「力が欲しいか?」と言いたくて! 作:桃たろす
レイジングハートと「一緒に強くなろう」と約束してから、半日ほどが経っていた。
傷の治療は終わっている。
折れた骨もない。
身体の表面に残っていた打撲も、医療魔法によってほとんど消えていた。
それでも。
「よい、しょ……」
なのはは両手をベッドへつき、ゆっくりと身体を起こした。
ただ上半身を持ち上げる。
それだけの動作だった。
けれど、胸の奥には鉛でも詰め込まれているような重さがあった。
腕が震える。
呼吸が浅くなる。
「なのは、無理しないで」
ベッドの横に座っていたフェイトが、すぐに背中へ手を添えた。
「ありがとう、フェイトちゃん」
なのはは枕を背に入れてもらい、ようやく身体を預ける。
たったそれだけで、額には薄く汗が滲んでいた。
リンカーコアを蒐集された影響。
魔力の中心を無理やり削られたことで、なのはの身体は一時的に大きく衰弱している。
命に別状はない。
時間をかければ回復する。
医療担当者はそう説明してくれた。
けれど、今のなのはには、ベッドから降りて歩くことさえ難しい。
「まだ寝ていた方がいいよ」
ユーノが心配そうに言った。
「うん。分かってるんだけど……」
なのはは自分の右手を見る。
そこに、いつも握っていたものはない。
赤い宝石。
自分へ魔法を教えてくれた相棒。
レイジングハートは、すでに整備区画へ運ばれていた。
目を覚ましたときには枕元にあった傷ついた宝石も、正式な検査のため、今は整備区画へ運ばれている。
それだけで、右手がひどく寂しく感じられた。
「レイジングハート、大丈夫かな」
「いま、詳しい検査をしてる」
ユーノが答えた。
「コア部分の機能は生きてるよ。記憶領域にも大きな損傷はない。ただ、外装と魔力伝導系はかなり壊れてるみたいだ」
「そっか……」
破損したレイジングハートの姿を思い出すと、胸の奥が痛んだ。
あのとき、もっと上手に動けていたら。
もっと自分が強かったら。
「わたしが無理させちゃったのかな……」
「なのは」
フェイトが何かを言おうとした。
その前に、医務室の扉が開いた。
「失礼するよ」
入ってきたのはクロノだった。
その後ろにはエイミィがいる。
エイミィの手には薄い端末が抱えられていた。
「なのはちゃん、起きてて大丈夫?」
「はい。ちょっとだけなら」
「ちょっとだけ、ね」
エイミィは念を押すように言いながら、ベッド脇の台へ端末を置いた。
淡い光が浮かび上がる。
表示されたのは、分解されたレイジングハートの立体映像だった。
赤い宝石。
破損した外装。
内部を走る細い魔力伝導路。
いくつもの部品が、空中に展開されている。
なのはの顔が強張った。
映像だと分かっている。
修理のためだとも分かっている。
それでも、ばらばらになった相棒を見るのはつらかった。
「レイジングハート……」
端末の光が明滅した。
『I am here, my master.』
「声……」
「通信機能を整備区画からつないでるの」
エイミィが説明する。
「まだ直接起動させるのは危ないから、会話だけだけどね」
「よかった……」
なのはは胸元へ手を当てた。
声が聞こえる。
それだけで、張り詰めていたものが少し緩んだ。
「レイジングハート……ごめんね」
『Negative, my master.』
即座に返された否定に、なのはは口を閉じた。
自分だけが相棒を守れなかったと悔やんでいるわけではない。
レイジングハートもまた、主を守れなかったことを悔やんでいる。
だからこそ、二人で強くなると決めたのだ。
「二人とも反省するのは結構だけどね」
エイミィが、二人の間へ割って入るように口を開いた。
「反省と、自分だけを責めることは違うよ」
「エイミィさん……」
「それに、落ち込むより先に決めなきゃいけないことがあるの」
端末に表示されていた立体映像が切り替わった。
レイジングハートの内部へ、新しい部品が加えられる。
円筒形の機構。
複数の薬莢。
強化された金属フレーム。
なのはは目を見開いた。
「これが……新しいシステム?」
「ベルカ式カートリッジシステム」
クロノが答えた。
「魔力を蓄積したカートリッジを使用して、短時間だけデバイスの出力を大きく引き上げる機構だ」
「短時間だけ……」
「効果は高い。ベルカ式の騎士たちが、近接戦闘で高い瞬間出力を発揮できる理由のひとつでもある」
画面の中で、薬莢が装填される。
内部に込められた魔力が解放され、デバイス全体へ流れていく。
細い伝導路が、一瞬で強い光に満たされた。
「ただし、簡単に取りつけられるようなものじゃない」
クロノの声は厳しかった。
「レイジングハートは、もともとミッドチルダ式のインテリジェントデバイスだ。ベルカ式の機構を無理に載せれば、全体の均衡が崩れる」
映像がさらに細かく分解されていく。
「内部フレームの再設計」
骨格が組み直される。
「魔力伝導系の強化」
光の通り道が太くなる。
「カートリッジ使用時の瞬間出力に耐えるための保護機構」
赤い宝石の周囲へ、複数の層が追加される。
「射撃時の反動制御。それに、出力に応じたモード切り替え機能」
杖の先端が、いくつかの異なる形へ変化する。
「これは修理というより、ほとんど新造だ」
なのはは、映像の中で変わっていくレイジングハートを見つめた。
同じ赤い宝石。
同じ声。
けれど、身体はこれまでとは違うものになる。
「危ないんですか?」
「危険はある」
クロノは誤魔化さなかった。
「レイジングハートが耐えられても、使用者が耐えられるとは限らない」
なのはの胸元へ視線を向ける。
「カートリッジで増幅された魔力は、最終的には術者が制御する。出力が上がれば、術式を維持するための負担も増える。まして、君のリンカーコアは回復途中だ」
「……はい」
「完成直後から全力で使おうとすれば、また倒れる可能性がある。今度も無事に済むとは限らない」
医務室が静まり返った。
ユーノは不安そうに、なのはを見つめている。
フェイトも何も言わない。
決めるのは、なのはだった。
怖くないわけではない。
また倒れるかもしれない。
自分の力を制御できず、大切な人を巻き込むかもしれない。
けれど。
なのはは目を閉じた。
目を覚ました直後、レイジングハートと交わした言葉を思い出す。
一緒に、強くなろう。
あれは、その場だけの慰めではない。
危険も負担も、二人で受け止めると決めた約束だった。
「レイジングハート」
『Yes, my master.』
「この改修案で、いいんだね」
『Yes.』
「分かりました」
なのははクロノを見る。
「お願いします」
「なのは」
ユーノが小さく名前を呼ぶ。
なのはは不安を隠すようにではなく、その不安ごと受け入れるように笑った。
「わたしだけが強くなるんじゃないから」
端末の中で、赤い光が明滅する。
「レイジングハートと一緒に、強くなるんだもんね」
『Yes, my master.』
◇
医務室を出たあと。
フェイトは整備区画へ続く通路の前で足を止めた。
手の中には、待機状態のバルディッシュがある。
金色の三角形をした宝石。
前の戦いで多少の負荷は受けたものの、深刻な損傷はない。
シグナムの剣を受けた。
何度も打ち合った。
それでも、バルディッシュは壊れなかった。
整備を受ければ、これまでと同じように戦える。
「バルディッシュ」
『Yes, sir.』
「なのはのレイジングハート、すごく変わるみたいだね」
『Yes, sir.』
カートリッジシステム。
強化された機構。
より大きな力。
なのはとレイジングハートが選んだ、新しい形。
フェイトは手の中の宝石を見つめる。
「少し、寂しくなるね」
『Sir?』
「レイジングハートが整備区画に行っちゃったから。なのは、しばらく一人になっちゃう」
もちろん、フェイトもユーノもいる。
アルフもいる。
けれど、デバイスはそれとは違う。
いつでも手の中にいてくれる相棒。
戦うときも。
迷ったときも。
言葉にできない気持ちを、黙って受け止めてくれる存在。
フェイトにとってのバルディッシュも、そうだった。
『Sir.』
「なに?」
『Upgrade request.』
フェイトは一度、言葉の意味を理解できなかった。
「改修……?」
『Yes, sir.』
「バルディッシュも、カートリッジシステムを?」
『Yes.』
「でも」
フェイトは眉を下げた。
「バルディッシュは壊れてないよ」
沈黙。
「いまのままでも、ちゃんと戦える。無理に変わらなくてもいいんだよ」
『Upgrade request.』
「バルディッシュまで、無理をしなくてもいいよ」
『――』
金色の宝石が静かに明滅する。
要求は取り下げられない。
その意思だけが伝わってきた。
「どうして?」
フェイトが尋ねる。
バルディッシュの答えは、すぐには返らなかった。
デバイスは人間と同じように、長い言葉で気持ちを説明することはない。
必要なことだけを告げる。
短く。
正確に。
『Next time.』
フェイトの指が止まる。
『We must arrive.』
次は。
届かなければならない。
フェイトの脳裏に、夜の屋上が浮かんだ。
倒れていたなのは。
力なく伸ばされた手。
深い亀裂の入ったレイジングハート。
胸元から光を奪われ、声を出すことさえできなくなっていた少女。
フェイトは助けに向かった。
全力で飛んだ。
けれど、間に合わなかった。
ヴィータを止めようとした瞬間、シグナムが立ちはだかった。
焦った。
急いだ。
目の前の相手を見ず、なのはだけを見ていた。
その焦りを見抜かれ、何度も進路を塞がれた。
助けたいと思っているだけでは、届かなかった。
「怖かったんだ」
フェイトは、小さく呟いた。
『Sir.』
「なのはが、いなくなるかもしれないって思った」
プレシアを失ったときとは違う。
母は、自分から遠ざかっていった。
最後まで手を伸ばしても、その手を取ってはくれなかった。
けれど、なのはは違う。
何度拒んでも追いかけてきた。
何度戦っても名前を呼んだ。
最後には、自分の手を握ってくれた。
ようやくできた友達。
自分の前から、また大切な人がいなくなる。
そう思った瞬間。
胸の奥が、凍りついた。
「バルディッシュも、怖かった?」
金色の光が、一度だけ強くなる。
それが肯定だった。
フェイトは目を伏せた。
「次は、間に合いたいんだね」
『Yes, sir.』
「うん」
フェイトは手の中の宝石を、そっと包み込んだ。
「わたしも同じだよ」
足音が近づく。
振り返ると、エイミィが端末を抱えて立っていた。
「フェイトちゃん?」
「エイミィ」
「どうしたの? バルディッシュの調子、悪い?」
「ううん」
フェイトは首を振る。
それから、手を開いた。
「バルディッシュも、改修を希望してる」
「え?」
「レイジングハートと同じシステムを載せたいって」
エイミィは目を丸くした。
バルディッシュは壊れていない。
危険を冒してまで、大規模な改修を行う必要はない。
そう言いかけたのだろう。
けれど、フェイトの顔を見て、言葉を止めた。
「フェイトちゃんも、それでいいの?」
「うん」
迷いはなかった。
「次は、間に合いたいから」
エイミィはしばらく二人を見つめたあと、困ったように笑った。
「似た者同士だね。本当に」
フェイトは少しだけ首を傾げる。
「わたしとなのはが?」
「そっちもだけど」
エイミィは、フェイトの手の中にあるバルディッシュを指した。
「持ち主とデバイスが、だよ」
整備区画の扉が開く。
白い光に照らされた広い室内。
奥では、すでに分解されたレイジングハートの周囲を、複数の整備員が取り囲んでいた。
フェイトは、手の中のバルディッシュを見る。
「少しだけ、お別れだね」
『Yes, sir.』
「待ってるから」
『Yes, sir.』
フェイトはバルディッシュを、エイミィの手へ預けた。
いつも手の中にあった重みが消える。
軽くなったはずなのに。
空になった手は、少しだけ心細かった。
二本の杖は、並んで整備区画の奥へ運ばれていった。
◇
「駄目だ」
クロノの返答は、短かった。
「でも、クロノくん」
「駄目だ」
「まだ全部言ってないよ」
「何を言うつもりなのか分かっている」
医務室のベッドの上で、なのはは頬を膨らませた。
その前にはクロノが立っている。
フェイトとユーノもいた。
レイジングハートとバルディッシュが整備区画へ運ばれてから、まだ一時間も経っていない。
それなのに、なのははすでに次の話を始めていた。
「あの子のことを調べたいだけだよ」
「君が直接調べる必要はない」
「でも、わたしを襲った子だよ?」
「だからこそだ」
クロノは腕を組んだ。
「君は現在、重度の魔力消耗状態にある。デバイスもない。まともに歩くことさえできない。その状態で事件へ関わることは許可できない」
「戦おうって言ってるんじゃないよ」
「敵を探すつもりだろう」
「お話を聞きたいだけ」
「前回も同じことを言って、戦闘になった」
「それは……」
なのはの声が小さくなる。
確かにその通りだった。
話したかった。
けれど、相手は止まってくれなかった。
「管理局はこちらで捜査を進める」
クロノは続ける。
「相手が使っていた術式。デバイス。蒐集と呼ばれる行為。すでに分かっている情報を整理して、行動範囲を絞る。君たちは回復を優先するんだ」
「君たち?」
フェイトが聞き返す。
「フェイト。君もだ」
「わたしも?」
「デバイスを預けた状態で、単独行動をするつもりじゃないだろうな」
フェイトは僅かに目を逸らした。
クロノの目が細くなる。
「その反応は何だ」
「探しに行こうとは、少しだけ考えてた」
「少しだけ?」
「……かなり」
クロノが額を押さえる。
ユーノは苦笑いしていた。
なのはは、少し期待するようにフェイトを見た。
「じゃあ、フェイトちゃんも――」
「でも、行かないよ」
「え?」
なのはの表情が止まる。
フェイトは、ベッドの横へ立った。
「クロノの言う通りだと思う」
「フェイトちゃんまで?」
「うん」
「フェイトちゃんなら、分かってくれると思ったの」
「分かるよ」
フェイトの声は優しかった。
だからこそ、なのはは何も言えなくなった。
「分かるから、止めたいんだよ」
「……どういうこと?」
「わたしも焦ってる」
フェイトは自分の胸元へ手を置いた。
そこに、いつも下がっていたバルディッシュはない。
「今すぐ探しに行きたい。なのはを傷つけた人たちが、どこにいるのか知りたい。どうしてあんなことをしたのか、聞きたい」
「だったら」
「でも」
フェイトは、なのはの言葉を遮った。
「また、なのはが倒れるところは見たくない」
昨夜。
冷たくなりかけた手。
呼びかけても、なかなか開かなかった瞳。
治療室へ運ばれてからも、いつ目を覚ますか分からなかった時間。
フェイトは、なのはの手を握ったまま離せなかった。
「なのはが行くなら、わたしも行きたくなる」
「フェイトちゃん……」
「でも、今のわたしじゃ、なのはを守れない」
バルディッシュもいない。
なのは自身も戦えない。
敵の人数も、居場所も、目的も分からない。
その状態で外へ出ることは、勇気ではない。
ただの焦りだ。
「だから、待とう」
フェイトが言った。
「ちゃんと動けるようになるまで。レイジングハートとバルディッシュが戻ってくるまで」
なのはは俯いた。
白い掛け布団の上で、両手を握る。
納得したわけではない。
あの少女の焦った目が、今も頭から離れない。
何か理由がある。
何か、大切なもののために戦っている。
そんな気がしていた。
だから、知りたい。
けれど。
フェイトの顔には、昨夜から消えない疲労が残っている。
自分が倒れたことで、これほど心配をかけた。
もう一度、同じ思いをさせていいはずがない。
「……分かった」
なのはは、渋々頷いた。
「今は、お休みする」
「うん」
「でも、元気になったら調べるからね」
「それは、そのとき一緒に考えよう」
「絶対だよ」
「うん」
フェイトが笑う。
なのはも、少しだけ笑った。
クロノは二人のやり取りを見届けてから、息を吐いた。
「最初からフェイトに説得してもらえばよかったな」
「クロノくん、それちょっとひどくない?」
「事実だ」
なのはは再び頬を膨らませる。
フェイトは困ったように二人を見比べた。
その日。
フェイトは初めて、なのはと並んで進むのではなく。
なのはの前に立ち、足を止める側へ回った。
◇
ハラオウン家のリビングには、いつもより少しだけ硬い空気が流れていた。
テーブルの上に、一枚の書類が置かれている。
リンディ。
クロノ。
フェイト。
アルフ。
四人が、その書類を囲むように座っていた。
「それでは、改めて伝えるわね」
リンディが口を開く。
いつもの柔らかな声。
けれど、今は艦長としてではなく、ひとりの保護責任者としてフェイトを見ていた。
「時の庭園事件に関する、フェイト・テスタロッサさんの保護観察期間は、本日をもって終了します」
フェイトは、書類を見つめた。
「終了……」
「ええ」
「もう、終わったの?」
「そうよ」
リンディは穏やかに微笑む。
「今後も管理局への協力をお願いすることはあるでしょうし、今回の事件についても、あなたの力を借りることがあると思うわ。でも、それは監視対象としてではない」
監視。
規則。
報告。
許可。
フェイトの生活には、いつも誰かの指示があった。
プレシアの命令。
ジュエルシードを集めること。
失敗しないこと。
役に立つこと。
その後は、管理局の指示。
決められた場所で生活すること。
勝手な行動をしないこと。
定期的に報告をすること。
それらは罰ではなかった。
フェイトを守るために必要なことだった。
リンディもクロノも、フェイトを責めるために規則を設けていたわけではない。
それは分かっている。
それでも。
命じられる生活しか知らなかった。
「これからは、どうすればいいの?」
フェイトは尋ねた。
「どうするって?」
「わたしは、何をすればいいの?」
リンディは少しだけ目を見開いた。
アルフが隣で、心配そうにフェイトを見る。
「誰かに言われたことじゃなくて、自分で決めていいって言われても……」
フェイトは膝の上で、両手を握った。
「何を選べばいいのか、分からない」
自由。
それは、今のフェイトがようやく手に入れたものだった。
けれど、プレシアの命令に従っていた頃は、そこから解放されたいと考えたことすらない。
命じられることを、愛されている証拠だと思っていたからだ。
けれど、なのはと出会った。
アルフに支えられた。
リンディやクロノと暮らし始めた。
少しずつ、自分が望むものを考えるようになった。
それでも、突然すべてを自分で選べと言われれば、不安になる。
正しい答えが分からない。
間違えれば、また誰かを傷つけるかもしれない。
「すぐに全部決めなくてもいいのよ」
リンディが言った。
「今日、ひとつ選んだら、明日はまたひとつ。その次の日にも、またひとつ。そうやって少しずつ決めていけばいいの」
「少しずつ……」
「ええ。ちょうど、そのための場所も用意できたところなの」
リンディが、もう一枚の書類を取り出した。
先ほどのものとは違う。
上部には、見覚えのない学校名が書かれている。
「転校手続きが終わったわ」
「転校……」
「なのはさんたちと同じ学校。それから、同じクラスよ」
フェイトが顔を上げる。
「なのはと?」
「ええ。アリサさんと、すずかさんも一緒だそうよ」
学校。
なのはたちが話していた場所。
授業を受ける。
休み時間に話す。
一緒に昼食を食べる。
放課後に、明日の予定を決める。
事件が起こらなくても会える。
戦う理由がなくても、隣にいられる。
そういう場所。
「わたしも、行けるの?」
「もちろん」
「でも……」
嬉しい。
そう思った。
けれど、その気持ちより先に、不安が浮かんだ。
「わたしが行っても、迷惑じゃないかな」
「迷惑なわけあるか!」
アルフが即座に声を上げた。
勢いよく立ち上がり、テーブルへ両手をつく。
「フェイトが来るんだぞ! なのはなんか、絶対大喜びするに決まってる!」
「アルフ、声が大きい」
「だってさ!」
「フェイトさん」
リンディが優しく名前を呼ぶ。
「なのはさんたちは、ずっと待っていたと思うわ」
「待ってた……」
「あなたが一緒に過ごせるようになる日をね」
フェイトは、なのはの笑顔を思い出す。
今度、学校の話をするね。
友達を紹介するね。
一緒に帰ろうね。
そんな話を、何度もしてくれた。
「問題を起こさなければ大丈夫だ」
クロノが言った。
アルフが勢いよく振り返る。
「クロノ!」
「何だ」
「今の言い方はないだろ!」
「事実を言っただけだ。学校には規則がある。守る必要がある」
「そういうことを言ってんじゃないよ!」
アルフが睨む。
クロノは僅かに顔を逸らした。
それから、小さく咳払いをする。
「ただ」
フェイトがクロノを見る。
「分からないことがあれば、聞けばいい」
「聞く……」
「授業のことでも、学校の決まりでも、友人との付き合い方でもだ。最初からすべて知っている人間なんていない」
クロノはフェイトと目を合わせない。
「知らないことは、恥ではない。聞かずに勝手な判断をして、失敗する方が問題だ」
「クロノ、それ励ましてるつもり?」
アルフが呆れたように尋ねる。
「そのつもりだ」
「下手だなあ」
「うるさい」
フェイトは二人を見つめた。
少しだけ、胸の奥が温かくなる。
「分からなかったら、聞いていいんだね」
「ああ」
「なのはにも?」
「当然だ」
「アリサや、すずかにも?」
「彼女たちが迷惑でなければな」
「またそういう言い方する!」
アルフが声を上げる。
リンディが楽しそうに笑った。
フェイトも、小さく笑う。
保護観察は終わった。
命令されるだけの時間も終わった。
これからは、自分で選ぶ。
何をしたいのか。
誰といたいのか。
明日、どこへ向かうのか。
その最初のひとつが、学校だった。
◇
鉄槌が振り下ろされた。
硬い甲殻が砕ける。
巨大な魔力生物が悲鳴を上げ、岩場へ倒れ込んだ。
周囲に砂煙が広がる。
「シャマル!」
『はい!』
ヴィータの声に応じて、倒れた生物の上へ緑色の魔法陣が展開された。
円環。
幾何学模様。
その中央から、白い腕が伸びる。
魔力生物の中心へ触れ、内側から光を引き出していく。
戦いは、すでに終わっていた。
魔力生物は強かった。
硬い甲殻。
岩を砕く前脚。
口から吐き出す炎。
けれど、ヴィータにとって倒せない相手ではなかった。
グラーフアイゼンを振るう。
近づく。
防御を砕く。
倒す。
いつも通りだ。
何度も繰り返してきた。
それなのに。
「悪いな」
自分の声が聞こえた気がした。
ヴィータの手が止まる。
目の前に倒れているのは、巨大な魔力生物だ。
白い服の少女ではない。
赤い宝石へ亀裂が走る音。
障壁が砕ける。
鉄槌が、小さな身体を捉える。
驚いた目。
痛みに歪んだ顔。
それでも最後まで、自分へ言葉を届けようとしていた少女。
「ヴィータ?」
背後から、シグナムの声がした。
「どうした」
「何でもねえ」
ヴィータは乱暴に答え、グラーフアイゼンを肩へ担いだ。
「さっさと終わらせろ。こんなとこ、長居する場所じゃねえだろ」
シグナムは何も言わなかった。
ただ一度、ヴィータの横顔を見る。
それから、蒐集を続ける魔法陣へ視線を戻した。
光が吸い上げられていく。
一筋。
また一筋。
奪われた魔力が、闇の書へ流れ込む。
頁が開く。
空白だった紙面へ、黒い文字が刻まれていく。
ひとつ。
またひとつ。
頁が埋まる。
『ヴィータちゃん、終わったわ』
シャマルの声が通信から届いた。
魔法陣が消える。
倒れていた魔力生物は生きている。
しばらく目を覚ますことはないだろう。
魔力を失い、大きく弱っている。
けれど、命までは奪っていない。
それでいい。
必要なのは命ではない。
魔力だ。
頁だ。
闇の書を完成させるための力。
ヴィータは自分へ言い聞かせる。
あの白い少女も生きている。
殺してはいない。
必要なものを奪っただけだ。
はやてを救うため。
家族を守るため。
自分たちには、他の方法がない。
だから、あれでよかった。
必要なことだった。
そうでなければならない。
転移魔法陣が四人を包む。
光が収まったとき、彼女たちは人気のない森の中へ移動していた。
シャマルの手には、闇の書がある。
「どれくらい増えた?」
ヴィータが尋ねる。
シャマルは頁を確認する。
表情は明るくならなかった。
「まだ足りないわ」
「さっきの、結構でかかっただろ」
「ええ。大きな魔力だった。でも、完成まではまだ遠い」
ヴィータが舌打ちする。
「もっとでかいのを探しゃいい」
「焦るな、ヴィータ」
シグナムが制した。
「急ぎすぎれば、管理局に位置を掴まれる。先日の魔導師たちも、すでに我々を追っているはずだ」
「分かってるよ!」
「分かっている者の行動ではない」
「じゃあ、どうしろってんだ!」
ヴィータがシグナムを睨む。
「ゆっくりやってる間にも、はやては――」
そこで、言葉が止まった。
全員が黙る。
はやての病状。
少しずつ動かなくなっていく足。
増えてきた咳。
眠っている時間。
本人は笑っている。
いつも通りに振る舞おうとしている。
けれど、守護騎士たちは知っていた。
悪化している。
確実に。
「主の病状を考えれば、悠長に構えてはいられん」
ザフィーラが低く言った。
「だが、我らまで倒れれば蒐集は続けられない」
「分かってる」
ヴィータは顔を背けた。
グラーフアイゼンを握る手へ力が入る。
「分かってるって言ってんだろ」
シャマルは、そんなヴィータを心配そうに見つめた。
何かあったのかと聞くことはできた。
けれど、聞かなかった。
ヴィータも言わなかった。
自分より幼く見えた少女のことを。
倒れながら、壊れた杖へ手を伸ばしていた少女のことを。
何も知らないまま、最後まで話そうとしていた相手のことを。
闇の書の頁が、風もないのに一枚だけ揺れた。
まだ足りない。
家族を救うためには。
守るためには。
さらに多くを奪わなければならなかった。
その日の蒐集を切り上げ、四人は海鳴市へ戻った。
人目のない場所で騎士甲冑を解く。
グラーフアイゼンも、レヴァンティンも、クラールヴィントも姿を消した。
シャマルは闇の書を鞄の奥へ隠す。
戦場を駆ける騎士から。
はやての待つ家へ帰る、家族の姿へ。
夕暮れの街を歩きながら、誰も蒐集のことを口にしなかった。
住宅街へ入る。
見慣れた屋根が見える。
窓からは明かりが漏れていた。
食事の匂いが、家の外まで漂っている。
ヴィータは玄関の前で一度だけ足を止めた。
それから、いつも通りに帰ってきた顔を作り、扉を開いた。
「ただいま」
「おかえり」
家の中から、はやての声が返ってきた。
車椅子に座ったはやてが、廊下の奥で笑っている。
膝の上には、たたんだタオルが載っていた。
「今日は遅かったなあ」
「ちょっと遠くまで行ってたんだよ」
「買い物?」
「まあ、そんなとこ」
「何買うてきたん?」
「え?」
ヴィータの動きが止まる。
後ろから入ってきたシャマルも、僅かに顔を引きつらせた。
シグナムが平然と答える。
「目的のものは見つかりませんでした」
「あら、そうなん? 残念やったな」
「はい」
はやては、それ以上聞かなかった。
「もうご飯できとるよ。手ぇ洗ってきてな」
「はやてが作ったのか?」
「途中まではシャマルに手伝うてもろうたけど、仕上げはうちや」
シャマルは今しがた帰ってきたばかりだ。
もちろん、はやてが言っているのは出かける前のことだった。
「今日はシチューやで」
「おお!」
ヴィータの顔が少しだけ明るくなる。
はやては満足そうに笑った。
いつもの夕食。
いつもの食卓。
湯気を上げる白いシチュー。
切り分けられたパン。
簡単なサラダ。
はやてを囲むように、守護騎士たちが座る。
「いただきます」
「いただきます!」
ヴィータは真っ先にパンへ手を伸ばした。
普段なら、そのままシチューも勢いよく食べ始める。
けれど今日は、一口食べたところで動きが止まった。
白い少女の姿が浮かぶ。
ベッドに横たわっているかもしれない。
まだ目を覚ましていないかもしれない。
家族が心配しているかもしれない。
「ヴィータ」
「ん?」
「何かあったん?」
はやてが尋ねた。
ヴィータは顔を上げる。
「何もねえよ」
「ほんま?」
「何もねえって。ちょっと疲れただけだ」
「そっか」
はやてはヴィータの顔を見つめた。
ヴィータは目を逸らさないようにした。
嘘を見抜かれている。
そんな気がした。
けれど、はやては追及しなかった。
「疲れとるときは、よう食べなあかんな」
そう言って、はやてはヴィータの皿へ、シチューの中の大きなジャガイモをひとつ追加した。
「なんでイモなんだよ」
「元気出るかもしれへんやろ?」
「肉の方が元気出る」
「ほんなら、お肉もひとつな」
「子供ではないのですから、甘やかしすぎでは?」
シグナムが言う。
「何だよ。シグナムも欲しいのか?」
「そういう意味ではない」
「ほんならシグナムにも、お肉ひとつ」
「主はやて」
「ザフィーラにもな」
「私は構わん」
「シャマルにも」
「私は自分で取れるわよ」
はやてが笑う。
守護騎士たちも、僅かに表情を緩めた。
いつもの食卓だった。
「あ、そうや」
はやてが思い出したように言った。
「今日、すずかちゃんから電話あってな」
「月村すずか殿から?」
「うん。前になのはちゃんから聞いたらしいんやけどな。金色の髪のお友達が、もうすぐ転校してくるんやって」
「転校生?」
ヴィータがパンをちぎりながら聞き返す。
「なのはちゃんの、大事なお友達なんやって。金色の髪の女の子らしいわ」
ヴィータの手が、ほんの僅かに止まった。
金色の髪。
黒い服。
大きな鎌。
倒れた白い少女と自分の間へ割り込んできた魔導師。
「ヴィータ?」
「何でもねえ」
偶然だ。
金色の髪をした人間など、他にもいる。
名前も知らない。
学校も知らない。
同じ相手だと決まったわけではない。
「なのはちゃん、きっと楽しみにしとるんやろなあ」
「なのは、ちゃん……」
ヴィータは小さく繰り返した。
あの金髪の魔導師が、倒れた少女へ向けて呼んでいた名前。
なのは。
「どないしたん?」
「いや」
ヴィータはシチューを口へ運ぶ。
「変わった名前だと思っただけだ」
「そうか? かわいい名前やと思うけど」
「別に、かわいくねえとは言ってねえよ」
はやては少し笑った。
「うちも会ってみたいなあ」
その声は楽しそうだった。
まだ会ったことのない、友達の友達。
同じくらいの年齢の女の子。
学校へ通う子供たち。
「元気になったら、うちも学校行けるかな」
誰の手も動かなかった。
ほんの一瞬。
食卓から音が消えた。
はやては気づいていないように笑っている。
「すずかちゃんと一緒に授業受けて、休み時間におしゃべりして。なのはちゃんたちとも遊べたら、楽しそうやなあ」
「必ず」
シグナムが答えた。
迷いのない声。
強く。
はっきりと。
「必ず、学校へ通えるようになります」
「ほんま?」
「はい」
「そっか」
はやては嬉しそうに微笑んだ。
「ほんなら、ちゃんと勉強しとかんとな」
再び、食卓に音が戻る。
スプーンが皿へ触れる。
パンをちぎる。
椅子が僅かに軋む。
そのとき。
小さな音がした。
はやての持っていたスプーンが、床へ落ちた。
「あ」
全員の視線が集まる。
はやては右手を見た。
指が、僅かに震えている。
「はやてちゃん?」
シャマルが立ち上がる。
「大丈夫や」
はやてはすぐに笑った。
「ちょっと滑っただけやから」
「でも」
「ほんまに大丈夫。手ぇ、ちょっと冷えとっただけや」
シャマルは床へ落ちたスプーンを拾う。
新しいものを取りに行こうとする前に、はやてが左手を伸ばした。
「こっちで食べられるから」
笑っている。
いつもと同じように。
心配をかけまいとして。
何でもないことのように。
けれど。
足だけではない。
誰も、その事実をはやての前で口にはしなかった。
「せや。明日、転校生の子のこと、もうちょっとすずかちゃんに聞いてみよ」
はやては左手でスプーンを持ち直す。
シグナムは何も言わない。
ヴィータも。
シャマルも。
ザフィーラも。
ただ、互いの目を見た。
それだけで、意思は伝わった。
急がなければならない。
約束を守るために。
はやてを学校へ行かせるために。
来年も。
その次も。
この食卓を、五人で囲むために。
◇
「届いたぞ、フェイト!」
アルフの声が、家の中へ響いた。
自室にいたフェイトが廊下へ出ると、アルフが大きな箱を抱えて立っていた。
「何が?」
「制服!」
「もう届いたの?」
「ほら、早く開けよう!」
アルフはフェイトの返事を待たず、箱を抱えたまま部屋へ入っていく。
「アルフ、待って」
「待てない!」
ベッドの上へ箱を置く。
蓋を開く。
丁寧に畳まれた制服が入っていた。
学校指定の上着。
ブラウス。
スカート。
靴下。
同じ学校へ通う子供たちが、毎日身につけている服。
「これが……」
フェイトは指先で布へ触れた。
戦闘服ではない。
防護服でもない。
魔力を通すための術式もない。
攻撃を防ぐ機能もない。
命令を果たすために着る服ではなかった。
ただ、同じ年頃の子供たちと、同じ場所で過ごすための服。
「着てみよう!」
「今?」
「今!」
「明日、着るよ」
「明日まで待てるわけないだろ!」
「アルフが着るんじゃないよ?」
「分かってるよ! フェイトが着るから楽しみなんだ!」
押し切られる形で、フェイトは制服へ着替えた。
袖を通す。
襟を整える。
スカートを身につける。
慣れない感触だった。
バリアジャケットとは違う。
身体に合わせて自動的に形が整うこともない。
少しだけ襟が曲がる。
スカートの位置が正しいのか分からない。
髪はいつも通りでいいのか。
リボンをどの高さで結べばいいのか。
「変じゃない?」
フェイトは鏡の前に立った。
「すっごく似合ってる!」
アルフが即答した。
「本当に?」
「本当だって! かわいいぞ、フェイト!」
アルフは後ろからフェイトの肩を抱き、鏡の中へ一緒に映る。
「どっからどう見ても、立派な学校の生徒だ!」
「まだ一日も行ってないよ」
「明日からそうなるんだから同じだよ!」
扉が軽く叩かれる。
「入ってもいいかしら?」
「はい」
リンディが部屋へ入ってきた。
制服姿のフェイトを見て、柔らかく微笑む。
「とても似合っているわ」
「ありがとうございます」
「少しだけ襟が曲がっているわね」
リンディはフェイトの前へ立ち、襟元へ手を伸ばした。
優しく形を整える。
「はい。これで大丈夫」
「すみません」
「謝らなくていいのよ」
フェイトは鏡を見る。
見慣れない自分が映っている。
けれど、嫌ではなかった。
「明日、何を話せばいいのかな」
「明日?」
「教室で、みんなの前に立つんですよね」
「ええ。先生が紹介してくださるはずよ」
「そのあと、わたしも何か話すんですよね」
「まずは名前を言って、よろしくお願いします」
リンディは微笑んだ。
「それで十分よ」
「それだけで、いいんですか?」
「最初はね」
フェイトは少し考える。
「好きなものを聞かれたら?」
「好きなもの?」
「なのはが、転校生はみんなにいろいろ聞かれるって言ってたから」
好きな食べ物。
好きな教科。
好きな遊び。
休みの日に何をしているのか。
フェイトは、どれもすぐには答えられなかった。
これまで、好きなものを考える余裕がなかった。
必要なもの。
命じられたもの。
役に立つもの。
そうした基準でしか、物事を選んでこなかった。
「わたしの好きなもの……」
アルフ。
バルディッシュ。
なのは。
リンディ。
クロノ。
今の家。
一緒に食べる食事。
みんなで話す時間。
けれど、それをどこまで話せばいいのか分からない。
「全部、話した方がいいですか?」
「いいえ」
リンディは首を振った。
「明日すぐに、全部を話さなくてもいいの」
「でも、聞かれたら」
「答えたいことを、答えられる分だけ話せばいいわ」
「答えたくないことは?」
「話さなくてもいいのよ」
フェイトが振り返る。
「いいんですか?」
「もちろん」
リンディは、フェイトの髪を優しく撫でた。
「お友達になるということは、最初の日にすべてを知ってもらうことではないわ」
「じゃあ、どうするんですか?」
「少しずつ知ってもらうの」
少しずつ。
今日、ひとつ。
明日、ひとつ。
その次の日に、またひとつ。
保護観察が終わったときにも聞いた言葉だった。
「少しずつ……」
「そう。フェイトさんがどんな子なのか、時間をかけて知ってもらえばいいの。フェイトさんも、相手のことを少しずつ知っていけばいいわ」
フェイトは制服の胸元へ手を置いた。
明日。
学校へ行く。
なのはがいる。
アリサとすずかがいる。
まだ会ったことのないクラスメイトもいる。
何を話せばいいのか分からない。
どう振る舞えばいいのかも分からない。
怖い。
けれど。
それだけではなかった。
「なのは、明日はもう学校に来られるのかな」
「朝の検査次第ね。無理はできないけれど、本人は行くつもりみたいよ」
「なのはらしいな!」
アルフが笑う。
フェイトも小さく笑った。
なのはが隣にいる。
そう考えると、不安が少しだけ薄くなる。
「明日が、楽しみです」
「ええ」
リンディが頷く。
「きっと、いい一日になるわ」
夜。
フェイトは制服を脱ぎ、丁寧に椅子へ掛けた。
襟が曲がらないように。
スカートへ皺がつかないように。
何度も位置を直す。
机の上には、新しい鞄。
まだ何も書かれていないノート。
削ったばかりの鉛筆。
どれも、戦うためのものではない。
明日を過ごすためのものだった。
フェイトはベッドへ入る。
いつもなら枕元に置いているバルディッシュは、今夜はいない。
少しだけ寂しい。
けれど、バルディッシュも新しい明日へ向けて準備をしている。
「おやすみ、バルディッシュ」
届かないと分かっていても、フェイトは小さく呟いた。
目を閉じる。
明日、何を話そう。
名前を言う。
よろしくお願いしますと言う。
好きなものを聞かれたら、少し考えてみる。
分からなかったら、なのはに聞く。
アリサにも。
すずかにも。
少しずつ。
一つずつ。
初めて、明日が怖いだけではなくなった。
◇
同じ頃。
アースラの整備区画では、二本のデバイスが並べられていた。
分解されたレイジングハート。
外装を外されたバルディッシュ。
二つのコアが、白い作業台の上で静かに光っている。
その周囲を、無数の器具と立体映像が取り囲んでいた。
新たな金属フレーム。
強化された魔力伝導路。
瞬間的な高出力へ耐えるための保護機構。
反動を抑える制御部品。
モード切り替えを可能にする可動構造。
そして。
魔力を封じた薬莢を装填する、カートリッジシステム。
レイジングハートの内部へ、新しい骨格が組み込まれていく。
バルディッシュの基部へ、強固な装填機構が取りつけられていく。
これまでの形を残しながら。
これまでとは違うものへ。
まだ完成には遠い。
声を出すこともない。
動くこともない。