「俺さぁ、この間ステーキを山ほど食った夢見たんだよな、こっちでもぶ厚めの肉が食えたらなぁ」
「お前……ちゃんと食ってるものが腹に入るだけ有難いと思えよ」
デンジは相変わらず病院のベッドから出られず入院生活を送っていた。
ここのところ毎日彼が食べるのは、健康重視の味気ない野菜の和え物のような物ばかりである。しかし、こんなものでもここから出るために必要な物なので、文句も言わず大人しく口に運んでいた。
容体の方は……胃腸などには問題ない。身体の調子が整えば退院して公安に復帰できるはずなのだが、まだそれには時間がかかりそうだった。
それに……デンジは実のところ、自分の問題はそれだけではないことを薄々理解している。
RFDの影響で軽く発症したはずの後天性の病は彼の視力に深刻な影響を及ぼしており、このまま病院から出たとしても、いつか完全に失明する。手術すればなんとかなるかもしれないが、個人的な治療を受ける大金は今のデンジにはないし、保険証の類いも昔から持っていない。
(それなら、このまま目が見えなくなった後にどう生活するか、そういう方向で考えた方がいいのかもな……)
そんなことをぼんやりと考えながら、その日は泥のような眠りについた。
そして翌朝。目が覚めたデンジの視界に広がっていたのは、朝日ではなく、辺り一面の絶対的な闇だった。
「早くね?」
なんという不運か。デンジは退院する前に、完全に失明してしまった。
視界の裏側に潜むものにはまだ気付かないまま……。
——
その一方、公安対魔4課の方でもデンジが失明した事実を察知し、マキマはすでに対策を開始していた。
彼女にとって、デンジの目が見えなくなること自体は些細な問題だった。本当に厄介なのは、その「その後」に訪れる現象だ。
……例えるならそれは、クトゥルフ神話に語られる『ティンダロスの猟犬』。
通常とは異なる別次元を行き来しているため、普通の人間なら見ることはない。しかし、何らかの手段で時を超越してその姿を確認してしまうと、猟犬は時空を超えてどこまでも追いかけ回し、最後には餌になることが確定する。
「何も見えない状態になって初めて『見えてしまう』物も、この世には存在しているの」
マキマは冷徹な声で、4課の面々に告げる。
何も見えなくなるということは、光を失うということではない。視界を失ったデンジの領域を埋め尽くすのは、漆黒の景色と、人間の認知を拒絶する名状し難き闇。
一度も地獄に行ったこともない、人間の理解を超越した恐怖と力を持つ圧倒的な存在──『闇の悪魔』。
最底の根源的な恐怖を宿すそれは、視力が完全に尽きて闇しか見えなくなった際、その「暗闇」を媒介にして唯一視認できてしまう悪魔だった。
それを少しでも「見て」しまい、そこに「いる」と理解しただけで、生半可な悪魔も人間も瞬く間に死に絶えてしまう。見境なくだ。それはまるで、闇の悪魔が手向ける死のダンスを踊るように、周囲を巻き込んだ一人舞台と化す。
「幸いなのは、入院しているデンジ君自身が、まだ動ける状態ではないということ」
マキマの目が、感情の読めない光を宿す。
闇の悪魔がデンジの「視線」に誘われてこちらの世界へ現れる前に、彼を安全な場所へ隔離しなければならない。
「4課はこれより、デンジ君の隔離作戦を決行します。手遅れになる前に」
──窓の外は奇妙なほどに静まり返り、東京の街に、じわりと不自然な影が伸び始めていた。
……
「なんも見えねぇ〜……余計に何も出来なさそうだ、そういや点字とかいうのあったよな……ちゃんと分かるようになってんのか?」
公安の決死の作戦も知らずにデンジは能天気にベッドで今後について考えていた。
見えない世界でどう生きるのか……目玉を半分売ってまで借金返そうとした時期もあったが半分と全部では全然違うことを実感している。
今は技術が進歩しているので読み上げなどで不便なことは少ないが……何が起きているのかも分からない。
アキ達が命がけで救出しようとしていることは、もちろん知らない。
——
まるで重武装した立てこもり犯が中にいるかのように緊迫した雰囲気の中、大勢で病院内に乗り込んでいく。
まだパニックも血の匂いもないのでどうにか闇の悪魔が来ていないことは分かる。
これから先、見えないことを利用して闇の悪魔がぶらりと通りすがるより先にデンジを失神させて回収することがミッションだが……アキとしては隔離と聞いたがデンジがどうなってしまうのか気になって仕方ない。
「おいパワー……デンジはこれからどうなると思う? ウチに手厚く待遇や治療受けさせてくれる予算や余裕はあったか?」
「そんなもんがあるならワシ専用のプライベートルームくらい抑えられるじゃろ、その闇の悪魔とかいうやつを誘い出すための撒き餌にされるか、最悪殺処分といったところか?」
「おい……殺処分だと? いくらなんでもそんなことは」
「可能性じゃ可能性、目ん玉ダメになるくらいでそんなことに……な……」
パワーはあくまで闇だけにブラックジョークのつもりで発したことはアキも分かっているから本気では怒っていない。
しかし後ろから見えるマキマのあの冷たい顔……あれは、本気だ。
まさかこのまま明け渡したらデンジが……?
ゾッとしたアキはマキマに近付き、事情を話すとコベニも怯えて暴力の魔人に寄りかかる。
「ま……待ってくださいマキマさん、何も殺す必要まではないのでは……?」
「うーん今回は俺もアキ君に賛成、いつ見ちゃうかというリスクがあるからまた見えるようにすればよくない? ほら、病気系の悪魔が弱まるくらいには最近の医学は発達して……」
「目が見えるようになったら済むような事だったら最初からこんなこと言わないよ、これは……日本の異常事態だよ」
マキマはそう言いくるめてそのまま突き進むことになる……デンジの病室まで迫り、辿り着いた時……一体何が起きてしまうのか?
——そして、そんなことは全く気づいていないデンジの方はというとやはりベッドの上で暇。
元々動けない上に景色を見れないとなると完全に暇を潰す手段がなくなっていた……そんな時ノックして引き戸が開く……しかし今のデンジには声がするまで誰が来たのか見当もつかない。
ベッドの上にのしかかるような……といっても、兎のような小動物が膝に乗っかるぐらいの重みがデンジに感じる。
「私だよ」
「えっと誰だ? 声的には確か……マキマさんの姉ちゃんだっけ」
「そう、ちゃんとアネモネちゃんのこと覚えてね」
アネモネは座りながらかくかくしかじかの要領で、デンジは闇の悪魔を見るかもしれなくてヤバいということと、それの対策のために4課は隔離しようと近づきてきてることを話した。
要するに見えない状態でヤバいのでマキマさんが助けてくれる……という解釈でデンジは捉えるが……。
「ねえデンジ君、聞いたことある? プリンに醤油をかけると……」
「お〜有名だな、ウニの味になるらしいし俺もやったんだけど分かるわけねえじゃん、俺ウニ食ったことねえもん」
「じゃあウニを実際に食べてみて、醤油かけたプリンと違う味だったらガッカリする?」
「ああ……なんか期待外れか? みたいな感じはするかも」
「だったらウニが食べれないほうが私はいい、ウニっぽいウニを満足出来なくなるなら」
「俺はどっちかというと両方まとめて食いたいけどなぁ〜」
「あ〜そういう考えもある……じゃあ例えには適してなかったかも、ごめん、私が言いたいのは……見えないままで良かったような事もあるにはあるってこと」
「……もしかして気遣ってんの? 俺のこと」
「うん、なんだかんだ私も君のことが心配ではあるし私が契約していた非現実の悪魔のせいだからね」
「あいつなんなの?」
「あいつはね……」
話している途中だった、ついに4課が引き戸を空けてデンジに追いつき……マキマとアネモネがまた邂逅する。
「どけ」
「お姉ちゃんにどけはないんじゃない? マキマ」
それはマキマとは思えないほど重く冷たい声であり、アネモネもマキマに対してどんな顔をしているのか……どんな争いになりそうなのかも分からない。
しかしアキは不安そうに隙を見て……デンジを回収したかったのだが……。
アネモネもアネモネで恐ろしい物を感じる、アレは何者なのか……マキマの姉という時点でただものじゃないことは分かるのだが。
「どうせ闇の悪魔にかこつけてやりたいことやりきる気なんだよね、ダメだよそうやって短絡的な手を取ろうとするのは」
「どちらがそれを? 非現実の悪魔を知ってて目の届く範囲に収めていたくせに」
「これでも三女に始末してもらうの苦労したんだからねアレは、間違いなく人類にとって害となると思って二度と現れないように始末して……ウルフリーだっけ? アレが狼狽えたなら正解かな」
しかし見えないこともあって、デンジはどうにも話についていけないという時にアネモネはデンジを持ち上げる。
「じゃあデンジ君は貰っていくから」
「え? ちょギャアアアアアアア!!」
息をつく暇もなくデンジは持ち上げられて、何も分からないまま何かにぶつかって落ちる感覚に支配される……アネモネがデンジを抱えて窓ガラスをかち割り、外から逃げ出して俊敏に屋根を飛び越えていった。
かと思えばマキマの方もガラスを割る勢いで突っ込んでいき誰にも止められないスピードで追いかけていく。
「どうしよっかアレ」
「どうしようかって……止められなくないすか」
後から合流した公安の人たちもざわざわし始めるが……そんな中でアキは集まってくる人々の中を掻き分け外へと向かっていく……アネモネもマキマも、デンジに対して何か企んでいる? そんな不安が離れないのだ。
ガラスの爆砕音が、東京の澱んだ空気に鋭く響き渡った。
アネモネに抱えられたデンジの身体は、重力から解き放たれたかと思えば、次の瞬間には凄まじい風圧に晒されていた。視界は文字通りのゼロ。完全な暗闇の中で、平衡感覚だけが狂ったように警報を鳴らしている。
「うお、あ、ぶねぇ!? ギャアアアアアア!!」
「暴れないで、デンジ君。舌を噛んじゃうよ」
アネモネの声は、風を切り裂きながら走っているとは思えないほど平然としていた。彼女はデンジを小脇に抱えたまま、民家の屋根から屋根へと異常な跳躍を繰り返す。
だが、その背後に迫る足音は、到底人間のそれではない。
ドォン、と建物の屋根が文字通り爆発するような足音が、すぐ後ろから追いかけてくる。マキマだ。彼女は人間離れした脚力で、直線的にアネモネの軌道を猛追していた。
「どけって、言ったでしょう」
マキマの声が、すぐ耳元で囁かれたかと思うほど近くから響く。
その瞬間、マキマの命によって呼び出されたであろう、公安が使役する複数の悪魔たちがアネモネの進行方向に立ちはだかった。肉塊のようなもの、無数の四肢を持つもの──それらが牙を剥く。
しかし、アネモネは速度を一切落とさない。それらの悪魔を「通り抜ける」ように、空間の隙間を滑り落ちるかのような軌道で、全ての迎撃を無力化して突き進む。
埒が明かない。マキマの執念は、アネモネの想定をも上回っていた。
ひたすらに走り続けた先、肌を刺す空気が湿り気を帯び、潮の匂いが鼻腔を突いた。
──海だ。
アネモネは海岸線へと躍り出る。このままではデンジがどうなるかも分からない。そして、デンジ自身も自分がどんな最悪の事態に巻き込まれているのか、さっぱり理解できていなかった。
胎動する闇にも気付かない……
だが、デンジの身体にも、確実に「異変」が起き始めていた。
何も見えないはずだった。網膜は光を失い、絶対の闇が視界を支配しているはずだった。
それなのに、波が激しく揺れているのが「分かる」のだ。
(なんだ……? 水の音がやけにデカく聞こえる……いや、それだけじゃねぇ)
何もないはずの暗闇の奥から、水面波のようなものが広がり、こちらへ向かって急速に迫ってくる感覚。それは極めて不安定で、名状し難い造形をしていた。
見えないはずなのに、なぜかそれが分かる。どことなく、人の形をしているようでもあり、その表面には無数の「目」のようなものが蠢いている気がする。
確かなのは、そいつが確実に自分を探して、ここまで一直線に来ているということだ。
最初から目をつけていたのか。あるいは、自分が気付いていないだけで、ずっと、ずっと昔から、すぐ傍の闇の中に潜んでいたのか。
「はぁ、はぁ、……デンジ……! マキマさん……!」
その時、満身創痍で二人を追ってきた早川アキが、奇跡的にその場へ合流した。マキマとアネモネの二人が、海岸線で張り詰めた空気を漂わせて対峙した、まさにその瞬間だった。
デンジは、自分の視界の裏側で膨れ上がる「何か」の気配を、どうにかして変えたかった。何やら大変なことになっている現在の状況を、少しでもマシにするための、ちょっとしたハッタリのつもりで、彼は叫んだ。
「あそこに、闇の悪魔がいる」
それが終幕のきっかけとなった。
その一言は、世界の理を決定づける引き金となった。
全員の動きが、凍りついたように止まる。
そして──闇の悪魔の方も、明確にこちらを見て、反応した。
人間離れした動きで、その首がぐらりと不自然に曲がる。
全てが真っ暗なはずの世界の中で、なぜか、誰もがその悪魔の姿だけが、嫌になるほど鮮明に、はっきりと見えてしまった。
**闇の悪魔 ××県襲来。**
**存在視認と同時に、約400人の死亡を確認。**
**闇の悪魔がデンジの失明から接近するまでに、周囲の約200体の悪魔がバラバラに崩壊。**
それは、文字通りの天災だった。
ドラマチックなラストシーンなど存在しない。運命の気まぐれは、一瞬で全てを消し去る。
「あ──」
アネモネの身体が、一瞬でバラバラに吹き飛んだ。人間の範疇で言えば、痛覚を感じる暇もない即死。
人形のように四肢と首が吹き飛ぶ直前、早川アキの視界に焼き付くような光景が映った。
バラバラになるアネモネの身体、その首筋から下腹部にかけて、大きな縦線が走っていた。
いや……それは線ではない。空洞だ。
パカリと割れるように、巨大な切れ目が広がっている、下手すればそれは闇の悪魔の攻撃によるものではない、最初から……。
そして、その隙間から覗く内側には──人間に備わっているべき心臓も、胃も、腸も、臓器の類いは何1つとして入っていなかった。
空っぽの、ただの器。
それが、早川アキという男が見た、今世の最期の景色となった。
一方デンジは、自分を拘束していたアネモネの腕が消えたことで、身体が急に楽になったのを感じていた。
しかし、何が起きているのかは全く分からない。
悲鳴が上がる暇さえなかった。周囲のあらゆる物質が、音もなく、凄まじい速度で壊滅していく気配だけが伝わってくる。何1つとして状況は理解できない。
あそこにいる「何か」が、すでにこの領域を支配し、全てを手にかけていることなど、今のデンジは知りもしない。だが、本能が告げていた。あれは、この世にあってはならない、絶対的な超越者だ。
プリンに醤油をかけたらウニの味。
本物のウニを知らなければ、それで満足できたのかもしれない。
だが、今目の前にあるのは、そんな誤魔化しが一切通用しない、本物の底なしの恐怖。
デンジは、何も認知できない漆黒の空間の中で、ただ一人、闇の悪魔と対峙していた。
「なんか……すっげぇヤバい悪魔なことは分かるのは分かるぜぇ、てめぇはなぁ……俺の前に堂々現れやがって、ただで済むと思ってんのかァ!」
見えなくても場所は分かる、ゆっくりとエンジンを点火させてそのチェンソーの刃を闇の悪魔に向かって振り上げて襲いかかる。
これまでの運命、いつも通りの定番だったらあっけなく返り討ちにされて死に絶えてしまうのがデンジのオチだろう。
……だがこの時は違った。
手応え……回転する刃が触れた肉をめちゃくちゃに掻き回したようないい感触がした、それが闇の悪魔に当たったのかはっきり断言は出来ない、見えないのだから。
どんなに攻撃してもそれが闇の悪魔かどうか全然わからない、それっぽいものを潰しているだけでデンジに判別する方法はない……だがデンジは思い出した、悪魔を食べたら概念ごと消滅させられる……。
「ここで俺がこいつを食ったら闇が消えてなくなるんだよな……闇がなくなるってどんな感覚なんだろうな、はっきり見えちまうのか〜?」
食えなかった挽回したい、しかしこんなやつどうやって食えばいいのか……とは思ったが、案外口を大きく開けたらいけそうだと思い、口を開けて突っ込むと……闇の悪魔の方もするりと受け入れるように口に入っていく。
まるで一度消えてみるのを確かめたいかのように……闇の悪魔はぬるりと口の中に吸い込まれて、食べた感触とは別で腹の中に消えていく。
その時……世界から『闇』の概念はなくなった。
最初から闇に関するものが消えてなくなって一瞬のうちに新しい世界になる。
しかしそれでも……闇の悪魔が及ぼした影響が無くなるわけではない。
闇の視界が消えて、また鮮明に戻ったデンジの視界のなかで見えたものは……あちこちの血まみれで命だったたもの、取り囲むパトカー……。
デンジはあの時……『ウニ』を食べるべきではなかった。
それから数日後、デンジはパトカーに取り押さえられて間もなく謎の虐殺犯として死刑が決行された。
……闇は、未だに存在しないままだ。