「ごきげんよう姉さん、モーニングコーヒーはいかが」
「痛い痛い、お前姉さんとか言うタイプじゃなかっただろコーヒーくっそ熱いしコーヒー剣作れない」
朝起きてすぐに、マキマは戦争の悪魔が寝る間際に言ってたことを思い出してコーヒーを顔面にぶっかけていた、最悪なモーニングコールである。
それはそれとしてマキマはいつも通りデンジのところにいく。
「今度は何をするんだ?」
「さあ……時には見方を変えてみるよ」
それだけ言ってマキマは元の部屋へ。
「バタフライエフェクトって知ってる?」
公安の片隅、いつもの気だるげな空気の中で、姫野がふと煙草の煙と一緒にそんな言葉を吐き出した。
休憩中のデンジは、コーラの缶を片手に首を傾げる。
「ばたふらい……? 蝶ちょだろ? 知ってるぜ。エフェクトってのは何だ? 必殺技の名前か?」
「あはは、おしい! でもちょっと違うかな」
姫野はクスリと笑うと、煙草を灰皿に押し付けながら説明を始めた。
それは、ほんの少しの最初の前提を変えるだけで、後々になってとんでもなく大きな変化を与えていくという不思議な現象の話だった。例えば、一匹の蝶々がほんの少し羽ばたいた程度の小さな風が、巡り巡って地球の裏側で巨大な竜巻を発生させる……そんな例え話からついた名前なのだという。
「へぇー……。じゃあ、なんか悪いことが起きてもちょこっと変えときゃ、未来がすげぇハッピーになるってことか?」
「それがね、大体はいい方向には転ばないの。この概念で語られるお話って、良かれと思って過去や前提を変えた結果、未来がもっと最悪な方向に変わっちゃうっていう、ネガティブな方向性が多いんだよね」
デンジは眉をひそめ、納得がいかないという風に唇を尖らせた。
「なんかその考えは腑に落ちねぇよなぁ。せっかく上手く改善させたのによ、なんで余計にダメになる必要があるんだ? 頑張った意味ねぇじゃん」
「普通はそう思うよね」
姫野は顎を引いて、少し寂しげに微笑んだ。
「漫画とかによくある『破滅的な未来を変えるヒーロー』の努力を、根本から全否定してるみたいだしさ。……でもね、これ、うちにとっても他人事じゃないからね」
「……そうなの?」
デンジが目を丸くすると、姫野は急に真剣な顔付きになり、周囲に他のデビルハンターがいないかを入念に確認した。そして、声を一段と潜める。
「いい? 今から話すことは、アキ君にも他の誰にも絶対に秘密。約束できる?」
「おう、秘密は守る男だぜ、俺は」
ゴクリと唾を飲み込むデンジに、姫野は満足そうに頷いて語り出した。
それは彼女が偶然……自分がこの四課に配属されるよりもずっと前に、公安の奥底で作られたであろう古ぼけた秘密資料を発見した時の話だった。
「その資料の内容がさ……まるでタイムマシンのようなものを使って、事前に未来の歴史を見て、数十年後に起きる脅威に備えて対策を立てている……なんて段階の計画だったのよ」
「タイムマシン!? すげぇじゃん、そんなのあるのかよ!」
「さあね? 資料は古いし、今はどこかに放置されてるみたい。だけど、その計画は『現在進行形』で今も裏で動いてるって見ていいと思う」
「なんでだよ? 打ち切られたんだろ?」
「名前こそ大部分が隠蔽されてたけどね……」
姫野はデンジの耳元に顔を近づけ、吐息混じりに囁いた。
「プロジェクトの参加者の中に、マキマさんと、それから君やアキ君からよく聞いてたアネモネちゃんの姿があったんだよ。あの二人が『姉妹』だってこと、これで改めて確定的になっちゃった」
デンジの脳裏に、いつもミステリアスなマキマの笑顔と、先日唐突に隕石を降らせて怪獣を唐揚げにしようと言い出した規格外の少女・アネモネの姿が浮かぶ。
「そっちからアネモネちゃん辺りに甘えて直接聞けば、何か教えてくれるかもしれないけど……。恐らく周囲には絶対に漏らしちゃいけない、国の一大プロジェクトなんだと思う」
姫野はふぅ、と小さくため息をついた。
「私の本題はここから。……ねえデンジ、ここ最近、数日規模で色んな異常事態が起きてるでしょ? こないだの巨大な怪獣の騒ぎだってそう。時に悪魔の仕業とは到底思えないような、世界のルールそのものが狂ったような出来事の数々……。それってさ、彼女たちが未来を変えようとして何かを弄った結果、引き起こされてる『バタフライエフェクト的な現象』なんじゃないかなって」
世界の裏側で、誰かが良かれと思って歴史を書き換えている。その歪みが、別の形となって今、デビルハンターたちの前に現れているのではないか。
「……まぁ、そんな影響があったからこそ、そのタイムマシンの記録は抹消されたのか。あるいは普通に計画が上手くいかなくて、ただの打ち切りになったって可能性も高いんだけどね! 変なこと言ってごめんごめん、気に留めないで!」
姫野はいつもの軽い調子に戻ると、ポンとデンジの肩を叩いて、そのまま喫煙所を去っていった。
一人残されたデンジは、ぬるくなったコーラを飲み干す。
バタフライエフェクトの意味は、正直まだよく分からなかった。未来を良くしようとして余計にダメになるなんて、やっぱりバカげているとも思う。
(だけど……マキマさんとアネモネちゃんが、そんな凄い資料に載ってたのか……)
マキマの秘密を知りたいという純粋な下心と、世界の裏側に隠された謎への好奇心が、デンジの胸の中でちいさく弾けた。
「……よし、俺もその古ぼけた資料ってやつ、ちょっと探してみるか!」
デンジはニカッと不敵に笑うと、姫野に口止めされていたことなど半分忘れ、公安の地下へと続く怪しい通路へ向かって、軽い足取りで歩き出すのだった。
——
デンジは面倒なアキに見つからないようにしながらぶらぶらと公安の中を歩き回って見て、ようやく汚らしい人の痕跡も少ない部屋に入った、姫野のことだから酔った勢いでこの部屋に迷い込んだものだろう……だって、すぐに手形のついたきったねえ資料を発見した。
「間違いなくコイツって感じだな、えーとタイムマシーン……」
しかし当然だがデンジには内容がわかるはずもない、漢字が多すぎて完全に読めないのだから。
「おっと、懐かしいものがあったな」
「あっやべ」
デンジは後ろに誰かいることに気づく、警戒する……そこにいたのは戦争の悪魔……そう、あのプロジェクト資料をよく見てみると確かにマキマ、アネモネと同じく……彼女も写真が残っている。
つまり彼女もまた関係者らしい。
「もしかしてこいつを見に来たのか?」
「おお、つっても俺全然わかんねえから見に来てもさっぱりなんだけど」
「だらしないな……おい、私に見せてみろ」
デンジは戦争の悪魔に資料を見せるが、自身ありげだった彼女も途端に眉をひそめる。
「アイツら……なんで英訳してないんだ、おいこいつちょっと英語にしろ」
「もっとわかるわけねぇよ英語なんて」
「文明の利器舐めんな! ちょっとスマホを通してAIに翻訳してもらえばいいだけだろうが馬鹿がよ!」
「そもそも読めなけりゃどうやって打てばいいかわかんね〜だろバーカ!!」
なんとも低レベルなケンカを二人で繰り広げているのだが、そんな喧嘩に駆けつけてくるように更に重い足音が。
「おっと見つけた、こんなところで何をしているのかな」
「ぐっ……ま、マキマ……!!」
戦争の悪魔の頭をがっちりと掴み、いつの間にかマキマが後ろにいた。
マキマは、その時実際に自分が何を見ていたのかを、既にほとんど忘れてしまっていた。
確かに一度、彼女たち4人は「今」から見てもまだずっと先の未来を見に行き、そこに待ち受ける破滅的な予兆を事前に対策するための計画を行っていたはずだった。
しかし、現在の状況はといえば、それどころではない。かつて裏でひっそりと活動していた悪魔という存在は、あの『銃の悪魔』の襲撃を皮切りに、今や全面的にその活動を爆発させていた。
公安は組織の拡大を余儀なくされ、大々的なデビルハンターの集団へと変貌。
目の前の脅威を処理するだけで手一杯になり、誰も彼もが、将来の懸念に目を向けていられないほどの忙しさに追われる日々となっていた。
だが、そんな中でデンジにとってどうしても気になるのは、実際にずっと先の未来でマキマたちが一体何を見てきたのか、ということだった。
この決定的な情報が公安の内部に広まらなかったのは、それだけマキマが忘れるのも早かったからに他ならない。しかし、彼女の横で頭をがっちりと掴まれている戦争の悪魔は、その記憶を鮮明に覚えたままだった。
「おい、離せマキマ……! 貴様が忘れたというなら、私がこの男に直接説明してやる!」
戦争の悪魔は忌々しげにマキマを睨みつけ、それからデンジに向き直って語り始めた。
「少なくとも私たちがその未来に見に行った時、この周囲の都市は完全に荒れ果て、壊滅的な危機に瀕していた。そして、歩いてすぐの場所に……全長何十メートルという、到底人間には扱えないような巨大な『剣』が突き刺さっていたのだ。それだけではない。影越しではあったが、実際それほどの規格外の巨体を持つであろう『巨大な存在』をも、私たちは確かに目撃している」
そこまで語ると、戦争の悪魔はふん、と鼻を鳴らした。
その未来からの帰還後、彼女たちはそれぞれバラバラの道をまた歩み始めたのだという。
アネモネは、前々から訪れると危惧していた恐怖の大王『ノストラダムス』を警戒し、その復活阻止を目的に、各地で悪魔を集めながら独自の活動を続けていた。
一方で戦争の悪魔は、すぐさま本拠地である米国に戻ると、新しい眷属を作るために『スーパーロボット』の開発を裏で着々と進めさせていた。
しかし奇妙なことに、どちらの活動も、ここしばらくこの街で起き始めている「悪魔以外が絡むような奇妙な事変」とは、今のところ全く縁がないままであった。
確定した未来を変えるために、過去にある怪しい不確定要素を断ち切ろうとする。
その試みは、先ほど姫野が口にしていた『バタフライエフェクト』の網に嫌でも引っ掛かりそうな危うさを孕んでいる。だが、戦争の悪魔にとっては、今さらそんな理屈はどうでもよかった。彼女にとって本当に容認できないのは、別の事実だった。
「……私たちはここに遺されたタイムマシンを既に発見している。だがな、これには『何回も使用された痕跡』が残されているのだ。おいマキマ、ここでそんな真似ができる奴など、たった一人しかいない。あのキガに、そこまで大それたことをやる理由も度胸もないからな……。これほどの回数を使えば、世界に致命的なバタフライエフェクトが起きてもおかしくはないぞ」
話の規模が大きくなりすぎ、デンジは眉をひそめて首を傾げた。
「……なぁ、さっぱり分かんねぇんだけど、マキマさんが一体何をやったって言うんだ?」
「少し難しい話になるからな、分かりやすくかいつまんで話してやろう」
戦争の悪魔はマキマの拘束を強引に振りほどくと、冷酷な笑みを浮かべて解説を繋げた。
マキマは元より、チェンソーマンが持つ「悪魔ごと概念を消滅させる力」を利用し、この世にあってはならない不必要なものを消し去ろうと画策していた。
そんな折に、彼女は旧時代に使われていたいわゆる『タイムマシン』を発見した。
そしてあの未来視の実験が成功したことで、マキマの中でひとつの前提が覆り、確信へと変わったのだ。
——わざわざ今ここで苦労せずとも、チェンソーマンに手を借りられる「条件」を、過去に遡って整えればいいのだ、と。
「ああ……つまり? 俺と出会うずっと前の、ポチタの方に目をつけたってことか?」
「そうだ。少なくとも、そいつがお前の心臓になるどころか、生まれる前にでも接触しておけば事は済むからな。大方、そうして何度も昔の時代まで飛んではチェンソーマンを探し出し、現世の面倒な概念を消させてきたのだろう」
アーノロン症候群、比尾山大噴火、超理構築計画……。
かつて世界に存在し、今は誰も覚えていない数々の概念が、そうして歴史の彼方で消し去られ、その改変の結果として現在の世界が形作られている。
しかし、このあまりにも都合の良いやり方には、ひとつだけ致命的な欠陥が残されていた、それはデンジという存在そのものが、遡れる歴史の限界点(ストッパー)になってしまっているということだ。
「それなら俺も聞いたことあるぜ。タイムパラドックスって奴だろ?」
「その通りだ。この手段を使ったマキマが破綻なく元の時代に帰ってくるためには、お前がチェンソーの悪魔と契約し、公安に所属したという『確定した事実』が絶対に崩れてはならない。つまり、お前が生まれて以降の出来事には、こいつであっても直接介入できないという仕組みになっているわけだな」
その制約の中で、マキマは数多くの悪魔を概念ごと消し去ってきた。
それによって引き起こされる歴史への影響は、バタフライエフェクトという言葉すら生ぬるいほどの歪みを生む。
公安の内部で最近起きていた不可解な事件や、デビルハンターたちの会話に混じる強烈な違和感。それらを敏感に察知したからこそ、戦争の悪魔はこうして資料を漁り、マキマの動向を隔離するように見張っていたのだ。
「だがマキマ、近頃のお前の動きは明らかにらしくないぞ」
戦争の悪魔は、じっと黙り込んだままの支配の悪魔を指差した。
「残してもいいはずの、余計な概念まで消滅させていないか? 一回こいつ(チェンソーマン)がゲロを吐いて全部吐き出したから事なきを得たが……お前の冷徹な合理性なら、少なくともあの『メロンの悪魔』をわざわざ消滅させるような、無意味な真似はしなかったはずだ」
沈黙が部屋を支配する。マキマの表情は、どこか遠くを見つめるように虚ろで、自らの記憶の整合性を確かめるように微かに視線を彷徨わせている。
その様子をじっと見ていたデンジは、ふと頭に浮かんだ素朴な疑問を、そのまま口にした。
「……なぁ。もし本当にマキマさんにその覚えがねえんだとしたらさ。やっぱそのタイムマシン、マキマさんの他にも『使えたやつ』がいたんじゃねえの?」
「何? 使えたやつが他に……? そんなの、例えば誰がいるという?」
「ほら、同じくチェンソーマンの力で英雄? だかを消したい奴はいたじゃないですか、あの勇気気取りの優男とか」
「ああ、勇気の魔人のことを言っているのか……しかしアイツは尚更無理だぞ……?」
「なんで? 英雄って奴は大昔にこそいるだろ、俺だって教科書で見たぜ、クレオパトラとかジャンヌ・ダルクとかいい女の英雄がなぁ」
「確かにやりそうなことではある、問題は『あいつは時間を超えられない』事にある」
「時間超えらんない? あいつはむしろ勇気の力でそのへんを解決しそうなもんだけどなぁ」
「いや、それ以前の問題で……」
しかし話している暇はないことを知らされた、古臭い電灯が付いて後ろにはアキを筆頭に数々のデビルハンターの姿が……戦争の悪魔がここに来ている時点で察するべきだったが、こいつが野放しになっている時点で緊急事態が既に発生していることになる。
「げっ、アキ輩!! いつからそこに!?」
「そうだな……連行することになるが縛る前に考えておけ」
「れ、連行ォ〜!? 俺はちょっと探し物してただけで!」
「心配するな、罰は避けられないが……お前の命は保証される、ただしマキマさん、今回は貴方でも免れない事があると上からの報告です」
「……まあいいか、それはしょうがないね、せっかく回収したタイムマシンはどうなっちゃうのかな?」
「それは……得体のしれない物なこともあり、破壊するという方向で既に決定が決まっているので……」
「そっか、壊しちゃうんだ……まあしょうがないよね、アレは本来私たちの時代にあってはならないものではあったし」
マキマはすんなりと諦めたかのように公安4課の人々に連れて行かれてしまう。
デンジとしては縄でぐるぐる巻きにされながらも、この結果を受け入れるしかなさそうだ、マキマがあんな正直に言ったのだからこっちだって同じようなものである。
しかし……デンジがぽつりとつぶやいたその時だった。
「こいつもまた……バタフライエフェクトってやつなのかなぁ?」
「バタフライエフェクト」今日のデンジにとってずっと離れられないキーワードとなった用語だが……戦争の悪魔としてはその言葉を聞いて何かに気づいたように顔が青くなる。
「ま……待て、そうだ、バタフライエフェクト……お前、アレだけ過去を変えたんだ、今更反省したところでもう、手遅れっ……」
「うんそうだよ、悪魔の概念を頑張ってまた消し直したんだから……」
マキマは……笑っていた。
「どうしても私は未来を変えたかったんだ、それがたとえバタフライエフェクトのような破滅的な結果を生じるものであったとしても……過去だけでチェンソーマンの力を使うには、まだまだ世界は不安定だ」
「い……いやちょっと、マキマさん?」
その時だった、空間に亀裂が入る。
この世界の前提が、タイムラインが……まとめて粉々のグチャグチャに壊れてしまいそう。
それだけではない、4課のデビルハンター達もたちまちノイズのような姿になっていき、いつ消えてもおかしくなさそうな状態に成り果てていく。
マキマは手を振ってデンジの方を見る。
「ごめんねデンジ君、今回はやり損なったし、もうアレは使えないようだけど……」
「次はもっとちゃんと、君自身をちゃんと満足させられるような未来にはしておくからね」