珈琲の苦みと、甘い約束。
ガラス扉を押し開けると、カランカランと涼やかな鈴の音が響く。
ここ最近のデンジにとって、この音が世界で一番心地よい合図になっていた。
「あ、デンジ君! いらっしゃい」
カウンターの向こう側から、エプロン姿の少女──レゼがパッと顔を輝かせて手を振る。
デンジという男の恋愛回路は、恐ろしいほどにシンプルだ。「自分のことを好きでいてくれる女の子」が、そのまま「大好きな女の子」になる。
最近のレゼは、明らかにデンジに対して特別な好意を隠そうとしなかった。学校の図書室で一緒に勉強を教えてもらったり、カフェの片隅で他愛のない話をしたり。デンジにとって、それは夢にまで見た「順風満帆な青春」そのものだった。
だが、甘い時間というものは、時に劇薬のような一言で男を揺さぶる。
ある日の夕暮れ時、店じまいを終えたカフェの裏口で、レゼはふと悪戯っぽく微笑みながら、デンジの顔を覗き込んできた。
「ねえ、デンジ君。ひとつ約束してほしいな」
「お、おう! なんだ? 俺にできることなら何でも……っ!」
鼻先が触れ合いそうな距離で、レゼの澄んだ瞳がじっとデンジを見つめる。
「──くれぐれも、浮気はしちゃダメだよ?」
「おぎゅっ」
その言葉は、デンジの胸の奥深く、自覚しつつも目を背けていた場所に鋭く突き刺さった。
レゼのことは狂いそうなほど意識している。それは本物だ。けれど、デンジの心の中には、依然として絶対的な「本命」であるマキマの存在が居座っている。
女の直感というべきか、レゼはデンジの心に自分以外の「誰か」の影があることを、とっくに察しているようだった。だからこその、あの釘を刺すような台詞。
(どうすりゃいいんだよ俺は……! マキマさんもレゼも、どっちも最高に可愛くて選べねえよぉ……っ!)
生まれて初めて直面する「贅沢すぎる悩み」に頭を抱えながら、デンジは逃げるようにカフェを後にした。そもそも、自分から女を振るなんていう高等技術、これまでの人生のどこを探しても経験した試しがなかった。
悶々としながら夕方の街を歩いていると、前方の路地から見覚えのある姿が歩いてくるのが見えた。
マキマの姉であり、今はレンタルビデオ店で働いているはずの女性──アネモネだった。
「あれ? アネモネちゃんじゃん。こんなとこで何してんだ?」
「あら、デンジ君。奇遇だね」
アネモネはいつものおっとりとした笑みを浮かべていたが、その瞳の奥には、どこか冷徹で巨大な決意の光が宿っていた。
実は彼女、マキマの姉という立場を最大限に利用して、公安が厳重に保管している『未来の悪魔』の能力を確かめさせてもらった帰りだった。
そこで彼女が見た未来は、凄惨極まるものだった。
おそらくは数十年後、この世界に降臨するとされる「恐怖の大王」。その検証のために未来の悪魔の力に晒された30人の囚人のうち、実に29人がその場で絶命するという悍ましい結末。
(やはり、私の力が引き起こす破滅の予言は本物……。準備が整い次第、本格的に『死の悪魔』としての立場を明かして、公安の庇護を受けながら手を貸すしかなさそうなんだよね……マキマがどんな顔するか)
そんな世界の存亡に関わる重大な決断を下したばかりのアネモネだったが、デンジにはそんな事情は知る由もない。ただの「マキマの身内」として、絶好の相談相手に見えた。
「なぁなぁ、ちょっと聞きたいんだけどさ……」
デンジは周囲を気にしながら、声を潜めて切り出した。
「マキマさんってさ……もし誰かに浮気されるようなことがあったら、やっぱ……許さないタイプなわけ? しーちゃんとかも」
突飛な質問に、アネモネは一瞬だけ目を丸くした。しかし、妹であるマキマの気質──万物を支配しようとするその本質を思い浮かべ、小さく苦笑する。
「まあ……そうかもしれないね。でも安心して、それだけのことで悪魔の力を使ったりはしないと思うよ、私だってそんな事で死なせたりしないから安心して」
「そ、そうかぁ……? いや、最近マキマさんなんか機嫌悪いって噂も聞くしよぉ……」
デンジは自分の小指をそっとさすった。最近のマキマの、どこかリードの切れた犬を見るような冷ややかな視線が脳裏をよぎる。やはり、マキマとの向き合い方を改めて真剣に考え直さなければ、自分の命が危ないかもしれない。
そんな風に一人でぶつぶつと悩むデンジの横を、アネモネはすれ違いざま、そっと囁くように一言を残していった。
「──いかなる偽物の中にも、必ず本物が隠れてる。覚えておくといいよ、デンジ君」
「え? 偽物? 本物ってなんのこと──あ、おい! 姉ちゃん!」
振り返ったときには、アネモネの姿は人混みの奥へと消えていた。
残された言葉の意味を計りかねながら、デンジは再び頭を抱える。せめて、こういう女絡みの面倒事に的確なアドバイスをくれるような、女の扱いに慣れた大人がいればいいのだが。
「おい、そこの」
不意に、低く冷徹な、しかしどこか色気を孕んだ声がデンジの耳に届いた。
「お前、公安のデビルハンターだろ。ちょっとこの魔人について聞きたいことがあるんだが」
声のした方へ視線を向けると、そこに立っていたのは、白い髪を無造作に伸ばし、右目に眼帯をつけた長身の女性だった。その背後には、彼女を信奉するように寄り添う数人の女性の魔人たちの姿がある。
デンジはその女性の顔を見て、ぱあっと表情を明るくした。
(お、おおう……! 好都合なところで、都合よく見っけ……!!)
彼女の名はクァンシ。
圧倒的な実力を持つデビルハンターであり、そして何より──デンジが知る中で、最も多くの美女(魔人)を従え、誰よりも女性の扱いが上手そうな人物であった。
「あのっ! クァンシ……だっけ? ちょうど良かった、俺、今人生最大の壁にぶち当たっててよぉ……ッ! ちょっと女のことで相談に乗ってくれや!!」
「……はあ?」
世界の終末の足音が近づく中で、デンジの個人的な恋愛の迷宮が、今新たなる局面を迎えようとしていた。
——
まずクァンシは近くの店で写真を見せる、それは……ここしばらくデンジもよく見かけている勇気の魔人であった。
クァンシはもともと中国にいるデビルハンターだが、彼の暴れっぷりを考えるといよいよ公安を通して日本まで派遣されてきたのだろう。
「お〜、あの優男じゃんか」
「勇気の魔人……通称ウルフリー、よりによってこんなつまらないモヤシ男を捕まえるために呼び出されて少々苛立っているんだ、何か知ってることを話せ」
「なんか英雄? っていう変なやつをぶっ潰してえとかで各地を回ってる変なクソヤローってことしか知らない」
「英雄……英雄か、世の中そんなの考えてもキリはないが……こんなものでもマシな情報か」
クァンシはデンジから勇気の魔人の話を聞いてそそくさと去ろうとするがデンジからしてみればそれどころじゃないので呼びとめる。
「いやいやいや俺ちゃんと仕事したでしょ、先輩として相談くらい乗ってくれよ」
「ハァ〜〜絶対嫌だ、こんなところまでわざわざ来て男の頼み事聞くなんてとても嫌だ」
「じゃあ……あ──そうだ、近くのレンタルショップでマキマさんの姉ちゃんが働いてるんだけどそいつを紹介するから」
「え? お姉さんとかいたのか……どんな見た目?」
「ちょっと細いけどツラぁマキマさんに負けてねえって感じ、コレ」
まさかのデンジはアネモネちゃんを売って交渉に出る、写真をクァンシに見せてみると……悪くないような、むしろ気に入った顔をしている。
なんてことはない……クァンシは女性だが性的趣向が女性寄りなのだ、かつての相棒が何度も何年もアプローチをかけても一切なびくことはなく、女性の魔人を愛人として何人も抱えているくらいだ。
「へぇ……かわいいね、レンタルショップの店員か……それで、こいつのことが好きなのか」
「いや違う、俺が好きなのはこっち……だけどなんかあまり見せたくねえなぁ」
改めてクァンシの性癖のことを考えるとレゼの写真を見せるのを渋りたくなるがなんとか見せると、クァンシは案の定こっちの方も悪くないなという顔をするのてちょっと嫌な気分、もしかしたらレゼも自分に対してこんな気持ちだったのだろうか?
「だが私は男女付き合いなど眼中にないから、お前の望む答えは出せないぞ」
「あ〜いやそれはいいんだよ、俺が聞きたいのはちょっと質問なんだが、意中の女がいるとして『浮気したら許さねー』的な発言されたらどうするのかなって、ほらいっぱい関係持ってるんだろ?」
「あ〜……そういう修羅場的な話か、言われたことあったかなぁ……あったかもしれない」
「その時はどうしたんだ? どっちか選んだのか?」
「どっちも好きなタイプで……どちらも文句のつけようがなく望むまで尽くし尽くされ、満足する結果に最終的に納得して好きになった、それで終わり」
「お、おお……参考にしていいのかよそれ、相手マキマさんだぞ……」
「え? この子かマキマかで悩んでいるのか……なら、私から言えることはここまでだ」
「この世でハッピーに生きるコツは、無知で馬鹿のまま生きる事」
そうして改めてクァンシは、去っていくが……デンジと話していく内に彼の中に違和感を感じてもいた。
……自分の事を知りすぎてないか?
そもそも初対面の自分を見てすぐに『クァンシ』と分かっていた、それどころか自分の傾向や複数の愛人を抱えていること……そして自分にこんな相談を持ちかけてきた時点で、まるでクァンシという人物をよーく把握しているかのように。
しかし自分の仕事は勇気の魔人ウルフリーを確保することだ……そんな時、クァンシの背中にぞわっとしたような感覚が。
「おっと、これは……」
まるで婦人のスキンシップ、あるいは社交ダンスのように巧みな手つきで手招きして掴んだのはマキマの手だ。
この手を離さないように、仕事ほっぽり出してこのままデートでもしたいかのように手を握るが……マキマとしてはそれどころじゃないようだ、相変わらずのポーカーフェイスだがどことなく圧力を感じる。
「少し、付き合って」
「嬉しいな……そんな提案断れない」
——
クァンシやアネモネに相談して色んなことが聞けたが、それがデンジの恋路に役立つかといえば、正直かなり怪しかった。というか、女を何人も侍らせて「満足する結果に最終的に納得させて両方好きになった」と言ってのけるクァンシは、どう考えても一般的な恋愛の参考にしてはダメな方の例だった。
とはいえ、レゼにははっきりとした答えを伝えなくてはならない。
答えを渋るために、あのお気に入りの喫茶店に足が向かなくなるのだけは嫌だった。悶々と悩みながら、ほんの少しの月日が経ち──デンジは意を決して、再びあのガラス扉に手をかけた。
カランカラン、と涼やかな鈴の音が響く。
けれど、カウンターの向こうからパッと顔を輝かせて手を振ってくれる、あの愛らしい少女の姿はどこにもなかった。
「あぁ、デンジ君。……これ、レゼちゃんから預かってるよ」
怪訝な顔をするデンジに、喫茶店のマスターが申し訳なさそうに一通の手紙を差し出してきた。
戸惑いながら封を切り、中に折り畳まれた便箋を開く。そこに綴られていたのは、あまりにもあっけない、事実上の別れの手紙だった。
手紙によると、レゼは海外から日本人を狙って財産を奪う、組織的な結婚詐欺グループの1人だったという。公安のデビルハンターであるデンジに近づいたものの、組織側にその素性が知れ渡ったことで、これ以上の深追いは危険だと判断し、一斉撤退が決まった。だから、デンジと付き合う理由もなくなってしまった──淡々とした文字で、ただそれだけが記されていた。
レゼに答えを出せないまま、もう二度と会えなくなってしまった。呆然と立ち尽くすデンジに、マスターは静かに慰めの言葉をかける。
「もしかしたらね……きっとあの子は、本当に君が好きだったのかもしれない。取り返しのつかないことになる前に、好きな男だからこそあえて素性を明かして、甘い夢だけで終わらない恋をしてほしい……そんな風に、彼女なりの優しさとして受け取ることも出来るんじゃないかな」
「……見てぇよ」
デンジは手紙を握りしめ、ぽつりと呟いた。
「せめて俺に夢を見せてから、いなくなってくれよぉ……っ」
もしもあの時、もっと深く彼女の領域に踏み込めていたら。もしかしたら手紙の通り、身ぐるみ剥がされて酷く裏切られるような結果になっていたかもしれない。あるいはその過程の中で、世界がひっくり返るような、爆発的で素敵な体験を得られていたのかもしれない。
だが、今回はそうならなかった。何かが動き出す前に、呆気なく幕が引かれた。それが、今ここにある現実だった。
──-
「あはは、そっか。あっけない終わり方だったね。別に構わないけど、慰め役が私で良かったの?」
「……他にいなかった」
「そっかー」
日の落ちた街、デンジはまたアネモネと一緒に過ごしていた。
もうレゼには二度と会えないのかもしれない。けれど、凄惨な死が当たり前のように転がっているこの時代や、アネモネが予見した恐ろしい未来を思えば、どこかで生きていて、死んでしまうことがないだけまだ良かったのかもしれない。こんな呆気ない結末になってしまうこともまた、何かの巡り合わせなのだろう。
けれど、デンジの胸の中には、どうしても消えない澱のような疑問が残っていた。
結局、レゼは本当に自分のことが好きだったのだろうか。それとも、全部が精巧に作られた嘘だったのだろうか。
物思いに沈むデンジに、アネモネはかつて路地裏で告げたあの言葉を、もう一度優しく贈る。
「いかなる偽物の中にも、必ず本物が隠れてる。……これね、私が好きな映画に出てきた表現なんだ」
アネモネは夜空を見上げるようにして、その物語を語り出した。
「不器用で人嫌いの老人が、人生の終盤で愛というものを知ろうとするの。でもね、相手は結婚詐欺師で、最終的に老人は全てを奪われてしまう。すごく悲しいストーリー。だけどね、全てを奪われることになっても、老人は愛を知ったことを諦めなかったし、彼自身が抱えていた頑なな問題は、その詐欺劇を通して少しずつ改善されていたんだよね」
「……カワイソ~な映画なんだな。何が面白いの、それ?」
「そうだね」
アネモネは小さく微笑み、デンジの顔を覗き込んだ。
「でも、もうひとつだけ、この映画には印象深い単語があるよ」
一拍置いて、彼女は囁くようにそのフレーズを口にした。
『贋作士は、作品に己のマークを残したがる』
あの時、レゼがデンジに残したあの手紙。
それは、仕掛けられた壮大な詐欺計画を途中で中断させてまで、どうしてもデンジの心に刻みつけたかった「贋作の証明(マーク)」だったのだろうか。
それとも──すべてを偽物で塗り固めた彼女が、人生で唯一遺した、不器用な「本物の愛」の印だったのだろうか。
答えはもう、あの夜風の中に消えて、誰にも分からなかった。
そうしてアネモネに色々付き合ってもらい、もうちょっとしたらアキに連絡してもらって帰る時が来るがもうしばらくはここにいたいという気持ちで甘えてしまう。
今回は……アネモネもデンジの事を弟のように甘えるのを許して夜道を歩いていると、目の前からシルエット越しに二人の女性の影……そこに居たのは、マキマと共に夜道を歩いているクァンシだった。
「おっ、マキマさん……デートですか」
「そうだ……そちらも、そこのお嬢さんが話に聞いたお姉さんか」
「ん~デンジ君この人に私の事教えたの? この人はね……」
「中国から来たデビルハンターだろ、人選ミスったような気がしないでもないがまぁ参考にはなった」
クァンシの狙いはわかる、アネモネちゃんだろう。
勇気の魔人のことはいいのかと言ってやりたいかもしれないが自分もそれどころじゃないので黙っていると……マキマはデンジの目の前でそっとポーズを取ると……。
「ばんっ」
それがデンジの最後に見えた景色だった。
——
「デンジくん、おはよう」
「ん……ああ、レゼか?」
そうしてデンジが目を覚ました先には、ボロい一軒家でレゼの姿が……デンジは少し薄い布団をどかしながらレゼの方を見る。
「あーわりぃ、朝飯もう出来てるのか?」
「大丈夫だよ全然冷めてないから」
「おうそっか」
レゼとデンジ、二人気りで仲良く過ごしているんだ……これが幸福、これが愛……そしてこれが、恋愛?
デンジはレゼの方を見てゆっくりと微笑みながら……一言つぶやく。
「なあレゼ、愛してるぞ」
「もう何? デンジくん、そんな事急に言い出して……知ってるよそんなこと」
「ああ、そう言ってくれるのは都合がいいよなぁ……ただなぁレゼ、俺はせめてこれくらいの言葉くらいは残したかったんだぜ」
「……そっか」
レゼは結婚詐欺師なんかじゃない。
ましてやデンジのことをどれだけ愛していたのもデンジには分からない。
だが、デンジの知っているレゼとは……クァンシと同じようなものなのだ。
「ありがとよレゼ、途中でお前に会えると思わなかったけどちょっとは良い夢見れたぜ」
「デンジ君……どうしたの?」
「ちょっとだけでもお前と何かやれてよかったっていうか……なんというか、上手くいいずれぇんだけど……レゼ、お前はあっちで生きてんだよな? 死んでるかもしれねえけど……なぁ」
「けど……俺、行かなきゃ」
「何言ってるのデンジくん、もうどこにも行けないんだよ……?」
「……まあ、普通はそうなんだけどな」
デンジはレゼに手を引かれ、扉の先へ……そうして、ゆっくりと閉じて最後には何もなくなる。