その日俺は掲示板の前に立っていた。
エルズミアの冒険者ギルド。壁一面に依頼が貼り出されている。俺の目はその中の一枚に留まっていた。北の山地の討伐依頼。難度は高い。過去に何人か命を落としている。俺がこれまで避けてきた類の危ない仕事だった。
だがその日俺はその一枚を剥がそうと手を伸ばしかけていた。
もういいだろうと思った。逃げ切って半年あまり。追手の気配は絶えてなかった。俺は安全な街で安全な暮らしを手に入れた。手に入れてそして乾いていた。一度くらいいいだろう。あの綱の細さを。あの消耗と達成のぎりぎりを。もう一度だけ渡っても。
俺は生き延びた。逃げ切った。いまや俺は自由だった。何をするのも俺の采配だった。
そう思ったその瞬間だった。
背後から声がかかった。
「久しぶりね、リード」
俺の背筋が凍りついた。
その声を俺は知っていた。忘れるはずもなかった。穏やかで面倒見のいいあの声。金勘定の速い姉貴分の、銀環の、僧侶の。
振り返らなくてもわかった。それでも振り返った。
ジェマがそこに立っていた。
あの日と少しも変わらない穏やかな顔で。エルズミアのざわめきの中にただ静かに。まるで昨日も一昨日もずっとそこにいたかのように。
リードとあの女は俺を呼んだ。
王都に置いてきたはずの名で。
その一言で俺はすべてを悟った。ジェマは何も説明しなかった。ただ俺の捨てたはずの名を呼んだ。それだけで十分だった。この女は俺がリードだと知っている。俺が偽名でこの街に紛れ込んだことも。ならば——ずっと追ってきたのだ。あるいは待っていたのだ。この街で。
頭が勝手に繋いでいった。ジェマがなぜここにいるのか。なぜ俺の名を知っているのか。その答えが雪崩れるように俺の中で形になっていった。
あの酒場の夜。俺が五感のことを話しあぐねたあの一瞬。俺の値打ちを先回りしてみなの前で認めてくれたあの言葉。あれは庇いではなかった。あの女はあのとき俺の力を場に暴かせたのだ。俺自身の口で語らせるために。俺の能力の有用さを見定めるために。
あの派閥の紙。俺が逃げ道を見つけたあの地図。中立の一行が生命線だと俺が喜んだあの紙。あれを書いたのは、ジェマだった。俺はこの女の手のひらに逃げ道を描いてもらってその描かれた道を走ったのだ。
そしてこの街。名を隠しても腕は隠せなかった。腕のいい斥候がいるという噂はこの交易の街から四方へ流れていく。ジェマは前線のパーティを渡り歩く顔の広い女だった。各地に伝手のある女だった。腕のいい斥候の噂などそういう網にたやすく拾われる。
俺は網の外へ出たつもりでいた。
だが俺が走った先は走った道はたどり着いた街は——すべてこの女の網の目の内側だった。俺は逃げていたのではない。網の中を移動していただけだった。
「あなたを探すのは少し骨が折れたわ」
ジェマは静かに言った。
「王都があんなことになったでしょう。おかげでこっちもしばらく混乱して。あなたが急にいなくなったのとちょうど重なってね」
あんなこと。
俺が命を賭けて逃げてきたあの陰謀を。王国の頂がひっくり返ろうとしたあの謀りごとを。この女はあんなことと言った。しばらく混乱した程度のことだと。
悟る。この女は知らないのだ。俺が何から逃げてきたのかを。あの絵図のこともロデリックのこともイレーネのことも。ジェマにとって王都の政変は遠くのちょっとした混乱でしかなかった。その混乱の時期にたまたま目をつけていた斥候が姿を消した。だから追った。それだけ。
俺が人生を賭けて逃げてきたものは。この女の視界の隅の些事ですらなかった。
二つのまるで別のものが俺の上で重なっていた。俺が逃げていた網と俺を追っていた網。その二つは互いに何の関わりもなかった。ただ俺一人がその重なりのいちばん薄いところに落ちていた。
「教会があなたを求めているの」
ジェマは言った。優しく。あの日俺を庇ったときと同じ穏やかさで。
「異端審問。聞いたことはあるでしょう」
ある。名前だけは。教会の暗いほうの仕事。異端を、異能を、狩る部門。信仰の裏を暴き隠れた者を炙り出す。街の噂の恐ろしい端にその名は時折混じっていた。
「そこであなたにやってほしいことがあるの」
ジェマは続けた。言葉は少なかった。
「隠れている人間を見つけ出すこと。隠された事実を掘り出すこと。それだけ」
それだけとあの女は言った。
そしてそれ以上は語らなかった。
だが語る必要はなかった。その一言で俺の頭はまた勝手に繋いでしまった。隠れている人間を見つけ出す。隠された事実を掘り出す。——それは。
俺の力だった。
遠くの音を聞く。薄い匂いを嗅ぐ。暗がりを見通す。人の心の臓の乱れを寝息の深さを嘘の気配を読む。錠前の向こうを壁の向こうを扉の向こうを。俺が生まれてこのかたやってきたことのすべて。隠されたものを覗くこと。
それがそっくりそのまま異端審問の道具だった。
あなたにしかできない。ジェマがそう言ったのは世辞でも誘い文句でもなかった。文字どおりだった。俺の五感は隠れた者を隠された事実を掘り出すために誂えたようにできていた。教会は俺の力を正確に見抜いていた。いや——この女が二月かけて間近で見抜いたのだ。あの酒場の夜から。俺の力を暴かせたあのときから。
ジェマはそれ以上何も言わなかった。言う必要がなかったのだ。この女は俺の頭を信頼していた。短い言葉で十分だと知っていた。隠れた者を見つけると言えば俺が自分の力とその役目の噛み合いを瞬時に悟ることを。その先を——受ければどうなるか。断って逃げようとしてもこの網の内側からどこへ逃げられるのか。そのすべてを俺が自分で推し量れることを。だから語らなかった。あなたならわかるでしょうと。
その信頼がいちばん深かった。この女は俺をいちばん深く見ていた。イレーネよりも。ロデリックよりも。誰よりも。俺の力を俺の頭を俺という人間の仕組みを。狩る者だけが持つあの獲物への深い理解で。
詰んでいる。
受ければ教会の審問の手駒になる。断って逃げれば——この網の内側をまた走ることになる。どこへ逃げても才が俺を指し示す。名を捨てても腕は捨てられない。俺は生きているかぎり俺の力を使うかぎりこの女の網から出られない。
いつの間にか俺は格子の中にいた。
それを悟った瞬間俺は——村のあの夜を思い出した。
二冊の帳簿。逃げても逃げても没収されるあの構造。どれだけ働いても蓄えても根こそぎ持っていかれる逃げ場のない檻。村人はその格子が見えていなかった。見えないまま痩せた手を伸ばし続けていた。少年はその格子を見て震えた。憤りで震えた。そして逃げた。
大人になった俺は権力者の隠しごとを覗いて憤る代わりに嗤うようになった。変えられないなら知って嗤う側に回ると。
そしていま。
俺はいつの間にか格子の内側にいた。教会という逃げ場のない構造の中に。村人が囚われていたのと同じ形の檻に。しかも俺はその格子が見えている。見えていて——逃げられない。
震えるべきなのかもしれなかった。あの少年のように。
だが俺の中に湧き上がってきたのは震えでも嗤いでもなかった。
興奮だった。
いつの間にかこれほど見事な格子の中に入り込んでいた。気づきもせずに。走ったつもりの道が全部盤の上だった。逃げたつもりの半年が全部この女の手のひらの上だった。俺はこれほど鮮やかにしてやられたことがなかった。子爵邸でも王都からの逃走でも。誰にもここまで深く読まれ囲われたことはなかった。
そして——その格子の中で。
俺はふいに思い出した。第五の夜のあの心の躍り。第八の夜のあの飢え。窮地になぜか躍る心。理由のわからなかったあの渇き。
いま——それがわかった。
俺はずっとこれに生きていたのだ。
消耗と達成のぎりぎり。自分の首の分だけを自分の采配で賭けるあの綱渡り。それだけが俺に生きているという手応えをくれた。侵入も探り合いも逃走も。俺がいちばん生を感じたのはいつもいちばん危ういときだった。安全は俺を乾かした。窮地だけが俺を満たした。
俺はそういう人間だった。
そして目の前のこれは。
この逃れられない格子の内側で。この俺をいちばん深く見ている狩人を前にして。受けるにせよ逃げ続けるにせよ。俺の残りの人生のすべてを賭けるこの一局は。
俺がこれまで渡ってきたどの綱よりも細い。
子爵邸の夜より。あの探り合いの卓より。王都からの逃走より。もっとずっと。もう後戻りはできない。安全な場所はもうどこにもない。ただ消耗と達成のぎりぎりだけがこの先ずっと続いている。この格子の中で。終わりのないゲームが。
心臓が跳ねた。
その逃げ場のない格子の底で。俺は笑っていた。
最高の、ゲームだ。
何処かで見た、「五感強化は不遇になりがちだけど、組織では非常に重宝されるだろう」という話に悪癖と逃走を混ぜてみました。
こういう性格だからこの能力なのか、逆なのかそういう思考も面白そうです。