銀環-知ってしまった斥候が逃げる話-   作:朝凪小夜

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第二章 覗く者

 

 塀を越えるとき俺はいつも息を止める。

 商人ヴァルドの館は王都の東、商業区の一等地に建っていた。三階建ての石造り、正面には鉄柵の門、屋根には風見鶏。夜目にも金のかかった建物だとわかる。この一年ほどで急に伸してきた商人だ、という噂は酒場でも耳にしていた。どこから来たとも知れぬ男があれよという間に商業区の一等地を買い古株の商会をいくつも吞み込んでいった、と。もっとも、俺にとっては、それは館の値打ちを測る目安でしかなかった。伸している商人ほど隠したいものを多く抱えている。

 塀の上に忍び返しの鉄串が並んでいるが、その間隔は俺の体が通るには広すぎた。金持ちは高さで安心する。塀を高くし、串を並べ、門番を置いて、それで守れた気になる。だが高さで防げるのは堂々と入ってくる者だけだ。低い場所の隙間、串と串の間、そういうまさかの場所には案外気が回らない。守りというのは造った者の想像力の形をしている。ヴァルドの塀は正面から来る敵しか想像していなかった。

 鉄串の根元に爪先をかけ体を引き上げる。串に触れず影だけが塀を越えた。着地は猫より静かに。膝を柔らかく使い足の裏を爪先から踵へと順に地につけていく。そうすれば石畳でも音は立たない。この降り方を覚えるのに昔、何百回と塀から飛んだ。

 庭に降りて俺は焦点を絞った。

 蝋燭が、灯る。

 館全体が、音と匂いで立ち上がってくる。厨房のほうから、消し忘れた竈の残り火の匂い。灰の下でまだ炭が生きている、あの乾いた温もりの匂いだ。三階の一室で、女が寝返りを打つ衣擦れ。使用人だろう、寝台の質素な藁の軋み方でわかる。門番が二人、正面の詰所で、賽子を振っている。骨の転がる乾いた音、負けたほうの舌打ち、勝ったほうが硬貨を掻き寄せる音。彼らの注意は、門の外、通りのほうに向いている。館の中へ、塀を越えて忍び込む者がいるとは、思ってもいない。

 俺は、館の弱いところを探した。裏手の勝手口の錠は油が切れていた。開けようとすれば軋む。使えない。だが二階の窓の一つが、留め金の甘いまま閉じられている。昼のうちに開けて閉め忘れたのだろう。使用人の小さな怠慢。守りに空いた小さな穴。あそこだ。

 俺は雨樋を伝って、その窓の下までのぼった。

 のぼりながら、こめかみの奥が鈍く疼き始める。蝋が、減っていく。館じゅうの音を握り続けるのはそれだけで消耗する。門番の賽子、女の寝息、竈の火、通りを行く夜警の遠い足音——そのすべてを同時に押さえたまま、俺は指先の力だけで石壁に張りついている。ひとつでも取りこぼせば、背後から誰かが来たことに気づけない。全部を握り、しかも握り続ける。指がしびれ、視界の端が白く霞んでも緩めない。この綱渡りがたまらなかった。

 どこで蝋を惜しみ、どこで惜しまず灯すか。それを決めるのは、俺だ。ここには、ロデリックの采配もなければ、イレーネの踏み込みもない。誰も折衷案を出さない。誰も俺の安全の幅を勝手に削らない。俺の首の分だけを俺が賭ける。ここには、俺の引いた線しか、ない。

 昼間、退路の中でいつも感じているあの手詰まりが、ここにはないのだ。

 窓の留め金を、細い鉄片で押し上げる。かちり、と鳴る一歩手前で指が勝手に止まった。門番の賽子が転がる音——骨が卓を打ち、床石を跳ねる、あの乾いた連なりに合わせて、俺はその隙間に、留め金の外れる音を、紛れ込ませる。骨が石を打つ音と、金具が外れる音が、重なって、溶けて、消えた。

 窓が、開いた。

 

 ヴァルドの私室は、三階の奥にあった。

 主人はぐっすり眠っていた。焦点を絞れば、隣室の寝台で太った男が規則正しい寝息を立てているのがわかる。飲みすぎた夜の眠りだ。葡萄酒と、脂と、香の焚きしめられた寝具の匂いが、扉の隙間から漏れてくる。息の深さと間隔から、この男が朝まで目を覚まさないことが俺にはわかる。眠りの深さは匂いと呼吸で読める。俺は、この男が夢を見ているのかどうかまで当てられそうな気がした。

 私室には金のかかった調度が並んでいた。象牙の文箱、銀の燭台、東方渡りの絨毯。壁には、見知らぬ土地の風景を描いた油の絵。そのどれにも触れなかった。触れずに、まっすぐ、机の前に立った。

 抽斗には錠がかかっていたが、こんなものは、錠のうちに入らない。細い鉄片を二本、鍵穴に差し込んで、内側の爪を、指の腹の感覚だけを頼りに、順に押し上げていく。かすかな手応えが、一つ、二つ。三つめの爪が、ことり、と落ちて、抽斗が滑り出た。錠前は、俺にとって閉じられた口のようなものだ。時間をかけて、優しく、開かせる。

 中には、帳簿と、証文の束と、革の小箱があった。

 小箱を開けると宝石が入っていた。磨かれた紅玉が三つ、青玉がひとつ。それに拳ほどの金塊がひとつ。灯りのない部屋でそれらは黒く沈んでいた。俺が焦点を絞ると、闇の中でも、石の内側のわずかな傷や閉じ込められた気泡の一粒までが見えた。相当の財だ。この一箱で銀環が一年指をくわえて遊んで暮らせる。

 俺は、それを見た。

 見て、口の端だけで、嗤った。

 持っていく気にはならなかった。宝石を懐に入れればそれは盗人の仕事。捕まれば、縛り首だ。だが、そういう理屈より前に俺はもう奪うことに興味を失っていた。この石を持ち去ったところで俺の手に入るのはただの金だけだ。金なら、まっとうな仕事でも手に入る。命を賭けてまでここへ盗みに来る意味は、ない。

 俺が欲しいのはこれじゃない。

 俺が欲しいのは、いま、この部屋に、俺がいる、ということだった。ヴァルドがどれだけ用心し、塀を高くし、門番を雇い、錠を並べても、俺はその内側にいる。この男が誰にも見せずに仕舞い込んだものを、俺は見ている。そしてこの男はそのことを、知りもしない。明日も、明後日も、知らないままだ。俺だけが、知っている。俺だけが、いま、この男の目の前で、立っている。

 嗤いはそこから来る。

 誰にも気づかれず、誰の許しも得ず、俺は権力の内側に指を差し入れている。それは盗みよりもずっと深いところに手が届く感じがした。金を盗む者は金しか奪えない。だが俺は、この男の安全だという思い込みそのものをこっそり裏切っている。男が知らないだけで、その安心はもう嘘なのだ。俺がそう決めた。俺が、そうした。

 俺は帳簿を一枚めくった。数字の羅列。ヴァルドがどこと取引し、どれだけ溜め込んでいるか。近ごろ、王都の商いには妙な動きがある、という噂は、聞いていた。古い商会がいくつかこれといった理由もなく畳まれ、代わりにヴァルドのような新顔が次々と伸してきている、と。帳簿の数字にもその気配はあった。見慣れない取引先の名。急に膨らんだ額。どこか大きな流れがこの男の背後で動いている——そんな匂いが、確かにした。

 だが俺にはそれが何を意味するのかわからなかった。わかろうとも、しなかった。俺にとってこの数字はただの背景だ。忍び込んだ部屋の壁紙の模様と何ら変わらない。俺はただ、覗いて、嗤って、帰る。それだけの男だ。この王都の下でいったいどんな大きなものが、動き始めているのか——そんなことは、俺の知ったことではなかった。

 俺は抽斗を元どおりに閉め、錠をかけ直した。来たときと同じ道を、逆にたどって帰る。窓を越え、留め金を元に戻し、雨樋を伝って壁を降り、塀の鉄串の間を抜けて、通りへ。

 誰にも気づかれず俺は商業区の夜に戻った。誰も俺がそこにいたことを知らない。

 

 高揚は、いつも家路の途中で醒める。

 塀の外に出た瞬間のあの張り詰めたものが緩んでいくとあとには決まって静かな虚脱が残る。やり遂げた。今夜も俺の線の内側で俺の首の分だけを賭けて、俺の手で、やり遂げた。その手応えが体の芯から汗が引くように少しずつ抜けていく。抜けたあとの空洞を俺は宿までの道すがらいつも持て余す。満たされて、そして、また、空になる。

 こういうときは決まって村のことを思い出す。

 生まれたのは王都から遠い北の痩せた土地の村だった。麦は育たず、粟と稗でどうにか食いつなぐような土地で、それでも年貢だけはどこよりも重かった。冬になると毎年誰かが死んだ。飢えと寒さと、そして取り立てで。

 村の子どもだった俺は、はじめ、それを当たり前だと思っていた。誰もがひもじく誰もが領主を恐れ誰もが働いて働いた分を取られていく。世界とは、そういうものだと。空が青いのと同じくらい理由もない当たり前のことだと。

 変わったのは感覚が芽吹いてからだ。

 十を過ぎたある夜、俺は徴税吏の家に忍び込んだ。理由なんてなかった。ただ芽吹いたばかりの耳と鼻と目で村じゅうのものを覗いてみたかった。大人が隠しているものを見てみたかった。子どものただの悪戯のつもりだった。そして俺は、徴税吏の文箱の中に二冊の帳簿を見つけた。

 一冊は、村人に見せるための帳簿。もう一冊は、本当の帳簿。

 二つの数字はまるで違っていた。村人が納めた年貢の半分も領主には届いていなかった。残りは徴税吏とその上の代官とさらに上の誰かの間で山分けにされていた。それだけじゃない。本当の帳簿には村人が知らされていない名目の税が、いくつも重ねられていた。人頭税、竈の税、井戸の税。二重に、三重に。そして——これがいちばんこたえた——どれだけ蓄えようと少しでも余裕のできた家には必ず新しい名目の税がかけられ、根こそぎ持っていかれる仕組みになっていた。

 豊かになることがはじめから許されていない構造だった。

 どれだけ働いても、どれだけ知恵を絞って蓄えても、蓄えたそばから没収される。逃げ場はどこにもなかった。村は目に見えない檻の中にいた。そして村人はその檻の格子が見えていなかった。見えないまま格子に向かって、痩せた手を伸ばし続けていた。

 その帳簿を読んだ夜のことをいまでも覚えている。

 震えた。憤りで、震えた。子どもの行き場のない熱い怒りだった。この構造を誰かに知らせたい。正したい。壊したい。この格子を、村のみんなに見せてやりたい。だが、俺は無力な子どもで、村には俺の言葉を聞いてくれる大人もいなかった。真実を知らせたところで格子は消えない。それどころか、徴税吏に忍び込んだ子どもは真実を知ったというだけで、口を塞がれ縛り首にされるだろう。

 俺の憤りはどこにも届かず行き場を失った。熱いまま宙に浮いて冷めていくしかなかった。

 だから俺は村を捨てた。天涯孤独の身の軽さだけを頼りに、真実を懐に抱えたまま一人で、北の村を出た。憤りを抱えたまま。誰にも届けられなかった憤りを、一人で抱えたまま。

 あれから、何年が経ったろう。

 いつのまにか、俺は憤らなくなっていた。憤りはどこにも届かないうちに少しずつ冷めていった。冷めて、固まって、形を変えた。いまの俺は権力者の隠しごとを覗いてももう震えない。震える代わりに、嗤う。この男は俺がここにいることを知らない——その優越の中に、かつての憤りの燃え殻のようなものを見出して、俺は嗤う。

 あの夜の少年は格子を見て震えた。いまの俺は格子を見て嗤う。

 変えられないならせめて知って嗤う側に回る。それが憤ることをやめた俺の長い年月をかけてたどりついた場所だった。悪くない場所だ、と俺は思っていた。少なくとも震えているよりは。

 

 数日は何ごともなく過ぎた。

 銀環はいつもどおり、仕事をこなした。俺は昼は斥候として退路を確保し、危険を嗅ぎ、帳尻を合わせ、夜はおとなしく宿で眠った。侵入はそう頻繁にやるものじゃない。あれは、蓋の浮いた夜にだけこっそりやる、俺の秘密の遊びだ。仲間の誰も俺のその癖を知らない。知られては、ならない。斥候の技をこんなことに使っていると知れたら銀環にはいられなくなる。

 ある夜、俺たちは行きつけの酒場でいつものように卓を囲んでいた。仕事終わりの、気の緩んだ時間だった。エールが二杯目に入り、話は取り留めもなく流れていた。イレーネが、めずらしく、饒舌だった。彼女がこの卓でここまでくつろいで見えるのは、加わってから初めてのことかもしれなかった。二月という時間が、この女の警戒を少しずつ解いてきたのだろう。

「ねえ、そういえば、私たち、案外、お互いの手の内を知らないよね」

 

 イレーネが杯を置いて言った。

 

「もう二月も一緒にやってるのに。これから上の等級を狙うなら、もっと連携を詰めたい。組んで戦うなら、相手の力の底を知っておいたほうがいい。だから、私から明かすわ。私の力の中身」

 

 彼女は、自分の能力を、語り始めた。

 

「私の力は、速さ。ひと呼吸のあいだだけ、体の動きを、何倍にも速められる。踏み込みも、突きも。習ったのは槍術の型だけど、この速さそのものは、力そのものは、生まれつき」

 

 なるほど、と俺は思った。あの、前触れのない突き。柄をしごく音がしたと思うと、もう穂先が届いている、あの速さ。合点がいった。習った型と生まれ持った速さ。その二つが噛み合って、あの異様な間合いが生まれているのだ。

 

 ただ——語りの途中で、俺は、何か、引っかかった。

 

 焦点を絞っていたわけじゃない。薄目のいつもの俺だった。それでもイレーネが何倍にもと言ったとき、その声のどこかが、妙に、均されていた気がした。滑らかすぎた、とでも言えばいいのか。他のところは、笑ったり、言い淀んだり、生きた抑揚があるのに、その一言だけが、淀みなく、まるで前から用意してあった言葉のように、そこだけ、均一に、流れた。

 それを深くは考えなかった。人が自分のことを話すとき、多少は言葉を選ぶ。誇張もするし、謙遜もする。彼女がその速さの上限を少し低めに言ったところで——あるいは、高めに言ったところで——どうということは、ない。連携のために手の内を明かす、その気持ちに、嘘はなさそうだった。俺はその小さな引っかかりをエールと一緒に飲み下した。

 出自のことを彼女は一言も語らなかった。どこで槍術を習ったのか、なぜそれほどの教育を、金も暇もかかるはずのそれを受けられたのか。俺が最も知りたいことには彼女はまるで水が石を避けるように、自然に触れなかった。触れないことがあまりに滑らかすぎて、俺は問いそびれた。問える隙がなかった、とも言える。

 

「次、俺行くか」

 

 ロデリックが、引き取った。

 

「おれのは単純だよ。全身が丈夫になる。力も、速さも、頑丈さも、まんべんなく、底上げされる。イレーネみたいな派手さはないけど、その分どこも欠けてない。前衛にはこれがいちばん向いてる」

 

笑った。

 

「家柄も、いたって普通さ。北のほうの名もない町の生まれでね。親父は普通の鍛冶屋だった。剣なんて町にいた傭兵くずれの爺さんに手ほどきを受けただけだ。家に伝わる剣術も、由緒ある家系も、なんにもありゃしない。おれがこうやって王都で剣士やってるのを知ったら、村のやつらは腰を抜かすだろうよ」

 

 ロデリックは屈託なく笑う。自分の出自に何のわだかまりも含みもないそんな笑い方だった。名もない町の鍛冶屋の息子。その言葉、嘘の匂いはなかった。焦点を絞るまでもない。この男は、本当に心の底からそう信じている。自分がどこにでもいる平凡な生まれだと。

 俺は順番が回ってくるのを感じて少しだけ身構えた。

 

「リードは?」

 

ジェマが、こちらを見た。

 俺は、口を開きかけて、ためらった。

 俺の力は、五感だ。遠い音を聞き、薄い匂いを嗅ぎ、暗がりを見通す。特殊といえば特殊だ。だが、それを口にすると、決まって次に来るのは、あの反応だ。——それで、戦えるのか? と。前に出て斬り結ぶわけでも、魔物を薙ぎ払うわけでもない。ただ、感覚が鋭いだけの男。戦力として数えていいのか、わからない、という顔。俺はその顔を見るのが、少し、嫌だった。だから俺はどう言えば戦力らしく聞こえるか、言葉を探して、一瞬、黙った。

 その一瞬の隙に、ジェマが、口を開いた。

 

「リードは、すごいのよ」

 

 彼女は穏やかに笑って言った。

「私が言うのもなんだけど、この人がいるといないとじゃ安全がまるで違うの。危ないものに、誰よりも早く気づく。退路をいつも確保してくれてる。前に出ないけど、いなくなったら、たぶん私たち、とっくにどこかで、死んでる。——ね、リードの力はパーティにとって、いちばん大事な力よ」

 

 温かい言葉だった。

 俺のためらいを、ジェマは優しく、すくい上げてくれた。戦えるのか、と問われる前に先回りして俺の値打ちをみんなの前で認めてくれた。イレーネが「たしかに」と感心したように頷き、ロデリックが「違いない」と杯を上げた。俺の五感はこの瞬間銀環の中でちゃんとした一枚の力として卓の上に並べられた。

 少し照れて五感のことをかいつまんで話した。集中すれば遠くまで届くこと、そのぶん消耗すること。詳しいことは、言わなかった。どこまで届くとか、どう使うとか、そういう肝心なところは言う必要も、そのときは感じなかった。ジェマがもういちばん肝心なところ——それが、どれだけ役に立つか——を言ってくれていたから。

 いい夜だった。二月かけて育った信頼がこの卓の上で目に見える形になった気がした。もう隠しごとをして探り合う相手じゃない。俺はこの仲間に、気を、許していた。すっかり、許していた。

 

 

 

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