銀環-知ってしまった斥候が逃げる話-   作:朝凪小夜

1 / 9
第一章 銀環

 

 人混みの中で、俺はいつも誰よりも早く出口を知っている。

 王都の市壁門をくぐってすぐの広場は朝からひどい混みようだった。荷馬車の車輪が石畳を鳴らし、香辛料売りが客を呼び、酔いの抜けきらない冒険者が数人、酒場の軒先で管を巻いている。人いきれと、汗と、焼けたパンと、馬糞と、どこかで割れた酒瓶の匂いが、層になって鼻の奥に届く。俺はその層を意識するともなく一枚ずつ剥がしていた。

 右手の路地から鉄と油の匂い。研ぎ師が仕事を始めたところだ。左の二階の窓が細く開いていてそこから咳の音。病人がいる。乾いた咳だ、質の悪い風邪が長引いている。広場の反対側、噴水の縁に腰かけた男が隣の女の財布に指をかけようとして、やめた。俺が見ているのに気づいたわけじゃない。ただ、女の連れが戻ってきた足音をその男も聞いたのだ。指が離れ、男は何食わぬ顔で欠伸をした。俺のほかにその一瞬の攻防を見ていた者はいない。

 誰も、俺がそれを全部拾っていることを知らない。

 拾おうとして拾っているわけでもなかった。遠い音や薄い匂いが、放っておいても勝手に耳と鼻に流れ込んでくる。生まれつきそうだった、と言えば嘘になる。物心ついた頃はただの子どもで、十を過ぎたあたりから少しずつ世界の解像度が上がっていった。この国では、そういう力は齢とともに自然と目覚めるものとされている。剣の才が芽吹くのと同じように、俺の場合は耳と鼻と目が芽吹いた。二十になった今では、この街のたいていの人間より俺の世界はずっと騒がしい。

 ただし、それだけだ。俺の腕は人並みで、脚も人並み、剣を握れば人並みより少し下だ。目覚めたのは肉じゃなく、感覚だった。だから俺は前に出る職には向かない。向いているのは、誰よりも先に出口を知り、誰よりも先に危険の匂いを嗅ぎ、そして誰にも気づかれずにそこにいる仕事だ。

 斥候。

それが俺の役割だった。

 広場を抜けて、俺は仲間の待つ酒場へ向かった。すれ違う冒険者の数はこの時間でも多い。王都には、上を目指す人間が国じゅうから流れ込んでくる。地方で名を売った剣客、家を継げなかった騎士の次男三男、食い詰めた傭兵くずれ。腕に覚えのある者だけが集まって、その中でさらに競い合う。だから王都の冒険者の格には天井がない。どこの酒場の隅に、どれだけの化け物が座っているか、わかったものじゃなかった。

 今日は仕事がある。

 

 

 王都の南、旧採石場の坑道に魔物が湧いた、という依頼だった。

 等級としては中の上。単独の大手クランが動くほどではないが、駆け出しに投げるには少し重い。ちょうど俺たちのような、名の売れ始めた若手の四人組に回ってくる類の仕事だ。冒険者ギルドの掲示板に貼り出されて半日で、俺たちの剣士が受けを決めた。

 銀環。それが俺たちのパーティの名だ。まだ王都に来て一年と少しの、四人組。だが最近は、ギルドの受付でも名を覚えられるようになってきた。若手の有望株――そう呼ばれることが増えた。悪い気はしない。ただ、有望株というのは、まだ何者でもない、という意味でもある。

 坑道の入り口で、ロデリックが剣の柄に手をかけて振り返った。

 

「リード、先は」

 

「二十歩で天井が落ちてる。崩落跡だ。右に迂回路があるが、そこも湿ってる。足音が響く」

 

 俺は坑道の奥へ意識を絞った。

 途端に、世界が濃くなる。

 闇の奥から、水の滴る音。一定じゃない。二か所、いや三か所から落ちている。滴りの間隔から、天井までの高さが読める。空気の流れがかすかに頬を撫でて、その風上に、饐えたような、獣とも土ともつかない匂いがある。数は――匂いの濃淡と、湿った地面を擦る足音の重なりから、四。いや、奥にもう一つ、動かないのがいる。息の間隔が長い。吸って、吐くまでに、俺が三つ数えるほどの間がある。大きいやつだ。石の軋み、鉤爪が岩を掻く乾いた音、皮膜のこすれる湿った音、そのどれもが、俺の頭の中で坑道の見取り図になっていく。

 こうして焦点を絞っているあいだ、俺の中では確かに何かが目減りしていく。集中は、蝋燭を灯すのに似ている。灯せば遠くまで見えるが蝋は減る。長く灯し続ければ、やがて手元さえ覚束なくなる。指先がしびれ、こめかみの奥が鈍く痛み、まぶたの裏が白く霞む。だから俺は灯すべき時にだけ灯しそれ以外は薄目で歩く。そのさじ加減が、俺の仕事の半分を占めていた。残りの半分は、灯して見えたものをいかに正しく仲間に伝えるかだ。

 

「四匹、手前に固まってる。奥に一匹、でかいのが動かずにいる。たぶん親玉だ」

 

蝋を惜しんで焦点を緩めた。にじんだ視界が、じわりと元に戻る。

 

手前を片付けてから奥に行くべきだ。一度に相手取る広さがない。あの崩落跡の手前なら、四匹を一列に押し込める。そこで削るのが安い」

 

「わかった」

 

ロデリックは頷いた。こういうとき、こいつは俺の言葉を疑わない。剣士としての腕も、判断も、この若さでは頭抜けている。銀環の名がギルドで少しずつ知られてきたのは、半分はこの男の実力のおかげだった。頼れる前衛だ。それは間違いない。

 ただ、最近は――

 

「その必要はないんじゃない?」

 

 横から、槍の石突が軽く地面を突いた。

 イレーネだった。

 

 彼女は坑道の暗がりの中でも、姿勢が崩れなかった。槍を立てて持つ、その角度ひとつが、素人のそれと違う。どこかできちんと習った者の構えだ。柄を握る指の位置、重心の落とし方、そのどれもが、我流では決してたどりつかない場所にある。

 

「奥の一匹が親玉なら、手前の四匹はそれに従っているだけ。頭を先に落とせば、残りは統率を失って散る。分けて二度戦うより、一度で済む」

 

 理屈は通っていた。実際、彼女ならそれができる。イレーネが銀環に加わってから二月、俺はこの女の強さを何度も間近で見てきた。踏み込みの速さ、間合いの正確さ、一撃の重さ。前衛が二枚になったというより、前衛の質そのものが一段上がった。おかげで俺たちは、以前なら手を出さなかった等級の仕事も受けられるようになった。ギルドでの評価も、彼女が来てから跳ね上がった。

 だが、俺は奥歯の裏で舌を鳴らした。

 

「散るとはかぎらない。統率を失ったやつは、逃げるより暴れることのほうが多い。狭い坑道で四方に暴れられたら、退路が塞がる。俺たちの後ろは一本道だ」

 

「塞がる前に片付ければいい」

 

「片付けられなかったときのことを言ってる」

 

 イレーネは俺を見た。責めるでも、苛立つでもなく、ただ不思議そうに。まるで、なぜ起こりもしないことを心配するのか、と問うように。強い者の目だ、と俺は思った。自分の刃が届く範囲を世界のすべてだと思っている者の。届かなかったときのことを、この目は勘定に入れない。

 その顔が、少し苦手だった。

 結局、ロデリックが折衷案を出した。奥へ一気に踏み込むが、俺が退路の中間に留まって、散った魔物が後ろへ回らないよう見張る。悪くない采配だ。悪くはない。ただ、それは俺が本当は確保しておきたかった安全の幅を、また一枚削る案だった。四匹を崩落跡に押し込んで削るなら、退路は完全に塞がらない。だが奥へ突っ込めば、散った魔物の行き先は俺一人が背中で受け持つことになる。

 俺は退路の中ほどに陣取り、松明の届かない闇に背を預けた。そして焦点を、絞った。

 蝋が、燃え始める。

 前方の闇が、音で見えるようになる。ロデリックの踏み込み、床を蹴る靴底の摩擦、剣が空気を裂き、魔物の外皮を断つ湿った手応え。イレーネの槍は、もっと速い。突きの前触れがほとんどない。柄から衣擦れの音がしたと思うと、次の瞬間にはもう穂先が獲物を貫いている。ジェマの詠唱が、坑道の壁に反響して柔らかく降りてくる。四人分の音を、俺は一度に握っていた。

 散った一匹が、後ろへ回ろうとした。爪が岩を掻く音が、俺のほうへ近づく。来る。二歩、一歩。俺は闇の中で短剣を抜き、音だけを頼りに、首のあるはずの高さへ刃を薙いだ。手応え。生温かいものが手首に飛ぶ。倒れる重み。

 それで、俺の出番は終わりだった。

 戦いは、彼女の言うとおりに運んだ。親玉は思ったより早く落ち、残りは散ったが致命的な混乱になる前にロデリックとイレーネが仕留めた。誰も傷を負わなかった。ジェマの回復が要る場面すら、ほとんどなかった。

 うまくいった。今日も、うまくいった。

 なのに、坑道を出るころには、俺の背には薄く汗が滲んでいた。魔物の返り血ではない。灯し続けた蝋の、燃え残りのような疲れだった。こめかみの奥に鈍い芯が残っている。俺だけが戦っていないのに疲れていた。

 

 報酬の分配はいつも酒場の隅のテーブルでやる。

 

「はい、リードの取り分」

 

 ジェマが革袋から硬貨を数えて俺の前に積んだ。銀環で財布を握っているのはこの僧侶だった。回復役というのは戦いのあいだ一番よく全体を見ているから金勘定にも向いている、というのが本人の弁だ。実際、ジェマの計算に文句が出たことは一度もない。四人分をきっちり均等に、そのうえで消耗品の補充とギルドへの上納を差し引いて、余りをどう回すかまでいつも澱みなく捌く。損得の計算が驚くほど速い。

 

「今日のリード、退路にずっといて出番少なかったのに同じ取り分でいいの?」

 

 イレーネがからかうように言った。悪気はない。この女に悪気があった試しはない。

 

「見張りも仕事だ」

 

俺は硬貨を袋に落とした。

 

「暴れたやつが後ろに回ってたら、俺が搔き切ってた。回らなかったのは、回らないように立ってたからだ」

 

「ふうん」

 

 イレーネは頬杖をついて少し笑った。納得したのか、しなかったのか、わからない笑い方だった。

 

「まあ、リードのそういうところが銀環の要だからな」

 

 ロデリックが杯を傾けながら言った。世辞ではなく、こいつは本気でそう思っている。だからこそ、少し据わりが悪い。要、と言われるたびに俺は自分がどれだけ替えの利く駒かを考えてしまう。要石は抜いても橋が落ちないとわかればただの石だ。

 ジェマが立ち上がって、外套の埃を払った。

 

「私、これから教会に寄ってくるから。今日の分の報告と、あと薬の仕入れ」

 

「また報告か。まめだな」

 

「これでも顔が広いのが取り柄なの。あちこちのパーティに知り合いがいると、いい話も回ってくるでしょ」

 

 ジェマは片目をつぶって軽い足取りで酒場を出ていった。

 僧侶が教会に出入りするのは何もおかしなことじゃない。回復役は教会の外にもいるが、ジェマはもともと教会で手ほどきを受けた口でいまでも折々に顔を出しては報告だの仕入れだのをしている。冒険者ギルドと教会は別の組織だが互いに連携はあるから、ジェマみたいに両方に足を置く人間は珍しくない。あちこちの臨時パーティに顔を繋いでいて、いい依頼や割のいい仕事を回してくれることも多かった。銀環がここまで来られたのには、ジェマの顔の広さも一役買っている。

 

 

 ジェマが出ていって、イレーネも宿で手入れをすると槍を担いで消えると、テーブルには俺とロデリックが残った。

 しばらく、どちらも黙って飲んだ。店の喧騒が、俺の薄目の視界の中でゆっくりと流れていく。奥の卓で、名の知れた大手クランの連中が高笑いしている。金回りのいい笑い方だ。俺たちも、いつかあそこへ行く。ロデリックは本気でそう思っているし、俺も、思っていないわけじゃない。

 

「イレーネのこと、まだ引っかかってるのか」

 

 不意にロデリックが言った。俺は杯から目を上げた。

 

「なんの話だ」

 

「坑道でのやりとりだよ。おまえ、あいつの提案にはいつも一言ある」

 

 俺は答えを探した。答えは、うまく言葉にならなかった。

 イレーネは強い。強すぎるくらいだ。あれだけの腕を、どこで、誰に習ったのか。習ったこと自体は、しゃべりの端々からわかる。構えにも、間合いの取り方にも、独学では決してつかない体系がある。良家の子女が、金と時間をかけて武を仕込まれたときの、あの整い方だ。

 だが、それがわからない。

 これだけ強く、しかも見目もいい女なら、王都のどこの大手クランでも喜んで迎えるはずだ。もっと名の通った、もっと実入りのいい、もっと安全な後ろ盾のある集団に。そういう場所からは引く手あまたのはずだ。なのになぜ、まだ名の売れきってもいない、若手三人の銀環なんかに流れてきたのか。しかも、加わってからは一度も、上のクランへ移ろうとする素振りを見せない。

 もっとも、王都ではそれも珍しくないと言えば珍しくない。ここには騎士崩れや、地方で相当に鳴らした連中が、上を目指して次から次へと流れ込んでくる。実力の天井などあってないようなもので、どこにどんな腕利きが、どんな事情で埋もれていても不思議じゃない。訳ありの人間ほど目立たない場所を選ぶ。だから俺の引っかかりも、しょせんは引っかかりの域を出なかった。確信にはほど遠い。

 

「引っかかってるわけじゃない」

 

俺は言った。

 

「ただ、あいつは前に出すぎる。強いやつは、自分が耐えられる分だけ、危険を安く見積もる。その分の帳尻をいつも誰かが合わせてる」

 

「その誰かが、おまえだと」

 

「そうは言ってない」

 

 ロデリックは笑って、杯を置いた。

「ハンス爺のときも、おまえは似たようなことを言ってたな」

 

 俺は口をつぐんだ。

 ハンス。前の槍兵だ。イレーネが来る前、銀環の槍はあの初老の男が握っていた。腕は達者とは言えなかったが、堅実で、危ない橋は渡らない男だった。連携も長く組んだぶんだけ滑らかだった。俺の斥候としての合図を言葉にする前に汲んでくれる相手だった。

 ハンスを外そうと言い出したのは、ロデリックだ。腕が実力に見合わなくなってきた、これから上を目指すなら荷になる、と。理屈としては俺も半分は頷けた。実際、ハンスの一手遅れが危うい場面を何度か作ってはいた。魔物の爪があと指一本分ずれていたら、という場面が。

 ただ、俺は反対した。反対、と呼べるほどのものでもなかったかもしれない。新しい槍を探す手間、連携を一から作り直す面倒、それを思えばまだハンスにいてもらったほうが安いんじゃないか、と。そう言っただけだ。積極的にかばったわけじゃない。ハンスのために、というより勘定が合わない気がしただけだ。

 その提案はあっさり押し切られた。ロデリックが決め、ジェマが穏やかに同調し、話はそれで終わった。俺の消極的な反対は天秤の傾きを一瞬たりとも変えなかった。ハンスは静かに銀環を抜けいまはどこかのパーティで槍を握っているという。恨み言ひとつさえも、聞こえてこない。あの堅実な男のことだ、下の等級でも、また誰かの帳尻を合わせているのだろう。

 

「あのときも、結局おまえたちの言うとおりになった」

俺は杯の底を見た。

 

「それが悪かったとは言わない。イレーネが来て、銀環は強くなった。仕事の格も上がった。全部、いい方に転がってる」

 

「じゃあ何が不満なんだ」

 

「不満じゃない」

 

 俺はそう言って、飲み干した。

 不満ではなかった。ただ、いつからか、銀環がどこまで危ない橋を渡るかを決めているのは、俺じゃなくなっていた。どこで退くか、どこまで攻めるか、その線を引くのは、いつもロデリックとイレーネの腕だった。俺はその線の内側で、退路を確保し、危険を嗅ぎ、帳尻を合わせる。線を引く者と、線の内側で始末をつける者。俺は、後者だった。

 悪い役目じゃない。要だと言われる役目だ。

 だが、要というのは、抜かれるまで要だ。ハンスも、抜かれるまでは槍だった。

 そう思ったとき、俺はふと、自分がいつか同じように、静かに押し出される日のことを想像した。腕が見合わなくなった、上を目指すなら荷になる――誰かがそう言い出す日を。俺の五感がどれだけ鋭くてもそれは前に出て稼ぐ力じゃない。倒した魔物の数にも、浴びた返り血の量にもならない。数字にもならない。そして数字にならないものは、天秤にかけられたとき、いちばん先に軽くなる。

 馬鹿な考えだ、と俺は打ち消した。まだ何も起きていない。銀環は順調だ。俺は要で、仲間は仲間だ。

 打ち消して、それでも、喉の奥に小さな苦さが残った。

 

 その夜、宿の寝台に横になっても俺はなかなか寝つけなかった。

 窓の外を夜警の足音が通り過ぎていく。三人。うち一人は右脚を引きずっている。古い傷だ、歩幅の崩れ方が癖になっている。二軒先の家で夫婦が声を潜めて何か言い争い、その下の階で赤ん坊が寝返りを打つ。もっと遠く、王城のほうから、鐘が一つ。焦点を絞ってなどいないのに、それだけの世界が、薄目のままの俺に流れ込んでくる。

 平穏な音だった。何ひとつ危険のない、王都の夜の音だ。

 なのに、俺の中の何かが、疼いていた。

 坑道の疲れとは別の疲れが、寝台の上で俺をうっすらと締めつけていた。うまくいった一日の、うまくいきすぎた一日の、あとに残るこの手応えのなさ。俺は今日、確かに役に立った。役に立って、報酬を受け取り、仲間と飲んで、こうして寝床にいる。何ひとつ、欠けていない。

 欠けていないのに、満ちてもいなかった。

 俺は寝返りを打ち、天井を見上げた。

 こういう夜のことを、俺は知っている。うまくいった日の夜ほど、この疼きは強い。危険を誰かに肩代わりされ、退路の中で無事に一日を終えた夜ほど、俺の中の何かが、飢える。自分の采配で、自分の首の分だけを賭けて、自分の手で何かをやり遂げた――そういう手応えを、いつからか俺は仲間との仕事では得られなくなっていた。線を引くのは、いつも誰かだったから。

 この街には、何かある。

 根拠のない考えだった。斥候をやっていると時々こういう勘が働く。人の集まる場所には必ず表に出ない流れがある。金の流れ、人の流れ、そして――隠された事実の流れ。王都はその最たるものだ。あの城壁の内側の、さらに奥の、灯りの落ちた執務室の机の抽斗の中に、いったいどれだけのものが仕舞い込まれているのか。誰の目にも触れず、誰の耳にも入らず、鍵のかかった暗がりで眠っているものが。

 考えると、疼きが強くなった。

 俺はそれが何なのか、自分でよく知っていた。知っていて、長いこと蓋をしてきた。都市に流れ着いてから、まっとうな斥候として稼げるようになってから、ずっと。まだ村にいた頃、俺がなぜ斥候の道を選んだのか、その始まりにあったものを――なぜ生まれた村を捨てて、この街まで流れてきたのか、その夜に俺が何を見て、何を知ってしまったのかを、思い出さないようにして。

 だが今夜は、その蓋が、少しだけ浮いていた。

 俺は寝台から起き上がり、音を立てずに服を着た。短剣を腰に差し、鉤縄を懐に入れる。手が、迷わなかった。長いことやっていなかったのに、手だけは全部覚えていた。指が結び目の形を、爪先が壁の掴み方を、体の芯が闇の中での息の殺し方を。

 宿の窓を、軋ませずに開ける。蝶番の鳴く一歩手前で、指が勝手に止まる。

 王都の夜気が、冷たく頬を撫でた。遠くの音が、匂いが、いつもより濃く感じられた。焦点を絞ってもいないのに、世界が勝手に近づいてくる。疼きが、いつのまにか、澄んだ集中に変わりかけている。蝋燭は、まだ灯していない。なのに、もう明るい。

 どこへ行くのか、俺はまだ決めていなかった。

 決めていない、と自分に言い聞かせながら、俺の足はもう、屋根の上へ、灯りの落ちた王都の暗がりのほうへ、向いていた。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。