これで最後にすると俺は自分に言い聞かせた。
本家レンフォードの邸は王都の北のいちばん奥、貴族区の中でもひときわ高い塀に囲まれていた。分家の比ではない構えだった。三晩の下見で俺はその守りの厚さを嫌というほど思い知った。だが厚さそのものは俺を怯ませなかった。厚い守りには厚いなりの穴がある。要所を固める者は、固めた要所以外をどこかで侮る。臆病な者ほど手前を固めて奥を忘れ、傲慢な者ほど正面を睨んで背後を空ける。いつもそうだった。守りとは、造った者の恐れの形だ。恐れの形を読めば、恐れなかった場所が、穴として浮かび上がる。
俺が欲しいのは全貌だった。決行がいつか。ロデリックがどこまで引き込まれたのか。イレーネが本当に一味なのか。第五の夜まで俺はそれを掴めずにいた。声を追い、綴りに欺かれ、探り合いに削られ、それでも肝心のものには手が届かなかった。断片ばかりが増えて、絵にならない。だが本家の邸にこそ絵図の中心がある。ここに入ればわかる。わかれば動ける。逃げるにせよどうするにせよ、まず敵の全体が見えなければ俺は線一つ引けなかった。
これで最後だ。掴んで抜けて、それで終わりにする。俺はそう決めていた。この一夜さえ越えれば、あとは自分の頭で、身の振り方を決められる。そう思っていた。
塀を見上げたとき俺の胸のどこかがふと疼いた。第五の夜あの卓の上で感じたあの名前のない心の躍り。それがまた灰の下で小さく熾った。命が懸かっているというのに。詰みかけているというのに。こんなときに、なぜ。俺はそれを押し殺した。いまはいい。いまは仕事だ。この疼きの正体を考えるのは、生きて帰ってからでいい。
異変に気づいたのは塀の下に取りついたその瞬間だった。
守りがいつもと違った。
厚いのは下見のとおりだ。だがその厚さの質が違う。俺はいつも守りに近づくとそれを据えた人間の気配を読む。臆病な者の甘さ、傲慢な者の慢心。仕掛けには必ず据えた者の性根が滲む。その滲みの濃いところと薄いところを読んで俺は穴を探し当てる。人の隠しごとを覗くのと、まったく同じやり方で。錠前の向こうの寝息を読むように、結界を据えた指の癖を読むように。
だがこの夜の守りには——性根がなかった。
塀の上にも庭にも、隙間なく警戒の網が張られていた。だがそれは誰か一人の几帳面さや臆病さから生まれた網ではなかった。のっぺりと一様に、面で塗り潰すような守りだった。ここを重んじあそこを侮る、という偏りがない。偏りがないから、穴が性根から生まれない。どこを探っても、同じ濃さ。同じ手触り。読むべき癖が、どこにもない。
俺は混乱した。読むべき人間がいない。誰の癖もそこにはなかった。まるで大勢の手で、何も考えずにただ均等に塗り固めたような。恐れの形がないのだ。恐れの形がなければ、恐れなかった場所も、ない。俺の読み方そのものが、足場を失った。
あとで思えば当たり前のことだった。戴冠が近い。王都じゅうの貴族邸に、王家から一律の警備を敷けとのお達しが出ていたのだ。個々の家の主が据えたのではない。上から降ってきた顔のない規格の守り。据えた人間の性根など、はじめからそこにはなかった。誰の恐れも誰の慢心も、そこには塗り込められていなかった。ただ規則だけが。
俺の力は人を読む力だ。人の隠しごとを覗き、人の性のその根を測る。だがこの守りには読むべき人がいなかった。俺はいちばん得意な場所で、いちばん頼りにしてきた力を空振りした。生まれて初めて俺の五感が、相手のいない拳のように宙を切った。
それでも俺は入った。
偏りのない網にも施工の粗はある。均等に塗ったつもりでも、人の手でやる以上、どこかに薄い一点が残る。性根は読めなくても、粗は残る。俺は性根の代わりにその施工の粗をしらみつぶしに探した。いつもの倍の蝋を注いで。こめかみが割れ視界が白むその限界まで。庭の、植え込みの陰の一点。そこだけ網の重なりがわずかに薄い。俺はその一点を、針の穴を通すように抜けた。
抜けられた。だがいつもの余裕はなかった。俺はもう、この一夜のために、蝋を使いすぎていた。入る前から俺の命綱は、擦り切れかけていた。
母屋の二階。灯りのついた一室の隣。俺は続きの間の書架の陰に身を潜めた。
主のいない書斎だった。卓の上に、書きかけの文書がいくつも広げてあった。無防備に。ここまで入り込む者はいないという慢心か、あるいは、面の守りへの過信か。皮肉なものだ。顔のない守りが、かえって主の油断を生んでいた。
俺はそれを読んだ。
文字は得意じゃない。声なら一瞬で拾える。遠くの囁きも、潜めた密談も俺の耳は掠め取る。だが文字は目で一つずつ追わねばならない。時間がかかる。焦点を絞って、書架の陰から、卓の上の文字を読み解いていく。一枚また一枚。一文字ごとに蝋が減る。声で聞けば瞬きひとつの間に終わることを俺は幾呼吸もかけて、文字から、絞り出していた。
そして俺は全貌を掴んだ。
絵図はそこにあった。正統の血——ロデリック——を旗印に、現王家を挿げ替えるその手筈が。文書には事細かに記されていた。いつ、どこで、誰が動くか。あの子爵邸で、断片しか掴めなかったものがいま、目の前に、余さず、書かれていた。
決行は、戴冠の、その日。
王家の縁者がことごとく王都に集い、一堂に会するその日。またとない機会。血の正統を掲げて旗を揚げるならその日をおいてほかにない。王を戴く祝いの日にその王を、挿げ替える。忠臣の顔をした者たちが、祝賀の裏で刃を研いでいた。
俺の頭の奥で、街の音が鳴った。この数日、聞き流してきたあの槌の音。王城のあたりで、夜を徹して何かを組む音。飾りを。壇を。近く大きな儀式がある——戴冠が近いと、街の誰もが話していた。俺には関わりのない、遠い催しだと俺は聞き流していた。
繋がった。
戴冠はもう目前だった。俺がただの祭りの支度として聞き流してきたあの音は、破滅への刻みだった。決行は戴冠の日。そして戴冠はもうすぐ。猶予は——ほとんど、ない。あの槌の音は俺のために鳴っていたのだ。俺の残された時を、一打ずつ削り取りながら。
文書には、ロデリックのこともあった。俺は焦点を絞ってその一節を読んだ。「旗頭は既に掌中。本人に自覚なし。戴冠の混乱に乗じて宮中へ引き入れ、以後、王宮内にて確保・監督す」。
既に、掌中。
ロデリックはもう取り込まれ済みだった。俺があいつを助けられる余地は、どこにもなかった。あの、鍛冶屋の息子だと信じて疑わない男は、自覚のないまま絵図の中にはめ込まれていた。戴冠の日、あいつは宮中へ引き入れられる。銀環はそこで役目を終える。解散だ。ロデリックだけが王宮の奥へ、正統の血の神輿として消えていく。何も知らぬまま。据えられたところにただ立ったまま。
俺は文書から目を上げた。ここまで掴んだ。もう十分だ。抜けよう。粘りすぎた。蝋が底に近い。これ以上ここにいれば掴んだものを持ち帰る前に俺のほうが尽きる。
そのときだった。
隣の一室の扉が開いた。人が入ってきた。複数。
俺は書架の陰で息を止めた。
動けなかった。抜けるその一歩手前で、部屋に人が来た。灯りのついた隣室に、数人。俺のいる続きの間とは、開いた戸一枚で繋がっている。いま動けば、衣擦れひとつで悟られる。俺は書架の陰で石になった。呼吸を腹の底で殺し、心の臓の音さえ抑え込もうとした。
声が聞こえてきた。
しわがれた声。あの分家の男だ。それに若い男の声。そして——
その三人目の声を聞いた瞬間俺の全身が凍りついた。
イレーネだった。
顔は見えない。だが俺の耳は間違えない。一年前にすれ違った物乞いの咳さえ聞き分けるこの耳が二月連れ添った女の声を、聞き違えるはずがなかった。あの声だ。あの、卓の上で俺に「それだけ?」とそっと指を置いた声。二月のあいだ同じ飯を食い、同じ酒を飲み、連携を詰めてきたあの槍兵の声が——この、絵図の中心の部屋に、あった。
疑いは消えた。推測でも勘でもない。あの女はいま、この部屋にいる。陰謀の中枢に。俺は確かめてしまった。いちばん確かな、この耳で。皮肉なものだ。俺の耳は、綴りでは欺いた。心拍では惑わせた。だがいちばん認めたくない真実だけは、寸分の疑いもなく俺に突きつけた。
「――ロデリックは、疑っていないな」
若い男の声が言った。
「ええ」
イレーネの声。落ち着いた事務的な声だった。俺の知らない声だった。銀環では、一度も聞いたことのない声。抑揚すら削ぎ落とした声。
「あの人は何も疑いを持っていません。戴冠まで、このまま泳がせておけば、疑いようもなく宮中へ運べます」
あの人。ロデリックのことをあの女は、そう呼んだ。連携を詰め、背中を預け合った男を、運ぶ荷のように。
「ほかの者は。銀環には、斥候が一人、いたな」
俺の心の臓が跳ねた。
俺のことだ。
しばらく間があった。ほんの数瞬。だが俺には幾刻にも感じられた。イレーネが俺のことをどう答えるのか。あの探り合いの夜々を。彼女が俺に向けたあの確かめる目を。
書架の陰でその答えを待った。息を殺して。自分の値踏みを、当の相手の口から、聞かされるのを。
「ああ、あれは」
イレーネの声は少しも揺らがなかった。
「どうにでもなります。案じるほどの者ではありません」
どうにでも、なる。
案じるほどの者では、ない。
その一言が俺の中の何かを、静かに断ち切った。
あれだけ探り合った。俺はあの女の心拍を読もうと蝋を削り、鈍いふりに神経を張り詰め、狩りで半拍を遅らせ、眠れぬ夜を重ねた。あの探り合いを俺は命懸けの綱渡りだと思っていた。互いに相手を測り合う対等な危うい勝負だと。俺の五感の全部を賭けた勝負だと。
だが、違った。
あの女にとって俺は勝負の相手ですらなかった。「どうにでもなる」もの。「案じるほどの者ではない」もの。取るに足らない、始末に困りもしないただの斥候。彼女が俺に向けたあの確かめる目もあの気遣いの言葉も任務のついでだった。片手間だった。俺という人間はあの女の中で、何の重さも持っていなかった。声がそう告げていた。事務的なあの平らな声が。感情の一かけらもない声が。
俺は笑いたくなった。声を殺して、書架の陰で。ハンスだ、と思った。俺は、ハンスを押し出した。腕が見合わなくなった、荷になる、と。あのとき俺は線を引く側にいた。だがいまの俺は、線を引かれる側だ。しかもハンスよりも軽い。ハンスは少なくとも、外すのに話し合いを要した。俺は「どうにでもなる」の一言で済む。数字にならない力は、いちばん先に軽くなる。俺がずっと恐れていたことだ。それがいま、この女の口から、現実になった。
だがそこでイレーネの声が続いた。
「もし――」
俺は耳をそばだてた。
「もし、消しておきたいのなら……」
そこで声が落ちた。誰かが身じろぎしたのか彼女が声を潜めたのか、あるいは俺の蝋がそこで切れかけたのか。その先が、聞こえなかった。
消しておきたいのなら。
その先が、ない。
消す、とは俺のことか。消しておきたいのなら――何だ。消せる、なのか。消すまでもない、なのか。念のため消すか、なのか。それとも、消すほどの者でもない、と続くのか。
わからなかった。
同じだ。綴りのように。心拍のように。俺のいちばん鋭い耳が、いちばん命に関わる一言をまた途中でしか掴めなかった。提案だけが、宙に浮いた。俺を消すという算段が、この部屋でいま、語られているのかもしれない。あるいは、消すまでもないと、笑われているのかもしれない。どちらとも、わからないまま。
その瞬間俺を縛っていた最後の錘は、確かに外れた。だが同時に、別のものが俺の背筋を氷の指で撫でた。いま、この部屋で俺の生き死にが片手間に量られている。「どうにでもなる」者の始末を、どうにでもなるその軽さで。
抜けなければ。いますぐ。
俺は書架の陰から、そっと動いた。隣室の話が続いているその隙に。だが俺の頭はもう平静ではなかった。
消しておきたいのなら。その途切れた一言が、耳の奥で鳴り続けていた。それを振り払おうとするたび焦点が乱れた。蝋は、とうに底を尽きかけている。そこへ、動揺が重なった。俺は、擦り切れた命綱の上で、足をもつれさせていた。
続きの間の窓から庭へ。来たときのあの施工の薄い一点へ。俺は、逃げ道の記憶だけを頼りに闇を手探りした。
庭に降りた。そして――そこで俺はしくじった。
しくじった、というより、避けようがなかった。いつもなら俺は、据えた者の性根を読んで、巡回の隙を正確に測る。だがこの夜の警備には性根がない。巡回すら、規格どおりの、機械的な、面だった。俺の、人を読む勘が、働く相手がいない。そこへあの一言の動揺が拍車をかけた。俺は、蝋の尽きた頭で顔のない巡回の間合いをわずかに読み違えた。ほんの、わずかに。
姿は見られなかった。それだけは確かだ。俺は影に沈み闇に紛れ誰の目にも映らなかった。動揺の中でもその一線だけは、体が覚えていた。姿を見られれば終わりだ。それだけは、させなかった。
だが――植え込みの、施工の薄い一点。そこを俺は二度通った。行きと、帰りと。焦りと動揺のなかで、慎重さを欠いたまま。二度、同じ場所を抜けた痕が――柔らかい土に、わずかな乱れとして残った。均一な網のその一点だけに、人の通った跡が。
顔のない守りは、顔がないぶん几帳面に点検される。人の性根がないぶん規則だけが冷徹に働く。明日、この乱れは見咎められるだろう。誰かの慢心が見逃してくれることは、ない。規格には、慢心が、ないのだから。
何者かが、この邸に忍び込んだ。
誰か、まではわからない。姿は、残していない。だが、内側を嗅ぎ回る者がいると、絵図を描く者たちは悟るだろう。ちょうど、決行を目前に控えた、この時期に。彼らは警戒を強める。網を狭める。
俺は塀の外に転がり出た。全身が汗で濡れていた。膝が、笑っていた。全貌を掴んだ。イレーネを確かめた。逃げる決意も固まった。だがその代わりに俺は痕跡を残してしまった。
知ることとしくじることが、同じ一夜に起きた。粘ったから掴めた。粘ったから残した。覗く者の性が俺に全貌を掴ませそして俺の首に、縄を掛けた。
俺は貴族区の裏路地を走った。走りながらあの途切れた一言がまだ追ってきた。消しておきたいのなら。その先の、ない言葉が。俺を消す算段がもう始まっているのか、それとも、俺など歯牙にもかけていないのか。わからないまま俺は走った。わからないからこそ走った。
戴冠まで、いくらもない。俺が王都から消えるための猶予も、いくらもない。時計の針はもう、はっきりと聞こえていた。あの、王城の、槌の音。ひと打ち、ひと打ちが俺の背を追い立てていた。
逃げる。もう、それしかなかった。それだけが、残された俺の線だった。