魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
第1話「Landing」
自分に前世の記憶がある——と来栖涼(くるす・りょう)が自覚したのは、五歳の誕生日のことだった。
ケーキのろうそくを吹き消した瞬間、頭の中で何かの栓が抜けた。三十年ちょっと分の記憶が、ぬるいコーラの泡みたいに噴き出してきた。残業と、深夜アニメと、コンビニ弁当と、独身の1Kの部屋。誰かに自慢できるような人生ではなかったが、別に嘆くような人生でもなかった。
(で、生まれ変わり、と)
五歳児の頭でそれを受け止めた涼は、意外なほどあっさり順応した。前世の彼はその手の物語を浴びるほど読んでいたからだ。転生。よくある話だ。よくある話なら、対処法も知っている。騒がない。目立たない。普通に生きる。以上。
問題は、九歳の秋に起きた。
夕食どきの茶の間で、テレビのローカルニュースが「海鳴市(うみなりし)」という地名を読み上げたのだ。
味噌汁を吹きそうになった。
海鳴市。臨海第八小学校。聞き覚えどころの話ではない。前世で何十回と観た。『魔法少女リリカルなのは』。魔法少女ものの皮を被った熱血魔導戦記。彼の、かなり好きだった作品。
(……いやいやいや。待て待て。落ち着け俺)
その夜、涼は布団の中で天井を睨みながら、五歳のとき以来となる緊急脳内会議を開いた。議題・ここが「なのは」の世界だった場合、俺はどうするべきか。
結論は三十分で出た。
——何もしない。
だってそうだろう、と涼は思った。あの物語に、俺の出る幕なんかない。ジュエルシード事件は海鳴市の局地的な事案で、報道すらされずに終わる。闇の書事件もそうだ。主人公たちは強くて、優しくて、ちゃんと勝つ。分かり合って、トモダチになって、世界は続く。原作は、勝つのだ。
俺の住む町は海鳴から遠く離れているし、魔力の才能があるかも分からない。管理局にスカウトされて執務官コースだ、なんて夢を見るには、前世で社会人を長くやりすぎた。物語の登場人物より、物語の視聴者のほうが性に合っている。
(観客席から応援してるぜ、高町なのは。頑張れよ、フェイトちゃん)
我ながらいい判断だと思った。実際、それは間違いなく、あの時点で選び得る最良の判断だった。
最良の判断が、必ず報われるとは限らない。それを涼が思い知るのは、二年後のことだ。
十一歳の、よく晴れた土曜日だった。
昼飯はうどんだった。テレビは通販番組をやっていた。父親は庭で洗車をしていて、涼は宿題を後回しにしてゲームをしていた。世界が終わる日として、あまりにも締まりのない昼下がりだった。
午後一時四十七分。
空が、割れた。
比喩ではない。青空に亀裂が走り、その向こうに「何もない」が覗いた。黒でも白でもない。色という概念を受け付けない何か。目に映るのに、視覚が処理を拒否する何か。
後に時空管理局が『ファースト・ショック』と呼称する現象の、それが始まりだった。
——地球上で収集されたロストロギア『ジュエルシード』が、遠く隔たったアルハザードに存在した同種のロストロギアと共鳴。二つの世界は歪な形で接続され、その狭間から虚数空間が実空間を侵食した。管理局の記録は、そう述べている。
当時の涼が知り得たことは、もっと少ない。
亀裂から溢れた「何もない」が、地平線の向こうの街を呑んだこと。呑まれた場所からは音が消え、光が消え、そこに街があったという事実ごと消えたこと。テレビが緊急放送に切り替わり、次いで砂嵐になり、次いで映らなくなったこと。
洗車を止めた父親が、ホースを握ったまま空を見上げていたこと。
その父親が——庭ごと、消えたこと。
悲鳴はなかった。轟音もなかった。侵食は静かだった。世界は静かに、面積を減らしていった。
涼と母親は、生き残った人々の流れに乗って内陸へ逃げた。避難所で配られた毛布は薄く、情報はもっと薄かった。人類の七割が消えた、という数字を涼が知るのは、ずっと後のことになる。その時点で確かだったのは、夜、避難所の外に出ると、星空の一部が「欠けて」見えたことだけだ。
(……原作、どこ行った)
配給の列に並びながら、涼は何度もそう思った。ジュエルシードは二十一個。局地事案。少女二人と一匹のフェレットが解決する、始まりの物語。そのはずだった。
どこかで誰かが戦っているのかもしれなかった。あの九歳の少女が、今もどこかの空で。だが涼に見えるのは配給の列と、欠けた星空だけだった。物語の視聴者でいるつもりだった男に与えられたのは、画面の外の、ただの被災地だった。
侵食は、始まりと同じように唐突に止まった。
空の亀裂は閉じ、「何もない」は退いた。理由を知る者は、地上にはいなかった。
——ロストロギア『ジュエルシード』全基の制御および破壊を、一名の魔導師が単独で遂行。虚数空間の侵食は停止。当該魔導師は消息不明、後に殉職認定。記録された名は、ユーノ・スクライア。
涼がその名を管理局の資料で目にするのは、四年後のことだ。
資料を読んだとき、涼は席を立ち、トイレに籠って、少しだけ吐いた。
一年が過ぎた。
残された人類は、残された土地で、それでも暮らしを立て直しつつあった。涼と母親は内陸の集落に落ち着いた。電気は一日四時間。学校はないが、寺子屋のような集まりはあった。母親は笑うことを覚え直しつつあった。涼も、十二歳の子供の顔で笑うことを覚え直しつつあった。
欠けた世界にも、日常は生えてくる。雑草と同じだ。踏まれても生える。
そして『セカンド・ショック』は、その雑草ごと世界を焼いた。
午前三時十一分。
涼は尿意で目を覚ました。それが生死を分けた——と言えるほど劇的な話ですらない。ただ彼は起きていて、集落の外れの、コンクリート造りの給水塔の脇にいた。それだけだった。
地平線が、光った。
一箇所ではない。三百六十度、全周だった。夜の底が白く沸き立ち、遅れて、大気を殴りつける衝撃波が来た。
——暴走した闇の書の転生システムにより、生存人類の約九割が同時多発的に『闇の書の主』として選定される異常事態が発生。各地で顕現した闇の書は魔力過負荷により連鎖的に自壊・爆発。地球人類は事実上の全滅に至る。記録は、そう述べている。
当時の涼が知り得たことは、やはり、もっと少ない。
白い光。迫る衝撃波。熱。集落の方角で膨れ上がる火球。母さん、と思ったこと。動かない足。それでも突き出した両手。
死にたくない、と思ったこと。
その瞬間、彼の内側で何かが破裂するように開いた。使い方など知らない。習ったこともない。ただ、前世で数百時間分見続けた「それ」の映像記憶と、死にたくないという一点だけが、彼の魔力を初めて形にした。
翡翠色の光膜が、少年一人分の球体を描いた。
世界が、白に塗り潰された。
——意識が戻ったとき、朝だった。
涼は灰の上に座っていた。半径数メートルだけ、地面の色が違った。彼の障壁が守った円の内側だけが、昨日までの地面の色をしていた。
円の外は、全部、灰色だった。
給水塔は根本から融けて倒れていた。集落のあった方角には、何もなかった。丘の稜線の形が、昨日と違っていた。
涼は立ち上がり、集落まで歩いた。三十分の道のりを、二時間かけて歩いた。呼んだ。名前を呼んだ。母親の名前を。友達の名前を。寺子屋の先生の名前を。
声は、どこにもぶつからずに、灰色の地平線まで転がっていった。
返事の代わりに理解が来た。ゆっくりと、しかし確実に。
この星の上で、音を出しているのは、もう自分だけかもしれない——という理解が。
涼はその場に座り込んだ。泣いたかどうかは、本人も覚えていない。記憶にあるのは、灰の匂いと、馬鹿みたいに綺麗な青空と、自分の両手だけだ。
翡翠色の光を灯した、自分だけを守った、両手だけだ。
管理局の捜索艇が涼を発見したのは、それから十七日後のことだった。
生存者の探知反応は、惑星全土でも数えるほどしかなかったという。その中で涼の反応は飛び抜けて明瞭だった。理由は単純で、彼が魔力を灯し続けていたからだ。夜、寒さをしのぐために。獣——生き残りの野犬の群れ——を追い払うために。そして半分は、意地だった。音を出しているのが自分だけなら、せめて光も出していてやる、という意地だった。
降下してきた陸士部隊の隊員は、灰の上に座る少年を見て、まず銃口を下げ、それからゆっくりと近づいてきた。異星の言葉が、翻訳の魔法を通して日本語になった。
「時空管理局です。……もう、大丈夫」
大丈夫、という言葉の空虚さに、その隊員自身が顔を歪めていた。惑星一個分の墓地の真ん中で、大丈夫なことなど何一つない。それでも彼はそう言い、毛布を差し出した。
涼は毛布を受け取って、言った。
「……どうも。あー……その、お手数かけます」
十七日ぶりに出した、誰かに向けた声だった。我ながら、間の抜けた第一声だと思った。隊員は虚を突かれた顔をして、それから、泣きそうな顔で笑った。
(そうだよな。こういうときは、笑わせたもん勝ちだよな)
凍った湖面みたいな心のどこかで、涼はそう思った。まともに受け止めたら沈む。沈んだら、二度と浮かんでこられない。だったら、軽口の浮き輪にしがみついているほうがいい。
それが、来栖涼という人間の、新しい泳ぎ方になった。
収容艦の観測窓から、地球が見えた。
青い星、という言葉はもう使えなかった。雲の渦の下に覗く大地は一面の灰色で、海の色は濁り、そして北半球の一部は——虚数空間に喰われたままの領域は——観測窓越しにも「見えなかった」。視線がそこだけ滑って、像を結ばない。星の形をした欠損だった。
(……原作知識、と)
窓枠に肘を突いて、涼は胸の内で呟いた。
(ジュエルシードは二十一個。闇の書の守護騎士は四人。管理局の魔導師ランクの上限はSS。なのはさんの必殺技はスターライトブレイカー。……ああ、全部覚えてるぜ。完璧にな)
覚えている。全部。一つ残らず。
そして、その全部が、一円の価値もない。
主人公たちが勝つはずの事件で、世界は二度死んだ。物語の登場人物の名前を知っていることと、彼らが生きていることの間には、何の関係もなかった。手元に残ったのは、滅んだ世界のキャラクター名鑑だけだ。
(なんつーか、あれだな。……原作キャラの名前だけ借りてきて、中身を全部悪趣味に挿げ替えた、露悪系の二次創作。俺が転生したのは、そういう出来の悪い代物だったってわけだ)
笑えない冗談だった。だから涼は、少しだけ笑った。笑い方を忘れないための、リハビリのような笑いだった。
窓の外で、灰色の星が遠ざかっていく。
父が消えた星。母と、二度目の人生の友人たちが眠る星。九歳の秋にテレビの前で胸を躍らせた、物語の舞台だった星。
涼は目を閉じ、開けた。
(——それでも、だ)
それでも、俺は生きている。
死にたくないと思った。両手を突き出した。守れたのは自分一人だった。その事実は一生消えないし、消すつもりもない。だが、あの灰の上で確かめたことが一つだけある。この胸の奥のやつは、あの白い光の中でさえ「死にたくない」と言ったのだ。だったらこの先、何が来ようと言うことは同じだろう。
死にたくない。生き延びる。それだけだ。原作知識が使えないなら、使えないなりに。物語の視聴者席が燃え落ちたなら、燃え跡を歩くだけだ。
(生き延びてやるよ。この、どうしようもねえ世界でな)
やがて涼は窓に背を向け、支給された端末に表示された自分の登録情報を眺めた。管理局の公用文字に変換された名前は、彼の知る漢字ではもう書かれていなかった。
登録名——クルス・リョウ。
性別、男。年齢、十二歳。出身、第九十七管理外世界。魔力資質、ランクA(暫定)。家族構成の欄は、空白だった。
「……クルス・リョウ、ねえ」
声に出して読み上げてみる。他人の名前みたいだった。実際、半分は他人の名前なのだろう。来栖涼はあの灰の上に置いてきた。ここから先を生きるのは、この片仮名の男だ。
艦の推進音が、深く、低く変わる。
次元航行の開始を告げる艦内放送を聞きながら、クルス・リョウは毛布を頭から被り直した。
着地(ランディング)は、済んだ。ここが地獄の一丁目だろうと何丁目だろうと、両足はもう地面に着いている。
あとは——歩くだけだ。