季節外れの激しい吹雪が、東京の街並みを容赦なく白く塗りつぶしていく。
猛烈な気温の低下。公安本部の重厚な扉は固く凍りつき、どれほど暖房を焚こうとも室内から熱が失われていく。生命の灯火を削り取るような絶望的な寒さが、建造物全体をすっぽりと包み込んでいた。
——『冬の悪魔』。
かつて皇帝ナポレオンの遠征をも途上で挫き、敗走に追い込んだ元凶たる氷と雪の悪魔。
歴史の中で幾度となく人間や野生動物の命を奪ってきた、根源的恐怖の一角である。
死の悪魔であるアネモネが公安の厳重な施設に隔離されて間もなく、その圧倒的な厄災は東京へと姿を現した。
最奥の隔離室。冷たい空気の中で、アネモネは静かに声を漏らす。
「あれは私の契約していた悪魔だよ、凍死という観点から私と縁があったの、私は何ともないって伝えたいから外に出して」
しかし、監視役の背後に立つマキマの返答は短く、冷ややかだった。
「いいえ」
アネモネの処遇は、同じく拘束されている戦争の悪魔以上に徹底されていた。
万が一にも彼女の存在そのものが完全に消滅してしまえば、世界に与える犠牲と影響は未知数かつ莫大なものになる。そのため、一切の抵抗ができない程度に生かすことだけは怠らないものの、決して誰かの介入を許さず、外の世界に触れさせることもない。完全な隔離。
アネモネには分かっていた。マキマが自分を冬の悪魔に会わせるつもりなど毛頭ないことを。
それどころか、何かの機に乗じてチェンソーマンの力により『冬の悪魔』そのものを喰らわせ、この世から消滅させるつもりなのだということを。
(そんなことになれば、四季は三季になってしまう……)
最悪の場合、連動して人間から「寒い」という概念や感覚すらまとめて消えてなくなるかもしれない。
冬の悪魔側が提示してきた要求は二つ——「死の悪魔の解放」、あるいはそれが拒まれるならば「一週間の居座り」。
だが、公安四課にその妥協案を飲んで降伏する気などない。徹底抗戦の構えだ。しかし、一週間もこの吹雪と絶対零度の世界に晒されれば、日本は事実上の氷河期へと変わり果ててしまうだろう。
アネモネを完全に閉じ込めたままにするのではなく、顔を一瞬見せるだけでも交渉や引き延ばしの作戦に利用できるのではないか——そんな思考が、張りつめた空気の中を交錯する。
「マキマさん、別にアネモネちゃんと話しさせるくらいならいいんじゃねえです? ほら、最近だとリモートとかあるでしょ」
デンジが提案したその時……その時、静寂を切り裂いて、銃声のように鋭く重い一撃の音が叩きつけられた。
物理的な衝撃がデンジの頬を殴りつけたのだ。
デンジは、アネモネが「死の悪魔」であることを前から知っており、意図的に周囲に隠していた。
それだけではない。アネモネはこの激動の最中にも『落下の悪魔』という別の根源的恐怖の悪魔まで抱え込んでおり、挙句の果てにはこの直前で、最後に残された『支配の悪魔』を引きずり出そうとすらしていたのだ。
そして何より——デビルハンターをやめた後に「ぬいぐるみ職人」になろうなどという呑気な未来を思い描く余白が、今の公安の状況において許されるはずもなかった。
「デンジ君はいつから先の先の先の先の事まで考えられるほど頭を働かせるようになったのかな、私が手を握っている物も忘れて」
マキマの静かな声が、凍りついた廊下に響く。
デンジは今の自分の立場を痛いほど理解していた。
だからこそ、叩かれたこの「結果」も、この先の世界に訪れるであろう悲劇も、すべて受け入れる覚悟で黙っていた。
どちらにせよ、自分にできることなど何もない。ただ静かに物語の顛末を見送るだけだ。
己の選択が吉と出るか凶と出るか、それすらもこの吹雪に閉じ込められたたった一週間の中で決まる。
公安の周囲はすでに完全に凍結し、一歩たりとも動くことすらできないのだから。
「何も……そこまですることはないじゃないですか!?」
不意に、アキが叫び声を上げていた。
一見すれば、指示を破り隠蔽を行っていたデンジに対し、マキマが当然の「罰」を与えただけに過ぎない。デンジ自身も納得してその一撃を受け入れている。
それなのに、アキの目にはどうしようもなく異様に映っていた。
ほんの少しでも加減が狂っていれば、デンジの首が骨ごとへし折れていたのではないかと思われるほど、その一撃にはあまりにも痛々しく、冷酷な重みが宿っていたからだ。
——
「……なんであんなこといったわけ?」
「今になって見れば……俺にもわからない、ただ……怖かったのかもしれない」
この震えが寒さでかじかんでいるのか、なんらかの精神的なプレッシャーによるものなのか、まだ分からない。
……何故自分はあんなに必死になったのか? デンジが危ない気がしたのは嘘と言わない、それでも……。
「……マキマさんがあんなことやるところ、初めて見たからかな」
「まあ俺の場合それだけクソだったことは否定できねえよ、そのまま雪の中に捨てられなかっただけ優しいと思うぜ」
デンジはまだこういうところで思考がバグっている……正気じゃない、こんな命がどんどんすり減りそうな中で根源的恐怖の悪魔と戦うなど……冬の悪魔が居座るということは緩いことじゃない。
気温が落ちれば落ちるほど冬の恐怖は強くなる、つまり簡単に言えば長期戦になるほど冬の悪魔は強くなる。
そんな簡単なことでさえ気づかない奴が生き残れるとは思えない……だがアキが本当に心配しているのはそんなことじゃなかった。
「あのマキマさんが……本当に殺しかけたんだぞ、お前の木と」
マキマはこれまで人を殺したことは一度もない、敵でも味方でも。
いくら何をやらかしてもどんなことをしでかしても、命令違反を犯して逃亡しようとした奴も殺しはしなかった、なんというか……下手に殺すよりヤバいことをする。
しかし……今の一発は「別」、明らかに「違う」、ストレートに人殺しが前提の一撃だったのだろう、ただの『攻撃』がマキマから飛んできたことが、アキにとってそんなマキマの行動は不可解に違いない。
「……あれでよく平気でいられるな」
「俺も色々慣れてきたのかもな、マキマさんの手にかかって死ぬのも……そんなに悪い話じゃねえと思うしなぁ、少なくともこうやってガタガタ震えて凍っちまうよりは」
吹雪の勢いは増す一方だ、もう雪に埋もれたところさえ見えない。これでは時間の問題……だ。
既に建物を覆う氷は身動きひとつ取れないほど成長していた。窓一枚の隙間からも、冷気が容赦なく侵入してくる。
このペースで進めば、一週間など待つ必要さえない。一日目で彼らは壁際に追い詰められ、二日目には床をも超えて迫ってくる。三日目には呼吸の合間すら奪われるだろう。
アキはふと疑問に思った。「そもそも、なぜ我々がここまで封鎖されているのか」と。
このまま雪に閉ざされ続ければ、公安のみならず日本そのものが致命傷を負いかねない。それほどの相手に対して、なぜ積極的に仕掛けようとしないのか? なぜ『チェンソーマン』というカードを使わず、ここでじっと耐えることを選んでいるのか?
アネモネを捕まえた際に概念を消し去るということまで……アキ達公安にバレてるのだ、マキマが隠す理由などない。
「……チェンソーマンが弱体化している?」
いや、違う。むしろ逆だ。
マキマは——チェンソーマンを、何よりも信頼している。
デンジが無意味に殴られることで、ほんのわずかにでも血を流せば、それを媒介に例の悪魔が目覚める可能性がある。
考えてる中で連絡が入る……公安にしか繋がらないので相手は当然公安絡みで……送ってきたのは戦争の悪魔だった。
『暇だったからモールス通信機を改造していたらこれだけでスマホ並みのメールを送れるようになった、冬の悪魔を倒すんだろ、来い』
「……どうする?」
「今はどんなやつでも頼れるなら頼っときましょうよ」
このまま寒い中で過ごすよりは何かしらヒントなり貰ったほうがいいだろうと……目的地は戦争の悪魔のいる地下シェルターへ。
地下まで行っても冷気が入ってくるかのように冷え込んでいる中……地下で戦争の悪魔が待機していた。
何を武器に変えたのか知らないが周囲の兵器からガソリンを取り出して、それを燃やして暖を取っているので端から見たら放火魔にしか見えない。
「来たか、開幕早々だが冬の悪魔を倒したいなら私にチェンソーの悪魔の心臓をよこせ」
「なんかこの手のやつ久しぶりに聞いたけどやっぱそういうヤツばっかだよなぁ……」
ここのところ色々ありすぎて忘れかけているがデンジ(というよりポチタ)の心臓を狙う刺客が山程いた、運命が違えば彼女もそうだったのかもしれないがそういう事も色々あってか一時期は俺が知り合う女が皆殺そうとしてんだけどって気分にもなる、どいつもこいつも心臓が存在価値かよ。
「なんて顔してるんだよ、日本でお前を本気で愛してくれる男いると思っているのか?」
「……そりゃあ現状は一人いたよ!」
「……………………外国人だしその人結婚詐欺師だったけど!」
人には誰にも触れたくない闇がある、そこはどうでもいいとして暖を取りながら戦争の悪魔は……マキマやチェンソーマンの話をする。
「お前達悪魔のほうが詳しいから聞くが、チェンソーマンというのは……今のデンジの心臓代わりになっているそいつの本来の姿なんだな?」
「俺はずっとポチタの姿しか見たことねえけどな」
「そうだな、奴の能力も聞いたとおりだろう……私からすれば、チェンソーの悪魔が人間とそこまで仲良くしていたことが不思議なものだが……」
一言で表すなら、チェンソーマンという存在はこの世全ての物を区別なく消し去ることが出来る悪魔達の中でも異端、地獄から舞い降りたヒーロー。
公安で言えばビームのように、チェンソーマンに心酔して慕う者もいるくらいにはカリスマもあるようだ。
そして……それは自分たち黙示録四騎士の悪魔たる姉妹も認知している。
「私も何かと戦争したときはよくアイツに概念を食われて我が子を奪われたな、本能寺の変なんかはアレのせいでうつけ者が何も残さず死ぬ羽目になった」
「じゃあ、アネモネちゃんもそれで俺に近づいたのか?」
「あいつもあいつで異端な姉貴なんだよ、心臓も欲しいだろうがお前とも必要ないくらい仲良くしていた……予言の悪魔なりを消してもらえばすぐに終わることなのにな」
戦争の悪魔は他人事みたいに死の悪魔のことを語っている、悪魔も悪魔なりに厄介な事情や個人的な鬱憤があるのだろう。
しかしアキが気になるのは……支配の悪魔について。
「支配の悪魔のことか? お前はどう聞いている?」
「ああ、確かマキマさんが唯一契約している悪魔で誰も姿を見たことがない……お前達の末っ子だろう」
「そうだ、そしてお前が想定する上で厄介な答えを教えてやろう」
戦争の悪魔は……気がつけばアキの目の前で金色の瞳を光らせて恐ろしく囁く。
「支配の悪魔は私が知る中でもっともチェンソーマンを崇拝している……」
──ー
「チェンソーマンはね」
「服なんて着ないし」
「言葉を喋らないし」
「やること全部がめちゃくちゃでなきゃいけないの」
──ー
「いや……あれはもはや盲愛か」
「ああ、それと──支配の悪魔の本体は、今のマキマと瓜二つの姿をしている」
戦争の悪魔がさらりと口にしたその言葉は、アキの思考を瞬時にフリーズさせるのに十分すぎた。
支配の力とは、本質的に『権力者』の力だ。
自分より身分の下にある存在を完全に支配し、巧みに操るためには、確固たる身分や立場を構築するか、あるいは既存の権力者を乗っ取り、模倣する必要がある。
アキやデンジたちがこれまで接してきた「マキマ」という女性。彼女は支配の悪魔が表舞台で自由に、そして合法的に動くために用意された、言わば『影武者』に過ぎないというのだ。
もちろん、マキマ自身の意志や感情で動いている部分も多分にある。しかしその本質は、悪魔が人間に紛れるための精巧な器だった。
(まさか……今日、デンジを殺す勢いで頬を叩いたのは……)
アキの脳裏に、先ほど廊下で繰り広げられたあまりにも異常な光景がフラッシュバックする。
マキマはこれまで、敵であろうと味方であろうと、人を「直接殺す」ような真似は決してしなかった。
どれほど重篤な命令違反を起こした者であっても、悪魔やなんらかの代償を用いて介入出来ないところから始末する……あるいはただ静かに、下手に殺されるよりも遥かに恐ろしい何かへとおとしめるだけだった。
だが、あの時の一撃は明らかに異質だった。手加減の手の字すら存在しない、ストレートな殺人前提の攻撃。
見ていなかったのではない、あまりの日常の延長線上に、気づけなかっただけだ。
どれほどの周期で、どのような条件でかは分からない。
だが──『マキマ』と『支配の悪魔』は、我々の知らぬ間に頻繁に入れ替わっていたのではないか?
もし仮に、一番最初、ゴミ捨て場の近くでデンジを見つけ出し「飼う」と宣言したのが支配の悪魔で……。
デンジとアキを同居させ、チームとして組ませたのが人間としてのマキマだったとしたら?
影武者と本体……しかしその二者は、まるで同じ思想と目的を寸分狂わず共有した『双子』のようであり、同時にデビルハンターとしても悪魔としても、技量も器もあまりにかけ離れている。底知れない深淵を覗き込んだような寒気が、アキの背筋を駆け抜けた。
「……マキマさんの方は、俺とチェンソーマン、どっちが好きか分かるか?」
静けさを破ったのは、暖炉代わりに燃やされたガソリンの炎を見つめるデンジの呑気な声だった。
「さあ? 普通にチェンソーマン寄りじゃないの」
戦争の悪魔は呆れたように肩をすくめる。デンジは「ふーん」と顎を擦りながら、どこか遠い目をした。
「ポチタってそんなに昔、イケメンだったのか?」
「顔の問題じゃないだろ……」
思わずアキは呆れ半分でツッコミを入れたが、心の中の重圧は増すばかりだった。
誰もがチェンソーマンの力を欲している。
支配の悪魔の真の目的は、チェンソーマンが持つ『食べた悪魔の概念をこの世から消し去る力』を利用し、この世界に存在しない方が良いとされるあらゆる悲劇や悪を根絶すること。
その目的を果たすためなら、支配の悪魔はあらゆる権力、技術、犠牲を厭わず、チェンソーマンの真の姿を地獄から引きずり出そうとするだろう。
そして、ここ最近の異常事態の多発。
支配の悪魔も、マキマという影武者を通してその絶大な力を存分に行使している。だが、それと引き換えに刻一刻と迫っているのが、SSSのテロを未遂に防いだ件もある最近公安内部で囁かれている『タイムリミット』の存在だった。
『7000』。
それはあの事件以外でも支配の悪魔にとっても極めて重要な意味を持つ暗号とアネモネは言っていた。
デンジやアキといった普通の人間には見ることも触れることもできないが、特定の『数値』が7000に達した瞬間、公安は確定した破滅を迎えるという。言わば、世界の破滅へ向かって蓄積されていく悪魔的なポイント制のようなものだ。
そしてその数値は、契約者であるマキマや支配の悪魔本人でなくとも──黙示録の四騎士という『姉妹』である戦争の悪魔の目には、はっきりと視認できていた。
「……じゃあ聞くが、今その数字はどのくらいになっている?」
アキが押し殺した声で問う。戦争の悪魔は、チラリと誰もいない空間の『何か』に視線をやり、薄く笑った。
「今か? そうだな……もう7000まで、かなり近いぐらいか?」
「……7000を超えたら、どうなる?」
息をのむアキに対し、戦争の悪魔は無造作に薪(あるいは兵器の残骸)をくべながら、淡々と告げた。
「その先はお前達が考えられるような領域じゃない……まあ気にするな、タイムリミットを超えても、どの道『冬の悪魔』の件は解決することにはなるからな」
冷気とガソリンの匂いが立ち込める地下シェルターに、その言葉が静かに落ちる。
タイムリミットを超えれば、冬の悪魔は解決する。
それが何を意味しているのか。公安が破滅した後に訪れる「解決」とは一体どんな世界なのか。
猛吹雪が吹き荒れる地上から遠く離れた地下で、デンジとアキには、その言葉の本当の恐ろしさを理解する術すらなかった。
だが時間がないことはもう確かなのだろう、戦争の悪魔がポケットを弄って取り出したのは……拳銃だった。
「手帳拳銃だ、ここに支配の悪魔が消したいものすべてが載っている……ああ、言っておくと私達三人の姉も削除対象だ」
「姉が消える……? 戦争はともかく飢餓と死までなくなったらどうなっちまうんだ?」
「憎まれてる私が知ると思うか? それに概念が消えたらお前達の認識も消えてなくなるから、どうなっちまうと思った感覚すらなくなってしまうぞ」
「……ああ、そういえばあの優男がんなこと言ってたっけ? メロンの悪魔がどうとか」
「ああ、それでメロンという果実が消えたな……あの手のやつは数万年かけて種から生まれるから作り直すのが面倒だ、人間がもう一回同じ物を作れば概念と記憶ごと復元できるぞ……私の核兵器のようにな」
「何? じゃあ……」
「……だが残念、話せるのはここまで、そろそろタイムリミットらしい」
戦争の悪魔がそう言うと天井に亀裂が入り雪が漏れてくる……冬の悪魔の力がここまで及んできたらしい。
二人は本当に終わりを実感した、こんな真上から崩壊して雪が迫ってきたら……そんな考えも既に、冷気によって包まれることになる。