「デンジ君、もしもこの『日本』が沈没したらどうする? どこで過ごしたい?」
「はえ? 沈没ぅ〜?」
公安でも休んだりする貴重な時間、デンジはマキマから変な質問をされていたがデンジは気に留めることもなくおちゃらけながらも真面目そうな素振りで答える。
「沈没ってつまり住んでるところ全部なくなっちまうのか、年中海外暮らしぃ……あっ、あそこがいいな、『アイスランド』!」
「よくそこを知ってたね、確かにあの国は世界一安全と言われてるくらいだから」
「マジすか、やっぱ『ランド』なんて名前ついてるから遊園地みたいにおもしれーとこなのかな、腹減ったら最悪雪食えば俺ぁ過ごせますし」
そうしてこの日の休みは議題に対してレベルの低い答えを出しながら過ごしていき、またいつものように悪魔狩りや仕事周りに行く時間が来る。
他愛もない雑談を終えてまたいつもの血なまぐさい日々に戻るが 、ぽつりとデンジは話しながらマキマを見る。
「んじゃ、マキマさんなら?」
「私はまた、その時に海外を渡って考えるかな……米国でもなんでも行こうとか?」
——
そうしてその日の早川家、デンジはその日にマキマとした話題を家でも広げてみるがアキはデンジのアイスランドへの解像度に対して呆れることも出来ない。
「お前な……確かにアイスランドは安全な国と世界的に評価されてるが犯罪が少ないってだけだ、生半可に難民になったら今度こそ死ぬぞ」
「今こそ温いけど寒い思いなら散々してきたしな〜、んじゃパワ子は日本沈んだらどうするよ」
「そのまま日本に住むぞ、海に沈んだ土地を全部引っこ抜けば放棄された所有権は全部ワシのものじゃからな!」
そうしていつも通りの日常が訪れるように晩ごはんまでの時間潰しでテレビを見ていたときだった、その日は普段デンジが見ている教育番組は映ることなく謎の特番が放送されていた。
普段ならテレビを見ていてアキが何か言ってくることもないはずだが、その内容にデンジ以上に見入っていた……その答えはすぐに分かる。
「おい、こいつ……魔人だぞ」
アキがそう指さしたのは、番組の中で演説を行なっている……糸目で白髪の男性、その男が魔人だという。
魔ついてしまうことがが人間の死体を媒体として憑依した存在の通称だ、パワーも元々は血の悪魔が山にあった女性の遺体を肉体としていることから血の魔人。
魔人の特徴は人間ならざる頭部、パワーのように角が生えたりとにかく人間とはかけ離れたような特徴がついてしまうことがある。
そして映っている彼の場合は……なんだ? 髪の毛の質感が……髪の毛じゃない、毛の質感じゃない……あれはなんだ?
悪魔というよりは……『神』。
アキが不吉な予感を感じ取っていると、インターホンが鳴り……デンジが何の疑問も持たずにドアを開けると、こんな時間に珍しくマキマが顔を見せに来た。
「アキ君はもう見たかな」
「マキマさん、あの魔人は……」
「うん、簡潔に言うととてもまずいことになった、アレの名前は『勇気の魔人』」
マキマは少しだけ目を細め、テレビの画面を見つめたまま、その薄い唇を動かした。
「そう。本来、悪魔の強さは人々の『恐怖』の総量で決まる。けれど彼はその前提をあざ笑うかのように、恐怖から切り離された絶対的な力を持っているの」
その声はいつも通り静かで、どこか冷徹な響きを帯びていた。
アキは息を呑み、デンジは「無敵の人じゃん」と軽く言いながらも、マキマのまとう特異な空気感に、自然と背筋を正す。
「彼が最初に発見されたのは、ヨーロッパ大陸の地図にも載っていないような、小さな古い集落だった。『勇気』という言葉はね、大昔から蔓延する形のない麻薬みたいなもの。何の効力もないし、何かが変わるわけでもない。ただ単に『勇ましい』という言葉がついているだけで、一時的にその言葉だけで気分を動かす。その象徴こそが、勇気の悪魔だよ」
マキマは振り返り、三人に視線を巡らせる。その瞳には、すでに彼らの運命の結末までを見通しているかのような、底知れない深淵が宿っていた。
「人がどれだけ『勇気』を恐れなくとも、それが時に人の力となって悪魔の効力を抑えることになっても、彼には一切の影響が及ばない。逆境を自分の追い風に変えて歩を進めば、その足が止まることはないの。なんとも恐ろしくポジティブに人を追い込める……彼は人に愛されながらも、その強さを維持することができるんだよ」
「人に愛されながらか……舐めているようでそのまま悪魔的な奴ということですか」
アキが苦々しくその言葉を繰り返す。悪魔とは本来、人に忌み嫌われ、恐れられることで力を得る怪物だ。
しかし、この『勇気の悪魔』は違う。希望や眩しさといった、人間がすがりつく光そのものを糧にしている。
だからこそ表舞台に立ち、テレビの向こうで堂々と演説を行えるのだ。
「それがどういうわけか、魔人になって表舞台に立ち、こうして日本まで来ている」
マキマはテレビの糸目の男を指さした。
「その理屈は大したことではないかな。彼は単に、小さいものが好きだから、ということらしいから」
「小さいものぉ?」
デンジが首を傾げる。
「うん。日本列島はまだ、世界の規模と彼の目線で見れば小さいからね」
まるで箱庭の玩具を愛でるような、あるいは、いつでも踏み潰せる虫籠を覗き込むような理由。
それが、この極東の島国に未曾有の脅威を呼び寄せた原因だった。
……勇気の悪魔の唯一にして絶対的な権能、それは『0%』の事象を『100%』に実現させてしまう、後は勇気で補うだけでヒーローのように解決させる都合のいい力だ。
「魔人になったことで悪魔の頃と比べて出力は下がっているはずだけど、それでも能力は失われない。彼が身一つでエベレストを裸足で登り切るように、本来なら『絶対にあり得ない』とされる出来事が、彼の前では簡単に現実になってしまう」
アキは拳を握りしめ、冷や汗を流しながらマキマに問いかけた。
「マキマさん……公安は、どう動くんですか。こんな奴、放っておいたら日本が……」
マキマは小さく微笑んだ。その笑みは、慈悲深くもあり、同時に恐ろしく冷酷でもあった。
「各地の公安も海外の組織もすでに動き出そうとしている。けれどこれは一つの『映画』のようなもの」
彼女の頭の中では、すでに冷徹な計算が始まっている。チェンソーマンと呼ばれる男が、これから辿るであろう、幾度となく繰り返されるあっけない『終わり』の記録。破滅と終焉と運命を全て理解した上で、彼女はその結果を特等席で鑑賞するつもりなのだ。
「デンジ君、アキ君、パワーちゃん。準備をして。彼がその『勇気』で、この国をどうやって終わらせにくるのか……間近で見届ける義務がある」
テレビの中の糸目の男は、ただ静かに、不敵な笑みを浮かべ続けていた。
「……で、そいつ結局何する気なんだっけ?」
デンジが思い出したようにテレビの続きを見ようとするが途端にノイズがかかり、何か問題が起きたときの『しばらくお待ちください』の画面に代わってしまう。
あの男は何だったのか、世間の認識はそうなるかもしれないが公安としては黙ってはおけない事態なので仕方ないがこのままマキマと共に仕事に出向くしかない。
アキはもう既に支度を済ませてパワーを引っ張り出して、デンジも夕食を返上して向かわなくてはならない事を察するがマキマがいる手前ワガママも言わず出発することに。
車の中でデンジは……この日に軽く雑談したことを思い出す。
「まさかみてぇな話だけど……そいつって日本を沈没できる? そしたら銃の悪魔とどっちが強いのかなァ〜」
「まさかで済まないよデンジ君」
「あ、すんません軽率に」
「いや、警戒するに越したことはない……ただし、勇気の魔人の認識を改めたほうが良いのは事実だね」
しかし話している余裕もない、マキマに通話が入ってきたがその相手は内閣総理大臣からである。
……勇気の魔人を取り逃がした、彼が居た空間は水に浮くほど軽くボロボロのセットであり、実際は海外に近しい水域だったという。
聞いているだけで意味不明な構図だが、これこそ勇気の悪魔、絶対に無理だからこそ成立するというパラドックス。
……もう既に、この日のうちには追いかけることが出来なくなってしまった。
「実際に彼がやるとしたら……そう」
『日本以外全部沈没レベルだよ』
——
そのマキマの予感は事実となった、それから間もなく勇気の魔人は行動に移した……いや、あの演説こそがしっかり聞いておくべきだったがそれを行うためのデモ活動だったとでも言うべきか。
それから数日も経たずに、原因不明の大規模な天変地異が起こり、アメリカ大陸がいとも容易く沈んだ。
次に中国大陸……アフリカ……彼が気に入っていたヨーロッパ大陸を最後に、次々と海に沈み。
地球で人間が住める場所は日本だけになってしまった。
この小さな島にこれから、世界中の人間が難民になって押し寄せてくる……。
「食品に限らずありとあらゆる資源の輸入先が国ごと消え去ったんだ、ろくな生活は期待しないほうがいい」
アキは、濁った水道水で薄めただけの、具の無いインスタントスープを静かに啜りながらそう呟いた。
テレビはもう映らない。電気の配給も1日に数時間、それもいつ完全に止まるか分からない。世界中の富や資源を載せて日本へ向かっていたはずの船や飛行機は、目的地である「海外」そのものが消失したことで、行く宛を失い海へと消えた。
「その点に関しちゃ心配ねえよ〜、クソみてえな生活で言えば俺は大先輩みたいなものだからな」
デンジは椅子の背もたれに体重を預け、へらへらと笑う。
マキマに拾われる前、食パンにジャムを塗ることすら贅沢だったスラムのような日々。あの頃に比べれば、屋根があるだけまだマシだ。元の生活水準に逆戻りしたところで、体が覚えている。慣らしていけば何の問題もない、と本気で思っていた。
けれど、変わってしまったのは物資の量だけではない。これまで「普通」の営みを送ってきた日本人の心そのものが、急速に摩耗し、変貌を遂げていた。
「猿の時代まで逆行する人間共と衰退するのは御免じゃ、ウヌらとは一度縁を切りワシは山で新たな文明を築き上げる」
——そう言い残して、パワーはニャーコを抱えて家を飛び出していった。それきり、彼女の行方は分かっていない。
傲慢で、しかし誰よりも野生の勘に優れた血の魔人は、この狭い島国がこれから迎える『本当の地獄』を、本能的に察知して逃げ出したのかもしれなかった。
公安の仲間たちも、次々と姿を消した。
これまで通りの生活、これまで通りのシステムが機能しなくなった世界に適応できず、精神を病んで自ら命を絶つ者。
あるいは、ただの暴徒と化した難民の群れに飲み込まれ、悪魔ではなく人間に殺された者。機能不全に陥った組織から逃げ出すように失踪した者も少なくない。
海外の通貨は、いまや暖炉の薪以下の価値しかない玩具に成り下がっていた。その分、唯一の生存圏である日本円の価値が跳ね上がったかと言えば、そんなことはない。
そもそも、生き残った人類の半分以上がこの極東の縮小された大地にひしめき合っているのだ。紙切れにどれほどの数字が印字されていようとも、胃袋を満たす絶対的な物資が足りていないことは明白だった。
最近の公安の任務は、悪魔を狩ることではなくなっていた。
行き場を失い溢れかえった人類が、飢えた悪魔たちの格好の餌食になる。食い散らされた死体で埋め尽くされた山や路地裏を、ただ淡々と片付けるだけの日々。
血の匂いには慣れていたはずのデンジでも、その「ただの処理作業」と化した日常には、奇妙な薄気味悪さを感じていた。
そして、日本以外すべてがなくなってからというもの、マキマの姿をパタリと見かけなくなっていた。
表向きは、勇気の魔人を取り逃がした全責任を更迭という形で取らされたと噂されている。けれど、アキもデンジも、あの底知れない魅力と技術を持つ女性がそれだけで大人しく退場したとは到底思えなかった。
出来ることなら、諸悪の根源である勇気の魔人を一刻も早く捜索すべきなのだろう。だが、今日の配給をどう確保するか、目の前の死体をどう処理するかで手一杯の彼らには、そんな余裕すら残されていなかった。
勇気の魔人は、この壊滅的な状況を作り出して、人々に「逆境を跳ね返す勇気」とやらを期待しているのだろうか。
だが、彼がもたらした『100%の現実』は、ただ数億、数十億という膨大な難民を作り出し、生き残るための根深い差別意識を各地に蔓延させただけだった。
「なあ、アキ輩」
デンジは窓の外を眺める。ベランダからは、すっかりスラム化した街並みと、言葉の通じない異国の人々が、うつろな目で物乞いをする姿が見える。
「最初に日本で生まれたってだけで、俺たちって得した気分になるもんなのかよ。あいつら、俺らのこと、めちゃくちゃ恨んでる目で見てくるじゃん」
自分自身の正確な国籍すら知らずに育ったデンジには、彼らが抱く「土地への執着」や「怨嗟」の本当の重さは分からない。それでも、バカな頭なりに、これからの未来がどう転がるかくらいは容易に見当がついた。
「俺から言わせれば逆だな」
アキは冷え切ったスープの器を置き、酷く冷めた、それでいて燃えるような憎しみを孕んだ目で言った。
「今後、俺達日本人は、日本人というだけで針のむしろだ」
「……あ?」
「奴らは家を失い、国を失い、すべてを奪われた。俺達が奪ったわけじゃない。だが、奴らの目には、俺たちが『奪わずに独占している強欲者』に映る。俺達が何もしていなくても、奴らには俺たちを襲い、奪い、どんなふうにでも出来る大義がある。いや……それを『勇気』と呼んで腹に抱え込んでる奴が、そこら中に山ほどいるからな」
奪うための勇気。
生き残るための、正当化された暴力の火種。
かつて世界を震撼させた、アキを含め多くの存在が忌むべき『銃の悪魔』は、人々の銃への恐怖から生まれた。
ならば、世界中の人間から一斉に向けられるこの小さな島国への「怨念」と「恐怖」、そして彼らを駆り立てる「歪んだ勇気」が混ざり合ったとき、一体何が生まれるのか。
『日本の悪魔』が生まれる日も、そう遠くはなかった。
その喧騒と、崩壊へ向かうカウントダウンを。
どこか遠く、すべてを見通せる特等席から、ただ静かに鑑賞している『眼』があることを、まだ二人は知らない。
そうして停滞した一日が始まる、アキもデンジもこんな狂った世界でも本来の仕事を止めるわけにもいかない。
なけなしのスープを体にしっかり奥まで浸透させて二人は外に出る。
——
「あ、こんな時に言うのもなんだけどさぁ先輩よ」
「本当にどうした、こんな時に」
また二人は潮干狩りのように浜辺の人間たちを清掃しながらウミウシの悪魔を始末して仕事を済ませる。
この海も元々は穴場の休憩スポットとしてアキも昔、姫野に連れてもらったことがある場所だが今となってはあぶれた人間のたまり場になっている。
ここ以外にももっといろんな場所がそんなことになっているのだろう。
そんな中で暇つぶしのようにデンジが雑談をふっかけてきた、もはや自分達の暇潰しなんて会話したかないのでアキはちゃんと話を聞く。
「なんかすげェ胡散臭いおっさんが高いところでバカみてぇに叫んでやがるの、このままじゃ島全体が人間の重さでひっくり返っちまうんだってよ〜、ここがどんな緩さしてたらそんなことになっちまうんだって、ウケるよなぁ?」
普段だったら仕事中にこんなふざけたことをデンジが言い出したらアキなら怒号を飛ばすかもしれないが、こんな話を聞いてアキは……笑っていた。
「へぇそうか、そうなっちまったほうがもしかしたら楽かもしれないな、こんな海だけの星で日本だけ残ってても邪魔なだけなんだ、いっそのこと何もかも全部海に沈んじまった方が楽かもしれないな……」
それは始めて発せられた、アキの諦めみたいなちょっとした呟きだった。
生きていたところで幸せかどうかなんてもう判断のしようがないし、クソみたいな差別階級になっていく残された日本には付き合いきれないという意識でもあった。
そんな時だった、海の向こうに……見覚えのある姿がある。
「あれ、マキマさんじゃね?」
「え?」
そう、海面にマキマが立っている。
おどろおどろしい天使の輪を頭につけて……数々の人間がマキマの所に追いかけるように海に浸かっていく。
「……デンジ、あれは幻覚じゃなさそうか?」
「ああ間違いねえっぽい」
あれが本当にマキマ、二人揃って見えていると分かってからは早く、カヌーを見つけて二人がかりで大急ぎで漕いでマキマの所にたどり着く。
マキマは相変わらず……かなり年月が経ったかのように懐かしい感じがするが、巧妙な芸術品のようにその顔は崩れない。
「マキマさん! なんで海に浮いてるのかはよくわかんねーけどいつ見てもいい顔してるよなぁ〜」
「やはり勇気の魔人を探して?」
「うん、その件なんだけどもう大丈夫だよ、後は私がなんとかするから気にしなくていいよ」
「なんとかするって……いったい何を……?」
「私達は還るんだよ」
「海に」
そうしてマキマが手を伸ばした時……デンジの視界はひっくり返った。
いや違う、これは……島だ、島そのものがひっくり返って迫ってきている。
こうしてデンジはわけもわからないまま、2度目の死を迎える。
人間が住める『大陸』と共に。