銀環-知ってしまった斥候が逃げる話-   作:朝凪小夜

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第五章 視線

 

 見られていると気づいたのは些細なことからだった。

 本家のレンフォードを追い直さねばならない。第四の夜に綴りの罠を解いてから俺の頭はそのことでいっぱいだった。

Renford。

王党派の筆頭。あの心臓のうるさい分家の男ではなくその本家。絵図を描く本当の黒幕。だがその屋敷は分家の比ではない構えだろうし迂闊には近づけない。俺はまた下見からやり直さねばならなかった。追うべき影を一つ間違えただけで、俺は何日も棒に振った。今度は間違えられない。

 そのために俺はまた単独で動く時間を増やしていた。仕事の合間、夜、わずかな隙を縫って。そしてその積み重ねがいつのまにか俺の周りの空気を変えていた。自分では気づかぬうちに俺は少しずつ、日常の輪郭からはみ出し始めていた。

 イレーネの視線だ。

 最初は気のせいかと思った。だが俺の五感は気のせいと本物をめったに取り違えない——いや、あの綴りの一件以来そうも言い切れなくなっていたが。それでも繰り返されれば確かになる。酒場で杯を傾けているとき。仕事の帰り道。宿の前で別れる間際。ふとした瞬間にイレーネの目が俺に留まっている。長くはない。触れてすぐ離れる。だがその一瞬の重さを俺の首筋は覚えるようになった。

 責める目ではなかった。睨む目でも。ただ静かに確かめるような目だった。何かの答え合わせをするような。俺という人間のどこかに埋まらない空白があって、それをそっと覗き込もうとするような目だった。俺がいつも他人にしていることを。俺は覗く者だ。その俺が、いま覗かれる側に回っていた。

 俺は思い当たった。

 最近、俺は留守が多い。夜、宿にいないことがある。そして魔物狩りから帰っても狩りだけでは説明のつかない疲れを時折顔に出している。街を漉して声を探したあの消耗。本家の下見で削ったあの蝋。それは剣を振るった疲れとは色が違う。狩りの疲れは筋に残る。俺の疲れは、目の奥に、こめかみの裏に澱のように溜まる。

 イレーネなら気づくかもしれない。あの女は強い。強い者は他人の体の状態をよく読む。戦いの中で味方の消耗を測り、敵の隙を測る。その目がいま、俺の消耗に留まっている。狩りの相手ではなく、俺という同じ卓を囲む男の、そのわずかな綻びに。

 

 確信したのは彼女が口を開いたときだった。

 ある晩、仕事帰りの酒場でロデリックが厠に立ちジェマが酒の追加を頼みに行ったその隙間だった。卓に俺とイレーネだけが残った。四人が三人になり二人になる。その目減りのたびに卓の空気が変わるのを、俺は感じていた。

「リード」

イレーネが杯を置いて言った。

 

「最近、疲れてない?」

 

何気ない一言だった。仲間を気遣う当たり前の一言。

 だが俺の耳はその一言の下に別のものを聞いた。彼女の心の臓がほんの少し速い。呼吸が一定に均されている。そして声そのものが——あの、酒場で能力を明かした夜に俺が一度だけ感じたあの均され方。生きた抑揚の中に、一箇所だけなめらかに整えられた部分。あのときは飲み下した違和が、いま同じ顔で戻ってきた。

 探っている。

 俺はそう感じた。感じて——だが次の瞬間俺は自分の感覚を疑った。

 本当に探っているのか。ただ仲間として疲れた俺を気遣っているだけではないのか。心の臓の速さも呼吸の均しも俺が勝手に意味を当てはめているだけではないのか。あの綴りのように。心臓の音は拾える。だがそれが警戒の音か気遣いの音か、俺の耳には判じられない。喜びも恐れも気遣いも探りも、俺の耳には同じ鼓動だ。同じ一つの音が、二つの意味のあいだで揺れている。

 俺はいま、自分のいちばん鋭い感覚を信じきれないまま、その感覚だけを頼りにこの女と向き合っている。命綱が切れかけていると知りながら、その綱にぶら下がっているようなものだった。

「そりゃあ疲れるさ」

 

俺は鈍い男の顔で答えた。

 

「イレーネが前に出すぎるからな。おかげでこっちはいつも退路の心配で気が休まらない」

 

 軽口だった。いつもの俺の。イレーネは少し笑った。

 

「ごめんなさいね。でも、それだけ?」

 

 それだけ?

 その四文字に俺は綱の細さを感じた。彼女は俺の疲れが、退路の心配だけでは説明がつかないと感づいている。夜の留守を知っている。だがそれをまだ問い詰めはしない。ただそれだけと置いて俺の反応を見ている。踏み込まず引きもせず、ちょうど俺の逃げ場のない一点にそっと指を置くように。

 俺は五感を殺した。彼女の心拍を読もうと絞ればその絞る集中を逆に勘のいいこの女に悟られかねない。鋭い斥候がいま必死に相手を読んでいる——そんな気配を見せるわけにはいかない。俺は鋭さを鞘に納めた。鈍い男の顔の下に全部を隠した。読みたいのに読めない。読む力を持ちながら、その力を使えば負ける。俺は自分の武器を自分で封じて戦っていた。

「それだけだよ」

 

肩をすくめた。

 

「あとはまあ、歳かな。二十で歳を言うのも情けないが」

 

イレーネは今度は声を出して笑った。心の臓の速さが少し緩んだように感じた。それも確かではなかったが。この女が笑うとき、その笑いのどこまでが本物でどこからが演技なのか、俺にはもう見分ける自信がなかった。

 厠からロデリックが戻ってきた。ジェマが酒を持って席に戻る。卓はまた四人になった。探り合いの束の間の一幕は、二人だけの隙間にそっとしまわれた。

 誰も気づかない。この卓の上でたったいま、俺とイレーネが鈍い男と気遣う女の顔をして綱の上をすれ違ったことに。ロデリックは何も知らずに笑いジェマは酒を注ぐ。平穏な、いつもの銀環の夜。その下で二本の綱が交差していた。

 

 その綱がもっと細くなったのはその直後だった。

「そういえばリード」

 

ロデリックが席に着くなり機嫌よく切り出した。

 

「おまえの、この前の派閥の話な。あれ、すごく助かった」

 

 俺の中で何かが身構えた。

 

「ジェマからもいろいろ聞いてな」

 

ロデリックは杯を上げた。

 

「おまえたちの話は本当にありがたいよ。おれは剣を振ることしか能がないからさ。こういう頭の要る備えは、二人が頼りだ」

 

 純朴なまっすぐな感謝だった。この男は本当にそう思っている。仲間が上を目指すために頭を使ってくれている。それが嬉しくてたまらない。俺は、その感謝を、まっすぐには受け取れなかった。俺の頭が使われている先を、この男は知らないのだから。

「それでな」

 

ロデリックは続けた。

 

「おれも考えたんだ。どうせ貴族筋の仕事を狙うならいちばん力のあるところと縁を作りたい。二人の調べだと王党派の筆頭は——なんて言ったかな。そう、レンフォード家だ。ああいうところの覚えがめでたくなれば銀環も一気に化けるんじゃないか」

 

 レンフォード。

 その名がロデリックの口からこぼれた瞬間、俺の心の臓は跳ねた。

 俺だけが知っている。この、鍛冶屋の息子だと信じて疑わない男を担ごうとしている一党。その絵図を描く当の黒幕の名を——いま担がれる本人が希望に満ちた顔で口にした。いい取引先だと。覚えがめでたくなりたいと。神輿が自分を担ぐ者の名を褒めている。その名の絵図の中心に、自分が据えられようとしているとも知らずに。

 俺は心の臓の跳ねを悟られてはならなかった。焦点を絞れば、それを隠す余裕さえ危うい。俺は表情を留めた。鈍い男の顔を崩さない。

 だが俺の内側では別の欲が鎌首をもたげていた。

 聞きたい。ロデリックはレンフォードの何を知っている? ジェマはどこまで話した? この会話を少し進めれば——レンフォードについて俺の知らない何かがこぼれるかもしれない。喉から手が出るほど。俺は黒幕の情報に飢えていた。何日も命を削ってたった二文字の綴りしか得られなかった俺は。

 一歩、踏み込みかけた。

 

「レンフォードって、どんな——」と口が動きかけた。

 

 その瞬間、俺はイレーネの気配を捉えた。

 彼女は静かに杯を傾けていた。だがその心の臓が——レンフォードの名が出たあの瞬間からわずかに速い。呼吸がまた均されている。そしてその目が、ロデリックではなく俺を見ていた。

 俺がレンフォードの名にどう反応するかを。

 俺は口を閉じた。踏み込みかけた一歩を引っ込めた。

 

「——まあ、大きい家なんだろうな」

と、当たり障りのない言葉で濁した。喉の奥の飢えを無理やり飲み下して。舌の先まで出かかった問いを丸ごと喉の奥へ押し戻した。

 

危なかった。あと一言踏み込んでいたら。俺の食いつきをイレーネは見ていた。俺がレンフォードにただの取引先候補以上の関心を持っていると悟られていたかもしれない。有望株の斥候の下調べと命を賭けた探索とでは、名を呼ぶ声の温度が違う。その温度差を、あの女は測ろうとしていた。

 そして——ここがわからない。イレーネのあの反応。レンフォードの名に心拍を速めたあの反応。あれは彼女も一味だから黒幕の名に反応したのか。それともただ俺の食いつきを警戒して速まったのか。あるいは何でもなかったのか。俺の頼りない耳がまた勝手に意味を描いただけなのか。

 判じられなかった。この卓の上で俺とイレーネは、同じ名にそれぞれの理由で心の臓を速め、それぞれの顔でそれを隠した。互いに相手が何を隠したかを確かめられないまま。同じ井戸を両側から覗き込んで、底の暗さしか見えないように。

 そしてその綱渡りのただ中で——俺はほんの一瞬、奇妙なものを感じた。

 心が躍っていた。

 気づいたのは本当に一瞬だった。次の瞬間にはロデリックが次の話を始め俺はまた芝居に戻りその感覚はどこかへ消えた。消えたが、消えきってはいなかった。灰の下の熾火のように、俺の胸のどこかでまだ小さく脈打っていた。

 

 

 翌日の仕事で俺はそのつけを払った。

 いつもの魔物狩りだった。難度は高くない。だが俺は狩りのあいだじゅう上の空だった。頭の半分が、昨夜のイレーネの反応をまだこねくり回していた。あれは警戒だったのか。一味の証だったのか。俺の耳は正しかったのか。

 その半分を、俺は狩りに割けなかった。

 斥候の仕事は、全部を握ることだ。前衛の位置、魔物の数、退路の状態、伏兵の気配。そのすべてを同時に押さえて初めて、線が引ける。だが昨夜の残り火に気を取られた俺は、その一つを取りこぼした。

 崩れた岩陰から、もう一匹。俺はそれに気づくのが遅れた。

 ロデリックの死角へ回り込もうとしたその魔物に、俺が声を上げたのはいつもより半拍遅かった。半拍。侵入でいえば、留め金の音を賽子の音に紛れ損ねるほどの、わずかな。だが戦いでは、その半拍が血を流す。ロデリックの腕を爪が掠めた。浅い傷だった。ジェマの回復ですぐに塞がった。誰も気に留めなかった。

 だが、イレーネだけは。

 傷が塞がったあと、彼女の目が俺を見た。あの確かめる目で。リードの合図が遅れた。斥候の合図が。あのリードの。その目はそう言っているように、俺には感じられた。あるいはそう感じただけかもしれない。だが俺は悟った。

 注意は無限ではない。イレーネを読もうとすれば、その分だけ狩りが疎かになる。狩りに集中すれば、イレーネの探りを見逃す。本家の下見に蝋を割けば、日中は鈍くなる。俺の持てる集中は一つきりで、それをどこに注ぐかを、俺は絶えず選ばされていた。そして選び損ねれば——半拍、遅れる。半拍が綻びになる。綻びを、あの女が見ている。

 全部を握ろうとして、俺は全部の綱を同時に細くしていた。

 

 

 その夜、宿に帰ってから、消えたはずの感覚が俺を捉えて離さなかった。

 寝台の上で俺はあの一瞬を思い返していた。昨夜の、卓の上の、あの心の躍りを。

 あの卓の上で、俺は三つのことを同時にやっていた。表情を殺して平静を装うこと。踏み込みたい欲を抑えること。そしてイレーネを読むこと。三つをいっぺんに。しかも足元では自分の耳さえ信じきれないまま。あんなに綱が細かったことはない。子爵邸の夜より細かった。一手でも誤れば正体が割れ、俺は消される。

 なのに。

 あの渦中で。俺の心は確かに躍っていた。

 なぜだ。

 俺は寝台の上でそれを考え続けた。命が懸かっていた。恐怖しかないはずだった。実際、怖かった。手のひらには汗をかいていた。それは間違いない。だがその恐怖の底のほうで、別の何かが脈打っていた。あの侵入の夜の——塀を越え、蝋を注ぎ、綱を渡る、あの生きている手応え。あれと同じものが。窮地であればあるほど、強く。

 わからなかった。歓喜の出所が、わからなかった。

 なぜこんなときに。逃げ道の見えない部屋に閉じ込められて詰みかけているこんなときに。俺の心はどうしてこんなにも躍るのか。その理由を、俺はいくら探っても掴めなかった。俺の中に、俺の知らない何かがいて、それがこんな窮地で勝手に喜んでいる。俺はその何かを掴めなかった。名前をつけられなかった。輪郭さえ見えなかった。

 それが恐怖より、ずっと不安だった。

 敵の顔ならまだいい。イレーネの探りも、レンフォードの絵図も、戴冠の影も、外側の脅威だ。恐れる相手がはっきりしている。姿が見えれば、逃げようも隠れようもある。だがこの歓喜は——俺の内側から来る。俺自身の中から。俺は外側の敵からは逃げようとしている。だが内側のこれからは、逃げようがない。どこへ逃げても、この窮地に躍る心は、俺についてくる。エルズミアへ逃げても、ヴィンターへ逃げても。世界の果てまで逃げても。

 俺は天井を見上げた。窓の外を夜警の足音が通り過ぎていく。三人。うち一人は右脚を引きずっている。いつもの平穏な王都の夜。

 だがその平穏の下で、俺は二重に追い詰められていた。外からは包囲に。そして内からは、この名前のない歓喜に。

 逃げなければ、と俺は思った。だがどうやって。

 いま抜ければイレーネは確信するだろう。密談を聞いたであろう時期に単独行動を重ね、そして突然消える斥候。それが何を意味するか。あの女がそれを見逃すはずがない。逃げれば疑いは確信に変わる。留まれば探られ続ける。どちらにも道がない。前門に監視、後門に発覚。俺の立つ場所は日ごとに狭くなっていた。

 おまけに俺は——認めたくはなかったが——この銀環を、まだ嫌いになりきれずにいた。ロデリックのあの純朴な感謝。ジェマの面倒見のよさ。イレーネとの危うい探り合いさえ、どこかで。放り出して逃げることに、俺のどこかがまだ抵抗していた。要だと言われた場所を、自分から捨てることに。ハンスを押し出したときの俺たちと同じことを、今度は自分にするのかと。

 街のどこかで槌の音がしていた。焦点を絞らずとも、それは聞こえた。王都の中心、王城のあたり。夜を徹して何かを作っている。飾りだろうか。壇だろうか。近く大きな儀式があるらしい。戴冠という言葉が、街の噂に混じり始めていた。

 俺はその音を、ただの夜の音として聞き流した。飾りを組む音。祭りの支度。俺には関わりのない遠い催し。

 その槌の一打ずつが俺の破滅への刻限を刻んでいることを——俺はまだ、知らなかった。

 

 

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