まずは一度、前提となる話を聞いてくれないだろうか。
舞台はある時代、日本列島のどこか。
どこかの地下では独自の文明が築かれていたり、東京では未来と繋がった技術が突如として大きな問題を巻き起こしたりもしたが……それとは全く縁のない裏側。
実はこれまで日本は常に怪物との危機に晒されていたが、それが既に日常になりつつある。
それは時折悪の組織だったり怪人と呼ばれたり、ありふれた日常の範囲ではある……ちなみに今はそういったもの『悪魔』と呼ばれて、それを始末する人間は『デビルハンター』と呼ばれている。
その中でも今、注目したいのは相棒である悪魔が心臓となったことで死の淵から蘇り、頭部や両腕がチェンソーになってスプラッタに楽しそうに悪魔を殲滅していく『デンジ』という男。
もしかすればこの時代にバイオレンスと希望を血飛沫と共に撒き散らすニューヒーローとなるかもしれないし、あるいはこの世を喰らい尽くして破滅させる真の悪魔かもしれない。
だがその一方で、だ。
何やら期待されるような本に記されるような終わりに至るまで数々のフラグがあり、それをたまたまいい感じに、それを何回も乗り越えた先になんか自身の人生を漫画にして売り物にして見せられるものになっていることをご存知だろうか?
公安対魔特異4課『マキマ』が贈る……まるで映画館のリバイバル上演のように席に座り、デンジがこの場所で運命の悪戯に勝てず巻き込まれた『結末』を共に。
これはチェンソーマンと呼ばれる男がここまで『26回』死んだ際のスライドショーである。
席に座り、フィルムが動き……一人の観客が手を伸ばして映画の中に入ろうとして……そのまま消えていったことは、一旦無視しよう。
——
それは、数日前から始まったささやかな異変だった。
近隣で発生した謎の霧。最初は朝靄(あや)程度のもので、誰もが「じきに晴れるだろう」と気に留めもしなかった。
しかし、日は経つごとにその深さを増していく。今や発生地点の中心部は、一歩先すら判別できない完全な白濁の世界へと変貌していた。
いつ晴れるかも分からない不透明な壁。人々は視界を奪われ、足元を脅かされながら、少々不便な生活を強いられていた。
──公安対魔特異4課、マキマ。彼女もまた、その不便を強いられている一人だった。
いつも通りの退勤時間を迎え、彼女は足りない日用品や食材の買い出しに向かうことにした。
目的地であるスーパーマーケットは、方角からしてちょうど霧の最も深い奥底にある。
マキマは運転していた車を白い帳(とばり)が境界線を引いている手前で止めた、エンジンを切り車外へ出る。
目の前には、すべてを飲み込む白の深淵。
マキマは臆することなく徒歩で一人、その霧の中へ吸い込まれるように足を踏み入れた。
ほんの数歩、歩を進めただけですでに背後の世界からは彼女の存在すら視認できなくなる。音も、光も、湿った白い空気の奥へと融けて消えていった。
視界の利かない霧を抜け、スーパーマーケットの自動ドアをくぐる。
店内は辛うじて照明が灯っていたが、外から流れ込む薄い霧のせいで、どこか現実味を欠いた空間になっていた。
静まり返る店内の通路を歩いていると、不意に聞き馴染みのある声が鼓膜を叩いた。
「いいかお前ら、余計な物は何も見ず、目的のものを買ってさっさと帰るように動くぞ」
「なあ先輩よ〜、俺フィッシュ&チップスよりジャーマンポテト食いてェんだけど」
「魚は早めに消費しないとめんどくさいんだよ。……しっかりパワー見ておけよ、勝手にカゴにお菓子を入れるだろうからな」
声の主は、早川アキ、デンジ、そしてパワーだった。どうやら彼らも退勤後、そのまま買い物に赴いた流れのようだった。
アキが二人の手綱を引くように、足早に奥の惣菜・鮮魚コーナーへと向かっていく。
マキマは彼らの姿を視界に収めながらも、声をかけることはしなかった。ただ静かに、その背中を見送りながら、自らも目的の品を回収するために別の棚へと歩を進める。まだ、合流するタイミングではない。
しかし、異変はすでに店内にも侵食を始めていた。
パツン、と嫌な音を立てていくつかの棚の照明が落ち、局所的な停電が起きる。薄暗くなった店内に、かすかな動揺が広がり始めたその時、今度は外から微かに、しかし確実に不穏なサイレンの音が響いてきた。地を這うような重苦しい音が、霧の向こうから近づいてくる。
マキマが必要な買い物を終え、レジを通って帰路につこうとした、その瞬間だった。
バリィィィィン!!
凄まじい音を立てて、店舗の巨大なガラス窓が割れ散った。
割れた隙間から滑り込んできたのは、霧そのものと一体化したかのような、名状しがたい『何か』の手だった。
「ひっ──あ、がっ!?」
近くにいた一般の客が、その手のようなものに絡め取られる。骨のきしむ嫌な音が響いた。まるで人間の身体を肉の塊──ハムのように無慈悲に絞り上げ、血を滴らせながら、一瞬にして霧の向こうへと連れ去っていく。悲鳴すら、一瞬で遠ざかり、消えた。
店の外を見やれば、そこはもう一面を埋め尽くす白。一色という言葉では表現しきれないほど、繊密に、濃密に覆い尽くされた世界の終わりがそこにあった。もはや外へ歩き出したところで、同じ景色しか見えない無限の迷宮。
そして。
確実に、その白い世界の先には『何か』が蠢いている。
これまでの歴史上、人類が生存のために『悪魔』と分類し、名付け、対処してきた概念。しかし目の前にあるそれは、もっと複雑で、もっと底知れない別種のナニカであるかのような気配を孕んでいた。
マキマは表情を一切崩さないまま、別の出入り口にある手動のシャッターへと歩み寄り、それを一気に引き開けた。
ガラガラと音を立てて開いた闇の向こう、待ってましたと言わんばかりに、無数の異形の「手」が、マキマの細い身体を搦め捕らんと一斉に伸びる。
肉薄する絶望。だが、マキマの瞳に揺らぎはない。
「コン」
その背後から響いた、鋭く短い声音。
次の瞬間、空間を割って出現した巨大な「狐の頭部」が、マキマの目の前に伸びてきていた有象無象のモノを、その巨大な顎(あぎと)で骨ごと、空間ごと、すべてを凄まじい勢いで喰らい尽くした。
飛び散る肉片と、霧を吹き飛ばすほどの衝撃波。
狐の悪魔の牙の向こうから、刀の柄に手をかけた早川アキが、そしてチェンソーのスターターを引き込もうとするデンジが、獰猛な笑みを浮かべて霧の奥を睨みつける。
ここにいるのは、映画の幕引きを待つだけのエキストラのような、無力な人間ではない。
理不尽を相手に、己の命をチップにして怪物どもを始末する──本物の『デビルハンター』だ。
「うん、今回は助けられちゃったね」
「マキマさん、どうしてここに……」
「ここで説明するよりは……一度4人、こっちで話をしたほうがいいかな」
マキマはフードコードのテーブル席にアキ達を誘導し、現在置かれている状況をまとめる。
自分達は大きな霧に包まれ店ごと包囲されている、そしてその霧の中から……何か襲ってきたがデンジはいまいちピンと来ない顔をしている。
「何か分かんね〜って、こんなことしてくるのなんて悪魔とか以外にいないでしょ、『霧の悪魔』とかそういうの」
「確かにそう思うかもしれないね、でも大昔は『悪魔』以外にも人間の宿敵は数多くいたよ、それは頻繁に名前と形を変えて『魔法少女』だったり『進化生物』だったり、『新人類』とも呼ばれていた」
マキマの発言にデンジは関心したような顔をするが、アキだけが呆れたような顔でデンジを眺める。
「本気にするな、悪魔以外は存在が確認されてない都市伝説みたいなものだ……しかし霧の悪魔にあれだけの力は無かったように思えますが」
「そこは気になるところだけど……とりあえず今はなるべくここから出ないで、援軍を呼んだからここに籠城しよう」
「はぁ〜籠城じゃと? そんなダラダラせんでもちょっとモクモクしちょるだけの悪魔ならワシが軽かくひとひねりしてやるぞ!」
「いやいいじゃん籠城、スーパーで寝泊まりすんだろそれって」
店の向こうに意気揚々と攻めに行くパワーに対して籠城という手段に乗り気のデンジ。
マキマに言われた通りにスーパーに立てこもる……というよりはほぼ一泊するノリで準備を整えていくが、アキはまだ警戒を解かずマキマに問いかける。
「何故あのシャッターを開けたんですか? 確認するにしても、もし何かあったら」
「似ていたから……かな」
「似ていた? 昔仕事で遭遇した危険な悪魔……あるいはまさか本気で、前時代に存在したという……」
「ずっと前に……一人で観に行った映画の内容に」
マキマは相変わらず誰にも見透かすことは出来ないような、意味深な笑みを浮かべる。
——この命がけの状況で彼女は冗談を言わない、真剣にこんな事を言っているし、本当に悪魔かどうかも分からない得体の知れないものが相手と考えると少しでも情報を集めておきたい。
「その映画は……どんな内容だったんですか?」
「こんな風に霧の中に閉じ込められて人々がパニックになるんだ、怪物は現れ、人々は恐怖と疑心暗鬼でおかしくなっていくなか脱出を目指そうとして……うろ覚えだけどそんな内容だったかな」
「なるほど、このまま残っていたほうが良いと」
「どちらかと言えば安直に動くと余計な被害を招くことになりかねないからね、少なくともマーケット内にいれば物資もあるしここに留まるに越したことはないでしょ」
もしマーケットが蹴破られたらとも考えたが、それはこの霧の中を無策に突っ込んだ際と末路は対して違わないような気もするので、このまま余計なことをせずに突破口を向こうから用意するのを期待したほうがいいのかもしれない。
デンジが変身してチェンソーでなぎ倒せば怪物ぐらいは始末できるかもしれないが、どこで何か想定外の事態が起きるかも分からない。
まずは慎重に現状を把握したあとで打開策を取るべきだろう。
しかしここにどこまで居られるのかもわからない、マーケットの電気設備がほぼ使えないこともあり食料がどれだけ持つか分からないからだ。
少なくとも野菜や卵などは危ないとして……?
「実際どれだけ過ごすことになるか……」
しかし、そう慎重に事が進まないのがこの世の流れである……非常事態を免罪符にパワーが何か面倒なことをするんじゃないかと思い至ってアキ達はデンジのところに行くと案の定パワーの姿はなかったし、デンジもそわそわしている。
「おい、あのバカこんなところでほっといたら何するか分からないだろ、どうしてちゃんと見ておかなかったんだ」
「いやだからって公共の便所まで見張れねェでしょ……まあそれにしたってもう結構入ってんじゃねえの? って」
「そんなことか……どれくらい入ってる」
「2時間」
「確かにそれは異常だ……仕方ない、マキマさんに確認してもらうから誰か来ないか見張っておけ」
「うっす」
アキはパワーの様子を見に行くためにため息を吐きながら、中に誰もいないことを確認して警戒しながら合図を送るとマキマも呼ばれていることにすぐに気付き……女子トイレに入っていく。
普段ならそのまま籠もっているパワーを強引にでも引っ張り出して帰ってきてくれるはずなのだが……。
「……なあ先輩、なんでマキマさんまで出てこねえの?」
「そういうデリケートな質問を俺に吹っ掛けてくるな……時間がかかることくらいたまにはあるだろう」
ひとまずパワーのことはマキマに任せることにしてマーケット内で設備などを確認することにするのだが……。
「おい、デンジ。ちょっと屋上から外の様子を見てくるぞ」
早川アキの言葉に、デンジは「うっす」と生返事をしながら、自販機コーナーのベンチから腰を上げた。
スーパーマーケットの屋上へと続く重い鉄扉を押し開けると、そこには言葉を失うほどの異常な光景が広がっていた。
——白の深淵と、蠢く絶望が空に見える。
霧は先ほどよりもさらにその濃度を増し、世界の境界線を完全に消し去ろうとしていた。
当初、マキマが範囲外に置いてきたはずの車すらも、すでに濃密な白の帳に深く飲み込まれているようだ。
「霧の悪魔」らしき本体の姿はどこにも見当たらない。しかし、霧の範囲は確実に、そして急速に拡大していた。
「……おい、見ろよアキパイ。あっちの店、なんかおかしくなってねえか?」
デンジが指さした先、隣接する衣料品店の店舗は、もはや元の形を留めていなかった。
ネバネバとした粘液で覆われ、まるで巨大な怪物の巣のようなおぞましい物体へと変貌を遂げている。
そこでは、先ほど買い出し中の客を拉致した「名状しがたい手」のほかにも、巨大なカタツムリや、空中を不気味に漂う半透明のクラゲのような奇妙な生物たちが、生存者を求めて蠢いていた。
アキは双眼鏡を覗き込みながら、自身の車のほうへ視線を移したが、すぐに苦い表情で吐き捨てた。
「……駄目だ。思い返してみればガソリンの残量が心許ない。あの霧の中で立ち往生すれば、それこそ本当に命はないぞ」
車での脱出という選択肢は消えた。だが、絶望の淵に立たされた彼らの耳に、地を揺るがすような重低音が響いてくる。
しかし希望ならまだある。
霧の向こうから現れたのは、見慣れた公安の車両ではなかった。
自衛隊の自走砲と装甲車の列。
これほどの規模の騒動となり、ついに国家の軍隊が直接介入を始めたのだ。
「オオッ! なんかスゲーの来たじゃん!」
自走砲から放たれた猛烈な火炎放射が、一瞬にして霧の一部を赤く染め上げる。衣服店に巣食っていたカタツムリやクラゲの化け物どもが、悲鳴のような音を立てて焼き尽くされていく光景が遠目に見えた。
これが悪魔の仕業なのか、それとも前時代的な別のナニカなのかは分からない。だが、少なくとも軍隊が動いて事態を力技で収束させられる程度の規模であることは確かだった。
「ふぅ……。あとはあの軍隊がここまで来るのを待つだけだな。近くに怪物が来たら、その都度叩き潰せばいい」
アキはわずかに肩の力を抜いた。しかし、これほど大規模に霧を撒き散らしている元凶──その姿だけは、どれだけ目を凝らしても未だ霧の奥に隠されたままだった。
「なぁ先輩、ここで晩飯食うなら、こんな状態でも働いてるようなフードコートの店に行くっきゃねえのかなぁ」
腹を鳴らすデンジに、アキは財布から小銭を何枚か握らせた。
「地下駐車場に古ぼけた自販機がある。そこで何か選んで買ってこい。俺はここで見張りを続ける」
「へェ〜 今の時代ってコーラ以外もボタン1個で出てくんだな!」
デンジは呑気に小銭をジャラジャラと鳴らしながら、薄暗い地下駐車場へと階段を下りていった。
隅に佇む旧式の食品自販機を見つけ、ボタンを押して温かいハンバーガーを手に入れる。
「よしよし、あのバカにも一口分けてやるか」
戻り際、まだ籠城しているであろう女子トイレの前を通りかかったが、相変わらず中からの反応はない。
しかし、その手前でいつの間にかトイレから出てきていたマキマと鉢合わせした。しかしパワーの姿は相変わらずない。
「あ、マキマさん」
「そっか。応援は呼んでおいたけれど、自衛隊が来てくれたんだね」
マキマはいつもと変わらない、すべてを見透かすような笑みを浮かべてデンジを見つめる。
「はい、先輩が屋上で見張りしてくれてるんすよ。もうちょっとしたらこっちに来るはずなんで、顔出しときます」
「そうだね。私も一緒に行っておこうかな」
デンジは憧れのマキマを伴い、鼻歌混じりで再び屋上への階段を駆け上がった。
「先輩! マキマさん連れてきたぜ──」
屋上の鉄扉を開けたデンジだったが、そこに先ほどまでいたはずの早川アキの姿はなかった。
あるのは、静まり返るコンクリートの床だけ。
しかしすぐ近くの路上には、霧を割って進軍してきた戦車と、大きな輸送トラックの影がはっきりと見えている。
距離にして目と鼻の先だ。いつでもあそこに飛び込めば、この霧から避難することができるだろう。
「なーんだ、すぐそこにいんじゃん。手でも振っておくか……?」
デンジが身を乗り出そうとした、その時。
不自然な金属音が響いた。
ガガガガ、と重々しい音を立てて、**戦車の巨大な砲塔が、真っ直ぐにこの屋上へ──デンジとマキマのいる方向へと旋回していく。
「……え?」
その銃口が完全に自分たちを捉えた瞬間、デンジの野生的な勘が、脳裏で警報をけたたましく鳴り響かせた。
「アッッぶねェ!!」
デンジは考えるよりも先に身体を動かした。マキマの華奢な身体を庇うように、その前に躍り出る。
しかし、人間の、あるいはデビルハンターの反応速度を嘲笑うかのように、鉄の怪物は容赦なく火を噴いた。
**バリィィィィィィン!!!! **
言葉にならない重く鋭い爆発音が、鼓膜を引き裂く。
一瞬にして弾け飛ぶ天井と床。
爆風と無数の破片が、デンジの身体を容易く肉片へと変えていく。
痛みを自覚する暇すらなく、視界は急激に暗転し、粉々に砕けていく意識の破片が闇に融けていく。
──ブツン。
まるで、上映中の古いフィルムが唐突に焼き切れたかのように。
チェンソーマンと呼ばれた男の、これが目測『1回目』の結末。
客席のマキマは静かに、次の上映が始まるのを待つために、再び座席の背もたれに深く身を沈めた。
「うーん、これどうするつもりなんだろうこの後……まあいいや、あの映画みたいに無駄なことはしていないんだし自然な流れで助かったことにしよう」
「ばんっ」
そしてスクリーンに向かってばんと一言放ち指で引き金を引くと、今回の為に必要になった『霧の悪魔』は粉々に吹っ飛んだのだった。