声が震えた。
小尾くんは私の視線を追った。
「ああ」
何でもないものを見る顔だった。
「保存検体」
「人、なの?」
「元はね」
息が止まりそうになった。
「死んでるの?」
「生命活動は停止している」
「それを、死んでるって言うんじゃないの?」
「一般的にはそうだね」
小尾くんは隠そうとしなかった。
それが余計に怖かった。
罪悪感がない。
見つかって困るとも思っていない。
私を助手候補にする以上、ここにあるものを見せてもいいと判断した。
ただ、それだけなのだ。
資料の端には、いくつもの言葉が並んでいた。
検体。
適合率。
侵食。
拒絶反応。
死亡。
どれも、人間を表す言葉には見えなかった。
モニターの一つが、私が近づく前に黒くなった。
小尾くんが操作したらしい。
別の画面も閉じられる。
一瞬だけ、画面の端が見えた。
第一候補。
その下に、誰かの名前らしい文字。
読み取る前に、画面は閉じられた。
「全部、見せてくれるわけじゃないんだね」
「当然だろう」
小尾くんは椅子を引いた。
「君を選んだのは、今の君を全面的に信用したからじゃない」
「じゃあ、どうして?」
「これから信用できる人間へ育てるためだよ」
私は返事ができなかった。
小尾くんは書棚へ向かう。
「さて」
一冊の本を抜いた。
机に置く。
厚い本だった。
「人体解剖学」
二冊目。
「生理学」
三冊目。
「宗教象徴学」
そのあとも、本は増えた。
魔術基礎。
呪術理論。
天使論。
霊体の分類。
西洋宗教史。
ラテン語の初歩。
術式構築の基礎。
最後に、小尾くんが自分で作ったらしい類感魔術用語集。
本の山が高くなる。
座っている私の顔が、だんだん隠れていった。
「とりあえず、来週までに全部へ目を通して」
本の向こう側から、小尾くんの声がした。
「読むだけでいいの?」
「来週まではね。最終的には理解して覚えてもらう」
「最終的には?」
「数年以内かな」
「数年で、これを全部?」
「小学生の脳みそは吸収が早いからね」
思わず、本の山から顔を出す。
「小尾くんも小学生だよね?」
小尾くんが止まった。
「……そうだった」
冗談なのか。
本当に忘れていたのか。
分からない。
小尾くんはノートを一冊、私の前へ置いた。
「今回は、読めるところまで読む。分からない言葉に印をつける。疑問はノートへまとめる。それでいい」
「試験なの?」
「似たようなものだ」
「先に言ってよ」
「先に言うと、試験用の読み方をするだろう?」
「知らないよりはいいと思うけど」
「研究では、何を評価されるか分からない状況も多い」
小尾くんは少し考えた。
「もっとも、僕の研究を正しく評価できる人間なんて、今のところ誰もいないけどね」
「じゃあ、何のために研究してるの?」
小尾くんは、当たり前のことを尋ねられたように首を傾げた。
「根源へ至るためだよ」
「根源?」
「世界のすべてが始まった場所だと思えばいい」
「そこへ行って、何をするの?」
「辿り着く。それだけだ」
私には理解できなかった。
けれど、小尾くんにとっては。
人を傷つけることも。
命を使い潰すことも。
そこへ至るための手段でしかないのだ。
「今みたいに、すぐ疑問を口にできるのは悪くない」
「褒められてる気がしないよ」
「褒めてるよ。長期的には期待している」
長期的。
その言葉が重く感じられた。
小尾くんは、私の来週だけを見ていない。
一年後。
五年後。
十年後。
私が大人になったあとまで。
その未来に、自分がいることを当然だと思っている。
私を、自分の隣に置くことも。
◇
翌日は休日だった。
朝から、私は自分の部屋で本を読んでいた。
けれど、読める本のほうが少なかった。
日本語で書かれているものは、解剖学と生理学、それから小尾くんが作った用語集くらい。
残りは英語。
ラテン語。
見たこともない文字で書かれた古い本。
表紙を開いても、一行目から意味が分からない。
日本語の解剖学書でさえ、知らない言葉ばかりだった。
一つの言葉を調べると、その説明にまた知らない言葉が出てくる。
ページが進まない。
机の上には、残りの本が積まれている。
その横で、一匹の猫が尻尾を揺らしていた。
「そこ、乗っちゃだめだよ」
声をかけても動かない。
猫は積み上がった本へ前脚をかけ、そのまま一冊を床へ落とした。
「あっ」
重い音がした。
猫は驚いて飛び降り、何事もなかったようにベッドの下へ逃げ込んだ。
「すずか?」
扉が開いた。
お姉ちゃんが顔をのぞかせる。
「今、すごい音がしなかった?」
「本が落ちただけだよ」
「本?」
お姉ちゃんは部屋へ入り、机の上を見た。
「なに、この量」
「友達に借りたの」
「解剖学、生理学……これは英語ね。こっちはラテン語?」
一冊ずつ背表紙を確かめる。
「ずいぶん変わった趣味のお友達ね」
「うん」
「学校の子?」
「……そうだよ」
お姉ちゃんは私の顔を見た。
「最近、何かあった?」
「どうして?」
「誘拐事件のあとから、考え込んでることが多いから」
優しい声だった。
なのはちゃんと同じ。
私は視線を落とした。
契約が胸の奥で、わずかに軋んだ気がした。
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「うん」
お姉ちゃんはしばらく私を見ていた。
けれど、無理には聞かなかった。
「分からないところがあるなら、医学関係は少しくらい手伝えるかも」
「お姉ちゃん、分かるの?」
「専門じゃないけど、すずかよりはね」
お姉ちゃんは笑いながら、床へ落ちた本を拾った。
けれど、表紙を見た途端に動きを止めた。
「……何語、これ?」
「分からない」
「分からない本を借りたの?」
「小尾くんが覚えろって」
「その子、すずかを何だと思ってるのかしら」
私も聞きたい。
でも。
答えは、もう知っている。
将来の助手。
育てる対象。
自分の隣へ置く人間。
「これ、本当にどこの言葉なの?」
お姉ちゃんはページをめくった。
すぐに眉を寄せる。
「私も見たことがないわ」
その言葉に、少しだけ安心した。
読めないのが、私だけではなかったから。
「でも、無理はしないこと。勉強は逃げないから」
逃げてくれたらいいのに。
私はそう思った。
そのとき、廊下の電話が鳴った。
しばらくして、扉が軽く叩かれた。
「すずかお嬢様」
ノエルだった。
「お電話が入っています」
「誰から?」
「小尾様とおっしゃる男の子からです」
お姉ちゃんが、机の上に積まれた本を見た。
「例の、変わったお友達?」
「……うん」
「休日にも電話してくるくらい仲がいいのね」
「そんなんじゃないから」
「まだ何も言ってないわよ」
私は逃げるように部屋を出た。
「はい、月村です」
『助手君かい?』
「その呼び方、やめてくれない?」
『気に入らない?』
「気に入らないよ」
『じゃあ、すずかと呼ぼう』
「え?」
『君も僕を小尾くんと呼んでいる。公平だろう? それとも、小尾一とでも呼ぶかい?』
「小尾くんでいいよ」
『オビ・ワンでもいい』
「もっと嫌だよ」
『残念だ』
『すずか』
「……なに?」
『まだ必要な資料が足りない』
急に名前を呼ばれると、変な感じがした。
距離が近くなったみたいで。
それが嫌だった。
「私、昨日の本も全然読めてないよ」
『並行して進めればいい』
「無理だよ。英語とラテン語はまだ少し調べられるけど、文字も分からない本まであるんだよ?」
『ああ、それは古代ヘブライ語とエノク語だ』
「読めないよ」
『だから覚えるんだ』
「読めないものは覚えられないよ」
『言語から始めればいい』
「来週までに?」
『長期課題だよ。さすがに一週間で新しい言語を二つ覚えろとは言わない』
少しだけ安心した。
『三か月くらいを想定している』
「短いよ」
『若い脳は吸収が早い』
「小尾くんも若いでしょ」
『そうだった』
本当に忘れているのかもしれない。
『今日は市営図書館へ行くぞ』
「今日?」
『一時間後、学校の正門前』
「私にも予定が――」
『あるのかい?』
「……ないけど」
『なら問題ないね』
助手候補になった翌日から。
私の予定は、小尾くんに握られていた。
◇
市営図書館で探したのは、魔法の本ではなかった。
ギリシャ、北欧、エジプトをはじめとする各地の神話。
旧約聖書やカバラ。
天使の図像、宗教儀礼、民俗学。
それに医学書や古典語辞典、海鳴市の地域史。
どれも分厚く、小学生が休日に読むような本には見えなかった。
私が今後読むための本だという。
小尾くんは検索端末を使い、次々と本の場所を指定した。
「次は三階。分類番号一六四」
「まだあるの?」
「知識はいくらあっても困らない」
私の腕には、これから私が読まなくてはいけない本が六冊も積まれている。
前が見えにくい。
「助手って、本を運ぶ仕事なの?」
「助手候補だよ」
「どっちでもいいよ」
「自分の教材を自分で運ぶのは当然だろう?」
「小尾くんも持ってよ」
「持ってるじゃないか」
小尾くんの腕には、薄い本が一冊だけあった。
表紙には、古い海鳴市の地図が印刷されている。
「一冊だけでしょ」
「これは重要な一冊だ」
「私が持ってるのは重要じゃないの?」
「どれも重要だよ」
「じゃあ半分持って」
「助手の筋力向上も、長期的には有益だと思わないかい?」
「思わない」
「意見が合わないね」
当然のように言われた。
少しだけ腹が立った。
でも、そのおかげで、昨日から続いていた息苦しさがほんの少し薄れた。
私は頼まれた本を探すため、本棚の間へ入った。
高い場所に目的の本がある。
手を伸ばそうとしたとき。
隣の棚から、小さな声が聞こえた。
「もうちょいなんやけどなあ」
見ると、車椅子に乗った女の子がいた。
私と同じくらいの年齢。
茶色の髪。
柔らかそうな雰囲気の子だった。
高い棚へ手を伸ばしているけれど、指先が本へ届いていない。
「取ろうか?」
声をかけると、女の子がこちらを見た。
「ええの?」
「うん。どの本?」
「右から三冊目の、青い背表紙のやつ」
私は本を抜いた。
「これでいい?」
「それや。ありがとう、助かったわ」
女の子は嬉しそうに笑った。
受け取った本を膝の上へ置く。
「うちは八神はやて。あなたは?」
「月村すずか」
「すずかちゃんか。ええ名前やね」
「ありがとう。はやてちゃんも」
自然に笑えた。
「すずかちゃんも調べもの?」
「うん。友達の手伝い」
「えらいなあ。うちはただ本を借りに来ただけや」
「どんな本?」
「料理の本。ちょっと作ってみたいもんがあってな」
少し話していると、足音が近づいてきた。
「すずか、目的の本は――」
小尾くんが、本棚の角から現れた。
片手には、古い海鳴市の地図が載った本。
私が抱えているものと比べれば、ずいぶん薄い。
小尾くんは、はやてちゃんを見る。
その目が。
ほんの少しだけ、変わった。
私を調べるように見たときと同じ目。
顔は笑っている。
でも、視線だけが何かを測っている。
「お友達?」
「今、会ったところだよ」
「八神はやてです」
はやてちゃんが、ぺこりと頭を下げた。
「小尾っていうんだ。よろしく、八神さん」
小尾くんも柔らかく笑った。
「こちらこそ、よろしゅう」
車椅子だからと気を遣いすぎることもなかった。
かわいそうだと言わない。
できないことを先回りして助けようともしない。
ただ普通に話した。
「料理の本?」
「せや。ちょっと難しそうやけどな」
「本のとおりに作れば、食べられるものにはなるさ」
「ずいぶん大ざっぱやなあ」
「料理は化学だからね。分量さえ間違えなければ、致命的な失敗は少ない」
「致命的って、料理に使う言葉やないと思うけど」
はやてちゃんが笑う。
小尾くんも笑った。
けれど、私は見ていた。
小尾くんが一瞬だけ黙ったことを。
はやてちゃんの胸元へ視線を向けたことを。
「へえ」
小さく、そう呟いたことを。
「どうしたの?」
私が聞く。
「いや」
小尾くんは笑った。
「少し珍しいと思ってね」
「この本が?」
はやてちゃんが、膝の上の料理本を見る。
「そんなところ」
嘘だ。
小尾くんが見ていたのは本ではない。
はやてちゃんだった。
もっと正確には。
はやてちゃんの中にある、何か。
「ほかにも探してる本があるの?」
小尾くんが尋ねる。
「同じ棚の上のほうに、もう一冊あるんやけど」
「取ろう」
小尾くんが片手を伸ばす。
上段の本を抜き、はやてちゃんへ差し出した。
「これかな」
「そうそう。ありがとう」
はやてちゃんが本を受け取る。
そのとき、小尾くんの指が、はやてちゃんの手へわずかに触れた。
一瞬だけ。
小尾くんの目から、子供らしい柔らかさが消えた。
何かを読み取るような。
中身を覗き込むような目。
けれど、すぐにいつもの笑顔へ戻る。
小尾くんの手が、ズボンのポケットへ入った。
指の間から、小さな光が見えた。
白く、透き通った宝石。
昨日、工房の机に無造作に置かれていたもの。
セフィラ。
私は声を出そうとした。
けれど、何を止めればいいのか分からなかった。
ただ宝石を取り出しただけ。
危険だと決めつけるには、何も起きていない。
そう迷った、ほんの一瞬で。
「あ」
小尾くんが、はやてちゃんの胸元を見た。
「どうしたん?」
「服にごみがついてる」
「え?」
「取るよ」
返事を待たなかった。
小尾くんの指先が、はやてちゃんの胸元へ伸びる。
服についた糸くずを払うような、自然な動き。
指の間にあった白い宝石が、はやてちゃんの服へ触れた。
次の瞬間。
消えた。
落ちたのではない。
服の隙間へ入れたのでもない。
胸の中へ。
皮膚も服も通り抜けて。
沈んだ。
目には見えない。
音もしない。
空気も震えない。
それでも私は確かに感じた。
はやてちゃんの中へ、異物が入り込んだ。
はやてちゃんが胸元へ手を当てた。
「……なんやろ」
「どうした?」
「今、ちょっとぞくっとした」
「冷房が効きすぎてるんじゃない?」
小尾くんは平然と答えた。
「そうかもしれんなあ」
はやてちゃんは深く気にしなかった。
自分の中に何かを入れられたことも。
それをした相手が目の前で笑っていることも知らない。
私たちは少しだけ話したあと、はやてちゃんと別れた。
「ほな、また会えたらええな」
「うん。またね」
「またね、八神さん」
小尾くんも普通に手を振った。
はやてちゃんの車椅子が、本棚の向こうへ消えていく。
姿が見えなくなってから。
私は小尾くんを見た。
「今、はやてちゃんに何をしたの?」
小尾くんは否定しなかった。
「セフィラを埋めた」
「昨日、机にあった宝石?」
「そう」
「セフィラって、何なの?」
「僕が作った魔術礼装だよ」
「礼装……」
「魔術を行使するための道具だ。術者の魔術を補助するものもあれば、道具そのものに組み込まれた術式を、魔力を動力源として実行するものもある」
小尾くんは、はやてちゃんが消えた方向を見る。
「セフィラは後者だ。内部に組み込んだ限定機能が、宿主の魔力を使って霊的構造を書き換える」
「書き換える?」
「人間を、人間ではないものへ近づける」
意味が分からなかった。
けれど。
危険なものだということだけは分かった。
「はやてちゃんは、そのことを知ってるの?」
「知らないよ」
「どうなるの?」
「まだ分からない」
「分からないのに入れたの?」
「分からないから入れたんだ」
小尾くんは、何を聞かれているのか理解できないような顔をした。
「実際に使わなければ結果は得られない」
「はやてちゃんは、人間だよ」
「知ってる」
「検体じゃない」
「その二つは両立する」
「しないよ」
「僕の中ではするんだ」
昨日見た写真。
ガラス容器。
液体の中の、小さな影。
反応停止。
その言葉が頭へ浮かぶ。
「あの子も、死ぬかもしれないの?」
「可能性はある」
あまりにも簡単に答えた。
「そんなの……」
「ただ、僕の推測が正しければ、適合性は高い」
「推測?」
「さっき、本を渡すときに手へ触れただろう」
「うん」
「あのとき、解析をかけた」
「解析……?」
「触れた相手の構造を、魔力で読み取る。全部じゃない。器の大きさと、内部に妙なものがあることくらいだ」
「妙なもの?」
「正体までは分からない」
「分からないものがあるのに、セフィラを入れたの?」
「だからこそだよ」
小尾くんは、心底楽しそうに目を細めた。
「未知の要素が、セフィラへどう作用するのか。興味深いと思わないかい?」
私は思わなかった。
「だから大丈夫なの?」
「大丈夫とは言ってない」
小尾くんは、古い地図の本を抱え直した。
「解析結果が正しいかどうかも含めて、経過を見る必要がある」
助手候補として最初に見た仕事。
それは。
何も知らない女の子への人体実験だった。
止める暇もなかった。
何をするのか気づいたときには、終わっていた。
「どうして、はやてちゃんだったの?」
「器が大きかったから」
「器?」
「魔力を受け入れ、変質へ耐えられる余地、とでも思えばいい」
「はやてちゃんは、大きいの?」
「僕の知っている中では、二番目かな」
二番目。
胸の奥が冷たくなった。
「一番は?」
小尾くんは答えなかった。
歩き出す。
私はその背中を見た。
小尾くんが知っている人。
年齢が近い。
日頃から観察できる場所にいる。
はやてちゃんよりも大きな器。
それから。
小尾くんは、ときどきなのはちゃんを見ていた。
私が小尾くんを気にするようになる前から。
授業中も。
休み時間も。
本人に気づかれないように、何かを測る目で。
「……なのはちゃん?」
小尾くんの足が止まった。
振り返る。
いつもの笑顔。
「やっぱり君、地頭がいいね」
否定しなかった。
「助手に選んで正解だったよ」
耳の奥で、何かが鳴った。
なのはちゃん。
悪い人じゃないと思うよ。
昼休みに笑っていた顔。
猫を抱っこしたいと、楽しそうに話していた声。
「なのはちゃんに、何をしたの?」
「今は教えない」
「もう、何かしたの?」
「それも教えない」
「助手なのに?」
「候補だよ。それに、助手だからといって初日から全情報へアクセスできるわけじゃない」
「なのはちゃんは、自分が研究対象だって知ってるの?」
小尾くんは、少しだけ笑った。
「知っていたら、あんなふうに僕へ笑いかけないだろうね」
それで十分だった。
なのはちゃんも、知らない。
知らないまま。
小尾くんの研究対象にされている。
私は、小尾くんのそばにいれば守れるかもしれないと思った。
何をするのか見ていれば、止められるかもしれないと。
けれど。
私が助手になるより前から。
すでに、なのはちゃんは選ばれていた。
私が小尾くんへ近づこうと決めたときには。
なのはちゃんは、もうずっと前から。
小尾くんの研究の中にいた。
◇
図書館を出たあと。
小尾くんは一冊のノートを私へ渡した。
「今日の観察記録をまとめておいて」
「観察記録?」
「八神はやて。推定年齢、身体状態、会話中の反応。見たままでいいよ」
私はノートを受け取れなかった。
「私に、はやてちゃんのことを書けって言うの?」
「助手の仕事だ」
「私は、まだ候補なんでしょ」
「候補の仕事だよ」
「でも……」
「君は彼女と会話した。僕より近い位置で表情も見ていた」
小尾くんは、ノートを差し出したまま続けた。
「それに、同じ年頃の女の子同士だ。君なら今後、彼女と自然に親しくなれる可能性が高い」
「私に、友達のふりをしろっていうの?」
「ふりである必要はないよ。本当に友達になればいい」
あまりにも自然に言った。
「友達として彼女を心配しながら、助手として経過を観察する。両立はできる」
「そんなの……」
「主観と推測は分けて書くこと。分からない部分は、分からないと明記していい」
はやてちゃん。
料理の本。
柔らかい関西弁。
また会えたらええな。
それを。
年齢。
身体状態。
会話中の反応。
検体の記録として書く。
受け取らなくても。
はやてちゃんへ入れられたものは消えない。
小尾くんの実験も止まらない。
受け取れば。
私は、それを観察する側になる。
私の手が震えている。
小尾くんは急かさなかった。
ただ待っていた。
逃げられないことを知っているから。
私はノートを受け取った。
重くはない。
薄いノート。
それなのに、両腕で抱えなければ落としてしまいそうだった。
「提出は明日ね」
小尾くんは先に歩き出した。
「期待してるよ、すずか」
夕方の道。
遠ざかっていく、小さな背中。
指定鞄を肩に掛けた、小学四年生の男の子。
私はノートを抱え、その後ろ姿を見つめた。
この人を監視するために近づいた。
なのはちゃんたちを守るために。
そう思っていた。
けれど。
私が最初にしたのは、誰かを守ることではなかった。
何も知らない女の子が実験台にされるところを見届けて。
その子を、検体として記録することだった。
◇
追加検体――八神はやて。
器容量、良好。
内部異常、確認。詳細不明。
セフィラ定着経過、要観察。
優先度、低。