逃げると決めてしまえばあとはいつもの仕事と同じだった。
闇の中へ踏み込む前に手元の灯りの届く範囲を正確に把握する。どこまでが見えていてどこからが見えないのか。ただ今度は忍び込むための算段ではなく消えるための算段だった。同じ技を逆向きに使う。塀を越えて中へ入るのではなくこの王都という檻の外へ抜ける。
痕跡を残してしまった。あの土の乱れはもう見咎められただろう。内側を嗅ぎ回る者がいる、と絵図を描く者たちは悟った。決行を目前にしたこの時期に。彼らは網を狭める。嗅ぎ回る者を探し始める。俺はその網が俺の顔かたちを結ぶより先に王都から消えねばならなかった。
だが皮肉なことに——俺には一つ味方があった。
イレーネのあの言葉だ。どうにでもなる。案じるほどの者ではない。あの女は俺をそう値踏みした。取るに足らない斥候。だとすればその斥候が一人ふいに姿を消してもあの一党は血眼で追いはしないかもしれない。要人が消えれば追う。だが案じるほどの者ではない駒が一つ盤から落ちても——気に留めない、かもしれない。
俺はその侮りに賭けることにした。俺を軽んじたことが俺の逃げ道になる。嗤いたくなった。あの女は俺を軽んじることで俺に逃げる隙をくれたのだ。
算段は速かった。路銀は蓄えがある。天涯孤独の身はこういうとき身軽だった。守るものも連れていくものもない。斥候の技があれば身分を偽る手立ても街道の関を避ける間道も心得ている。忍び込む者は抜け出す者でもある。俺はこれまで他人の家に忍び込んでは抜け出してきた。今度は王都から抜け出す。それだけのことだった。
残るは行き先だった。
俺はジェマの書いた紙を広げた。
二つの大きな派閥がそこに書き分けられている。王党派。改新派。力ある家々の名が連なっている。レンフォード。オルスウィック。カルドレン。マースグレイヴ。俺が命を削って追った名もそこにある。
だが俺の目はいまその大きな家々を素通りした。
力ある派閥は逃げる者にとってはいちばん危うい。どこと結びどこと敵対しているか。その糸が王都から地方まで張り巡らされている。大派閥の領地へ逃げ込めばそこには必ず王都と繋がる目がある。逃げる先が追う手の内側かもしれない。まして今は反転の最中だ。偏ることは容易に塗り替わることと同義にすらなっている。
そんな思考の中で、目が留まったのは紙の隅のたった一行だった。
あのとき俺が割にならないと目で素通りしたあの一行。ジェマがさらりと筆の力点も置かずに書き添えたあの一行。——どちらにも属さない中立もいる。北の交易都市エルズミア辺境の領邦ヴィンター。
中立。
あのときはなんの役にも立たないただの余談だった。これから伸びる若手パーティが知りたいのは力ある大派閥のほう。中立の二つの地名など割にならない遠い土地。俺はその一行を読み流した。像も結ばずに。
それがいま俺の生命線になっていた。
どの派閥にも属さないということはどの派閥の目も及びにくいということだ。王党派とも改新派とも糸で繋がっていない土地。王都で誰が王を挿げ替えようとそこには直には波が届かない。逃げる者が身を沈めるならそういう土地しかない。力のある場所ではなく力の隙間。
エルズミア。北の交易都市。人と物の出入りが多い。よそ者が一人紛れ込んでも目立たない。素性を問われず明日から別の誰かとして生きられる。逃げる者にはこれ以上の隠れ蓑はない。
役に立たないと思っていた一行が命を救う。命を削って追った名が命を脅かす。あのとき俺の目が価値があると見たものとなかったものがいまそっくり裏返っていた。
俺は、エルズミアを選んだ。
発つのは次の夜と決めた。
その前に一つだけしなければならないことがあった。
ロデリックに会うこと。
なぜそうしたかったのか俺にもうまく言えない。黙って消えるほうが賢い。誰にも会わず夜の間道を抜けて王都を出る。それが斥候の分別だ。会えば疑われる。会えば足がつく。会う理由など一つもなかった。
だが俺はあの男に一言だけ言っておきたかった。
昼下がりのギルドの人気のない一角で俺はロデリックを捕まえた。次の依頼の掲示を眺めていたその背に声をかけた。
「ロデリック」
振り向いた顔はいつもの屈託のない顔だった。俺だけがその未来を知っていた。知っていて俺は逃げる。
「どうしたリード。次の仕事の相談か」
ロデリックは笑った。
俺はその笑顔をまっすぐ見られなかった。
「すまない」
俺はそう言った。それだけ言った。
ロデリックの顔から笑みが消えた。訳がわからないという顔で俺を見た。
「なんだよ急に。何を謝ってるんだ」
何をとあいつは問うた。当然だ。あいつには何一つ分からない。俺が何を知っていて何を謝っているのか。俺があいつの血筋を知っていることもあいつが担がれる神輿だと知っていることもそれを知りながら告げずに逃げようとしていることも。あいつには一つも届かない。この謝罪ははじめから通じるはずのないものだった。
通じないと分かっていてそれでも俺は言わずにいられなかった。せめて一言だけ。俺の中の小さな澱をあいつの前に置いていきたかった。意味が通じなくてもいい。ただ謝ったという事実だけを残したかった。俺のためだ。あいつのためじゃない。あいつのためには何一つしてやれないのだから。
「なんでもない」
俺は言った。
「達者でな」
俺は背を向けた。
歩き出した俺の背にロデリックの声が追ってきた。
「おいリード」
戸惑った声だった。何が起きたのかまるで分かっていない声。
「リード? おい待てよ。リード!」
名前を呼んでいた。ただ俺の名前を。理由も意味も伴わない。ただ去っていく仲間を引き止めようとするそれだけの声であいつは俺の名を呼んだ。
イレーネは俺をどうにでもなると言った。案じるほどの者ではないと。あの一党にとって俺は盤から落ちても気に留めない駒だった。
だがこの男だけは。
この男だけが去っていく俺を呼び止めた。俺を要だと本気で言っていた男だけが。俺が見捨てて逃げる当の相手だけが。俺という人間を惜しんで名を呼んだ。
足は止めなかった。
止めれば終わる。振り返ればあの顔を見てしまう。あの顔を見れば俺は崩れる。だから俺は足を前に出し続けた。一歩また一歩。ロデリックの声が遠ざかる。
その代わりに俺は心の中で謝り続けた。声には出さなかった。出せば届いてしまう。届けばあいつは追ってくる。だから声にしない。歩調に合わせて心の中だけで。
すまない。
すまない。
背後で名を呼ぶ声。前へ運ぶ足。その間で俺は届かない詫びを繰り返した。
すまない。
すまない。
おまえを置いていく。
すまない。
あいつの声が聞こえなくなるまで俺はそうやって歩いた。声に出せば通じない謝罪と声に出さないから届かない謝罪。俺があいつに差し出せるものはそのどちらも相手に届かない二つの詫びだけだった。村を捨てたときと同じだ。俺はいつも大事なことを声にしない。知っていて告げない。感じていて伝えない。覗く者の情はいつも届かない場所にしかない。
ギルドの喧騒が背後に遠ざかった。ロデリックの声ももう聞こえない。
俺は二度とあの男に会うことはないだろう。
その夜俺は王都を出た。
城門の関は避けた。斥候の目には市壁の綻びなどいくらでも見える。人の使わぬ間道崩れた水路見張りの立たぬ死角。俺は忍び込むときと同じ丁寧さで王都から忍び出た。誰にも気づかれず。イレーネの言葉どおり俺の失踪を血眼で追う気配はなかった。どうにでもなる駒は盤から落ちても追われない。侮りが俺を通した。
街道を北へ。エルズミアへ。
歩きながら俺は一度も振り返らなかった。背後の王都の灯りを。あの街のどこかにいるロデリックを。イレーネを。ジェマを。そして——戴冠の日にその街で起きようとしている何もかもを。
俺は知らないまま遠ざかっていく。
戴冠がいつなのか正確には知らない。もうすぐということだけ。決行がどう運ぶのかも知らない。誰が王座に着き誰が血を流しロデリックがどうなるのか。正統の血の神輿が担ぎ上げられるのかそれとも担ぐ前に絵図が破れるのか。俺には分からない。
分からないまま俺は逃げる。
あの街でこれから王国の頂がひっくり返るのかもしれない。忠臣の顔をした者が王を挿げ替えるのかもしれない。政の底が抜けるのかもしれない。だがそれはもう俺の知ったことではなかった。俺は覗く者だった。他人の隠しごとを覗いては憤りやがて嗤う男だった。だがいちばん大きな隠しごとを覗いてしまったとき俺は嗤いも何もしなかった。ただ逃げた。
背後で王都が遠ざかる。
その遠ざかる街のどこかで時計の針が戴冠へ向けて進んでいた。俺の耳はもうあの槌の音を拾わなかった。遠すぎて。それとも俺がもう聞こうとしなかったのか。
北の空の下街道はただ白く続いていた。エルズミアへ。役にも立たないと思っていたあの一行の地名へ。
俺は歩いた。逃げ切れると信じて。