公安の地下施設からようやくデンジの謹慎が解除された。
あれほどしぶとく食い下がり、確率を書き換えては周囲を翻弄していた勇気の魔人ウルフリーは、銃の悪魔の無差別な弾丸の渦に呑み込まれて消えた。そして死の悪魔と契約していたとされる非現実の悪魔もまた、これまでの混乱の渦中でその存在を消している。
鬱陶しい邪魔者は全て消え失せた。
そうなればいよいよ、支配の悪魔——マキマがその本性を剥き出しにし、チェンソーマンの力を用いて自らにとって都合の悪い『余計な概念』をこの世界から消し去る最終段階へと移行するはずだった。
しかし、死の悪魔と戦争の悪魔は、公安の保護下に大人しく身を置きながらも、決してその警戒の糸を緩めてはいなかった。
「……不自然だと思わない?」
死の悪魔が、小さく息を吐き出しながら呟く。
二人はこれまでの無数の巻き戻りと惨劇の中で、ひとつの決定的な確信に辿り着いていた。
マキマはチェンソーマンがかつて食べ残した『世界五分前仮説の悪魔』の不完全な力を利用し、何度も運命の結末を見届けた上で、時間を過去へと巻き戻して盤面を打ち直している。
死や破滅、破綻というトリガーを踏むたびにシナリオを『保存』された点まで戻し、理想のラストシーンへと誘導しているのだ。
だが——仮に時間を巻き戻せるとしても、この世界で絶え間なく発生していた超常現象や、理不尽な確率の崩壊、世界そのものが破滅に向かって歪み続けていた事象のすべてを説明できるわけではない。
「……嵐の前の凪、というやつかな」
戦争の悪魔が冷ややかな視線を窓の外に向けた。
ここに来て、物語の流れは奇妙なほどに停滞していた。
昨日まではいつ世界が終わってもおかしくないような無茶苦茶な大事件が毎日のように起きていたというのに、今では公安ではデビルハンターとしての「いつもの日常」が戻っている。
街に出て、湧き出た悪魔を地道に狩り、報告書を提出する——あまりにも拍子抜けな「平凡」が、かえって不気味な違和感となって二人を苛んでいた。
これまでの異常事態は、単なる一時の幻として立ち消えてしまうのか?
——いや、そんなはずはない。世界が破滅と終焉のシナリオを刻み始めた以上、この停滞こそが、より巨大な歪みを呼び込む予兆だったのだ。
同じ頃、マキマは執務室の机に向かい、厚みのある一冊の資料に目を通していた。
それは公安が収集した公式の悪魔のデータなどではない。極めて最近、裏社会やネットの都市伝説から取りまとめられた、一見すると荒唐無稽な怪文書の類だった。
表紙には、こう記されている。
『目立ちたがりや(Attention-seeker)』
マキマはその細い指で、ページをゆっくりとめくっていく。
内容はここしばらく、推定50年間における歴史の転換点、あるいは大規模な流血や惨劇が起きた現場の記録だった。
時代の節目となった事件の傍らには、決まって『誰か』がいた。
ある時は生物学の社長、ある時はヒーローの教育者、ある時は名もなき実験役。
見た目も立場も、名前すらも時に異なっていたが、その男の立ち振る舞いには恐ろしいほどの共通点が存在していた。
何の脈絡もなく突然歴史の表舞台に現れては、騒動を不自然なまでに肥大化させて煽り立て、壊滅的なラストシーンが訪れる直前に、途中で消え去っていく……まるで自分がヒーローになりそこねたときのように。
この消える直前というのが、関係者に
マキマは最初から、彼を単なる「勇気の魔人ウルフリー」として見ていたわけではなかった。
無数のループを繰り返す中で、彼女自身が気づいていたのだ。ウルフリーと名乗ったあの男の本質が、世界を崩壊へと導く『観客』であり『劇薬』そのものであるということに。
(ウルフリーは銃の悪魔に打たれて消えた。……けれど、あれで本当に『彼』という概念そのものが終わったと考えるのは、あまりに浅はかだね、私は知っている……彼が死ぬようなことがあっても、何度も現れていることも……私の件も含めて)
マキマの瞳に宿る黄色い渦巻きが、怪しい光を放つ。
彼らの存在そのものが、この世界の「破滅」を映画のように鑑賞するために用意された仕掛けなのだとしたら——
——
そして異変は、何の前触れもなく訪れた。
東京の街の頭上に、突如として空気が歪むような空間の亀裂——『異世界の穴』が再び蠢き始めたのだ。
数年前、突如として出現したその穴は、「もうひとつの世界が鏡合わせのように存在している」「異世界とつながっている」という都市伝説を生み出し、同時に悪魔の存在が世界中に周知されるきっかけとなった。
公安対魔特異課が発足する要因ともなったその穴は、発見当初こそ激しい反応を見せていたものの、長らく沈黙を保っていたはずだった。
それが今、ウルフリーの死と足並みを揃えるかのように、怪しい波動を放ち始めている。
地下の待機室でその異変を感じ取った死の悪魔は、ふっと自嘲気味な笑みを浮かべた。
「まさか、私達含めて悪魔とは、元々この現実の存在じゃないなんて真実があったりしてな」
冗談めかして言ったその言葉に、戦争の悪魔は眉ひとつ動かさず、冷たく突き放す。
「どっちにしても、私達が消滅以外で向かうのは異世界じゃなくて地獄だよ」
「まあそれもそうか」
軽口を叩き合いながらも、二人の悪魔は悟っていた。
ウルフリーという不確定要素が去り、マキマの支配のシナリオが完成へと向かうと思われたこの局面に至って、世界そのものが根底から覆るような「本当の異常」が幕を開けようとしていることを。
運命の気まぐれは、誰にも予測できない。
マンガのようなドラマチックなラストシーンを迎える前に、世界は幾度となくあっけなく打ち切られ、巻き戻されてきた。
謹慎から解放され、何も知らずに次の悪魔退治へと足を向けるデンジ。
チェンソーマンという唯一無二の存在を手に入れ、世界のシナリオを完璧に書き換えようと画策するマキマ。
そして、幾千の破滅と終焉を見届ける目線で見守る支配と死と戦争の影。
異世界の穴が大きく広がり、現実の境界線を溶かしていく。
ここから先は、やり直しのきかない『本番』だ。
——
「異世界ぃ? ああ、ちょっと前にマンガとかで流行ってたよな〜、苦労もせずにめっちゃ強くなって……」
「そういう話はしていない」
公安4課も異世界の穴に備えて準備中、ようやく解放されていつも通りの仕事もできるデンジもようやく張り切っており雑談をしていた。
公安の方も何人か駆り出されることになったのだが……異世界の穴が反応したことによって中に突入する計画が始動し始めていた、何人か犠牲になることも承知の計画ではあるが……ここでデンジがとんでもないことを言い出した。
「俺ぁ異世界に行ったことあるぜ、ほんのちょっとだけなんだがな」
場の空気が一瞬止まった、こういう事を言い出すときは大体脳使わずに勢いだけで見栄を張るパワーみたいなものばかりだと思っており、デンジは馬鹿だがこういうときしょうもない嘘はつかないという認識だったので……。
「は……? は? お前マジで言ってる?」
「ま〜あの穴の先と俺が見たものが一緒って感覚はしてねーぞ」
そうしてデンジが語り始めた異世界の内容……それは本当になんでこんな話をしているんだ? と思ってしまうくらいには中身がとんでもないものであった。
「確かなぁ……なんもねえのそこは、あるにはあったけどなんかキラキラとした水晶? 異世界的にはクリスタルっつーのかなぁ、本当にクリスタルしかなかった」
デンジが気がついたときにはクリスタルが山ほどあっだがモンスターとか剣とか魔法とか、そういう類のものは何一つとしてなかった。
なのでデンジとしては退屈だったのだが散歩する分には悪くなかった。
そしてしばらくしていると……女、顔はよーく覚えていないのだが、なんとなくうろ覚えで沢山の男や女が集まって会議、いや議論をしたような気がする?
「テーマはなんだった?」
「あ〜今後ナントカに対して手を貸すかどうかって、仲間を見捨てるかみたいな大事そうな話だったな」
「……そんな話にお前が加わっていたのか? お前の関係者ということになるが」
「ああ心配ねえよ、公安の誰かってわけじゃねえのは確かだった……んで、結論が関わんのやめよって事で満場一致」
その後は速い、リゾート施設みたいなところで否決したものも含めて色んなやつが各々、ブロック遊びのように好きな世界を作り始めた。
デンジもそれに混ざろうとして準備していたある日、男も女もみーんな集まって輪を作っており、上から何か降りてくる……そう、それは劇場の幕を下ろす時のカーテンコール。
なんらかの終わりを告げる表現であった。
拍手と共に何か終わる……何が終わるのか分からず、乗り上げてカーテンの先に行ってしまった……。
それによって、異世界から抜け出すことになってしまったという。
「で、それが異世界の話だ」
「お前……お前なぁ」
アキは呆れているわけではないが、こんな事どう理解すればいいのか……ここ毎日の超常現象は味わってきたのだがこんなものどう認識すればいいのか分からなかった。
これは夢を言ってるのか? それともなんらかの映画の話か? それくらいには意味不明な内容だ。
なのにアキを含めた全員がその出来事を……確かにそんなことあったんじゃないか? と思ったから。
こんな、ふざけた異世界の話を。
……それはデンジのすぐ後ろにいたマキマも同じだった。
面白いこと考えてるねデンジ君……なら君に面白い仕事をあげるよ、異世界の穴突入計画には4課を代表して君に配属してもらおうかな」
「え!? やったァァ〜〜」
謹慎明けに早々マキマ直々に大仕事を貰いテンションが上がるデンジだった……これがどんな仕事かも分かっていないというのに。
——
東京スカイツリーをも見下ろす遥か上空。青空の真っ只中にぽっかりと穿たれた『異世界の穴』は、まるで歪んだガラスの向こう側のように不気味に蠢いていた。
その穴を目指す作戦は、あまりにも狂気的で、力任せなものだった。
日本各地から集められたデンジ含めた数十人の人員たち。彼らを特注の大型ロケットの狭い船内にぎゅうぎゅう詰めに押し込み、そのまま穴の渦中へ直接突っ込ませる、その中にはデンジ以外にも色んな仕事の人々がいる。
「いや……ロケットにしたら一方通行で終わるのでは……あいつ含めた何十人、どうやって帰ってくるんですかアレで……」
発射台のモニタリングルームで、引きつった顔の職員が思わず吐き捨てる。
「そういう疑問は、もっと上の人に言わないと届かないんじゃないかな」
マキマは静かに笑みを浮かべ、淡々と答えるだけだった。
カウントダウンが零を刻む。猛烈な爆音と炎を撒き散らし、天を穿つように伸びたロケットは、瞬く間にスカイツリーを置き去りにして穴の中へと消えていった。
穴へと入った直後、通信の反応は完全に途絶。こちらから見れば、成功したのか、それとも乗組員ごと木っ端微塵に消滅したのかすら判断がつかない。
……だが、おかしなことに、それは「帰って」きた。
大気圏を割るような摩擦熱の痕跡すら残さず、途中で切り離されたはずの段数やパーツも含め、打ち上げ前と何ひとつ変わらない姿のまま、ロケットは発射台へと綺麗に戻っていたのだ。
「おかしいね。帰ってくるときにもエンジンを吹かしていたはずなのに、燃料が全然減っていないよ」
回収後の調査で、技師たちは首をかしげた。
燃料の量は満タンのまま。船内に充満しているはずの二酸化炭素や空気の汚れすらなく、酸素残量も最大値。人を乗せて過酷な飛行を行った直後だというのに、まるで「打ち上げ準備完了の瞬間」に時間が巻き戻ったかのような状態だった。
「おいっすー」
デンジたち乗員も全員が無事に戻ってきた。
しかし、彼らへの健康診断の結果は、更なる不気味さを浮き彫りにする。
「異常なし……どころじゃないな。なんだこれは」
異世界移動の影響を調べるために呼び出されたデンジだったが、その身体は「何も変わらない」どころか、異質なまでの変化を遂げていた。
虫歯も、過去の栄養失調による細かな後遺症も消え失せ、まるで超一流のスポーツ選手のような「健康優良体」へと作り替えられていたのだ。
デンジに限った話ではない。同じロケットに乗っていた他の職員たちも全員が同様だった。過去の戦闘で失われたはずの腕が生えて戻ってきた者までいた。
だというのに——当の本人たちには、その記憶が一切なかった。
「デンジ君、穴の中に入った時の感覚や、向こうで見たものを覚えているかい?」
「ああ……? なんか気づいたら座席に縛り付けられててよ。もう終わったの? って感じなんだが……」
「手術で麻酔くらったあとみたいだな……」
「あー確かに気分としてはそんな感じか、俺ちょっと前に手術経験したから覚えてるぜ」
異世界に行ったはずの彼らは、何を見てきたのかを誰一人として覚えていない。穴に入ったという恐怖も、浮遊感すらも綺麗さっぱり脱落していた。
傷は癒え、失った肉体すら戻り、何も異常は見られない。一見すれば大成功のハッピーエンドのように思えた。
——だが、マキマだけは、その不気味な違和感の正体に勘づいていた。
(……何も減っていないんじゃない。彼らは『持っていかれた』とか?)
執務室で一人、マキマは目を細め、黄色い渦巻きの瞳で資料を見つめる。
例えば、かつてハワード・フィリップス・ラヴクラフトが書いた小説には、次元を超えた異空間……人間の視認できない「角度」の隙間に潜む『ティンダロスの猟犬』という存在が登場する。
ひとたび人間に気づき、獲物として見定めたなら、時間や次元の壁を容易く超えて、永久にその背後を追い続ける絶望の存在。
そして、この世界において何より恐ろしいのは——「猟犬」という名をつけられていながらも、その実態は謎に包まれており、獲物を追いつめたとして、野獣のように単に血肉を喰らうとは限らないということだ。
デンジたちは、あの不完全な空間で一体「何を」喰われてしまったのか?
記憶か、運命か、あるいは「死ぬはずだった未来」そのものか。
本来減るはずだった燃料や空気の消費、負うはずだった肉体のダメージすらも、何者かが食い散らかした結果として「綺麗に消滅した」のだとしたら。
(姿を見せず、ただ満たされたように彼らを送り返した……。なら、いつでも『その先』を喰える機会を伺っているのかな)
マキマは薄く唇を歪め、静かに窓の外を見上げた。
東京の空に浮かぶ異世界の穴は、まるで満腹になった獣がひと休みしているかのように、静けさを取り戻している。
破滅と終焉のシナリオは、また一つ、誰も予測できない「不確定な歪み」を孕んで動き始めていた。
——
そしてデンジはそのまま健康診断のあとに普通に復帰することになるのだが、それからしばらくして奇妙な事が起きるようになった。
……最近、デンジの周りで謎の自然を感じるようになったという。
そばには何もいない、気配の先には誰もいない。
それなのに今でも口を大きく開けて迫ってくるような気配を感じる。
デンジはこういう経験には慣れているしどこかイカれてるところもあるので、いつでもチェンソーでずたずたに出来ると息巻いているが人によってはノイローゼを感じて入院したり行方不明になった事例まであるという。
デンジは全くそんな様子はなさそうだが。
本で記されるティンダロスの猟犬は絶対に諦めない、一度や二度食い止めたとしても、次はどこから現れるか分からない。
今はまだデンジたちの周囲で『隙を伺う』ように、匂いを嗅いでいるだけなのか。
それとも、既に何人かの心と身体に染み込み、じわじわと蝕み始めているのか。
誰も、その答えを持ってはいなかった。
——
デンジ達が受けた健康診断の結果について、悪魔たちは非常に不審な物を感じていた。
なんせ、特にデンジは元々武器人間で治癒が早いとはいえ不衛生な部分も消えてなくなっている、
つまりあの穴は何らかの超能力や空間による恩恵を与える存在か……?
そんな事を思いつつも、それもこれもよくわからない現象だらけの世界では当たり前の範疇に入ってしまっている辺りがなんともいえない。
「穴の中に入った後に死ぬ連中が多いけど、その死に方が尋常じゃないっていう奴も多かったよね、私たちも気になるぐらい」
「少なくとも今まで見てきたものとは違うという報告が大半だったな、新しい形の恐怖か……」
穴の中に入って無事に生還してきた人達をしばらく観察していたが、やはり突然死亡したというパターンも多くいた。
その殆どが『消えてなくなりかける』での死を迎えているのが不穏である。
「事故や病気、その他諸々……で済むような話でもないか、新しい形の根源的恐怖の悪魔?」
「異世界の悪魔……か、興味はあるがそろそろ来そうだな」
「うん、ようやく読めてきたよ……タイムリミットの視認は非現実の悪魔の力を使ってるっぽい、元々私も契約していたから読めてきたね」
タイムリミットの7000とは他所から見た際の……資料に移して出来事を変換した時、7000文字以上になるのを確認したときに……まるで話を終わらせるようにサクッと、時には雑に区切りをつける。
死の悪魔が元々契約していたこともあり、メタ的な認識は非現実の悪魔から共有していたこともあるが……まさかマキマもこんな所にトリガーを隠しておくとは。
「もうダメか?」
「うん、次に期待するしかないね」
その頃、デンジを軸にして異次元の渦が開いた。