俺はまず自分が何を知っていて何を知らないのかを数えることにした。
斥候の仕事はいつもそうだ。闇の中へ踏み込む前に手元の灯りの届く範囲を正確に把握する。どこまでが見えていてどこからが見えないのか。その境目を取り違えると死ぬ。生きて帰る斥候とそうでない斥候を分けるのは腕ではなく、この見きわめの正しさだった。
知っていること。ロデリックが出奔した公爵家の正統の末裔であること。何者かがその血を旗印に王権を奪おうとしていること。戴冠が何かに絡んでいること。そしてその謀りごとの絵図を描く男の名がレンフォードだということ。
知らないこと。レンフォードが何者なのか。決行がいつなのか。イレーネが本当に一味なのか。ロデリックがどこまで引き込まれているのか。
数えてみれば知らないことのほうがはるかに多かった。灯りの届く範囲は狭く、その外側はすべて闇だった。
この穴を埋めなければ俺は動けない。逃げるにも留まるにもまず敵の形が見えなければ線が引けない。どこまでが安全でどこからが死か。その境目が見えない。見えないまま逃げれば俺は見えない結界に自分から突っ込む蛾になる。子爵邸の庭で避けたあの粘つく糸に、今度は自分から。
手がかりはたった一つ。密談で覚えた声だけだった。
俺は顔を見ていない。扉越し壁越しに声だけを拾った。だが俺の耳は一度聞いた声を忘れない。あのしわがれた老人の声。上座から確信をもって語った声。それさえもう一度街のどこかで拾えれば主がたどれる。声は俺にとって顔よりも確かな目印だった。
だがそのためには俺はまた危険へ近づかなければならなかった。
声を探すというのは声のするほうへ行くということだ。安全な場所に座って待っていて拾える手がかりじゃない。俺は声のもとへ足で近づいていくしかない。覗く者の性がここでも俺を闇のほうへ押し出していく。逃げるために近づく。この矛盾を、俺はもう疑問にも思わなくなっていた。
俺は日常を装った。
銀環の仕事はいつもどおりこなした。ロデリックの隣で退路を確保しイレーネの前進の帳尻を合わせジェマの回復を背に受けて魔物を狩る。何も変わっていない顔で。内心ではあの密談をひとときも忘れていないのに。ロデリックの背中を見るたびに俺はこの男が担がれる神輿だということを思い出した。あの広い背中が、自分の乗せられる神輿の柄だとも知らずに前へ出ていく。イレーネの横顔を見るたびに俺はこの女が手の者かもしれないことを思い出した。
芝居は思ったよりうまくやれた。もともと俺は前に出ない男だ。黙って後ろで周りを見ている。そのいつもの俺のままでいれば誰も俺の内側の変化には気づかない。斥候であることはこういうとき都合がよかった。人の視線は前に出る者へ集まる。後ろにいる者は、そこにいることさえ忘れられる。俺はその忘れられやすさの中に隠れた。
仕事の合間、単独で動ける時間に俺は街を漉した。
あの老人の声を探して。
だがそれは思っていたよりずっと骨が折れた。
街は声であふれている。大通りに立って焦点を絞れば目の前の物売りの声だけじゃない、二本先の通りの喧嘩も三軒隣の家の夫婦喧嘩も酒場の奥の笑い声もいっぺんに流れ込んでくる。特定の一つの声を探すというのはその洪水の中から一滴を選り分けるようなものだった。しかもその一滴は、いつ流れてくるとも知れない。
焦点を絞れば絞るほど拾う声は増える。増えた声の中から目当てのものを探すためになお絞る。蝋は流れるように溶けていった。侵入のときのあの一点に集中する消耗とは質が違う。あれは深く鋭く一気に削る消耗だ。街中の捜索は広く薄くしかし際限なく俺を削っていった。半日も声を探して歩けば俺は宿に帰る頃にはこめかみが割れそうに痛んだ。まぶたの裏で光が明滅し、飯の味さえわからなくなった。
それでも俺は探した。声だけが手がかりだった。ほかに手繰る糸を、俺は一本も持っていなかった。
貴族区の界隈を俺は重点的に漉した。ドラウド子爵邸の周辺。貴族の集まる社交の場。彼らが馬車を降り供を連れて歩くあの界隈。あの老人が子爵邸で密談するほどの人物ならそういう場所に姿を現すはずだ。狩りの獲物がどこの水場に来るかを読むのと同じだった。声の主が現れそうな場所を張り、待つ。
だがその前に俺はジェマに頼みごとをしていた。
貴族の派閥を知りたかったのだ。あの密談の一党が王都の権力の地図のどこに位置するのか。それを知らなければレンフォードという名もただの宙に浮いた一つの名前でしかない。名前だけでは地図にならない。その名がどこに立っているかがわからなければ、俺は距離も方角も測れなかった。
幸い俺には格好の伝手があった。
「なあジェマ」
ある晩、酒場で俺は切り出した。
「教会はあちこちに顔がきくんだろ。貴族の派閥のことなんかも耳に入るのか」
「入るわよ。というより教会はそういうのをいちばんよく知ってる。どの家がどの家と結んでるか。誰が誰といがみ合ってるか」
ジェマは面白そうにこちらを見た。
「めずらしいわね。リードがそんなこと聞くなんて」
俺は内心わずかに身構えた。だがジェマの目に探る色はなかった。ただ、いつもの物好きな好奇の色だけだった。
「銀環もそろそろ次を考える時期だと思ってな」
俺は用意しておいた口実を口にした。嘘ではなかった。
「魔物狩りだけじゃ頭打ちだ。上を目指すなら貴族筋の仕事も取れるようになりたい。護衛だの内々の始末だの。そういうのは割がいい。だが下手な派閥に肩入れすれば逆の派閥から睨まれる。どことどこが対立してるのか。それくらいは知っておきたい」
ロデリックが聞いていたら喜んだだろう。上を目指す、まさにそういう話だ。俺の口実は有望株の若手斥候が抱いて何もおかしくない関心だった。事実その関心は本物ですらあった。ただ、その裏にもう一つの関心が隠れているだけで。
「なるほどね。いい心がけ」
ジェマはうなずいた。
「いいわよ、教えてあげる。でも口で言っても覚えきれないでしょ。込み入ってるから」
彼女は少し考えてそれから笑った。
「そうだ。書いてあげる。家の名前と繋がりを紙に。リードは字の練習にもなるでしょ。読んで覚えなさい」
俺は内心ありがたいと思った。文字は読める。王都で舐められないためにロデリックと一緒に覚えた。田舎から出てきた冒険者が証文一つ読めないとなればいいように書き換えられる。だから覚えた。だが正直得意とは言えない。音で生きてきた俺には文字はいつまでも少しよそよそしい。目で追う文字より、耳で拾う声のほうがずっと信じられた。ジェマが書いてくれるなら練習にもなるし何より正確だ。
そしてそれは仲間に頼りごとをするということでもあった。銀環に加わって二月のイレーネにではなく、長い付き合いのジェマに。信頼していなければできない頼みごとだ。ジェマは快く引き受けてくれた。面倒見のいい姉貴分の顔で。俺はその顔に何の疑いも抱かなかった。抱く理由が、そのときの俺には一つもなかった。
数日後ジェマは一枚の紙を俺に寄越した。
几帳面な教会仕込みの字だった。王都の二つの大きな派閥がそこに書き分けられていた。
一つは王党派。いまの王家を戴く者たち。筆頭はレンフォード家。それに古参の武門オルスウィック家。宮廷に近いヴェアモント家。
もう一つは改新派。いまの王家の政に不満を持つ者たち。地方に力を持つカルドレン家。新興の富裕貴族マースグレイヴ家。武断で鳴るソーンビー家。
紙の隅にジェマは小さく書き添えていた。
「どちらにも属さない中立もいる。北の交易都市エルズミア、辺境の領邦ヴィンター。ただこれから伸びるなら大きな派閥と縁を作るほうが早い」と。
中立のことはほんの一行だった。ジェマの筆もそこはさらりと流していた。これから伸びる若手パーティが知りたいのは力のある大派閥のほうだ。俺もそのときは中立の二つの地名をただ目でなぞっただけだった。北の遠い政争の届かない土地。そんなところと縁を作っても割にはならない。エルズミア。ヴィンター。二つの名は目の端を素通りして、何の像も結ばずに消えた。
俺の目は紙の上のある一つの名に吸い寄せられていた。
レンフォード家。王党派の筆頭。
王家を戴く者たちのいちばん近く。その筆頭がレンフォード。
俺は背筋が寒くなった。密談の絵図を描く男レンフォードが王党派の筆頭だとしたら。王家をいちばん近くで支えるべき者が正統の血を担いでその王家をひっくり返そうとしている。外からの反乱じゃない。内側からの簒奪だ。忠臣の顔をした者が主を挿げ替えようとしている。
もしそうなら王都は誰が味方で誰が敵かわからなくなる。王党派の中に裏切り者がいる。しかも筆頭が。そんなことが明るみに出れば政は底が抜ける。守る者と奪う者の境が消え、誰も誰を信じられなくなる。俺が村で見たあの二重帳簿のように、表の顔と裏の顔がまるで違う。ただし今度は、村一つではなく王国の、その頂の話だった。
俺はその紙を何度も読み返した。文字の練習のつもりで。レンフォードと指でその綴りをなぞりながら。何度も、何度も。
声を拾ったのはその数日後だった。
貴族区のとある屋敷の門前。馬車を降りた供連れの一団の中にあのしわがれた声があった。間違いない。あの子爵邸で上座から語った老人の声だ。俺の耳は忘れない。一年前に一度すれ違った物乞いの咳さえ、俺は聞き分ける。あの声を忘れるはずがなかった。
俺は物陰からその一団を目で追った。老人ではない。声の主は意外にもまだ壮年の恰幅のいい男だった。しわがれているのは齢のせいではなく生まれつきの声質だったのだ。俺は声から勝手に白髪の老人を思い描いていた。声は齢さえ、時に偽る。そしてその男が供を連れて入っていった屋敷——それがレンフォード家の屋敷だった。門に掲げられた家紋を、俺は焦点を絞って見た。
やはり。俺は確信を深めた。声の主はレンフォードに連なる男。密談で絵図の話をしていた声の主が、レンフォードの屋敷に入っていく。これ以上の裏づけはない。こいつを手繰ればレンフォードの絵図の中心に近づける。
数日、俺はその男の動きを追った。単独で動ける時間のすべてを使って。銀環の仕事の合間を縫い、眠る時間を削り、蝋を惜しみなく灯して。そしてある夜、俺はその男が一人になる隙を突いて屋敷の一室に忍び込んだ。声をもっと近くで確かめるために。文書の切れ端でも掴むために。
男は書斎で一人書きものをしていた。
俺は天井裏の梁に身を伏せ焦点を絞った。男の息づかいが聞こえる。羽根ペンの走る音。紙の擦れる音。そして——男の心の臓の音が。
妙にうるさかった。
速く乱れ時折大きく跳ねる。何かを抱えている音だった。一人きりの書斎で誰に見られているわけでもないのにこの男の心臓は追い詰められた獣のように鳴っていた。俺は思った。これが絵図を描く男の重責か。王家を内側から覆すという途方もない企ての中心にいる者の、眠れぬ夜の緊張か。首謀者とはこういう音の中で生きているのか。
俺はそう読んだ。
そう読んで——間違えたのだと気づくのはもっとあとのことだ。
男はやがて書き上げた紙に署名をした。羽根ペンが紙の上を走る。俺は梁の上から焦点を絞ってその署名を見た。
文字は読める。舐められないために覚えた。だから俺はその署名を読んだ。読んで——胸の中で何かがかすかにずれた。ほんのわずかな、指の先に砂粒が一つ挟まったような違和。
Rainford。
男の署名はそう綴られていた。
俺はその綴りを覚えてその夜は痕跡を残さず引き上げた。何かが引っかかっていた。だがその正体はまだわからなかった。署名は確かにレンフォードと読める。音は合っている。俺の耳が追ってきた声と、この署名の名は、寸分違わず同じだった。だから俺はその引っかかりをいつものようにいったん脇に置いた。砂粒一つのために立ち止まるには、削った蝋が惜しすぎた。
引っかかりが形になったのは宿でジェマの紙を読み返していたときだった。
文字の練習のつもりだった。指で家名を一つずつなぞる。オルスウィック。ヴェアモント。カルドレン。そして王党派の筆頭、レンフォード。
俺の指が止まった。
ジェマの几帳面な字はその筆頭の家をこう綴っていた。
Renford。
Ren。
俺はあの夜の署名を思い出した。書斎の男が書いた署名。
Rain。
RenfordとRainford。
音は同じだ。どちらもレンフォードと読める。俺の耳はその二つを区別できない。声で聞けば寸分違わない。同じ名だ。何度耳を澄ませても、この二つは一つの音にしか聞こえない。
だが字は違う。
eとai。俺はその二文字の違いを指でなぞった。音では決して聞き分けられない違い。文字にして初めて目に見える違い。声が運べなかったものを、たった二文字の綴りが、こうして突きつけてくる。
俺は音で生きてきた。声を聞き寝息を数え心の臓の乱れを読んで。俺の耳はこの王都の誰よりも遠くまで届く。だが声は綴りを運ばない。どれだけ鋭く聞いても、eとaiの違いだけは、耳には決して届かない。俺のいちばん鋭い耳がいちばん大事なところで二つのものを一つと聞き違えていた。鋭さそのものが、この躓きの原因だった。俺は耳を信じすぎた。
Renford。王党派の筆頭。ジェマの紙が示す大きな家。絵図を描く、本当の黒幕。
Rainford。俺が声を追ってたどり着いたあの心臓のうるさい男。
同じ一族なのだろう。おそらく本家と分家。代を経て綴りが分かれた。音は同じまま。血は分かれても、名の響きだけは残った。そして——俺がこの数日、命を削って追い詰めていたのは。絵図を描く黒幕だと信じてその心臓の乱れを重責と読んだあの男は。
分家のほうだった。
あのうるさかった心臓はたぶん黒幕の重責なんかじゃなかった。忠臣の分家筋。本家の絵図の末端で危ない橋を渡らされている手駒の——怯えだったのかもしれない。本家に命じられ、後戻りのできない企てに片足を突っ込み、いつ露見するかと怯えている男の、その心音を。俺はそれを重責と読み違えた。中心にいる者の音だと。心臓の音は拾えてもその音が何の音かは判じられない。喜びも恐れも、俺の耳には同じ鼓動だ。俺の耳のいちばんの弱点だった。鋭く聞こえるがゆえに、聞こえたものを俺は信じすぎる。
俺はRainを追ってRenにはたどり着いていなかった。
命を削って危険を重ねて俺が近づいたと思っていた中心は中心の影に過ぎなかった。影を黒幕と思い込み、その影に何日も張りついていた。振り出しに近いところへ俺は引き戻された。いや、振り出しより悪い。俺はこの数日を、まるごと無駄に削っていた。
窓の外を夜警の足音が通り過ぎていく。三人。うち一人は右脚を引きずっている。何も変わらない王都の夜。昨日と同じ、平穏な音。
だが俺の中では時間だけが確かに進んでいた。戴冠が近づいている。あの密談の戴冠のその先がいつなのかもわからないまま。そして俺が追うべき本当の名はいまようやく二文字分だけずれを直したところだった。二文字。たったそれだけのために、俺は何日も、別の男の影を追っていた。
Renford。
俺はその正しい綴りを暗闇の中で指で宙になぞった。今度こそ間違えないように。ゆっくりと、一文字ずつ。だがなぞりながら俺は、別の寒気に、背を撫でられていた。俺の耳は、これほど当てにならなかった。ならば俺が密談で拾った、ほかの断片は。ロデリックの血筋は。戴冠の、その先は。あれもみな、どこかで、聞き違えていないと、誰に言えるだろう。
いちばん信じてきたものが、いちばん俺を欺いていた。その夜、俺は自分の耳を、初めて、恐れた。