エルズミアは俺が思っていたよりもずっと大きな街だった。
北の海に面した交易の都市。王都とはまるで違う雑多な活気のある街だった。港には各地からの船が入り、市場には見慣れぬ言葉と見慣れぬ品があふれていた。肌の色も、身なりも、訛りもてんでばらばらの人間が金と物のためにここへ集まってくる。そういう街ではよそ者が一人紛れ込んでも誰も気に留めない。どこから来た何者だと問う者もいない。皆自分の商いで手一杯だった。
俺はリードという名を王都に置いてきた。エルズミアでは別の名を名乗った。ありふれたどこにでもある名を。素性は語らず来し方も語らずただ腕の立つ斥候としてこの街の冒険者に紛れ込んだ。
隠れ蓑としては申し分なかった。
時が流れた。
最初のうちは俺は絶えず背後をうかがっていた。街道に追手の気配はないか。この街に王都の目は届いていないか。焦点を絞り耳を澄まし匂いを嗅いだ。だが何もなかった。誰も俺を追っては来なかった。イレーネの言葉どおりだった。どうにでもなる駒は盤から落ちても拾われない。
やがて俺は背後をうかがうことを少しずつやめた。
逃げ切った。その手応えが日を追うごとに確かなものになっていった。俺は生き延びた。王都の陰謀からも俺を軽んじた一党からもこの北の街まで逃げ切った。
王都の噂はそれでもエルズミアにまで届いた。
交易の街だ。人と物が動けば話も一緒に動く。港の酒場で市場の隅で隊商の焚き火で王都のことは時折話に上った。何か大きな動きがあったらしい。新しい体制。政の入れ替わり。物価がしばらく荒れてそれから落ち着いた。新しい秩序がじわじわと方々へ浸透してきている——そういう断片が風のように俺の耳をかすめていった。
俺はそれを拾わなかった。
拾おうと思えば拾えた。俺は斥候だ。それも腕のある。人の集まる場所には必ず表に出ない流れがある。金の流れ人の流れ隠された事実の流れ。俺はその流れを読む男だった。港の噂を手繰り隊商の口を割らせ王都から来た商人の荷の匂いを嗅げば——王都で何が起きたのか。誰が王座に着いたのか。あの陰謀が成ったのか破れたのか。俺には集められた。造作もなかった。
だが俺は近づかなかった。
あえて聞かなかった。噂が耳をかすめるたび俺は焦点を緩めた。聞こえかけたものを聞こえないところへ押しやった。覗く者の性を初めて俺は自分に禁じた。
なぜかと問われれば半分は答えられる。
知ればまた引き込まれる。あの世界に心を引き戻される。俺はあの絵図から逃げてきた。逃げきった。なのにいまさらその顛末を覗けば逃げた意味がなくなる。知ることは繋がることだ。知らずにいることでしか俺はあの街と切れていられない。だから知らないでいる。それは逃走の続きだった。走ることをやめても俺はまだ耳を塞ぐことで逃げ続けていた。
だが残りの半分は——うまく言葉にできなかった。
なぜ俺は王都の噂のその一点だけをあれほど避けるのか。新体制がどうのという話は聞き流せる。だがその噂の奥に触れかけると——たとえばある男の名が出かかると——俺は反射のように耳を閉じた。
ロデリック。
あの男がどうなったのか。神輿として担ぎ上げられたのか。それとも絵図が破れて無用になった神輿はどこかで始末されたのか。あるいはまだ何も知らぬまま王宮の奥で生かされているのか。
知りたくなかった。
いや——知るのが怖かった。
どちらの結末を聞いても俺はあの最後の別れを思い出すことになる。俺の名を戸惑いながら呼んでいた声。それを振り切って歩き続けたあの背中を。すまないと声にならない声で繰り返したあの道を。おまえを置いていくと。ロデリックの結末を知れば俺が置いていったものの重さを正確に量ることになる。俺はそれを量りたくなかった。
だから俺はあの男の名だけは耳に入る前に押し戻した。覗く者がたった一つ覗けなかったもの。それが俺の置いてきた男の行方だった。
これを俺はうまく言葉にできなかった。ただ名が出かかると胸の底が鈍く痛んだ。そして俺は焦点を緩めた。
暮らしは戻っていった。
俺はエルズミアの冒険者としてそれなりに名が売れ始めた。名を隠しても腕は隠せなかった。臨時のパーティに加われば俺の斥候ぶりは否応なく際立つ。危ないものに誰より早く気づく。退路をいつも確保している。何度か仕事を共にすれば皆口をそろえて言った。あんたがいると安心だと。
皮肉なものだ。名は捨てられても腕は捨てられない。俺という人間をいちばん際立たせるものはいちばん隠したいものと同じだった。
若い斥候に教えることもあった。
この街にも駆け出しはいる。まだ退路の取り方も気配の読み方も覚束ない若者。そういう連中に俺は時折手ほどきをした。ここで音を立てるな。ここで意識を絞れ。敵の数は匂いの濃淡で読め。退路は攻める前に確保しておけ。
俺が命を賭けた綱の上で削るように身につけた技を。子爵邸の闇で蝋を尽かしながら覚えた読み方を。俺はそれを安全な教習として若者に教えていた。魔物一匹いない日の当たる訓練場で。かつて俺の首が懸かっていた技を。
若者たちは熱心に聞いた。いい師だと慕われもした。俺は穏やかな顔で教えた。おまえたちは俺のように危ない橋を渡るなと。安全に堅実に長く生きろと。
そう言いながら俺の中のどこかが乾いていくのを感じていた。
平穏だった。
エルズミアの暮らしは驚くほど平穏だった。仕事はあるが命懸けではない。魔物狩りも格の低い安全なものばかり。臨時パーティは無茶をしない。俺は退路を確保し危険を嗅ぎ帳尻を合わせる。だがその帳尻が崩れることはめったになかった。
安全で平穏でそして——満ちなかった。
夜宿の寝台に横になると俺は決まってあの手応えのなさに襲われた。うまくいった一日のあとに残るあの空洞。王都にいた頃と同じだった。いやあの頃よりずっと深かった。あの頃は少なくとも蓋の浮いた夜には街へ出て忍び込むことができた。消耗と達成のぎりぎりを渡ることができた。
だがいまはそれもない。
この街には忍び込むべき貴族もいない。いやいるにはいるが俺はもうやらなかった。あの癖は逃走とともに封じた。忍び込めば目立つ。目立てば足がつく。逃げ切った身がまた自分から危険を招くわけにはいかない。
だから俺は平穏の中でただ乾いていった。
斥候の技を若者に教えながら。安全な仕事をこなしながら。逃げ切ったという確かな手応えを抱えながら。俺は生きていた。だが生きているというあの手応えだけがない。
安全を手に入れた。その代わりに俺は生きている実感を手放していた。
俺は寝台の上で天井を見上げた。エルズミアの夜は静かだった。夜警の足音もここでは聞き慣れない別の街の音だった。右脚を引きずる男はもういない。何もかもが平穏で安全でそして遠かった。
そんな夜俺はふと思うようになった。
もっとギリギリの討伐に参加しようか。
この街の冒険者にも危ない仕事はある。北の山地の手強い魔物。海の魔物の巣。命を落とす者も出るそういう依頼が。俺はいつもそれを避けてきた。逃げ切った身が無駄に死ぬわけにはいかないと。安全に堅実に。
だが——最近俺の目はその危ない依頼の掲示に留まるようになっていた。
あの綱の細さを、あの消耗と達成の境界線を、もう一度渡れるかもしれない。魔物相手なら陰謀も監視もない。ただ純粋に俺の首の分だけを俺が賭ける。俺の采配で。あの生きている手応えを——もう一度。
俺はその渇望をはっきりと自覚していた。なぜそんなものを求めるのかは相変わらずわからなかった。第五の夜あの探り合いの渦中で感じたあの理由のわからない心の躍り。それと同じものがいまこの平穏な街で飢えとなって俺を疼かせていた。安全なのに。生き延びたのに。俺は次の危険を求めていた。
ふと俺は思い当たった。
俺の暮らしはあの蝋燭と同じだ。
焦点を絞れば蝋が減る。減れば休んでまた満たす。満たしてはまた灯す。消耗して回復してまた消耗する。俺の五感がそういう仕組みでできているように——俺の生きるということ自体がその繰り返しでできているのかもしれない。消耗しなければ満ちた気がしない。ぎりぎりまで灯さなければ生きた心地がしない。
そしていまの俺は回復ばかりの日々にいた。灯さない蝋燭のように。満たされて満たされたまま乾いていく。
俺はその考えの入り口で立ち止まった。深く掘るのはなぜかためらわれた。掘れば何か俺という人間のいちばん底のものに触れてしまう気がした。
俺は寝返りを打った。
明日あの危ない討伐の掲示をもう一度見に行こう。そう思いながら。
その渇きの底で俺が次に何を掴むことになるのか——俺はまだ知らなかった。