ダンボールに雑に詰め込まれた荷物を横目に、デンジは部屋を見回した。
何度も繰り返し過ごし、何度も散らかしてきたはずの早川家のリビング。だが、今のデンジにとっては、どこか遠い記憶の残骸のようにも感じられた。
1997年の雰囲気を精密に再現したこの東京地区から、デンジは離れることになる。
目測20回以上の周回の中で、数え切れないほどの出来事があったが、生まれ育った場所の周辺から離れるような大掛かりな引っ越しは、デンジにとってこれが初めてのことだった。
公安を辞め、一人の人間として暮らすための旅立ち。
デンジは玄関で靴の踵をトントンと鳴らし、後ろを振り返った。
「短い間だったけど世話になったなぁ先輩」
「……お前の場合本当に短い間か?」
腕を組み、壁に寄りかかった早川アキが、呆れたような、けれどどこか柔らかい呆れ顔で吐き捨てる。
何十回もの人生の記憶を抱えるデンジにとって「短い間」という言葉がどれほど歪んだ意味を持つのか、アキもよく分かっていた。
今回のマキマの件を受け、世界に潜む『目立ちたがり屋』の今後の動きの監視と調査を行うため、公安はデンジをはじめとする一部の人間を全国各地へ分散配置することを決定していた。
この家で一緒に馬鹿をやっていたパワーもまた、別の場所へ赴くことが決まっている。
「パワーのやつのの行き先って確か白革県……とか言ったよなぁ、俺も初めて聞いた所」
「少し前に作られたばかりの前例のない48個目の都道府県にして日本内の独立国だからな……おおかたあの場所に大総統と呼ばれる存在がいると聞いて推薦したんだろう……お前はどこに行くんだ?」
「もうちょっとすれば本格的に完成する歌舞伎町の特別区域だな、確かあっちは2012年を再現してるとか」
デンジは頭の後ろで手を組みながら答えた。
新しい生活の場として与えられたのは、家と最低限の生活費。
そこへ行き、歌舞伎町で小さな店を開き、セカンドライフとしてぬいぐるみでも作りながら静かに過ごす手はずになっている。
だが、これは単なる永遠の別れや終焉ではない。
いつか遠くない未来に訪れるであろう、新たな脅威への備えとしての配置転換だ。かつてデビルハンターとして悪魔と戦ってきた彼らは、これからは悪魔以外の理不尽や脅威とも戦う術を、それぞれの場所で学んでいかなければならない。
……そして。
ただ一人、早川アキだけが、この再現された1997年の東京地区に、この家に残り続ける。
「なあ、アキ……銃の悪魔の事だけどよ」
デンジがふと投げかけた言葉に、アキは視線をわずかに落とし、ポケットから煙草を取り出した。
「…………マキマさんから尋問で聞いたよ、もうとっくに拘束されてバラバラになっているんだろ?」
ライターの火が煙草の先に移り、紫煙が天井へと昇っていく。
アキが家族を奪われ、人生の全てを賭けて憎み続けてきた「銃の悪魔」という復讐の対象。それは最初から、正式な単一の存在としてはこの世に存在していなかったのだ。
世界中でその肉片が奪い合われ、かつてデンジたちが知っていた歴史以上に、怪しい流通と歪みをみせているのが現状だった。
復讐の行き場を失った男は、それでもどこか憑き物が落ちたような、静かな目をしていた。
デンジには分かっていた。なぜアキが他の場所へ移動せず、この思い出の詰まった家に残り続けるのか。
それに口を挟む権利など、今の自分にはないことも。アキは自分自身のためにここにとどまり、そしてその選択にどこかで満足しているのだから。
アキは煙草を吐き出すと、まっすぐにデンジの目を見た。
「デンジ、お前は生きろ、普通の生き方が分からないならせめてお前は寿命でくたばるまで生き続けろ」
「……アキ?」
「そして暇が出来た時だけ後ろを向いて、いつでも俺達の思い出を振り返れ、女しか興味がないようなお前に俺の顔を一瞬でも刻め」
不器用で、けれどどこまでもまっすぐな言葉だった。
かつてのアキなら、素直にならず口が裂けても言わなかったようなセリフ。
繰り返される無情なループの中で、アキはいつもデンジの目の前から消えていってしまっていた。だが今、こうして互いに生き延び、正面から言葉を交わしている。それだけでも、デンジが死に物狂いで手繰り寄せたこの結末には、十分すぎるほどの意味があったのだ。
デンジは鼻をすすると、いつものニヤけた笑みを浮かべてみせた。
「俺の仕送りはブサイクなやつにしておけ」
「俺ぁモテたいからカワイイもんしか作りたくねぇなぁ」
軽口を投げ合い、デンジは背を向けた。
開け放たれた玄関から外へ踏み出す。振り返ることはしなかった。
こうしてデンジは、早川家と、そして早川アキと別れた。
——
……一旦デンジがこの地区を離れてから、少しの時が流れた時の話をしよう。
一年半くらい経って、東京特別地区『新宿歌舞伎2012』が完全に完成を迎える頃……デンジは小さな店で不器用ながらも色とりどりのぬいぐるみを縫い合わせる日常を送るだろう。
たまに送られてくるアキからの不愛想な手紙や仕送りに、悪態をつきながら笑うような毎日。
そして——。
かつてデビルハンターとして「呪いの悪魔」などの強力な代償を使い続けた結果、元より残された寿命がわずかだった早川アキは。
思い出の詰まったあの家で、静かに、一人でその生涯を閉じた。
誰にも看取られることのない静かな最期だったが、その表情にはかつてのような焦燥も、復讐の苦しみもなかったという。
彼の遺体は公安の手によって運ばれ、彼が幼少期を過ごした故郷、北海道の深い雪の中にそっと埋葬された。
しんしんと降り積もる白い雪が、彼の過酷だった戦いと、最後に手に入れた小さな平穏を優しく包み込んでいく。
命を使い果たして眠りについた男の墓標の上に、ただ静かに、北国の風が吹き抜けていた。
——
引っ越しの荷物を車に積み込み終えたデンジは、出発する前のわずかな時間を使って、久しぶりに公安の職場へと足を運んだ。
あの一件が静かに幕を閉じてから、少しの時が流れている。
かつて活気に満ちていた、あるいは異様な殺気を孕んでいた特務4課のフロアは、今は驚くほどがらんとしていた。すでに何人かの職員やデビルハンターたちは、全国各地の別の地域へと旅立っていった後だった。
かつて公安に所属していた悪魔や魔人たちも、時代の変わり目を感じ取ったのか、それぞれの立場を変え、振る舞いを変え、世の中に上手く潜み立ち回っているらしい。
結果として、この東京の公安から旅立つ順番が最後になったのは、デンジだった。
デンジは静まり返った廊下を抜け、足音を響かせながら地下へと続く階段を下りていく。
分厚い扉の先にある、薄暗い悪魔の収容部屋。
そこに、仲間たちが去った後も変わらず残り続けていたのは——『死の悪魔』だった。
薄暗がりの中で、死の悪魔がゆるやかにデンジの方を振り向く。
「皆こうしていなくなっちゃうから寂しくなると思っていたよ」
静かな声が、冷たいコンクリートの壁に反響する。デンジは首の後ろを掻きながら、収監スペースを覗き込んだ。
「そっちはずっと狭いところで過ごすのか?」
「そっちが思うほど不便じゃないよ、許可を貰えたら外出くらいはさせてもらっているから」
死の悪魔はどこか他人事のように、淡々とそう答えた。
悪魔という概念は、今後も野放しにしておくわけにはいかない。
これまでと異なり、いまや公安は『支配の悪魔』を厳重な監視下に置いている。支配の悪魔が持つ「自分より下だと認識した存在を従わせる能力」を考慮すれば、この場所に余計な悪魔を多く残しておくことは極めて危険なリスクとなり得る。
そうした判断もあり、地下の収容区画はかつてないほどに静まり返っていたのだった。
そして——肝心の『支配の悪魔』こと、マキマがどうなっているかと言えば。
彼女は今、公安の最深部で、二重三重の厳重な封印と拘束のもとで保管されていた。
現在の彼女は、まるで精巧な人形のように大人しく、特筆すべき反応を見せることもない。だが時に、心拍や呼吸すら途絶えたのではないかと錯覚するほど、生命反応が極限まで小さくなることがあった。
この完敗と停滞の結末を、彼女自身が受け入れているのかどうかは誰にも分からない。
公安は、いつか彼女が再び動き出す未来を想定し、永続的な監視体制へと移行していた。
もし仮に、デンジが語っていたように300年という長い月日の果てにマキマが目を醒まし、再び動き始めたとしたら——その時、世界には一体何が起きているのだろうか。
死の悪魔は知っていた。この物語は、まだ完全には終わっていないということを。
かつてマキマが『非現実の悪魔』と交わした契約。それは、自らの能力の適用領域を拡張する見返りに、特定の時間軸を26回巻き戻し、発生した異常現象を完全に収束させるというものだった。
その契約が成立する前提として、認識上、チェンソーマンと呼ばれる男——デンジは「26回死ぬ」必要があった。
だが、デンジが今日までに経験し、脳に刻み込んできた絶望と死の回数を数えてみると——。
まだ24回。
仮に今日、この場で命を損なうような事態を試みたとしても、せいぜい25回目だ。
どうあがいても、「あと1回」が足りない。
マキマ自身が意思を持って行動を停止してしまった以上、この空白の1回が自ずと埋まることはないのだ。
そして、マキマと契約を結んでいた『非現実の悪魔』もまた……完全に死滅したと呼ぶにはあまりに曖昧な存在だった。
過去のあらゆる前例が示している通り、それは遠い未来のどこかで、今度は悪魔という形すら捨てた別の姿をとって、再びこの世界に現れることになるのだろう。
不穏な静寂の中、デンジは口を開いた。
「今からマキマさんに会えるかな?」
死の悪魔はデンジを静かに見つめ返し、ゆっくりと頷いた。
「会えると思うけど反応するか分からないよ、五感の機能が凄く退化しているそうなんだ……それと、終わったら私にも声をかけてくれないかな、私も準備するから」
「おう、わかった」
デンジは短く答え、さらに奥にある最深部の収監部屋へと足を向けていく。
重厚な扉の向こう、照明を極限まで落とされた部屋の中央に、彼女はいた。
四肢を隙間なく強固な金属で拘束され、両目には厚い目隠しが巻かれている。あのアブソリュートで圧倒的だった支配の悪魔の影は、どこにもなかった。
だが、その哀れとも思える姿を目にしても、デンジの胸に悲壮感や理不尽に対する怒りが湧き上がることはなかった。
ただ、どこか遠い場所に行ってしまった人を見るような、静かな眼差しだった。
本当にデンジの足音が聞こえているのか、声が届いているのかすら分からない。
デンジは拘束されたマキマのすぐ脇、冷たい床の上にドカッと腰を下ろした。
膝を抱えるようにして、デンジは彼女に向かって静かに語りかけ始めた。
「俺、ちゃんと幸せになりますよ、マキマさんがぶっ壊そうとしたときぐらいに満足出来る生活を送ります」
部屋の中に、デンジの飾らない声だけが低く響く。
マキマはピクリとも動かず、目隠しの下で息をしているのかどうかすら怪しい。
デンジはほんの少し笑みを浮かべ、胸の奥にあるあたたかい温もり——静かに眠る相棒の存在を感じながら、言葉を続けた。
「その時いつか、ちゃんと俺が幸せを理解した時にまたポチタに会いに来てやってください」
返事はない。
けれどデンジはそれ以上何も言わず、満足したように立ち上がると、振り返ることなくその部屋を後にした。
これから始まる新しい生活と、未だ満たされぬ「最後の1回」の予兆を抱えたまま、チェンソーマンと呼ばれる男の物語は、ひとときの静寂の中へと歩みを進めていく。
——
話を終えたデンジはまた死の悪魔のところに戻ると、ゆっくりと檻を空けて手を握る。
実は死の悪魔……もとい、これからも名乗っていくアネモネは少し前に『普通の生活を守ってほしい』と契約したこともありデンジがチェンソーの悪魔共々保護や監視という形でそばにいることになった。
戦争の悪魔はアメリカに帰り、飢餓の悪魔はとある村で籠ることになって……四姉妹もまたバラバラになる。
「私で良かったのデンジ君?」
「一人で働くのなんてめんどくせぇでしょ、ぬいぐるみ作るだけでやってける仕事じゃねえしアネモネちゃんだってデビルハンターやってたんだろ?」
「私、あのレンタルビデオ屋置きっぱなしなんだけどなぁ……まあ、観る人なんてマキマくらいしかいなかったしそっちで働くのも悪くないけど、歌舞伎町なんて全然縁がないからちょっと期待できないかもよ」
「それ言ったら俺だって歌舞伎町なんて言ったことね〜よ、それにこれからジジイになるまでの付き合いなんだ、アイツとも相当長いこと殺し合うぞ」
死の悪魔を連れて用意された軽バンに二人で乗り込みエンジンがかかる……一度車が動き出せばもうこの1997年を再現した場所からはおさらばして、歌舞伎町に行くまでに2071年の景色を見ることになるのだが……。
「そんな全然変わんねぇなあー、ここの景色」
「うん、あそこも昔の雰囲気だけ再現しただけで外も令和前期からあまり変わってないみたいだね」
車が首都高から郊外へ抜ける頃、助手席の窓ガラスに細かな雨粒がぽつぽつと当たり始めた。アネモネは水滴を指先でそっと拭い、乾いた笑みを漏らす。
「ねぇ、デンジくん。デビルハンター達って……何のために戦い続けていたんだろうね」
ハンドルを切る運転手を横目にデンジは肩を竦めた。
「さあな。全体の話でも、少なくとも“生きてる”って証拠になるじゃねえか。死んだら全部無駄になるけどよ」
「ふふ、やっぱりデンジ君君らしい答えだ」
沈黙が落ち、ワイパーの規則正しいリズムだけが響く。前方に建設中の巨大看板──〈Welcome to Kabukicho 2012〉がぼんやりと灯っていた。
「新しい店……本当にぬいぐるみ屋でいいの? もっとお金になりそうな仕事もあるのに」
「元々は悪魔対策の仕事だったんだがなぁ、試しにやってみよーと作ってみたらこれが結構愛嬌あるもんでな、俺がやりてぇって決めたことだし」
デンジは特別区域に入っていくのを見て、今になって思い出したかのように手帳を見る……タイムリミット、ここまでマキマが契約の縛りとして掛けていた『7000』という数字……それを思い出していた。
「なぁアネモネちゃん、あのタイムリミットって今もあるのか?」
「まだ全然あるけどそれが?」
「もうそれに従う理由もねえしさ、ちょっと試してみたいんだけど6000くらいで終わってみないか?」
「何? ここで死んじゃダメだよ」
冗談交じりに語る死の悪魔にデンジは持っていたものを窓から捨てて、特別区域『2012年の歌舞伎町』へ入っていく。
捨てていった紙切れは形が変わっていき、人々に示すように『THE END』の字幕に変わっていき……まるで映画の終わりを周りに示すように空に昇っていった。
これで、デンジのお話と歴史はエンドロールに向かい、新しい舞台と新しい主人公で……また次の争いが生まれていくことだろう。
しかしそれは何にした所で、何年先、何ヶ月先のことである。
ひとまずこのお話は、ちょっと早いがこれで終わった。
新しい土地、新しい店を前に背伸びをしながらデンジは戸を開ける。
「まぁ……ひとまずはコツコツ働いて、働いてしっかり生きていきますか!」
しかしお話が終わっても少年の人生はこれから始まる。
この結末のない物語の中で。
『第7層』
【チェンソーマンDDDEADLoad】
『おしまい』