もっとできるという声がいつからか俺の中に棲みついていた。
商人ヴァルドの館を覗いてからひと月あまりが過ぎていた。そのあいだにも俺は何度か蓋の浮いた夜に街へ出た。両替商の帳場市、参事会の書記官の家、羽振りのいい鉱山師の別邸。どれも難なく忍び込み覗いて嗤って帰ってきた。
難なくというのがいけなかった。
難なくやり遂げるたびに、あの高揚は少しずつ薄くなっていった。同じ高さの塀を越え、同じ質の錠を開け、同じ程度に眠った家人の寝息を聞いていると、蝋を灯すまでもなくなる。焦点を絞らずとも体が勝手に道筋を見つけてしまう。そうなるとあの綱渡りの綱の細さが感じられない。俺が欲しいのは達成じゃない。達成のギリギリだ。紙一重でなければ意味がない。手が届くとわかっているものに手を伸ばしても心の臓は鳴らない。
だから俺は綱を細くした。
男爵の邸。それが次の段だと頭ではわかっていた。商人の館の上には下級の貴族がいる。順を追って少しずつ高くしていけばいい。それが分別というものだ。斥候の分別だ。俺は昼の仕事では誰よりもその分別を重んじている。退路を確保し危険を安く見積もらず帳尻を合わせる。イレーネが前に出すぎるたびに俺はその分別の名において内心で舌を鳴らしてきた。
だが夜の俺はその分別を脱ぎ捨てていた。
我ながら奇妙な話だ。昼の俺は他人が安全の幅を削るのをあれほど嫌う。なのに、夜の俺は自分からその幅を削りにいく。誰かに削られるのは我慢ならないのに自分で削るのはたまらなく甘い。同じ危険でも他人が決めた危険と自分が選んだ危険とではまるで別の味がした。前者は屈辱の味がする。後者は生きている味がする。
男爵を飛ばして俺は子爵の邸を選んだ。理由なんてなかった。ちょうどいい難しさだからではない。分不相応に難しいから選んだ。より高くより危うくより断崖の縁へ。リスクへの誘惑にただ手を引かれるまま。気づけば俺は子爵邸の下見をしていた。まるでそうなることがはじめから決まっていたかのように。
あのとき引き返していればと俺はいまでも思う。
だがあの夜の俺は細くなっていく綱の上でただ笑っていた。
狙いを定めたのはドラウド子爵の邸だった。
王都の北貴族区の一角。商業区の館とはそもそもの造りが違った。敷地は広く母屋は奥まって建ち塀の内側には手入れされた庭が闇の中に黒々と広がっている。塀そのものも高い。だが高さは俺には障害にならない。俺が測っていたのは高さではなく守りの隙間のほうだった。
三晩俺は下見に通った。物陰から焦点を細く絞って邸の呼吸を読む。門番は商人の館のような賽子遊びの雇われではなく、揃いの徽章をつけた私兵だった。歩哨の交代は正確で巡回の間隔にも素人の緩みがない。四半刻ごとに庭を一周する。足音の重さから鎧を着込んでいるのがわかる。数は常時四人。交代の際に一瞬だけ庭の南側に人の目が途切れる。ほんの十を数えるほどの隙。
そして人だけではなかった。
塀に近づいて焦点を絞ったとき、俺は庭のところどころに奇妙な気配の澱みがあるのを感じた。目には見えない。音もしない。匂いもない。だがそこだけ空気の手触りがわずかに粘つく。撫でると指が見えない蜘蛛の糸に触れたようなそんな感触。魔法の警戒網だ。踏めば、あるいは横切れば、どこかで報せが鳴る類の仕掛け。魔道具の結界。
正直に言えば魔法は俺の得意分野じゃない。感覚は鋭くても魔力を操る腕は人並みかそれ以下だ。結界そのものの仕組みを魔法使いのように解き明かし無力化することは俺にはできない。もしこの庭が結界だけで守られていたなら俺は諦めていただろう。
だが俺には別のやり方があった。
俺は結界の澱みにそっと意識を這わせた。仕掛けそのものではなくそれを仕掛けた人間のほうを感じ取ろうとする。魔道具には据えた者の手癖が残る。どれだけ丁寧に、どれだけ念入りに、どこを重んじて据えたか。その配りようの濃淡に据えた人間の性根が透けて見える。臆病な者が据えた結界は、隙間なく張り巡らされている代わりに力を分散させて一つひとつが甘い。傲慢な者が据えた結界は、要所は固いがまさかここは越えまいという慢心の穴がある。据えた人間が何を恐れ何を侮ったか。それが仕掛けの形にそのまま出る。
人の隠しごとを覗くのと同じだった。俺はいつもそうやって生きてきた。錠前の向こうの人間を寝息の深さから読む。門番の油断を賽子の音から測る。結界とて変わらない。据えたのは人だ。人が据えたものには必ず人の癖が残る。
ドラウド邸の結界を据えた者は几帳面だが想像力の乏しい人間だった。正面と母屋の主だった出入り口を二重三重に固めている。門から母屋への道筋は蟻の這い出る隙もない。だが――庭の隅の古い井戸のあたり。そこだけ澱みが薄い。とうに使われなくなった涸れ井戸。据えた者はそこを脅威の入り口とは考えなかったのだろう。人が来るはずのない場所には心を配らない。守るべきものの近くばかりを固めて遠い忘れられた隅を忘れる。几帳面な人間がしばしば陥る穴だ。
罠の構造がわかるというのはそういうことだった。俺は魔法を読んでいるんじゃない。魔法を仕掛けた人間を読んでいる。
歩哨の交代の十を数える隙。俺はその隙に合わせて塀を越えた。井戸の縁を伝い結界の薄いところを息を殺して影のように抜ける。粘つく気配の糸に体のどこも触れなかった。報せは鳴らなかった。
庭を母屋の壁の影を伝って進む。ここまでは下見のとおりだった。ここまでは。
母屋に入り込んでから俺はこれまでとの違いを体で思い知った。
商人の館では家人は眠っていた。眠った人間は匂いと寝息で居場所も深さも読める。動かない障害物のようなものだ。息の間隔さえ押さえておけばそのそばを影のように通り抜けられる。
だがドラウド邸は違った。
夜だというのに母屋の奥に起きている人間がいた。それも複数。
焦点を絞るとそれがわかった。二階の奥の一室に灯りがある。蝋燭の揺れる炎の匂い。人が三人。いや四人か。座っている。衣擦れの数椅子の軋みの数からそう読める。低い声で何かを話している。使用人ではない。使用人はこんな時刻に主人の私室で車座になったりしない。声の届く距離体の向きそのどれもが対等に近い者たちが額を寄せて何かを共有している気配だった。
俺は迷った。
賢い斥候ならここで引く。予定外だ。下見ではこの時刻母屋は寝静まっていた。今夜にかぎって起きている人間がそれも複数母屋の奥にいる。近づけば蝋が保たない。この邸に忍び込んでから俺はもう結界を抜けるために思ったより多くの蝋を灯していた。こめかみの奥はとうに鈍く痛んでいる。焦点を保てる時間は長くない。ここで無理を通せば帰りの分の蝋が残らない。帰りの蝋が尽きれば俺はただの耳の悪い侵入者だ。捕まる。
引くべきだ。
だが――あの声が俺を引き止めた。
低く抑えたけれど確かに何かを謀っている声の質。人が声を潜めるとき。潜める必要のあることを話しているとき。その気配を俺の耳は放っておけなかった。覗く者の性だ。錠のかかった抽斗を開けずにいられないのと同じだ。潜められた声ほど聞きたくなる。そこに隠されたものがあるとわかっているから。
村のあの夜の二冊目の帳簿と同じ匂いがした。
俺は蝋を注ぎ込んだ。
残りが少ないのを承知で俺は焦点をその一室に絞れるだけ絞った。廊下の柱の陰に身を沈め息を殺し聞くこと以外のすべての感覚を切り捨てる。足元の床の軋みも背後の気配も庭の歩哨の位置もいまは捨てる。捨てれば危うい。だが捨てなければ聞こえない。俺は危うさのほうを選んだ。ただあの声だけを拾う。
視界が白く霞んだ。世界から色と輪郭が抜けていく。だが耳だけがその代わりに研ぎ澄まされていく。一室の声が闇の向こうから少しずつ形になって届き始めた。
「――だから血筋の証は揃っているのだ」
しわがれた老年の男の声だった。この邸の主ドラウド子爵だろうか。声の響き方部屋の中での位置から上座にいるのがわかる。落ち着いた確信に満ちた声だった。
「あの剣士が出奔した公爵家の正統の末裔であることはもはや疑いようがない。三代前家督争いに敗れて都を出たあの一族。その血がめぐりめぐってあんな場末の冒険者に流れ着いていたとはな。人の血の巡りとはわからぬものだ」
俺の心の臓がひとつ跳ねた。
剣士。出奔した公爵家。場末の冒険者。
まさかと思った。まさかそんな。王都に冒険者はいくらでもいる。剣士も山ほどいる。俺は自分にそう言い聞かせようとした。だが俺の耳はもう次の言葉を拾っていた。
「本人は何も知らんのだろう?」
別の声が言った。若い張りのある男の声。
「知らんとも。鍛冶屋の息子だと本気で信じておる」
老人が低く笑った。
「都合がいい。何も知らぬ神輿ほど担ぎやすいものはない。己が旗頭だと知れば欲も出よう恐れも抱こう。だが何も知らぬ者はただ据えられたところに立っておる。正統の血を戴いて旗を揚げればいまの王家に不満を持つ者はこぞって集まる。血の正統性というのはそれだけで兵よりも重い」
鍛冶屋の息子。
その一言で俺の中の最後の「まさか」が崩れ落ちた。
ロデリックだ。間違いない。名もない町の鍛冶屋の息子。屈託なくそう笑った男。あいつ以外にこの王都でその言葉が当てはまる剣士を俺は知らない。
「ではいよいよあの計画を」
若い声が身を乗り出す気配。
「うむ。戴冠の――」
そこで声がふいに落ちた。誰かが卓に身を乗り出したのだ。距離が遠くなり声がこもった。俺は焦点をさらに絞ろうとした。もっと奥へ。もっと深く。だが蝋はもう底をついていた。こめかみの奥が割れるように痛む。視界の白がいっそう濃くなる。耳鳴りが声を塗りつぶす。
戴冠のなんだ。戴冠の何をする気だ。戴冠がどうしたというのだ。
聞き取れたのはそこまでだった。肝心のところで俺の蝋は尽きかけていた。
「――そのためにも旗頭を担ぐ手筈は抜かりなく進めねばならん」
老人の声がまた辛うじて聞き取れる高さに戻った。
「あの若造をこちらの意のままに動かせる場所へ引き込む。それにはもう手は打ってある」
「レンフォード様の手の者が?」
「そうだ。レンフォード殿の差配は確かだ。あの御方が絵図を描いておられるかぎりしくじりはない。我らはただその絵図のとおりに駒を進めればよい」
レンフォード。
俺はその名を痛む頭の奥に刻みつけた。この謀りごとの絵図を描いている男。この一党を束ねる者。首謀者。レンフォード。
名がわかった。それだけで俺は危険な深みへまた一歩踏み込んでしまった。
だがそれ以上はもう無理だった。焦点が指の間から砂のようにこぼれていく。俺は崩れかけた集中の最後のひとすくいで周囲の気配を確かめた。廊下に人はいない。階下の歩哨はいま庭の北側。井戸までの道はまだ辛うじて開いている。
俺は柱の陰から影を剥がした。
来たときと同じ道を逆に。廊下を階段を庭を。結界の薄い井戸の縁を。私兵の巡回の隙を。ほとんど感覚の残り滓だけを頼りに。蝋の尽きた頭で俺は記憶と勘と下見で刻んだ道筋だけをたどった。一歩間違えれば結界に触れる。一拍遅れれば歩哨と鉢合わせる。だが俺の体は覚えていた。灯りの消えた頭の下で手足だけが道を覚えていた。
塀を越えて貴族区の裏路地に転がり出たとき俺の膝は笑っていた。全身が汗で濡れていた。魔物の返り血の何倍も疲れていた。息が上がって止まらない。しばらく俺は路地の壁にもたれてただ荒い息をしていた。
だが痕跡は残さなかった。結界は鳴らなかった。歩哨は気づかなかった。誰も俺がそこにいたことを知らない。
それだけは確かだった。それだけが俺の命綱だった。
宿に帰り着いても俺は眠れなかった。
今度ばかりは疼きのせいではなかった。俺は寝台の上で膝を抱えて聞いてしまったものを何度も何度も反芻していた。忘れようとしてもあの声があの言葉が耳の奥にこびりついて離れない。
ロデリック。
あの鍛冶屋の息子だと屈託なく笑った男。名もない町の生まれだと心の底から信じていた男。あいつが出奔した公爵家の正統の末裔。王権を奪う謀りごとの神輿。
本人は何も知らない。
それは間違いなかった。あの夜酒場で自分の出自を語ったときのロデリックの声には嘘の匂いが微塵もなかった。俺の耳は嘘を聞き分ける。あいつは自分が担がれる神輿だとは夢にも思っていない。知らないまま絵図を描く男たちの手の中でいいように転がされている。据えられたところにただ立っている。何も知らぬまま。
そして俺は考えた。考えたくないほうへ頭が勝手に転がっていった。
あいつをこちらの意のままに動かせる場所へ引き込む。もう手は打ってある――老人はそう言った。
手は打ってある。
俺の頭に一人の顔が浮かんだ。
イレーネ。
二月前どこからともなく銀環に流れてきた槍兵。良家の子女のように武を仕込まれた不自然なほどの遣い手。どこの大手クランでも引く手あまたのはずの女がなぜか名の売れきってもいない若手三人の――ロデリックのいるこの銀環に加わった。加わってから一度も上を目指そうとしない女。上のクランへ移ろうともしない女。まるでこの場所にこの銀環にいなければならない理由があるかのように。
もしあいつが。
もしイレーネがロデリックを引き込むために送り込まれた手の者だとしたら。あの強さもあの不自然さも上のクランへ移らない理由も全部説明がつく。あいつはロデリックを見張るために――あるいはしかるべき場所へ引き込むために銀環にいる。俺たちと飯を食い、酒を飲み、連携を詰め、能力を明かし合いながらずっと。あの酒場の夜も。信頼が形になったと俺が勝手に思い込んだあの夜も。
背筋が冷えた。
だが――と俺は自分を押しとどめた。
証拠はない。何ひとつない。あるのは聞いてしまった密談の断片と俺が前々から抱いていたイレーネへの引っかかり。その二つが頭の中で勝手に手を結んだだけだ。イレーネが一味だという証はどこにもない。ただの俺の疑いだ。強い者への負け惜しみに近い疑いがたまたま密談と形が合っただけかもしれない。人は恐れると目の前の不可解なものにいちばん怖い意味を当てはめたがる。俺はいまそれをやっているだけかもしれない。
俺は確信を避けた。確信してしまえば後戻りができなくなる気がした。あいつを疑いの目で見た瞬間から銀環での俺の毎日は芝居に変わってしまう。まだそうと決まったわけじゃない。
それでも一つのことだけははっきりしていた。
俺は知ってはいけないことを知ってしまった。
村のときと同じだ。忍び込んで隠された帳簿を覗いてしまった。二重帳簿のあの夜と。知ってしまった者はその真実の重さの分だけ危うくなる。知らなければただの一人だ。知ってしまえば消すべき一人になる。あのとき俺は村を捨てた。逃げた。
逃げる。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間俺は自分でも意外なほどすんなりとそれを受け入れかけた。逃げればいい。銀環を抜けて王都を出てまたどこか遠くへ。俺にはそれができる。身は軽い。天涯孤独だ。守るものも失うものもない。技もある。今夜子爵邸から痕跡ひとつ残さず抜け出せたこの技が。
だが次の瞬間俺はその考えの行き止まりに突き当たった。
どうやって?
何も起きていないのだ。表向きは。銀環は順調で俺は要で仲間は仲間だ。そんな中で斥候が一人何の理由もなく突然抜ける。それがどれだけ不自然か。上を目指そうと勢いづいているロデリックが素直にはいそうかと送り出すはずがない。むしろ引き止めるだろう。おまえは要だとあのまっすぐな目で。そしてイレーネが――もしあいつが本当に手の者なら――何の理由もなく抜けようとする斥候をどんな目で見るだろう。ちょうど俺が密談を聞いてしまったこの時期に。
急に辞める理由が俺にはなかった。逃げるための口実がない。
俺は寝台の上で天井を見上げた。窓の外を夜警の足音が通り過ぎていく。三人。うち一人は右脚を引きずっている。いつもの平穏な王都の夜の音だ。何ひとつ変わっていない。昨日と同じ夜。
その平穏の下で俺一人が逃げ道の見えない部屋に閉じ込められていた。
レンフォードと俺は暗闇の中でもう一度その名を噛みしめた。あの謀りごとの絵図を描く男。せめてあいつが何者なのかがわかれば。決行がいつなのかがわかれば。何か動きようもあるのかもしれない。逃げるにせよ留まるにせよまず敵の形が見えなければ線の引きようがない。
だが俺が握っているのは消耗しきった耳が辛うじて拾った断片だけだった。
そしてその断片がどれほど当てにならないものか――俺はまだ知らなかった。