魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
——残り時限四〇時間
瓦礫の中に、それは落ちていた。
親指の先ほどの、罅の入った演算結晶。ミニットマン051の——二ヶ月間、一方通行の漫才に付き合い続けた相棒の、芯。
リョウが左手で拾い上げると、結晶は罅の奥で、弱々しく、しかし確かに明滅して、鳴いた。
《Ready.》
「……はっ。嘘つけ。ボディごと吹っ飛んだくせに、何が準備万端だ」
《Ready.》
「……ああ。分かったよ。まだ現役だってんだろ。……なら、最後まで付き合え」
リョウは結晶を、胸の弾帯の——白いカートリッジの入っていた、一番深い位置に、収めた。
神殿には、降下艇の音が近づいていた。干渉場の死んだ空を、管理局の確保部隊が続々と降りてくる。リョウは拘束したままのロキを、部隊の指揮官に引き渡した。
「身柄は本局預かりだ。丁重にな。……ああ、それと」
祭壇の黒い牙を、顎で示す。
「あれには触るな。調べもするな。輸送の算段が立つまで、半径十メートルに近寄らせるな。……嫌な明滅の仕方をしてやがる」
担架の上で、ロキが、微かに身じろぎした。潰れた鼻で、白目のまま、その唇だけが、笑うように、動いた気がした。
気のせいだ、と思うことにして——リョウは、前線行きの輸送艇に、飛び乗った。
輸送艇の中で、衛生兵が、リョウの右腕に固定具を組み上げていった。
「簡易処置は済ませました。ですが、このままでは……」
「良いんだ。今は上げ下げできりゃいい」
衛生兵は何か言いかけて、リョウの目を見て、黙って固定具のベルトを締めた。上げ下げ。それだけできれば、抱えられる。今日の残りの仕事に、それ以上は要らなかった。
通信席のモニターには、前線の戦況と——もう一つ、聞きたくもない回線が流れていた。本局、統合幕僚部。
『——繰り返す。鹵獲対象は、消滅した』
あの老提督の声だった。
『制御が切れた時点で、"保護すべき人員"の定義は失われた。今、防衛線上にあるのは、誰の意思でもなく暴れる、リミッターのない兵器だ。第三艦隊に砲撃準備を命じる。暴走機体が防衛線に到達する前に——排除せよ』
『意見具申を!』リンディの声。『機体は二時間以内に自壊します、交戦を避けて距離を取れば——』
『その二時間で何人死ぬ、一佐。自壊を待つ猶予は、退避行のどこにもない。……貴官の私情は記録した。以後の具申は不要』
「……クソ提督が」
リョウは吐き捨て、操縦席に怒鳴った。
「急いでくれ! 全速だ!」
——前線
なのはの世界は、燃える金色でできていた。
暴走したフェイト・テスタロッサは、強かった。二百ミリ秒の脈動が消えた今、その太刀筋には遅延も、他人の癖もない。純粋な、四年前のままの、フェイトの剣技だけがある。躱しても躱しても、記憶の中の軌道のまま、雷が追ってくる。
そして、その体は、燃えていた。
装甲の継ぎ目という継ぎ目から、過負荷の白い光が漏れている。機械の関節が、一合ごとに、悲鳴じみた軋みを上げる。グレアの報告が、無慈悲に減っていく数字を告げ続ける。
『残余駆動時間、推定五〇分——四七分——』
止まって、と叫んでも、止まらない。逃げれば、防衛線の街へ向かう。受け続ければ、彼女が燃え尽きる。撃つことは——できない。
胸の奥の扉を、なのはは、もう指三本分、開けていた。目眩と引き換えの障壁で雷を受け、受けて、受けて、時間を、一秒ずつ買う。何のための時間かも、まだ分からないまま。
その時、艦隊回線が、最悪の音を立てた。
『第三艦隊、旗艦より各艦。砲撃管制、開始。目標——暴走機体。照準完了まで、六〇〇秒』
「……っ、だめ……!」
六〇〇秒。十分。十分後に、艦隊の砲火が、この空ごとフェイトを消す。
その、絶望の秒読みに——割り込んだ影があった。
巨大な艦影が、ゆっくりと、第三艦隊の射線と戦場の間に、滑り込んだ。三門の主砲を持つ、次元航行戦艦。
『——こちらゼルベロス、艦長リンディ・ハラオウン』
静かな、恐ろしく静かな声が、全艦隊の回線に乗った。
『本艦はこれより、当該空域の"回収作戦"を継続します。射線上に本艦がいる間、砲撃はできないものと心得なさい』
『ハラオウン一佐!! 貴様、正気か! 軍法会議ものだぞ!!』
『ええ、どうぞ。裁判は、生きてさえいれば、いくらでも受けられますので』
うちの子たちの戦場に、艦砲は撃たせません——回線の最後に、そう聞こえたのは、なのはの気のせいではなかったはずだった。
リョウが戦場に到達したのは、残余駆動時間三八分の時点だった。
輸送艇の後部ハッチから、固定具の右腕のまま、彼は油色の空に躍り出た。眼下に、金色と桜色の航跡。上空に、盾となった母艦の腹。回線の向こうに、艦隊の砲撃管制の秒読み。
全部の時計が、同時に鳴っている戦場だった。
「ヴァレル! 待たせた!」
『リョウさん……!! 腕、腕が——』
「上げ下げはできる! それより聞け、作戦だ。……グレア三佐、確認させろ。生命維持系は今、完全な独立系なんだな?」
『はい! 停止シークェンスで切り離し済みです! 機体の戦闘系——レギンレイヴと駆動骨格だけを落とせれば、命には触らずに止められます! ですが、この機動速度の相手にそんな精密射撃は——』
「動いてる相手にはな。——止まってりゃ、話は別だ」
リョウは、燃える金色を見据えた。
二度、刃を交えた。何百時間、画面の中で観た。そして今、あの体を動かしているのは、フェイト自身ですらない。バルディッシュの継承データ——記録された太刀筋の、忠実な再生。
(……なあ、ロキ。てめえは、あいつを台本にした)
(なら——台本なら、俺は、読み込んでるんだよ。てめえなんかより、ずっと前から。ずっと深くな)
適応しない。裏をかかない。あの機体は、記録された最適を、記録されたとおりに打ち続けるだけの、上映装置だ。四年前の彼女の癖、間合い、選択の全て——原作知識という名の、四年間ゴミだった台本が、今この瞬間、この宇宙でただ一人、リョウの頭の中にだけ、完全な形で存在していた。
「ヴァレル。三つだけ言う」
リョウは、静かに告げた。
「一つ。俺がこれから、あいつを止める。物理的に、この体でだ。二つ。止まったら、撃て。非殺傷、最大制御、レギンレイヴと駆動系ごと——俺とあいつを、まとめて撃ち抜け」
『——!? だ、だめです、そんなの、リョウさんごとなんて、わたし——』
「三つ目」
リョウは、笑った。回線越しでも分かるように、いつもの、軽い声で。
「——おまえなら、できる。おまえの馬鹿げた魔力を、全部、威力じゃなくて優しさに回せ。世界で一番強い砲身の、世界で一番柔らかい一発だ。……そんなもん、おまえにしか撃てねえだろ」
リョウは、飛んだ。
金色が、反応する。斬り上げ——知っている。躱す。返しの横薙ぎ——知っている。潜る。雷光の面制圧——知っている。撃たれる前に、射線の生まれる場所から、いなくなる。
台本どおりだった。何もかも。適応も、進化もしない。ただし一手一手が、神速で、必殺だった。読めることと、躱しきれることは、別の話だ。肩口が裂ける。腿を掠める。それでも、読める限り、致命だけは、躱せる。
(次——刺突からの、追い撃ちの雷——)
来た。金色の刺突。躱さない。躱さずに、半身だけ捻って——左の脇腹で、受けた。
肉を裂く熱。構わない。刺さった得物は、抜くまで、動かない。
「——捕まえ、たぁ……!!」
リョウは、残った左腕を、金色の小さな体に、蛇のように巻き付けた。両脚を絡め、固定具の右腕ごと、全体重を、預ける。空中で、二人分の質量が、一つの塊になる。機械の膂力が、拘束を引き剥がそうと暴れる。骨が軋む。長くは保たない。三秒——いや、二秒。
二秒あれば、あいつには、充分だ。
リョウは、肺に残った空気の全てで、吠えた。
「クリアだ——!! 俺ごと、撃てええええ!!」
五百メートル先の空で、なのは・T・ハラオウンの世界から、音が消えた。
照準の中に、二人がいる。四年間探し続けた金色と、五ヶ月間隣を飛び続けた背中が、一つに重なって、いる。
引き金に、指をかける。
——撃つところだった。あの日の震えが、指先に蘇る。引くだけだった。クリアも出ていた。もしあのまま撃っていたら。もし、これを外したら。もし、制御が一瞬でも揺らいだら。わたしの一発は、二人を——
(——撃てない)
四文字が、喉元までせり上がって。
その四文字を。
『——おまえなら、できる』
彼の声が、正面から、撃ち抜いた。
最初から、ずっと、クリアです——五ヶ月前、自分が渡した言葉が、今、そっくりそのまま、返ってきている。信じて、預けて、決めてもらう番が、今度は、わたし。
なのはは、息を、深く、深く、吸った。
胸の奥の扉を——四年間、恐れ続けたその扉を——自分の意志で、全開にした。
無尽蔵が、溢れ出す。ただし今日、その奔流の行き先は、威力ではなかった。一滴残らず、制御に。精度に。柔らかさに。殺さないために。壊さないために。ただ、止めて、抱き留めるためだけに——世界で一番強い砲身が、その全てを、優しさに変換していく。
セブンスウィルの砲口に、これまでの誰も見たことのない色の光が、灯った。桜色よりも淡い、夜明けの色。
(フェイトちゃん。リョウさん)
(——おかえりなさいの、一発です)
「収束砲——非殺傷設定、最大制御」
引き金を。
迷いなく。
「——発射(シュート)‼︎」
夜明け色の奔流が、空を、渡った。
それは轟音ではなく、鐘の音のように響いた。光は二人を呑み込み、貫かず、包み——レギンレイヴの駆動音が、金属の骨格の軋みが、過負荷の白い光が、その内側で、順番に、眠るように、鎮まっていった。
漆黒の鎌が、主の手を離れ、ゆっくりと落ちていく。
金色と、隻腕の男が、絡まり合ったまま、力を失って、落ちていく。
なのはは、飛んだ。誰よりも速く。四年前よりも、速く。
届いた。今度も、届いた。両腕は、二人分には足りなかったから、腕で金色を抱き、障壁の褥で背中を受け止めて——三人分の質量が、縺れ合ったまま、荒野の土の上に、転がった。
静寂が、戦場に降りた。
『……駆動系、完全停止。自壊シークェンス、停止。……両名の生体信号、安定』
グレアの声が、涙声になっているのを、誰も咎めなかった。
『艦隊回線へ。こちらゼルベロス——回収作戦、完了。……鹵獲、完了です』
リンディの声が、鋼の平静さの下で、微かに震えていた。第三艦隊の砲撃管制が、沈黙のうちに、解除されていった。
荒野の土の上で、なのはは、腕の中の二人を見た。
リョウは、白目を剥いて、気持ちよさそうに気絶していた。脇腹の傷は障壁と非殺傷光の残滓で塞がりかけている。ひどい顔だった。生きている顔だった。
そして、金色の少女は——
睫毛が、震えた。
深紅の目が、薄く、開いた。四年ぶりに、指令波でも自律データでもない、彼女自身の意志で。焦点の合わない視界が、ゆっくりと、覗き込む顔の上で、結ばれていく。
乾いた唇が、掠れた、小さな、小さな音を、作った。
「………………なの、は……ちゃん……?」
「——うんっ……!!」
涙で、返事は、ほとんど言葉にならなかった。
「うん……! そうだよ……! なのはだよ、フェイトちゃん……!!」
金色の少女は、それだけで力尽きたように、目を閉じた。今度は、ただの眠りだった。呼吸は穏やかで、その寝顔は——十四歳の、ただの女の子のものだった。
残り時限、三八時間。
世界の終わりまでの時計は、まだ止まっていない。霊峰の祭壇では、黒い牙が、嗤うように明滅を速めていたことを——この荒野の三人は、まだ、知らない。
それでも。
四年ぶりに呼ばれた名前を抱きしめて、なのは・T・ハラオウンは、油色の空の下で、声を上げて、泣いた。