夕闇が街を赤黒く染め上げる刻限。デンジはマキマと二人きりで歩く帰り道に、珍しく浮かれた足取りを見せていた。
だが、そのささやかな幸福の余韻は、目の前に現れた重々しい通行止めの黄色いバリケードによって唐突に遮られる。
地域路が丸ごと封鎖されていた。
看板には「歴史再現特別地区 改装工事中」の文字。
最近……文明が極限まで進歩した反動か、あるいは人間たちの退廃的なノスタルジーゆえか、「かつての時代をもう一度生で観てみたい」という欲求が流行していた。街の一部をそっくり特定の過去の時代へと作り変える大規模な都市計画。
次に白羽の矢が立ったのは歌舞伎町であり、目指す時代は2012年頃だという。完成には3年ほどかかる見込みだ。
バリケードの向こうの無機質な工事音を見つめながら、デンジは頭を掻き、ふと思い出したように隣を歩くマキマを見上げた。
「……そういえば今って何年でしたっけ、な〜んかたまに忘れるんだよなぁ」
マキマはいつもの穏やかな、けれどどこか底の知れない笑みをデンジに向けた。
「今は2071年だよ。東京の中でも私達のいる地域は1997年に調節しているから、混乱する人もいるけどね」
この日本も、気がつけば随分と長い月日が流れていた。
数々の事件と物語が交錯し、人間の歴史は目まぐるしく進み、もう間もなく2100年という大台に到達しようとしている。
だが、この国は単に未来的で洗練された文明へと一直線に進んだわけではなかった。むしろ、一部の地域を切り取り、意図的に過去の時代へと「還元」させる歪な発展を遂げていた。
もちろん、それは単に人間がノスタルジックな感傷に浸るためのアトラクションではない。
現在デンジたちが暮らす1997年風に調整された街並みにも、最近になっておかしな変化が現れていた。
街角のあちこち、電柱や建物の壁面にその時代の雰囲気にはおよそそぐわないカラーテレビが、執拗なまでに設置され始めているのだ。
「ここ最近、時代に似つかわしくない異常現象ばかりここで起きたからね。24時間体制で不純物が発生しないように見守る必要があるんだ」
マキマは静かに語る。
デンジは「へー」と気のない声を上げ、鼻を鳴らした。
「あ〜、雰囲気に合わないやつはその場で消されるみたいなやつか。ウチみたいなもんだな」
「ふふ、そうだね」
マキマはデンジの横顔を、映画のスクリーンを眺めるかのような冷徹な瞳で見つめる。
今日から、時代錯誤な存在が現れないよう、住民の生き方そのものまでその時代に合わせて徹底的に監視されることになる。
1997年の生活環境へと巻き戻されるというと、一見すると著しく文明が退化したように思えるかもしれない。しかし、この世界の全体的な技術発展自体が2030年代頃で一度停滞しているため、戻る時間の幅としてはそこまで断絶したものではなかった。
——
デンジが早川家へと戻っても、部屋の光景にさほど劇的な変化はなかった、基本的な家電製品はすでに揃っている時代だからだ。
強いて言うなら、携帯電話などの便利な通信機器が普及していない時代のため、連絡が少々不便になった程度で、デンジにとっては取るに足らない些細な問題だった。
リビングに入ると、早川アキがローテーブルで新聞を広げていた。デンジが帰宅する頃にはすでに家含めた街全体の処置は終わっており、アキはこの1997年風の環境にすっかり順応した様子で過ごしている。
「そんな面倒なモンでもないけど、これっていつまでやるんだ?」
上着を脱ぎ捨てながら尋ねるデンジに、アキは新聞から目を離さずに淡々と答えた。
「この環境に慣れるなら新聞くらいは読んでおけ。今回はあくまで様子見程度だが、半年はこの生活のままだ」
文化や時代環境を一時的に過去へ抑え込むこと——それは、人々の認知を制限し、特定の悪魔に対する恐怖感覚を薄れさせる一定の効力があると公安でも認められていた。だからこそ、以前から定期的に一部の地域で同様の試みが行われていたのだ。
しかし、アキにとっても一つだけ腑に落ちない異質な点があった。
今回の措置で街のあちこちに貼り付けられた、無数のカラーテレビの存在だ。
まるでテレビ画面そのものが巨大な「目」となり、自分たちの全挙動を逃さず見張っているかのように、街中に不気味な視線を走らせている。
「そういや歌舞伎町の方も、2012年くらいに留めて作り直す感じらしいって今日マキマさんと見てきたところだぜ」
デンジがソファーに深く腰掛けながら口にすると、アキは小さく息を吐き出し、新聞を折りたたんだ。
「今度は新宿か。どんどん東京周りが作り変えられていくな」
少しずつ、自分たちの住む街が、時代に取り残された巨大な箱庭のように変化していく。
画面越しに自分たちを観察する無数の『目』と、意図的に巻き戻される時代。その歪んだ箱庭の中で、デンジたちが何を知ることもなく日常を費やしていく様子を、遥か遠くから『支配の悪魔』はただ静かに、次の破滅のシーンを待つように鑑賞していた。
——
その次の日、職場も昔ながらの環境になっている。
さすがに労働環境までゲキヤバ時代に戻るわけにはいかないが正に雰囲気だけは楽しみながら過ごせるようにデスク周りも変わっている。
パソコンはかなり分厚くなってダイヤルアップ接続になっており不便だしお金もかかるが昔ながらのピーガー音を面白がるデンジだがアキは頭を抱える。
「しばらくコイツでデスクワークか……仕方ない」
しかし雲行きが怪しくなったのは、仕事開始前にマキマが渡した資料を見て姫野が驚きのあまりタバコが口から零れ落ちる、アキもまた確認してみると……それは公安四課に定められた一日のスケジュールであり、アキも一緒になって驚いてしまうような内容だった。
「朝七時から朝礼に清掃、仕事は12時まで……昼食から17時まで午後の仕事、その後そのまま定時で退社……!?」
「すげ〜ギッチギチじゃん」
「まるで小学校の時間割みたいだよね」
デンジと暴力の魔人が能天気な言い方で同じ物を眺めているのが……問題はそこじゃないとばかりに姫野が指を指す、そこには今日の獲物と描かれて『トマトの悪魔』の姿が。
「おっ、トマトの悪魔じゃんなつかし〜、俺が公安来る前でもやれるようなザコ悪魔だよ」
「それが今日のノルマだよ、正確にはあと『ピーマンの悪魔』と『ナスの悪魔』も含めて、今日はそれだけ倒すようにして……うん、それ以外は今日は手を出しちゃダメだよ」
マキマは淡々とそう告げる……つまりは今日この仕事、決められた悪魔だけをきっちりこの日のうちに倒してそれ以外の悪魔は何があっても無視という方向らしい。
ただしデンジはそれとは別の所で驚いている。
「ええ〜!? 献立表!? しかもバリエーション全然ないんだけど!?」
なんと公安で出される食堂も全員固定化された上に、いくら1990年代後半まで遡るにしてもちゃんとしたメニューがあるはずなのにそれ以下のクオリティの内容となっている。
本来この頃といえば小学校でもグルメブームが到来して食文化が発展してスパゲッティだのカレーライスまで食べられるようになったというのに、新しく改正された公安の社員食堂は米飯の配給所みたいなレベルで品種改良の段階まで逆行されている。
「だってそういう風に決まってたんだよ、前の時代よりグッと下がるからね」
マキマが淡々と告げる、どうやらこれは彼女自身の意思でなく街の環境設定でそうなってしまったようだ、だがこの状況に困惑するのは他でもないアキだ。
「何だこれは……どうして急にこんなことに? 今まである程度自由に任務を受けて悪魔を狩っていたのに今更こんな形式的になり切ってしまったら……」
「お〜い、俺腹減っちゃったから早く行こうぜ〜!」
だが真面目に考えているアキを差し置いて、デンジは軽々とした口調で食堂へ移動しようとし始める。アキはため息を付きながらもマキマの指示通りに今日の仕事をする為、まずは胃袋を満たすことにした。
食堂に入ってみると、それは本当に酷い有様だった……
テーブルの上には茶碗一杯のご飯、そして唯一の小皿である漬物が用意されていただけで他は何もない……
デンジはそんな悲惨な量にガックリとするが、それでもすぐに平らげていく。
「うっめ〜! やっぱこういうシンプルなのもいいな〜!!」
姫野も興味深そうに覗きながら今後の事を考える、突然仕事の方針なども変わってしまったがそれでもせいぜい半年我慢すればいいこと、むしろいつ死ぬかも分からないこの環境においてはちょっとホワイトに傾いただけでも良しとする方向と捉えられるかもしれない。
食後には決められた悪魔のノルマをこなしてさっさと帰ることが出来るとデンジも仕事に入ろうとするが……。
「つまり……この書類は明日の朝イチに提出で……はあ、どうかしてるな」
書類の分厚いファイルを握り締め、岸辺は時計をちらりと見る。
「こんな時間にこの量……対魔課になんでこんな物が来る? 俺達は行政職員じゃないだろう」
自分達の範疇じゃない、興味もないとばかりにタバコを吹かしてファイルを投げ捨てる岸辺、いくら大昔の真似事に付き合わされるといっても誰かしら許容できる範囲は越えている。
実際悪魔を好きに狩らせてくれない事に不満のあるデビルハンターも少なくもなかった。
しかしデンジは何事もなく普通に仕事を済ませて……そのまま定時で家に帰り、早川家で昔ながらの生活というものを体験する。
「なんでいつの間に俺の家にスーパーファミコンなんてものが……」
「すげぇ〜何十年も前なのにめっちゃ今でもハマれるじゃん、これ半年だけなのがもったいねえ」
と、全然堪えてないし常に楽しそうにしているデンジ。
不安こそあるが……姫野が考えた通りあくまで半年、ちょっと過ごすだけで良い……とはならない。
(半年じゃなかったら俺でも抗議していたな……銃の悪魔を倒すために寿命が来るようなことがあれば……)
半年でも命をすり減らしているアキにとっては、銃の悪魔どころか満足に狩ることもできない現状は少し厄介だが……しかしマキマが決めたことじゃない以上逆らうわけにもいかないとタバコを吸っていた所、角から飛び出すようにパワーがびっくりして吹っ飛んできた。
「ぎええええ!! アキ!! おいアキ!! マキマのやつが便所中のワシを見とったんじゃああああ!」
「マキマさんにそんな趣味ねーだろ」
「それ以前にあり得ないだろ、まさか後ろの窓から覗いていたとでもいうのか?」
パワーはいつもこんなことを言っているのでデンジもアキもあまり相手にせずその日は終わった。
あちこちに用意された外のカラーテレビは……デンジもアキも、どこに行ってもしっかり逃さないように……テレビが覗いていた。
「え? 先生どっか行ったの?」
翌朝、事務所に出社して早々、デンジが珍しく目を丸くして尋ねた。デスクの隅でタバコに火をつけていた姫野が、紫煙を細く吐き出しながら肩をすくめる。
「そうそう……まあ、あの人のことだから半年後にケロッと帰ってきそうだけど」
岸辺の失踪。本来なら対魔課の要とも言える男がいなくなったのだ、大騒ぎになってもおかしくはない。しかし、今の公安にはそれをまともに捜索するような余白すら残されていなかった。
日が経つにつれ、公安から課される「縛り」は日に日に異常な勢いで増していった。
一日の時間配分は秒単位で細かく規定され、自由時間という概念そのものが消滅した。
何時に起き、何時に書類を開き、何時に食堂で配給のような飯を食い、何時に指定された悪魔を狩るか。倒していい悪魔は一日一匹と厳密に決められ、それ以外の悪魔が目の前で暴れていようと手を出すことは許されない。
仕事はまったく進まなかった。まるで決められたレールの上を走るだけの、精巧なカラクリ人形にでもなったかのように。
「……何なんだ、これは」
アキは自室のローテーブルで、分刻みのスケジュール票を指で擦りながら呟く。
街の至る所に設置されたカラーテレビは、絶えずノイズ混じりの映像を流し続けている。1997年を再現する箱庭の域を完全に踏み越えていた。人間の行動だけでなく、思考や生活の思想そのものをじわじわと塗り替えていくような歪な圧迫感。
半年後、この「期限」が訪れたとき、自分たちは本当に元通りの生活に帰れるのだろうか?
そして、何よりも解せないのはマキマの動向だった。
同じスケジュール、同じ枠組みの中で動いているはずなのに、彼女の姿を直接見かける機会が極端に減っていた。
だが——見ない代わりに、「視線」を感じる。
街角の、あるいは公安の廊下に置かれたカラーテレビのブラウン管。画面がザザッ……とノイズを走らせる一瞬の隙間に、あのおっとりとした、けれど底知れないマキマの顔が浮かび上がっているような気がしてならなかった。
——
その日の夕方、厳格に定められた定時の時刻。
仕事を終えて公安のビルを出たデンジとアキは、夕闇の街角で聞き覚えのあるトレンチコートの後ろ姿を目撃した。
「……マキマさん?」
デンジが声をかけようとしたが、その背中は振り返ることもなく、路地裏の暗がりへと滑り込んでいく。顔を見合わせるデンジとアキ。二人は吸い寄せられるように、その後ろ姿を追いかけた。
狭く薄暗い路地を抜けた先、開けた資材置き場のような広場に出たとき、二人は思わず足を止めた。
異様な光景だった。
そこには、無数のカラーテレビが破壊され、黒い煙を上げて小山のように積み上げられていた。画面は割れ、内部の基盤がむき出しになった廃墟のような異物の山。
その山の頂に、片目に眼帯をした白髪の女——クァンシが、膝を組んで腰掛けていた。
周囲には、山を破砕し終えたばかりの4人の魔人たちが静かに佇んでいる。
「保存用特別地区で妙な動きがあると聞いてみれば……神にでもなるつもりなのかな、マキマ……いや、周囲からはMMと呼ばせているらしいが」
クァンシは冷ややかな眼光で、山の下に佇むマキマを見下ろしていた。この地区で起きている事態が、単なる都市計画の域を超えた異常事態であると察しているようだ。
だが、見下ろされた女は動じる気配もなく、静かにいつもの笑みを湛えて言った。
「貴方は『メイドウィン』という人間を覚えていますか?」
クァンシは視線をわずかに泳がせ、気のない調子で吐き捨てる。
「あいにく私は有名人はマリー・アントワネットとクレオパトラしか記憶しないようにしているんだ」
「それは『創造する者が絶対的に正しい勝者』という意味合いを持った神とも言われた始まりの存在」
マキマの口から漏れる淡々とした声が、夕闇の広場に静かに響く。
テレビ画面の向こうから街全体を監視していた存在。それは単なるマキマ(MakiMa)という個人の悪魔の力ではない。
『Metal・Madewin』——MM。
はるか昔、チェンソーマンとの熾烈な戦いの中で概念ごと世界から消去され、今となってはただの『目立ちたがり屋』という矮小な属性に過ぎなくなった旧き神。
だが、その「神の座」という最高位の空席は、今も消滅せずに世界にぽっかりと残り続けている。
ルールを作り、立場を作り、成功を演出し、支配を完成させる。世界そのものを一つの「作品」として作り続けることさえできれば、その空席に座り、絶対的な神にだってなれるのだ。
チェンソーマンと呼ばれる男、デンジの物語において、これは目測21回目の「死(破滅)」の予兆。支配の悪魔の目線から見れば、映画のクライマックスへ向かうための、あまりにも美しいシナリオの組み立てであった。
クァンシはマキマの言葉を最後まで聞くと、ふっと鼻で笑い、何かを完全に理解したような瞳で上から見下ろした。
「ふーん、そうか……そのメイドウィンというものになる気なのか」
「数百万年も昔、かつて完全に全てを支配出来る立場になった者……その憧れを誰かが埋める必要がある」
静寂が二人を包む。クァンシは呆れたように息を吐き出すと、決定的な言葉を突きつけた。
「なるほどそうか……お前、最初から『マキマ』じゃないね、岸辺の奴は体に染みついた勘でそれに気付いていたから、なるべく関わらなかったと」
「……ッ!?」
物陰で息を殺していたアキの背筋に、凍りつくような悪寒が走った。
最初から、マキマではない——?
では、自分たちが「マキマさん」と呼び、従い、今まで命を預けてきた目の前の『それ』は、一体いつから、何に入れ替わっていたというのか。
積み上げられた壊れたテレビの山の上で、クァンシの眼帯の奥の瞳が、狂気と支配の匂いを孕んだ異物を冷たく射抜いていた。
「……やっぱそういうことか」
「デンジ!?」
デンジの方もわかってるつもりで言ったのかいつものようにふざけているのか分からない……ただしデンジにとって目の前のマキマさんがマキマさんじゃないという疑惑は自分よりも他人事じゃないことなのは分かる。
これからどうすればいいのか……悩みながら帰ってみると……だ。
「よう、聞いたようだな」
「ああ、先生じゃねえか」
「え……!?」
驚きの連続……鍵はしていたはずなのに何故か分からないが岸辺が早川家のテーブルでビールを呑みながら待機していた。
そしてデンジを見たあとに……拳銃を一発構える。
「タイムリミット……ってやつだろ、一発かますがすぐ戻ってくる気か?」
「おうよ、説明は三分で済むように……ってか、アレがあるだろ?」
「何を言って……」
「1回死ね、ということだ」
岸辺は有無も問わず引き金を引いてデンジを撃ち抜く。
これで22回目の死だが、岸辺はすかさずデンジの目前まで高速移動してスターターロープを引っ張ることでデンジがすぐに蘇生される。
「おー、ループ無しがようやく成功したぜ、さすがは先生だな」
「この分は1回ツケだ、次はないからな」