胸の真ん中のスターターを引っ張り、チェンソーの咆哮を轟かせながら、デンジはマキマと対峙していた。
かつて初めてこの光景を目にした時と同じように、目の前に立つ彼女は圧倒的で、底知れず、そしてあまりにも美しかった。
しかし、今のデンジには何の策もなかった。
以前マキマを打ち破ることができたのは、ポチタが身代わりとなって影武者を務めてくれたからであり、マキマが最後まで『チェンソーマン』しか見えておらず、デンジ個人とポチタの区別すらついていなかったという奇跡的な死角があったからだ。
それに、日本国民の命を盾にする支配の悪魔の契約がある以上、軽率に彼女を殺せば、その死は無関係な誰かに肩代わりされるだけ。
それでもデンジの側にどこか妙な余裕があったのは、今回のマキマの行動が、自らの使命を果たすために驚くほどゆっくりと進められていたからに過ぎない。
これまで目測で何度死んだか分からない。だが、その被害の及ぶ範囲はほとんどデンジ自身にとどまっていた。たとえ周囲に何かが起きようとも、セーブポイントのように時間が少し巻き戻り、結果として事態が解決したことになっているからだ。
アキやパワーたちが今ここで生きているのだとしても、自分一人でこの八方塞がりの現状を打開する方法など、正直なところ何も思いついてはいなかった。
無数のカラーテレビの視線を背に受けながら、マキマが静かに口を開く。
「全部見て、何回もやり直して、その時一度でも普通の生活を送ることは出来た? 自分がどんな人間か理解しても、普通の生活を求めているの?」
彼女の透き通るような声が、胸の奥を刺す。デンジはチェンソーの刃をすっと下ろし、弱々しく苦笑いを浮かべた。
「……もう俺ぁ、普通に幸せに生きるってのがよく分かんねえんですよ」
かつてポチタが言っていた言葉が脳裏をよぎる。
自分は、地獄のような過酷で歪んだ環境でしか幸福を見出せない人間なのだろうか。
かつて絶望し、何も考えたくなくなって「マキマさんの犬になりたい」と望んだあの道こそが、自分にとっての正しい選択だったのだろうか。
あるいは、幾度ものやり直しの中で自分が思いついた新しい選択肢も、結局は誰も満足させられない無駄足だったのだろうか。
感触としては、何十回分もの人生を経験したような気がしていた。けれど、自分自身が成長したという実感はまるでない。
これまであれほど酷い目にあわされ、大切なものを踏みにじってきたマキマに、今こうして何度も従い、振り回されていること自体がその証明だった。
デンジは自分の胸元——胸の中で静かに眠る相棒へ、そっと心を向けた。
(なぁポチタ、お前には悪いけど……やっぱ俺は、マキマさんがずっと好きなままだな)
(俺とポチタの区別もつかねぇし、めちゃくちゃなことが起きても映画観るくらいの感覚しかねえし……それをポチタさえいりゃあなんでも解決すると思ってるくらい、意外と馬鹿かもしんないけど)
(そんなろくでなしみたいな人でも、俺は変わらずマキマさんが好きだ。……だから一緒に止めてくれよ)
——
デンジとマキマが激突している区域では、すでに避難誘導が完了し、人影は絶えていた。
荒廃した街の外部から、アキたちは双眼鏡やモニター越しにデンジたちの動向を注視していた。冷や汗がアキの頬を伝う。
傍から見れば、デンジがマキマに勝てる気配など微塵もなかった。
手数を繰り出す間もなく叩き潰され、再生し、また一方的にあしらわれている。しかし、デンジからこれまでの果てしないループと世界の裏側についての話を聞かされ、状況を理解している岸辺は、煙草の煙をくゆらせながら静かに戦況を見つめていた。
「俺たちは黙って見るだけだ。奴が行おうとしていることは殺し合いじゃない……単語にするなら『説得』とか『泣き落とし』になる」
岸辺の言葉通り、デンジの動きは攻撃というよりも、しぶとく食い下がるためのものだった。
人間のような華奢な身体から放たれるマキマのひと振りが、デンジの肉体を容易く引き裂く。致命傷になり得る支配の悪魔の威圧と攻撃を喰らいながらも、デンジは強引にチェンソーを振るい、死に物狂いで言葉を吐き出す隙を作り出していた。
「なんで今……!? 今更になってメイドウィン目指そうとしたって、意味なんかねえじゃねえすか……!」
デンジの問いかけに、マキマは攻撃の手をわずかに緩め、憐れむような、あるいは諭すような眼差しを向けた。
「井の中の蛙……世界のさらに先の領域で言えば、私やチェンソーマンの力でも所詮はその程度になってしまう。その先の立場が必要になってくることは、デンジ君が一番分かっているんじゃないかな」
マキマは整った顔立ちに、一切の揺らぎもない笑みをたたえて続ける。
「50年以上傍観して何も動きがない今が、チャンスなんだ」
——その瞬間。
マキマの口から出た言葉を聞いたデンジの中で、すべてのピースがカチリと音を立てて噛み合った。確信に変わった。
(やっぱ、そうなんだよな……)
デンジだけではなく、マキマもまた記憶を保持したまま、この同じ人生と歴史を繰り返していた。
だが——そこには致命的な「食い違い」が存在していたのだ。
マキマの場合、彼女の周回記憶は「途中で途切れている」。
彼女の世界の記憶や流れてくる情報は、ある過去の段階で更新が止まってしまっているのだ。
(これまでの行動、全部そういうことだったんだ。マキマさん、気付いてねえでここまでやってたんだ……)
50年以上の傍観。先の領域。メイドウィン。
彼女は自分が世界の頂点に立ち、理想の『ハッピーエンド』を作るために必死で画策していた。
だが、彼女が追い求めているその結末も、警戒している「先の存在」も——。
(もうとっくに……そんなもん終わってることに……)
マキマがまだ世界の主役気取りで踊っているその舞台は、すでに誰もいない、とっくに幕が下りた後の空っぽの劇場だったのだ。
自分を認識すらしてくれない、愛おしくて、哀れで、愚かな支配の悪魔を見つめながら、デンジは胸のスターターをもう一度、強く引っ張った。
マキマは自分がどういう存在なのか、していたことの意味にも気付かずそのまま語り始める。
「私は少し前から行動を移す時は慎重になっていた、時空犯罪者になるつもりは全然ないけど下手に勘付かれたら革命団と面倒なことになるからね」
「革命団は来ねえ……負けたんだよ」
「負けた? そんなこともあるんだ、だったら尚更デンジ君だけに構ってる暇はないんだ……どうせ君も彼の入れ知恵でこんなことしてるんでしょ?」
「あいつも関係ねえ、関与する前に俺がぶっ殺した……」
「……違う? じゃあどうして私の邪魔をするの? 私がメイドウィンになるのは、世界の為……言うならば立ち向かうための出来事なのは分かるよね?」
「立ち向かうって、今更何にだよ……」
吐き捨てるようデンジの言い草にマキマも大まかな表情は変わらないが眉を潜めるようになっていく、苛立つことがあるらしい。
「私と同じ物を見たのにそれはおかしくないかな? 『結末の無い物語』という形で私たちは4回……いや、それ以上の経験を脳に刻み込んでいるはずなのに」
「4回……違うんだよマキマさん……『5回』だ」
手を伸ばして合図する……周りにも見えるように。
マキマが『4回』でデンジが『5回』……それを周囲にも分かるように合図している。
それはアキ達でも分かる。
(人生が繰り返された数……マキマさんは『4回目の時の認識のまま』って言いたいのか……?)
「5回? 1回増えて何が変わったの?」
「……あいつらァ、あの優男の前の姿にみんな負けたんスよ、奴らはそう言ってた……そうして俺たちはまたこうして生きてる」
「目ェ覚ましてくださいよマキマさん!! もう革命団なんていねえし、時空犯罪者なんて誰一人出ることもないし、何もかもめちゃくちゃになるような世界の数々なんてどこにもねえ!」
「俺達み〜んなアイツに負けて世界が滅んで新しい物に作り直されてさあ!! じゃあもういっかって『あいつ』も『そいつ』も無視してぇと思って関わってねえんすよ大体!! 覚えてる中で未だにあの頃の基準で脳みそ動かして、ラスボスみてえなことしてんのマキマさんだけなんだ!」
「結末は来ねえけどさ……俺達ちゃんと年を取るんだぞ? 終わらないんじゃねえ……代わりがいくらでもいるだけなんだ!!」
デンジはマキマを必死に止めようとしている、何か引き留めるようにすがる。
マキマに同じことをしてほしくない、あいつらと別れられたのに今更同じことを繰り返すのはまっぴらだし……それをやるのがマキマなのも嫌だった。
「だから、何?」
しかしそれはあくまでデンジの事情だ、マキマはずっと同じ思考……世界の為にメイドウィンになり、チェンソーマンの力でよりよい世界を作るのは変わらない。
その為にデンジの胸に手を伸ばす。
「やっぱポチタの心臓が欲しいのかぁ……メイドウィンなんてもうなれねーってこんなに言ってるのに」
「なれるならなるくらいで計画を進めていたからね、言いたいことが終わったならもうそれでおしまい、私の邪魔をするなら死んで」
「……やだね!! 俺がこうして生きてんのは!!」
「出来るだけあいつをぶっ殺した上でなぁ……マキマさんをハッピーな楽園に送り返してやるためなんだっての!!」
その時、デンジのチェンソーは空を切って……そのまま何かをぶった切る……切った感触にあったのはウルフリーと非現実の悪魔……その残煙がカラーテレビの中に残っていたようであり……それを口に入れようとする。
「マキマさんがいねえ間にポチタの力も結構使えるようになったんだぜ俺、地獄のヒーロー見参だ」
そうして非現実の悪魔と勇気の魔人のカスを近づけながら脅すように刃を向ける。
「こうなったらマキマさんがずっと欲しがってた力を俺は好きなように使う、この世から勇気と非現実を消しちまったらどうなると思う? マキマさんはなんも出来ねえよなぁ〜?」
「本気じゃないでしょ……それ?」
「やっぱ分かるか、じゃあしょうがねえか……」
デンジはなんと……無理矢理胸に手を突っ込んで心臓を引っこ抜く……血管はまだ伸びているがその心臓はポチタそのものであるように顔がついていた。
「こいつを俺が呑み込めばこの世からチェンソーマンがまたいなかったことになる……なあ、どうするマキマさん、アンタだって同じ人生繰り返してるならホントは分かってるでしょ」
ポチタが自分に従う気が全然ないのに、理想のチェンソーマンを求めてすがっていることに……。
牽制しているデンジの動き、それは説得にしては暴論すぎる流れでアキとしてもヒヤヒヤしてくるが……様子がおかしい。
マキマの反応がみるみる変化していく……狼狽えているというよりは、普段クールな彼女が焦っているところを見るのは初めてなのかもしれない。
「……どうして?」
「そんな顔を見るのは久しぶりだなぁマキマさん、よしじゃあ次は……よし、アネモネちゃんでも食ってこの世から死を消してやろうかな」
デンジはこうなった時、何をしてかすか分からない……。
本当にやってもおかしくないというのに全く動きがない……マキマからすれば面倒事や事件の種でも起きればすぐに『奴ら』が飛び込んでくるのだろう。
たとえ負けたとしても新しく集まって、奴らは新たなヒーローとして自分の敵になり、下手すれば自分はやられ役になる……はずだった。
しかしデンジがここまで何もかもめちゃくちゃやっても、何も起きないのだ。
「どうして……こんなことが起きても誰も来ないの……かな……」
「分かったでしょうマキマさん……もう、あいつらがなんかしたところで誰も関わる気もないってことだよ、俺もここまでやってやっと意味も分かったところだけどな」
「まさか……本当に……時空が無くなって……」
デンジの言っていることが理解したマキマは、へたりと力が抜けるように地面に座り込んでしまう。
彼女でさえもこれまでのことに無理をしていたのだろう。
……自分のやってきた事が、見えない焦りが……想定していた未来が、ここまでやっておいて全部無駄になってしまったのだから。
膝から崩れ落ち、地面にへたり込んだマキマの姿を、遠巻きに監視していた岸辺と早川アキは静かに見つめていた。
あのアブソリュートで底知れず、圧倒的な絶対者として立ちふさがっていた支配の悪魔が……今はただの虚無に囚われた一人の女性のように見える。
無数に配置されていたカラーテレビの画面も、役割を終えたかのように次々と静寂の黒へ戻っていった。
岸辺は懐から煙草を取り出し、ゆっくりと火をつけた。紫煙を吐き出しながら、隣に立つアキへぽつりと語りかける。
「お前も聞いたことはあるだろう、刑務所で囚人に対して行われる……穴を掘らせて、その穴をすぐに埋め直すというものを」
「ひたすらに無駄を繰り返すことで囚人の士気を落とさせるという……有名なものですね」
アキは淡々と答えた。不条理で過酷な労働そのものよりも、「自分の行いに何の意味もない」と理解させられることこそが、最も深く精神を破壊する。
「これまでのマキマはそんな感じだ」
岸辺の言葉の裏にある意味を、アキは噛み締めた。
彼女は自分の理想とする『ハッピーエンド』や世界の救済を目指し、毎日のように数々の異常事態や悪魔の仕業を自ら裏で仕込んでは、セーブポイントのように時間を巻き戻し、自ら片付けてみせるという自作自演を無限に繰り返してきた。
デンジの体感で20回以上にも及ぶその不毛なループは、彼女自身にとっても「自分は世界のために戦う特別な存在である」と思い込まなければ、到底耐えられないほどの虚無だったはずだ。
だが——その張り詰めた糸を、デンジが破った。
「もうお前の舞台には誰もいない」「やっていることは全部無駄だ」と、あまりにも残酷な真実を突きつけてしまったことで、マキマという存在の根底にあった前提が完全に崩壊したのだ。
信じがたい光景だったが、これでようやく、果てしないループの泥沼が終わった。
マキマを『支配の悪魔』として拘束することが決定し、これで死・戦争・飢餓、そして支配という「黙示録の四騎士」の全てが公安の管理下に置かれることになる。
「そんな事が可能なんですか? いつ同じように時間を巻き戻して繰り返すかも分からないのに……」
アキの懸念に、岸辺は短く鼻で笑った。
「どっちにしても、あの様子じゃ向こう300年くらいはやる気が出ることもない……それにあいつの言うことが真実として確定させてしまった以上、この後の方が面倒だ」
マキマが恐れ、警戒していた「世界の先の領域」や悪魔以外の脅威。それらが現実に存在する以上、公安は今後、悪魔だけにとどまらない新たな脅威への対策や下準備に追われることになる。
その莫大な負担や対応を考えれば、心神喪失状態となったマキマの身柄やケアは、彼女の不条理を唯一正面から受け止めて止めてみせたデンジに任せるほかないのだった。
荒廃した街の真ん中で、デンジは胸のチェンソーを収めると、どっと溢れ出した疲労感に耐えかねてその場に座り込んだ。
目測24回目にも及んだ死と再生の記憶、そして果てしない説得の果てに、ようやく辿り着いた静寂だった。
地面にへたり込んだまま動かないマキマの隣に、デンジは腰を下ろす。
彼女は透き通るような瞳で空を見上げたまま、動かない。
「マキマさん、俺ぁ……公安抜けることになりました、クビっていうかなんか……別の特別区域に行くように言われてさぁ……」
デンジが頭の後ろを掻きながら呟くと、マキマはゆっくりと、力なく首をこちらへ向けた。
「……じゃあ本当にデンジ君、ぬいぐるみ作る仕事やるつもりなんだ」
「別にデビルハンターを辞めることはないんですよ、毎日ステーキ食えるような贅沢を知った所で昔の思い出が腐るわけでもねえから、相変わらずですよ俺は」
デンジは弱々しく苦笑いを浮かべた。
過酷な地獄のような環境で生きてきた自分にとって、急に「普通の幸せ」を与えられても上手く扱えないことは分かっている。けれど、だからといって投げ捨てるつもりもなかった。
「俺は軽〜い気持ちでこの仕事に入ってマキマさんみたいな人と出会ったけどよぉ……この生活を続ける為なら死んでもいいぜ」
一度はマキマに喰われ、殺され、全てを奪われかけた。それでもデンジは、彼女を憎みきることができなかった。
かつてのように命を奪って終わりにするつもりはない。
世界を支配する悪魔としてではなく、何もなくなったこの新しい舞台の上で、マキマがこれからどうやって生きていくのかを、デンジは見届ける気でいた。
「今の俺たちはちゃんと年取るんですよ、最初に物語が始まる時に活躍してた魔法少女も今はすっかりおばあちゃんな年だからなぁ……俺、今度はちゃんとジジイになってみてえんだ」
何度やり直しても成長しない、終わらない人生を繰り返すのはもううんざりだった。
傷つき、すり減りながらも、時間と一緒に老いていく。それこそが、デンジの望む本当の「生きる」ということだった。
無数のカラーテレビが映し出していた不条理な劇伴は消え去り、風の音だけが周囲を包み込んでいく。
観客のいない劇場で繰り広げられていた長かった映画が、ようやくここで、静かに終わりを迎えようとしていた。